背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『下町(ダウンタウン)』

2014年03月02日 21時12分51秒 | 日本映画
 先月の18日、新文芸坐の三船敏郎特集で千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』(1957年東宝)を見た。
 終戦後の荒廃の中で生活描写は暗いが、人間味溢れる良い映画であった。
 映画を見始めてすぐに、以前林芙美子の原作を読んだことがあるのに気づいた。お茶の行商をやっている主人公の山田五十鈴が、川べりのバラック小屋を訪ねて、三船敏郎に会い、ストーブに当たらせてもらうシーンを見た時である。原作は短篇小説で印象深いものだったが、細部は忘れてしまった。
 原作とシナリオないし出来た映画を比較することはあまり意味のないことだとも思うし、観客としては映画は映画として鑑賞すればそれで良いことなのだが、邦画の場合、とくに文芸作品の映画化の場合には、原作と映画との比較にもかなり興味を覚える。原作のストーリーや登場人物の性格、心理、行動などをどのように映像化したか、また、それが成功したか失敗したかということも気になる。まあ、原作を読んで感動してから映画を見ると、ほとんどの場合、成功していないと感じ、がっかりするのであるが……。
 『下町』については、原作を再読するつもりはないので、映画を見た感想だけを書いてみたいが、文芸作品の映画化にしては十分成功した部類に入ると思う。

 まず、ファーストシーンがいい。ボロ長屋の路地をどぶ板をまたぎながら、もんぺ姿に荷を背負った女が、「静岡のお茶はいかがですか」と言いながら、売り歩いている。しかし、次々と断られていく。キャメラは、女の後ろ姿だけを映して、女の歩みに合わせて移動する。
 その後、山田五十鈴の疲れた表情が映って、川べり(荒川)のバラック小屋を見て、半ば諦め気分で入っていく。そこに、人足のような三船敏郎がいて、女の行商の身の上に同情し、ストーブに当たれとか、弁当をここで食べてもいいとか、親切にしてくれるわけである。しまいには、お茶を買ってくれて、やかんに入れて二人で飲むことになる。



 山田五十鈴はすごい美人でもなく、子供を抱えた年増の女は適役で、三船も土方や人足の役にぴったりで、女にはウブな感じもあるので、キャスティングは申し分ない。山田は、シベリアから帰らぬ夫を待つ身で、小学生の男の子がいる。三船はシベリアから帰って来たが、新しい男の出来た女房に逃げられ、バラック小屋に住んでいる。
 山田が下宿している古い二階家の住人たちの描き方もいい。こうした設定は確か原作にはなかったので、シナリオライター(笠原良三と吉田精彌)が創り出したものである。場所は玉の井のはずれかと思う。女主人(村田知栄子)は山田の学校時代の友達なのだが、二階の一室に住まわせた派手な若い女(淡路惠子)に売春をやらせている。その隣りが山田親子の部屋で、山田と淡路惠子が相憐れんで親しくする関係もうまく描けている。家の男主人(田中春男)は、ほかに女でもいるらしく、たまにしか帰って来ない。家には売春を斡旋する男(多々良純)が出入りしていて、女主人と関係があるようだが、山田を自分のものにしたがっている。それを察知した女主人が生活に困っている山田に売春を勧めるわけである。
 この映画の見せ場は、山田親子と三船が浅草へ遊びに行って、夜、映画を見た後、大雨に会い、近くの安宿に泊まるシーンである。



 逆さクラゲの連れ込み宿の情景がなんともわびしく、男の子を真ん中にはさんで、川の字に寝た夜中に、三船と山田が関係を持つまでのシークエンスが大変良い。ただ、夜食にラーメンを注文して、「ラーメンがまずい」というセリフと、ラーメンの丼を点景に加えたカットは、陳腐で不必要だった。ラーメンなんかなくても、十二分に寂寥感は伝わっていたし、この部分をカットすれば、稀有なラブシーンとして演出もキャメラもカット割りも最高に近いものだったのに、残念であった。
 問題は、この映画のラストシーンであった。ドラマチックに終らせようという作為が見えすぎるし、また、映画を無理矢理終らせようとした感じがして、興ざめした。結局二人が別れるにしてももっとうまい終らせ方はなかったのだろうか。1時間弱の映画だったので、あと20分くらい加えて、もうひとひねりしてほしかった、とつくづく感じた。

