硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

      秘すれば花なり

2015年05月13日 | 季節の移ろいの中で

喫煙が大嫌いな家内のお陰で 量はスッカリ減ったが止められい

 

 

 

         秘すれば花なり 

 

 真夜中、CNNにチャンネルを合わせたら、Amtrak Trainの列車事故が伝えていた。5人死亡、6人重篤、49人怪我人搬送と言う。ニューヨークからワシントンまでの移動で、私も普通に乗車していた、言わば通勤列車のようなものだ。列車は激しい損傷個所があるらしく、詳細は未だ分かっていない。テロでないことだけ祈っていたいい。(その後、制限速度80キロ以内のカーブに、二倍以上の170キロで突っ込み、脱線し横転したらしい。運転手から事情聴取されると言っていた。ルフトハンザ航空のLCCはアルプスに急降下して突っ込み、149人の道連れをした副操縦士ルヴィッツ容姿者は何てことをしたのだろうか。中には新婚さんもいて哀れだが、精神疾患を持つ操縦士に飛行させた親会社のルフトハンザに、当然ながら全責任があるだろう。容疑者は私的な医者にかかっていたにも関わらず、操縦見合わせの診断書を提出していなかった責任は大きいものだが、管理者として何故診断書を私的にではなく、会社という公的な判断にしなかったのか、大いに責任があると言える。こうした公的交通機関は然るべき重い責任が課せられるのは当然と言える)

 さて長らくその情報をお伝えしていなかったが、櫻塾はその後どうなったか。実は東日本大震災後、活動内容を大幅に換え、櫻の樹だけ植栽することを一時断念した。各種の落葉広葉樹や常緑広葉樹などの苗床を大幅に増やし、各地へ搬送し植栽する方へ舵をきった。吉野のような山櫻の森を作ろうとしていたのだが、いとおしい櫻は心ならずも後回しにした。更に塾生たちは各地の森人たちのもとへ行き、一から樹木の観察や研究や実験などを中心にすることにした。そして嬉しいことに、その中から8組のカップルが生まれ、各地で銘々その活動を続け、それを主流としている。私たち事務局は皆それぞれの自立へ応援をするために、全員にお給料を支払っている。無論希望者には進学や留学もさせて戴いているが、殆どの費用はすべて当方負担とし、50年先100年先を見据えた地味な活動を主流としたのである。公益財団法人日本さくらの会公益財団法人日本花の会を横目にしながら、私たちは独自の道を歩み始めた。長い長いスパンで考え行動することにしたのである。既に番組が終了したBS日テレ「森人 MORIGIN」をお手本として住友林業さまにもご協力を仰いでいるが、森林大国の日本にはたくさんの智慧が眠っているのだ。時の政治のアオリを受け、テンデンバラバラになったかに見えた林業はドッコイ生きているのである。但し用材の単価が安過ぎて、輸入材中心とした可笑しな状況から脱していない。我が国は本来自給による用材中心であってもいいのだが、残念ながらその7割以上が輸入木材であり、国土の三分の二が森林であるのに、如何にも無念である。しかも我が国の森林の4割が人工針葉樹林でありながら、買い手があっても売るに売れないのが実状である。更に将来の人口減少や、新たなる集合住宅建築などによって、木材用材の需要は先細りであり、困難な問題が喫緊の課題である。その上、地球温暖化問題や林業従事者の高齢化を前にして、私たちは無謀にも果敢に挑戦しているところである。詳細なご報告はいつでも出来るはずであり、従ってこのまま秘すれば花にさせて戴きたい。

 尤もここで言う花とは、花傳書にある通り、たいしたものではない。常に出すことに非常な抵抗があることであり、秘するところでこそ、現代のようにネットで妨害され得る状況下では至極当然であると言えるだろう。

 

朝 振り向けば 大好きなある里山 山櫻の花が微笑みたり

 

山櫻の木肌 櫻の工芸品に使われる樹皮はすべて山櫻の木肌

 

大好きな里山風景 いつまでも観ていたいが も早や初夏から夏の 今日の都心の気温


     ウクライナから福島へ

2015年04月26日 | 時事問題

 ウクライナ国民から 福島県民へ 支援の声があがった様子

 

 

ウクライナから福島へ

 

 一昨日の夜から CNN放送ではネパール大地震一色であり

先ず2600名を超す多くの犠牲者に哀悼の誠を捧げたい 日本人の犠牲者も出たようだ

 

又 今日4月26日は あのチェルノブイリ原発事故から ちょうど29年目の日だ

ウクライナの国民は 旧ロシア政権下での事故にも関わらず 自分たちの課題として

引き継いでから そろそろ一年 ペドロ・ポロシェンコ氏が第五代大統領になった

親米・親ユーロ・反露の政権となり プーチン露大統領と未だに紛争中である

そこへノコノコと出掛けて行って ロシアより侵攻されたクリミアで 発言した鳩山由紀夫

新右翼派の同道もあったらしいが 何たる無様だろうか

かの方は 日本人をどこまで愚弄すれば 気が済むのだろう

沖縄の発言から始まって あらゆる場面に出て 軽率の極み 発言するのも嫌

 

チェルノブイリ原発内にある折鶴 (広島原発記念公園に佇む折鶴を模倣したものである)

 

あの豊かな大地 ウクライナが世界最貧国になっても 猶 奮闘し

日本へのリスペクトを欠かさない 福島へのエールを送り続ける国民性である

厳しい現実を前にして お互い頑張りたいものであり

反原発を掲げて 総理官邸にドローンを飛ばした犯人の 喧伝目的の心根が憎い 

我が親友は 今でも必死になって仲間たちと 福島原発内で働いている

福島県民の神経をも逆撫でした今回の犯行は幼稚であり 激しく断罪したい

 

ジジイ隊の皆さんは今でも 原発汚染エリアで掃除を欠かさずやっておられる

震災の年 約70%の鮭は河川を遡上した 鮭にはセシウムが検出されなかった

反原発を言うには容易であるが 長い長い闘いを 12万人の被災者と共に向き合って生きていたい

 

私は 原発推進派でもなく 反原発派でもない

既に出来ている各地の原発をどう最後処理するのか 最高研究レベルを保持すべきと考える

原発に対して 賛成反対はイデオローグの問題ではなく リアリズムに徹するべきだ

 

そんな中で ベトナムに原発を輸出契約をした張本人の菅直人元首相が 事故直後に

吉田昌郎福島原発所長に逢いに行った短慮を糾弾したいし 反原発に転じた日和見を断罪したい

常に「シッカリ シッカリ」と言いながら 全くしっかりしない枝野幸男元官房長官にも不信感がある

鳩山由紀夫氏が国連で演説した際 発した二酸化炭素25%削減の根拠は原発が背景だったはず

私は当時 民主党に投票した一人だが 余りのテイタラクさと無責任さに 今も無念でならない

右派もいて 左派もいて 全く政党として体を成していないことに愕然としている

裏切られた思いは そう簡単には収まらない

 

フォトジャーナリストの林典子さんの「人間の尊厳」を 皆さまに是非お読み戴きたい

イスラム過激派(IS)から 誘拐され レイプされ 人身売買される現実があることを

中でも ヤズィーディー教徒女性に対する迫害の苛烈さは 同じ人間のすることかと驚く

一方的にカリフを名乗るバクダディ容疑者は ヤズィーディー教徒なら 何をしても構わぬとか

この教徒の女性信者には 12人の妻を与えるか レイプするかと言うISの許されざる訓令がある

対象は人妻であろうが 12歳の少女であろうが 無関係で ナチス以上の暴虐の限りを尽くしている

実に一万人以上の被害女性たちは 切実に国際社会へ助けを求めている

 

命からがら脱出してきたヤディーディー教徒の女性

 

鳩山由紀夫氏よ!ご貴殿の「友愛」の精神で 何とか助けられないものだろうか

尤もふざけた場合ではない 何とか国際機関が機能して欲しいと念じるのみである

 

櫻の苗を植えよう! 約600キロの被災ラインへ

 


 あなたと 葉櫻のなかを

2015年04月23日 | 

葉櫻 1   新宿御苑にて

 

 

        あなたと 葉櫻のなかを

 

