背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカー語録(2)

2019年09月06日 13時53分28秒 | チャーリーパーカー
 前回資料として挙げたインタビューのうち、パーカーの伝記本に彼の言葉が引用されることが多いのは、(2)と(4)である。
 今回は、(4)について述べておこう。これはパーカーが死ぬ1年2か月前に行われたラジオ番組用のインタビューである。
 ところでパーカーは、1954年1月18日から1週間、ボストンのハイハット・クラブに出演中だった。このクラブにパーカーだけが単身乗り込み、バックはボストンの地元のミュージシャンが務めた。この時のライブ演奏はラジオ放送され、その録音は現在CD化されている(2枚組のCDで、1953年6月のハイハット・クラブでの演奏も含まれている)。YouTubeにも全曲アップされているので、パーカーの熱演を聴くことができる。また、司会のシンフォニー・シッドとパーカーの言葉のやり取りもあって、貴重な音源でもある。


 
 さて、問題のインタビューは、1954年1月23日、ボストン滞在中のパーカーが現地のラジオ局(WHDH)へ赴き、そこで収録された。毎週土曜の夜にやっていた”Top Shelf”という音楽番組のためのもので、パーカーの談話は、同日と翌週の1月30日(土)の2回に分けて放送された。聞き手はこの番組のパーソナリティであったジョン・マックレラン(本名ジョン・フィッチ)とゲストのアルトサックス奏者のポール・デスモンドである。ポール・デスモンドは当時デイヴ・ブルーベック・カルテットで人気急上昇中であり、パーカーを師と仰いで敬愛し、パーカーとも親しくしていたので、ゲストとして呼ばれたのだと思うが、聞き手として最適であった。また、パーカーの方でもデスモンドを同じミュージシャンとして信頼していて、デスモンドの突っ込んだ質問に対しても率直に答えている。


<ポール・デスモンド>

 このインタビューでは、前半でパーカーの音楽観をうかがい知ることができて、大変興味深い。また後半で、ディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスと初めて出会った頃のことについて、パーカー自身の思い出を語った部分がある。
 インタビューは、パーカーのレコードの中の曲をいくつかかけて、曲と曲の合間に進められているが、最初にかかった曲が何であったのかは分からない。バップ創成期の1944年か45年にレコーディングされた曲だったようだ。インタビューの最初の部分だけ私が訳したものを紹介しておこう。

デスモンド:アルトサックスのスタイルがそれまでのものとは全然違いますよね。当時あなたは、自分の演奏がジャズにこれほど大きな影響を与え、その後の十年のジャズ界をまったく変えてしまうことになるなんて感じていましたか?

パーカー:(照れながら)じゃ、まあそういうことにしておこうか。いや、実を言うと感じてなかった。そんなに違うなんて、ちっとも思っていなかっんだよ。(笑)

マクレラン:私もどうしても質問したいことがあるんですよ。こんな急激な変化がなぜ起こったのか、実のところを知りたいんです。それまでアルトサックスの演奏は、ジョニー・ホッジスとかベニー・カーターのスタイルだった。あなたのこの演奏は、まったくコンセプトが違いますよね。アルトサックスの演奏法だけでなく、音楽観そのものが違う。

パーカー:いやあ、その質問には答えようがないと思うがね。

 インタビューはこんな感じで進んでいく。
 パーカーの音楽観をうかがい知ることができるのは、以下の言葉だ。

パーカー:私が言いたいのは、音楽というのは大いに進歩の余地があるものだということなんだ。あと25年、いや50年かもしれないけど、きっとだれか若い人が出て来て、このスタイルを取り上げ、何か新しいことをやってくれると思うね。私がずっと音楽を聞きながら思ってきたのは、音楽は真新しく、ぴったりとしたものであるべきだということなんだ。ともかく、できる限り真新しいものであるべきだ。分かるよね。それから、人間にとって、多少の差はあれ、音楽というのは何か理解できるもの、何か美しいと感じるものだよね。確かに、いろいろなストーリーが次から次に音楽上のイディオムで語られている。まあ、イディオムとは言わないにしても、音楽を言い表すのはとても難しいな。基本的な言い表し方はあるけどね。つまり、音楽というのは基本的にはメロディーとハーモニーとリズムだよね。でも、われわれは、音楽によってそれ以上のもっとずっと多くのことをやれると思うんだ。音楽は、すべての形式において、きわめて表現力豊かなものなんだよ。しかも人生のすべての面にわたることを表現できるんだね。

