「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

宇佐公康氏の伝承は正しかった。神武天皇は若木入日子であると考えられる。

2012-05-07 | 古代史

ゴールデンウィークの間、神武天皇について、真実の歴史を目指してあれこれ考えが湧き、頭の中が混乱してしまいました。

 

大体、記紀の謂う「五瀬命」「神武天皇」とは一体誰の事でしょうか?

わたくしには、この二人は記紀に必ず出て来ている人物と考えられ、特定が出来るのでは?と考え、大分の亀塚古墳に埋葬されている。と考えられる「五瀬命」を、現地に行って考えてみる事にしました。

5月6日晴天の下、妻とその姉を連れ、由布院から別府を経て大分市へ、現地は、大分市から国道197号を佐賀関方向(東)に20分程の「坂ノ市」の丘の上の見晴らしの好い高台にあり、眼下に別府湾の海を観ることが出来ます。廻りには木々の緑も多く、傍には「海部古墳資料館」があり、無料にて、気持ち好く観覧出来るように整備されていました。

古墳は、平成になって調査後、整備されており、円墳の頂上にある石棺の堂々たる大きさ(3.2m×1m深さ0.9m)からも、大王クラスの人物と謂うのが伝わってきました。

墳墓建設当時に思いを籠めて「あなたは、何方ですか?」と心の中で呟きました。

 

 

自宅にかえり、もう一度初めから考えて見る事にしました。

宇佐公康氏の伝承を信じて、「神武天皇は、景行天皇の弟である。」と仮定します。

ならば、神武は垂仁天皇の子であらねばなりません。垂仁天皇は7人の妃を娶っています。その子は全部で16柱。内、男子は13柱です。

神武天皇は4人兄弟(五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦)の末子と謂われています。

垂仁の7人の妃のうち、4人以上の子を儲けていますのは、日葉酢媛命皇后のみで、この日葉酢媛命との間に5人を儲けている事になっています。(この日葉酢媛命は丹波道主王の子で、祖父が日子座王になっており、開花天皇以来九州とは縁の深い方です。)

この5人の御子の名前は、印色之入日子命(五十瓊敷入彦命)大帯日子淤斯呂和気命(大足彦忍代別尊)=景行天皇大中津日子命(大中姫命=女性になっています。)・倭比賣命(倭姫命)・若木入日子命(稚城瓊入彦命)となっております。{( )は日本書紀での名前。}古事記では4柱が男で倭比賣命のみが女性とされ、日本書紀では2柱が男姓で2柱が女姓にされており、混乱を生じています。

この問題に関しては、一般に日本書紀の捏造が数多く認められ、(此処でも本当の事を知られたくない為の)大中姫命は捏造と疑われます。

もし仮に、古事記による、この4人の男子が東征をしたとすれば、印色之入日子命(五十瓊敷入彦命)が五瀬命になり、若木入日子命(稚城瓊入彦命)が神倭伊波礼琵古命(神日本磐余彦尊)と謂う事になります。

五十瓊敷と五瀬は捏造とも考えられますので、可能性があります。若木入日子(稚城瓊入彦)と伊波礼琵古(磐余彦)は全く関係を感じさせません。が、しかし、神武天皇は若御毛沼命(わけみけぬのみこと)とも呼ばれていました。

どうも、若木入日子命(わかきいりひこみこと)と若御毛沼命(わけみけぬのみこと)は同一人物とも感じとれます。これも捏造の感があります。大帯日子淤斯呂和気命(大足彦忍代別尊)が稲飯命であると考えられ、大中津日子命が三毛入野命と同一と解釈されます。そして、是は間違いの無い考察と考えられます。

裏付けの根拠は、中津市を流れる山国川の向こう北側に三毛門(みけかど)と謂う地名があり、大中津日子命と三毛入野命(みけいりのみこと)は同一地点の関係を認める事ができる。と考えられます。

そうであれば、やはり、五十瓊敷入彦命と五瀬命は同一と考えられます。そして、若木入日子命と若御毛沼命も同一人物です。

と、謂うことで、神武天皇東征の実態は、垂仁天皇と日葉酢媛命の子である4人の兄弟が力を合わせて勝山町黒田(大和)周辺を奪還する戦であったと考えられます。

 

そして、宇佐公康氏の述べた伝承は正しかった事を意味し、記紀の捏造が明らかになり、日本の古代史が覆りました。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする