背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

映画女優、入江たか子(その11)~『雪子と夏代』

2012年07月25日 15時46分41秒 | 映画女優入江たか子
 7月9日に山田五十鈴が95歳で亡くなった。が、私が知っている現役の山田五十鈴はすでに50を過ぎたオバチャンで、映画女優というより舞台役者、テレビドラマのお茶の間女優だった。その凄さを知ったのはずっと後年で、戦前の代表作をまずビデオで、それから名画座やフィルムセンターなどで、見始めてからだ。山田五十鈴はほぼ私の母と同年代で、ファンになるとか好きになるとかいったことは決してなかった。戦前から昭和20年代後半までに活躍した日本人の映画俳優はみんなそうだ。それが、今になって昭和全体が遠い昔となり一定の距離を置いて眺められるようになると、明治生まれも大正生まれも昭和一ケタ生まれの俳優(主に女優)も横一線に並んで客観的な眼で評価できるし、主観的な趣味で好きだとか好きでないとか言えるようになった。不思議なものだ。
 入江たか子は私の伯母の世代である。今生きていれば101歳だ。最近は入江たか子の戦前の映画ばかり観ているが、違和感はない。もう戦前の女優も戦後の女優も、また私と同世代の女優も、その全盛期の映画を観ていると、大差ない見方で楽しめるようになった。

 何年か前に池袋の新文芸坐で、入江たか子の『滝の白糸』と山田五十鈴の『折鶴お千』の2本の無声映画を同じ日に観たことがある。どちらも泉鏡花原作、溝口健二の監督作品である。作品的には『滝の白糸』の方が良かったが、主役の入江たか子と山田五十鈴は甲乙つけがたいほど素晴らしいと思った。女優のタイプとしては全く違う。入江たか子はクラシックで古いタイプ、山田五十鈴はモダンで新しいタイプと言えるが、この2本の映画で、どちらも女の情念のすさまじさを演じていた。貞淑で身を犠牲にして男に尽くす禁欲型の女を演じたのが入江たか子、奔放で男を意のままに支配する享楽型の女を演じたのが山田五十鈴だった。


山田五十鈴(『折鶴お千』)

 さて昨日、『雪子と夏代』(1941年 東宝映画)をビデオで観た。入江たか子(雪子)と山田五十鈴(夏代)が初共演した映画である。期待して観たが、単に通俗的な女性映画でちょっと失望した。
 この時代の東宝の現代劇映画というのは、清涼飲料水、それも気の抜けたサイダーのような作品が多い。監督は青柳信雄だったが、監督の力量にも問題があったのだろう。明らかに二十代から三十代の一般女性を対象にした映画で、薄味で濃密度が足りなかった。
 原作は吉屋信子が主婦之友に連載した「未亡人」という小説だが、同じ吉屋信子原作でも『良人の貞操』の方がまだしも良かった。三十歳前後の二人の女性を主人公にその友情をテーマに描いた点では同工異曲で、女学校時代にいわゆるエス関係(今の言葉でいうとレズだが、戦前はsisterの頭文字をとってエスと言った)にあった女性二人がそれぞれ結婚し別々の人生を歩むが、数年後にまた近づいて親しくなり、互いに慰め合ったり助け合ったりする内容。今では古くて、はやらない話である。『良人の貞操』は、片方の女性が夫を亡くし、もう一方の女性の夫と不倫関係になりかけて悩む話で、女同士の波乱があったが、残念ながら描き方が甘くて凄絶なドラマになっていないと思った。
 『雪子と夏代』は、二人とも若くして未亡人となり(雪子の夫は戦死で夏代の夫は病死したようだ)、互いにその不幸を嘆き、それぞれが抱えた問題を解決しようと相手のために尽力する話である。二人の未亡人の悩みというのは、雪子の方は、亡夫から預かり同居している年頃の義妹(谷間小百合)とのぎくしゃくした関係であり、夏代の方は、最愛の一人息子を義兄夫婦に養子にして自活するかどうかである。
 息子を連れて夏代が実家を出て、洋裁店をやっている雪子の家に同居してからストーリーが展開するのだが、いろいろな出来事は起るにしても、結局最後まで二人は仲の良い親友同士だった。一人の男をめぐって二人の間に嫉妬も争いもない。高田稔と江川宇礼雄の二人の男優が出演するが、どちらも類型的な善人で、見合いの席で付き添いの夏代(山田五十鈴)に一目惚れしてしまう内海という紳士が高田稔、夏代の息子を養子にしたがる義兄が江川宇礼雄だった。


