背寒日誌

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写楽論(その27)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説(3)

2014年05月18日 16時34分05秒 | 写楽論
<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の論拠は以下の三つです。

一、斎藤月岑編「増補浮世絵類考」にある写楽についての補記
「俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也」

二、「浮世絵類考」の写本「達磨屋五一本」と*「奈河本助本」にある写楽の項の頭注(朱書)
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛(*十郎平)というよし、栄松斎長喜老人の話なり」

三、瀬川富三郎(三代目)編「諸家人名 江戸方角分」の八丁堀に住む著名人のところにある記載
  浮世絵師(死亡) 号写楽斎 地蔵橋

 この写楽斎=写楽=能役者斎藤十郎兵衛を前提として、八丁堀地蔵橋に住む国学者村田春海の隣家に阿波藩の能役者斎藤与右衛門が住んでいて、与右衛門の息子が同じく能役者の斎藤十郎兵衛であることが究明された。

<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説に対し、否定的な見方をする人たちは、一の斎藤月岑の記載を疑問視していましたが、二の写本が現れてからは、急に論鋒が鈍ったようです。
 しかし、「浮世絵類考」の一と二の記載に関し、いつ、誰が、何に基づいて、それを書いたのか、ということが問題になります。

まず、一は、斎藤月岑が1833年(天保4年)夏以降1844年(天保15年)春までに書いたことは確かです。しかし、何に基づいてかはまったく不明です。写楽の作画期は1794年(寛政6年)ですから、それから40年ないし50年後にこの新事実(?)を記載したことになります。月岑が「増補浮世絵類考」を作成する際、参照した「類考」の写本については、月岑の序文があるので、以下に引用します(「ケンブリッジ大学所蔵本」)。*印には後ろに私の注を添えています。

浮世絵類考は*笹尾邦教山東京伝の編にして式亭三馬の書入あり
同附録は邦教の編にして三馬の書入あり
同追考は京伝の編とおぼしく三馬の書入あり
以上三部太田蜀山先生の蔵本にして先生の書入あり
右の三部写本にして*嵩樵子の蔵本を*一桂子のもとより借得て写し置たりとて*片岡一声子のもたりしを*天保癸巳の夏写して別冊もあり半紙数三十丁
続浮世絵類考は*癸巳冬根岸の隠士無名翁編とあり 按るに浮世絵師渓斎英泉の輯なり 右に誌る三部を一つとなし洩れたるを集て二巻とせし也。其文拙しといへども編輯の労一閲して知るべく丹志又賞すべし 此書豊島町なる*鎌倉屋豊芥の蔵本を借獲て余再び補ひて増補浮世絵類考と題す 然りといへども未全しとするに足らず 尚好士の刪潤を俟つのみ
天保甲辰春                   東京神田  斎藤月岑識


*この頃、斎藤月岑は、「浮世絵類考」が笹尾邦教と山東京伝が編纂したものだと思っていて、原撰者が大田南畝であることを知りませんでした。
*嵩樵子(すいしょうし)*一桂子*片岡一声子、三人とも不詳。名前の末尾の「子」は、「~君」にあたる呼称なので、嵩樵、一桂、片岡一声という号ないし通称だと思われます。月岑が参照した「浮世絵類考」は、嵩樵の所蔵本を一桂が持っていて、それを片岡一声が又借りして書写したものを、さらに月岑が天保4年夏に書写して、別冊も加えると、半紙三十丁(二つ折りすると60ページ)になるというものです。
*天保癸巳=天保4年
*癸巳=天保4年
*鎌倉屋豊芥=石塚豊芥子(ほうかいし)(1799~1862)
 江戸後期の雑学者。名は重兵衛,通称鎌倉屋十兵衛。豊芥子はその号で,別にからし屋,豊亭,集古堂などと号した。江戸の人。神田豊島町で鎌倉屋を名として芥子を粉にすることを業とする傍ら,山東京伝や柳亭種彦,木村黙老らと交遊し,その影響で近世以降の文芸書や演劇,遊里関係の珍籍を収集,書写し,風俗研究を志した。著書に『歌舞伎年代記続編』『歌舞伎十八番考』『岡場遊廓考』『吉原大鑑』『豊芥子日記』などがあり,その蔵書は芥子屋本として知られた。(朝日日本歴史人物事典より)

 斎藤月岑の「増補浮世絵類考」は、親しくしていた石塚豊芥子からの情報もかなり参考にしたのではないかと言われています。
 渓斎英泉の「続浮世絵類考」(「無名翁随筆」)は天保4年冬に作られたもので、石塚豊芥子がその写本を所持していて、月岑はそれを豊芥子から借りて、通読し、文章の拙いところもあるが、労作であると評しています。そして、主にこれを参考にして、「増補浮世絵類考」を書き始めたのです。

 また、斎藤月岑の「増補浮世絵類考」稿本には以下の付記があります。

浮世絵類考附録追考三つを一冊にして*杏花園先生の蔵本なりし もと類考と附録は笹屋邦教の本もて写し追考は京伝の手書の本もて写すよし記されたり かたはらひきなほせる所々先生*はた京伝と見ゆるもあり さてそが上に式亭主人の説々多く書加へ猶補ひ正されしは朱字にてこまかなりしを*こたひ其説々をも本文のつらに書ならべ真仮名もてわかちて見やすきか為にうつし物しぬ
                             *酉山堂
天保四年癸巳冬   渓斎英泉増補
*弘化元年甲辰    斎藤月岑増補


*杏花園は大田南畝の別号
*はた=また?
*こたひ=古体?
*酉山堂(ゆうざんどう)は、江戸時代後期の書肆で、主人は酉山堂保次郎といいます。この付記にあるように、月岑が書き写して参照した「浮世絵類考」の写本は、いわゆる「酉山堂本」と呼ばれるものです。「酉山堂本」は、現在横浜市図書館が所蔵していて、その複製は国立国会図書館にあります。

 ケンブリッジ大学図書館所蔵の斎藤月岑自筆の稿本「増補浮世絵類考」の写楽の項は、以下のように書かれてあります(内田千鶴子著「写楽を追え」)

○写 楽      天明寛政中の人
   俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也
   号東洲斎

歌舞伎役者の似顔を写せしがあまりに真を画んとてあらぬ
さまに書なせしかば長く世に行れず一両年にして止む 類考
三馬云僅に半年餘行るるのみ

 五代白猿 幸四郎后京十郎と改 半四郎 菊之丞 冨十郎
 広治 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画き廻りに
 雲母を摺たるもの多し

 月岑が新たに書き加えたところ(英泉の「続浮世絵類考」には空白ないしは書かれていないこと)は、太字の部分です。




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