   

『充たされた生活』

2013年10月30日 22時39分23秒 | 日本映画
 10月27日(日)、ラピュタ阿佐ヶ谷で『充たされた生活』を観てきた。監督羽仁進、主演有馬稲子。共演は、アイ・ジョージ、田村高廣、原田甲子郎、山本豊三、佐々木すみ江ほか。
 内容は、タイトルとは逆に「充たされない生活」といったもの。結婚三年でキャメラマンの夫と別れた二十代後半の美しい女が、以前に入っていた劇団に復帰し、安アパートで一人暮らしをしながら、第二の人生を歩み始めるといったストーリー。既成のドラマチックな構成をとらず、一貫してドキュメンタリータッチで、明らかにフランスのヌーベルヴァーグに影響されて撮ったと感じられる映画であった。観る前はそれほと期待していなかったが、予想以上に興味深く観ることができた。
 前半は面白かった。有馬稲子とアイ・ジョージの、これが夫婦なのかと思うような不思議な関係に惹き付けられた。とくに、すぐにシャツを脱いで上半身の筋肉を見せたがる小男のアイ・ジョージが良く、妻の有馬にとってはセックスパートナーにすぎない男なのだが、下手なウソをついたり、ホラを吹いたり、可愛げがあって憎めないのだ。別れ際に女に未練を残し、駅のホームでいじいじしているところなどは憐れっぽい。この映画には犬がたくさん登場するが、彼はあちこちで浮気をしている野良犬の雄のようなのだ。彼が有馬と別れてしばらくしてから有馬の安アパートを探し当て、ぶらっと訪ねて来る場面もユニークで良かった。
 それに対し後半は、陳腐に感じた。演出家の中年男(原田甲子郎)が胡散臭く、安保反対闘争で自己欺瞞を感じ、真剣に悩んでいる男にはとても思えなかった。ラストは、この演出家と結ばれ、なーんだという感じだった。後半は、食い足りなさをところどころに感じた。有馬稲子はこれで精一杯なのだろう。今までの有馬稲子のイメージを壊すような大胆な演技も見せていたが、あと一歩吹っ切れていないなというのが正直な感想。激しい心の揺れ動きが見えず、ちょっと常識的すぎる女になっていたので、行動に魅力を感じなかったのである。有馬稲子に左幸子のような演技を求めても無理な話であろう。監督の羽仁進も遠慮したというか、演出の生ぬるさが目立った。ドキュメンタリータッチで描いたとしても、もっと濃密な描き方をしないと、生身の人間は表現されない。この映画の主題は、男と別れたあとの女の生き様を描くことなのだから、前半で欲求不満と倦怠を感じて一人になろうと決意した女をヒロインとして設定したのであれば、後半は、一人暮らしの女の欲求のはけ口とか生活費の捻出だとかをもっとリアルに描かなければならなかった。
 また、アパートの隣りの部屋に住む全学連の若者(山本豊三)や劇団の男優(田村高廣)のヒロインに対する接し方も、ありきたりで、折角登場したのになんにもないまま引っ込んでしまったのは疑問に思った。全学連の若者が頭に怪我をして、有馬稲子に包帯を巻いてもらう場面があったが、あそこでは襲いかかるくらいのことがないとダメだろう。劇団の男優も良識的な紳士では詰まらない。プロポーズして断られても、ストーカーのように追いかけ回さないと見ているほうは納得がいかない。結局、ヒロインに性的魅力がないということになって、映画の中で有馬稲子も生かせない結果に終ってしまったように思う。


