背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

そぞろ歩き(3月1日 下高井戸)

2014年03月02日 14時48分49秒 | 雑記
 下高井戸シネマで最近作られた洋画を見る。ぶらっと映画館の前へ行ったら、ちょうど始まるところだったので、中に入る。まったく予備知識なし。邦題は『いとしきエブリデイ』。
 土曜日の午後3時45分からだったので、客席はいつもより多い。それでも40名くらいか。
 映画が始まって、タイトルを見ると、「Everyday」。邦題は「いとしき」という形容詞だけ加えただけ。
 ファーストシーン。朝、目覚ましが鳴って、40歳くらいの女が家にいる4人の子供たちを起こし、急いで支度させ、2人の子を連れて、どこかの施設へ行く。その施設に、子供の父親、つまり女の夫がいて、そこは刑務所で、服役中の夫に面会に来たことが分かる。
 場所はロンドン郊外で、ここから延々、ドキュメンタリー風にこの家族の日常生活が描かれていくのだが、なんとも退屈なイギリス映画だった。途中で出ようかと思ったが、我慢して最後まで見た。なんのためにこういう映画を作って、人に見せるのか理解できず。
 この映画を見て、得たものといえば、イギリスの現在の刑務所の様子くらいで、あとは英語のリスニング程度。服役中の夫は、麻薬か何かの不法所持で捕まったようだが、たぶん軽犯罪だからであろうか、刑務所から家へ電話したり、一日仮出所して家族と過ごすことができるらしい。
 
 映画館を出て、なじみの古本屋へ行く。豊川堂と言って、下高井戸では文化遺産のような店。店舗兼用の木造家屋は昭和10年に建てられたものだそうだ。はす向かいの米屋(柏木精米店)はもっと古く、昭和初期に建てられ、それから90年近く続いているという。これも文化遺産。
 豊川堂の主人と30分ほど話す。全集が売れないこと、ブックオフのことなど。
 古本、古雑誌を数冊買う。棚のてっぺんに「日本シナリオ大系」が4冊置いてあったので、主人に下ろしてもらい、とりあえず第2巻だけ買う。1000円にしてくれた。「日本シナリオ大系」は全部で6巻あるが、第3巻と第6巻が欠けていた。第5巻を見ると、親しくしている石森史郎さんの『約束』が載っているのに気づく。これは今度来た時に買おうと思う。
 ほかに、「ビアス選集2」「チェーホフ短編集」「下町」、雑誌の「太陽」(写楽特集)「東京人」(小津安二郎特集)を買う。「日本シナリオ大系」の1冊を含め、全部で2500円なり。安い。
 中華料理屋「廣楽」で定食を食べ、ドトールへ行き、読書。
 小津特集の「東京人」を拾い読みする。三宅邦子のインタビュー、川本三郎の「いまひとたびの東京物語」、坂尻昌平という人の「もうひとりの笠智集をつくった男 渋谷実という映画監督」などを読む。
 「チェーホフ短篇集」(福武文庫、原卓也訳)を三分の一ほど読む。短篇「恋について」「可愛い女」「犬を連れた奥さん」。これまで外国文学をほとんど読んでいないので、これから少しずつ読んでいこうと思う。「犬を連れた奥さん」が面白かった。これは1899年(明治32年)に書かれた短篇で、主人公の中年男(38歳くらいで妻子がいる)と若い人妻(22歳)の、今で言う不倫小説なのだが、チェーホフは不倫の意識などほとんどなく、二人の恋愛を正当化しながら書いている。倦怠と欺瞞的な生活からの脱出がテーマ。

 明大前に帰り、ガストへ寄り、また読書。
 帰宅してからも読書。
 堀辰雄の「燃ゆる頬」(昭和7年)。旧制高校の寮生活でのホモセクスュアルな三角関係を描いている。マスタベーションの場面もあり、主人公が異性への愛へ目覚めていくところで終る。
 遠藤周作のユーモア小説を2篇読む。「悪魔」と「女を捨てるのはむつかしい」。どちらも話の設定と起承転結の結の前までは面白いが、ラストのオチが不出来。ストーリー主体の小説では最後がまずいと、なーんだということになり、全体的印象もガクッと落ちる。
 宮川一夫の「私の映画人生60年 キャメラマン一代」を読み終わる。彼の誠実な人柄は敬愛すべきほど。最近読んだ映画人の本のなかでは一番良かったと思う。

   

