背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋重三郎(その4)

2014年06月03日 19時32分13秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 蔦屋重三郎は、吉原大門そばの小さな本屋を、江戸で一、二を争う大出版社に発展させた。
 その成功の原因として、まず、重三郎が吉原で生まれ育ったという来歴と、養子に入った家が妓楼ないし引き手茶屋の経営主であったという社会的経済的背景が上げられるだろう。
 吉原内部の人間であるという特殊性、そしてそこから生まれる独特な発想が重三郎の強みであった。出来合いの吉原ガイドブック(吉原細見)を単に売っていたのでは詰まらなく感じ、吉原を江戸中さらに地方へも宣伝するために自分で新しい本の企画を考え始めたのが、本屋を版元(出版社)へ変えていく出発点となった。
 重三郎とって吉原はいわば身内であり、その裏も表も知った上で特別な愛着を持っていたのは当然であろうし、自分ならこういう吉原本を作るといった具体的なアイディアが湧き上がったにちがいない。重三郎は、蔦屋以外の妓楼の経営主や関係者たち、そしてもちろん、多くの遊女たちのために、商売繁盛を願い、自分ひとりの金儲けではなく、利他的で、ある意味博愛的な立場から本の制作をした。吉原内部から大きな支援を受けたのは重三郎の企画編集への賛同があってのことだった。重三郎は、まさにホームグラウンド吉原をバックグラウンドにして出版界に乗り出し、重三郎でしか企画制作できない出版物によって、事業を拡大発展させていったわけである。

 蔦屋の処女出版は安永3年7月発行の遊女評判記『一目千本 花すまひ』で、上下2巻70頁ほどの冊子である。私は見たことがないのだが、「吉原遊女を生花見立てに描いて、あたかも角力を競う風情の、すこぶる雅趣のあのもの」だそうだ。(榎本雄斎氏『写楽――まぼろしの天才』より)
 蔦屋版「吉原細見」ではレイアウトを変え、内容も充実させた。そして、重三郎は、序文を有名なベストセラー作家(朋誠堂喜三二、のちに山東京伝)に依頼した。天明3年、吉原細見の版権を完全に押さえてから初春に発行した新吉原細見(「五葉の松」シリーズ)は、序文を朋誠堂喜三二、跋文を四方赤良(大田南畝)、祝言を朱楽菅江(あけらかんこう 天明狂歌四天王の一人)が書くといった著名人三人の揃い踏みであった。
 吉原細見は公式ガイドブックであるが、ほかに、遊女評判記、遊女たちの源氏名と自筆サイン入りポートレート集、吉原風俗小説(洒落本)、さらには美しい遊女をモデルにした一枚摺りの浮世絵も、蔦屋重三郎は精力的に出版した。
 遊女ポートレート集というのは、各妓楼の遊女たちの多色摺り画集で、彼女たち自作の俳諧や狂歌を自筆で掲載したものである。重三郎は出版社を立ち上げた翌年に、本屋をやりながら夢に描いていたにちがいない画集『青楼美人合姿鏡』(北尾重政と勝川春章の画)3冊を企画編集し、安永5年正月に出版している。この画集については前にも書いたが、大ヒットして、収益も上がったはずである。しかし、5年も経てば遊女たちも様変わりし、新しいポートレート集を出す必要に迫られたのだろう。7年後に企画を練り直し、今度は新進画家の北尾政演(山東京伝)に依頼した。「青楼遊君之容貌」と題し、大判錦絵百枚続きと銘打って、大々的に宣伝し、天明3年正月に何枚か発売するのだが、すぐに大手地本問屋(宿怨のライバル西村屋与八だと言われている)から横槍が入り、発売中止になったようだ。蔦屋が錦絵発行の権利を正式に株仲間から得ていなかったことが理由らしい。結局、これは画帳形式に作り変え、翌天明4年正月に『吉原傾城 新美人合自筆鏡』と改題して発売し、ヒット商品にしたのだった。


政演画「新美人合自筆鏡」より 花魁二人、新造、禿の衣裳も細かいが、調度品から置物、蕎麦屋の丼に至るまで、描写の精密さには驚く。
 
 天明3年から蔦屋重三郎は、各種の狂歌本を続々と出版し始めるが、著名な狂歌師の歌に交えて、遊女の歌も載せるといった配慮も払っている。百人一首のかるたを模した肖像画入りの狂歌本では、北尾政演のウイットに富んだ珍品揃いの変人男たちの絵にはさまり、遊女らしき美女の肖像と歌が彩りを添えている。士農工商の封建的身分も男女の差別も貴賎の区別もなく、狂歌を詠んで興じる人間たちの楽しい雰囲気があふれ、見ていて微笑ましく感じないわけにはいかない。『天明新撰五十人一首 吾妻曲狂歌文庫』(天明6年正月)と続編『天明新撰百人一首 古今狂歌袋』(天明8年正月)(ともに宿屋飯盛撰、北尾政演画)は、傑作(笑える)である。「絵双紙屋」というホームページにどちらも全ページ、狂歌の解説つきで掲載されているのでご覧になることをお勧めする。


玉子香久女(たまごのかくじょ)未詳 政演画『吾妻曲狂歌文庫』より
「卵の四角と女郎の誠」は、あるはずのないものの喩えで、それから狂名を付けているので、遊女であろう。猫(?)に紐を付けている。
歌は、「染るやら ちるやら木々は らちもない いかに葉守の 神無月とて」
私の解釈:女の気(木)心というのは、らちもなく、色に染まったり散ったりで、いくら木の神様がお留守の十月でも、どうしたものでしょう。