 二週間も家を空けたのは久し振りのことであった。「さよなら」を言いたくなくて、櫻の花旅をしていたようなものだが、今年の花旅は今までとはやや違っていた。何故なのだろうか、櫻を観る視点が、以前とは隔世の感がある。以前は有名な銘木や、古来から長生きしてきた櫻に逢いに出ていったが、今回はただ縹渺として各地を歩き、出逢いの櫻を観て歩いたような気がする。衝撃的だった3;11の影響がないとは言えない。無論三春の瀧櫻や盛岡の石割櫻を観なかったわけではない。ただ大勢の人のなかで、花を観るのが愈々苦手になって、愛車のジープを繰ってそこらじゅうの寒村を駆け廻った。特に熱心だったのは、まだ残雪の残る山々に入り、山櫻を探し歩いた。江戸時代の大名行列に使われ、今は、ただの狭い道路になりさがっている道端の風情はまた格別で、会津西街道沿いや、朝日連峰の麓の旧道は惚れ惚れして観て廻った。美しく真新しい緑になりつつある山々の中に、ポツポツ点々として、ひっそりと咲き誇る山櫻が、私が最も愛する櫻である。遠巻きにして見惚れる山櫻の美しさは、ほぼ筆舌に尽くし難い。普段は観ることが出来ない櫻の存在が嬉しいからだ。駒止湿原入り口に咲く山櫻、山形花回廊の櫻たち、種蒔櫻の種々、畑のド真ん中に密やかに咲くお達磨櫻など、時間をかけ、堪能させて戴いた。我が櫻への哀惜は相当なもので、よくよく業の深さを知った次第。臨済宗の禅寺・東福寺には修行の邪魔となると理由で、櫻は禁じられたが、どうやら私の修行には、その業の深さが・・・・。

 そして被災地へ。もう何度足を運んだことだろう。染井吉野は殆ど壊滅し、江戸彼岸や山櫻は倒れることなく、多くの瓦礫を、その根元で押しとどめていた。それから、江戸彼岸や山櫻をさくらプロジェクトのメンバーとせっせと植樹してきたのだ。あれから満四年が過ぎても、やっぱり写真でご紹介出来るまでに育っていなかった、だが然し櫻の苗たちは、強かに根付いてすくすく成長しているのがよく分かり嬉しかった。残念無念なこともある。企業宣伝によるさくらプロジェクトや種苗業者が入って、染井吉野が一本三千円だと言うから呆れかえる。違和感を覚える。どの被災地に植樹するのも無償であるべきで、その魂胆からして甚だ情けない。憮然として、そうした現場を、さっさと立ち去る。民族主義でもなく右翼でもなく商売でもなく左翼でもなく、純然たる「和」の心を信じ持てないものだろうか。私は現地の心ある方々と地道に活動して行くだけである。名は捨てろ、ただ無心に丈夫な木を遺せと声を大にして言いたいところである。

  世阿弥の『風姿花傳』に、「初心忘るべからず」という有名な言葉がある。初心とは、モノ事を成すに当たって、夢とか希望とか、抽象的で曖昧な妄想をさすものではなく、具体的な覚悟をキッチリとさしている言葉である。それは、稽古を決して忘れまいとする初めの第一歩、そのことだからである。また世阿弥は「稽古は強かれ」とも、「物数(ものかず)を尽くせ」とも断じていて、こうした世阿弥の峻厳さは、寧ろ爽快な心地さえする。去年アナ雪ブームが吹き荒れ、多くの方が「ありのまま」でいいんだと極端に安堵したように思えるが、果たしてそれでいいのだろうか。「ありのままの自分」に自信が持てる方はどれほどいらっしゃるのだろう。私には不思議に思えてならない。白洲正子もありのままででは、素の人間も見栄えがしないばかりか、素そのものを磨かなければ、何一つ成しえないと断言さえしている。稽古を尽くして、更に尽くして、ようやく自分が何たるかに出逢えそうなものなのであろう。他人のことはよく分かっても、自身のこととなると、サラサラ知らないのが普通である。だからこそ自分磨きとはどうやってするのか、そして自身とは何なのかを、修行し尽くしてこそ知るべきではなかろうか。どうも、あんなにも流行った「ありのままで」とは、どうだろう、先ず信用出来かねるのである。

 

花びらを幾枚か取って帰り 夕餉に ロゼワインを寒天で固め その中に 一ひらを入れよう

 

 今年も大阪造幣局において、櫻の通り抜けがあり。15日に終了した。「今年の花」は花芯に、葉っぱのような緑色の雌蕊を着ける美しい八重櫻の「一葉」であった。咲き初めに、櫻色のピンクが強いが、散り行く頃になると、白っぽく変化して果てるから、より美しい花である。ここ造幣局には、凡そ132種350本の櫻花が競って艶やかに咲き揃い、560㍍の櫻道は人いきれで呼吸困難、立ち止まらないようにとガードマンの声が激しく、うっかり写真など撮っていられない春の天満橋の混雑した風物詩である。明治以来、約130年以上前から一般庶民に解放され、大阪の方々には毎年楽しみにしていらっしゃる筈。長州五傑の一人、遠藤謹助が局長だった明治16年(1883)に、局内の人間だけ観てはいけないと指示し一般公開された。大阪大空襲で、半分以上消失した後に、櫻守の笹部新太郎翁などの協力により復活したが、櫻の枯死などがあって、幾多の櫻が補植されてきた。今年、新たに植えられた櫻は長野県須坂にて、平成18年(2008)、笠原基知治によって発見された新しい品種で、園里黄櫻(現地名;園里黄龍)が見事に咲いたと聞いている。この品種は緑色した御衣黄と八重櫻の普賢象タイプの雑品種と考えられるが、詳細はまるで分かっていない。鬱金や御衣黄のように、散り際にピンク色になってから果てる美しい櫻である。

 

 

  「様々なことを思い出す櫻かな」ではないが、櫻をあれこれ考えているうちに、家内と二人、新宿御苑に花見に来ていた。安倍総理主催の観櫻会があったのだろうが、今日は閑散として、最も数多くの櫻がある裏門付近はほぼ葉櫻で、優しい風が吹いていた。湖水の畔に、イギリスから逆輸入された「太白」もあるはずだが、見当たらない。妻と二人で、随分久し振りに手を繋いで歩いた。愛着と惜別の、深いこの春の櫻。

 

新宿御苑 裏門 千駄ヶ谷入り口付近の葉櫻


      散華 ざぁ~んげざんげろっこんしょうじょう

2015年04月05日 | 

 

散華 1

 

 

散華

 ざぁ~んげざんげろっこんしょうじょう

 

 あっと言う間に、櫻の花が散り始めた東京の曇天。まだまだ葉櫻にはなっていないが、これが正しく花の命であろうか。散り櫻も美しく、好きである。皆さまには皆さまだけの櫻がきっと何処かにあるはずで、それらの花々とともに齢を重ねて行くのでしょうか。逝く日から数えて、あと何度櫻を観られるのかと思うのでしょうか。日本人の情念に深く根ざしている花の中、櫻の花こそトップの座にあり続けることでしょう。

散華 2

 今般、天皇皇后両陛下はパラオ諸島に旅立たれる。太平洋戦争の激戦地の一つ、ペリリュー島にも慰霊碑(沖縄は無論、硫黄島・マーシャル諸島・サイパンなどにも慰霊碑が建てられている)が立っている。両陛下は、痛恨の極みである先の戦争の記憶を決して風化させまいとの強いお気持ちがおありになるのだろう。何とこんな小さな島で、一万人もの日本人兵士が玉砕した。生存者はたった約450人で、そのうち34名は終戦を知らずに、二年もの間、洞窟などに隠れ住み戦い続けた。四万人を投入した米軍も約170人の犠牲者を出した。島には両軍とも未だに遺骨が多く残ったままである。この島の守備隊長の中川州男(くにお)大佐は、「サクラ、サクラ」と打電した後、哀れ自決している。哀しい記憶の残る島で、ゼロ戦や戦車や大砲など多数存在し、今は青々とした森林が繁るが、実際は往時のままの状態であるらしい。

散華 3  我が邸内には一面櫻尽くしで そこはかと風情が溢れている

 天皇陛下は、1981年、記憶しなければならない日として、沖縄戦終結の日・広島、長崎の原爆投下の日・終戦記念日の四つを挙げておられたが、戦後50年を迎え、95年には長崎・広島・沖縄・東京都墨田区にある東京都慰霊堂を訪ねられ、更に海外にも思いを寄せられた。当初パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦三カ国へのご訪問を希望されたが、当時諸般の事情により困難と反対されたものの、お諦めになられず、05年にはサイパンに訪れておいでである。バンザイクリフで、皇后さまとお二人で、深く頭を垂れられ、<あまたなる命の失せし崖の下 海深くして 青く澄みたり>と御製を残されたのだった。昭和天皇から続く思いが如何に深いものかと、私たちも感動したものである。

