「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

漸く、『アメ ノ タリシホコ』の正体が解明できました。 『多利思北狐』とは、押坂彦人大兄皇子(蘇我馬子)であります。

2019-02-13 | 古代史

第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇・斯帰斯麻天皇=シキシマテンノウ=久留米の城島シキ唐島カラシマの天皇)は、第26代継体天皇(袁本杼命・近江息長氏)と(田主丸町唐島で育った。と考えられる、息長氏か百済昆支王の娘の、どちらか。と考えられますが、日本書紀では、武烈天皇の姉とされていますので、此れは昆支王の5人の子の一人と考えられます。)手白香皇女の間で生まれ(507年皇后になり、その後の誕生ですから508年~509年頃の誕生)、539年12月即位して、朝倉の『広庭宮』で、政務を司ります。571年4月崩御した事に成っています。

 

継体天皇は、上宮王家の日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳)の石井が新羅と関係が深く(天日鉾=スサノオ=崇神が多くの新羅系渡来人=元は、熊本玉名市=江田船山古墳~久留米白山町=白山姫=天之御中主命=水天宮の白氏が、渡韓してシロ・シラを造った。と、考えられます。 を有明海から筑後川流域に住まわせています。)、19年も田川飛鳥宮に這入れずに、やっと526年田川飛鳥宮入り。苦労して527年石井を滅ぼします。

 

この継体天皇が倭に這入って来るまでの19年間、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人(うきは市に巨瀬川が流れています。)の豪族間の権力の駆け引きが、熾烈を極めたものと考えられます。

韓半島の倭の任那府(金官伽耶国・キンキュウコウオウ金仇衡王=即位期間521年~532年)は、532年に新羅に吸収され、滅亡しますが、倭(日本)の内部では、『雄略天皇』期の韓半島遠征時に、百済王族との友好関係(対、高句麗・新羅を考慮して百済王『ヒユウ毗有』が、倭王族との姻戚関係を決断、『蓋鹵王』として、『市辺忍歯別王』と弟の『御馬皇子』・一族を受け入れます。)を結び、安全策として王家の親族多数を田主丸町唐島(片瀬カタノセ=磐瀬イワノセと考えられます、筑後川の瀬があります。)秋永氏集落に住まわせます。

筑後川流域では、親百済派(後の天智天皇系)と、日田上宮王家の親新羅派(後の天武天皇系)の対立が生じていたものと思われます。

 

527年、継体天皇の命を受けた親百済派の近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かうのを、磐井(日田市石井地区の上宮王家)の命を受けた豊後葛木~肥後菊池・玉名の親新羅派連合軍が、妨害をして、『磐井(石井)の乱』が起こります。

一旦は、継体天皇(息長氏)と、協力した田川飛鳥宮の安閑(息長氏)・佐賀日の隈地区の宣化(息長氏)が勝利しますが、何れの王も次々に暗殺されます。

 

『辛亥の変』531年です。『辛亥の変』とは、日田上宮王家『磐井(石井)』が滅んだ事を意味します。

 

此の時期に、裏で暗躍したのは、大連の大伴金村と考えられます。

 

大伴金村は、武烈天皇(百済の武寧王の事)の時に、大連になりますが、

田主丸町唐島で育った武烈は、武烈天皇8年(501年)12月に武寧王として、百済に帰還します。

近江息長氏の継体天皇の担ぎ出し(傀儡政権の樹立)、豪族間の調整(表向き、実力者物部氏のアラカイ麁鹿火を立てる)、任那府や百済・新羅・高句麗との調整は、使者を派遣し(512年、任那のタリ哆唎国守であった穂積臣押山に軍馬40頭を託した。)、立場を守る為に、ライバルの芽を摘む事も(大臣である平群氏マトリ真鳥・シビ鮪父子を征討)、大忙しであったろう。と、考えられます。

 

大伴金村の行動計画の一番のポイントは、

伝統ある豊受大神一族に繋がる上宮王家である磐井(石井)を、同じ一族の息長氏を使って、どのようにして双方を滅ぼすか。又は、力を削ぐかで有った。と、考えられます。

継体が、倭に居ない中で、512年任那府4県が、武寧王(倭に居た時は武烈天皇)の依頼で百済に割譲され、継体暗殺後の532年には、金官伽耶は新羅の『法興王』(チショウ智証マリツカン麻立干の子)に依って滅ぼされます。

 

