背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『わたし出すわ』

2013年08月30日 18時43分51秒 | 日本映画


 『わたし出すわ』(2009年)は、森田芳光のオリジナル脚本による監督作品。その前に彼は黒澤明の『椿三十郎』のリメイク版を作っているが、私は未見である。私の入っているチャンバリスト・クラブ(チャンバラ愛好家の集まり)で森田監督の『椿三十郎』を観た人の話を聞いたことがあるが、その評判はいたって悪く、結局私は観ないままになってしまった。が、やはり自分の目で見て、今度その良し悪しを確かめてみようと思っている。
 『わたし出すわ』は、タイトルも変わっているが、映画も不可思議で、何を描きたいのか訳の分からない作品だった。タイトルと主役の小雪に惹かれて見に行った人が、キツネにでもつままれたような気分になって映画館を出たことであろう。
 アイディアと撮りたい映像を脈絡なくつなげただけの支離滅裂な映画とでも言えばよいのか、あえてそういう映画を狙って作ったにちがいないと思うが、失敗するのが分かっていて失敗したような映画だ。どうしてこんな映画を作ったかは、森田芳光が死んだ今では謎のままである。
 一人のミステリアスな女が郷里の函館に帰ってきて、高校時代の友人たちと再会し、惜しげもなく大金をばら撒き、また東京へ帰っていくという話である。フランス映画の『舞踏会の手帖』のような設定だが、帰郷が約10年後で、友人たちはそれほど変わっていない。拝金主義の現代日本を諷刺している作品かと言うと、そうでもなく、大金をもらって友人たちの生き方まで変わっていく悲喜劇かと言うと、そうでもない。冒頭にジョン・ウェスレーとショーペンハワーの言葉が出て、金銭欲や物欲を戒める格言が映画のテーマと思いきや、内容はテーマとは程遠く、脚本も練らずに中途半端で場当たり的に作った映画にすぎなかった。
 高校時代の友人は男三人、女二人で、この五人がみな、まともすぎて詰まらない。路面電車の運転手は平凡、マラソンランナーは真面目すぎ、魚の研究者はアクの強さが今一歩、玉の輿に乗った美貌の女は個性が足りず、愛犬を飼っている主婦(小池栄子)も常識的だった。それに主役のマヤ(小雪)がそれほど魅力的でもミステリアスでもないので、大金をみんなに配るという非常識な設定がまったく生かされず、そのあとも当たり前な展開と唐突な事件が交錯し、見ている側に疑問だけを重ねていく。つまり、喜劇にも諷刺劇にもミステリーにもなっていない。むしろ青春回顧ドラマといった感じがした。面白かったのは、小池栄子の亭主で、箱庭協会の会長になるくだりだけだった。
 その他の登場人物では、仲村トオル、永島敏行、藤田弓子、加藤治子が私の知っている顔ぶれだが、それぞれの役も不可解で、ストーリーとの関連性はない。
 マヤ(小雪)の母親が植物人間で、病院のだだっ広い個室で、無言の母親と尻取りをする場面が何度か出て来て、最後は突然母親が口をきいて尻取りの相手をするようになるので唖然とするが、ここも森田芳光のアイディアだけで、ストーリー中に脈絡なく挿入されていた。
 この頃、森田芳光はスランプで、分裂症気味だったのではなかろうか。映画自体に目的も方向性もなく、ただ迷走しているだけだとしか思えなかった。

 