入江たか子と山田五十鈴(『雪子と夏代』)

 観ていて食い足らなさを感じる映画だったが、入江たか子と山田五十鈴が二人で演じるシーンがたくさんあり、そこだけは見どころだった。二人はずっと着物で通していたが、二人とも背丈があるので、引き立っていた。入江たか子は、話し方も物腰もゆったりしていて品のいい令嬢が奥様になった感じで、この時30歳だったが、美しかった。ただ、アイラインが気になった。夜、布団に入って寝るときも化粧を落さないのは許しておこう。山田五十鈴は、セリフが実に自然で、先輩の入江たか子に合わせたのか、いくぶんゆっくり話していた。動きは多く、身振り手振り、細かい所を見ていたが、巧みなものだと感心した。



『雪子と夏代』 1941年8月14日公開 85分 東宝映画 
製作:竹井諒 演出:青柳信雄 
原作:吉屋信子 主婦之友連載「未亡人」より
脚色:八住利雄、青柳信雄
製作主任:市川崑 撮影:伊藤武夫 録音:三上長七郎 美術:金須孝 照明:西川鶴三 現像:西川悦二 編輯:後藤敏男 音楽:竹岡信幸、栗原重一 演奏:P.C.L.管絃楽団
主題歌:コロムビアレコード 作詞:西条八十 作曲:竹岡信幸
「雪子と夏代の歌」 松原操 渡辺はま子
「若きマリヤ」 松原操 霧島昇
出演:入江たか子(雪子)、山田五十鈴(夏代)、高田稔(内海晶一)、江川宇禮雄(及川精一)、谷間小百合(田鶴子)、音羽久米子(女中きよ)、藤間房子(及川濱)、三條利喜江(及川光枝)、立花潤子(佐伯弓子)、清川玉枝(小田切ぎん)、下田猛(小田切喬吉)、山川クマヲ(及川博)、小島洋々(藤原正典)ほか



片岡千恵蔵と本荘子爵

2012年07月24日 06時01分18秒 | 日本映画
 三回前の話の続き。
 前にも引用した「日活の社史と現勢」(昭和5年)という古い本の巻末に千恵蔵が書いた文章があったことを思い出し、引っ張り出してみた。
 題名は「若者の団結『千恵蔵映画』を素描す」。日本活動写真会社提携千恵蔵映画サガノ撮影所盟主という肩書で、片岡千恵蔵とあり、なんと!書き出しがこうなっている。

 私が映画に関係したのは関東大震災直後遊んでいた時、懇意に願っていた本荘子爵の紹介により小笠原プロダクションで『三色すみれ』の主役を演じたのが最初で、其後松居松翁氏から城戸四郎氏を経て野村芳亭氏に紹介され、松竹の蒲田に入ることになっていたのが、野村氏の下加茂行で立ち消えたので再び恩師片岡仁左衛門氏の下で舞台を踏むことになった。従って、私の映画界入りは一時中絶したけれど決して斯界に対する希望を捨てたのではなく、殊に、歌舞伎に対する心の動揺を感じていた際とて、依然その機会の来る事をひそかに待望していたのである。