 参考までに上記のパーカーの英語の言葉を文字にしたものを下に挙げておこう。よく聞き取れない箇所は、筆記者が類推して適当に書いたようだが、下線を施した部分は、(→ )で私なりに文意を考えて直したものを、(? )で疑問に思う語句を付記した。また、パーカーが良い音楽に対して使う形容詞の clean は、「真新しい」と訳した。precise は「ぴったりとした」、descriptive は「表現力豊かな」と訳したが、もっと良い訳語があるかもしれない。

PARKER: I mean, music can stand much improvement. Most likely, in another 25, maybe 50 years, some youngster will come along and take this style and really do something with it, you know, but I mean, ever since I've ever heard music, I've always thought it should be very clean, very precise ―― as clean as possible, anyway ― you know, and more or less to the people, you know, something they could (→ can) understand, something that was (→ is) beautiful, you know ―― there's definitely stories and stories and stories that can be told in the musical idiom, you know ―― you wouldn't say idiom, but it's so hard to describe music other than the basic way to describe it. Music is basically melody, harmony and rhythm, but, I mean, people can do much more with music than that. It can be very descriptive in all kinds (? ) of ways, you know, all walks (? ) of life.


チャーリー・パーカーに関する文献・資料(7)

2019年09月02日 12時28分22秒 | チャーリーパーカー
 チャーリー・パーカーの演奏はたくさん残されていて、録音されたものを全部聴いたら二、三百時間はかかるかと思うが、パーカー自身が書き残した文章というものは何も残っていない。誰かがパーカーの生存中に彼の伝記を出版しようと企画して、長時間に及ぶインタビューを試みて録音したものでもを残しておけば良かったのだが、そんな記録もない。ルイ・アームストロングやディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスは功成り名遂げてからそうした伝記本を残して死んでいったが、パーカーは死ぬのが早すぎたし、突然死んだために、本を残す暇(いとま)もなかった。さらに言えば、パーカーの評価と功績は、死んでからますます大きくなっていったので、それが定まった時には、もう間に合わなかったと言えよう。
 が、しかし、パーカー自身が語った言葉がまったく残っていないわけでもない。断片的ではあるが、若い頃のこと、自分の音楽のこと、またジャズや音楽の考え方などを語った言葉が記録されていて、まずこれがパーカー研究に欠かせない資料になっている。

 パーカーがインタビューで実際に話した言葉を記録した資料は、二種類ある。一つは、パーカーの話し声を録音した音源が残っているもの、もう一つは、録音はないがインタビューアーがパーカーの言葉を文字にしたものである。
 後者について先に述べると、前々回にこのブログで紹介した ”No Bop Roots In Jazz”と題する「ダウンビート」誌(1949年9月9日号)の記事は、こうした資料の中で最重要のものである。
 それ以前の資料では、パーカーと親しく接していた評論家のレナード・フェザーが1947年5月に行ったインタビューを基にして書いた記事 ”Yardbird Flies Home”(「メトロノーム」誌に同年8月に発表)がある。この記事を私はまだ読んでいないが、この資料が掲載されている本(Carl Woideick”Charlie Parker Companion”)を取り寄せたので、近いうちに読むつもりだ。

 さて、前者の資料には、ライブ演奏の前に司会者がパーカーを紹介し、その時パーカーが話した言葉も含まれるが、それを除外して、重要な音源を年代順に列記すると以下になる。
(1)評論家のレナード・フェザーがパーカーに行ったブラインドフォールド・テストの音源(1948年夏)
(2)大学教授マーシャル・スターンズと「ダウンビート」誌のジョン・メイアーによるインタビュー(1950年5月1日、ニューヨーク)
(3)レナード・フェザーによるインタビュー(1951年3月末か4月初め、ニューヨーク)
(4)ラジオ番組の司会者ジョン・マックレランによるインタビュー(1953年6月13日、ボストン)
(5)同じくジョン・マックレランとアルト奏者ポール・デスモンドによるインタビュー(1954年1月下旬、ボストン)


