「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『蘇我稲目』は、『敏達天皇』(法興王)の事ではないでしょうか。

2019-03-29 | 古代史

前回のブログより、何んとなく頭の思考がスッキリしないので、(此れは、わたくしの先祖の霊界の啓示であろうと考えられ)激動の『欽明天皇』前後の時代を再考慮することにしました。

前回のブログの要旨は、斯帰斯麻宮(『城島』シキの『嶋』シマの宮、つまり『唐島』の事であろうかと思います。)に居た『欽明天皇』が、突然に歴史に登場した『蘇我稲目』に対して、大連臣を贈り、『稲目』の娘の『堅塩姫』(カタシオと呼ばず、カタシ又はキタシ姫です。何かの意味を持っている?)を『妃』として娶り、後の『用明天皇』を儲けます。

此の二人が話し合い、新羅王の『法興王』を招聘した。此の『法興王』が記紀では、『敏達天皇』とされている。

 

と、述べています。が、如何も此の解釈がスッキリしません。

 

わたくしの頭の中での、此の時代での流れを考察してみる事にしました。

 

雄略天皇(大泊瀬幼武尊・即位456年~479年頃の23年間)は、朝倉(広庭宮)~うきは(月の宮=橘氏の宮=大山橘み氏の宮)に、第19代允恭天皇と忍坂大中姫(息長氏の血脈)の第5皇子(第3皇子が第20代安康天皇=阿蘇幣立神社で眉輪王から殺害された人)として誕生。

※     第17代履中天皇・第18代反正天皇・第19代允恭天皇は兄弟で、父は第16代仁徳天皇(田川飛鳥宮~行橋稚桜宮)であります。

 

仁徳は、第15代応神天皇から生まれてきた事になっていますが、

 

神功皇后と其の息子のホムタワケ品陀和気命は、田川の軽(香春町)で、応神から戦を挑まれて幽閉され、ホムタワケ品陀和気は4歳で亡くなった。神功皇后もその後に亡くなった。と『宇佐公康氏』の本の伝承に在り、ホムタワケ品陀和気と応神は別人と想われます。

 

わたくしの説(宇佐公康氏伝承説)では、

崇神(スサノオ=神武)の子であります『宇佐都臣命』が伊予の越智宿禰女『常世織姫』を強奪して、生れたのが『宇佐押人』で、此の『宇佐押人』と叔父であります『御諸別命』(宇佐都臣命の弟)が、戦で息長帯比賣命(神功皇后)と武内宿禰との間に出来たホムタワケ誉田別命を破り、軽(香春)の豊明宮にて応神天皇として即位した事になっています。

 

応神天皇は、崇神天皇の孫であります『宇佐押人』です。

応神天皇(宇佐押人)は、叔父の『御諸別命』(誉田別命・武内宿禰命と、謂われています。)に連れられて、若狭角鹿に韓半島経由で遣って着た鮮卑族拓跋氏の『伊奢沙別命』(このお方は、『神功皇后』が、武内宿禰と安曇連=宗像氏に命じて、三韓征伐の時に、成功成就の願を懸けた神です。気比神。)に、祈願成就御礼に参内がりますが、この時に、伝承では、『名』ナと『魚』ナの交換が提案された。と述べられています。

わたくしには、

如何も、応神天皇が入れ替わり人に思える。のです。大鷦鷯尊は、間違いなく、田川飛鳥宮から大阪難波高津宮に移動しています。此れは、親族が近畿地方に多く展開していて九州(倭)に愛着が余り無かったもの。と考えられます。

 

応神の子が仁徳天皇(大鷦鷯尊)です。応神天皇は、即位40年、大鷦鷯尊(母は皇后の仲姫命)と大山守皇子(母は妃、仲姫姉の高木日賣命)に相談の上で菟道稚郎子(母は妃、宮主宅姫)を立太子して、翌年の即位41年に111歳で崩御します。大山守命はこれを不服に思い天皇が崩御すると反乱を起こします。大鷦鷯尊が之を菟道稚郎子に知らせて、菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)は大山守命を殺します。

 

『菟道稚郎子』(宇遅能和紀郎子)は即位を辞退して、『大鷦鷯尊』との譲り合いの末に自決した。と日本書紀に述べられていますが、

 

『福永晋三』氏研究の『真実の仁徳天皇』では、万葉集歌の解釈より、『菟道稚郎子』が日向の『髪長姫命』を最初に娶っていたものと考えられる。とされ、『大鷦鷯尊』の奸計で、『菟道稚郎子』(本当の仁徳天皇)は即位3年で自殺に追いやられ、王権と。妻の『髪長姫命』を奪い取られた事が真実であろう。と述べられています。

わたくしも、同感で、その通り。と思われます。

 