 最初の2行に千恵蔵自身が書いているではないか、小笠原プロの『三色すみれ』が映画デビュー作だと。紹介者の本荘子爵の名前も出ている。それに本荘には本文では「ほんそう」とルビかふってある。
 これで判明。「日本映画俳優全集 男優編」(1979年キネマ旬報社)の片岡千恵蔵の項目を書いた滝沢一は千恵蔵のこの文章を参考にしたことが確かになった。
 が、この本荘子爵という人物が依然としてナゾである。苗字は分るが、名前は何というのだろう? 誰だか分らないじゃないか。
 この事典が発行された時点では、片岡千恵蔵はまだ生きていのだから、本人に確かめるべきであったし、もし本人が憶えていないのなら、執筆者が調べなければならない。
 執筆者の滝沢一(1914~1993)の名前の「一」は、「おさむ」と読むそうで、通称は「ピンさん」。京都の映画人について多くの著作を遺した映画評論家で、彼の「映画歳時記」という本は私の愛読書の一つだが、滝沢ピンさん、こうした人名事典の記載は正確を期すべきだと思いますが、どうでしょうか。が、滝沢ピンさんの書いた項目などずっとマシなほうで、他の映画評論家の文章にはやっつけ仕事でひどいものが多いし、誤りも目立つ。注意が必要だ。岸松雄氏の書いたものは文章は主観的で面白いが、やや正確さに欠ける。
 
 さて、本荘子爵だが、インターネットという便利なものがあるので(誤りの拡大普及で問題も多いが)、調べてみた。

 すると、「麻雀概史 日本への伝播」というページに本荘子爵という名が出て来るではないか。そうか、千恵蔵は麻雀(マージャン)が大好きだったので、そのつながりなのかもしれない。千恵蔵の言っている「懇意に願っていた本荘子爵」の「懇意」とは、麻雀仲間のことなんじゃないか。

 日本で麻雀が普及し始めたのは大正10年代だったそうだ。普及者の一人に中国で麻雀を習い覚えて帰国した空閑緑(くがみどり)という人がいて、この人が、
「大正13年の夏、四谷に東京麻雀会の看板を掲げ、無報酬で家庭麻雀の出張教授を行うなど、活発な活動を行った。この空閑緑の無料教授を受けた人が、丹後宮津の旧藩主・本荘子爵家等の華族などであったことなどから上流家庭に麻雀熱が広がったと云われる」
 
 「丹後宮津の旧藩主・本荘子爵」とあるではないか。千恵蔵(当時は千栄蔵で20歳)が本荘子爵に紹介されて小笠原プロへ行ったのは関東大震災後の大正12年9月以降。同年2月に名題になってからも千恵蔵は東京の歌舞伎界で良い役がつかず、無聊をかこっていたらしいから、震災前後のある時期に麻雀を覚えたことは十分考えられる。
 でも待てよ。本荘子爵というのは一人ではないかもしれない。そこで、またインターネットで「華族 近代日本の名家」というページを覗いてみると、あった! 一人しかいない。

本荘
子爵
武家
本荘宗武
丹後宮津藩7万石
5代将軍徳川綱吉の生母(桂昌院)の家系

 
 姓名・本荘宗武である。なんと読むのだろう。「ほんそうむねたけ」か?
 今度はウィキペディアのお世話になる。

 松平 宗武(まつだいら むねたけ、本庄 宗武/本荘 宗武)
 丹後宮津藩の第7代(最後の)藩主。本庄松平家10代。
 弘化3年(1846年)6月9日、第6代藩主・松平宗秀の五男として生まれる。
 (中略)
 明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により宮津知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で知藩事職を免職された。明治6年(1873年)からは開拓使として北海道の農業開拓に従事したが、父が死去すると宮津に戻り、以後は籠神社の宮司として働く一方で、俳句の世界をたしなんだといわれる。
 明治17年(1884年)、子爵に列した。
 明治26年(1893年)4月28日に死去。享年48。


 あれっ! 明治26年に死んじゃっている。この人じゃない!
 子爵を継いだ息子のほうだ。名前は、本荘宗義。

 検索するとお墓が出て来た。
 
 「貴族院議員従三位勲四等子爵本荘宗義墓」
 
 お墓は足立区東伊興、竹ノ塚近くの法受寺にある。
 貴族院議員をやっていたのは明治39年~44年。それ以外に何も分らない。
 千恵蔵が懇意にしていた本荘子爵は大正12年頃に生きていた人だが、この本荘宗義は明治一ケタ生まれだとして、大正12年だと50歳くらいだから、この人に間違いない。