『解夏』

2013年08月30日 14時13分23秒 | 日本映画


 『解夏』は「げげ」と読み、仏教の言葉だという。映画の中で老僧役の松村達雄がその意味を説明しているので私も初めて知ったのだが、坊さんが梅雨時に寓居にこもって修行を始めることを「結夏」(けつげ)といい、修行を終えることを「解夏」と言い、修行期間中を「夏安居」(げあんご)と言うそうだ。
 で、この映画は、東京で小学校の教師をしていた青年(大沢たかお)がベーチェット病(この病気も私は初めて知った)にかかり、母(冨司純子)の暮らす郷里の長崎に帰って、ついに失明するまでのストーリーである。発病から失明までの苦行の期間を夏安居とし、失明する日を解夏にたとえて、タイトルにしている。この青年には婚約者の恋人(石田ゆり子)がいる。彼女は長崎までやって来て、青年の実家に同居し、彼を見守り彼を支えながら、その愛を確かめ合っていく。原作は、さだまさしの同名小説である。
 私はこういったストーリーを真面目に作った映画は苦手である。あまり見たいとも思わないのだが、何も知らずにDVDを借りて見たら、そういう映画だった。恋愛関係にある男女の片方が重病にかかって、二人の愛が深まっていくといった内容の映画は、作品の出来ばえによっては感動を覚えることもあるが、途中で付いていけなくなり、うんざりする映画がほとんどなのだ。『解夏』という映画を観た感想を言えば、やはりこの映画もその一本であった。『世界の中心で、愛を叫ぶ』もそうだった。『ツレがうつになりまして』は、男女が夫婦で、夫の病気がうつ病だったが、似たようなパターンの話にしては、感心するほど実にうまく出来ている映画だった。
 『解夏』の原作の成立事情は良く知らない。モデルとなった実在の青年がいたのかもしれない。さだまさしがその青年のことを知って、フィクションを加えて小説にしたようにも思われる。が、原作を読んでいないのでその点はなんと言えない。しかし、映画を観た限りでは、ドラマ仕立てにしたあちこちが気になって、そのウソっぽさが目立ち、観ていて、どうしてもシラけた気分になってしまった。作り手は、決して観客のお涙頂戴を狙う意図を持っていたわけでなく、真面目に描こうと懸命になって作ったのだと思う。が、その真面目な姿勢が、逆にフィクションの罠にはまる原因になってしまったのではなかろうか。ドラマに入れ込みすぎるあまり、自分たち(製作スタッフや俳優)の感動を伝えようとして、一人相撲を取ってしまったと思えてならない。ウソをまことしやかに描くことほど難しいことはない。映画を観ていて、ウソっぽさが目立つようでは人間の真実も隠れてしまうし、何の感動も伝わらない。とはいえ、これは、『解夏』という映画を観て、あくまでも私が感じたことであり、観客にはウソっぽさを感じず、感動した人も多かったのかもしれない。
 『解夏』(監督磯村一路)を見ていて、私が首をかしげた箇所をいくつか挙げておく。
 神宮外苑の絵画館に飾ってあった長崎の風景画が重要なモチーフになっているのは良いとして、主人公の青年が婚約者を長崎から追い返してしまったあと、東京へ連れ戻しに行って絵画館の前で婚約者に出会うシーン。ここなどはまるでメロドラマのご都合主義である。
 小学校の教え子たちから長崎に手紙が来て、婚約者が青年に代わって、一つ一つ読み上げるシーン。青年が教師としてどれほど生徒に慕われていたかを示すところであるが、描き方がいかにもわざとらしい。
 婚約者がなぜモンゴルへ行っていたのかもよく分からないが、父親から青年の発病を知らせる手紙をもらったらしく、急に帰国して青年のアパートを訪ねるシーン。この二人が婚約関係にあるとは思えないほど、よそよそしい。これは演出の問題であろう。
 この映画ではほかにも、二人の距離感が気になり、男女の愛を描いた作品になっていないと感じた。長崎にやって来た婚約者が青年の実家に同居して(姉の空いた部屋に住む)、研究論文を書くことになるのだが、同じ屋根の下で暮らす二人の関係がまったく盛り上がらない。船に乗って海へ出たり、丘へドライブにいくことはあっても、キスシーンすらなく、ましてベッドシーンもない。奇麗事だけで性愛の匂いすら感じられない。青年はインポでもあるまいし、二人でラブホテルでも行きなさいと言いたくなった。もし青年が失明するのなら、いちばん目に焼け付けたいのは、長崎の景色より、愛する婚約者の顔であり、その裸の姿ではあるまいか。
 長崎の風景や色とりどりの花を美しく撮影するのも良い。また、登場人物たちの話す長崎弁を懐かしく聞かせるのも良い。が、それは映画の単なる背景であり、枝葉の部分なのだ。この映画は長崎の観光映画ではないのだ。また、ストーリーや登場人物の設定も二次的なことと言えよう。本質的なテーマは、婚約関係にある男女の愛のきずなであろう。このドラマの中心に焦点を合わせず、あちこちに描写が拡散して、肝心の二人の関係を濃密に描いていないことがこの映画の最大の欠陥だった。見ていて私は、青年役の大沢たかおにも、恋人役の石田ゆり子にも、共感が持てなかった。この映画で大沢たかおが主演男優賞をとるほど素晴らしい演技をしているとも思わなかった。石田ゆり子にも魅力を感じなかった。二人の愛は不完全燃焼のまま、気が付いたら青年が失明し、あっけなくこの映画は終っていた。


