充電日記     

オフな話で一息を。

盛るのが好きな日本人?

2021年09月07日 | 文体・表現
・ちと古い曲・映画で恐縮ですが、原題と邦題を比べると、邦題は盛りますなあ、というお話。
「ガリア」も「恋するガリア」だし
「アンジー」は「悲しみのアンジー」だし、
「ホリデイズ」は「愛の休日」になっちまうし、
「アランフェス(協奏曲)」は「愛のアランフェス」だし。。。
日本語っ面白いですね。題名における「役割強調」とかあるのか。

・それにしても「エデンの」て、どこからもって来たん?
エデンの少女  レーモン・ルフェーブル Little Girl Raymond Lefevre

心を込めなくていいけれど、少し考えよ!

2021年09月03日 | 文体・表現
・カード会社の社名変更のあいさつ。あちこちで語感を疑いたくなる表現があってモヤモヤ。任せて大丈夫なんだろうか。

「口座振替時に通帳に記載される社名表記、振込時の口座名義は2021年10月1日(金)以降、順次「ペイペイカード」に変更されます。」
吹けば飛びそうだ。

「気持ちをあらたに、PayPayおよびZホールディングスグループとの連携を深め、「インターネット屋がやる金融サービス」をお届けしてまいります」
「インターネット屋」という表現にアングラ風味を感じない? 
それに「やる」が呼応。アングラ風味にはよい取り合わせとでも?
「ご提供する」くらいいえばいいのに。
で、これらを受け止めて「金融サービス」。。。。

「結ばせていただきます」

2021年01月07日 | 文体・表現
【ノーカット】菅義偉首相が会見、緊急事態宣言の発出受け


・前の会見でも終わりのときに「結ばせていただきます」といっていたので、あれっと思ったのですが、今回もやはり「結ばせていただきます」といっていますね。こちらがその場面。53分13秒

・いつからそういい始めたものか。ちょっと気になります。「終わります」という表現をさけたものでしょうか。宴会などでは「お開きにします」といいますが、それの会見バージョンが「結ばせていただきます」なのかしら。

古文にしてくれる(?)変換サイト

2020年10月07日 | 文体・表現
・が、ちょっと話題になってるようです。が、古文以外にもいろいろと変換してくれて、楽しく遊べそう。(^o^)

・『我が輩は猫である』の冒頭は、こんな感じになるそうです。
わはちゃぺだ。名前こはまだ無ぇ。
どこで生れだかさっぱど見当がつがね。何でも薄暗れじめらった所でニャーニャー泣いだった事ばしおべでら。わはここで始めで人間つものば見だ。しかもあとで聞ぐとそれは書生つ人間中で一番いぐでね種族だったんた。この書生つのは時々わんどば捕えで煮でくんだど。だばってその当時は何つ考もねがったはんで別段怖ぇとも思わねがった。ただあれの掌に載せらいでスーとたながいだ時何だかフワらった感じがあったばしだ。掌の上でわんつか落ちついで書生の顔こば見だのがいわゆる人間つものの見始だびょん。この時妙だものだと思った感じが今でも残ってら。第一毛ばもって装飾さいべきはずの顔こがつるらっとして薬缶どふとずだ。その後ちゃぺにもたげ逢ったばってこった片輪には一度も出会わした事がね。のみでね顔この真中があまりにではってら。そしてその穴の中から時々ぷうぷうど煙ば吹ぐ。どうもえんぷてぐて実に弱った。これが人間の飲む煙草つものだ事はようやくこの頃おべだ。


「結果した肺尖カタル」(3)使われる分野を探る

2020年07月27日 | 文体・表現

論の解説みたいになってきましたが、今日はこのあたりです

・梶井基次郎が「AがBを結果する」という文型を手にしていたことは分かりますが、では、どこで手に入れたのでしょうか。ちょっと考えただけで、途方もない問題設定に思えます。「どこから、そんな言葉、覚えてきたのかしら」的な話です。子供なら、ある程度、こちらも人間関係を把握していますから、源を抑えることは容易です。が、大人の言語ソースなんて、広すぎますよね。ただ、「AがBを結果する」という文型自体、ちょっとレアですから、かえって突き止めやすいかもしれませんね。

・で、とりあえず『日本大百科全書』を全部見てみることにしました。30冊にもおよぶものをそう簡単には読みきれません。が、この小学館の百科事典は、汎用性の高いCDメディアとして販売されたことがあります。Epwing規格の読み取りソフトなら縦覧できるわけですね。フリーソフトのDDWinなら、全文検索もしてくれます。これに頼りまして、「結果する」を含むテキストを表示してもらいました。なかにはこちらが求めていないものもあるので、軽く腑分けします。

・政治・経済・歴史・思想などの分野の項目で「結果する」が使われがちだとの見通しがつきました。理系はほぼありません。広く言って人文・社会の学問分野です。文系に偏るとも言えるわけですが、その割には広い。そうした分野に影響を与えることができた思潮とは、マルキシズム(社会主義・唯物論)のほかにちょっと思い当たりません。構造主義すら、その足元にも及ばないような幅広い影響を与えていそうです。明治から大正・昭和に掛けての大学生なら、旺盛な好奇心がマルキシズムを一瞥しようと自らを向かわせたことでしょう。