青春の思い出の映画

2013年08月27日 13時37分00秒 | 雑記
 1990年代からほぼ20年間、私は邦画も洋画も新しい作品をまったく見ないで過ごしてきた。その前までは、ビデオショップで話題作くらいはビデオを借りて見ていたのだが、ちょうどDVDに切り替わる頃からビデオショップへも行かなくなってしまった。最近(と言っても平成以降)の映画を見るようになったのは、ここ3年くらいで、ツタヤで毎週3本ほど準新作(平成以降の映画)を借りて、努めて見るように心がけている。
 思い起こせば、私がいちばん映画を見ていたのは、小学6年から大学2年頃までで、多い時は月に15本くらいは見ていた。ほとんどが名画座だった。中学1年までは横浜の大倉山に住んでいたので、東横線の白楽にあった「白鳥座」という名画座に通っていた。ここは毎週、旧作の洋画を二本立てで上映していた。ここで観た映画で、最も衝撃を受け、今でも鮮烈な印象が残っている映画は、オードリー・ヘップバーン主演の『戦争と平和』である。私が初めて銀幕で見たオードリー・へップバーンだった。『戦争と平和』は1956年公開の映画で、『ローマの休日』より二年あとの作品だが、総天然色だった。私が見たのは1964年、小学6年の時だ。ファーストシーンで緑の牧場に颯爽と現れたナターシャ役のオードリーの美しかったこと! 私は一瞬にして銀幕の彼女に魂を奪われた。私の初恋の女優で、今も変わらぬ女優ナンバーワンはオードリー・ヘップバーンである。それからオードリーの映画は旧作も新作も逃さずに見てきた。新作は『マイ・フェア・レディ』からだが、やはり彼女は二十代の頃の映画の方が素晴らしい。『ローマの休日』から『緑の館』『尼僧物語』までは最高に美しく、『ティファニーで朝食を』も美しいが、『シャレード』(1963年)あたりから奥様とかマダムといった感じになり、若い頃の妖精的な美しさはなくなったと思う。
 アメリカ映画の『戦争と平和』は、今思えば、登場人物のロシア人がみんな英語を話すという不自然な作品で、確かナポレオンも英語を話していたが、当時は変だとも思わず、吹き替え版と同じ感覚で見ていたのだろう。後年、ソ連映画の大作『戦争と平和』が作られ、これも見たが、なぜかアメリカ映画の方が好きなのは、ナターシャ役のオードリー・ヘップバーンとピエール役のヘンリー・フォンダのイメージが私の中で固定してしまったからなのだろう。
 中学2年の時に中目黒に引っ越したので、それからはずっと渋谷の名画座で映画を観るようになった。全線座と東急名画座である。全線座は、明治通り沿いの渋谷東映の先にあった。私が大学を出た頃に無くなり、東急インというホテルのあるビルになってしまった。東急名画座は、東急文化会館の6階か7階にあった。どちらも洋画専門の名画座で、全線座は二本立てで当時確か120円、東急名画座は一本立てで比較的新しい洋画が多く、入場料は100円だった。目黒の権之助坂には目黒スカラ座という新作の洋画の二番館もあって、ここでもよく見た。映画は一人で見ることが多く、自分の小遣いを使って見ていたので、高い封切館で観た映画は数えるほどしかない。中学の頃は、洋画ではマカロニ・ウェスタンがヒットし始め、邦画ではやはり加山雄三の「若大将シリーズ」が人気を呼んでいた。
 この頃、全線座で見て一番印象に残っている映画は、スティーブ・マックイーン主演の『大脱走』である。見終わってあれほど面白く感じた映画はその後あまりないような気がする。マックイーンがテレビ西部劇の『拳銃無宿』や映画『荒野の七人』に出演した頃から私は彼のファンだったが、中学の時に観た『大脱走』(1963年)によって、私の中では男優ナンバーワンの位置を占めるようになった。あの頃、日本の映画雑誌「スクリーン」などの人気投票で、多分10年間は、女優第一位がオードリー・ヘップバーン、男優第一位はスティーブ・マックイーンだった。二人とも、とくに日本人に好まれる映画スターで、私もまったく同じだった。私の場合、今でも外国人男優のナンバーワンはマックイーンなのだ。当時の新作『シンシナティ・キッド』は目黒スカラ座で観て感動したのを覚えている。その後、マックインーンの映画は逃さずに見てきた。『ネバダ・スミス』『砲艦サンパブロ』『ブリット』『華麗なる賭け』『栄光のル・マン』『ゲッタウェイ』『ジュニア・ボナー』『パピヨン』など。なかでも『ブリット』と『ゲッタウェイ』のマックイーンは最高にカッコいい。
 私が小学高学年から中学にかけて抜群に人気があった洋画のシリーズは、「007」だった。ショーン・コネリーのジェームス・ボンドである。第二作の『007危機一発』(のちに『007ロシアより愛をこめて』と改題)を観たのが最初で、この映画ほどハラハラドキドキして観た作品はその後あまりない。それから第一作も含め、ショーン・コネリー主演の5本の「007」は全部観た。が、しかし、『007危機一発』が最高傑作で、スパイアクション映画のナンバーワンだと私は思っている。
 私の中学時代は(1965年~67年)、邦画界が落ち目で、観たいと思う映画がなかった。東映は時代劇をやめて、仁侠映画とエロ映画を作り始め、これは中学生が観るにはまだ早く、大映は勝新太郎の「座頭市」と「悪名」シリーズが始まっていた。松竹は文芸映画と喜劇路線(『男はつらいよ』が始まる前)、東宝は青春映画が多かった。低調な邦画に比べ、洋画の方が圧倒的に面白かった。
 私が、昭和30年代の名画も含め、邦画もたくさん観るようになったのは、高校2年以降で、銀座の並木座へ通うようになってからである。並木座で観た邦画の中で、最も衝撃を受けたのは今村昌平の『日本昆虫記』だった。それからしばらくは今村監督作品を好んで観ていた。大島渚、吉田喜重、篠田正浩などが独立プロを作って、活躍していた頃で、彼らの観念的な映画より、私は今村昌平のリアルで土俗的な映画の方が好きだった。並木座で観た映画のほとんどは後年ビデオで見直しているが、洋画のように思い出に残る作品はほとんどない。私は、映画を一人で観る主義で、友達や恋人と観るのは嫌いで、それは今でも変わらない。観た後に一人でロマンチックな気分に浸るのが好きなのだ。
 高校時代に観た洋画は、やはり青春の思い出の中にいちばん残っている。十代後半が感受性もいちばん豊かで、感動の度合いも大きいのだと思う。スクリーンの主人公に自分を投影し、感情移入しながら見ることができるのは、将来性のある若い時である。
 最後に、当時公開された洋画で、今でも私の思い出に残っている作品を思いつくままに20本ほど挙げておこう。フランス映画とアメリカン・ニューシネマが多い。
 『男と女』『個人教授』『卒業』『サムライ』『さらば友よ』『気違いピエロ』『真夜中のカウボーイ』『明日に向かって撃て』『俺たちに明日はない』『冒険者たち』『あの胸にもう一度』『ジョンとメアリー』『グレートレース』『ナタリーの朝』『ボルサリーノ』『幸せはパリで』『おかしな二人』『イージー・ライダー』『欲望』『コレクター』。