『ツレがうつになりまして』

2013年08月29日 17時53分53秒 | 日本映画


 前々回の終わりに、「現代に生きる普通の人間を人間らしく淡々と描いて、感動と共鳴を覚えるような作品に出会いたいものである」と書いたが、『ツレがうつになりまして』(2011年 佐々部清監督)はまさにそういった作品で、感心しながら観た。最近DVDを借りて観た新作の中では、3本の指に入る私好みの佳作であった。(あとの2本は、『ゲゲゲの女房』と『間宮兄弟』である)
 まず、映画の構成がしっかりしていて、最初からの30分、中盤の60分、ラストまでの30分のそれぞれが飽きないように巧く作られていた。ストーリーはシンプルで、主な登場人物は二人。結婚五年後の若い夫婦だ。子供はいない。その夫の方が急にうつ病になり、愛する妻が夫を支え、一年半ほどしてようやく夫のうつ病が快方に向かうまでの話である。なんのことはない、現代社会ではかなり卑近な事件を夫婦生活を中心に描いただけの映画だった。
 夫は外資系のコンピューター会社のサポートセンターに勤める真面目なサラリーマン。高崎幹男といい、堺雅人が演じている。妻は売れない漫画描き。のんびり屋で朝寝坊。家事が得意でなく、主婦向きではない。高崎晴子といい、宮崎あおいが演じている。
 シナリオも監督の演出も大変良いのだが、堺雅人と宮崎あおいの二人がこれ以上望めないほど良かったことが、この作品を面白いものにしていたと思う。とくに堺雅人という俳優は、『武士の家計簿』もそうだったが、ほわーっとした独特な雰囲気があり、何かを持っている得がたい俳優だと私は思うようになった。この2本しか、彼の出演作は見ていないのだが、天性の素質がある気がする。宮崎あおいは、引っ張り凧の女優のようだが、作品によって合う合わないがあり(時代劇は疑問)、出来不出来の差が激しいようだ。と言っても、私はまだ彼女の出演作を4本しか見ていない。
 「ツレがうつになりまして」は、細川貂々(てんてん)という漫画家が描いたエッセイ漫画が原作だそうだが、私は寡聞にして詳しいことを何も知らない。ちょっと調べてみると、実話なのだという。そして、2006年にこの作品を発表するや、大ベストセラーになったようだ。「ツレうつ」という略語まで出来たという。そういえば、なんだか聞いたような気もする。テレビドラマにもなったらしいが、私はほとんどテレビを見ないので、知らない。
 してみると、映画は、原作の面白さに相当依存していたのだと思えてくる。原作ありき、なのだろう。とくに原作が漫画の場合は、表現法が映画に近いので、シナリオ化しやすいと思う。すでにテレビドラマがあったとするなら、映画はそれの改良版なのかもしれない。
 『ツレがうつになりまして』という映画をほとんど予備知識がないままに見て、イイ映画だなと私が感心したことも、そんなことを知ると、褒めたい気分がだんだん冷めてくる。
 そういえば、『ゲゲゲの女房』もまったく同じ流れで出来た映画だった。
 最近の邦画を観て思うことは、原作のないオリジナルシナリオ(監督と脚本家の合作)から作った映画がほとんど見当たらないということである。原作はなんとか賞を取った小説だったり、ヒットした漫画だったりして、映画の企画がまずテレビ局や広告代理店で持ち上がり、プロデューサーが、マニアルに通じたシナリオライターに脚色を依頼し、主なキャスティングも決めて、適当な映画監督を指名して映画化するパターンが多い。つまり、映画製作が分業化してしまい、映画監督の主体性とか作家性とかオリジナリティが薄れてしまったようだ。そして、もう一つの流れは、昔ヒットした名作のリメイクである。リメイクで前作を上回る出来ばえの映画など、あるのだろうか。前作を見たことのない若い人たちが見て、すごいと感心することはあるかと思うが、その程度のことにすぎない。
 前回取り上げた『の・ようなもの』は、原案・脚本・監督そしてキャスティングも森田芳光が一人でやった映画だが、そんな監督の個性むきだしの映画は、自主製作映画を除き、最近の劇場公開作品では稀なのかもしれない。

 
  