散華 4  足許の櫻の花びらは思いを遺して 間もなく消えゆく運命にある

 良寛和上の歌に有名な<櫻散る 残る櫻も 散る櫻>というのがある。和上も驚くであろう、櫻花を潔く死ねと、軍部は比喩して酷い教えであった。明治憲法下の統帥権の越権による軍部独走を許したのは、他でもなく私たち国民全員である。戦後間もなく太宰治が出版した「人間失格」(1948年6月)の主人公・葉ちゃんの死(=太宰の自死)は罪と罰への告発ではなかっただろうか。戦中一貫して「細雪」だけを執筆し続けた谷崎潤一郎は戦後の浮かれた日本人に対し痛切に皮肉っている。白洲次郎は、「私は戦後というものはちょっとやそっとでは消失するものだとは思わない。我々は現在声高に唱えている新憲法も、デモクラシーも、我々の本当の自分になっているとは思わない。それが本当に心の底から、自分のものになった時において、初めて戦後は終わったと自己満足してよかろう」と証言している。新たな憲法論議も起こる中、美しく散る櫻を通して、深く考えてみるべきだろう。

 (懺悔懺悔六根清浄とは、お岩木山参詣の囃子声であり、地元では懺悔を「サイギ」と呼び、六根清浄=六根懺悔を「ドッコイサイギ」と掛け声を掛けながら、お山参詣する。安寿と厨子王の伝説が残る、美しいお山信仰の不可思議さと、お囃子に使用される長笛(ネプタより長い篠笛)の物哀しい音色とを、今年も散る櫻花に見る思いがするのである。

 


      櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

2015年03月31日 | 

千鳥ヶ淵の染井吉野 全国一早く満開になり

 

 

櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

 

 今週木曜日(3月29日)に 全国に先駆けて 東京の櫻が満開となりました 都内有数の櫻の名所である上野恩賜公園 目黒川沿い 飛鳥山 浜離宮恩賜公園 六義園 小石川植物園 墨堤公園  アークヒルズ 芝公園 靖国神社 新宿公園 櫻坂 明治神宮公園などなど上野の混雑はピークを迎え 報道ではゴミが散乱しているとか 見るも無残で哀れ 私の家の櫻たちも満開で 昨日午前中だけは 我が家だけで 花見の宴まるで おママゴトのように てんこ盛りの酒のアテやら 子供たちへのスイーツやら 久し振りに家族の団欒 

千鳥ヶ淵の櫻 昔フェアモントホテルがあった頃 二階の部屋を貸切にし 櫻の宴を開いていた 

 人はよく櫻の花は儚いというが バカ騒ぎをして よっぽど人間のほうが儚いのを知っている様子 櫻は満開を過ぎると 丁度一ヶ月経ったオオシマザクラの葉の収穫(櫻餅用) 八重櫻の関山は紅が濃いから 花を収穫して 櫻花の塩漬けにし 櫻茶に 黄色い鬱金(うこん)や 緑色の御衣黄(ぎょいこう)は 花の終わりにピンク色に染まるから面白い 花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに ( 小野小町=9番 『古今集』春・113) 如何にも儚い花の象徴のような歌だが 色は確かに移る だが真夏の暑い日には来期の花芽をつけるのだ そうして 人より遥かに長生きするのが本来である クローン櫻の染井吉野は確かに短い樹齢なれど 江戸彼岸や山櫻は何百年も 或いは何千年以上も長生きして 私たちの儚さに勇気を与えてくれる

東大付属小石川植物園の櫻

小石川植物園の天城吉野など

穏やかな中のお食事 酒は飲めない マナーは最高の観櫻ポイント

六義園の枝垂れ櫻 


 弘前城址公園にある管理事務所には 樹木医の小林勝さんがいて 市の公務員として 年がら年中 櫻守をされておられる 弘前には林檎農家が多数あり 幾多の困難な剪定技術を生かされ その特技は 確かに多くの公園緑地課に 多大な影響を与えておられるが 染井吉野の延命は 果たしてどうだろうか 寿命が60~70年とされる染井吉野は 弘前では間違いなく日本一古い染井吉野が存在し その心を後に樹木医となった橋場真紀子さんに継承されているが 

弘前城址公園の櫻守・小林勝さん もう直ぐ出逢えることだろう  

 染井吉野は いち早く根付き 華やかに咲く櫻なので 持て囃される花だが 寿命は短いはず 小林勝さんは 染井吉野の樹命に 果敢に挑戦している最中であるが 江戸後期に生まれた 箱入り娘のような クローン種(実生では誕生しない)の櫻は 今後にどう生かせるか予測困難かも 日本の櫻の80%は染井吉野種だけに 甚だ注目されるが 小林氏の挑戦に期待したい 尚 勝さんのお兄さんである小林憲士(のりお)氏の跡継ぎとして活躍する勝さんだが 「弘前方式」と言われる櫻木の芯止めの技術や夏の土入れ替えや冬場の伐採などで 特に有名だ 木に巣食う菌類の繁殖を許さず 弱った枝木は遠慮なく伐採し 日本一の櫻公園を維持したままである 日本一一所懸命だから 日本一の櫻の名所でいられると 謙虚にして 熱心な御仁たち

高尾 さくらの保存樹林 約一ヶ月間楽しめる 櫻の全品種350種類がある  

 東京の櫻は殆どが戦後植栽された染井吉野なので まるで団塊の世代のように 後10~20年もすれば 殆ど倒木するか 枯れ死するだろう 皮肉ではなく 櫻の病気としては 花が咲かなくなるテング巣病や 幹や木が枯れるコブ病や 根元に生えるベッコウダケや木の中に生えるアナタケの菌類付着によって樹木が腐る恐ろしい病気 小林氏のように キメ細かな手入れが必要とされるのだが もっと恐ろしいことがある 櫻の廻りに集う際に 昔のように 茣蓙だったらイザ知らず マナー違反の近年青いビニールシートの持ち込みだ 更に櫻の根元を踏み固めてしまって 根の息つぎを無視し 水分が沁み込まなくなってくることである それには 周囲を緑地帯にして ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)などで 囲い込み 幹元に人が入れなくすること 更に密集して植栽すれば 日陰になって 枝が重なり 日陰部分が枯れてしまうはずである 従って 歩道の狭い空気腔しかない場所では ほぼ不向きな街路樹であろう

新宿御苑内の櫻たち 

 昨年 同じ薔薇科の梅が プラムポックス病に罹って 青梅市のすべての梅が伐採された 青梅市内全域では 2600本 青梅・吉野梅郷だけでも 120種 1732本が観梅祭りが終了と同時に伐採がなされた 「青梅市の梅の木 完全伐採へ」という我が記事がある 櫻とて無縁ではありえない

私が大好きな小山・修道院に咲く思い川櫻  

 小金井公園では 櫻の木の周囲を囲んで 人の入場を拒む取組が始まっている 小供たちへの教育も始まった 櫻の授業や 秋には落ち葉を集めて 堆肥や霜よけにしたにしたり 小さなうちから 丁寧で懇切な教育と意識づけが 先ず重要であろう 無論 マナー違反の花見客の無礼千万な行為の花見は 断じて許せないものである 

我が家の庭に咲く櫻たち

その昔 馬屋だった屋根から見える櫻 お分かりでしょうか 

 


      My daughter MALALA!

2015年03月30日 | 時事問題

私が手作りした絵本「天使の昇天」より 一場面

 

 

           My douthter MALALA!

 

 

 昨年2014年、史上最少年でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、女子教育を声高に標榜したために、パキスタンのアルカイダ系過激派組織タリバンから標的にされ、重火器で頭部を銃撃され、瀕死の重症を負いましたが、イギリスへ搬送され、大手術を受けた結果、無事生還できたことは、皆さまご承知の通りです。ノーベル平和賞授賞式の演説でもパワフルに女子教育の重要性を説かれました。その時に、「父は私にインスピレーションを与え、模範であり続けました」と語り、お父様の存在の大きさがクローズアップされました。だが父のジアラディンさんは「娘には特別なことを教えたわけではありません。何もせず、娘を自由にしただけ。それが魂なのです」と語られ、一躍脚光を浴びたのですが、なかなかご本人さまが喋ることはありませんでした。アンネ・フランクにとり、父オットーがいたように、きっと父と娘の素敵な物語があるはずだと、誰もが信じていたと思います。それが今回MIT Media Lab(マサチユーセッツ工科大学メディア・ラボ)で、公開講演会が開かれました。早速そのスーパープレゼンテーションを、本ブログにアップし、皆さまとともに、ご共有したいと存じます。