・唯物論者だった戸坂潤などは盛んに使っています。この論文を書いたころには、『戸坂潤全集』の全テキストファイルがweb上にありまして、どれほどの頻度で使われていたが、簡単に計算できました。戸坂の場合、10ページに1度くらいは「結果する」を使っていました。まさに愛用です。たとえば、『イデオロギー概論』ですと、10例以上、使われているのが分かります

・このように、梶井がどのよな経路で「AがBを結果する」を学んだかの目星がつきました。(2)での指摘に戻りますが、梶井の読んだのは、マルキシズム系の作品なり論説文なりだったものと思われます。そうした文章は、戦後あるいは学生運動の基となりましたが、それゆえに現代人からは避けられがちな分野なのですね。ソ連の崩壊、つまりロシア共和国の設立を契機に、マルキシズムは下火となりました。場合によっては、その関係の書籍を読むことはタブー視された時期もありました。もともと、文学研究者・愛好者には、思想信条に深く関わらないというスタンスを持つ人が多いように見受けられます。そのうえに時代から見離された思潮ともなれば、その方面の書籍・論文を読むこともなかったでしょう。したがって、梶井基次郎がふらりと使った「結果する」に面食らったことでしょう。読みつけてない分野の用語、それも国語辞典もしっかり記述しているものが少ない動詞・・・ これでは、勝手な解釈をせざるを得なかったものと思われます。


「結果した肺尖カタル」(1)

2020年07月22日 | 文体・表現
・梶井基次郎『檸檬』冒頭。
 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた。焦躁と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲んだあとに宿酔があるやうに、酒を毎日飲んでゐると宿酔に相当した時期がやつて来る。それが来たのだ。これはちよつといけなかつた。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くやうな借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。蓄音器を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けてゐた。(日本近代文学館複製版により新字旧仮名で表記)


・どうも、太字の部分、多くの人が、「(学生の身でありながら)酒色に浸る悪行のために肺尖カタルやら神経衰弱やらになった」と読んでるようなんです。悪行の結果、病気になった、と。たしかに常識的に考えて、そういうこともあるでしょう、普通に。直前にはお酒のたとえも出てくるので、余計、そう思えてしまうところです。

・ただ、このお酒のたとえは、やっぱりたとえなんですね。「~やうに」だし。一滴の酒が飲めなくても、この比喩を用いることはできる。もちろん、自身が酒飲みであれば、説得力は増しますね。さすが経験者、ということで。

・ところが、そんな経験の主なのかどうかは、どこにも書いていない。小説の冒頭ですから、そんなことまで、読者には分からない。ただ何となく、ああ、昔の学生はそうだよな、と不健康な小説を読んだことのある人とか、訳知りの人が何となく理解できるくらいのところ。

・といいますか、この冒頭部分、「はっきり書かない」ことをモットーにしている節がある。「不吉な塊」「焦燥と云はうか、嫌悪と云はうか」「いけないのではない」・・・はぐらかしてばかりですよね。何なのかをずばっと言わないんです。もちろん、自分でも言わく言いがたい複雑な感情」ということなのかもしれません。それなら仕方ない。

・しかし、読む方の身にもなってみましょう。といっても、我々のことですが、こういう語り口はズルイんじゃないかと思います。あーでもない、こーでもない、これに似てるけど違う・・・ 

・これは、あれですよね。子供が我がままなことを言いつのったときの、お母さんの殺し文句(?)と一緒じゃないですか。「好きなようにしなさいっ!」 何が起こるか分からない、得体のしれない闇世界にでも突き落とされかねない不安が広がりますよね。心の中に。その手法じゃないのかな。はっきり言いきらないことで、読み手の想像力のままに、頭のなかに創造させてしまうという。

・めちゃくちゃうまい、と思ったりします。よく言われることですが、文学の表現は「「美しい」という言葉を使わないで美しさを伝えることだ」とか。たしかにそうなんでしょう。言語というか名付けの働きを、考えてみる必要があります。

・たとえば、「一旦、ライオンという名前がつけられたら、人間はどこか安心してしまう。その瞬間、魔獣を恐懼するような感情は立ち消え、鉄炮さえあれば対抗的できるモノに成り下がってしまう」という言説です。どういうメカニズムかははっきりしませんが、とりあえず名前があるということは、誰かがそのものの性質なり性格なり生態なりを知っている、人間としてはすでに認知された物体であり、未知の存在ではない、ということだ。ならば同じ人間である自分も、恐れる必要はないのだ、と心のどこかで思えるということなんでしょう。