『の・ようなもの』

2013年08月28日 23時13分38秒 | 日本映画


 森田芳光の初長編映画『の・ようなもの』(1981年)を初めて観た。もう32年前の作品で、彼が映画監督として世間に注目されたデビュー作と言ってもよい映画である。田舎(栃木県?)から上京したと思われるまだ修業中の若手落語家を主人公(伊藤克信)に、その日常生活を描いたちょっぴりペーソスが漂うコメディであった。やりたいことや描きたいことをできる限り表現しようとした森田芳光の実験性と奔放さと斬新さはさすがであり、今観ても大変面白い映画だと思った。デビュー作には、良くも悪くも、映画作家の個性というものが表れるが、森田監督の特長は、観客を意識したエンターテイメント性であり、映像表現の意外性もセリフの面白さも、良い意味での「受け狙い」だと言えるだろう。深刻なことを真面目に描くのは苦手と言うか、多分照れ臭いのだろう。70年安保の世代(団塊の世代)より少し下の彼は、思想とかイデオロギーは胡散臭く、そんなものには不信感を抱いていたのかもしれない。彼の本領は、面白いことへの飽くなき追求であり、深刻な事柄でもドライでユーモラスに表現することであった。
 『の・ようなもの』の出演者も、普通の俳優を使わず、ユニークな顔ぶれだった。この頃すでに人気女優だった秋吉久美子が大胆にもトルコ嬢(ソープ嬢と改称する前だから古い)を演じ、兄弟子役の尾藤イサオは歌手から俳優に転身した頃だったのか。ほかにも懐かしいタレントが揃っていた。漫才の内海好江、将棋指しの芹沢博文、落語家の春風亭柳朝は、故人である。内海桂子、入船亭扇橋はまだ元気なようだ。ほかにも、でんでん、鷲尾真知子、ラビット関根(関根勤)、小堺一機、室井滋、三遊亭楽太郎などが出演していたが、私のように二、三十年ほど時間が止まっている者にとっては違和感がないが、今の彼らの顔をよく知っている人が見たら、昔日の感があるだろう。
 森田芳光が大学(明治大学)の落研にいたことは有名だが、この映画には、落語のネタがいくつか使われ、また落語通ならあの噺のパロディだと分かるような場面もあった。例えば、主人公の志ん魚(とと)が高校生の彼女の家(堀切駅)から夜中に歩いて浅草まで帰るくだりは、「黄金餅」のパクリであろう。タイトルの『の・ようなもの』は、三遊亭金馬の十八番「居酒屋」の中で小僧が酔客に酒の肴を言うセリフ「できますものは、つゆはしらたらこぶあんこうのようなもの」から採ったという。
 なにしろこの映画は、アイディアのてんこ盛りのような作品で、受けようが受けまいが、次から次へとアイディアを繰り出してくるので、終始、目が離せない作品であった。主人公の志ん魚の落語がまったく笑えないところが逆におかしく、秋吉久美子がボディー洗いしたり、兄弟子のでんでんが夜中に迫ってきたり、エロチックな見せ場もあり、人名の固有名詞(例えば、ジャンゴ・ラインハルトの名前が突然出て来た時は驚いた)を使ったセリフも効果的であった。主役の伊藤克信は、言われてみれば確かにアル・パチーノに目と鼻のあたりが似ているのだ。


