ひょうごの在来種保存会

会員さんも800名を越えました。活動報告を発信します。

保存会通信18号(25年秋)  念願の椎葉村へ【山根成人氏真骨頂!】  代表山根成人

2014年01月21日 | 保存会通信17号
これぞ、山根ワールド!!
全くもって匂う文章だ!!
写真もなんにも入れずにアップ!!



 NHKのドキュメントで知ってからずっと行きたかったが、この三月、椎葉勝さんがウチで食事をしたご縁があり(会員の有元さんのご縁)一気に話が進んだ。

 1日のフェリーで大分港へ、2日の朝7時に着いてからが大変だった。阿蘇山は最高の条件で観光できた。雄大な景観と雨上がりの後の晴れ間だろう、みどりの山々が筆舌を超えた輝きで感動。阿蘇神社に参拝し、阿蘇高菜のタカナ飯をいただく。至る所で湧き出る水の豊かさには悔しいような羨ましさも感じてしまった。

 一宮を昼過ぎにたち、いよいよ椎葉へ。高千穂を過ぎ、いよいよ椎葉村に入ったが、立派な舗装道路と思ったより秘境を感じさせない景観にどこか物足りなさを感じながら鶴富屋敷に到着。那須家32代目の末裔というおばあちゃんが鶴富姫のロマン溢れる話を聞かせてくれた。
「民宿焼畑の椎葉さんはどの辺ですか」と尋ねると「あそこはまだまだずっと奥に入らんとな。」まだ山中に40~50分走らないとということ。「どうりでなあ、これでは秘境でないからなあ」と意外な納得。
実際ダムの北岸に沿ってどこまで続くのかと思うほどくねくねと走らされ、最西端からまた奥へ。ほんとに秘境を味わった観があった。

 どんつまりの「民宿焼畑」に着いたのは3時を過ぎていただろうか。勝さんは山に行って明日の準備で留守だったが、ばあちゃんが歓迎してくれ、彼女の豪邸に案内してくれた。「ウオッシュレットやでえ」と、有元さんに聞いていた別棟だった。早くも第一の目的だったくに子オババとの出会い。オババは映像どうりで元気そのもの、それに客(人間)が好きでたまらんという性格が強烈に伝わってきた。
 自分の居間に案内しテレビをつけ過去の録画も見せながらどんどん喋る。最近出来たという本(オババだけを書いた本)も出してきて早速販売、後で勝るさんが言うには「はや売りよったか」。
 風呂に入り、6時半の夕食は本宅で我々入れて14人の食事が並べられていた。ここでもオババがテーブルごとに料理の説明をしてまわる。概ね本やテレビそのものでたくさんの山菜料理に山女の塩焼きがついたもの。名物ワクド汁も勿論。
 さっき大歓迎してくれた勝さんもすぐに自分たちの席に来てビールを飲む。早速オババの喋る姿に「ウソ八百ばかいうからな」という。オババは全く意に介していない。「ホントはな、来るとは考えてなかった。親分ありがとう」、「なんでそこで親分がでてくるんや」、「そらヤクザの町から来たんだから」などと言いながら大いに喜んでくれた。嬉しい嬉しいといいながら途中特製のどぶろくも振舞ってくれた。
 築150年?の家は一面が物入れになり、その木がいぶされ立派な梁とともに黒光りがして貫禄を呈しながら何ともいえぬ安らぎを発散していた。
 一番最後まで粘ってかなりいい気分になったころ奥さんも出てきて記念撮影。はったりやの亭主にぴったりの穏やかで芯の強そうな人であった。