平山亨さんを偲ぶ

2013年08月06日 18時01分59秒 | 雑記
 7月31日に亡くなった平山亨(とおる)さんのことを書く。
 平山さんからお聞きした話はたくさんあるが、テープに録音もせず、また、それについて文章も書いていただかなかったので、私が記憶しているだけである。本当に惜しいことをしたと思っている。今は平山さんのご冥福をお祈りするばかりなのだが、四、五年前に聞いた話で、ともかく覚えていることを書き残しておきたいと思う。
 平山さんに初めてお会いしたのは、5年前の2008年7月、北千住の天空劇場で催された無声映画鑑賞会だった。第600回の記念上映会で、「生誕110年 伊藤大輔、内田吐夢、そして大河内傳次郎」と題して、『人生劇場』と『御誂治郎吉格子』(弁士は澤登翠さん)を上映したホールのそのロビーであった。脚本家の石森史郎さんに平山亨さんを紹介され、上映終了後、北千住の蕎麦屋で夕食をいっしょに食べ、そのあと、喫茶店で1時間半ほどいろいろなことを話した。あの時は、平山さんがまだ左半身(右半身だったか?)が不自由で、一人で歩くのが困難だったので、漫画研究家の本間正幸さんが付き添っていた。天空劇場から駅前の商店街まで一歩一歩ゆっくり歩いた。平山さんは、脳出血で倒れて、リハビリして復活したとおっしゃっていた。 
 私はその頃、中村錦之助の映画ファンの会を立ち上げたばかりで、2009年の十三回忌を前に「錦之助映画祭り」を企画中だった。私が平山さんに興味を覚え、平山さんのお話をいろいろ伺ったのは、「仮面ライダー」のことではなく、ほとんどが東映京都時代のことである。おそらく平山亨さんというと、「仮面ライダー」の生みの親の一人として有名で、ライダーファンからいろいろ質問攻めにあっていたようだし、その辺の話は多くの人がインタビューし、書き残しているかと思う。私は仮面ライダーの世代ではなく、ファンでもないので、私の質問はもっぱら、平山さんの助監督時代(つまり無名時代というか、下積み時代)のことに集中した。平山さんは、私のことを多分ずいぶん昔のことを訊くヤツだなと思ったにちがいなく、また「仮面ライダー」の話は平山さんも話し飽きていたと思うので、東映京都時代のことを楽しく話してくれたのだろう。
 平山さんとは初対面のあと、狭山のご自宅へ二、三度電話して、かなり長話をした。なにしろ平山さんという方は大変な話好きで、話し出したら止まらない。一回電話すると、最低一時間は話す。その後、私が「錦之助映画祭り」に際して「一心錦之助」という記念本を編集する頃に、平山さんの自宅へ電話すると、何度かけても不通になった。あれは確か、2009年の1月だった。実は、平山さんには記念本に文章を書いてもらうようお願いしてあり、平山さんも快諾していた。それが当のご本人が行方不明である。また入院でもなさったのだろうか、万が一のことがなければ……と心配していた。
 平山さんと再会したのは、2009年の秋だった。調べてみると、10月24日(土)。西日暮里に出来た戸野広浩司記念劇場の開館セレモニーでのことだった。戸野広浩司というのは、テレビ番組「快傑ライオン丸」(1972年)でタイガージョー役を演じて一躍人気者になり、同年25歳で事故死した若手俳優である。私はそんなこともよく知らないまま、石森史郎さんとダテ企画の伊達さんの両方から誘われて、行くことになったのだが、そこに主賓として平山さんが見えていた。その時、平山さんが新狭山の駅の近くのマンションに引っ越したことを知ったのだった。開館公演が終って、私は西日暮里の鮨屋へ平山さんを誘って、二人だけで二時間ほど話した。帰り際に大雨が降ってきて、平山さんを見送ったのを覚えている。
 