 ジアラディン・ユスフザイ(Ziauddin Yousafzai)氏。1960年、パキスタン北部生まれ。

 北東部のスワート地区で、私学(KHUSHAL College & Girls High School)を経営しつつ、マララさんに教育を受けさせました。マララさんはこの学校で医者になりたいと勉強に励んでいたのですが、なにせこのエリアは男性優位の社会で、女性は表舞台に立てない環境でした。更に過激派は極端に女性に厳しく、マララさんはその結果、生死の境を彷徨いました。お父さまは未だに続くその恐怖と苦痛に耐えながら、娘マララのことを語り始めました。

 「多くの家父長制社会や部族社会では、息子を見れば父親が分かると言われます。私の場合、それが娘なので珍しいようです。でもそれを私は誇りに思います。マララは2007年に教育の権利のために立ち上がり、2011年に、自国パキスタンで平和賞を受賞しております。そしてマララはとても有名になったのです。その上私はマララの父として有名になりました。人類の歴史を見てみると、女性は散々不平等・不公平な扱いを受けてきました。暴力も搾取も。家父長制社会の現実は、と言うと、女の子は祝福されません。その子の父親も母親も喜びません。近所の人たちは母親を哀れみ、父親にお祝いを言う人はいないのです。女の子を生んだ母親は肩身の狭い思いをします。1人目が女の子だと、母親は悲しみます。2人目も女の子だとショックを受けます。そして男の子が欲しいと思っていても、3人目も女の子だと、自分は犯罪者のような気がするのです。母親だけではなく、生まれてきた女の子も後に苦しみます。5歳は就学適齢期ですが、女の子は学校に行かず、家にいます。男の子は学校に行きます。実は12歳まで、女の子も、一応良い生活が出来、お友達と外で遊ぶことが出来ます。蝶のように、自由に飛び回れるのです。しかしティーンになると、つまり13歳になると、男性の付添なしで、外出を禁止されます。女の子は家に閉じ込められるのです。自由な個人ではなくなるのです。男女の役割は違いますが、家族の面目を潰さないようにして生きることが義務となるのです。そしてもしその規範を破ったりしたら、殺されたりもします。興味深いのは、この規範というのが、女の子の人生だけではなく、男性の人生にも影響を及ぼすということ。娘7人、息子1人という家族を、私は知っています。その唯一の息子は、姉や妹や両親のために湾岸諸国に出稼ぎに行っています。そうしないと、自分が恥をかくことになるという意識、姉や妹が働きに出るのは、彼にとって屈辱的なことなのです。それで自身の生きる喜びも、姉や妹の幸せも犠牲にしている、面目のために・・・・・。それからもう一つ、家父長制社会で重んじられるのは服従です。良い女の子というのは大人しくて謙虚な子、従順な子で、大人しくないといけないのです。何も言ってはいけないのです。父や母や、年上の人が決めたことは受け入れる決まりです。たとえ嫌でもです。たとえ嫌でも好きじゃない男や、かなり年上の男との結婚でも断らないのです。それは反抗期だと思われたくないからです。幼い年齢での結婚でも受け入れるしかないのです。それでどうなるかというと、結婚してベッドをともにして子供が出来ます。すると皮肉なことに、結局この母親も、娘には服従の大切さを、息子には面目の大切さを教えます。悪循環はとどまることはないのです。皆さん、皆さんにはこうした何百万もの女性の苦しみは取り除けるはずとお考えでしょう。でもその為には、私たち男性も、女性も、全員の意識を変えることが大切です。途上国の部族社会や家父長制社会の男性と女性が、家庭及び社会の常識を打ち壊すこと。差別的な法律や制度を撤廃すること。女性の基本的人権を否定するような法律や制度をなくすことが、何よりも大事なことです。

 マララが生まれた時の話をします。正直にいうと、私は赤ん坊は苦手なんです。そんな私ですが、生まれてきた娘の目を見たら、実は誇らしい気持ちになりました。名前はだいぶ前から考えていました。私はアフガニスタンの伝説のヒロインに関心がありました。マイワンドのマラライです。その人物に因んでマララと名付けました。マララが生まれて数日後のこと、私の従兄弟が家にやってきました。彼はユスフザイ家の家系図を持って現れました。家系図には300年前のご先祖さまからの名前が載っていました。しかしそれは男性ばかりでした。そこで私は私の名前のところから線を引き、マララと書き足しました。そして私はマララが4歳半の時、マララを、私の経営する学校に入れました。女の子が学校に行くというのは、どういうことか申し上げたい。カナダやアメリカのように、先進国では当然のことかも知れません。でも貧しい国、家父長制社会、部族社会では、女の子にとって、とても重大なことなのです。学校に通えるというのは、個人としての存在や尊厳が認められたということで、夢や希望を持てることを意味し、自分の可能性を広げられるということです。私の5人の女きょうだいは、一人として学校に通えませんでした。ですから皆さんが驚くことがあります。2週間前、ビザ申請書を書いていて、家族の欄がありましてね、私、女きょうだいの名字を思い出せませんでした。理由は彼女らのフルネームが書かれた書類を目にしたことがないからです。従って私は、自分の娘を大事にしたいと強く思いました。私の父が娘にしてあげられなかったこと、それを変えなければならないと思ったのです。私は、娘の知性や才能を信じてきました。娘を、私の友人や知人に逢せたり、会合にも連れて行ったりもしました。つまり教育によって解放するのです。良い価値観を身に着けるように導きました。マララだけではないですよ。私の学校の女の子や男の子みんなに、良い価値観を教えてきました。教育によって解放するんです。女の子には、こう教えます。服従という価値観を捨てなさい。男の子には、つまらぬ面目に拘ることを止めなさいと。私たちは主に女性の権利の拡大を目指し努力してきました。女性の社会進出を進めるために奮闘してきました。そんな中、新たな流れが生まれたのです。いわゆるタリバン化です。女性をあらゆることから完全に排除すること、すべての政治・経済・社会活動からです。お陰で、何百もの学校がなくなりました。女の子が学校に行くことを禁止されたのです。女性はベールの着用を強いられ、市場に行くことも禁止されました。音楽も禁止されました。女の子は何の意味もなく鞭打ちされました。或る時、女性の歌手が惨殺されました。でも反対の声を上げたのはごく僅かでした。こういう状況で、自分の権利のために声をあげるのは怖かったからでしょう。殺されるかも知れない、鞭打ちされるかも知れない。でもそんな折、マララが10歳の時に、マララは教育の権利のために立ち上がりました。BBCのブログに投稿したり、NYタイムス制作のドキュメンタリーに出たり、色々なところで発言しました。マララは力強く訴えました。その声は世界中に響き渡りました。その結果、マララの活動はタリバンの怒りを買いました。そして2011年10月9日、マララは至近距離から頭を撃ちぬかれました。絶望でいっぱいになって、まるでこの世がブラックホールに落ち込んだように・・・・。娘が生死の境を彷徨っている時、私は妻の耳元で、ささやきました。「私がこういう運命になったのは私のせいなのでは・・・・」と。すると妻は、私に言いました。「自分を責めないで・・・・」、「貴方はイノチをかけて闘ってきたのよ」、「真実・平和、そして教育のためにね」、「そして私たちの娘もそうしたいと願っていたの」、「正しい道にいるのだから、あの子はきっと助かるわ」。私はそれらの妻の言葉で救われました。そして私は自分を責めるのを止めました。

 マララが入院中のことです。マララの顔は神経に裂かれてしまっていて、酷い頭痛がしていました。妻だって、ああは言ったものの、暗い顔をしていることがよくありました。但し娘のマララはたった一度の不満も言いませんでした。「笑顔のゆがみも、顔のしびれも、私は平気だから・・・・。心配しないでね」。そう言うのです。私たちは娘に勇気づけられました。皆さん、私たちは娘から不屈の精神を学んだのです。それからこれもお伝えしたい。マララはそれでも聖人ではなく、普通の子供です。女性の権利運動の象徴となっているようですけれど、ごく普通の子なんですよ。宿題が終わらければ泣いたりしますし、弟たちと喧嘩をしたりしますしね。ただマララをどう育てたのかと、人々はよく聞いてきます。どうしたらあんな勇敢で堂々とした子になるのかと。その都度私たちはこう応えます。「私たちが何をしたかではなく、何をしなかったか」ということなのですと。私は娘の翼を切らなかっただけです。サンキュー!」

