結論から言うと、スティールボールランは激オモローです。特に18巻がヤヴぁい。
ジョジョの奇妙な冒険第7部(スティールボールラン)は今までの章のパラレルワールドとして描かれています。もうこの設定自体が大統領のスタンド、D4Cの能力を暗示していましたね。
D4Cの能力の解釈はたぶん今までのスタンドで最も難しいと思います。特に難解なのがジョニィ銃撃の目撃証言が3者3様である点です。スポンジが二つ重なるという描写がありますから、シュレディンガーの猫のような確率解釈をしたくなります。第5部のキングクリムゾンに見られるような決定論的(古典物理学的)な見方から一転して、みたいな流れを想定してみたのですが、しかし、どうもしっくりいきません。違った世界を作り出すのだから、エヴェレットの多世界解釈をベースに考えるべきなのか、しかしそれではやはり目撃証言がばらつくのがどうにも気持ち悪いわけですよ。
ここは一度物理から離れる必要があったのです。メイドインヘブンやマンダムの能力でも見られるように、人の認識は物理法則の範疇に収まらない、という解釈が主流にあるようですし。そこで考えたいのは、唯物志向な存在論ではなくカント哲学における先験的観念論です。まずD4Cは、ジョニィを銃撃した犯人が①大統領②ウェカピポ③DIOという世界を作り出します(この世界をもともと存在する並行世界と考えると前述の通り混乱します)。もちろん①がすべての基本と呼ばれる世界です。この①の世界に②と③を重ねるわけですが、疑いようのない「ジョニィ銃撃」という実在性を中心に(スポンジの穴として)、人間が現象を整理構成する方法をD4Cが操っていると思うのです。つまり②の世界の目撃者はジョニィ銃撃という事実を「ウェカピポがジョニィを銃撃した」という現象として認識し、その認識を①の世界に持ち込むのです。そう考えると、1つの世界に2つの認識(現象を整理構成する主体)が同時に存在することができないというこも納得がいきます。スタンドのモチーフのひとつであり、ウェカピポが崩壊する際にも出てきたメンジャースポンジは、人間の先天的な直感形式である空間の概念とは相容れぬものとして描かれているのでしょう(メンジャースポンジはフラクタル図形の一種で、面積無限、体積0の図形です。その次元はlog20/log3≒2.7次元とされます)。異なる世界にいても自分の認識の枠組みを1つに統合できる、あるいは他者のそれを1つに重ねることができるのはファニーバレンタイン大統領だけ、というわけです。
前置きが長くなりましたが、D4Cの魅力の1つはメンジャースポンジをモチーフとして描いたことだと思います。スタンドに「芸術性」を付与する、これがジョジョの奇妙な冒険第7部(スティールボールラン)を特徴づけている点だと思います。空間の断裂にジッパーというモチーフを持ち出したスティッキーフィンガーズにその片鱗が見られますが、開花したのは7部だと思うんです。「キャッチザレインボーは劣化版クラフトワーク」とか思ってた人はとりあえず鉄塔に閉じ込もって一晩考えなさい。「虹」を渡るように…「ガラスの板」の上を歩くように…雨は降りそそいでいるとは限らない のセリフにはシビれましたよ。雨の時にしか発動できないという縛りも、たまらんです。チューブラーベルズの能力を荒木先生以外誰が思いつけますか。「我がチューブラーベルズは防御シールドにして、お前へのギロチン処刑の世界を兼ねたッ!」のシーンの絶望感は異常。インアサイレントウェイのビジョンに、人類の起源(言語発生と音楽、埋葬の習慣)を思うのは私が人類学専攻だからでしょうか。
ルーシースティールが発現した涙の乗車券も素晴らしかったです。歌詞と能力がこれほどリンクしているスタンドは例を見ません。読み進める間、ビートルズの「Ticket To Ride(涙の乗車券)」が脳内再生されてなぜか泣きそうになりました。とりあえず、今後の展開が楽しみ過ぎる!