 そこでまた「麻雀概史」のページから、

「大正12年、関東大震災が発生した。銀座にあったカフェー・プランタンが新宿区牛込神楽坂で仮営業した。店主・松山省三は著名な画家であり、妻の松井潤子も女優という関係で画家・俳優はもとより多くの文人墨客が出入りし、当時ようやく日本に伝来した麻雀が楽しまれた。この店へ洋行帰りの市川猿之助と平岡権八郎が上海で買った麻雀牌を店に持ち込んだ。最初は松山省三・松井潤子夫妻を初め、佐々木茂索、広津和郎、片岡鉄兵などがうろ覚えでやっていたが、やがて後に牌聖と謳われる林茂光を初め、前島吾郎、古川緑波、川崎備寛、長尾克など、多くの文人、画家、芸能人が集まり、麻雀を楽しんだ南部修太郎「麻雀を語る」)。麻雀時代の夜明けを告げる光景であり、これを世にプランタン時代と称する。後年、このとき指導を受けたメンバーが日本麻雀界の指導者となる」
 
 もしかすると、カフェー・プランタンで千恵蔵は麻雀をやったことがあったのかもしれない。そしてこの本荘子爵というのも麻雀概史に名前が残るほどの麻雀狂だったから、プランタンに出入りしていた可能性があり、そこで二人は雀卓を囲んだ、なんてことも想像できる。

 もう一つ分ったことは、本荘家のお屋敷は、市ヶ谷近くの曙橋にあったということ。
 震災後移転したプランタンがあった神楽坂の近くではないか。ということは、この本庄子爵が神楽坂のプランタンへ通って、麻雀をやっていたことも十分あり得るのではなかろうか。そこには小笠原プロの関係者である古川緑波や松井潤子(松井千枝子の妹で小笠原プロの『金色夜叉』に姉妹揃って出演したようだ)もいて麻雀をやっていたらしいから、彼らも千恵蔵に小笠原プロ入りを勧めたのかもしれない。千恵蔵の映画デビュー作『三色すみれ』には古川緑波も出演しているが、二人はその前に雀友だった、なんて。

 それと、かの松井潤子がプランタン店主の松山省三と結婚していたということはホントなのだろうか? 「日本映画俳優全集 女優編」(キネマ旬報社)によると、そんなことはまったく書いていない。彼女は1906年12月生まれだというから、大正12年(1923年)だとまだ17歳ではないか。松竹に入って清純派の人気女優となり、28歳で巨人軍の水原茂と結婚したとばかり思っていたが……。




小笠原プロと水島あやめ(その2)~『水兵の母』

2012年07月22日 01時47分21秒 | 日本映画
 小笠原プロは、ついに大作に挑戦する。『水兵の母』である。この作品で小笠原プロは映画界を唖然とさせ、日本国内にその名を知られるメジャー的存在にのし上がる。
 原作は、日清戦争に従軍した小笠原長生(明峰の父)が書きしるした『海戦日録』(1895年)の中にあるエピソードで、軍艦・高千穂に乗務していた海軍大尉の長生が、部下の水兵が泣きながら読んでいた母からの手紙を見て、その内容を紹介したもの。「水兵の母」という題で小学校の国語の教科書にも採用され、大正から昭和十年代終わりまで載っていた有名な愛国美談である。


小笠原長生(1867~1958)

 齋藤彰という方のホームページ「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」に「水兵の母」(初等科国語5年生 昭和19年度)の全文が載っていたので転用させていただく。