 もう一つ、現存する資料が少なく、見逃されがちなのが、重三郎と芸能界とのつながりである。歌舞伎とその音曲である富本節(江戸で始まった常磐津の一派で当時全盛を極めた)、そして謡曲(江戸庶民に謡が流行し始めていた)といった分野での出版物も重三郎は手がけている。とくに富本正本(しょうほん)は、かなり早い時期(安永5年ごろ)に版権を買い、蔦屋から刊行している。これは、富本節が使われる歌舞伎の舞台の役者姿を表紙に描き、その歌詞を載せたリーフレットである。表紙絵は、最初北尾政演が描き、のちに歌麿が描いていたという。
 吉原大門そばの蔦屋の店では、吉原本に加え、富本正本も売って、定番商品にしていた。この辺の研究は榎本雄斎の『写楽――まぼろしの天才』に詳しいが、あいにく彼のあとを継ぐ研究者がいないのは残念である。榎本氏は、名優中村仲蔵(初代)と重三郎の縁戚関係を強調し、重三郎が仲蔵を通じて歌舞伎役者や関係者たちとコネを持ち、出版に生かしたと述べているが、資料の乏しさもあって、説得力の点では今一歩の感が拭えない。
 重三郎が、写楽の役者絵を大々的に売り出すのは、もはや事業が傾いた晩年、寛政6年5月からである。一枚摺りの役者絵を刊行し出すのも、比較的遅く(寛永期に入ってからかもしれない)、富本正本を除いては、歌舞伎関係の出版物は、どうやら二の次だったようだ。やはり、吉原関係の本や画集がまず第一で、その後、黄表紙、洒落本、狂歌本の発行に出版社としての主力を注いでいったと言える。
 観世流謡曲本の刊行は天明2年からである。謡曲本も売上げが確実に上がりロングセラーを見込める手堅い本だったと思われるが、出版目録が不完全で、詳しいことは今のところ分らない。

 蔦屋重三郎が出版社を発展させた基盤については以上に述べた通りだが、飛躍的に発展させた最大の要因は、時代の流行に自らも従い、その中に飛込んで、時代の寵児たちと親しく交わったことである。重三郎が安永期から流行し始めた狂歌の世界に関心を抱き、蔦唐丸という名前で自らも狂歌を詠み始めたのは、本屋から出版社へ転向をはかった安永半ば以降だったと思われる。狂歌の歌会サークル(「連」という)があちこちで作られ、重三郎も吉原連というサークルに入って、その後、歌会の幹事のようなこともやり出す。サークル同士の合同歌会もあったように推測されるが、狂歌仲間の横のつながりや同好のよしみで互いに仲良くなったりすることはあったはずである。重三郎が狂歌界の旗頭の四方赤良(大田南畝)や朱楽菅江と出会ったのは、安永8年前後のようだが、親しくなったのは天明元年以降であろう。黄表紙『虚言八百万八伝』の作者四方屋本太郎正直が四方赤良だとすれば、この本は安永9年正月発行であるから、前年に重三郎は赤良と原稿の依頼や編集段階で何度か会い、親しくなっていたことも考えられる。
 天明2年12月17日に、吉原大門そばの蔦屋重三郎宅に錚々たる面々が集まり、夜、吉原の妓楼大文字屋(主人の狂名・加保茶元成)へ繰り出して遊んだことが記録に残っている。四方赤良、恋川春町、元杢網(もとのもくあみ)、唐来参和(とうらいさんな)、北尾重政、北尾政演、北尾政美らであった。重政は吉原に行かずに家に帰ったという。(恋川春町『年の市の記』)


唐来参和 政演画『吾妻曲狂歌文庫』より
 彼は蔦屋重三郎と義兄弟の契りを結んだほど仲が良かったという。北尾政演の絵が面白い。
歌は、「ない袖の ふられぬ身には ゆるせかし 七夕づめの 物きぼしでも」
私の解釈:爪に白い斑点が出来たから、新しい着物でも買ってもらえる幸運があるみたいねって姫様が言うんだけど、ない袖はふれない身の上の僕としては、心の中で許してくれってつぶやくだけなんです、情けないけど。

 朋誠堂喜三二や恋川春町とは安永6年までには親交を結び、本を蔦屋から出版している。狂歌師ではないが、絵師の北尾重政は、ごく初期の、出版社設立時に、おそらく版元の鱗形屋孫兵衛の紹介で知り合い、重政を通じて弟子の北尾政演(山東京伝)を知ったことは間違いない。重政は狂歌より俳諧を好んでいたらしく、絵師の鳥山石燕と親しく、その関係で重三郎は石燕やその弟子の志水燕十や北川豊章(喜多川歌麿)と知り合ったようだ。浮世絵師の勝川春章や鳥居派の清満、清経、清長とも同時期に知り合い、作画も頼み本も出しているが、その後、疎遠になっている。
 重三郎の人脈作りは、狂歌という共通の趣味と吉原門前に店があるという地の利を生かして進められ、天明期の初めには、のちに蔦屋から作品を出す作家や絵師たちのほぼ八割方の人々と知り合いになっていたと思われる。重三郎がいつどこで知り合ったのかが全く分からない大物は、後年の東洲斎写楽だけである。


