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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

      秘すれば花なり

2015年05月13日 | 季節の移ろいの中で

喫煙が大嫌いな家内のお陰で 量はスッカリ減ったが止められい

 

 

 

         秘すれば花なり 

 

 真夜中、CNNにチャンネルを合わせたら、Amtrak Trainの列車事故が伝えていた。5人死亡、6人重篤、49人怪我人搬送と言う。ニューヨークからワシントンまでの移動で、私も普通に乗車していた、言わば通勤列車のようなものだ。列車は激しい損傷個所があるらしく、詳細は未だ分かっていない。テロでないことだけ祈っていたいい。(その後、制限速度80キロ以内のカーブに、二倍以上の170キロで突っ込み、脱線し横転したらしい。運転手から事情聴取されると言っていた。ルフトハンザ航空のLCCはアルプスに急降下して突っ込み、149人の道連れをした副操縦士ルヴィッツ容姿者は何てことをしたのだろうか。中には新婚さんもいて哀れだが、精神疾患を持つ操縦士に飛行させた親会社のルフトハンザに、当然ながら全責任があるだろう。容疑者は私的な医者にかかっていたにも関わらず、操縦見合わせの診断書を提出していなかった責任は大きいものだが、管理者として何故診断書を私的にではなく、会社という公的な判断にしなかったのか、大いに責任があると言える。こうした公的交通機関は然るべき重い責任が課せられるのは当然と言える)

 さて長らくその情報をお伝えしていなかったが、櫻塾はその後どうなったか。実は東日本大震災後、活動内容を大幅に換え、櫻の樹だけ植栽することを一時断念した。各種の落葉広葉樹や常緑広葉樹などの苗床を大幅に増やし、各地へ搬送し植栽する方へ舵をきった。吉野のような山櫻の森を作ろうとしていたのだが、いとおしい櫻は心ならずも後回しにした。更に塾生たちは各地の森人たちのもとへ行き、一から樹木の観察や研究や実験などを中心にすることにした。そして嬉しいことに、その中から8組のカップルが生まれ、各地で銘々その活動を続け、それを主流としている。私たち事務局は皆それぞれの自立へ応援をするために、全員にお給料を支払っている。無論希望者には進学や留学もさせて戴いているが、殆どの費用はすべて当方負担とし、50年先100年先を見据えた地味な活動を主流としたのである。公益財団法人日本さくらの会公益財団法人日本花の会を横目にしながら、私たちは独自の道を歩み始めた。長い長いスパンで考え行動することにしたのである。既に番組が終了したBS日テレ「森人 MORIGIN」をお手本として住友林業さまにもご協力を仰いでいるが、森林大国の日本にはたくさんの智慧が眠っているのだ。時の政治のアオリを受け、テンデンバラバラになったかに見えた林業はドッコイ生きているのである。但し用材の単価が安過ぎて、輸入材中心とした可笑しな状況から脱していない。我が国は本来自給による用材中心であってもいいのだが、残念ながらその7割以上が輸入木材であり、国土の三分の二が森林であるのに、如何にも無念である。しかも我が国の森林の4割が人工針葉樹林でありながら、買い手があっても売るに売れないのが実状である。更に将来の人口減少や、新たなる集合住宅建築などによって、木材用材の需要は先細りであり、困難な問題が喫緊の課題である。その上、地球温暖化問題や林業従事者の高齢化を前にして、私たちは無謀にも果敢に挑戦しているところである。詳細なご報告はいつでも出来るはずであり、従ってこのまま秘すれば花にさせて戴きたい。

 尤もここで言う花とは、花傳書にある通り、たいしたものではない。常に出すことに非常な抵抗があることであり、秘するところでこそ、現代のようにネットで妨害され得る状況下では至極当然であると言えるだろう。

 

朝 振り向けば 大好きなある里山 山櫻の花が微笑みたり

 

山櫻の木肌 櫻の工芸品に使われる樹皮はすべて山櫻の木肌

 

大好きな里山風景 いつまでも観ていたいが も早や初夏から夏の 今日の都心の気温


     硯水亭歳時記 ゆく年くる年 

2014年12月31日 | 季節の移ろいの中で

マララさん イギリス・バーミンガムにて お母さんと

 

