「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

佛教の伝播は、欽明天皇期では無くて、雄略期である。

2019-01-14 | 古代史

伊藤正子さま。と謂う、

 

若年から長年に渡って古代史大好きな研究者が、昨年(2018年)8月に4回に渡り、阿蘇西原村で講演をされた記録CDを、古川清久さまから分けて頂き、拝聴させて頂きました。

 

古代史研究者は、一般的には、文献調査派が多いのですが、

 

彼女は、文献研究知識と埋蔵文化財発掘調査研究が、『半端ない』専門的な知識を積み上げられて、持っておられ、両面から古代史解明に挑まれている『凄い!!』。と、傾聴に値する意見を持った第一級の研究者で有られます。

 

我々研究者には、鵜吞みにしない猜疑心と知識のバランス感覚、深い洞察力が必要だと感じ摂れました。

 

皆様にも、伊藤正子さまの講演会の『力業』拝聴をお薦めします。

 

(女性研究者として、侮る事勿れ。正子さまの言葉には、男性研究者の顔色なし。の強い力量があり、話術には説得力があります。う・う・ウーㇺ・・・。 気弱な?わたくしには、無理です。)

 

(伊藤正子さまは、普段はとても優しい女性的なお方とお見受けいたします。)

 

講演の要旨は、『聖徳太子と法隆寺・それに纏わる寺』の謎です。

 

聖徳太子由来の、『法隆寺』伽藍配置が九州に多い方式(川原寺方式と謂う、金堂・五重塔が東西に位置配置された方式)で創建されている。近畿には、他にはない。故にパンフレットには、『東西』と書かず『左右』と書いて、九州方式の印象を消そうとしている。

 

天智天皇8年9年の火災は若草伽藍であった。とされていますが、その地から出土の瓦のパルメットは推古天皇期の特徴と謂われているが、何となくスッキリしない。

 

釈迦三尊像後背に彫られた銘文・薬師如来像の台座の木材の材質が檜とクスノキに分かれて製作されており、クスノキが近畿で入手出来なかった為。であろう。

 

薬師如来像と釈迦三尊像との製作年代比較検討。本尊を入れ替えた疑念が持たれる。

 

明治迄秘仏として隠されていた東院伽藍夢殿の『救世観音菩薩像』(聖徳太子の等身大の仏像と謂われています)への疑念。

 

法隆寺が保有する木造仏像(飛鳥佛)が殆ど、『楠木』を使用して作成してあり、此のクスノキは福岡市立花山が北限と謂われている。

 

 百済観音像は、クスノキの『一木彫』であり、百済には、クスノキの大木は無くて、倭(九州)で造られたと考えられる。

 

『法隆寺』がミササギ陵山として大切にしています、近くの『藤ノ木古墳』の『家型石棺』に埋葬されています、大王級の2体の遺骸の副葬品(飾り金銅製足履が1足ずつしか履いていなかった・三つ折りにされた金帯に小刀が挟まって在り・冠が足元に置かれている)の配置状況の異常さと、副葬品(馬具・鏡・等)の種類が、どの地域の古墳出土の副葬品と似ているかを調べてみたところ、佐賀(九州)であった。

 

飾り金銅製足履の加工技術に付いて、倭で作られたのか、韓半島からの輸入品なのか?を学者に尋ねると、『この時期には、韓半島では造ってはいなかった。』と謂われ、

 

ならば、倭國での制作が考えられ、『藤ノ木古墳』周辺の古墳群からも出土すべきであるのに、近畿では全く出土しないのは何故か。

 

 

発掘調査の初期に出土した土器(埴輪)では、五世紀の墓であろう。と専門家が予測したのが、副葬品(硝子製品の色)の調査で六世紀後半とされた。そして、未盗掘(須恵器の祭祀用品が壊れていない)の古墳であろう。と専門家が述べられたので、

 

埋葬者と副葬品は、別の場所(九州)から運んで搬入されたものと、考えざるを得ない。と、述べられます。

 

九州熊本県『江田船山古墳群』から出土した、豪華な副葬品を、専門家(学者)が、この時期は日本には、そこまでの加工技術の進展は無くて『輸入品』である。と解釈をしている事に疑念を持っておられ、万一『国産』であれば、古代史の歴史がひっくり返る事になる。と、述べられ、九州から運んだ可能性を指摘されます。

 