さだまさしの小説「アントキノイノチ」

2013年08月28日 05時18分06秒 | 


 先日、映画『アントキノイノチ』を観て興味を覚え、原作のさだまさしの小説を読んでみた。
 ラストで恋人の女の子が交通事故で死んでしまったことがどうしても気になったからだ。映画は死んだ女の子のアパートを遺品整理業の主人公が片付けるというシーンで終るのだが、交通事故も最後の片付けも、こんな終り方をしたら作品がぶち壊しではないかと感じたので、原作もそうなっているかを知りたいと思ったのだ。(映画の感想は8月9日に書いた)
 映画を観て、二週間も経たずに原作の小説を読んだので、その違いがよくつかめた。すると、やはり思った通り、恋人のゆきちゃん(小説では雪ちゃん)は交通事故で死なず、最後は主人公の杏平と手を携えて生きていこうというハッピーエンドであった。
 映画の脚本は田中幸子という人と監督の瀬々敬久であるが、主人公と恋人との最も重要な結末を180度変えてしまったのは一体どういうことのなのか、私にはどうしても納得がいかない。原作者のさだまさしがよくオーケーしたと、これも不思議に思っている。
 小説を映画化する場合には、細かい点で多くの変更があるものだが、それは読む小説と観る映画とでは表現方法が違うからである。映画にはもちろんセリフがあるが、セリフは簡略にしなければならず、また、映画は基本的に映像でストーリーを展開するので、小説のような叙述や心理描写はできない。しかし、重要な登場人物の性格や行動は、原作に忠実に描くべきだし、とくに原作者が表現したかったテーマは変えてはならないと思う。
 映画『アントキノイノチ』は、原作の小説とはまったく違うような作り変えをいくつか行なっていたが、許容範囲と思われるところもあるが、明らかに越権行為と感じる箇所もいくつかあった。ラストで恋人のゆきちゃんを交通事故で死なせたのは、意図的にドラマチックにしようという脚本家の浅はかさとしか思えない。低級なテレビドラマならいざ知らず、誰が見ても、あんな唐突な死なせ方はあり得ないと感じるにちがいない。監督も血迷ったとしか思えない。
 松木というタチの悪い高校生に非難され、激動した山木が松木をナイフで脅して仕返ししたあと、校舎から衝動的に飛び降り自殺するシーンも奇異に感じたが、ここも原作とは違っていた。原作では家で首吊り自殺するのだった。
 主人公の杏平の母親は、男と不倫して家出して、杏平と生き別れたことになっていたが、映画では入院中の母親と再会するシーンがあり、映画を見た時、テーマが違うように感じた。原作を読むと母親と再会するところなどない。
 ゆきちゃんは、映画では遺品整理会社の先輩社員で、新入りの杏平といっしょに仕事をしていくうちに恋人になっていくのだが、原作では居酒屋の看板娘である。しかし、ここは映画のように設定を変えた方が良かったと思う。
 さだまさしの小説は、文学的というより説話的であった。エピソードをいくつか省けばそのままシナリオになるような物語構成だと感じた。内容的には、テーマ小説に近い。主人公の杏平が遺品整理会社に入って、ベテランの佐相さんや吉田社長にこの仕事の大切さを教わり、生きることの意義を再発見していくのがメインストーリー。その過程で、居酒屋で働く雪ちゃんと恋人関係になって、愛を媒介に人間同士をつなぐコミュニケーションを回復していく。この現在の状況と同時進行しながら高校時代の回想が次々に挿入されるのだが、杏平が自己嫌悪から精神病になった原因が明らかにされる。それは、友人の松木の嫌がらせと邪悪な素行に、杏平が松木を殺そうと思い、実行寸前にまで至ったことだった。小説の後半からは、雪ちゃんの過去の告白と人生観の披瀝が始まり、高校1年の時に受けた痛手を克服して再起した雪ちゃんに勇気付けられ、杏平は生きがいを見つけ、遺品整理業に打ち込んでいくことになる。
 「アントキノイノチ」がテーマ小説に近いというのは、現代社会において人間同志のつながりの大切さを問いかけるというテーマのために、小説の題材も登場人物も集約されているからである。武者小路実篤の小説を現代的にしたような印象を受けた。これは、テーマ小説によくある欠点なのだが、この小説も登場人物がいささか単純で類型的すぎるように感じた。松木だけが悪魔的な邪悪な人物で、あとの人物は杏平の父親にしても、前科のある佐相さんにしても清廉な善人で、人間的な厚みがない。とくに杏平の父親は浮気をしたこともあり、妻の失踪にも責任があるような人なのに、悟りきっていて、話す言葉が寓意的で人間離れしていた。そして、恋人の雪ちゃんは聖女のようだった。この小説が主人公の杏平の独白という形式をとっているのは良いとして、いわゆるビルドゥングス・ロマン(自己形成小説、教養小説)の域にまで達していないのは、主人公の自意識が弱すぎることと、過去の回想を現在進行形で描写したことが人物の掘り下げ方を甘くしてしまったのではないかと思う。
 最後の数ページにある雪ちゃんの告白は作り物臭く、雪ちゃんが松木に犯されて妊娠したという設定がいかにも故意的に思えた。、また、ラストで杏平と雪ちゃんがディズニーランドへ行き、松木と彼の妻子を目撃して、「元気ですか」と言う場面は蛇足のように感じた。アントキノイノチが「アントニオ猪木」と発音が似ていて、猪木が「元気ですか」と言うことをこの小説は拝借してネタに使っているわけだ。小説中ではプロレスの人とだけ書いてアントニオ猪木の名前は伏せているが、タイトルのカタカナ書きにしても、「元気ですか」という問いかけにしても、私は面白いとは思わない。「あの時のイノチ」あるいは「あの時の生命(いのち)」で良かったのではなかろうか。
 最近の映画や小説を読んで感じることは、登場人物が病的だったり、狂気に取り付かれていたりして、それがかえって人間を脆弱にし矮小化していることと、ドラマのためのドラマを作ろうとして作者の作為が目立ちすぎることである。現代に生きる普通の人間を人間らしく淡々と描いて、感動と共鳴を覚えるような作品に出会いたいものである。