 2010年、タリバンは数百の学校を爆破して行きました。それに対してユスフザイさんは何度も抗議を致しました。ただ彼は、この貧困な国家にでも、お手本になる社会を築きたいとの一心なのです。すべての人に、仕事と教育の機会を持って貰いたいだけなのです。こんな現在でも、このような過酷な社会が、普通に実在しているのです。彼の訴えの中で、最も記憶に残った言葉があります。それは「Ⅰ did not clip her Wings!」という言葉です。翼は自由と勇気の証、この言葉こそ、この稀有な父と娘の関連性ではないでしょうか。そう言えば、マララさんが、2014年10月に、ノーベル平和賞を受賞した際のスピーチに、「私は父に感謝しています。私の翼を切らずに、自由に羽ばたくことを教えてくれて、女の子だって、前向きな人生を生きていけるんだということを、父が教えてくれました」と。マララさんのミッションは敢えて教育に絞って、マララ基金を設立し、この父娘は全世界を飛び歩いています。そう言えば、先日来日されたオバマ大統領夫人のミッシェルさんも女子教育に熱心でしたね。その時、ミッシャルさんが仰った世界で、教育を受けることが出来ない女の子は6200万人いるとか。私にはもっといるような気がしていますが、そんな差別が平気で、現代に存在しているのは、真実どうかしていると言わなければなりません。

 去年6月、一方的に、過激派集団イスラミック・ステーツ(以後 「IS」と表現 但し本ブログでは決してイスラーム国と翻訳し表現しない 何故なら私はアレを国家として認めていないから)なる組織を樹立し、アブー・バクル・アル=バグダディ容疑者が、何とカリフに即位し、勝手に建国してしまいました。このカリフとやらの宣言は全世界のイスラーム教信者に強いメーセージとなり、各地の過激派は支持、もしくは賛同し、或いは忠誠を誓い、瞬く間に伝播し、現在世界的な脅威となっています。無論ISを、殆どのイスラーム国家でさえ、国家として未承認であります。国家の三要素たる一定に区画された地域もなく確定せぬまま、不確実性であっても人民がいると豪語し、主権とは何かさえ不明のままにです。暴挙と言わざるをえないのですが、反資本主義と反共産主義と反民主主義を語り、北アフリカエリアから、スペイン、更にはフランスやイタリアや地中海沿岸諸国や、インドや中国の一部まで、広大な地域を武力革命(ジハード主義=暴力革命)し、忠実なイスラーム国家にしようというわけです。一時期中世の支配エリアを妄想しています。残虐な殺戮場面を次々にネットで流し、その映像によって、若者たちは、トルコ国境を越え、シリアの過激派に集結しているようですが、これこそ正しくカルト教団としか認定出来ず、オウム真理教と全く変わりません。彼らの論理では国境の必然性が全くなく、イラク・フセイン政権下のバアス党員の生き残りの殆どで、凡そイスラーム教とは無関係の様相で、ニヒリストのように闇雲に全力をあげ支えているようです。アメリカ占領下のあと、統治したシーア派のマリキ政権は、米軍が和解の象徴として折角作ったスンナ派民兵組織をさえ弾圧し、シーア派とスンナ派の同調によるイラク建設が瞬く間に泡沫と消え、逆にスンナ派の激しい反感を買い、シリア内戦に乗じて、圧倒的なIS増長に手を貸してしまった経緯が発端です。カルトである証拠は、殺人を何の躊躇もせずに出来ること。教理・教義が古式で単純で胡散臭いこと。ワンイシューにて、徹底的に洗脳出来る能力があること。或いは、資金収集に異常に熱心であることなどで充分言えることでしょう。世界初の特別攻撃隊と言い、彼らに自爆テロの手法を、旧日本軍の零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)が教えたことです。また直近では、日本赤軍派という極左過激派集団で起こしたテルアビブ空港銃乱射事件によって、手榴弾で自爆した奥平剛志を英雄扱いにされ、その後の自爆テロの模範にされました。あの忌まわしいホロコーストで、600万人もの罪なきユダヤ人を惨殺したナチスでさえ躊躇し使用しなかったサリンを、世界初にやったのは日本のカルト教団・オウム真理教によって実行された地下鉄サリン事件です。悪意に満ちたISの残虐は、実は日本発なのかも知れません。ですから私たち日本人にとって無縁では絶対にないのです。日本人も、アルジェリア人質事件を始めとし、既に多くのジャーナリストなどの人命を奪われてきました。座視しているだけではどうあっても防げません。

 CNN放送でずっと放映していた事件がありましたね。チュニジアのバルドー博物館で、テロリストからの銃撃があり、多数の死傷者が出たと報じていました。観光客なら誰でも行くチュニスのバルドー博物館でです。日本人の観光客3人を含む22人の死亡者が出ました。唯一アラブの春が成功した国家なのに無念です。ギリシャもそうですが、観光だけで国家の運営が成り立つはずがありません。何とか他の産業の育成も手助けしたいものです。イエメンでは反政府軍シーア派武装組織フーシ族と、バディ大統領派で内戦が始まったばかりです。フーシを応援して武器提供をしているのはイランです。アラブ連合は必ずしも一枚岩ではないのですが、スンナ派の国家サウジアラビアやエジプトのシシ大統領は早速空爆によって参戦し、スンナ派とシーア派の宗教対立のように見えますが、湾岸諸国の主導権争いともなっています。無論その抗争地帯には、ISが深く参与しているのは言うまでもありません。ダニのようにはびこる連中ですから。ただ一つだけ希望があります。ソマリアと言っても、あの国は三つに分かれていて、最も西にあるソマリランドは別天地で、平和国家を築いています。イスラームとして重大なヒントがあるように思えてなりません。また先日、LCC航空・ジャーマンウィンズのエアバスが、南アルプス山中に墜落した事件はどうやらこうした過激派と無関係のようですが、どこでいつ何が起きてもおかしくありません。私たち日本人にとっても、今ここにある危機です。当然のように自衛的手段を取らなければならないでしょう。辛くて嫌な世の中になったものです。だからこそ時々刻々、私たちは世界中の出来事に深く注視したいものです。

 

 シリアで、この3歳の子が亡くなった時に発した遺言

「ぜ~~んぶ 神さまに言いつけてやるんだから」と言って絶命した

 


      櫻の花に恋して

2015年03月24日 | 

川崎鈴彦 作画 「花」 山中に爛漫と咲き誇る櫻の絵

 

 

櫻の花に恋して

 

 

予想より早く開花したようである

昨日午前11時に 気象庁の職員が靖国神社の標準木に 六輪の櫻の開花をみつめたようだ

また今年も 櫻の花爛漫たる時季になってきた

 

皆さんはどちらにお出掛けですか

方々に様々な種類の櫻が咲き 日本中に 人々の微笑が溢れることでしょう

雪が多かった今年の京都の櫻や 古都・奈良の風情ある櫻も魅力的だが

私は被災地に行って 津波到達地点に植えた山櫻のラインを見て歩こうかと思っている

各地の櫻プロジェクトによって植えられた山櫻の成長を見て歩くのが一番楽しい

 

我が家の庭に咲く山櫻も 漸くほころびかけてきたようだ

 

騒々しい世の中だが 花の咲く時季ぐらい季節の風に吹かれていたいものである

谷戸の櫻とは 清少納言の「枕草子」に出てくるから 櫻が邸内に植えられたのは

そんなに古いものとは思えない 御簾のかかる廊下に 櫻のひと枝があるのが いとおかしとある

全国の櫻の公園はすべて危機的状況で あと何年持つのだろうか

染井吉野だけ珍重して植えた結果である 明治ご維新の富国強兵策により

江戸彼岸や山櫻が殆どであったのが 櫻は堅い木がゆえに

櫻の名所の木は 鉄砲の台座として すべて伐採された経緯がある

キナ臭い昨今だからこそ あの時世の哀しみを忘れてはならない

 

生まれてからこの方 櫻の花に恋して 今年も漂うことにしよう

あの世と この世の境に遊びつつ

 

 

我が家の床の間には 既に江戸彼岸の花が満開である

 


      櫻開花予想 「気温600度の法則」

2015年03月18日 | 

智積院 本堂内 櫻の襖絵

 

 

櫻開化予想 「気温600度の法則」

 

 

愈々 暖かくなり 今日は春のお彼岸の入りで お墓詣りはされましたか

お彼岸と言えば 染井吉野よりひと足早く咲く彼岸櫻は もうすぐそこ

(通常江戸彼岸の花は染井吉野より 一週間早く咲く

尚 枝垂れ櫻はすべて江戸彼岸種で 染井吉野では枝垂れない)

 

染井吉野の開花までも あと少しですね

染井吉野の開化予想には 結構信憑性のある法則があります

無論これは染井吉野のことだけですが 2月1日から 一日の最高気温を

合計して 累計が600度に達したら 櫻が開花するというものです

実はこの法則は誰が発見したか 分かっておりませんが

北陸や北海道などの寒冷地にも当て嵌まりますから おかしいですね

また結構当たる法則’前後三日の違いなし)なのですから 一応ご紹介しておきましょう

昨日今日と東京は 夏日かなと思われる 20度近くまで気温が上昇し 愈々かな

都内では 現在の気温の合計が 503度らしいので もうすぐでしょう

来週は 再び冬の低気温になるらしく 従って予想は 3月25日頃でしょうか

 

