「ガリア」も「恋するガリア」だし
「アンジー」は「悲しみのアンジー」だし、
「ホリデイズ」は「愛の休日」になっちまうし、
「アランフェス(協奏曲)」は「愛のアランフェス」だし。。。
日本語っ面白いですね。題名における「役割強調」とかあるのか。
・それにしても「エデンの」て、どこからもって来たん?
エデンの少女 レーモン・ルフェーブル Little Girl Raymond Lefevre
わはちゃぺだ。名前こはまだ無ぇ。
どこで生れだかさっぱど見当がつがね。何でも薄暗れじめらった所でニャーニャー泣いだった事ばしおべでら。わはここで始めで人間つものば見だ。しかもあとで聞ぐとそれは書生つ人間中で一番いぐでね種族だったんた。この書生つのは時々わんどば捕えで煮でくんだど。だばってその当時は何つ考もねがったはんで別段怖ぇとも思わねがった。ただあれの掌に載せらいでスーとたながいだ時何だかフワらった感じがあったばしだ。掌の上でわんつか落ちついで書生の顔こば見だのがいわゆる人間つものの見始だびょん。この時妙だものだと思った感じが今でも残ってら。第一毛ばもって装飾さいべきはずの顔こがつるらっとして薬缶どふとずだ。その後ちゃぺにもたげ逢ったばってこった片輪には一度も出会わした事がね。のみでね顔この真中があまりにではってら。そしてその穴の中から時々ぷうぷうど煙ば吹ぐ。どうもえんぷてぐて実に弱った。これが人間の飲む煙草つものだ事はようやくこの頃おべだ。
・拙論の解説みたいになってきましたが、今日はこのあたりです。
・梶井基次郎が「AがBを結果する」という文型を手にしていたことは分かりますが、では、どこで手に入れたのでしょうか。ちょっと考えただけで、途方もない問題設定に思えます。「どこから、そんな言葉、覚えてきたのかしら」的な話です。子供なら、ある程度、こちらも人間関係を把握していますから、源を抑えることは容易です。が、大人の言語ソースなんて、広すぎますよね。ただ、「AがBを結果する」という文型自体、ちょっとレアですから、かえって突き止めやすいかもしれませんね。
・で、とりあえず『日本大百科全書』を全部見てみることにしました。30冊にもおよぶものをそう簡単には読みきれません。が、この小学館の百科事典は、汎用性の高いCDメディアとして販売されたことがあります。Epwing規格の読み取りソフトなら縦覧できるわけですね。フリーソフトのDDWinなら、全文検索もしてくれます。これに頼りまして、「結果する」を含むテキストを表示してもらいました。なかにはこちらが求めていないものもあるので、軽く腑分けします。
・政治・経済・歴史・思想などの分野の項目で「結果する」が使われがちだとの見通しがつきました。理系はほぼありません。広く言って人文・社会の学問分野です。文系に偏るとも言えるわけですが、その割には広い。そうした分野に影響を与えることができた思潮とは、マルキシズム(社会主義・唯物論)のほかにちょっと思い当たりません。構造主義すら、その足元にも及ばないような幅広い影響を与えていそうです。明治から大正・昭和に掛けての大学生なら、旺盛な好奇心がマルキシズムを一瞥しようと自らを向かわせたことでしょう。
・唯物論者だった戸坂潤などは盛んに使っています。この論文を書いたころには、『戸坂潤全集』の全テキストファイルがweb上にありまして、どれほどの頻度で使われていたが、簡単に計算できました。戸坂の場合、10ページに1度くらいは「結果する」を使っていました。まさに愛用です。たとえば、『イデオロギー概論』ですと、10例以上、使われているのが分かります。
・このように、梶井がどのよな経路で「AがBを結果する」を学んだかの目星がつきました。(2)での指摘に戻りますが、梶井の読んだのは、マルキシズム系の作品なり論説文なりだったものと思われます。そうした文章は、戦後あるいは学生運動の基となりましたが、それゆえに現代人からは避けられがちな分野なのですね。ソ連の崩壊、つまりロシア共和国の設立を契機に、マルキシズムは下火となりました。場合によっては、その関係の書籍を読むことはタブー視された時期もありました。もともと、文学研究者・愛好者には、思想信条に深く関わらないというスタンスを持つ人が多いように見受けられます。そのうえに時代から見離された思潮ともなれば、その方面の書籍・論文を読むこともなかったでしょう。したがって、梶井基次郎がふらりと使った「結果する」に面食らったことでしょう。読みつけてない分野の用語、それも国語辞典もしっかり記述しているものが少ない動詞・・・ これでは、勝手な解釈をせざるを得なかったものと思われます。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた。焦躁と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲んだあとに宿酔があるやうに、酒を毎日飲んでゐると宿酔に相当した時期がやつて来る。それが来たのだ。これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くやうな借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音器を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けてゐた。(日本近代文学館複製版により新字旧仮名で表記)
ビール一本、冷酒二合か三合、そば焼酎一合ほどにウイスキーの水割り四、五杯が私の家での適量で、快い気分で寝てしまう。(「仕上がりの時期」『蟹の縦ばい』)