 この五つの音源はすべてYouTubeにアップされているので、パーカーの生の声を聴くことができる。そして、これらのインタビューは、すべて文字に起こした資料がある。英語のリスニング能力が不足している私にとっては、大変役に立つ資料である。しかし、話し言葉を文字にすると、テンポや間(ま)や抑揚がなくなり、ニュアンスも失われ、話し手がその時伝えたいと思っていた意味がかえって分かりづらくなってしまうという弊害も生じる。先日私はまず文字化した資料を読んでから、音源を聴いてみたのだが、ギャップを感じないわけにはいかなかった。
 パーカーというのは決して雄弁なタイプではなく、むしろ言葉が少なく、それに彼の話し言葉は、時には不明瞭で聞き取りにくい。また言葉を濁したりしているところも多い。パーカーが何を言わんとしているのかよく分からない箇所があちこちにあるのだ。文字にした資料は、その点、限界があり、実際の音源と比較してみると、判別不能の言葉を適当に文字化していたり、意味が通るように言葉を補足したりしている。つまり、記者の推測や解釈もいくぶん加わっていることを、知っておく必要があると思う。


チャーリー・パーカーに関する文献・資料(6)

2019年08月10日 19時37分17秒 | チャーリーパーカー
 アマゾンで注文しておいた洋書が続々と届き、あれを読んだり、これを読んだりしている。
 その中にパーカーの最新の研究書が2冊あり、どちらも2013年のほぼ同時期に出版された本である。




 1冊目は、チャック・ハディックス Chuck Haddix ”Bird: The Life and Music of Charlie Parker”「バード――チャーリー・パーカーの人生と音楽」(2013年8月13日初版)。私が入手したのはペーパーバック版で2015年発行。著者はカンザス出身のアメリカ音楽研究者。アーカイブで厖大な音源の調査、考証に従事。ラジオの音楽番組のディレクター兼パーソナリティを務め、音楽史の講師でもある。年齢は不詳。多分70歳前後だと思う。カンザス・シティで仕事をしているという地元の利を生かし、パーカーの調査を続けてきたようだ。
 序と第一章だけざっと読んでみた。レベッカについての記述に目新しいことはない。ディギンスの既刊書「セレブレイティング・バード」(1987年)をほぼなぞったものにすぎない。しかし、パーカーの幼少年時代については、新しい事実や考察が書かれていた。転居先とその時期、また通学した小学校に関しては、これまでのパーカーの伝記本には書かれていなかったことだ。また、第四章を拾い読みすると、パーカーがカンザス・シティを出奔した後の母アディの動向について、新たに判明したことが書かれている。また、パーカーがニューヨークへたどり着くまでの足取りもかなり詳細に調査したらしく、新たな見解が記されているようだ。
 この本は全部で180ページほどの薄い本で、英文も読みやすい。