 明治二十七八年戦役の時であった。ある日、わが軍艦高千穂(たかちほ)の一水兵が、手紙を読みながら泣いていた。ふと、通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」と、ことばするどくしかった。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。
 大尉がそれを取って見ると、次のやうなことが書いてあった。「聞けば、そなたは豊島沖(ほうとうおき)の海戦にも出でず、八月十日の威海衛(いかいえい)攻撃とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候。八幡様に日参致し候も、そなたが、あっぱれなるてがらを立て候やうとの心願に候。母も人間なれば、わが子にくしとはつゆ思ひ申さず。いかばかりの思ひにて、この手紙をしたためしか、よくよくお察しくだされたく候。」
 大尉は、これを読んで思はず涙を落とし、水兵の手をにぎって,「私が悪かった。おかあさんの心は、感心のほかはない。おまへの残念がるがるのも、もっともだ。しかし、今の戦争は昔と違って、一人で進んで功を立てるやうなことはできない。将校も兵士も、皆一つになって働かなければならない。すべて上官の命令を守って、自分の職務に精を出すのが第一だ。おかあさんは、一命を捨てて君恩に報いよといっていられるが、まだその折に出あはないのだ。豊島沖の海戦に出なかったことは、艦中一同残念に思っている。しかし、これも仕方がない。そのうちに、はなばなしい戦争もあるだらう。その時には、おたがひにめざましい働きをして、わが高千穂の名をあげよう。このわけをよくおかあさんにいってあげて、安心なさるようにするがよい。」といひ聞かせた。水兵は、頭を下げて聞いていたが、やがて手をあげて敬礼し、にっこりと笑って立ち去った。


 「高千穂」は防護巡洋艦で、この話にあるように日清戦争では目立った働きはしなかったが、日露戦争に際しては日本海海戦ほか各海戦に参加し、機雷敷設に従事して活躍した。第一次大戦で青島攻略戦に出動し、膠州湾外でドイツ海軍の水雷艇によって撃沈されたという。

 さて、小笠原明峰は父の長生にこの「水兵の母」の映画化の企画を持ちかけ、謹厳な父を説得して承諾を得る。1924年の夏ごろであったらしい。海軍中将の長生は、自分が書いた逸話が映画になるとあって協力し、海軍省の全面的支援を取り付ける。一方、明峰は、水島あやめに脚本を依頼。あやめが脚本を練っている間に、別の作品『落葉の唄』を撮り上げる。
 1924年11月頃、『水兵の母』がクランクイン。撮影はロケーション主体で、かなり大掛かりだったようだ。海軍が本物の軍艦と施設を提供し、また実際に勤務している水兵をエキストラに使わせる許可を下ろしたという。
 同年暮に映画は完成した。

『水兵の母』 1925年3月 神戸キネマ倶楽部 6巻 小笠原プロ
監督:小笠原明峰 原作:小笠原長生 脚本:水島あやめ 撮影:上野幸清
出演:島静二(海軍大尉)、東勇路(水兵小川俊作)、沢栄子(水兵の母)

 この映画の上映経過については、「水島あやめ」のホームページから転用させていただく。

 1925年(大正14年)
 1月12日、映画『水兵の母』(監督小笠原明峰)の完成試写会と披露宴が、上野精養軒で 開催される。東郷平八郎、農相高橋是清、逓相犬養毅、海軍大将米内光正、床次竹二郎ら政界、軍の要人が来賓として招かれた。
 1月19日、皇太子殿下(昭和天皇)、妃殿下が、同映画を台覧される。
 2月9日、大正天皇が、静養先の葉山御用邸で天覧される。
 3月5日、『水兵の母』、神戸キネマ倶楽部ほか全国各地で公開。50本のフィルムが作製され、うち13本が全国を巡回、国民的話題となる。
 『水兵の母』が大ヒットし、小笠原プロダクションを一躍有名にする。そして、女性シナリオライター第一号として、新聞社の取材が殺到する。日本女子大学では映画見物でさえ禁止されており、退学を恐れ、卒業まで待って欲しいと懇願する。
 同月、日本女子大学を卒業。
 この頃、『サンデー毎日』に、写真付きで紹介される。