 平山亨さんは、東大文学部美学美術史学科を卒業後、昭和29年(1954年)に東映に入社した。大学学科とも私の大先輩である。生まれは昭和4年で東京出身(実際には名古屋生まれらしい)と聞いたが、お父さんが鉄道省に務めていたので、あちこち転居したようだ。成蹊高校から東大に入ったとのこと。
 平山さんが入社した頃の東映は、製作部に東大出身者がほとんどいなかった頃で、昭和28年正月に『ひめゆりの塔』が大ヒットしたものの映画会社としてはまだ二流だった。昭和29年からは少年向きの東映娯楽版が始まり、東映も発展を目指して新入社員を多数募集。平山さんは子供の頃からチャンバラ映画が好きで、講談社の少年倶楽部を愛読していたこともあって、東映に入社すると、時代劇の東映京都を希望し、助監督部に配属される。
 そこで、最初に製作にかかわったのが『笛吹童子』(三部作)だった。監督は萩原遼、チーフ助監督は小沢茂弘で、平山さんはサードかフォースの監督助手だった。一番下の、ほとんど使いっぱしりのような身分で、平山さんの話では目が回るほど忙しかったという。
 『笛吹童子』の大ヒット以降、東映の大躍進が始まるわけだが、平山さんの長い助監督時代もここからスタートする。錦ちゃん(中村錦之助)、千代ちゃん(東千代之介)、扇ちゃん(伏見扇太郎)、そして大友柳太朗主演の童子物や少年向き娯楽版などの製作に平山さんも参加。平山さんが東映の大御所・松田定次監督に師事するようになったのはそれからしばらく経ってからのことで、松田定次、松村昌治、そしてその下に平山亨という師弟関係が出来上がる。松村昌治氏が監督に昇進したのは昭和31年の『日輪太郎』からで、彼は中山文夫の名で松田監督作品の脚本も手がけるようになる。沢島忠氏が助監督時代、その下の助監督が平山さんということも多かったようだ。沢島監督の第一作『忍術御前試合』では、最初平山さんが助監督として手伝ったそうだが、途中で迷惑をかけ交替したという。
 平山さんが結婚したのは昭和32年で、お相手は松村昌治監督の妹さん(奥さんの妹さん?)だった。まだ、監督になれるかどうかも分からない頃に結婚したのだから、大決断だった。結局、9年半の助監督時代があり、その間、サード、セカンド、チーフ助監督と昇格して全部で百数十本の作品に関わったようだ。松田定次監督作品のほかにもいろいろな監督の手伝いをしたとのことだが、内田吐夢監督の『逆襲獄門砦』(昭和31年)にも助監督(サードかセカンド)で就いたと言っておられた。雪の中のロケ地(どこだったか場所は忘れてしまった)で撮影が大変だったそうだ。
 平山さんが監督に昇進するのは昭和38年9月で、『銭形平次捕物控』(里見浩太郎主演 同年10月公開)がデビュー作である。この映画にはお静役で入江若葉さんが出演している。湯殿か何かのシーンで若葉さんを脱がせようとしてイヤな思いをさせてしまったと平山さんが言っていた。監督作品は、この『銭形平次捕物控』と『三匹の浪人』(近衛十四郎主演、昭和39年2月公開)の二本だけで、それからまた助監督に逆戻りして、今井正監督の『仇討』(昭和39年11月公開)を手伝っている。この時は、今井監督の演出がなかなか決まらず、錦ちゃんが何度も演技をさせられるので腹を立て、平山さんが二人の間にはさまって苦労したという。
 その後、もう一本、『壁の中の野郎ども』(渡辺文雄主演)という映画を平山さんは監督するが、この作品はおクラ入りで、公開されなかった。平山さんの話では、この映画は実録物の現代劇で、牢獄の中の囚人を描いたヤクザ映画のハシリのような作品だったらしい。プロデューサーの中村有隣氏がこの作品が未公開になった責任を取って左遷されたとのこと。平山さんも間もなく東映東京に異動になる。それからテレビ番組の企画を担当するようになり、こうして平山さんの人生が転機を迎え、パッと大きく花咲くわけである。