『わたし出すわ』

2013年08月30日 18時43分51秒 | 日本映画


 『わたし出すわ』(2009年)は、森田芳光のオリジナル脚本による監督作品。その前に彼は黒澤明の『椿三十郎』のリメイク版を作っているが、私は未見である。私の入っているチャンバリスト・クラブ(チャンバラ愛好家の集まり)で森田監督の『椿三十郎』を観た人の話を聞いたことがあるが、その評判はいたって悪く、結局私は観ないままになってしまった。が、やはり自分の目で見て、今度その良し悪しを確かめてみようと思っている。
 『わたし出すわ』は、タイトルも変わっているが、映画も不可思議で、何を描きたいのか訳の分からない作品だった。タイトルと主役の小雪に惹かれて見に行った人が、キツネにでもつままれたような気分になって映画館を出たことであろう。
 アイディアと撮りたい映像を脈絡なくつなげただけの支離滅裂な映画とでも言えばよいのか、あえてそういう映画を狙って作ったにちがいないと思うが、失敗するのが分かっていて失敗したような映画だ。どうしてこんな映画を作ったかは、森田芳光が死んだ今では謎のままである。
 一人のミステリアスな女が郷里の函館に帰ってきて、高校時代の友人たちと再会し、惜しげもなく大金をばら撒き、また東京へ帰っていくという話である。フランス映画の『舞踏会の手帖』のような設定だが、帰郷が約10年後で、友人たちはそれほど変わっていない。拝金主義の現代日本を諷刺している作品かと言うと、そうでもなく、大金をもらって友人たちの生き方まで変わっていく悲喜劇かと言うと、そうでもない。冒頭にジョン・ウェスレーとショーペンハワーの言葉が出て、金銭欲や物欲を戒める格言が映画のテーマと思いきや、内容はテーマとは程遠く、脚本も練らずに中途半端で場当たり的に作った映画にすぎなかった。
 高校時代の友人は男三人、女二人で、この五人がみな、まともすぎて詰まらない。路面電車の運転手は平凡、マラソンランナーは真面目すぎ、魚の研究者はアクの強さが今一歩、玉の輿に乗った美貌の女は個性が足りず、愛犬を飼っている主婦(小池栄子)も常識的だった。それに主役のマヤ(小雪)がそれほど魅力的でもミステリアスでもないので、大金をみんなに配るという非常識な設定がまったく生かされず、そのあとも当たり前な展開と唐突な事件が交錯し、見ている側に疑問だけを重ねていく。つまり、喜劇にも諷刺劇にもミステリーにもなっていない。むしろ青春回顧ドラマといった感じがした。面白かったのは、小池栄子の亭主で、箱庭協会の会長になるくだりだけだった。
 その他の登場人物では、仲村トオル、永島敏行、藤田弓子、加藤治子が私の知っている顔ぶれだが、それぞれの役も不可解で、ストーリーとの関連性はない。
 マヤ(小雪)の母親が植物人間で、病院のだだっ広い個室で、無言の母親と尻取りをする場面が何度か出て来て、最後は突然母親が口をきいて尻取りの相手をするようになるので唖然とするが、ここも森田芳光のアイディアだけで、ストーリー中に脈絡なく挿入されていた。
 この頃、森田芳光はスランプで、分裂症気味だったのではなかろうか。映画自体に目的も方向性もなく、ただ迷走しているだけだとしか思えなかった。

 

