背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

「殿さま弥次喜多」

2006年01月11日 02時29分57秒 | 日本映画

 浅草へ行ってきた。浅草名画座という所で、古い東映映画「殿さま弥次喜多」(1960年)を上映しているという情報を得たからだった。実は日曜にも浅草へ行ったのだが、夕方映画館の前に着いて上映時間を見ると、目当てのこの映画はすでに終わっていた。三本立てなので、一日二回しか上映していないのだ。前もって時間を確かめて来れば良かったと後悔したが、仕方がない。その日は寄席の浅草演芸ホールに行って初席を見た。正月だけあって、超満員だった。顔見世公演だから、演者が次から次へと出て来る。しかし、大看板の柳家小三治が与太郎噺を、三遊亭金馬が「ちりとてちん」をじっくり演じてくれたので、これで大満足。その日は初笑いを楽しみ、十分幸せな気分で帰ってきた。
 そして今日また浅草へ行って、「殿さま弥次喜多」を見た。主演は、中村錦之助と実弟の中村賀津雄。これは同じタイトルのシリーズ(怪談道中、捕物道中に続く)最後の第三作目で、共演は美空ひばりと丘さとみだが、東映の看板スターである錦之助とひばりの、まさに黄金コンビの映画だった。監督は沢島忠で、時代劇にサイレント映画のスラップ・スティックを詰め込んだ痛快娯楽活劇とでも言おうか。時代は徳川治世の江戸、話はこうだ。八代将軍の跡継ぎの二人、尾張の殿様が錦之助、紀州の殿様が賀津雄なのだが、この若い二人は大変ウマが合う。城を抜け出し町民に成りすまして遊んだこともあり、互いに弥次さん・喜多さんと呼び合う仲なのだ。二人は江戸城にのぼる途中で、行列の駕篭から逃げ出し、江戸の町に忍び込む。江戸は、越前の幼い殿様を担ぎ出す大老一派の画策もあって、将軍の跡継ぎ問題で大騒ぎ。かわら版の多くの発行者たちも特ダネ探しで躍起になっている。版元の一人が美空ひばりで、ひょんなきっかけから、殿様の弥次・喜多がそこで働くことになる。そして、ライバルの版元との争いに巻き込まれたり、殿様を探し回る家来たちや悪者の大老一派に追いかけられ、二人の殿様の大立ち回りが始まる。暴れたり、逃げたり、もう大変なことになる。
 ともかく、アイディア満載の面白い映画だった。アメリカ映画のパロディーもあちこちに出て来る。二人を乗せた荷車が馬に引っ張られ、田舎道を疾走していくシーンはフォードの「駅馬車」を思わせるし、殿様(錦之助)とかわら版の女記者(ひばり)が恋仲になるという設定も、「ローマの休日」の王女様と新聞記者の男女逆ヴァージョンになっている。他にもいろいろありそうな気がするが、この映画の素晴らしい点はそれを工夫してちゃんと日本の時代劇に仕立てたことだ。セットや小道具も凝っていて、エキストラも多く、古き良き東映黄金時代でなければ出来ない作品だとつくづく感じた。
 ビデオでは東映時代劇をよく見ているが、映画館で見たのは何年ぶりだろうか。多分40年ぶりかもしれない。横長の画面、総天然色の色合いなど、幼少の頃親しんでいた東映映画そのもので、途中でもう懐かしさがこみ上げて、私は目頭が熱くなってしまった。
 最後に、この映画の出演者たちについて触れたいと思う。錦之助は明るく元気も良いが、この頃(1960年)になると風格も備わっている。賀津雄はまだ若く、やはり見劣りする。当時もずっとそうだったが、スターの雰囲気が足りない。しかし、その頼りなさがかえって錦之助を引き立てていたとも言える。ひばりはさすがだと思った。セリフも演技も一流女優だ。実は私は、歌手としてよりも、女優美空ひばりのファンだった。日本人女優で最初に私が好きになったのがひばりだった。

丘さとみは相変わらず可愛かった。ぽっちゃり美人で、現代ではこのような大福餅みたいな顔の女優はまれだと思う。彼女はヤキイモ屋の役で、賀津雄と恋仲になるが、この二人のシーンは特に良かった。家来役の田中春男、千秋実は絶妙な脇役ぶりで、文句なし。大河内伝次郎は昔日の面影なし。ここまで堕ちた役をやっているのをあわれに思った。家老役の杉狂児、渡辺篤は両者違ったとぼけた味を出し、熱演。他にも顔なじみの脇役陣ばかりだった。名前は忘れたが悪大老役の俳優など、忘れたくても忘れられない顔つきで、東映時代劇にはなくてはならない存在だったなー、と懐かしく感じた。
 明日からは同じ浅草名画座で錦之助の「沓掛時次郎」を上映する。これは股旅映画の名作で、以前このブログでも取り上げたことがある。私はこの映画が好きで、すでに5、6度は見ているが、ビデオでしか見たことがなかった。またぜひ映画館へ行って見たいと思っている。