 そのほかに、平山さんから伺った興味深い話を挙げておこう。
 テレビ番組の「仮面ライダー」が始まってしばらくした頃、恐れ多くも錦之助さんが悪役でも何でもいいから出演したいと言ってきたので、びっくり仰天したという。錦之助さんの息子が大のライダーファンで、「仮面ライダー」に出たらオヤジを偉いと認めてやるというので、出演依頼してきたらしいのだが、悪役は無理だし、錦之助さんの役を作るわけにもいかないので、平山さんが藤岡弘さんを連れて、藤沢の錦之助邸に伺って、謝ったそうだ。錦之助さんの息子は藤岡さんに会えて大喜びし、錦之助さんもオヤジの面子が保てて、満足した。
 「ゴレンジャー」は、歌舞伎の「白浪五人男」からヒントを得て作ったとのこと。
 
 平山さんと再会して間もなく、2009年11月の新文芸坐での錦之助映画祭り(パート2)には、平山さんが元子役の金子吉延さんを連れて、『宮本武蔵 巌流島の決斗』と『丹下左膳 飛燕居合斬り』を見に来てくださった。金子さんは、それぞれ伊織とチビ安の役をやっていて、金子さんが見たいというので、平山さんも付き合ってくれたのだった。打ち上げの会に、平山さんと金子さんを誘ったら、喜んで出席してくれ、錦ちゃんファンのみんなと歓談していたのをつい最近のことのように思い出す。
 その後、平山さんは、2010年夏、私が内田有作さんと新文芸坐で「内田吐夢の没後40年」を企画上映した時も、応援してくださった。同年11月、ラピュタ阿佐ヶ谷の「近衛十四郎特集」で平山さんが監督した『三匹の浪人』を上映した時に、平山さんといっしょに観た。幼い女の子が出て来るシーンでは平山さんが泣いていたのを覚えている。2010年12月、紀伊国屋ホールでの澤登翠さんの無声映画鑑賞会でお会いし、トンカツ屋へ行ってお話したのが、元気な平山さんと接した最後になった。
 2011年夏、新文芸坐での「昭和の仮面ライダー大集合」の上映会の時は、楽しみにしていた平山さんが病気で倒れてしまい、残念ながらいらっしゃれなかった。
 2011年12月には内田有作さんが亡くなり、2012年1月に中野サンプラザで行なわれた有作さんのお別れの会で、車椅子に乗った平山さんが見え、その時、握手したのが最後になった。
 
 平山亨さんは常に少年の純粋な心を持ち続けた人だった。少年の夢、冒険心、正義感、やさしさ、いたずらっぽさ……。平山さんは、子供たちが喜び、感動する作品の企画を絶えず考え、私が親しくさせていただいた晩年まで、いつも何か作りたいと言って、創作欲を燃やしていた。平山さんが企画について話す時のあの大きな目の輝きを私は決して忘れないだろう。