『欽明天皇』時代になると、姻戚関係を結んだ『蘇我稲目』が突然に台頭します。

「大伴金村は百済から賄賂を貰った。」と、物部氏オコシ尾輿等から批判され、韓半島外交の失敗を糾弾されて失脚します。

 

わたくしは、

任那府と百済王室の再興を望んだ『欽明天皇』に、『蘇我稲目』が、佛教を敬い新羅王を投げ出して、法皇に為った『法興王』(誕生年は不詳。即位514年~540年崩御とされています)の新羅での数々の業績の話をしたものと思われます。元々は、百済・金官伽耶・新羅は、倭人が韓半島に鉄・銅・金・銀の金属を求めて白頭山迄の基地から起こった国であり、倭人にとっては、百済・新羅の何方も親しみを持っていたものと、考えるべきです。

 

※ウィキペディアでの、『法興王』の治世は、

先代の智証麻立干によって強化された王権を背景に、数々の国家制度の整備に努めた。517年に「兵部」を設置し、520年には官位制度を整えるとともに、官職ごとに公服とその色彩の序列を定めるなど、律令による政治を敷こうとしたとされる。後に531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る「上大等」の官位を設けた。また、536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元と称するなど、前代よりもさらに王権の強化を果たしたことが伺える。

対外的には521年(梁の普通2年)に、百済に伴われて梁に対して朝貢を行い、百済との好関係(羅済同盟)を背景に伽耶方面への勢力拡張を図った。522年には伽耶国王が通婚を求めてきたことに対し、伊飡(2等官)の比助夫の妹を送ってこれに応えたが、532年には金官国を滅ぼした。投降してきた金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵したとともに、こののち準王族的に優遇したという。なお、金仇亥の末子の金武力は新羅に仕えて角干(1等官)の位にまで上ったと記されているように、服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り入れていくことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。ちなみに、金武力の孫に、三国統一の大功を挙げる金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)が現れることとなる。

528年には貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行ない、さらに534年には興輪寺の建立を開始し、仏教を広めることにも努めた。『三国遺事』王暦には十日行を行ったこと、殺生を禁じたこと、また王妃が王の死後に出家して法流と号し永興寺に住んだことなどが伝えられる。また、『三国遺事』 興法・原宗興法条には、法興王自身も出家して名を法雲とし、法空と号したことが伝えられる。

在位27年にして540年7月に死去し、哀公寺の北峯(慶州市孝峴里)に葬られて法興王と諡された

と、述べられています。

 

欽明天皇は、『佛教思想』で国を治める方法を執った『法興王』に痛く感動を覚え、その有能な人物であります、新羅王を引退させて『法興王』を倭に招聘することを画策し、実行をしたものと思われます。

 

倭に、金?造仏像を持って、若い従者(後の『蘇我馬子』=押坂彦人大兄皇子になります。)と伴に、遣って来た『法興王』の子が、『多利思北狐』の実体像で有ると考えられます。

 

わたくしの勝手な推測ですが、欽明(571年崩御)の跡を継いだ第30代敏達天皇(ヌナクラノフトダマシキ沼名倉太珠敷命・別名をオサダノオオキミ他田天皇・585年崩御)が、南大分の蘇我氏の本拠地に来た、仏法を重んじる『法興王』で有った。

と思っております。

亦、『大伴氏の金村』の正体も、渡来人で有ったものと考えられます。

 

応神天皇期に、韓半島経由で倭に渡来した『弓月君』等の大勢の渡来人、所謂『月氏』は、雄略期から欽明・敏達期(蘇我氏4代の時期)に掛けて、倭王朝を根底から変革させる大きな力(代表的には、527年の磐井の乱と531年の辛亥の変です。)を与えています。

 

月氏(大山祇命→大山橘み→橘氏。※平群氏。)は、親新羅、親百済、親高句麗、と、入り乱れて居たものと、考えられます。

 

 平群氏の解釈については、一般には博多早良区に以前に平群邑が在り、其処が『平群氏』の本拠地であった。と、考える研究者が多いので有りますが、日本武尊や景行天皇の滞在の伝承は窺えず、

わたくしは、固有名詞では無くて、山が平たく群れる状態の地域に住んでいる人々。と、想われて、景行天皇が行宮を設けた伝承があります、吉井町若宮八幡宮(日の岡古墳・月の岡古墳があります。)が、日本武尊も居たものと考えられます。

 

