その1・ その2 |
このブログを始めて1週間になる。このブログを始めるきっかけにもなっていたのに,カテゴリーの中で唯一取り上げていない「遡上」のカテゴリーで書こうと思う。何度も訪問している永田川を最初に取り上げるべきにも思うが,構想が立たないので「清滝川」から書きたい。
清滝川は,天保山大橋から225号を天文館方へ行くとき,気がつくと渡っているような小さな川だ。1830年頃までは甲突川だったことが,「鹿児島城下絵屏風」からうかがえる。
清滝川の河口付近の様子が下の写真だ。
(2008年10月29日撮影)
奥に見える橋は,天保山の臨海大橋から鹿児島新港の方へ向かう道路だ。
このあたりは道路に沿って桜島と錦江湾を一望できる公園となっている。
(2008年10月28日撮影)
公園から新港の方へ向かうと次のような場所がある。
(2008年10月29日撮影)
この堤防から桜島の方を覗き込むと,もう海になっている。この下が河口になっていることには道路の反対側の柵の下が川になっていることに注目しなければほとんど分からない。
城南町付近をさかのぼっていくと,次の写真のような公園が見えてくる。
(2008年10月28日撮影)
この先のカーブを曲がると川は道路の下に消えてしまう。そのあと,どこへつながっているのかはよく分からない。
しかし,この公園と川の間の道路を道なりにいくと,次のような場所がある。
(2008年10月28日撮影)
かつて清滝川の上にかかっていた「がんがらばし」の跡だ。
噴水の手前にある案内板には,名前の由来の一つの説として,「幕政時代にこのあたりに広い土地をもっていた唐からの帰化人である沈一貫が住んでいた。この広い土地は,彼が島津家の海外貿易に関係し,医者としても活躍したことでこの広い土地を与えられた。その一貫の『貫』と,唐の『唐』からとって『貫唐橋(カンガラバシ)』と呼ばれていたのが,いつの間にか『丸瓦羅橋(ガンガラバシ)』と呼ばれるようになった。」という物語が載せられている。
平成8年までは,橋としての役割を果たしていたという。写真の4つの柱は,大正14年9月に架け替えられたとき以来のもので,その中には「丸瓦羅橋」や「ぐわんぐわらばし」という文字が刻まれているものがある。
かつてはさらに川が続いていたようだが,これ以上さかのぼるには,文献等で調査をしなければならないし,川も表面に現れていないため,ここで清滝川の遡上は終わりにしたい。
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(以下,2008年11月5日追記)
ここで終わる予定が,たまたまこの続きを見つけてしまったので,「その2」に続けたい。
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