蔦屋周辺の人物たち~喜三二と恋町

2014年06月02日 04時24分13秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 前々回、喜三二の最初の戯作は、安永2年の『当世風俗通』(恋川春町画)であると書いたが、これは『日本古典文学大系』付録の「月報」にある濱田義一郎氏の「喜三二と春町」を参照したものだった。そこには、
「(喜三二は)安永二年に『当世風俗通』で現代通風俗を取り上げた。諧謔と機智に富む文明批判がそこにある。春町との友情――『当世風俗通』に挿絵を書いたのが春町の文学に入る機縁となって、黄表紙流行期に入ると、喜三二は春町に追随して、この「大人の絵本」を作る楽しみに夢中になったようだ」と書かれている。
 また、『江戸の戯作絵本 (一)初期黄表紙集』(社会思想社)の『金々先生栄華夢』の小池正胤氏の解説でも、
「安永四年、それまでわずかに洒落本『当世風俗通』(安永二年)の挿絵を描いていた無名の武士で画家の恋川春町が『金々先生栄華夢』をだした」とあり、さらに『金々先生栄華夢』の絵で金々先生が着ている当時流行の衣装について、
「これは『当世風俗通』の挿絵の上・中・下の息子の姿をそれぞれはめこんだのではあるが、それが話の内容にうまく合致して一層現実感をますことになった」とある。

 つまり、濱田氏は『当世風俗通』の作者・金錦佐恵流を朋誠堂喜三二と断定し、小池氏はその作者が喜三二かどうかは保留にして、二人とも挿絵は恋川春町が描いたとしているわけである。

 しかし、先日、恋川春町のことを加藤好夫氏のホームページ「浮世絵文献資料館」で調べていたら、『当世風俗通』という洒落本は、原本に作者名の金錦佐恵流(金錦は、金銀、金々という表記もある)はあるが、挿絵を描いた絵師名は記されていないことが分かった。絵は春町が描いたというのが定説になっているようだが、文のほうは、喜三二説と春町説の両方あるということである。
 また、『当世風俗通』にはその続編があって、『後編風俗通』または『女風俗通』という題名で、作者は金錦先生であるという。挿絵を描いた絵師は不明だが、恋川春町であろうと推定されている。これもまた、加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」からの情報である。さらに、大田南畝の『杏園稗史目録』には、「当世風俗通 安永二年 春町 続編女風俗通 安永四年 春町」という記述があり、南畝は、この2作とも春町の作品であると見なしていたようだ。加藤好夫氏は、「しかし、安永二年刊『当世風俗通』の作者・金銀佐恵流同様、「続編女風俗通」の金銀先生についても、また春町・喜三二の両説あって、確定していないようである。なお『洒落本大成』六巻の解題は、画工については触れていないが、安永二年の作品同様、春町画と見ているようである。ただ「日本古典籍総合目録」は喜三二作・勝川春章画としている」と注記している。
 
 これでは埒が明かないので、昨日、国立国会図書館デジタルコレクションを覗いてみると、『当世風俗通』の原本と復刻本、そして『後編 女風俗通』の復刻本があった。今は自宅に居ながらにしてパソコンで閲覧できるのだから便利なことこの上ない。復刻本は大正8年に稀書複製会(主事 山田清作)が編集して米山堂という出版社から刊行されたものであるが、既刊の稀書解説本もあり、それを読むと次のように書いてあった。

 「当世風俗通」は安永二年夏の版行にして「後編女風俗通」は同年秋の版行なり。著者金錦先生とあるのは従来久しく恋川春町ならんとの説なりき。さるは春町の名作「金々先生栄華夢」の主人公に金錦先生といふがあり、又序文及び本文の書体の彼が自筆に酷似したればなり。或は享和三年版の「麻疹戯言」の四方真顔の序文中に「朋誠堂作風俗通、而弁疫病本田」とあるによりて、本書を喜三二の作とし、春町は単に挿画と版下とを物したるなりとの説もあり。今遽(にわか)に決定し難し。何れにもせよ、前後二冊ともに同一作者の筆に成れりことは疑ひなきが如し。
 春町は通称倉橋寿平と云ひて駿州小島の藩士なりき。喜三二は通称平沢平角と云ひて秋田の藩士にして留守居役なりき。当時の留守居役は、一藩の外交官にして上中下の交際に鞅掌(おうしょう)し、殊に狭斜の巷に出入すること多かりしかば、此類の著作の材料には富みたり。穿ちの軽妙なるより推せば作者を喜三二とするも当らずとせず。

 恋川春町の筆跡かどうか、『金々先生栄華夢』の序文(左)と『当世風俗通』の書き出し(右)を見比べてみよう。恋町の筆跡は、流麗で、「の」の字の書き方に特徴がある。

 
 似ているようでもあるが、酷似しているとは思えない。これでは判定不能である。 

 上記の引用文にある四方真顔は、春町・喜三二の後輩の狂歌師かつ戯作者で、狂名は鹿都部真顔、のちに四方赤良(大田南畝)の門に入り、四方真顔と名乗ったが、戯作者としては恋川春町の愛弟子でもあり、恋川好町と称していた人物である。その彼が、「朋誠堂作風俗通、而弁疫病本田」と書いているとすれば、朋誠堂喜三二作「当世風俗通」は、かなりの信憑性があるのではなかろうか。また、疫病本田というのは、当時疫病のように流行し、髪の毛が抜けた疫病患者のように月代(さかやき)を広げた本多髷のことで、「当世風俗通」に図解入りで詳述されている。

