嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

越畑城址之略記 莊寛・莊國太 1944年

2009年02月28日 | 越畑

   越畑城址之略記
 今回越畑城址建碑に対し概略を述べます。曩(さき)に昭和十三年(1938)莊寛、埼玉県北足立郡戸田村新会観音寺職御嶽隆道師並埼玉県歴史編纂嘱託稲村坦元先生に嘱して莊家の系譜を修成しました。同十七年(1942)3月莊國太祖先の三百年祭を挙行したるに當り偶然大泉青年学校長青木義夫氏の郷里比企郡七郷村而(しか)も同氏所有の地に越畑城址のある事を知り茲(ここ)に始めて建碑の挙に出ました。即ち同年十一月青木校長の導により稲村先生の来村を請ひ城址踏査をなし其御察力に依り事證を得ました。即ち先生の斡旋により県翼賛壮年団長陸軍中将渡邊閣下の御揮毫を賜り城址の記は稲村先生の撰並に謹書であります。
 本日除幕式に際し県翼賛会並に比企郡支部文化協会尚本村の御賛助を仰ぎ盛大なる挙式の出来ました事は誠に感激に堪へざる処御臨席の諸賢に対し深甚の謝意を表する次第であります。
 昭和十九年一月
                         莊寛
                         莊國太
                         莊家一同

   後記
莊式部少輔行秀ハ小田原北條ノ家宰トシテ天文年中ヨリ天正ノ始ニ至ル迄小田原城ニ居住元亀二年(1571)十月其主左京大夫氏康卒後老臣松田尾張守憲秀ト議合ズ郷里越畑城ニ退隠偶々天正十八年小田原ノ役其子和泉守秀永以下士卒ヲ率テ鉢形城応援トシテ馳向フ時已ニ開城続テ松山城モ陥入ルニ及ビテ當城ヲ退キ一族旧領ナルニヨリ新座郡橋戸ノ里ニ移るル時乱後土民山野ニ隠遁シ土地荒廃ス直ニ開拓ニ志ス即関東郡代本多佐渡守伊奈備前守ニ目安箱ヲ■ゲ開発ヲ願上ゲ軈(やが)テ御許容アリ且東照公ヨリ行秀父子當國由緒ノ者故當家ニ仕ヘ奉ル可キ上意アリシモ辞シ奉リ当村並白子村足立郡新曽村ヲ開発ス
慶長二年(1597)四月東照公放鷹ノ砌(みぎり)御立寄アリ村治ノ功績御嘉尚アリテ父子拝謁ヲ賜ヒ且苗字帯刀ノ免許アリ後長男兵庫秀重ヲ當橋戸ニ停メ二男又右衛門三男喜兵衛秀安以下ヲ率テ新曽村ニ移リ父子協力シテ一寺ヲ開基ス號シテ龍寳山観音寺ト稱ス行秀元和八年(1622)六月二十九日卒ス秀永剃髪シテ道覚ト號シ寛永十七年(1640)十月二十四日卒セリ
子孫板橋区大泉足立郡新曽ニ居リ代々祖先ノ遺業ヲ継承シテ土地開拓ニ専ラニシテ連綿トシテ今日ニ至レルナリ
 昭和十九年一月
                          莊國太謹誌


※「越畑城址之碑」の裏に刻された稲村坦元「越畑城阯の記」が書かれたのが1943年(昭和18)9月、石碑の除幕式が行われたのは、翌1944年1月である。