・一旦、言葉は与えられた。でも、言葉を与えられる前の、人間を恐怖のどん底に落としていた魔獣としての存在感と恐ろしさ、それを表現するのが文学の表現というものだ、という考え方です。これはむずかしい。はっきり書けばそれで終りになってしまう。だったら、はっきりかかないこと、なんとなく指し示すだけにとどめること、あとは読者の想像にまかせること。「ヒントは差し上げました。あとは、どんな風に考えてもいいです。好きなようになさい」。

・『檸檬』の冒頭は、そんなカラクリを実行したものなんじゃないか。「不吉な塊」の名状し難い存在感をそのまま読者に感得してもらう手法として見ていいんじゃないかと思うんですね。はぐらかしにはぐらかして。

「ありがとうございません」

2020年06月11日 | 文体・表現
という言い方が、どうも大まじめに使われているらしい。

・もちろん、この一件だけでは、何かの間違いだろうと思うのだが、メルカリでも見かけた

・これでは、「ありがたくない」と言っているようなものなのだが、メルカリは、こうしたやりとりでの暴言には眼を光らせている。そのことは、一度利用した人なら分かるはず。その旨の注意書きが明記されているからだ。とすれば、この質問者の「ありがとうございません」は、誤り・暴言の類ではなく、むしろ、このうえないお礼の言葉として使っていると見るべきもののようだ。

・「ありがとうございます」の前半と、 「お手数をかけてすみません」の後半が合体でもたんだろうと思う。もちろん、そんな合体なんてぞんざいな言葉の使いようではないか、といわれそうだが、ちょっとだけ違う。

・「ありがとうございます」も「どうもすみません」も丁寧な言い方だから、その丁寧さを強調あるいは表明しようという意気込み(?)が混線させたんだろうと思う。ごく緊張した場面では、普通では使わないような物言いをしてしまうこともあるところ。その種のものと思います。

・もちろん、さらに、挨拶の言葉であることも、こうした変形を呼ぶことになっていそうだ。挨拶って、意味が分かってなくても使いますよね? 「おはよう」はまだなんとなく分かるけれど、「その日に会った人への初めての挨拶」としては、某業界では夜だろうが夕方だろうが使っているそうだし。「さようなら」の語源を知っていて使っている人も少ないだろうし、「ごめんなさい」ってどうなのか。

期せずしてあいまい。というか……

2011年08月30日 | 文体・表現
・吉村昭のエッセイを読んでれば、江戸時代のことが何か書いてあるかと期待しているのだが、あまり実効はない。それはさておき、全体として平明な表現なんだけれど、ときおり、理屈にはまらない表現をすることがあって、ちょっといらっとする。もちろん、文脈をたどっていけば、言わんとするところは正確にわかるんだけれど、その、文脈に寄り掛からせる、というか、文脈に甘えているのが、ちょっと気になることがある。

・再転して、次の表現はどうだろう。どこかで「または」が入るように読むものなのか、それともトータルが「適量」なのだろうか。
 ビール一本、冷酒二合か三合、そば焼酎一合ほどにウイスキーの水割り四、五杯が私の家での適量で、快い気分で寝てしまう。(「仕上がりの時期」『蟹の縦ばい』)

・「適量」というからには、調子がよければまだまだ飲めるということだろうから、相当の酒豪ということか。

期せずしてあいまい。「度」

2011年08月29日 | 文体・表現
・ウィキペディアの「南風(列車)」より「車窓風景」第三段落。度数・回数と角度が交錯する。

  振り子式車両は左右に何度も傾く。

 仕方ないかと思いつつ、やっぱり面白い。振り子式車両は、カーブ通過時に減速しなくて済むよう、車体をカーブ内側に傾けるもの。角度の上限は5~6度らしいけれど。

役割語じゃないんだからねっ!

2011年06月29日 | 文体・表現
・教養セミナーという、1年生向けの講義。ざっくばらんな雰囲気を作って、様々なことを語っていく。わざと国語学・言語学の話を避けることもある。もちろん、いきがかり上、言わねばならないこともある。

・しばらく各自に相談させておいて、とりまとめる。立ち位置上、男子学生たちが目の前にいたからか、つい、強めの言葉を言ってしまった。
 「はいはい、話やめーっ。次のコーナーに行くぜ!」
 「お、出た。役割語!」
 「かっこいい!」

・「いや、違うんだ。これは、オレの言葉なんだ。小さいころから使ってた言葉なんだ」。分かってくれ。お願いだから、取らないでくれ~。「かっこいい!」の方は素直に受取るけれど。

・誰の随筆だったろうか、地方から東京に出てきて住むようになり、近所の子どもたちの言葉に愕然とした、というのがあった。ラジオで聞くのとまったく同じ話し方だからである。その人は、ラジオという閉鎖空間でだけ許される、「作られた」特別な話し言葉があるものと理解していたらしい。

・この感覚は、かえって鋭いのかもしれない。普通ならラジオの言葉を東京の実在の言葉と捉えそうなものだろうから(ん? その方が普通ではない?)。さて、その本はどこにしまったか…… 日本エッセイスト協会のベスト・エッセイ集だったように思うけれど。