うきは市吉井町から久留米(しき)に掛けて平たく群れて横たわる耳納連山の麓に住した橘氏(大山祇)一族を、『平群氏』と呼んだものと、考えています。

此の『平群氏』は、後の桓武天皇を、高野=竹野タカノ新笠の出身地であった唐島秋永地区が、耳納連山の麓に位置する事で、『桓武平氏』と呼ぶ切っ掛けに為ったものと考えられます。

『耳納』ミノは『水縄』ミノとも謂い、元は日田市の豊受大神(高躬)一族の『美濃』ミノに繋がっています。平群氏とは、日田市から久留米市に架けて平たく横たわっている耳納連山一帯に住した人達の総称を意味している。と考えられます。

奈良県の『平群』の名称は、ずっと後(7世紀の天智天皇~天武天皇頃)の人々が、663年10月の白村江の戦い後、うきは~朝倉から大阪・奈良へ避難移動していて、朝倉・平群の名前も一緒に持って行ったもの。と考えています。

 

 

『元興寺伽藍縁起』では、オサダ他田(後の敏達天皇)・推古は幼児期に南大分の後宮(東院)で一緒に居た時期がある。と述べられており、後に二人は結婚をします。(記紀では、二人は、父は欽明天皇で、母違いの兄と妹。と述べられています。普通ではあり得ないことです。)

また、南大分にはワサダ稙田地区が在り、此れはオサダが→ワサダに転化したもの。と思われます。『オサダ他田』とは、南大分の『ワサダ稙田』を意味しています。

 

随書にある、(文帝の)開皇20年(600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 タイ?(ワ倭の間違い?)俀王の姓アマ 字タリシホコ 号アハケミが遣使して宮中にやって来た。と述べられており、

 

西暦600年は、倭では、推古8年で、男王では無くて、研究者を苦しめております。

 

わたくしの考えでは、

600年の時期は、倭王は男王であった。と考えるべきであります。

 

585年に崩御した『敏達天皇』(=『法興王』で、本来の『多利思北狐』は息子の蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子です。)の次に即位したのが、欽明天皇の実子『池辺皇子・大兄皇子・橘豊日命・用明天皇』です。『用明天皇』は、585年10月即位して587年5月天然痘で崩御したと記紀は記述をしていますが、此れは不自然であります。 

  

『用明天皇』は、587年に『敏達天皇の息子=押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子』から殺害(毒殺)されたものとも、考えられます。『用明天皇』の子であります『厩戸皇子』が、本当の『聖徳太子(622年2月没)』と考えられます。

 

蘇我蝦夷が、(推古天皇628年4月崩御の後、)629年田村皇子『舒明天皇』(敏達天皇=法王の第1皇子である押坂彦人大兄皇子。の子、誕生年不詳~641年11月崩御。和風諡号は、『息長足日広額天皇』)を擁立します。

 

 

642年皇極天皇が即位。蝦夷の息子の蘇我入鹿が、643年斑鳩宮(福岡県みやこ町~豊津町)に居た、『欽明天皇』の実子の『用明天皇』が儲けた『厩戸皇子』の子であります『山背大兄王』(継体=福井息長氏→欽明→用明→厩戸皇子→山背は、息長氏の日田上宮王家の血が流れています。)への襲撃を行い、自害へ導きます。

故に、入鹿の襲撃を知った、父の蝦夷(大山祇系司馬氏=月氏=馬の鞍造り)は、禍が入鹿に降りかかる。事を心配します。

 

当然、福岡県うきは市の橘地区に在ります寺『大聖寺(大生寺)』で産まれた、と考えられます『厩戸皇子・豊聡耳』(622年2月没)は、本来の聖徳太子であります。

 

 

 

随書に述べられております、『俀王姓阿毎字多利思北孤』は、蘇我馬子(626年6月19日死去)=押坂彦人大江皇子(出生・死去共に不詳)』が、父『敏達天皇』の皇后『推古天皇=小墾田皇女(626年6月19日崩御)』を娶り、摂政として権勢を誇っていた。と、考えられます。

 

 

 

 《その後の考察による訂正》2019年4月6日

 

『用明天皇』と、『厩戸皇子』・『崇峻天皇』は何方も、押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子に殺されたものと考えられます。従って、『俀王姓阿毎字多利思北孤』とは、蘇我馬子=押坂彦人大兄皇子で有った。と推論されます。

 

 

 

 

 

 

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