最近ビデオやDVDで見た映画

2013年08月01日 01時48分36秒 | 雑記
 8月1日(木)、午後五時、代田橋で映画監督の中原俊さんと待ち合わせ。駅前の小料理屋の二階でビール、日本酒を飲みながらいろいろなことを話す。気が付いたら、閉店の十二時だった。中原さんと二人で、同じ場所で七時間近く話していたわけだ。中原さんと会って話すのは今度が三度目。二年ほど前、私の高校時代の親友の佐藤徹君(元にっかつのキャメラマン)から中原さんを紹介された。彼には私が映画の企画をして初めてシナリオを書いた時に、相談に乗ってもらい、それから交友が続いている。この日も、私の書き直したシナリオのことや映画化実現に向けての作戦に関し、彼から意見を聞く。中原さんは佐藤徹君と日活入社が同期で、亡くなった映画監督の那須博之さんも同じ。中原さんと那須さんは私より一歳上だが、同世代。佐藤徹君は私が高校時代、8ミリ映画を作っていた頃キャメラをやっていて、一浪して日大芸術学部映画学科に入学。卒業後に当時日活ロマンポルノを製作していた日活に入り、キャメラ助手からキャメラマンになった。中原俊さんは私と同じ東大文学部で、彼は宗教学科、私は美学芸術学科だった。那須博之さんは東大経済学部。大学時代、私は映画研究会で、8ミリ映画を作っていたが、中原さんと那須さんとの付き合いはなかった。二人とも映画青年だったと思うが、実作はしていなかったようだ。当時の東大映画研究会の顧問は助教授時代の蓮見重彦氏だったが、私は蓮見氏に教わったこともないし、話したこともない。彼はすでに映画の評論を書き始めていたと思うが、その頃から難解な迷文で有名だった。私が映画研究会で自主映画を作っていたのは駒場にいた大学一、二年の頃で、部員は十数人いたと思う。私より二年上の本郷の学部にいた先輩たちが中心で、学園祭で自作の8ミリ映画の上映会をやっていた。部員で今でも付き合いのあるのは下里高行君で、彼は那須博之さんの親友だった。大学時代、私は那須さんと話した記憶がない。那須さんとは結局、知り合わないまま、彼が先にあの世へ行ってしまった。享年五十三歳。下里君は那須博之さんの奥さんの真知子さん(シナリオライター)とも親しく、それで一年半ほど前に那須真知子さんを私に紹介してくれたわけだ。つまり、還暦を過ぎてから、同世代の中原俊さんや那須真知子さんといった映画人と付き合って、酒を飲み交わして親しく話すようになった。それもこれも私が、青春時代の夢を追って、映画を作ろうなどと思い立ったからである。

 このところ洋画邦画の名作新作、いろいろな映画をビデオやDVDで見ている。
洋画では、ロジェ・ヴァディムの『輪舞』、ジョセフ・L・マンキーウィッツの『イヴの総て』、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』『素晴らしき哉、人生』、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』、ジョン・フォードの『怒りの葡萄』『静かなる男』。
 それぞれ感想をひと言。『輪舞』は男女愛の円舞曲のような映画で、男優・女優総出演だが、ジャン=クロード・ブリアリとマリー・デュボアが良かった。『イヴの総て』は、傑作で私の好みの映画。ベティ・デイビスもすごいが、可愛い悪女のアン・バクスターも良い。キャプラの『或る夜の出来事』は、「ボーイ・ミーツ・ガール」のロマンティック・コメディの手本。何度見ても面白いが、当時ゲーブルは三十二歳なのにずいぶん老けているし、コルベールも三十歳だったので、若々しさはない。婚期を逸した若い男女の恋愛映画のように見える。『素晴らしき哉、人生』は、最初と最後に神様が守護天使を地上に送る部分があって、とくに最後の方は長すぎるなといつも思う。ジェームス・スチュアートがクリスマスイヴに公金を失くして自殺をしようとするが、疑問を感じる。『アパートの鍵貸します』は、傑作中の傑作。こんな諷刺とユーモアとペーソスのある作品は二度と作れないのではないかと実感する。ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンの絶妙のコンビ。『怒りの葡萄』も傑作。アメリカの暗部である貧困社会と貧民に対する差別を痛烈に描き出したリアリズム映画の中でも、最高の作品の一本であろう。同じフォード作品でも『静かなる男』は、アイルランドの美しい風景と古き良き習慣を描いた佳作である。西部劇の主人公ではないジョン・ウェインの代表作。