 最後の最後まで心配していた天気だが、何とか大丈夫だろうと誰もがその星空に確信を持てた様に3日の朝は焼畑のための朝だった。
「山根さんのお陰や、先生有難うホンマに」この男は私に「親分、先生、山根さん、会長、大将」など出任せにイロイロな名称をつける。
 7時の朝食を済ませ山に向かう。カテーリと言われている仲間の応援隊と各地からの参加者総勢40人余り、第一のヤボ(焼畑)で勝さんの説明を聞く。彼は心がとても弾んでいるようで、天候に恵まれたことに最高度の喜びをかみしめているようだった。
 予定通り火をつけられるのは6年目、昨年は何度も雨で延期、結果も思ったようにいかなかったらしい。大体の準備と山の神への供物も揃い祈りのときが来た。
 「偽宮司だけどな」などといいながら例の「今からこのヤボに火を入れ申す、蛇、虫けらども早々に立ち去りたまえ、――――――――――」全員が竹で作った杯でカンパイ。無事を祈る。一番の高所から火が入れられパチパチパチと想像以上の燃える音。わき道に沿って下に向かって火をいれていく、しばらくして一面に火が降りていく様はすごい迫力だった。
 半分以上燃え下がったところで下からも火を入れる。オババはなにかぶつぶつつぶやいている「風の神様、下に向かわれくだされ」という風なことを言うていたようだった。小さな燃材を拾いながら終わるまでずっとそういって祈っていた。腰を折って只祈るだけの姿はだんだん荘厳ささえ感じられる純粋さが自分の胸に入り込んでくるのが分かる。近くに寄ると猛烈な熱さと音、その真ん中に立つ自分に何か誇らしさすら感じられる。
「オババ今日のヤボ焼きは何点やった?」と聞くと「あー90・・・いや、100点だなあ」と何十回やった過去を追憶しながらの言葉は感謝の実感にあふれた安堵が漂っていた。

 二つ目の畑もスムーズに終わり昼の休憩。どの顔も満足の喜びに満ちていた。自然の偶然の中で与えられた幸せにつつましい美しい顔に見えた。こんなうまくいくことはそうザラにないのだということはすぐに理解できた。
まだ煙の残るなか、ソバの種が配られちょっとアバウトでないかと思えるくらいの指導で始まった。焼け跡の温度は30度以下になっているのだという。平家かぶらも混植で蒔かれ、その後ヨシ?で作った箒でなでていく。

3時ごろ下に下り「焼畑体験ハウス」に集まり交流会。有志で600万かけて作ったというしっかりしたログハウスはそばうち教室用の道具や昔の農具などが飾られていた。
4時からの交流会はこの焼畑再生会会長の挨拶に始まり全員簡単な自己紹介。東京、神奈川、奈良、京都、姫路、大阪など各地からアメリカ人も一人いる。
鳥と野菜の網焼きをメーンに山女の塩焼き、山女のなまのぶつ切り、コロッケ、ドーナツ、サラダ、などなど。ヒエツキ節の名人も参加「おひねりがないなあ」と愚痴りながら2曲も聞かせてくれ、座が一気に盛り上がった。
延々と宴席は続くが卑しい私は何時もラストまで粘る。お開きのカンパイの音頭をとらせてもらい気分をよくしてもう一杯。宿に帰ってからもまだくたばらない。戻ったとき星が見えずパラパラと雨が降ってきた。みんなに歓声があがる。これで雨が降ったら1週間でそばが芽を切る、降らねば2週間と勝さんが言ったのをみんな覚えていたからだ。
すべてに恵まれていたんだなあ。と誰もがまたまた豊かな気分で床についたことだろう。
母さんの話では夜中雨で目が開いたというくらい降ったそうだ。 言うことなし。

字の書けないオババだが研究者からは「クニコ博士」とも言われている。近辺の植物500種類は食べ方効能まで熟知している。料理の仕方、保存の仕方、生きる知恵、最高の幸せを感じる術。現代の知識人間がひれ伏してしまう本来の人間の姿をすべての動作で演出してくれている。
 恥ずかしさを感じつつも無限の生活力を土とともに生き抜いている姿は神々しいくらい。

 学ぶことだらけの旅だった。彼の息子の龍也は役場に勤めているが後継を決めている。羨ましくも力強い生き方は混迷する現代社会の大きな方向性の一つとしての価値が評価されていくだろう。まだまだ書きたいことが一杯だが紙面がない。興味のある方は連絡下さい。

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