『応神天皇』は、『大鷦鷯尊』(母は皇后の仲姫命)、『大山守皇子』(母は妃、仲姫姉の高木日賣命)、『菟道稚郎子』(母は妃、宮主宅姫)、以外にも『息長真若中比売』(弟姫)を娶り、『稚野毛二派皇子』ワカノケノフタマタノミコ(息長氏)を儲けています。『稚野毛二派皇子』(息長氏)の子が、『忍坂之大中津姫』(息長氏)です。

 

此の息長氏である『上宮王家』(豊受大神一族)奔流の、『稚野毛二派皇子』から、後の、第20代『安康天皇』・第21代『雄略天皇』(母親は何方も、忍坂之大中津姫=稚野毛二派皇子の子ですので、息長氏です。)に繋がります。

 

日田・上宮王家の真髄は、阿蘇氏の『豊玉彦』(八大龍王)と、その娘の『豊玉姫』(龍神姫)=息長大姫大目命=天鈿女=ミズハノメです。

 

龍神姫の夫は、人生の前中半期は日田市出身の『日高彦彦穂穂出見尊』、後期は安心院町佐田出身の『天之児屋根命=景行天皇=猿田彦=長髄彦命』です。

 

『雄略天皇』(大泊瀬幼武尊)は456~479年頃は朝倉広庭宮に居たものと考えていますが、大刀洗春日区の『和珥童女君』ワニノワラワノキミを娶って、『春日大娘皇女』カスガノオオイラツメノミコ(別名を『高橋姫』と謂い、大刀洗町高橋地区春日を指し示しています。)を儲けます。

 

此の『春日大娘皇女』を娶ったのが、筑後川を挟んで向こう岸の唐島・牧地区に居た、『仁賢天皇』(意富祁王ヲヲケオウ、別名を嶋郎シマノイラツコ=唐島を意味しています。)です。

仁賢天皇』は百済王室から462年に倭の田主丸町唐島に遣って来た『昆支王』コンキオウの事で、記・紀では履中天皇の子で有ります『市辺押磐皇子』イチベノオシイワノミコの子とされていますが、『市辺押磐皇子』の弟の『御馬皇子』ミマノミコと考えられます。

 

田主丸町唐島で462年に誕生しましたのが、百済21代蓋鹵王ガイロオウ又はコウロオウ(即位455~475年没)の子の、『武烈天皇』(=武寧王)で、501年12月に百済に25代『武寧王』(40歳時、即位502年~523年没)として、息子の百済26代『聖王』(即位523年~554年)と伴に、百済へ帰還します。

 

田主丸町唐島の『仁賢天皇』(昆支王の事で、御馬皇子の事です。)は、『春日大娘皇女』(雄略天皇の娘)との間で、『手白香皇女』(継体天皇の皇后で、欽明天皇の母です。)と『橘仲皇女』(神埼の『日の隈』に居た宣化天皇の皇后で、『石姫』の母です。)を儲けています。

 

『手白香皇女』は、昆支王が百済から一緒に連れてきた5人の子の一人と考えられて、『橘仲皇女』が『春日大娘皇女』の子であろうと思っています。

この『橘仲皇女』の子の『石姫』が『欽明天皇』の皇后になり、『敏達天皇』を儲けた。とされていますが、

 

わたくしの考えでは、新羅23代王の『法興王』が540年南大分(蘇我氏の里)の向原~稙田ワサダ(他田オサダ)に遣って来て、『敏達天皇』にされたものと、思っています。

 

『敏達天皇』とは、『蘇我稲目』の事であろうと思われます。

 

『敏達天皇』は、田川郡大任町秋永地区に居た『息長真手王』の娘の『広姫』を皇后にして、『押坂彦人大兄皇子』オシサカヒコヒトノオオエノミコ(別名を『太子彦人皇子』と呼ばれ、このお方が『蘇我馬子』と考えられます。『蘇我馬子』は、別名を『嶋大臣』(=唐島の大臣、と考えられます。)と呼ばれ、626年没とされていますが??)を儲けます。

『押坂彦人大兄皇子』(敏達天皇の第1皇子)と『糠手姫皇女』ヌカテヒメミコから、田村皇子(舒明天皇即位629年~641年崩御)が儲けられています。(舒明天皇が蘇我蝦夷の事?マサカ‼)

 

『糠手姫皇女』は『敏達天皇』と『伊勢大鹿首小熊の女・采女』の間で儲けています。異母兄妹婚になり、何か違和感が残ります。

 

実は、『欽明天皇』の父であります『継体天皇』は、息長真手王の娘であります、『オミノイラツメ麻績郎女』を妃にしており、『麻績郎女』と『広姫』は姉妹と考えられ、『広姫』が『敏達天皇』の妃に為る事は時間軸上、有り得ない事であります。

 

『麻績郎女』と『広姫』の問題の解決には、『敏達天皇』の実態は、『継体天皇』期に誕生している人である。と、考える事であります。

 

つまり、『敏達天皇』は『欽明天皇』の子ではない。と謂う事です。日本書紀は噓を述べています。

 

 

 

 

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