 2冊目は、スタンリー・クラウチ Stanley Crouch の近刊 ”Kansas City Lightning: The Rise and Times of Charlie Parker”「カンザス・シティの稲妻――チャーリー・パーカーの出現とその時代」(2013年9月14日初版)。ペイパーバック版は2014年発行。著者のスタンリー・クラウチは、1945年ロサンゼルス生まれの黒人。多彩な経歴を持つ人で、詩人でドラマーだった。作家、ジャズ評論家としても名を上げ、トランぺッターのウィントン・マルサリスの師匠でもあるようだ。
 この本は、黒人が書いた最初の本格的なパーカーの研究書であるととともに、著者が1980年代から続けてきた黒人の音楽・文化史研究の成果も随所に盛り込んでいる。したがって、チャーリー・パーカーに焦点を当てながらも、文化史的な説明をあちこちに加えて書いているので、分量が増し、またやや読みにくい面もある。ただ、彼自身が行ってきたパーカー関係者へのインタビューをもとに書いている部分は、説得力があり、パーカーのイメージも浮き彫りにされて、読み応えがある。クラウチ自身が居場所を突き止め、初めてインタビューを試みた人では、何と言っても、レベッカ・ラフィンが重要である。クラウチは1981年に初めて彼女にインタビューし、それを録音したテープを持っているそうで、その後、レベッカとは1980年代に何度か話して、そのメモも取っておいたようだ。
 実は、この本を手に取る前に私は、ゲイリー・ディギンスが1987年に出した「セレブレイティング・バード――チャーリー・パーカーの栄光」の日本語版を読んだのだが、この本に書かれたレベッカ・ラフィンの談話に基づいた記述は、まずスターリー・クラウチの協力があって、そのコネでディギンス自身もレベッカと会い、インタビューをして書いたものであった。ディギンスは冒頭の謝辞で、クラウチの好意について書いている。しかし、思うに、レベッカを見つけ出し、最初にインタビューしたクラウチの苦労は、ディギンスにすっかり利用されてしまったようだ。また、クラウチ自身はそれまでずっとあちこちの新聞雑誌にジャズの評論を書いていたようで、2006年にそれらを収録編集した著書”Considering Genius: Writings on Jazz”を発行している。ここに載っているエッセイ”Bird Land: Charlie Parker, Clint Eastwood, and America”(1989)に私は目を通したが、これは、クリント・イーストウッドが監督した映画『バード』の手厳しい批評で、レベッカのことはわずかしか書かれていない。
 まあ、そういう経緯があって、クラウチが長年のうっ憤をぶちまけるようにして執筆した本が「カンザス・シティの稲妻」だと言えるようだ。レベッカの他にも彼女の妹のオフェリアやパーカーの幼友達へのインタビューもあり、もうみんな亡くなってしまったのだが、こうした資料をもとに、この本をようやく完成させたのだと思う。ただ、クラウチという人は、他のパーカー研究者の最新の調査(たとえばチャック・ハディックスの調査やリュー・ウォーカーのウェッブ・サイトの研究)を、知ってか知らずか、採り入れていないところがあり、4分の1ほど読んだ限りではあちこちに記述漏れが目立つ印象を受ける。

 ところで、ゲイリー・ディギンスの「セレブレイティング・バード」は2013年に改訂版が出されているので、先日原書をアマゾンで注文したが、まだ手元に届いていない。


チャーリー・パーカー語録(1)

2019年08月10日 16時33分29秒 | チャーリーパーカー
  
(真ん中のページの画像では見出しの最初の文字 No が切れて見えない。No Bop Roots In Jazz<バップのルーツはジャズではない>)

 1949年9月9日発行の「ダウンビート」誌に掲載されたチャーリー・パーカーのインタビュー記事は、生存中のパーカーの発言を伝える最も重要な基礎資料である。また、パーカー研究の原点とも出発点とも言えるものだろう。私はぜひ原文を読みたいと思っていたところ、米国の”Jazz Profiles” というブログにその全文が転記されているのを見つけた。http://jazzprofiles.blogspot.com/2019/05/charlie-parker-1949-downbeat-interview.html
 かなり長い文章で、プリントアウトすると約13ページに及んでいる。で、早速、辞書を引きながら、読んでみた。
 この記事は、Michael Levinと John S. Wilsonという二人の記者が2週間あまりにわたって行った数回のパーカーへのインタビューをまとめたもので、パーカーが語った言葉を直接話法で引用した部分と、記者が間接話法でパーカーの話を伝える部分とで構成されている。ところどころに記者のパーカーに対する印象や感想が加えてあり、最後にパーカーの人柄と音楽性についてかなり好意的な評価を下している。パーカーの奥さん(三番目)のドリスも同席していたようで、最後の方にドリスの話も出てくる。
 このインタビューで、パーカーが語っていること、つまり、記者の関心事に率直に答えたことは、だいたい三つの内容に分けられるだろう。
(1)バップについてのパーカー自身の考え。
(2)パーカーの音楽のバックグラウンド。自分の若い頃の音楽体験。
(3)パーカーがこれからやろうとしていること、自分の音楽への抱負。
 読みながら、なんだ、あれはここにある言葉だったのかと感じるところが多々あった。これまでパーカーに関する本や記事を読んできて、しばしば引用されるパーカー自身の言葉やパーカーの体験についての言及が気になっていたのだが、その出どころの多くはこの記事だったことが分かった次第。

