本居宣長・奥墓(オクツキ)の山櫻
最近『国家の品格』と題する本が出て評判になった
日本人のアイデンティテーを何処に求めるかであろう
凡そ武士道に求めたように思われたが
もう一つ大倭心があるのではないかと思われ
急に思い立つように 松坂に向かう
吉野から山を降りて 室生・長谷寺の櫻も巡った
だが 伊勢・松坂へ 心ははやにどうしても行かなければと
本居宣長 山室山に眠る宣長の奥墓に立つ山櫻へ
山の下にある妙楽寺から 更に山室山へ登り 立派な奥墓があった
見ると背後に確かに山櫻が咲いていたが 何と周辺には殆ど山櫻の植栽
多分後から植えられた山櫻であろうか 美しく咲いていた
晴れた日なぞは ここから富士の高嶺も見えると言う
以前この奥墓の横には 宣長を御祭神とする山室山神社があった
神に祀られた宣長はその後有為翩々としながら 手厚く庇護され
明治政府・取分け明治天皇から 金一封を受けられたこともあって
現在は松坂町殿町に移転し 従四位から従三位へ格上げになり
『本居宣長ノ宮』と改称されたのは平成七年であり 記憶に新しい
古事記を丹念に調べ 『古事記伝』を著し 『玉勝間』など多数
更に驚くべきことは 詠んだ歌が一万首を超えている
大和心とは何であるかを只管追求した稀有の人生であった
我が死の葬送の方法を
そしてそこに山櫻を植えよと言った遺言を事細かに指示し
「秋津彦瑞櫻根大人(アキヅヒコミヅサクラネノウシ)」として
霊牌を作り 祭祀を行うようにとの詳細があった
何故斯くの如くして逝かれた根拠は何だったのか
憶測に過ぎないが 魂の在処への拘りだったような気がしてならない
我が魂は 皆と共にあると
弟子・平田篤胤は言う
「師の翁も、ふと誤りてこそ、魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、
彼処(カシコ=黄泉の国)ぞといはれつれど、老翁(オヂ)の御魂(ミタマ)も、
黄泉国(ヨオツノクニ)には往坐(イデマ)さず、
その坐(マ)す処(トコロ)は、篤胤(アツタネ)たしかにとめ置きつ、
しづけく泰然(ユタカ)に坐まして、先だてる学兄達(マナビノイロセタチ)を
御前に侍(サモ)らはせ、歌を詠(ヨ)み文(フミ)など作(カ)き、
前(サキ)に考(カンガ)へもらし、解誤(トキアヤマ)れることもあるを、
新(アラタ)に考へ出(イデ)つ。こは何某(ナニガシ)が、
道にこゝろの篤(アツ)かれば、渠(カレ)に幸(チハ )ひて悟らせてむなど、
神議々(カムハカリハカリ)まして、
現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬ をや」
又このようにも言う
「然在(シカラ)ば、老翁(ヲヂ)の御魂(ミタマ)の座(オハ)する処
(トコロ)は、何処(イヅコ)ぞと云ふに、
山室山(ヤマムロヤマ)に鎮座(シヅマリマ)すなり。さるは、
人の霊魂(タマ)の、黄泉(ヨミ)に帰(ユク)てふ混説(マギレコト)をば、
いやしみ坐(マ)せる事の多(サハ)なりし故(カラ)に、
ふと正(タダ)しあへ給はざりしかど、然(シカ)すがに、
上古(イニシヘ)より墓処(ハカドコロ)は、
魂を鎮留(シヅメトド)むる料(タメ)に、かまふる物なることを、
思はれしかば、その墓所を、かねて造(ツク)りおかして、
詠(ヨ)ませる歌(ウタ)に、
山室に ちとせの春の 宿(ヤド)しめて
風にしられぬ 花をこそ見め
また、
今よりは 墓無(ハカナ)き身とは 嘆かじよ
千世の住処(スミカ)を 求め得つれば
と詠(ヨマ)れたる、此は凡て神霊(タマ)はこゝぞ住処(スミカ)と、
まだき定めたる処に鎮居(シヅマリヲ)るものなる事を、悟(サト)らしゝ