 天覧映画となったのだからすごい。ただし、病身で薄弱の大正天皇が本当にご覧になったのかどうかは分らない。
 『水兵の母』がどのような映画だったか知るよしもないが、6巻というから上映時間は約1時間。主要な登場人物は3人で、水兵が母の手紙を大尉に読ませ、大尉が感想を言うだけなら10分で終ってしまうだろう。水兵が母を回想するシーンでも入れたのだろうか。それに、軍艦を使ったということは、海戦シーンなども撮ったのだろうか。この話は日清戦争当時のことだが、ストーリーを延長して日露戦争での日本海海戦まで描いたのかもしれない。
 女子大生の若い水島あやめがどういった脚本を書いたかも不明だが、大正末期の無声映画の脚本であるから、シーン構成と字幕タイトルのほかに登場人物の動作・表情の指示を書き込んだ程度の簡単なものであったと思う。監督の小笠原明峰や原作者の父・長生の意見も相当取り入れたことであろう。
 撮影担当の上野幸清、出演者の島静二と沢栄子がどういう人かは不明。
 主役の水兵を演じた東勇路(勇治)は、福岡県出身。西南学院高等商業部を中退後上京し、小笠原プロに入ってこの映画でデビュー。その後日活京都へ入り準主役級の現代劇俳優として活躍した。日活多摩川作品にも数本出演し、田坂具隆監督の『爆音』『土と兵隊』、内田吐夢監督の『限りなき前進』などでその姿を見ることができる。




小笠原プロと水島あやめ

2012年07月21日 23時31分31秒 | 日本映画
 今や女性脚本家が花盛りで、テレビドラマや映画の脚本は女性が書いたものが多い。で、まだテレビのない時代、映画の世界で女性脚本家と言えば、水木洋子、田中澄江、和田夏十、楠田芳子といったところだった。戦前、女流文学者はたくさん居たが、脚本家は皆無に近かった。そんな中、大正末期に21歳でデビューした日本初の女性脚本家と言われる才女がいた。水島あやめ(1903~1990)である。


 水島あやめ

 水島あやめという人のことを私が知ったのは、5年ほど前、無声映画鑑賞会で『明け行く空』(松竹キネマ蒲田作品、斉藤寅次郎監督 水島あやめ脚本)を観た時だった。その時、弁士の澤登翠さんが、この女性脚本家のことを紹介してくれた。
 それから、ちょうど2年前、内田吐夢監督の没後40年の上映会を池袋の新文芸坐で催すことになり、企画者である私がその記念本「命一コマ 映画監督内田吐夢の全貌」という本を編集していて、その時にフィルモグラフィーを作成していたら、『極楽島の女王』とういう映画の脚本に水島あやめという名前を見つけて、あっと思った。調べてみると同一人物で、小笠原プロから松竹キネマ蒲田へ入ってたくさん脚本を書いている人だということが分った。珍しい女性がいるものだと思ってその時はそれで終ってしまったが、今になってまた水島あやめが浮上してきた。
 私が今、入江たか子や小笠原プロのことを勉強しているのも、もともと内田吐夢がきっかけなのだが、その前に戻れば、子供の頃ファンだった中村錦之助の映画を、五十歳を過ぎてまた観始めたのが出発点だった。内田吐夢と水島あやめは、もしかして小笠原プロの撮影現場のどこかで顔を合わせていたかもしれない、なんて空想している。当時の内田吐夢は、ロシア人の血が混じっているのではないかと思うほど日本人離れした美男子で背も高く快活だった。ひと目見たら忘れないほど目立っていたそうだが、どうだろう。
 水島あやめに関しては、「日本で初めての女性映画脚本家 水島あやめ」というホームページがあり、その中の「あやめの生涯」が詳しい。これは、因幡純雄という親族の方が月刊「シナリオ」に2006年から翌年12月まで連載した「日本初の女性脚本家 水島あやめ伝」に準拠したものだとのことだが、今度それも全部読んでみたいと思っている。また、私は寡聞にして知らなかったが、2003年7月に郷里の新潟県南魚沼市六日町で「水島あやめ生誕100年祭」があり、佐藤忠男氏の講演と、映画『明け行く空』を佐々木亜希子さんの活弁で上映したそうだ。その時のプログラムが佐々木さんのホームページに掲載されていたので、プログラムにある水島あやめの略歴なども参照した。