『解夏』

2013年08月30日 14時13分23秒 | 日本映画


 『解夏』は「げげ」と読み、仏教の言葉だという。映画の中で老僧役の松村達雄がその意味を説明しているので私も初めて知ったのだが、坊さんが梅雨時に寓居にこもって修行を始めることを「結夏」(けつげ)といい、修行を終えることを「解夏」と言い、修行期間中を「夏安居」(げあんご)と言うそうだ。
 で、この映画は、東京で小学校の教師をしていた青年(大沢たかお)がベーチェット病(この病気も私は初めて知った)にかかり、母(冨司純子)の暮らす郷里の長崎に帰って、ついに失明するまでのストーリーである。発病から失明までの苦行の期間を夏安居とし、失明する日を解夏にたとえて、タイトルにしている。この青年には婚約者の恋人(石田ゆり子)がいる。彼女は長崎までやって来て、青年の実家に同居し、彼を見守り彼を支えながら、その愛を確かめ合っていく。原作は、さだまさしの同名小説である。
 私はこういったストーリーを真面目に作った映画は苦手である。あまり見たいとも思わないのだが、何も知らずにDVDを借りて見たら、そういう映画だった。恋愛関係にある男女の片方が重病にかかって、二人の愛が深まっていくといった内容の映画は、作品の出来ばえによっては感動を覚えることもあるが、途中で付いていけなくなり、うんざりする映画がほとんどなのだ。『解夏』という映画を観た感想を言えば、やはりこの映画もその一本であった。『世界の中心で、愛を叫ぶ』もそうだった。『ツレがうつになりまして』は、男女が夫婦で、夫の病気がうつ病だったが、似たようなパターンの話にしては、感心するほど実にうまく出来ている映画だった。
 『解夏』の原作の成立事情は良く知らない。モデルとなった実在の青年がいたのかもしれない。さだまさしがその青年のことを知って、フィクションを加えて小説にしたようにも思われる。が、原作を読んでいないのでその点はなんと言えない。しかし、映画を観た限りでは、ドラマ仕立てにしたあちこちが気になって、そのウソっぽさが目立ち、観ていて、どうしてもシラけた気分になってしまった。作り手は、決して観客のお涙頂戴を狙う意図を持っていたわけでなく、真面目に描こうと懸命になって作ったのだと思う。が、その真面目な姿勢が、逆にフィクションの罠にはまる原因になってしまったのではなかろうか。ドラマに入れ込みすぎるあまり、自分たち(製作スタッフや俳優)の感動を伝えようとして、一人相撲を取ってしまったと思えてならない。ウソをまことしやかに描くことほど難しいことはない。映画を観ていて、ウソっぽさが目立つようでは人間の真実も隠れてしまうし、何の感動も伝わらない。とはいえ、これは、『解夏』という映画を観て、あくまでも私が感じたことであり、観客にはウソっぽさを感じず、感動した人も多かったのかもしれない。
 『解夏』(監督磯村一路)を見ていて、私が首をかしげた箇所をいくつか挙げておく。
 神宮外苑の絵画館に飾ってあった長崎の風景画が重要なモチーフになっているのは良いとして、主人公の青年が婚約者を長崎から追い返してしまったあと、東京へ連れ戻しに行って絵画館の前で婚約者に出会うシーン。ここなどはまるでメロドラマのご都合主義である。
 小学校の教え子たちから長崎に手紙が来て、婚約者が青年に代わって、一つ一つ読み上げるシーン。青年が教師としてどれほど生徒に慕われていたかを示すところであるが、描き方がいかにもわざとらしい。
 婚約者がなぜモンゴルへ行っていたのかもよく分からないが、父親から青年の発病を知らせる手紙をもらったらしく、急に帰国して青年のアパートを訪ねるシーン。この二人が婚約関係にあるとは思えないほど、よそよそしい。これは演出の問題であろう。
 この映画ではほかにも、二人の距離感が気になり、男女の愛を描いた作品になっていないと感じた。長崎にやって来た婚約者が青年の実家に同居して(姉の空いた部屋に住む)、研究論文を書くことになるのだが、同じ屋根の下で暮らす二人の関係がまったく盛り上がらない。船に乗って海へ出たり、丘へドライブにいくことはあっても、キスシーンすらなく、ましてベッドシーンもない。奇麗事だけで性愛の匂いすら感じられない。青年はインポでもあるまいし、二人でラブホテルでも行きなさいと言いたくなった。もし青年が失明するのなら、いちばん目に焼け付けたいのは、長崎の景色より、愛する婚約者の顔であり、その裸の姿ではあるまいか。
 長崎の風景や色とりどりの花を美しく撮影するのも良い。また、登場人物たちの話す長崎弁を懐かしく聞かせるのも良い。が、それは映画の単なる背景であり、枝葉の部分なのだ。この映画は長崎の観光映画ではないのだ。また、ストーリーや登場人物の設定も二次的なことと言えよう。本質的なテーマは、婚約関係にある男女の愛のきずなであろう。このドラマの中心に焦点を合わせず、あちこちに描写が拡散して、肝心の二人の関係を濃密に描いていないことがこの映画の最大の欠陥だった。見ていて私は、青年役の大沢たかおにも、恋人役の石田ゆり子にも、共感が持てなかった。この映画で大沢たかおが主演男優賞をとるほど素晴らしい演技をしているとも思わなかった。石田ゆり子にも魅力を感じなかった。二人の愛は不完全燃焼のまま、気が付いたら青年が失明し、あっけなくこの映画は終っていた。