また、聖徳太子の廟と謂われています、叡福寺の棺は、木製で、麻布に重ね漆塗りの『キョウチョカン夾紵棺』で出来ており、此れは7世紀中~末頃と考えられ、時代的に疑念が感じられる。と、述べられます。

 

 

『随書』を読解しても、「阿蘇山在り。」と述べられていて、楽浪郡系土器が出るのは九州だけで、近畿では出土せず、俀(倭?)國が在った場所は九州で有り、『法隆寺』や、その『佛像』等は九州から持ち込まれた。としか、考えられない。と述べられ、この時代(聖徳太子=622年没)までには、佛教が浸透していた地域が在り、其処が近畿では無くて、九州であろう。と述べられています。

 

伊藤正子さまは、石棺のルーツは四国では無くて、熊本が石棺のルーツであった。と考えられる。と述べられ、熊本の専門家も同じ事を謂っている。

 

九州には、全ての石棺の形がありますが、6世紀の九州石棺で使われた『切欠き加工』技術は畿内(中合わせ)に伝わった。ものと考えられる。

 

『月の岡古墳』に在ります『長持ち型石棺』を、畿内説の学者は、そのことを畿内の勢力が九州に進出した事に、論を張っていますが、それでは、畿内の石棺に阿蘇溶結凝灰岩が使われているのは、九州から畿内に進出した事にならないのでしょうか。と一蹴されますが、畿内説の学者は、我田引水的に、それは、九州豪族が畿内に献上したものと嘯く。

と謂って、畿内説の学者が、自分に都合のいい解釈をしている事に立腹されています。

 

 

如何も、畿内説の学者にとっては、『月の岡古墳』と、其の出土副葬品は都合の悪い意味合いを持つものとも、感じられます。

 

うきは市吉井町若宮八幡神社内に在ります『月の岡古墳』『日の岡古墳』を調査する必要があります。

 

実は、『月の岡古墳』は、志波長田橘泊瀬『広庭宮』に在った。と考えられる、『川原寺』(普門寺)から南に直線距離が2㎞位しか離れていない場所にあります。

 

わたくしは、『広庭宮』が『斯帰斯麻宮(欽明天皇)』・『斯鬼宮(雄略天皇)』の事であろう。と考えていますので、気になります。

 

志波長田橘『広庭宮』には、わたくしの考えでは、

 

第20代安康天皇(穴穂天皇・第19代允恭天皇の第2皇子)は、阿蘇の高地(幣立神宮)に避暑に行き、皇后(長田大郎女)の連れ子『眉輪王』に殺されます。

 

その弟で有ります朝倉山田長田橘泊瀬『広庭宮』に居た、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武・大長谷若建命・第19代允恭天皇の第5皇子)が即位します。

 

つまり、第21代雄略天皇が『月の岡古墳』周辺での存在が、想像されるのであります。

 

わたくしは、伊藤正子さまの講演のCDでの埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土の金錯銘鉄剣と、熊本県江田船山古墳出土の銀象嵌太刀の銘文の比較の話を拝聴して、ネットのウィキペディアで『稲荷山古墳出土の鉄剣』を見てみる事にしました。

 

わたくしは、表裏に描かれた115文字の銘文を眺めて、驚きました。

 

裏面には

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 

(訳)

其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

と、銘が彫られています。

 

わたくしは、

 

『獲加多支鹵大王在斯鬼宮』の文字

ワカタケルの大王の寺、斯鬼の宮に在る時』、に釘付けになりました。

 

『ワカタケル大王の寺』とは、わたくしの説では、『広庭宮』の川原寺』(普門寺)を意味します。

 

と、謂う事は、456~479年の雄略期には、倭朝倉広庭宮に寺(川原寺)が在り、佛像や仏具が造られ、行事が執り行われていた事になります。

 

橘寺から法隆寺に渡り、現在国立博物館収蔵の『飛鳥仏像』群は雄略期迄を考慮して、製作年代の特定を再考慮するべきです。

 

つまり、仏教が伝播したのは、欽明天皇の時代では無くて、少なくとも雄略天皇期以前には、日田~うきは~朝倉~田主丸の筑後川地区には、橘氏(大山祇→月読命→月氏)・蘇我氏(斯波→司馬→月氏)・平群氏(後の『平氏』月氏)が居て、仏教が栄えていた。と考えるべきです。

 

 

 

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