 パーカー自身の言葉をいくつか列挙しておこう。原文の下に私の訳文とコメントを添えておく。

 "It's just music. It's trying to play clean and looking for the pretty notes."
 「(バップは)まさに音楽だよ。まっさらな演奏をしようと努め、美しい音を探しているんだ」

 *パーカーは ”play clean”というフレーズが好きでよく遣う。”clean”は、「清潔できれいな」「爽やかな、すっきりした」「澄んだ」などの訳語が考えられるが、「真新しい」という感じで「まっさらな」という訳語をあててみた。

 "The beat in a bop band is with the music, against it, behind it. It pushes it. It helps it. Help is the big thing. It has no continuity of beat, no steady chug-chug. Jazz has, and that's why bop is more flexible."
 「バップ・バンドのビートは、その音楽に伴ったり、対立したり、背後にあったりするんだ。ビートが音楽を押し出し、あと押しするわけさ。あと押しって大きな役目だよね。ビートに一貫した連続性というものはないし、ズッチャ、ズッチャという一定の決まったリズムもない、ジャズにはあるよね。だからバップはずっと柔軟なんだ」

 "Music is your own experience, your thoughts, your wisdom. If you don't live it, it won't come out of your horn."
 「音楽というのは、自分自身の経験、思考、知恵なんだ。音楽を生きなければ、サックスから音楽が出てくることもないよ」

 *これは、パーカーの音楽を表現するためによく引用される有名な言葉である。

 "I never cared for vibrato, because they used to get a chin vibrato in Kansas City (opposed to the hand vibrato popular with white bands) and I didn't like it. I don't think I'll ever use vibrato."
 「私はヴィブラートが好きじゃなかった。カンザス・シティではみんな、顎でやるヴィブラート(白人バンドでよくやっている手で操るヴィブラートとは反対のもの)を使っていたからね。私の好みじゃなかった。自分がヴィブラートを使うことはこれかもないと思う」

 *サックス奏者は、テナーのコールマン・ホーキンスにしろ、ベン・ウェブスターにしろ、アルトのジョニー・ホッジスにしろ、吹く音にヴィブラート(細かく震える音)をかけていた。カンザス・シティの黒人サックス奏者は、あご先(chin)を動かしてヴィブラートをかけ、白人のサックス奏者はキーを押す手を動かしてヴィブラートをかけていたということか。レスター・ヤングの吹くテナーは、ヴィブラートをかけないストレートで平板な音が特色で、パーカーはレスターがとくに好きだった。

 "I was crazy about Lester. He played so clean and beautiful. But I wasn't influenced by Lester. Our ideas ran on differently."
 「レスター(・ヤング)にはすっかり夢中だった。彼の演奏は、なにしろまっさらで美しかったからね。でも、私はレスターから影響は受けなかったよ。彼と私は、発想が違っていたしね」

 *若い頃パーカーは、レスター・ヤングの演奏が入っているカウント・ベイシー楽団のレコードを全部、演奏先のオザーク山中へ持って行き、レスターの奏法を徹底的に研究、コピーしたという話があるが、この話は誰の証言を根拠にしているのだろうか?