 前置きが長くなった。

 水島あやめは、1903年(明治36年)、新潟県南魚沼郡三和村大月(現・南魚沼市大月)で生まれた。本名は高野千年(ちとせ)。1921年(大正10年)、長岡高等女学校を卒業して母と上京。日本女子大学師範家政科に入り、20歳で『面白倶楽部』の懸賞小説に当選した。そして1924年(大正12年)、大学4年の時、小笠原プロで映画の脚本を手がけるようになる。
 水島あやめが、なぜ小笠原プロに入って脚本を書くようになったのかは分らないが、映画化された第一作が『落葉の唄』。続いて『水兵の母』の脚本を書き、この映画は興行的に成功。大学卒業後、松竹キネマ蒲田撮影所の脚本部へ入る。小笠原プロにいた頃に書いた『極楽島の女王』の脚本が特作映画社によって製作され、帝劇で上映されるが評判はよろしからず。研修期間を経て、1926年(大正15年)、松竹に正式入社。『お坊ちゃん』を初めとして、9年間で二十数本の脚本を書く。1935 年(昭和10年)、松竹キネマが大船へ移転するのを機に退社。少女時代からの夢だった小説家に転じ、以後少女小説、翻訳児童書など数多くの作品を残した。
 経歴をざっとまとめるとこんなところである。

 さて、水島あやめの第一回映画化作品の『落葉の唄』のデータは以下の通り。

『落葉の唄』 1924年11月公開 浅草遊園第二館 5巻 小笠原プロ
監督:小笠原明峰 原作:国本輝堂 脚色:水島あやめ 撮影:稲見興美
セット:尾崎章太郎
出演:河井八千代(芳田君子)、沢栄子(母美保子)、北島貞子(娘道子)、児島武彦(伯父哲造)、島静二(医師立川)、三枝鏡子(道子の友)、三田文子(同)、龍田静枝(同)

 原作の国本輝堂という人物は不明。セットの尾崎章太郎は、正しくは庄太郎だと思うが、大正活映からやって来た美術デザイナー。
 主演の河井八千代は子役で妹役。
 児島武彦は、正しくは鹿児島武彦で、日活京都の二枚目俳優から後に映画監督になった島耕二である。島耕二(1901~1986)は、長崎生まれで、長崎中学から豊国中学で学んだ後、徴兵検査で甲種合格。2年間の兵役を終え実家へ帰ると、新聞で日本映画俳優学校の開校の記事を見かけ、その生徒募集に応じて東京へ。1923年11月第一期生として入学。在校中の24年、小笠原プロの『落葉の唄』に本名で映画初出演した。


   島耕二

 また、その後スター女優として活躍した龍田静枝が映画初出演している。(龍田静枝については後述したい。)
 
 この映画の内容はいわゆる「母もの」で、可憐な少女の悲しくセンティメンタルな話だったようだ。岸松雄は「日本映画監督全集」の小笠原明峰の項で、「子役の河合八千代のセンティメンタリズムに大感激した。赤坂帝国館で見た記憶がある」と書いている。
 この作品から、水島あやめはペンネームを使い始めた。前掲の「水島あやめ」ホームページから転用させていただくと、彼女は、晩年、知人宛の手紙にこう書いたそうだ。

 私のペンネームは、小笠原プロで、初めて作品が出来たとき、本名だと、学校を退校もなるかもしれないので(そのころの目白は、きびしくて、沢村貞子さんなど、ちょっと新劇に出て退校になった)ペンネームをつけることにし、丁度、小笠原さんの広い裏庭の池に、花しょうぶが盛りだったので、わたしはその花が好きだったし、名前を『あやめ』にして、それに似合う『水島』を姓にしたのです。

 目白というのは日本女子大で、女優の沢村貞子(1908~1996)は水島あやめの後輩で、新築地劇団の芝居に出演したため日本女子大師範家政科を退学させられたという話だ。


小笠原プロと片岡千恵蔵

2012年07月21日 15時35分19秒 | 日本映画
 昭和4年から5年にかけて平凡社から発行された「映画スター全集」(全10巻)という菊判(150cm×220cm)の写真集がある。一冊に男女2名ずつの日本人の映画スターを取り上げ、出演作のスチール写真やブロマイドを載せ、簡単なコメントを加えたものだが、巻頭の数ページにそれぞれが俳優になる前に撮ったプライベート写真があり、また巻末の数ページに各スターに関する寸評、経歴、出演作リストがあって、なかなか面白く、見たり読んだりして楽しめる本である。編集者は、前々回ここで紹介した近藤経一で、おそらく文章のほとんどは彼が書いたものだと思う。私が所持しているのは2巻、3巻、4巻、7巻で、たとえば4巻は、田中絹代、河部五郎、入江たか子、井上正夫の4人の特集。