「仁義」と「フリック・ストーリー」

2006年01月04日 12時46分14秒 | フランス映画
 正月にアラン・ドロンの映画が見たくなって、70年代初めの映画を4本ビデオで見た。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」と「リスボン特急」、ジャック・ドレー監督の「ボルサリーノ」と「フリック・ストリー」である。すべてギャング映画で、アラン・ドロンは、「仁義」と「ボルサリーノ」ではギャング役を、「リスボン特急」と「フリック・ストリー」では刑事役を演じている。
 作品の出来から言うと、「リスボン特急」は駄作だった。画面構成が冗長で、ストリーも矛盾しているため、途中から退屈になった。カトリーヌ・ドゥヌーヴがチョイ役で出ていたが、看護婦に変装して、負傷した仲間のギャングを殺すところだけが良かった。
 「ボルサリーノ」は、アラン・ドロンがジャン=ポール・ベルモンドと初共演したことで当時話題になった映画で、私は日比谷映画のロードショーで見たことを覚えている。ベルモンドの方がドロンよりずっと良かったというのがその時の印象だったが、今度も同じように感じた。ドロンは、ベルモンドを意識したためか、格好の付け過ぎで、それが嫌味ったらしく見えてしまった。ドロンはベテラン俳優(たとえばジャン・ギャバン)と共演した方がずっと引き立つと思う。この頃似たようなギャング映画に「明日に向かって撃て」(ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード共演)があったが、こちらの方が素晴らしかった。

 「仁義」は今にして思うと、題名が東映ヤクザ映画(「仁義なき戦い」は後年の作)みたいだが、当時は違和感を覚えなかった。メルヴィルには前作に同じくドロン主演の「サムライ」があり、その流れで「仁義」という邦題を付けたようだ。が、原題は「赤い輪」(Le Cercle Rouge)で、映画の初めに釈迦のことばの引用がある。「赤い輪」とは人間の奇縁を意味するらしい。映画の前半は、出所したばかりのアラン・ドロンと護送中に列車から逃亡した凶悪犯とが偶然出会うまでを描いているが、メルヴィル独特の緊迫感に満ちたシーンが展開していく。後半は、この二人が腕利きの元刑事(イヴ・モンタン)と組んで宝石店に侵入する話である。前後半を通じ、逃げられた凶悪犯を追跡する刑事(ブールヴィル)が登場するが、深夜に帰る自宅のアパートで、彼を待っている三匹の猫にエサをやるシーンが印象的だった。「サムライ」では籠の鳥が出てきたが、孤独な男の描写をするときにメルヴィルは好んでペットを使うようだ。「仁義」はカラー映画なのだが、青い靄のかかったモノトーンに近い。フランスの風景はこうした色調にぴったりで、静寂感が緊張を高めていた。メルヴィルの映画は極端なほどセリフが少なく、絵(画面)で見せるところが特長だが、「リスボン特急」のように退屈を感じることもある。が、「仁義」はこれがうまく成功し、見飽きることがなかった。この映画は、メルヴィル晩年の秀作だと言えるだろう。
 「フリック・ストリー」(Flic Story)を見たのは多分今回が5度目かと思う。私の好きな映画である。70年代のアラン・ドロンが主演した映画では、傑作の一つだと思う。フランス語でフリック(flic)とは、「警官」「刑事」の俗語で、「ポリ公」「デカ」にあたる。アラン・ドロンはフランス国家警察のスーパー刑事役で、極悪非道な凶悪犯役のジャン=ルイ・トランティニアンを捜索し、追い詰めて逮捕する話である。この映画ではアラン・ドロンもいいが、トランティニアンが最高にいい。その冷酷な無表情は鳥肌が立つほど恐ろしく、あの映画「男と女」の主役のトランティニアンとは似ても似つかぬ変貌ぶりなのだ。この凶悪犯、強盗殺人を繰り返すだけでなく、裏切った思った仲間も容赦なく次々と殺してしまう。逃げ足も速く、なかなか捕まえられないのだが、最後にドロンが居場所を突き止める。この田舎のレストランでのラスト・シーンは秀逸である。ドロンの美しい若妻役がクローディーヌ・オージェで、彼女も逮捕に一役買う。オージェと言えば、007のボンド・ガール(「サンダーボール作戦」)で有名だが、「フリック・ストリー」の彼女は紅一点、実に引き立っていた。同僚役の刑事、所長、ギャング仲間みな個性的で、共演者も助演者も適材適所で、ぴったり映画の中にはまっていると感じた。良い映画というのは本来そういうものだろう。最後にドロンが調書を取るためにトランティニアンと面会するシーンが付け加えられるが、これが大変印象的だった。互いに交流がなかった刑事と凶悪犯とが逮捕の後で人間的に結びついて行く。「フリック・ストリー」は何度見ても、見飽きない映画である。