 "They teach you there's a boundary line to music, but, man, there's no boundary line to art."
 「音楽には境界線があるって教わるよね。いやあ、でも、芸術に境界線なんてないんだよ」

 *”boundary line”の訳語を「限界」するのはどうなのか。どの本だったかは忘れたが、「音楽には限界があるが、芸術には限界がない」という訳文があったが、これは誤訳だと思う。パーカーは、芸術としての音楽に境界線はないと言っているのであって、話の流れから解すると、ジャズとかクラシック音楽とか前衛音楽とかの間に境界線を設けるのはおかしいと言っているのだと思う。


チャーリー・パーカーに関する文献・資料(5)

2019年08月08日 20時28分40秒 | チャーリーパーカー
 先日、チャーリー・パーカーに関する素晴らしいウェッブ・サイトをいくつか見つけた。
 まず、イギリス人のLlew Walker(リュー・ウォーカー)氏というパーカー愛好家(研究者でもある)が制作・運営しているサイトで、タイトルは、

 ”Bird Lives: the Life of Charlie Parker Jr.”(バードは生きている――チャーリー・パーカーの人生)

  https://www.birdlives.co.uk/
 ここには、パーカーの詳細な伝記、考察、文献・資料などが掲載され、またパーカーの演奏(音源)、写真、映像もアップされている。内容が実に豊富で、さすが学究肌のイギリス人のサイトだと思った。もちろん全部英語で、読み応えは十分。私が読んだのはまだ4分の1くらいなのだが、参考になることがたくさんあって、非常に有益だ。2013年ほぼ同じ頃に出版された最新のパーカー研究本、スタンリー・クラウチの著書とチャック・ハディックスの著書も紹介され、両書の研究成果も採り入れているようだ。このウェブ・サイトは2005年に立ち上げられ、年々充実させて、2018年まで更新を続けている。
 このサイトに、パーカーが1950年代に行ったインタビューを活字化したものがアップされていたので、全部プリントアウトした。YouTube にアップされている音源もあるが、聴くだけでは分からない部分も分かって、大変役に立っている。

 また、このウェッブ・サイトの伝記の部分を読んでいたら、日本語の翻訳があって、クリックしてみたところ、日本人のパーカー・ファン・サイトにリンクされていた。鈴木よういち氏という人が制作・運営しているサイトで、タイトルは、

 ”Chasin’ the Bird” (バードを追いかけて)

  http://www.chasinthebird.com/
「モダンジャズの神様「Bird」こと、チャーリー・パーカーのファンサイト。泥沼パーカーフリークのためのオアシスです」という紹介があって、鈴木氏のエッセイのほか、パーカー・ファンの投稿記事もたくさんアップされている。話題もさまざまだ。また、リュー・ウォーカー氏のウェッブ・サイトの英語の記事を鈴木氏自身が苦労しながら和訳して、22項目に分けて掲載している。2005年6月から2年半ほどかけて、和訳作業を続けたことが分かり、感心した。現在、この和訳も読ませてもらっている。ほかに、パーカー音源紹介、引用フレーズ集、好きな曲とアルバムのアンケート、掲示板もある。このサイトは、1999年に立ち上げられ、2015年8月23日が最終更新。残念ながらこの4年間ほどは休止中である。

 もう一つ、日本人の作ったウェッブ・サイトで、凄いと思ったサイトを紹介しよう。

 “The Bird’s Legacy” (バードの遺産)

  http://birdparkerslegacy.com/index.html
 Toriya さんというパーカー愛好家(本名は三浦和三郎氏)が2011年に立ち上げ、2012年3月12日パーカーの57回目の命日にリニューアルしたという。2018年11月17日の最終更新に至るまで、ページを増やしていったのだろう。ここにアップされたレコード・コレクションは圧巻。コレクターズ・ノートも有益。チェン・パーカーへのインタビュー記事、レコードのライナー・ノーツなど、パーカーに関する英文記事の翻訳文もアップされている。

 上記の二つのサイトには、他の関連サイトへのリンク一覧があり、これを見ると、パーカーを研究しているサイトは他にいくつかもあるようだ。
 なかでも、シンプルだが、中身が非常に濃密な英文サイトを見つけた。タイトルは、

 "Miles Ahead: A Miles Davis Website"

  http://www.plosin.com/milesAhead/main.aspx
 アメリカ・ヴァージニア州在住の Peter Losin(ピーター・ローシン)氏のウェッブ・サイトで、マイルス・デイヴィスのほかにチャーリー・パーカーのページも充実。ディスコグラフィに加え、最新の詳細な年表(作成者はデンマーク人のLeif Bo Petersen氏)もアップされていて、大変役に立つ。