 
『当世風俗通』より、疫病本多(左)と古来の本多髷(右)

 『当世風俗通』という本は、浜田義一郎氏が言うように、喜三二は戯作の、春町は挿絵のデビュー作と言って良いのではないだろうか。専門家の意見というのも、どうも当てにならない気がして、最近私はほぼすべての研究者の論説に対し疑心暗鬼にとらわれ、非常に困っている。江戸時代の文芸・美術の専門家や研究者というのは、肝心なことを断定的に書くか、あるいはそれを曖昧にして当たり障りのないように書くか、だいたいそのどちらかなのである。不確かな前提の上に立って、推論を築いているとしか思えない著書も多いように思う。写楽論もそうだが、戯作者の研究もそういった印象を受けるものが目立つのだが、まあ、私のような素人がそれをどうこう言っても始まらないので、先を進めよう。

 国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『当世風俗通』の原本および復刻本をところどころ拾い読みしてみた。
 序文は漢文である。ざっと読むと、こんな意味のことが書いてある。
 この書は、東都(えど)の散人、小生こと金錦の著述である。東都の当世風俗は、流行に従い、その変化は尽きることがないが、これを記述した本もなく、小生は風俗が頽廃するのをずっと憂えていた。暇な時に近頃の風俗を書き留めて箱にしまっておいたところ、ある日、友人の剥龍子(?)が来訪し、再三再四請うので授けた。この書があちこちの諸君に好まれ、熟読玩味されて、遊びの一助となることを願う。
 文末に、「金錦 佐恵流識」とあり、「安永二年皆暑日」とある。金錦と佐恵流の間が一文字空いているので、佐恵流のほうは作者名ではないのかもしれない。佐恵流という漢字を当てた「冴える」という言葉は当時の流行語であったらしく、「江戸語の辞典」(講談社学術文庫)を見ると、「①派手に騒ぐ。賑やかに遊興する。景気がよい。②気持が晴々とする。③傑出する」とあり、序文の佐恵流は、①の意味であろうと思う。また、序文は安永2年(1773)の夏に書かれたことが分かる。
 この本は、洒落本と同じ判型(小型本)だが、内容は、洒落本(吉原の客と遊女の関係を描いた会話体の風俗短編小説)というより、遊郭通いをする若者のファッション考現学といったものである。髪形ならびに着物から履物までの服装を、通人の観点から、極上・上・中・下の四種類に分けて、図示しながら解説している。当時(安永初年)江戸で流行した最先端のオシャレな男のファッションが実によく分かり、江戸風俗史研究にとっても大変貴重な本だと思う。
 春町の挿絵を紹介すると、


極上の部類の武士の息子         下の部類の町人の息子

 『当世風俗通』の巻末に、「後編風俗通」の広告(著者名なし)があり、奥付に、「安永二癸巳七月 著々羅館蔵板」とあるが、この版元は不明である。米山堂の復刻本は、国立国会図書館所蔵の原本と全く同じで、明らかにこれを復刻したものであるが、巻末に大坂の版元と思われる石野某の跋文があるので、この原本は大坂で再版されたものであると思われる。

 恋川春町の『金々先生栄華夢』の絵(下に2枚掲げる)と上に掲げた『当世風俗通』の絵を見比べてみよう。よく似ていると感じるがどうだろう。



 ところで、『後編風俗通』も復刻本が国立国会図書館デジタルコレクションにある。こちらは、遊女の良し悪しをそのファッションや姿態から見極めた本で、いわば遊び相手の女の観相学と言えるものだ。
 序文はこれまた漢文であるが、美人の相とはどういうものかについて仲象という人が書いている。安永乙未、すなわち安永四年(1775)に書かれたことが分かる。
 序文の次に目録(目次)があり、版元名、池之端 長谷川と書いてある。
 これは、下谷池之端仲町にあった地本問屋・文会堂長谷川新兵衛のことである。喜三二こと平沢平格は、下谷七間町にあった秋田・久保田藩の江戸上屋敷に住んでいたので、この版元とは近距離にあった。前編の『当世風俗通』の版元もおそらく同じにちがいないと思うのだが、前編の序文にある友人の剥龍子も著々羅館というのも、版元長谷川新兵衛のことではなかろうか。

 『後編風俗通』は、本文の最初に「金錦先生進学解」というガイダンスがあり、以下、美人(遊女)の観相学が図解入りで述べられている。遊女を八風(8タイプ)に分類し、さらにそれぞれを四相に細分化して三十二相になるのだが、女性のことをよく知った男でなければ書けない詳細な解説である。この八風の項目だけ挙げておく。( )内のひらがなは、この本の著者が分かりやすく口語にした注である。

 温風(ぼいやりふう)、風(つんつんとしたふう)、威風(のっしりふう)、不猛風(きゃんでないふう)、恭風(しっとりふう)、不安風(うちあがったふう)、失情風(きのないふう)、淫風(しつぶかふう)。

 「ぼいやり」は、ぼんやりと同じで、柔らかく温かい感じの意で用いている。「きゃんでない」は、おきゃん(おてんば)でないこと。「不安」は、安からず、安っぽくないことで、「うちあがった」は、気品があって奥床しいの意。「しつぶか」は湿深という漢字をあて、湿深いは、多淫、淫乱なこと。