 邦画の新作では、『阪急電車』が面白かった。が、この映画は原作に頼るところが大きく、テレビドラマ的だなと思う。有川浩のこのベストセラー小説も先日通読したが、ユーモラスなライトノベルで、登場人物はみなよくあるパターンの普通の人たちで、いかにも類型的であるのが気になるが、それで良いのだろう。この作家は良識派の社会人だなと感じる。降旗康男監督、高倉健主演の『あなたへ』は、なんで今更こんな映画を作るのかと疑問に感じる映画。滝田洋二郎の『天地明察』は、学芸会程度の時代劇。題材が映画に向いていない。脚本が悪い。監督の力量がない。『かぞくのくに』は、在日北朝鮮人の社会派ドラマだが、問題意識を深まめないまま、だらだらとドキュメンタリータッチを気取って描いただけの作品。主演女優の安藤サクラは、日本映画批評家大賞で女優賞をもらっていたが、あの個性は地のままなのではないか、この程度で賞をもらっていいのかという印象。
 昔の名画を観ていると、現代の作品のレベルの低さ(相当低い)を感じないわけにはいかない。


近況報告

2013年07月31日 00時17分33秒 | 雑記
 一ヶ月近く、杉並の自宅兼仕事場に引き籠っていた。いや、実を言うと、一年間ほど、ほとんどの時間、杉並の寓居で過ごしていた。一年前に私が書いたオリジナルシナリオが急に自分で気に入らなくなり、映画化する意欲が萎んでからというもの、宿願の「中村錦之助伝」の執筆にずっと専念していた。「錦之助伝」の前篇がほぼ完成して、さてこれからどうしようかと思っていた矢先。
 人との縁というものは不思議なものだ。私の映画の企画をずっと応援してくれていた落合さんという人がいて、この方はある芸能プロダクションのベテランマネージャーで、女優の星美智子さんのマネージャーでもあるのだが、この落合さんから六月初めに電話があった。私の書いたシナリオを読んで映画化に興味を持ったプロデューサーがいるので紹介しましょうという話である。
 プロデューサーと言っても映画界には有名無名、大物小物、ごまんといるから要注意だなと思いながら、6月7日(金)の夕方、渋谷の居酒屋「日本海」で落合さんからその人を紹介された。それが永井正夫さんというプロデューサーだった。永井さんは映画界に入って四十年、市川崑、今井正、篠田正浩、神山征二郎といった監督作品の助監督からプロデューサーに転向された方で、森田芳光監督のヒット作『失楽園』『武士の家計簿』のプロデュースを担当されていた。その日は、落合さんを交え、永井さんと三時間以上飲んで話したところ、再び私の企画を映画化しようという話が再燃。永井さんが前のシナリオをもっと良くすれば面白い映画になると思いますよと励ましてくれたのである。
 そこで、俄然やる気が湧いた私は、一週間かけて、シナリオを全面的に書き直した。早速永井さんに読んでもらったところ、大変褒めてくれて、これは映画になると思うからプロデューサーを引き受けましょう、シナリオを持って配給会社を回ってあげましょうとおっしゃるではないか。こうなると、私も欲が出て、さらに良くしようと思い、親しくしていただいている映画人(出演予定の石濱朗さん、映画監督の中島貞夫氏、シナリオライターの那須真知子さんほか)や私の知人(円尾敏郎さん、キャメラマンの佐藤徹君)にも読んでもらって意見を聞いて、二度三度と書き直した。
 そして、つい最近、自分でもある程度満足のいく決定稿に近いものが出来上がった。
 まだ映画化できるかどうかは分からないが、気分は晴れやかで、私もようやく隠遁生活をやめ、外に出て、あちこち行くようになったという次第である。