皆さまにおかれましても 各地方で それぞれ計算してみてください

尚 春の金麦プレゼントもご紹介しておきましょう

 

東京の櫻の名所の一つ 中目黒にある「郷さくら美術館 東京」では

3月7日~5月10日まで 毎年新作の日本画による櫻の絵展が開かれます

競馬じゃないんだけど 櫻花賞というのだそうで 同館では新作をすべて買い上げと言い

結構な力作があります 更に都内の各美術館では 櫻図がかけられることでしょう

 

この時季 大倉集古館では 横山大観の夜櫻が展示され

また市川市にある東山魁夷紀念館では 円山公園の枝垂れ櫻を描いた

名作「花あかり」が展示されるのではと思っています

中島千波さんは櫻の絵をよく描かれますが 実在感に薄く 小生はそう感心はしません

奥村土牛(醍醐)や後藤純男(櫻花塔映)や高山辰雄(みず辺)など 数多くの画家に描かれていて

洋画家でも多くの方々が挑戦され 中でも三岸節子さん最晩年の作品に 櫻の絵があります

多くの櫻の絵や陶芸や扇面や絵巻物もまた たくさん観てまいりましたが

平安時代からそれぞれの時代を代表するもので 櫻とその時代の感性を感じさせてくれるものです

 

でもやっぱり櫻図の最高傑作は 智積院・国宝館収蔵の

長谷川久藏の「櫻図」だと信じています その圧倒する生命力の障壁画は他に類例がありません

あの絵には二本の櫻と 瑞々しい若柳が垂れていて 美しい色彩の上 見事な表現力です

逆縁となり夭折した久藏に 等伯はよほど落胆したのかが よく理解出来る絵です

 

皆さまは どなたの櫻図がお好きでしょうか 人ごみの中の櫻見物だけではなく

静かに先人の遺した櫻への思いに 深く耽ってみるのもいいでしょうね

 

 

上野恩賜公園内にある伏見宮彰仁親王像

(鳥羽伏見の戦いや 会津戦争・越後口での総大将になられた方)

 

パンダ舎出口での我が家の次女茉莉 やっと歩きはじめました

 


   これから五年目の春

2015年03月08日 | 時事問題

我が絵本・「大海嘯(おおつなみ)」より  流された妻の亡霊が出てくる場面

 

 

             これから五年目の春

 

 未曽有の大震災から早くも満4年が過ぎようとしているが、各地の仮設住宅での闘いはまだまだ道半ばである。とりわけ仮説住宅の、高齢者が亡くなられ、その空室が気になって仕方がない。多分どこの仮説住宅でも、30%が空き家に相違ない。福島の仮設住宅では空き家が90%を超える場所もあるといわれている。瓦礫が或る程度片付いて、ガランドウな被災地をみると、一見復旧・復興が進んだかに見えるが、でも隈なく歩いてみると、そう簡単ではなさそうである。

 それだけではない。現在でも数多くいらっしゃる各地への人的応援のなかで、2013/1/5の日経に出ていた記事は痛ましいものであった。東日本大震災の被災自治体支援で岩手県大槌町に派遣されていた兵庫県宝塚市の男性派遣職員(45)が、何と復興の最中、自ら自死したのである。

 岩手県大槌町に派遣された兵庫県宝塚市の職員は、宿泊していた宮古市の仮設住宅で首をつった状態で死亡していたことが5日分かった。カレンダーの裏に遺書のようなメモがあり、自殺とみられる。大槌町などによると、遺体が見つかったのは3日。2日から連絡が取れなくなったことを心配した男性の妻が、宮城県南三陸町に派遣されている宝塚市の同僚職員に確認を依頼。様子を見に行った同僚が発見した。カレンダーの裏には、周囲への感謝と「大槌は素晴らしい町です。大槌頑張れ」と記されていたという。大槌町によると、男性は昨年(2012)10月1日に派遣され、任期は今年(2013)3月31日までだった。都市整備課で土地区画整理事業の用地交渉などを担当していた。仕事納め後の昨年12月29、30両日も復興計画に関する住民の聞き取り調査のため出勤していたという。碇川豊大槌町長は「ご家族や派遣元自治体の関係者には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。職員の心のケアをさらに強化しないといけない」と話した。被災地派遣の職員死亡に方々から「やりきれない」と聞かれ、宝塚市長中川智子市長は5日に記者会見し「誠実な人柄で、被災者に寄り添って頑張ってくれていた。無念でならない」と話した。[共同 日本経済新聞 2013/1/5}

 この方は、大みそかまで、被災者と直談判をしたが、結論を引き出せなかったようである。高台移転と、ひと口で言われるが、地主や不動産屋がただ同然であった山林を高値にしてしまったことがあったり、様々な要因が考えられる。ただ彼は一人悶々とし、よくよく疲労した結果であったのだろう。移転そのものとは被災者にとって、なかなか大変なことであり、役所の方の説得をそう簡単に聞き入れてもらえなかったようでもある。返す返すも無念でならない。改めて追悼の誠を捧げたく、本ブログに記載した次第。

 福島のことは格別に悲惨である。帰宅困難エリアで、大きなスーパーを営んでいた方が、その場に帰って、首吊り自殺をされた方もいらっしゃれた。同じような場所で暮らしていた老女が、自身のご先祖が眠る墓場で、「私の帰る場所はここです」と言い残し自死して果てられた。何ということだろう。無論他にも痛ましい話題は幾らでもあり、ここに書ききれるものではない。

 

岩手県三陸地方の惨状

 

     遠野物語 99話(大海嘯)

     (柳田國男著 『遠野物語』 全119話のうち)

 土淵村の助役北川清といふ人の家は字火尻にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟 に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

 夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れた所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばる船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

 死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後、久しく煩(わずら)ひたりといへり。



【田の浜(山田町船越)の被災状況】(明治29年6月15日) 

全戸270戸流失、死者763人。火災発生し、役場職員全員死亡。津波の高さ9・11メートル。

 

 

 私は、柳田先生の「遠野物語」(明治43年刊)に、遠野以外唯一収録されている「大海嘯」の、海辺の上記のお話を絵本にして描き、手作り絵本にしてみた。被災者の或る方に、恐る恐るそれをお見せしたところ、残酷だとか、これで吹っ切れるかもとか、様々にご丁寧なご批判を戴いたものである。でもこのお話は、明治時代のものだからと言われ、少々受け入れてもらったようでもある。柳田先生が聞き書きをした佐々木喜善さんは、後日といっても昭和5年、ご自身の著書(縁女綺聞)に、あっさり書かれた先生の記事に異論を唱えるかのように、妻たきのが本当は生きていたのではないかとして、たきのに向かって、福二から、子供に対する存念はないのかとか、罵詈雑言を浴びせている。実話であったので、そう簡単に片づけられなかったのではなかろうか。佐々木氏の縁者である福二へのオマージュでもあったのだろうが、実は福二の孫にあたるお婆ちゃんが80歳を過ぎてから、今回の大海嘯によって飲み込まれたまま、未だに行方不明なのである。海人というは凝り性もなく(失礼ですが)、忘れたころに再び海辺に家を構えてしまうようである。海に生きるためにはそうならざるをえないようだが、どうかどうかご自重願いたいものだと心底願ってやみませぬ。当日は再び三陸の被災地に行き、流し灯籠祭りにでも、是非参加させて戴きたいものである。御供養しても、し切れるものではないことを知っていながら。

 又その日の、24時間内に誕生されたお子たちは、被災地全部で、凡そ110人いらっしゃるという。死者・行方不明者の総数は18,483人で、全壊・もしくは半壊家屋は40万以上の未曽有の災害のなか、たったそれだけの赤ちゃんかも知れない誕生なのだが、奇跡の誕生は、縦の時間軸にとって大きな存在となるであろう。皆さまとともに、こころから、満4歳の誕生日を寿ぎたいものである。

 


     硯水亭歳時記 ゆく年くる年 

2014年12月31日 | 季節の移ろいの中で

マララさん イギリス・バーミンガムにて お母さんと

 

 

 

     硯水亭歳時記 ゆく年くる年

    

 猛烈な繁忙につき、ブログの更新を大幅に遅れたりさぼったりしておりました。発信することの大切さを、皆さまと同様に充分に分かっていながら、甚だ情けないことです。現在は、28日のお餅搗きから始まって、お正月に数多く訪れる方々のために、聊か発奮し「お節料理」づくりに精進している最中でありますが、本年の締め括りにどうしても書かせて戴こうと、合間をぬってで恐縮でございますが、手身近にツラツラ書きあげ、皆さまへ申し上げたき感謝の意とさせて戴きたく存じます。