温風の美人
 
 美人の最高位は「温風有真相」で、心が温かく真心のある女性で、最悪なのは、「淫風夜鬼相」で、淫乱で夜は鬼のようになる女性だとして、例を挙げて解説している。

 巻末に跋文(あとがき)があり、文末に「吉陳人題」とある。吉陳人とは誰のことか不明である。また跋文の文頭に絵師の春章への讃辞があるので、この本の挿絵を描いたのは勝川春章だとする説が生まれたのであろう。しかし、恋川春町は、鳥山石燕の門下だったと言われているが、春章の画風を学んだとされ、またその門下でもあったという説もあるほどだから、春町が挿絵を描いたとしても不思議はない。
 
 『当世風俗通』と『後編風俗通』を読み比べてみて感じたことであるが、金錦散人という同じ作者が書き、挿絵は同じ絵師が描いたことは間違いないと思う。そして、後編をざっと読んだ限りでは、作者はいろいろな遊女と付き合った経験のあるその道のエキスパートであるとしか思えない。作者はやはり朋誠堂喜三二だと私は推断する。後編が書かれた安永4年(1775)、春町は30歳で、喜三二は39歳である。春町は小島藩という1万石の小藩の藩士で、この頃はまだ家督相続もしておらず、出世途上であり、遊郭で遊べるだけの金力もなかったと思われる。一方、喜三二は久保田藩25万石の重役であり、遊郭での遊びも年季が入っていたと思うからである。


蔦屋周辺の人物たち~恋川春町

2014年06月02日 02時19分45秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 延享元年(1744)、紀伊藩に仕える桑島九蔵を父として生まれる。幼名は亀之助。20歳のとき伯父倉橋忠蔵の養子になり、駿河小島(おじま)1万石松平家の家臣となる。本名は倉橋格(かく、いたる)、通称は隼人、のちに寿平。明和2年、十両二人扶持。勤めのかたわら絵を学び、狩野派の鳥山石燕(せきえん)に師事。また、浮世絵師の勝川春章(しゅんしょう)を師にしたとも言われている。狂歌も詠み、狂名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。号は、寿山人、寿亭主人など。
 安永2年(1773)年、洒落本『当世風俗通』の挿絵を描く。この頃すでに朋誠堂喜三二と親交を結ぶ。また、恋川春町という画号(筆名でもあった)を使い始める。この名は、小島藩の上屋敷があった小石川春日町にちなみ、加えて絵師勝川春章の名になぞらえたものとされている。
 安永4年(1775)、恋川春町の名で自画自作の草双紙『金々先生栄華夢』を版元鱗形屋から刊行し、大好評を博す。これが、春町の鮮烈なデビューとなり、のちに黄表紙文学の開祖と呼ばれる。


『金々先生栄華夢』
 
 翌5年、『高慢斎行脚日記(こうまんさいあんぎゃにきにっき)』以下4篇を刊行。この間、小島藩でも昇進し、取次兼留守居添役となる。その後、養父の隠居を受けて家督相続し、石高100石となり、内用人に就任している。
 『三升増鱗祖(みますますうろこのはじめ)』(1777)、『三幅対紫曾我(さんぶくついむらさきそが)』(1778)、『無益委記(むだいき)』(1779)など多数の自画作を出し、朋誠堂喜三二と並んで黄表紙全盛時代を築く。安永9年から天明元年は、1年ほど休筆。版元を蔦屋に代えた喜三二に倣って、春町も蔦屋から黄表紙を出すようになる。

 「日本古典文学大系」(岩波書店)付録の月報(昭和33年10月)に掲載された濱田義一郎氏の「喜三二と春町」は味わい深いエッセイであるが、そこにはこう書いてある。
「春町が『楠無益委記』を書けば(喜三二が)『長生見度記』を以て和する。こういう唱和の形で二人の文学活動は続けられる。春町は独創的で尖鋭な問題提起者、喜三二はフンワリとそれを受けて、ゆったりした鈍角的なスケルツオを奏でるのである」

 喜三二は、春町より9歳年上で、親友というよりむしろ兄貴分のような人であり、私の推測では、春町に吉原の遊びや通人の何たるかをコーチした人である。そして、二人とも、版元の鱗形屋孫兵衛から数冊のベストセラーを出し、その後、鱗形屋の経営破綻によって蔦屋重三郎と切っても切れない深い関係になり、さらにベストセラーを出し続ける。
 濱田氏は、恋町の『無益委記』(むだいき 無駄に生きるのもじり)に呼応して、喜三二が『長生見度記』(ながいきみたいき 長生き見たいのもじり)を書いたことを述べているが、恋町の『金々先生栄華夢』をさらに面白く潤色したのが、喜三二の『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)であり、逆に喜三二の『文武二道万石通』を一層辛口に作り変えたのが、春町の『鸚鵡返文武二道』であった。二人は良きライバルだったとも言える。
 喜三二は、約30作の黄表紙を書いたが、春町はそのうちの半数に絵を描いて、喜三二の友情に報いている。春町が売れっ子作家になり、自画作に追われながらも、喜三二のために作画を描いたのはよほどの恩義を感じていたからではあるまいか。春町は、結婚して子持ちになってから、両親と仲の悪い妻を離縁したそうだが、その時、喜三二は春町に新しい女性を紹介して再婚させたという。二人の関係を知る興味深いエピソードである。


