「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『倭の大乱』の真相。と考えられます。

2013-11-26 | 古代史

素兎はワニ(和邇)を騙して稲羽に遣って来ます。和邇は田主丸に居ました和邇氏とも捉えられ、NO3の高御産巣日神もこの時期には朝倉に来て居たのかも知れません。

天御中主神命(白氏=首座主=白山姫=大幡主命の嫁)の亡き後?、NO2の神産巣日神命(大幡主命・耶蘇杵・瓊瓊杵尊・アマテル・饒速日命・火明り命)が第2代天照大神(桜谷瀬織津姫穂の子・向津姫)を擁して天の中心である由布院(木綿の院)・日田・朝倉・筑後・筑前・肥前にて祀り事をしていたものと考えられます。

(古事記では高御産巣日神が先に天に降り立った事に成っていて、恰も高御産巣日神が神産巣日神命より、高位の様に印象付けされていますが、高御産巣日神が、神産巣日神命の父親とホツマツタエは記述してます。

当時の葛城=大分や、磯城=久留米・筑後には須佐之男命の息が架かった新羅人達が数多く居たと考えられ、当時の有明海沿岸は、679年の『筑後大地震』以前までは、土地の隆起が起こって否かった。と、考えられ、

筑後平野には、やたらに『島』の附いた地名があります。筑後平野まで海水と、淡水が混じり合う『淡海オウミ』状態で有ったろう。と、考えられます。

小舟でクリークを往来していたものと考えられます。従って、貝・海苔・魚の豊富な海産物の採れる渡来人には、暮らし易い場所でありましたが、

耕作による穀物収穫量が、神崎吉野ヶ里や朝倉平塚川辺りに比べると不足していたものと考えられます。

倭人の新羅系渡来人への待遇改善と、穀物収穫への『良質な土地』の割譲を求めて、須佐之男命を旗頭にして、高躬結び神・神産巣日神命・大己貴命派に叛乱を起こしたものと考えられます。

古事記では三番目の登場とされています神産巣日神命(高躬結び神の長男)=耶蘇杵=瓊瓊杵尊が実権を握っていたものと考えられます。)

 

由布院の塚原(高天原)にある川を『戦い川』と名称されていますのは、此処で、豊後・筑後・朝倉から攻めてきた須佐之男命を支える新羅人派と迎え撃った神産巣日神一族の最後の決戦の場とも考えられます。そうすると、数多くの饅頭塚の謎が解けます。

 

『ホツマ伝』解読ガイドに拠りますと、次のように出ています。

 

『先にツクシのカンタチはソヲのフナツのフトミミをヤスに娶りて、フキネ生む』

『後諸共に 神となる オオモノヌシフキネなり トヨツミヒコと 治めしむ』

ミモロの傍に殿成して 請えば賜はる儲けの子 クシミナカタと若妻のサシクニワカヒメ 諸共に 住ませてヌシは ツクシ治す』

『ひたるの時に これを継ぐ 母子至れば 遺し言「このムラクモは生れ坐せる御子の祝ひに捧げよ」』

『言いて 夫婦神となる ヤスに納めて 祭る後 ツクシヲシカの 御言宣』

 

フキネ天之冬衣神(あめのふきねのかみ)サシクニワカヒメは刺国若比賣命の事。

※    ツクシは筑紫と解釈。ヤスは夜須ミモロは甘木御諸山(三輪山)

※    ムラクモとは須佐之男命が出雲にて八俣之大蛇を退治した時手に入れた剣を『天』に奉げています。その剣であります。

 

このようにわたくしの「大国主の出身地は甘木朝倉」説を裏付ける事が出来ます。

 

 

大国主命の因幡の素兎の条項に出てきます八上比賣命

(わたくしの説では)倭(北部九州)に居られた事になり、八十神(多くの神)が結婚を望んだと記入されていますが、このお方はいったい何処にお住いであったのでしょうか?気に為ります。今日はこの辺を考えて見たいと思います。

 

実は前回のブログにて、わたくしは刺国若比賣命の神産巣日神への嘆願にて杵築の大屋毘古命の処に匿われ、そこに滞在中に多祁理比賣命を娶って阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を儲けているものと述べましたが、