 先ず申し上げたいのは、今年このブログに、一番変わらぬ激励を戴いた木村草弥先生に、深く御礼申し上げます。いたらぬ私に、先生は直接メールをくださり、克己奮励するように何度も御励ましを戴きました。先生のブログ「K-SOHYA POEM BLOG」は、70歳をゆうに超えていらっしゃる方とは思えない若々しさに溢れ、日々更新されておられます。「木村草弥の詩と旅日記のページ」では先生の活動の全貌が御覧になれますが、先生の老いの若さには変な棘がなく、明るく智的な世界であり、金属片に似た鋭さと、ヘタな情念に流されまいとする潔さがあり、心地よく読ませて戴く私には、常に、別個にして大切な世界にお導き戴いております。またご長兄さまは、太宰治の「パンドラの函」のモデルとされた木村庄助氏であり、あの著名な美術史家である木村重信氏はご次兄で、ご本人さまは六人兄弟の四番目として、何とご家業の跡継ぎをなされ、宇治茶・丸京山城園製茶場(城陽市奈島)のご発展に、長年寄与されてこられました。その後ご引退され、大好きな文筆の道をヒタヒタと歩いていらっしゃられます。私も、先生の歌集「嘉木」・「嬬恋」・「茶の四季」、詩集「愛の寓意」・昭和」(いずれも角川書店刊行)など、数冊の優れた歌詠み本を当然購入させて戴き、常に手許にて愛読させて戴いておりますが、お茶に対する真摯な愛情と、京都という独特な風土と、高い教養に裏付けられた精神性には、いつも感動させられます。亡き奥さまへの深い哀惜の念など、ことさら、お愛おしいものです。先生!本当に有難う御座いました。更に、私にとり、最も古いブログ友人であるHayakawa(早川茉莉)さまは、「カフェと本なしでは一日もいられない。」という京都・北白川発信の素敵なBlogが御座いますが、実は、彼女女性らしい繊細さと、あっと言わされるような斬新な切り口により、以前大手出版社の優秀な編集者であったことを雄弁に物語る数多くの著作が御座います。第一は「森茉莉かぶれ」で、彼女のお陰で、森茉莉ブームが圧倒的に今でも続いているようです。「卵 ほわほわ」、「京都で寺カフェ」、「白湯のような話(岩本素白)」、「つらい時、いつも古典に救われた(清川妙)」、「修道院のお菓子と手仕事」、「すみれノオトー松田 瓊子コレクション」、「エッセンズ・オブ・久坂葉子」、「なんたってドーナツ」、「貧乏サヴァラン」、「マリアのうぬぼれ鏡」、「また杏色のくつをはこう(城夏子)」、「吉沢久子の旬を味わう献立帖」など多彩であり(Amazon 早川茉莉著作記事)、社会的に埋もれていた女流作家の発掘や、早川さんのお得意技である編集による様々な嗜好やチャーミングな新しい伝説づくりなど、数々のご労作は彼女の魅力に溢れています。熊井明子さんや片山廣子さんや、ベニシアさんに至るまで沢山な女性を教えて戴きましたし、今年も更に多くのことを学ばせて戴きました。心から感謝申し上げます。それと今年の我が塾の忘年会を企画したのですが、あまりの多人数ゆえ断念した「あうる京北」にお勤めの藤野満さん。Uターンで故郷・南丹市に帰られ、「北山・京の都の里・田舎暮らし」という素晴らしいBlogがあるのですが、ここ最近更新されておられません。よくよく見ると、どうやら簡便に出来るTwitter中心のようですが、基層文化中心の真摯な記事にはいつも感心させられました。今年も本当に有難う御座いました。

 また近年、まともな本が売れなくなっている傾向が強いようです。爆発的に販売可能な出版物中心の業界のようですが、哀しいことです。若者の活字離れが深刻さを増しているからでしょう。過半数の若者はひと月に一冊の本も読んでいないんだそうです。本の感想文を読んで、それだけで本を読んだ気になっているのでしょうか。お寒い話です。でも今や現実なのでしょうか。実際本を手にした時の歓びは考えられないのでしょうか。大事な部分に赤線したり附箋をしたり、何度も本の装丁や手触り感などを楽しんだり、それが丸きりないなんて、私には全く想像出来ません。それと少部数発行の本は今やすべて希少本扱いとなり、どうにかこうにか元がとれるものが最低限なのでしょうか。民俗学の我が師匠・本田安次は、処女出版を、仙台の斉藤報恩会から、「山伏神楽・番楽」を、記念賞受賞として上程され出版されました。残念ながら戦時下で、殆どを焼失したそうですが、その後山手線・大塚駅近くにあった古書店である明善堂書店から、「翁そのほか」(1958年刊)を出版致しました。膨大な著作は初め、内神田の木耳社から刊行されていましたが、現在は早稲田鶴巻町の錦正社から、本田安次著作集として刊行されているようです。幾ら希少本と言っても、刊行されて然るべきものはあるのだと、私は強く信じています。笑い話ですが、明善堂の井上ご老人は古書店らしく、刊行後数年を経て、価値が高まり高額な本になる内容しか出版しなかったとか、師匠から伺ったことがあります。当時「へぇ、そんなものか」と聞きながら驚いた次第でした。更に山本書店は御存知でしょうか。山本七平さんが社長の、たった独りの出版社でした。「日本人とユダヤ人」を自社で出版し、大ベストセラーになった神話があります。「花子とアン」に出てくる村岡印刷もそうですが、バックにキリスト教があって、聖書やその関連本を出版していたので、継続して行けたのでしょうが、山本書店はその代表格でしょう。コツコツ一人で出版し、後世の人のために書き残す行為は非常に尊い行為だと信じてやみません。SNSが圧倒する世の中になり、読書という難行苦行は疎まれ、場合によっては排除されているのかも知れません。でも幾ら限定本とはいえ、必ずや弱小でありながら、その種の出版社は、どなたか必ず存在し、刊行続けてくれるものと信じています。古いヤツでしょうか。

 

「Ⅰam MALAL」が並ぶNYの書店にて

 

 今回のノーベル平和賞に、パキスタンのマララ・ユスフザイさんと、インドのカイラシュ・サティアルティさんのお二人が選ばれました。方や熱心なイスラム教徒で、方や敬虔なヒンドゥー教徒のお二人でも、パキスタンとインドとの間で、カシミール地方の国境紛争があり、その意味で、両国和平への期待を象徴するかのような素晴らしい同時受賞となったものです。無論日本人として、青色発光ダイオード(LED)を発見し、低価格へと進化させた赤崎勇・天野浩・中村修二3氏の日本人に贈られたノーベル物理学賞も大変嬉しいものでしたが、私は中でも、赤崎教授の長い時間がかかった基礎研究がなければ、今日の栄誉はなかったはずで、特別な敬意を表したいと存じます。

 さてノーベル平和賞とは奇怪なもので、時々驚かされます。過去あのヒットラーにさえ受賞させようとしました。これ以上、独裁にならないように願ってのことだったでしょう。五億ドルで平和賞を買った韓国の金大中元大統領は、受賞後北朝鮮の金正日に、違法にそんなに巨額資金を献金したことがばれました。佐藤栄作の受賞も日本人なら多くの方々がアレッと思われた筈です。オスロ宣言で核廃絶を訴え、世界を感動させたオバマ大統領の受賞記念講演は、逆にガッカリさせられた方も多かったのではないでしょうか。スウェーデンで行われるのが通常のノーベル賞ですが、五部門のうち、ノーベル平和賞だけはノルウェイの独立機関であるノルウェイ・ノーベル委員会が推奨し、平和賞で選出され、オスロで表彰されています。如何にも政治的なショーの要素がないわけではありません。時々批判の眼が向けられることもあるようです。