「酒上不埒」 北尾政演(山東京伝)画、天明6年正月発行、狂歌本『吾妻曲狂歌文庫』より

 春町の生涯の自画作は30数作で、親友の喜三二ほかの作者の約20作品にも挿絵を提供している。また、『無頼通説法』(1779)といった洒落本や噺本も書いている。
 天明7年(1787)には年寄本役120石に昇進。同じ頃、田沼意次のあとをうけて松平定信の寛政の改革が始まると、翌8年正月、これを題材とした黄表紙『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』(北尾政美画、蔦屋版)を刊行し、評判をとる。同年正月には喜三二の『文武二道万石通』も大ヒットしている。天明9年正月、春町がそれと同趣向の作『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶにどう)』(北尾政美画、蔦屋版)を刊行し、これも大ヒット。しかし、この「文武二道」両作は定信の文武奨励の改革政治を揶揄したともとられかねない性質のもので、喜三二は藩主の命で断筆したと言われ、春町は定信から出頭を命じられるが、病気を理由にこれに応じなかったと言われている。その後、間もない寛政元年(1789)7月7日、病死。その死を自害とする説もある。享年46歳。
 春町の墓は新宿の成覚寺にある。法名は寂静院廓誉湛水居士。墓碑に辞世の詩と句があり、「生涯苦楽四十六年、即今脱却浩然帰天」
「我もまた身はなきものとおもひしが 今はのきははさびしかりけり」


蔦屋周辺の人物たち~朋誠堂喜三二

2014年05月29日 22時58分18秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 享保20年(1735)閏3月21日、江戸に生まれる。父は武士の西村氏で、その三男であった。幼名・昭茂。14歳で母方の縁戚にあたる平沢家の養子に入る。本名・平沢常富、通称・平格(平角)。平沢家は二十五万五千八百石の大藩・秋田久保田藩の家臣で、代々剣術の師範格でもあったらしい。愛洲陰流という剣術の開祖の血筋を引く家柄で、それもあってか、平沢平格は江戸住のエリート藩士として昇進していったようだ。
 しかし、硬派の剣術使いとは真反対に軟弱な気風に染まり、子どもの頃から芝居を好み、乱舞や鼓なども習っていた影響からか、成年になると、吉原通いを始めた。酒はたしなまなかったが、芸達者で評判を高め、自ら「宝暦の色男」と称していたというから推して知るべしである。文武両道というより、硬軟両股といった行き方であった。宝暦期だから、20代半ばの頃であろう。
 彼は子供の頃俳諧を馬場存義に学び、後年は夜雨庵亀成の門に入り、俳名を雨後庵月成(つきなり)と言った。蔦屋重三郎は、彼のことを「月成さん」と呼んで敬愛しているが、二人はかなり早い時期(安永以前)から知り合いだったように思われる。月成は明和6年、35歳の時すでに「吉原細見」に序文を書いているほどで、吉原ではお武家様の通人(つうじん)として知らぬ者のない名士であった。そして、蔦重が「吉原細見」を発行するようになって、安永6年から毎春序文を寄せてくれたのも、月成さんこと朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)であった。
 武士としての平沢平格は、久保田藩の渉外役を務めていたようで、他藩との連絡折衝や他藩についての情報収集をしていたと思われる。吉原を社交サロンないしは接待の場として、自藩や他藩のお偉方の案内役のようなこともしていたのだろう。社用族ならぬ藩用族である。駿河小島藩の倉橋格(戯作者恋川春町)も、小藩だが同じような役目で、二人は莫逆の交わりを結び、のちに二人とも吉原通いを生かし、黄表紙のベストセラー作家となり、安永天明期において、武家出身の戯作者の両巨頭と呼ばれるようになる。
 恋川春町は文才画才兼ね備え、黄表紙も自作自画であったが、朋誠堂喜三二は、文だけ書き、絵は親友の春町に描いてもらうことが多かった。朋誠堂喜三二は戯作者としての筆名であるが、この名は「干せど気散じ」(干上がっても気楽)のもじりで、武士は食ねど高楊枝の意味ではないかと言われている。彼は狂歌も数多く詠み、狂名を手柄岡持(てがらのおかもち)といい、狂詩を書くときには韓長齢(かんのちょうれい)と号した。また、洒落本を書くときの名は、道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)で、ほかに、浅黄裏成、亀山人、朝東亭などがあり、真面目な号は愛洲(先祖である剣術の開祖の名からとった)、隠居後は平荷であったという。