之は時間的に余裕が無く、可能性が薄く、気になって考証を深めましたが、

結論として、わたくしには如何も八上比賣命が多祁理比賣命と同一人物であると考えられます。

多祁理比賣命を祀っています宗像市には八上を逆にした「上八」(こうじょう)の地名があり、宗像の『海の道宗像館』に電話を入れ、何時頃から地名があるのか訊ねて見ましたところ、江戸時代の貝原益軒(1630~1714年・二代目福岡黒田藩忠之3代目光之に仕えた)の筑前名所図会には「上八」の名前が出ている由。で古くから在ったと考えられ、亦、「上八」を(こうじょう)と呼ぶのは何故かの質問には、「丈の字の間違いではないか?とも解釈され、好く解らない。」そうであります。

わたくしの此れまでの調査では、息長が秋永・狭穂が嘉穂・佐士野が佐土原と謂った具合に小細工が各所に施され、実体が解り難くされています。「八上」の地名を「上八」と換えているものと考えられます。

 

古事記に於いては大己貴命が八上比賣命を娶る所から、八十神が大己貴命を殺そうとした。事に為っていますので、甘木朝倉周辺に居た大己貴命が、高天原(由布院)より天降して宗像に居た多祁理比賣命を娶った事から、問題が生じた事になります。

 

現在久留米市北野に赤司八幡宮が在りますが、延喜式神名帳では「豊比咩神社」とされており、昔は大社であった由。縁起には景行天皇が九州遠征の折、「田心姫命(=多祁理比賣命)の荒魂が八女津媛」となって現れたので此の宮に「田心姫命(多祁理比賣命)」を「道主貴(ちぬしのむち)」として祀ったとされています

此れは、景行天皇以前に多祁理比賣命がこの付近に住して居た伝承の証し、とも考えられます。

 

 

もし、八上比賣命が多祁理比賣命であるならば、天下を治める後継者争いは熾烈になったものと考えられます。

 

高御産巣日神は、将来は天之忍穂耳命に(須佐之男の落し子と考えられます)自分の娘(萬幡豊秋津師比賣命)を娶らせ、(古事記において、国譲りの条項では実際、天之忍穂耳命を出雲の大国主命の下へ遣ろうとしていますが、失敗をしています。)天下を治めさせようと考えていました。

一方、大己貴命はムラクモの剣を持ち、多祁理比賣命を娶り、神産巣日神(序列二位?)とその子である少名日子名命を頼り、天下を治めようとしたものと考えられます。

 

 大己貴命は、須佐之男命派(新羅からの渡来系人)の乱を収めきれず、敗走。神産巣日神命が居たゆふいん高天原への逃避。

筑後・筑前・朝倉→日田→ゆふいん高天原→杵築→伊予→出雲のコースを辿っていると思います。

多祁理比賣命・迦毛大神・下照姫・少名日子名命・大己貴命等の人々は杵築から出雲へ渡ったものと考える事が出来ます。

 

人々は部族事に二者択一の選択を強いられ多大な血が流された事でしょう。

 

戦乱はやがて神産巣日神や高御産巣日神・和邇氏方の勝利となります。

 

伊予国風土記逸文(釋日本紀 卷十四・萬葉集註釋 卷第三)には下記の事が記されています。

伊予の國の風土記に曰はく、湯の郡(現温泉郡)。大穴持命(おほなもちのみこ

と)、見て悔い恥ぢて、宿奈比古那命(すくなひこなのみこと)を活かさまく欲(おも

ほ)して、大分(おほきだ)の速水の湯(別府温泉)を、下樋(したび)より持ち度り來

て、宿奈比古那命を漬し浴(あむ)ししかば、蹔(しまし)が間(ほど)に活起(いきか

へ)りまして、居然(おだひ)しく詠(ながめごと)して、「眞蹔(ましまし)、寢ねつるか

も」と曰(の)りたまひて、踐(ふ)み健(たけ)びましし跡處、今も湯の中の石の上に

あり。云々(「国土としての原始史~風土記逸文」より転写)

 

※「見て悔い恥じて」の解釈は少名日子名命を「争いに捲き込んだ反省」と捉えられます。

 

この様に少名日子名命が負傷(病気?)して、大己貴命が別府から温泉を取り寄せて、少名日子名命を生き返らせた。と述べられています。

 

大己貴命と少名日子名命一行は豊後杵築から愛媛に一旦渡った後、出雲に行ったものと考えられます。

 

古事記ではその後「大国主命の国譲り」条項が始まります。

 

この様に此れが『倭の大乱』の真相。であったと紐解かれます。

 

 

 

 

 

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