 

 

     硯水亭歳時記 ゆく年くる年

    

 猛烈な繁忙につき、ブログの更新を大幅に遅れたりさぼったりしておりました。発信することの大切さを、皆さまと同様に充分に分かっていながら、甚だ情けないことです。現在は、28日のお餅搗きから始まって、お正月に数多く訪れる方々のために、聊か発奮し「お節料理」づくりに精進している最中でありますが、本年の締め括りにどうしても書かせて戴こうと、合間をぬってで恐縮でございますが、手身近にツラツラ書きあげ、皆さまへ申し上げたき感謝の意とさせて戴きたく存じます。

 先ず申し上げたいのは、今年このブログに、一番変わらぬ激励を戴いた木村草弥先生に、深く御礼申し上げます。いたらぬ私に、先生は直接メールをくださり、克己奮励するように何度も御励ましを戴きました。先生のブログ「K-SOHYA POEM BLOG」は、70歳をゆうに超えていらっしゃる方とは思えない若々しさに溢れ、日々更新されておられます。「木村草弥の詩と旅日記のページ」では先生の活動の全貌が御覧になれますが、先生の老いの若さには変な棘がなく、明るく智的な世界であり、金属片に似た鋭さと、ヘタな情念に流されまいとする潔さがあり、心地よく読ませて戴く私には、常に、別個にして大切な世界にお導き戴いております。またご長兄さまは、太宰治の「パンドラの函」のモデルとされた木村庄助氏であり、あの著名な美術史家である木村重信氏はご次兄で、ご本人さまは六人兄弟の四番目として、何とご家業の跡継ぎをなされ、宇治茶・丸京山城園製茶場(城陽市奈島)のご発展に、長年寄与されてこられました。その後ご引退され、大好きな文筆の道をヒタヒタと歩いていらっしゃられます。私も、先生の歌集「嘉木」・「嬬恋」・「茶の四季」、詩集「愛の寓意」・昭和」(いずれも角川書店刊行)など、数冊の優れた歌詠み本を当然購入させて戴き、常に手許にて愛読させて戴いておりますが、お茶に対する真摯な愛情と、京都という独特な風土と、高い教養に裏付けられた精神性には、いつも感動させられます。亡き奥さまへの深い哀惜の念など、ことさら、お愛おしいものです。先生!本当に有難う御座いました。更に、私にとり、最も古いブログ友人であるHayakawa(早川茉莉)さまは、「カフェと本なしでは一日もいられない。」という京都・北白川発信の素敵なBlogが御座いますが、実は、彼女女性らしい繊細さと、あっと言わされるような斬新な切り口により、以前大手出版社の優秀な編集者であったことを雄弁に物語る数多くの著作が御座います。第一は「森茉莉かぶれ」で、彼女のお陰で、森茉莉ブームが圧倒的に今でも続いているようです。「卵 ほわほわ」、「京都で寺カフェ」、「白湯のような話(岩本素白)」、「つらい時、いつも古典に救われた(清川妙)」、「修道院のお菓子と手仕事」、「すみれノオトー松田 瓊子コレクション」、「エッセンズ・オブ・久坂葉子」、「なんたってドーナツ」、「貧乏サヴァラン」、「マリアのうぬぼれ鏡」、「また杏色のくつをはこう(城夏子)」、「吉沢久子の旬を味わう献立帖」など多彩であり(Amazon 早川茉莉著作記事)、社会的に埋もれていた女流作家の発掘や、早川さんのお得意技である編集による様々な嗜好やチャーミングな新しい伝説づくりなど、数々のご労作は彼女の魅力に溢れています。熊井明子さんや片山廣子さんや、ベニシアさんに至るまで沢山な女性を教えて戴きましたし、今年も更に多くのことを学ばせて戴きました。心から感謝申し上げます。それと今年の我が塾の忘年会を企画したのですが、あまりの多人数ゆえ断念した「あうる京北」にお勤めの藤野満さん。Uターンで故郷・南丹市に帰られ、「北山・京の都の里・田舎暮らし」という素晴らしいBlogがあるのですが、ここ最近更新されておられません。よくよく見ると、どうやら簡便に出来るTwitter中心のようですが、基層文化中心の真摯な記事にはいつも感心させられました。今年も本当に有難う御座いました。