「手柄岡持」 北尾政演(山東京伝)画、狂歌本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』より

 いろいろな名を持つこの平沢平格は、天明期には秋田藩留守居役筆頭にまで昇りつめ、120石取りであった。留守居役というのは、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や諸藩との交渉を行う実務上の最高責任者である。公務のかたわら、30数作の黄表紙の書き上げ、次々とヒット作を飛ばしていったのだから、すごいものである。
 戯作の最初は安永2年(1773)、金錦佐恵流(きんきんさえる)の名で著した洒落本『当世風俗通』(恋川春町画)である。そして、恋川春町はこの本に刺激され影響を受けて、安永4年に黄表紙ブームの開幕を飾る大ヒット作『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(鱗形屋版)を自作自画したと言われている。「金々(きんきん)」というのは当時の流行語で、金ピカで豪華なこと、贅沢な遊びを指し、金々先生は当世風の伊達男を意味し、朋誠堂喜三二の仇名でもあった。
 朋誠堂喜三二は、安政6年、43歳から黄表紙を書きまくるが、奇想天外な大人の童話、歌舞伎の筋書きをもじったパロディ、当時の政治に触れた問題作などに、都会人らしい洒落、滑稽、ナンセンスを盛り込み、巧緻な構成は他の追随を許さず、彼の代表作は十指にあまるとされている。
 昔話の「かちかち山」と歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をないまぜにした『親敵討腹鞁(おやのかたきうて はらづつみ)』(1777)をはじめ、『桃太郎後日話(ももたろう ごにちばなし)』(1777)、『鼻峯高慢男(はなみね こうまんおとこ)』(1777)、『案内手本通人蔵(あなでほん つうじんぐら)』(以上すべて春町画、鱗形屋版)、『見徳一炊夢(みるがとく いっすいのゆめ)』(重政画 1781)、『一流万金談』(政演画 1781)、『景清百人一首』(重政画 1782)、『長生見度記(ながいき みたいき)』(春町画 1783)(以上すべて蔦屋版)が主な代表作である。
 ウィットに富んだ面白い題名が多い。『桃太郎後日話』『見徳一炊夢』の2作だけ、私は絵を見ながら読んでみたが、後者は傑作である。
 安永9年以降、朋誠堂喜三二の黄表紙は、ほとんどすべて蔦屋重三郎が発行しているほどで、喜三二は蔦重にとって最高かつ最大の協力者であった。
 ほかに喜三二は、滑稽本『古朽木(ふるくちき)』(西村伝兵衛版 1780)、咄本『百福物語』(春町らと合作、伏見屋版1788)も残している。
 喜三二の最終作となった黄表紙、天明8年(1788)正月発行の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(喜多川行麿画、蔦屋版)は、前年から始まった老中松平定信の改革を鎌倉時代に移してユーモアと隠喩を込めて描いた問題作であり、発売されるやいなや爆発的な大ヒットとなった。馬琴もこの本について、「古今未曾有の大流行にて……赤本の作ありてより以来、かばかり行はれしものは前代未聞の事なりといふ」(「物之本江戸作者部類」)と書いているほどである。しかし、幕政を茶化していると取られかねない内容でもあり、政治問題へと発展する恐れもあったため、喜三二は主家から命じられ、戯作の筆を断つことになってしまう。
 蔦屋重三郎も喜三二もこれほど重大な事態になるとは予想もしていなかったであろう。まさに晴天の霹靂であった。重三郎にとっては、喜三二の断筆は大きな打撃だった。
 『文武二道万石通』は、短期間に再版を何度も重ね、問題になりそうな箇所は初版に修正を加えたことが現在では分かっている。この本は、発禁にもならず、重三郎も処罰を受けなかったが、寛政期に入り、幕府の取り締まりは厳しさを増していく。これについては回を改め述べるつもりである。
 朋誠堂喜三二はその後公務に励みながら、手柄岡持の名で狂歌だけは詠み続けたという。彼の家庭や妻については不明であるが、長男の為八が平沢家を継いで、同じく留守居役を勤めたことが知られている。
 平沢平格、文化10年(1813)年5月20日、死去。享年79歳の大往生であった。戒名は法性院月成日明居士。墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。歿後翌年の文化11年(1814)には狂文集『岡持家集 我おもしろ』が刊行されている。

*参考資料
 朝日日本歴史人物事典、ウィキペディア、「日本古典文学大系 黄表紙洒落本集」(岩波書店)所収の解説(水野稔)、同書付録・月報18掲載の「喜三二と春町」(濱田義一郎)、「江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集」(現代教養文庫)
 なお、『見徳一炊夢』『文武二道万石通』は「日本古典文学大系」に、『桃太郎後日話』『一流万金談』は「江戸の戯作絵本(一)」に収録されている。




蔦屋重三郎(その3)

2014年05月29日 06時34分07秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 江戸時代は本の制作・卸売・小売が未分化だった。版元(板元、現在の出版社)は、問屋でもあり、小売店も持っていた。そして、印刷・製本業者である板木屋(彫師)、摺り師仕立屋(表紙屋ともいい、今の製本所である)等を下請けに抱えていた。
 出版販売する本の種類によって版元は二系列に分けられた。書物問屋地本問屋である。主に京大坂の版元から出された、いわゆる「物之本」(硬い本)すなわち和漢の学術書等を出版販売する業者が書物問屋で、地本すなわち地元の江戸の大衆娯楽本である草双紙類(赤本、黒本、青本)、洒落本、噺本、浄瑠璃本、長唄本、そして浮世絵などの出版販売をする業者が地本問屋であった。書物問屋と地本問屋を兼ねる大手の版元もあった。たとえば、京都に本店があり、江戸日本橋に支店を持っていた仙鶴堂・鶴屋喜右衛門がそうであった。
 江戸時代中期に株仲間といわれる同業組合ができるが、書物問屋の株仲間が幕府に公認されるのは享保年間で、地本問屋の方はずっと遅れて寛政2年である。ただし、地本問屋にも株仲間はあり、仲間同士の取り決めや約束を定め、違反したものには制裁を加えたりしていた。今で言う著作権というものはなかったが、板株(いたかぶ 版権)や販売権というものはあった。
 また、海賊版を作った版元は、被害者が奉行所に訴えれば、吟味の上、お上から処罰が下った。安政7年1月に鱗形屋孫兵衛が罰せられたのも、身内の徳兵衛が大坂の版元からすでに出版されている「早引節用集」(コンサイス国語辞典といった本)を重版し、勝手に鱗形屋から売り出したからであった。
 蔦屋重三郎は、版元として初めて吉原細見を出した時、板株を持っていなかったため問題となり、吉原の妓楼玉屋山三郎の口利きで、やっと紛糾を収めたと言われている。
 天明3年9月、重三郎が一流版元の居並ぶ日本橋通油町へ進出する時は、地本問屋の丸屋小兵衛の店を買い取ってそこへ本店を移したのだが、丸屋が持っていた版元の権利一切も買い上げたとのことである。トータルでいくら支払ったかは不明であるが、相当な金額であったことは確かだろう。また、その際、問屋有力者のだれかの斡旋があったと思われるが、それが鱗形屋孫兵衛なのか、それとも最大手の鶴屋喜右衛門(通称鶴喜)なのかは分からない。鶴喜は、日本橋通油町に店を構えていたが、その斜向かいに移転してきた蔦屋重三郎と親しく接し、なにかにつけて助力を惜しまなかったようだ。