『ツレがうつになりまして』

2013年08月29日 17時53分53秒 | 日本映画


 前々回の終わりに、「現代に生きる普通の人間を人間らしく淡々と描いて、感動と共鳴を覚えるような作品に出会いたいものである」と書いたが、『ツレがうつになりまして』(2011年 佐々部清監督)はまさにそういった作品で、感心しながら観た。最近DVDを借りて観た新作の中では、3本の指に入る私好みの佳作であった。(あとの2本は、『ゲゲゲの女房』と『間宮兄弟』である)
 まず、映画の構成がしっかりしていて、最初からの30分、中盤の60分、ラストまでの30分のそれぞれが飽きないように巧く作られていた。ストーリーはシンプルで、主な登場人物は二人。結婚五年後の若い夫婦だ。子供はいない。その夫の方が急にうつ病になり、愛する妻が夫を支え、一年半ほどしてようやく夫のうつ病が快方に向かうまでの話である。なんのことはない、現代社会ではかなり卑近な事件を夫婦生活を中心に描いただけの映画だった。
 夫は外資系のコンピューター会社のサポートセンターに勤める真面目なサラリーマン。高崎幹男といい、堺雅人が演じている。妻は売れない漫画描き。のんびり屋で朝寝坊。家事が得意でなく、主婦向きではない。高崎晴子といい、宮崎あおいが演じている。
 シナリオも監督の演出も大変良いのだが、堺雅人と宮崎あおいの二人がこれ以上望めないほど良かったことが、この作品を面白いものにしていたと思う。とくに堺雅人という俳優は、『武士の家計簿』もそうだったが、ほわーっとした独特な雰囲気があり、何かを持っている得がたい俳優だと私は思うようになった。この2本しか、彼の出演作は見ていないのだが、天性の素質がある気がする。宮崎あおいは、引っ張り凧の女優のようだが、作品によって合う合わないがあり(時代劇は疑問)、出来不出来の差が激しいようだ。と言っても、私はまだ彼女の出演作を4本しか見ていない。
 「ツレがうつになりまして」は、細川貂々(てんてん)という漫画家が描いたエッセイ漫画が原作だそうだが、私は寡聞にして詳しいことを何も知らない。ちょっと調べてみると、実話なのだという。そして、2006年にこの作品を発表するや、大ベストセラーになったようだ。「ツレうつ」という略語まで出来たという。そういえば、なんだか聞いたような気もする。テレビドラマにもなったらしいが、私はほとんどテレビを見ないので、知らない。
 してみると、映画は、原作の面白さに相当依存していたのだと思えてくる。原作ありき、なのだろう。とくに原作が漫画の場合は、表現法が映画に近いので、シナリオ化しやすいと思う。すでにテレビドラマがあったとするなら、映画はそれの改良版なのかもしれない。
 『ツレがうつになりまして』という映画をほとんど予備知識がないままに見て、イイ映画だなと私が感心したことも、そんなことを知ると、褒めたい気分がだんだん冷めてくる。
 そういえば、『ゲゲゲの女房』もまったく同じ流れで出来た映画だった。
 最近の邦画を観て思うことは、原作のないオリジナルシナリオ(監督と脚本家の合作)から作った映画がほとんど見当たらないということである。原作はなんとか賞を取った小説だったり、ヒットした漫画だったりして、映画の企画がまずテレビ局や広告代理店で持ち上がり、プロデューサーが、マニアルに通じたシナリオライターに脚色を依頼し、主なキャスティングも決めて、適当な映画監督を指名して映画化するパターンが多い。つまり、映画製作が分業化してしまい、映画監督の主体性とか作家性とかオリジナリティが薄れてしまったようだ。そして、もう一つの流れは、昔ヒットした名作のリメイクである。リメイクで前作を上回る出来ばえの映画など、あるのだろうか。前作を見たことのない若い人たちが見て、すごいと感心することはあるかと思うが、その程度のことにすぎない。
 前回取り上げた『の・ようなもの』は、原案・脚本・監督そしてキャスティングも森田芳光が一人でやった映画だが、そんな監督の個性むきだしの映画は、自主製作映画を除き、最近の劇場公開作品では稀なのかもしれない。