「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

熊襲の意味するところを考える。

2014-06-17 | 古代史

2013年5月28日のブログ『地名から紐解く古代史』にて、宮崎県の佐土原町や川南町の地名は由布院(木綿の院)から移動した人達が、川南古墳群や後に西都原古墳群を造ったものとの考えを示していますが、移動のきっかけは、わたくしには『倭の大乱』に有ったと考えられます。

わたくしの『倭の大乱』の解釈は、倭王で在った須佐之男命が高天原(木綿の院)の杵築を追放され出雲に渡った後、天照大神を祭祀する巫女と須佐之男命の間に生れた五男三女(2014年4月5日のブログ『同一人物を考える』にて三女神の実体は多祁理毘賣命一人であったと考えられます。)の内、多祁理毘賣命は天降りをさせられ、大分市に居た宗方氏のルーツである『宗像』の『沖の島』で祭祀をしたものと考えられます。

須佐之男命の取巻きである五十猛の豪族は成長した多祁理毘賣命を引き取り、娶ることを願望しますが、多祁理毘賣命は筑紫を治めていた大己貴命を選びます。多祁理毘賣命と大己貴命は甘木の『大己貴神社』附近で暮らして、阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を生んで生活をしていたと考えられます。

現在、筑前甘木の『大己貴神社』(おんがさま)と地元の方が呼びますのは、大神大明神(おおかみ→おおが)から、(おおがさま)→(おんがさま)に訛って変化したものと一般に考えられていますが、

わたくしには、『遠賀(オンガ)(宗像)さま』に聴こえ、『高木神と和邇氏の乱』によって筑紫を追放された『多祁理毘賣命と大己貴命への同情』に想えます。

第14代仲衷天皇の時代の甘木秋月野鳥で起きた(熊襲)『羽白熊鷲の乱』『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』とも考えられます。奈良纏向に居られた天皇は、将軍に任せずに帝自ら神功皇后を連れて戦をする様は尋常ではありません。

『羽白熊鷲の乱』を『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』と考えますと、『大国主命』の存在時間軸はそんなに古くは無く、仲衷天皇より精々2世紀位前と考えられます。

亦、『神武天皇の東征』で出て来ますニギハヤヒの家臣、登美の『長髄彦命』が占拠した『大和』とは行橋の『勝山黒田』の事で、第12代景行天皇の弟である若木入日子命が祖父である『彦坐王』が孝霊天皇として以前に棲んで居た『勝山黒田』を奪還する話である。とする、わたくしの説の根拠になる、日本書紀の景行12年の『熊襲乱』を翌13年収めた後『勝山黒田』に6年も行宮を置いて九州を巡幸し、最後に祖父『彦坐王』の出身地である浮羽(田主丸~吉井)に3泊した後、近畿奈良に帰っています。

このニギハヤヒの家臣、北九州登美の『長髄彦命』の占拠も『大国主命派の乱』と考える事ができます。

そうしますと、720年の『隼人の反乱』は、(663年の『白村江の戦』で敗れた倭は日本国として)国力増強を律令制に求めた『班田収受法』が原因であろうとされていますが、『根』に有る心理には『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』と捉える事が可能です。

 

『高木神と和邇氏の叛乱』にて、神産巣日神と少日子名命の居た由布院(木綿の院)も戦場になったと考えられ、湯布院町塚原には数多くの塚があり、傍を流れます川は『戦い川』と命名されています。

多くの神産巣日神(大己貴命)派の人達が由布院から宮崎(川南・西都原)方面へ避難したものと思われます。由布院の佐土原・川南・霧島の地名・神社が宮崎県に在ります。と以前のブログにて述べています。

 

わたくしは、音楽とオーディオが趣味ですが、宮崎県児湯郡都農町に『赤木』さまとおっしゃる先輩が住んで居られ、わたくしと同じ装置を所有されており、時々音楽を聴きに御邪魔いたしております。

都農町は日向市の南に位置して、都農川が流れており、その『赤木』さま宅の直ぐ傍に『都農(つの)神社』があります。

実は、この『都農神社』は『日向國』の『一の宮』の格式であり、『都農』は『』とも解釈されます。此処では、『大国主命』を祀っています。

九州では大国主命を祀る神社は中国~近畿地方と比べたら大変少なく研究者の疑念でありました。筑前甘木の『大己貴神社』と宮崎日向國一の宮『都農神社』で祀る『大国主命』は研究者にとって『謎』とされています。

亦、その南の西都市三宅に『印鑰神社』(いんにゃくじんしゃ)が在ります。この『印鑰』とは、印鑑(権力)鍵(倉庫)を意味するそうで、それを祀ったのが『印鑰神社』である由。全国的には九州に多く有り、国府が置かれた律令制(7~8世紀)より古く、以前から在ったものと考えられています。

この西都市の『印鑰神社』の由来は古く、成務天皇の時代に国府が置かれ、その時の創建であると伝えられ、日向國の総社とされていますが、此処でも大己貴命(大国主命)を祀っており、

これは、木綿の院より宮崎に来たのは神産巣日神(大国主命)派の人達である。とのわたくしの説を補完し、真実味を増すことになり、『律令制への反発』『大国主命派の再興を目指した人達の蜂起』へと繋がり、其れを収める為に血縁同族である豊後豊前の地の人々を派遣して対処しています。これが『隼人の反乱』の真の相であると考察されます。

 

この様に『記紀』に述べられています『熊襲』の意味は、時の大王(天皇)に従わない人々、即ち、以前の大王(大国主命)に繋がる人々の抵抗であった。とも謂える事ができます。

 

 

 

コメント (1)
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