気が向いたらまたジョジョ熱たっぷりの更新するよ。
TO BE CONTINUED…
ジョジョの奇妙な冒険第7部(スティールボールラン)は今までの章のパラレルワールドとして描かれています。もうこの設定自体が大統領のスタンド、D4Cの能力を暗示していましたね。
D4Cの能力の解釈はたぶん今までのスタンドで最も難しいと思います。特に難解なのがジョニィ銃撃の目撃証言が3者3様である点です。スポンジが二つ重なるという描写がありますから、シュレディンガーの猫のような確率解釈をしたくなります。第5部のキングクリムゾンに見られるような決定論的(古典物理学的)な見方から一転して、みたいな流れを想定してみたのですが、しかし、どうもしっくりいきません。違った世界を作り出すのだから、エヴェレットの多世界解釈をベースに考えるべきなのか、しかしそれではやはり目撃証言がばらつくのがどうにも気持ち悪いわけですよ。
ここは一度物理から離れる必要があったのです。メイドインヘブンやマンダムの能力でも見られるように、人の認識は物理法則の範疇に収まらない、という解釈が主流にあるようですし。そこで考えたいのは、唯物志向な存在論ではなくカント哲学における先験的観念論です。まずD4Cは、ジョニィを銃撃した犯人が①大統領②ウェカピポ③DIOという世界を作り出します(この世界をもともと存在する並行世界と考えると前述の通り混乱します)。もちろん①がすべての基本と呼ばれる世界です。この①の世界に②と③を重ねるわけですが、疑いようのない「ジョニィ銃撃」という実在性を中心に(スポンジの穴として)、人間が現象を整理構成する方法をD4Cが操っていると思うのです。つまり②の世界の目撃者はジョニィ銃撃という事実を「ウェカピポがジョニィを銃撃した」という現象として認識し、その認識を①の世界に持ち込むのです。そう考えると、1つの世界に2つの認識(現象を整理構成する主体)が同時に存在することができないというこも納得がいきます。スタンドのモチーフのひとつであり、ウェカピポが崩壊する際にも出てきたメンジャースポンジは、人間の先天的な直感形式である空間の概念とは相容れぬものとして描かれているのでしょう(メンジャースポンジはフラクタル図形の一種で、面積無限、体積0の図形です。その次元はlog20/log3≒2.7次元とされます)。異なる世界にいても自分の認識の枠組みを1つに統合できる、あるいは他者のそれを1つに重ねることができるのはファニーバレンタイン大統領だけ、というわけです。
前置きが長くなりましたが、D4Cの魅力の1つはメンジャースポンジをモチーフとして描いたことだと思います。スタンドに「芸術性」を付与する、これがジョジョの奇妙な冒険第7部(スティールボールラン)を特徴づけている点だと思います。空間の断裂にジッパーというモチーフを持ち出したスティッキーフィンガーズにその片鱗が見られますが、開花したのは7部だと思うんです。「キャッチザレインボーは劣化版クラフトワーク」とか思ってた人はとりあえず鉄塔に閉じ込もって一晩考えなさい。「虹」を渡るように…「ガラスの板」の上を歩くように…雨は降りそそいでいるとは限らない のセリフにはシビれましたよ。雨の時にしか発動できないという縛りも、たまらんです。チューブラーベルズの能力を荒木先生以外誰が思いつけますか。「我がチューブラーベルズは防御シールドにして、お前へのギロチン処刑の世界を兼ねたッ!」のシーンの絶望感は異常。インアサイレントウェイのビジョンに、人類の起源(言語発生と音楽、埋葬の習慣)を思うのは私が人類学専攻だからでしょうか。
ルーシースティールが発現した涙の乗車券も素晴らしかったです。歌詞と能力がこれほどリンクしているスタンドは例を見ません。読み進める間、ビートルズの「Ticket To Ride(涙の乗車券)」が脳内再生されてなぜか泣きそうになりました。とりあえず、今後の展開が楽しみ過ぎる!
気が向いたらまたジョジョ熱たっぷりの更新するよ。
TO BE CONTINUED…