 安政7年、8年の蔦屋の出版点数が激減したことはすでに述べた。出版物というのは編集制作に3ヶ月から半年かかるので、蔦屋のピンチは安政6年の半ばあたりから安政8年の半ば頃までの約2年間であった。その原因は、蔦屋が援助を受けていた版元の鱗形屋孫兵衛の経営破綻であったことは間違いない。
 鱗形屋は安政4年から毎年10数点出版していた黄表紙が、安政8年には7点に減り、安政9年には無くなってしまう。その2年後の天明2年にはまた黄表紙を出版し始めるが、鱗形屋の経営者が変わり、建て直しをはかったように思われる。しかし、これは一時期だけの復活で天明期の半ばに第一線から退き、寛政初めには廃業している。
 鱗形屋にとって定番の「吉原細見」は、安永9年正月に発行したのが最後で、安永10年(天明元年)は蔦屋版「吉原細見」が1点、天明2年以降は蔦屋が「吉原細見」を独占し、春と秋の年二回に発行することになる。鱗形屋は蔦屋に「吉原細見」のほかにも黄表紙ヒット作の版権(板木も含めて)を売ったと思われる。恋川春町の「金々先生栄華夢」「高慢斎行脚日記」、朋誠堂喜三二の「鼻峯高慢男」などは寛永6年、蔦屋から再刊されている。

 安永9年(1780)、重三郎は一気に出版点数を増やす。この年の蔦屋からの発行本は全部で約15点(黄表紙が8点)である。そのうちの半数は、正月発行分だろうから、前年の秋からは編集制作に取り掛かっていたはずである。ということは、安政8年の夏までには出資者を見つけ、出版の資金繰りがついていたのだろう。3年ほど前からすでに版元間で黄表紙(当時はこれも青本と呼んだ)の販売競争が激化していたが、重三郎は、鱗形屋に代わってその競争に加わることを決断し、売れっ子作家の朋誠堂喜三二と専属契約のような約束を結び、喜三二に執筆を依頼していたはずである。また、北尾重政には挿絵を依頼し、愛弟子の北尾政演山東京伝)とも知り合って、彼の早熟した才能に期待をかけていたと思われる。
 この年、蔦屋が出版した朋誠堂喜三二の黄表紙は次の3作が知られている。
「鐘入七人化粧(かねいりしちにんげしょう)」(朋誠堂喜三二作、北尾重政画)
「廓花扇観世水(くるわのはなおうぎかんぜみず)」(朋誠堂喜三二作、北尾政演画)
「竜都四国噂(たつのみやこしこくうわさ)」(朋誠堂喜三二作)
 他の作者による黄表紙は、5点ある。
「虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)」(鳥居清経画)の作者・四方屋本太郎正直は、大田南畝ではないかと言われている。そうだとすれば、重三郎は南畝とも親交関係を結んでいたことになる。
「夜野中狐物(よのなかこんなもの)」(北尾政演画)の作者・王子風車は、山東京伝になる前の筆名で、画を描いた北尾政演も京伝のことだから、これは、彼の自作自画の黄表紙である。「通者言此事(つうとはこのこと)」(北尾政演画)には作者名がないようだが、これも彼の自作自画かもしれない。
 この年の出版目録に洒落本が2点あるが、「一騎夜行(いっきやぎょう)」の作者・志水燕十(1726~86 しみずえんじゅう)は、絵師鳥山石燕門下の高弟で、絵よりも文筆に才を振るった人物だが、彼も重三郎を支えた一人であった。
 
 重三郎の活躍期は安政半ばから寛政半ばまでの約20年であるが、時流に乗る巧さ、企画の斬新さ、販売方法の大胆さといった才覚に加え、重三郎の人脈作りの能力は著しいものがあった。重三郎の社交性と人柄が大きく物を言ったのだろう。重三郎は吉原で顔がきくことを利用し、著名な作家や画家たちを吉原に招き、接待して、人間関係を広げていく。
 出版社は、文章を書く人間の才能と、絵(挿絵、漫画)を描いたり、デザインをしたりする人間の才能に依存する業種である。才能を見出し、才能を発揮させることができなければ出版社は発展しないが、出版社の社長はその才能を引きつけるだけの人間的魅力と人心掌握術を備えていなければならない。重三郎は、その二つを十分に持ち合わせていたにちがいない。