 と、言うのも、つい最近イスラム過激派から抑圧されている少女からの証言に、酷く驚かされました。15歳の少女の証言、「13歳で結婚させられ、14歳で出産し、15の私には未だ恋を知らないの」と。この現代に、こんなことがあるんだろうかって言う驚きと、その苛烈さと、少女たちに対する男社会への絶望でしかない仕打ちの証言なのです。確かコーランには男性は女性を保護する役目がありますが、その優しさの教義が、ことイスラム過激派になると、身体全体を黒づくめの衣装ブルガを着る義務を背負わせ、然も女性は教育を受けるなといい、病院では男性医師から看てもらえない等々、こと女性にはたくさんの差別と制約があるようです。同じイスラム圏内でもお国柄色々違うようですが、パキスタン・ターリバーン運動(TTP)は最も過激であり、イラク・シリアに展開するイスラム国はそれに完全に連動し、残忍で、拉致した女性は戦闘員と強制結婚(例え既婚者であっても)させられるか、奴隷とする宣言されてしまうようです。従って識字率も極めて低く、明らかに、女性に対して、それ以上の侮蔑や屈辱はないでしょう。或いは戦闘員も識字率が低いかと思いきや、西洋の異文化圏から賛同し、共に戦闘する若者が増えたことは、今までのテロとは明かに違います。イスラム国は既に建国を宣言し、略奪した製油所から得た豊富な資金で、貨幣を発行し、インフラ整備を整え、世界中からやって来た若者たちに賃金を支払い、危ういのだけれど、国境を確定しないまま、国家として成立しているのです。だから一層恐怖なのです。

 マララさんが国連で、「一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペン。これが世界を変えるのです!」と力強く演説し、世界に教育の重要性を発信しました。如何なる機会にも、彼女はパワフルに発言し続けています。勇気ある弱冠17歳の少女です。マララさんが攻撃された直ぐ傍のペシャワールでは、学校がテロリストの襲撃に合い、140人以上の子供たちが落命致しました。この不条理に対し、何とかならないものでしょうか。日本人も無縁ではありません。愚かにも日本人もイスラム国へ戦闘員として参加したようです。あのアルジェリア製油所襲撃事件で、数多くの日本人が殺害されたにも関わらずなのです。ナイジェリアのイスラム過激派であるボコ・ハラムは、連続して少女たちの誘拐を行っています。また一説には既に一万人以上を殺害しているとか、恐ろしい限りです。私にはイスラム教信者の友人が多数おりますが、イスラム教の教義は他者に優しく、寄り添うものなのに、過激派においては異文化圏へ歴史的に許せない何か巨大な塊があるのでしょう。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書は殆ど同じものなのに、聖典(ユダヤ教トキリスト教)が、啓典(イスラム教)であるだけで三者とも兄弟ではないかと、残念ながら素人ですから、そんな程度で、充分理解出来ていません。そしてマララさんは最初教師になりたいと言っていたのが、医者になりたいと変化し、今は学校を作るために政治家を目指したいとお考えのようです。夢と現実のギャップは相当なもので、過酷です。でも私たちは、この苦境を乗り越え、マララさんの夢を実現して戴くため、あらゆる応援を惜しむべきではありません。と、同時にどうテロとの闘いをなすべきか、森永卓郎と言う馬鹿な評論家が日本人は竹槍で反撃すべきで、これ以上の軍備を増強してはならないと力説していましたが、これって真面目な議論なのでしょうか。戦後カサブタのように蔓延った左翼思想と言う良心がそう言わせたのでしょうか。

 そもそも8月5日発行の朝日新聞における従軍慰安婦記事に対して、誤報と言いながら、全く謝罪はありませんでした。そもそも吉田清治と言う怪しげな人物の書いたものに、実証することなく、32年間も放置した罪悪は大きいと言わざるを得ません。済州島の現地新聞が当初から否定していたではありませんか。これが「吉田証言」問題です。更に福島原発の事故処理に関して、でたらめな記事をでっちあげました。これは「吉田調書」というものです。朝日新聞の戦前の記事の殆どは軍部の御用新聞でもあったことからの反省でしょうが、幾らなんでも戦後ころりと翻り、左翼的なイデオロギーが先行し強すぎませんか。実証よりイデオロギーが先行するなんて、全面社説のようなものじゃないのでしょうか。珊瑚事件とか古墳土器事件とか、朝日は何度も懲りずによくやってくれました。いわゆる従軍慰安婦問題では、大新聞としての、しっかりした謝罪と今後への対応や覚悟を確かめたいと存じます。どの新聞にも言えることですが、事実誤認は最悪です。実証主義こそが当然でしょう。これでは活字離れどころか、新聞離れも大いに起きかねません。各社ともに猛省を促したいと存じます。

 

 高倉健主演 鉄道員(ぽっぽや)から

 

 そして大好きだった高倉健さんの死亡通知もショックでした。寡黙な印象がありますが、彼の著作ではかなり饒舌で、明るいお人柄で、思い遣りのある素晴らしい方だったと直ぐ分ります。遺作となった「あなたへ」は最初、ああ健さんはここまでかとがっかりしたものでしたが、追悼番組で何度か拝見しますと、随所に健さんがおりました。セリフとセリフのあいだの間がいいです。ドスンと相手に伝わるのですから。私は、彼の死が、大好きだった森繁さんと森光子さんと同じ日に逝っただなんて、或る意味では幸運だったのではないでしょうか。今頃三人お揃いで、映画の話をしているのかも知れません。実は私、しばらく下記の本を胸のポケットにしまってベェベェ泣いておりましたが、漸く最近健さんの死を受け入れました。厳しいお母さんにただ褒められたくて、健さんは精一杯頑張ったと思っています。ご冥福をお祈り致します。

 

 高倉健著「あなたに褒められたくて」 1993年8月25日 初版本 あなたとは健さんのお母さんのこと

 

 それと、一つだけ訂正しておきたいことがあります。私の韓国に対する発言です。悪漢論や呆韓論や痴韓論など、花盛りで、私は殆ど読んでおりますが、実際の私は韓国を嫌いではありません。戦前日本統治下時代の最後の五年間は大いに反省すべきことですが、少なくとも日本は韓国の近代化に果たした役割は大きいと思っています。同じように台湾を統治した時も、インフラ整備など、多くの近代化を果たしました。台湾の方々は現在でも、その貢献に感謝しているのに、韓国では全く評価致しません。韓国の古老の方々が日本統治下時代はよかったなどとウッカリ発言すれば、事実、反日教育を受けた若者から殴り殺されるのですから、ソラ恐ろしいことです。日本が統治して、何か日本の祖国へもたらしたものがあったのでしょうか。あったら、それは植民地主義ですが、日本は韓国統治が赤字続きであっても、教育改革やインフラ整備を徹底して進めたではありませんか。日韓基本条約では当時の韓国の国家予算の三倍もの多額の資金を拠出し、それを元に、あなた達は「漢江の奇跡」を起こしたではありませんか。でもそれは国民に知らされることがなかったとか、「女性のためのアジア平和国民基金」を創設し、それによって、一部の慰安婦の方々に慰労金として支払われたではありませんか。更に河野談話や村山談話を告知し謝罪申し上げたではありませんか。結論から申し上げると、日本がどんな謝罪をしても、韓国国民が一方的に納得しなければ断固受け入れないものとなっています。それって国家同士の遣り取りに該当するのでしょうか。あんまりにも一方的過ぎるのではないのでしょうか。確かに慰安婦はおりましたし、お世話になったことも事実ですが、軍部の強制性は限りなく低いものです。事実は、韓国国民の国民性というサガが一切を遮断しているのでしょうか。どうか胸襟を開いてください。日本人はどんな告げ口外交にも耐えてみせます。それが日本人の矜持ですから。

 

花子役の吉高由里子さんと柳沢白蓮役の仲間由紀江さん 打ち上げで

 

 更にもう一つ謝罪したいことがあります。「花子とアン」の連続テレビ小説の一件で、私は作者の中園ミホさんへ、痛烈な批判を致しました。何故最も大切な片山廣子が出て来ないのかという点でしたが、遂最近、テレビ討論で、中園ミホさんが片山廣子を出したかったぁと盛んに釈明されておりました。その一言で、私の溜飲がすっかり下がり、寧ろ自らを反省したところです。今を時めく名脚本家の中園さんをご批判申し上げたことを、心から反省しております。同時にドキュメンタリーではない、創作だと、拙い私をメールで諭して下さったのは、他でもなく木村草弥先生でした。事実毎日あんなに楽しんで観ておりましたし、最近の朝ドラの中では秀逸な作品ではなかろうかと、心より謝意を申し上げます。「花子とアン」の総集編やダイジェスト版や、想像上の人物・朝市が主人公のスピン・オフ・スペシャルまで全部観てしまいました。総集編などでは美輪明宏さんの「ご機嫌よう」が聞かれませんでした。どのナレーションも美輪さんの思いの丈が籠められておりました。尚朝市としたのは、朝の放映後始まる「あさイチ」から取ったとか、想像もここまで来ると面白いものですね。いずれにせよ、心から「花子とアン」の一ファンであったことを、今はとても誇りに思っています。中園ミホさん、有難う御座いました。

 三日掛かりで書かせて戴いたこの記事のお陰で、四日掛かりで、漸くお節料理も出来上がったようです。皆さまにおかれましては、どうぞ佳いお年をお迎え下さりませ!ご機嫌よう。