映画スター全集

 実は、昨日、この「映画スター全集」の7巻の片岡千恵蔵のところを覗いていたら、巻末の経歴(本書では評伝)にこんなことが書いてあった。

 少年の頃から片岡仁左衛門の門に這入ってその主宰する片岡少年劇に加はり、まづ仕出しから始めて、真一文字に芸道に精進して、大正十二年、明治座で中車と千代之助の口上で名題に昇進したのです。仁左衛門に可愛がられた千恵蔵は、その後、片岡少年劇の座頭として、立派な、小供らしくない舞台を見せて、好劇家から、将来を期待されて居たものでしたが、役者らしくないと言ふ彼への讃辞は、仁左衛門と共に謳はれたものでした。
 映画界への最初の門出は、小笠原プロダクション創立当時、本名の植木と言ふ名で『三色すみれ』の主役をしたのが初めてで、丁度震災直後のことでありました。


 おっと、小笠原プロが出てくるではないか! あれっ、「震災直後」と書いてあるぞ! そうか、『三色すみれ』は、震災直後に撮られたんだ!


 片岡千恵蔵(「映画スター全集 7」の巻頭写真より)

 まあ、こんな感じで、新事実が分ってくるわけです。
 私のブログをちゃんと読んでいる人がいるのかどうか知りませんが、関東大震災前後のそんな昔のことをほじくってどうするんだ、観られもしない昔の映画やもう忘れ去られた映画人や映画俳優のことを調べてなにが面白いんだ、とお思いになる方がいらっしゃるかもしれません。確かにそう言えばそうですが、判然としないことをいろいろ調べて突き止めるのは結構面白いもんで、暇つぶしにはちょうどいい。犯人を捜索し、行動を突き止め、人間関係を調べ上げる刑事か探偵みたいな気持ちになるとでも言いましょうか。好奇心から探究心が生まれ、いろいろ勉強にもなるし、他人がどう思おうと、本人の私は好きでやっているわけです。
 そんなわけで、入江たか子から東坊城恭長へ行き、小笠原プロに寄り道して、ここで泥沼にズブズブはまってしまったが、いずれまた元の道へ帰るつもりでいる。

 先に引用した片岡千恵蔵の経歴で、仁左衛門というのは十一代目片岡仁左衛門(1858~1934)である。現在の十五代目仁左衛門の実父・十三代目仁左衛門(1903~1994)の父(養父)、つまり祖父である。十二代目仁左衛門(1882~1946)は、戦後間もなく住み込みの門人に一家もろとも惨殺され、十四代目は死後追贈された仁左衛門(生前は片岡我童)のこと。私の世代や私より上の世代(昭和十年代生まれ)にとっては、仁左衛門というと十三代目で、今の仁左衛門はどうしても片岡孝夫というイメージが抜け切れない。十三代目片岡仁左衛門と片岡千恵蔵は同じ1903年(明治36年)生まれで、ともに片岡少年劇で芸を競い合った関係である。

 今さっき、今度は「日本映画全集 男優編」の片岡千恵蔵の項(滝沢一・記)を読んでみたら、なんだ、ちゃんと書いてあるではないか!

 しかし舞台での彼はおおむね大部屋の悲哀をなめ、それをもたらした歌舞伎界の門閥制度に強い不満をもつと同時に将来に不安を感じ感じ悩んでいた。
23年9月の大震災で東京の劇場の大半が焼失して遊んでいたころ、懇意にしていた本荘子爵の紹介で小笠原プロの『三色すみれ』に映画初出演。

 
 はじめっから、これを読めば良かった!
 でも、この一節に名前が上った「本荘子爵」という人物は、いったい何者なのだろう???