「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

卑弥呼は宇那比姫命(宇奈岐日女命)で間違いない。と思われます。

2012-06-09 | 古代史

最近、天之御影神の事を考えています。

天之御影神は息長氏の元祖で、日本には最初には、大目(おおめ)として福岡県苅田町や香春町・英彦山に来ている渡来人と考えられ、其処で、娘(細媛)を第7代孝霊天皇の皇后にした後、近畿近江に渡り、近畿息長氏の元祖となったと考えられます。

 

このお方は、天目一箇神(あめのまひとつめのかみ)とも呼ばれ金工鍛冶の神とされています。また、農業に関わる稲荷神、笠法稲荷大明神のモデルとも考えられ、八幡社とは対を為すとされ、京都の東寺では、八幡社を内鎮守、稲荷社を外鎮守として祀っています。そして、一般にも白髭神社(現在の祭神は猿田彦命)としても祀られています。

また、日子座王の妃となった息長水依比賣命は、天之御影神または一族の娘と謂われており、琵琶湖の竹生島の弁財尊天として祀られており、双方を護法善神として現在も信仰の対象とされています。

しかし、詳しくは解っておらず、謎の人物とされています。

わたくしは、何故、孝霊天皇が、細媛を正妻(皇后)として、娶ったのかの理由を知りたくて、天之御影神を考えてみる事にしました。

 

天之御影神は、優れた農業・鉱山技術者としての能力を持っていた者達の集団を、纏める能力が在った。と考えられます。そして、自然への崇拝があり、山岳信仰を開いた元祖と想われます。人徳を持ち、天皇(大王)もこの者の娘なら娶ろうと思われるものを持っていたものと考えられます。

 

熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)には、中国の天台山の守護神、「王子信」が九州の彦山に飛来し、四国の石槌山(いしづちやま)、淡路の諭鶴羽山(ゆづるはやま)を経て、熊野本宮(和歌山県)にある檪(くぬぎ)の木に三つの月の姿として天降ったものを「三所権現」と言う。とされています。

「彦山縁起」には、第26代継体天皇の御代に北魏の僧「善正」が「彦山霊仙寺」を開山したとあります。神武天皇の熊野から吉野を通って大和に到る案内をしました、八咫烏は修験者のことであり、神武天皇(景行天皇)の時代には山岳信仰は行われていると考える事が出来ます。山岳信仰は中国にルーツがあり、彦山から全国に広がったものと思われます。

そして、この「彦山霊仙寺」の「善正」は、滋賀県近江にある霊仙山山頂で修行をして唐に渡り、霊仙三蔵法師になった「息長丹生真人長人(759年~827年)」と関係を感じられます。『多分「善正」も息長氏で有ったのでは?』と勘ぐられます。

 

そして、京都東寺の「高野大師行状図画」・「稲荷記」に、稲荷大明神は『魏の大臣』と記されています。

この『稲荷大明神「魏の大臣」である。』こそ、天之御影神の事ではないでしょうか。

 

ウィキペディアに拠りますと、魏は三国時代に華北を支配した王朝で、西暦220~265年とされています。時間軸も合い納得がいきます。

天之御影神の以前の正体は「魏の大臣」であった可能性が考えられる事になります。そして、この時代「魏」から幾らかの人達が倭へ来ていると考えられます。と、推考すれば、農業・工業・鉱山技術の導入や宗教・医術といった中国の最新の文化を取り入れる事になり、倭に大きな変化をもたらしたものと考えられます。

彦山を開いた北魏の僧「善正」も天之御影神の随行員の末裔とも考えられます。熊野権現御垂迹縁起には、「王子信」が彦山に初めて降り立ったと書かれていますが、ひょっとしたら、王「子信」と読むのかも知れません。天之御影神は魏の王子「信」亦は王「子信」であった可能性も考えられます。

 

そう謂うことであれば、家柄としても、皇妃として申し分がなく、孝霊天皇が細媛を娶った理由が納得できます。また、細媛(辛国息長大姫大目命)が孝元天皇を産んだ後、文化(考え方)の違いで、加羅に渡ったのも頷けます。

 

「大目」の解釈でありますが、以前わたくしは、加羅に対する「倭の大目」と思いましたが、好く、考えてみますと、倭に対する「魏の大目」として来ていたもの。とも想われます。

その根拠は、「香春」は「加倭羅」とも解釈され、加羅と加倭羅は一つの国で「倭」を形成していて、魏から見ますと、『属国』とみなされていたものとも考えられます。そうであれば、天之御影神が「倭の大目」であったとしても肯けます。

この理由は、遼東半島を支配していた公孫淵氏が、魏への訪朝廷を拒み西暦238年魏国の司馬懿(劉夏)に亡ぼされます。内政外圧に危機感を持った倭の卑弥呼が西暦238年に難升米を使節大夫として魏に親書を出します。この親書の内情は、魏から公孫淵の居る遼東半島へ加羅国(朝鮮)からの出陣要請を上手に断る口実だったのかも知れません。正始元年(西暦240年)には魏(帯方郡)から建中校尉梯儁と謂う使者が派遣されて来て、卑弥呼と会い、魏の帝の詔勅・金印・財宝を授けています。さらに、正始4年(244年)にも卑弥呼は狗邪国との不和の問題で使者を魏に送っており、そして、西暦247年魏の張政一行の使節団が調整の為遣って来ます。そのどちらかの中に居た天之御影神を「倭に対する大目」として残したものとも考えられます。その後、249年魏にクーデターが起こり、魏の始祖、曹操に繋がる曹氏一族が司馬懿に排除されます。張政は暫く倭に留まり西暦266年に帯方郡に帰還したとも謂われています。この出来事が、天之御影神が其の儘、倭に留まった理由とも思われます。

 

西暦107年、倭は、後漢に対して帥升等が160人もの生口(奴隷)を献上していますが、その後、後漢は魏へ禅譲となり、生口の末裔(洛陽に倭人村が存在していた。と考えられます。)の中から『魏の大臣』に成り上がったのが天之御影神とも考えられ無くもありません。

 

もし、この考え方が正しいと仮定すれば、倭迹迹日百襲姫天之御影神と細媛の時間軸の関係上、卑弥呼には考えられません。卑弥呼宇那比姫命(宇奈岐日女命)か、天照大神である。と絞り込めます。

そして、このどちらが、可能性が高いかと考えますと、西暦107年の帥升等は須佐之男命の事であると考えられ、天照大神は西暦100年頃のお方と想われます。

時間軸では宇那比姫命に軍配が上がり、桂川光和さまの文献史学研究が実る事になります。

魏志倭人伝東夷伝の『卑弥呼』は宇那比姫命(宇奈岐日女命)に間違い無いものと感じられます。

我田引水に見られますが、わたくしが現在住んでいます此処、大分県由布市湯布院町に『卑弥呼』は居た事になります。大分県は海部氏・尾張氏・紀伊氏の本貫地です。当地には、宇奈岐日女命神社があり充分納得がいきます。

 

 

 

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