嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

発掘調査で菅谷館跡西側の鎌倉街道跡は堀跡と判明 1983年

2008年12月18日 | 千手堂

   鎌倉街道 実は堀跡 嵐山町の菅谷館跡近く
 坂東武者が「いざ鎌倉へ」とはせ参じた鎌倉街道と呼ばれる道は県内を縦横に走っているが、その典型とされていた比企郡嵐山町の菅谷館跡(国指定の史跡)の西側を走る「鎌倉街道跡」約二百メートルが、実は堀の跡で、従来のルートは間違っていたことが県立歴史資料館などの調査で明らかになった。この場所は、鎌倉街道の石碑や県の案内板が立てられ、断定的に記述している書物も多く、一般に広く知られていただけに、専門家や地元関係者はショックを受けている。
19830324

   200メートル分、定説覆す
    県立歴史資料館 専門家らショック
 代表的な鎌倉街道は上通、中道、下道と呼ばれ、嵐山町を南北に縦断しているのは上通の一部。このうち、鎌倉街道跡でないと断定されたのは、菅谷館跡・県立歴史資料館の西側約三十メートルの同町千手堂の雑木林や畑の中を走る約二百メートルの部分。鎌倉時代の代表的内な武将、畠山重忠が約二十年間住んだ菅谷館跡の近くにあり、周囲より一メートルほどくぼんだ幅約五メートルのこの「道」は、重忠が鎌倉に参上する時に通った道とされていた。
 従来の定説をくつがえすきっかけとなったのは、同資料館が五十六(1981)、五十七年度の二年がかりで進めた「歴史の道調査」。「街道跡と言っても、外見以外に決め手はない。発掘調査してみたらどうか」との専門調査員の提案で、昨年夏(1982)、嵐山町のほか、入間郡毛呂山町、比企郡小川町、大里郡寄居町の四カ所で、幅五十センチほど掘ったところ、毛呂山、小川、寄居町の三カ所では街道の両側に排水用とみられる側溝を確認、本格的な道があったことが分かった。しかし、嵐山町千手堂の部分は道らしい跡を確認できず、逆に、室町時代のものと思われる堀(上幅五メートル、下幅一・五メートル、深さ二メートル)のあることが分かった。
 さらに、近くに舗装道路を造ることにしていた嵐山町の教育委員会が、今年一月から道路予定部分を発掘調査したところ、「街道跡」とされてきた所の下に少なくとも長さ八十メートルの堀があることが判明した。また、鎌倉時代末期から室町時代後期のものとみられる板碑四本、多数の柱の跡などが発掘された。
 同資料館の栗原文蔵・調査研究部長は、「鎌倉街道跡でないことは争う余地がない。専門家にも堀を見てもらったが、皆『参ったなあ』というのが率直な感想でした」と話す。
 では、本当の鎌倉街道はどこを通っていたのか。同資料館では、地元の古老などの話から、国立婦人教育会館の敷地内を通るコースが最も妥当とみている。
 一方、近くに舗装道路を三月末までに完成させることにしていた嵐山町は県教委文化財保護課と協議、堀が発掘された部分は、いつでも復元できるように砂で埋め戻し、その上に土盛りして舗装することで合意した。計画は一年遅れるが、予定通りのルートで舗装道路はできることになった。しかし、「新たに発掘された堀や柱跡が国師弟の史跡の菅谷館跡の一部の可能性もあり、この際、きちんと調査すべきだ」という声が研究者の間にあり、議論を呼びそうだ。
     『朝日新聞』1983年(昭和58)3月24日

   鎌倉街道跡ではない
     菅谷館跡西側くぼ地 実は城郭の堀跡
 嵐山町菅谷の国指定史跡菅谷館跡西側にある延長二百メートルのくぼ地が「鎌倉街道」の跡と言われていたが、実は城郭の堀跡であることが、嵐山町遺跡調査会(阿部富育会長)の発掘調査で判明した。県立歴史資料館の昨年夏(1982)の調査でも一部で堀跡が発見されており、定説が覆った。

   発掘調査で定説覆る
 町遺跡調査会の発掘調査は、農免道路敷設工事に伴い、山王遺跡、上石堂遺跡が姿を消すため今年一月から進められていた。大妻女子大付属嵐山女子高校西側から槻川、都幾川の合流地点まで延長約五百メートル、幅十メートルを発掘し、今月いっぱいで終了する。
 発掘は、鎌倉街道の延長沿いに行われ、珍しい中世の陶器の破片が段ボール箱に五個分発見された。そして長さ百メートルにわたって堀が発見された。幅は、広い所で五メートル、深さは三メートル。昨年七月、歴史資料館は、鎌倉街道の地下遺構がどのようになっているかを調べるため、二地点で掘った。この時、堀跡が出てきて、同資料館では、さらに本格的な調査が必要だとしていた。今回、同調査会の発掘により、城郭の堀跡が出現したことで、鎌倉街道ではなかったことが裏付けられた。
 菅谷館跡西側には、町が「鎌倉街道」の石碑を建てているほか、県も「ふるさと歩道」のコースを示す看板を立てている。これも“幻の街道”になりそうだ。
 その時私は 「鎌倉街道ではない」と語る県立歴史資料館、林宏一歴史資料室長(三八)
  「鎌倉街道という古くからの伝承だった。毛呂山町などの道路状遺構と違っており、わずか二メートル幅の発掘で堀が出てきたことから、鎌倉街道でないことは明確だ」
     『読売新聞』1983年(昭和58)3月24日


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