趣なるを、まして彼山は、老翁(ヲヂ)の世に坐(マシ)し程(ホド)、
此処(ココ)ぞ吾が常磐(トコトハ)に、鎮坐(シヅマリヲ)るべきうまし山と、
定置(サダメオ)き給へれば、彼処(カシコ)に坐(マ)すこと何か
疑(ウタガ)はむ。その御心(ミココロ)の清々(スガスガ)しきことは、
師木島(シキシマ)の 大倭心(ヤマトゴコロ)を 人とはゞ
朝日(アサヒ)に匂(ニホ)ふ 山さくら花
その花なす、御心の翁(オキナ)なるを、いかでかも、
かの穢(キタ)き黄泉国(ヨミノクニ)には往(イデ)ますべき」
更に
「さて、此身死(マガ)りたらむ後に、わが魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、
疾(ト)く定(サダ)めおけり、そは何処(イヅコ)にといふに、
なきがらは 何処の土に なりぬとも
魂(タマ)は翁の もとに往(ユ)かなむ
今年先(コトシサキ)だてる妻(イモ)をも供(イザナ)ひ
【かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、
予が道の学びを、助成せる功の、こゝらありて、
その労より病発りて死ぬれば、如此は云ふなり、
それは別に記せるものあり】
直(タダチ)に翔(カケ)りものして、翁の御前(ミマヘ)に
侍居(サモラヒヲ)り、世(ヨ)に居(ヲ)る程(ホド)は
おこたらむ歌のをしへを承賜(ウケタマ)はり、
春は翁の植置(ウヱヲ)かしゝ、花をともども見たのしみ、
夏は青山(アヲヤマ)、秋は黄葉(モミヂ)も月も見む、
冬は雪(ユキ)見て徐然(ノドヤカ)に、
いや常磐(トコトハ)にはべらなむ」
平田篤胤説に依れば 宣長が死して後 黄泉の国に行くと言っていたのは
誤りで 私がはっきりと聞いている
亡骸は 千代の棲家とした山室山にあるけれど
霊魂は それぞれの弟子や心ある者たちと一緒になり
今までの学説の誤りや新しい学説の後人との議論を待っていると
そして同じ歳に亡くなった妻は永年学問の犠牲になったので
それまで歌詠みなどを出来なかったが 今度は妻と二人で出来るようになる
予め造っておいた墓所で 櫻を植えて貰い
その春の花を愛で 夏の青山を見 秋には紅葉や月を楽しみ
そして冬は雪を観て 泰然自若としていると
私は思ったのである 国家の品格とは武士道にだけあるものではなく
厳粛に己が人生をすべてヤマトゴコロに捧げた人があったではないかと
神道の極意は 教義もなく 何なのか
それは祓いであり 清めであるに違いなく 鎮魂と魂振である
清浄なる世界への祈りが神道であったと
但しあの軍部独走から 何たる恥辱を受け続けたのだろうか
明治のご維新の際 戊辰戦争などで亡くなった薩長同盟の戦死者だけを葬り
事後国家神社としてなせる靖国神社の在り方は 何処か偏屈であり
ましてや戦地で死ぬこともなく 自決も出来ず 戦犯として亡くなった方を
果たして本当に 他の戦死者と同列に置いていいものか
私には甚だ疑問に思えてならない 一遺族として憮然たる思いが残る
戦犯で亡くなったご遺族は 自らの手で それぞれの御霊の霊牌を作り
それぞれの神社を作って祀ったらよかろうと思うが極論ではない筈である
善通寺市にある四国76番札所・金倉寺に「妻返しの松」があった
逢いに来た妻を帰した処にある松で 明治人の気骨溢れる逸話であったが
我が敬愛する乃木稀典のように ご自身の社を堂々と作ったらいい
私は周辺諸国に阿っているつもりは一切さらさらない
本居宣長のすべての学問に照らし合わせ そう断じたいだけである
今日は 伊勢の神宮を参詣してから 再び京都に入ろう
巻頭写真は 山室山山麓の御寺・妙楽寺にある宣長の絵馬
宣長の奥墓は妙楽寺から領地を分けて貰い 本人が建てたものであった