 7月24日(水)、横浜へ行く。渋谷の東横線の新しい駅がずっと遠くに移動してしまったので、井の頭線から乗り換えるとずいぶん歩くことになった。横浜のルミネの有隣堂で午後四時にシナリオライターの那須真知子さんと待ち合わせ。西口五番街の横浜珈琲館の二階(喫煙可)で、那須さんから私のシナリオについての感想を聞く。那須さんには第三稿あたりから四度ほど改訂稿を読んでもらったが、今度のはすっきりまとまって、一番良いと褒められる。タイトルを相談する。「ガラクタ区お宝村」がいいとのこと。五時過ぎに大学時代の友人の下里君がやって来る。しばらく喫茶店で歓談。那須さんがシナリオを書いた映画『北のカナリアたち』を見た感想を言う。去年この三人で飲んだ時、ちょうど『北のカナリアたち』が上映中で、下里君も私もまだ映画館に足を運んで見ていないと言って、那須さんを失望させた覚えがある。結局、下里君も私も封切りの時は見ないで、友人の那須さんに対しては申し訳ないと思っていて、最近DVDを借りて見てきたわけである。正直、主演の吉永小百合がどうだったのか、この映画の企画の大前提が疑問だったのではないか。これが下里君と私の共通の意見だった。下里君は穏健なので、手厳しい批判はしなかったが、私はかなり批判的な感想を述べたと思う。ただ、宮崎あおいと勝地涼が木の下で愛を確かめ合うシーンは大変良かったと言うと、那須さんもあそこは自分もとても好きだと言っていた。そのあと三人で飲みに行く。すぐ近くに「かのん」という名の洒落た飲み屋を見つける。六時ごろから十時過ぎまで四時間ほど話す。那須さんも下里君も私も同年代なので、共通の話題が多い。愛読した外国作家の話、その原作の映画のことを二時間くらい話す。モラビアの「軽蔑」とマンディアルグの「あの胸にもういちど」のことなど。
 十一時半過ぎに帰宅。

 7月26日(金)、午後三時ごろに下高井戸へ。歌人で女優の川上史津子さんからメールでお誘いがあり、アングラ劇を見に行く。今日が初日で彼女が出演するということと、水を使う芝居だという予備知識のみ。下高井戸シネマの30メートル手前に小さな地下劇場があり、六時半開場、七時開演とのこと。午後二時半に永福町の銀行で用事を済ませ、そのまま下高井戸へ行く。地下劇場の場所を確かめ、暇つぶしに下高井戸シネマで映画を見ようと思い立つ。ちょうど三時半から「ザ・マスター」という最近のアメリカ映画をやっていたので、中に入る。客は20名ほど。この映画、まったく予備知識なく見る。変な映画だった。戦争(太平洋戦争)で精神障害になった男が復員後、社会復帰できないで、深層心理療法をやっているカリスマ的な宗教家のもとに入信して、しばらく行動を共にし、最後は自立して社会復帰するというストーリー。主役の男がまるでピーター・フォーク(「刑事コロンボ」)のようだった。やや下品だったが、なかなかの熱演。深層心理学者の中年男の方は、ミスキャストだなと思った。平凡なオジサンで初めから胡散臭いだけ。わざとそれを狙って作ったのか分からず。この映画、不可解な回想シーンをアットランダムに羅列して、主人公のトラウマを描出しようとしているように思えたが、結局、最大のトラウマは、恋愛上の苦悩だったという陳腐な結論に落ち着いたようで、観客をさんざんもてあそんで、なんにもない映画だったというのが映画館を出た時の感想。
 アングラ劇の方は、劇団オルガンヴィトー公演、不二稿京(ふじわらけい=旧名藤原京)さんという元・唐十郎の状況劇場にいた女優さんが座長で作・演出の怪奇劇。タイトルは「幻探偵Ⅳ~縄文怨霊船~」。地下劇場は「不思議地底窟 青の奇蹟」という定員30名ほどの小劇場。
 最初の30分は面白かったのだが、話が日本誕生神話になってから退屈になり、いささか眠気を催す。映画と違って、芝居というのはセリフ過多なので、役者の言葉を聞くための集中力と忍耐力を要する。狭くて窮屈な上、尻が痛くなる、タバコが吸いたくなる始末。
 川上史津子さんは、最初は女科学者で、その後がヤマト姫なる巫女さん。彼女の芝居も三度か四度見たが、今度のヤマト姫が一番女らしくて綺麗な役だった。
 芝居がはねてから、劇場内で小宴会があり、出演者とお客さんの数人が残って、飲んだり食べたりしながら感想を話し合った。川上さんに誘われ私も参加。初日なので、正直な批評は言いづらく、分からなかった点や気になった点だけを出演者の保村大和さんに質問する。座長の不二稿さんがお疲れのところ、私の目の前で鉄板で茄子味噌やもやし炒めを作っていたので、お手伝いする。エビピラフ、餃子は私が作ってさしあげる。
 夜中の12時過ぎまで宴会は続いた。最後までいたのは四人で、私を含め皆、下高井戸から家まで歩いて帰れる人ばかりだった。トロンボーン奏者の及川芳雄さんという方といろいろジャズの話をした。