 また近年、まともな本が売れなくなっている傾向が強いようです。爆発的に販売可能な出版物中心の業界のようですが、哀しいことです。若者の活字離れが深刻さを増しているからでしょう。過半数の若者はひと月に一冊の本も読んでいないんだそうです。本の感想文を読んで、それだけで本を読んだ気になっているのでしょうか。お寒い話です。でも今や現実なのでしょうか。実際本を手にした時の歓びは考えられないのでしょうか。大事な部分に赤線したり附箋をしたり、何度も本の装丁や手触り感などを楽しんだり、それが丸きりないなんて、私には全く想像出来ません。それと少部数発行の本は今やすべて希少本扱いとなり、どうにかこうにか元がとれるものが最低限なのでしょうか。民俗学の我が師匠・本田安次は、処女出版を、仙台の斉藤報恩会から、「山伏神楽・番楽」を、記念賞受賞として上程され出版されました。残念ながら戦時下で、殆どを焼失したそうですが、その後山手線・大塚駅近くにあった古書店である明善堂書店から、「翁そのほか」(1958年刊)を出版致しました。膨大な著作は初め、内神田の木耳社から刊行されていましたが、現在は早稲田鶴巻町の錦正社から、本田安次著作集として刊行されているようです。幾ら希少本と言っても、刊行されて然るべきものはあるのだと、私は強く信じています。笑い話ですが、明善堂の井上ご老人は古書店らしく、刊行後数年を経て、価値が高まり高額な本になる内容しか出版しなかったとか、師匠から伺ったことがあります。当時「へぇ、そんなものか」と聞きながら驚いた次第でした。更に山本書店は御存知でしょうか。山本七平さんが社長の、たった独りの出版社でした。「日本人とユダヤ人」を自社で出版し、大ベストセラーになった神話があります。「花子とアン」に出てくる村岡印刷もそうですが、バックにキリスト教があって、聖書やその関連本を出版していたので、継続して行けたのでしょうが、山本書店はその代表格でしょう。コツコツ一人で出版し、後世の人のために書き残す行為は非常に尊い行為だと信じてやみません。SNSが圧倒する世の中になり、読書という難行苦行は疎まれ、場合によっては排除されているのかも知れません。でも幾ら限定本とはいえ、必ずや弱小でありながら、その種の出版社は、どなたか必ず存在し、刊行続けてくれるものと信じています。古いヤツでしょうか。

 

「Ⅰam MALAL」が並ぶNYの書店にて

 

 今回のノーベル平和賞に、パキスタンのマララ・ユスフザイさんと、インドのカイラシュ・サティアルティさんのお二人が選ばれました。方や熱心なイスラム教徒で、方や敬虔なヒンドゥー教徒のお二人でも、パキスタンとインドとの間で、カシミール地方の国境紛争があり、その意味で、両国和平への期待を象徴するかのような素晴らしい同時受賞となったものです。無論日本人として、青色発光ダイオード(LED)を発見し、低価格へと進化させた赤崎勇・天野浩・中村修二3氏の日本人に贈られたノーベル物理学賞も大変嬉しいものでしたが、私は中でも、赤崎教授の長い時間がかかった基礎研究がなければ、今日の栄誉はなかったはずで、特別な敬意を表したいと存じます。

 さてノーベル平和賞とは奇怪なもので、時々驚かされます。過去あのヒットラーにさえ受賞させようとしました。これ以上、独裁にならないように願ってのことだったでしょう。五億ドルで平和賞を買った韓国の金大中元大統領は、受賞後北朝鮮の金正日に、違法にそんなに巨額資金を献金したことがばれました。佐藤栄作の受賞も日本人なら多くの方々がアレッと思われた筈です。オスロ宣言で核廃絶を訴え、世界を感動させたオバマ大統領の受賞記念講演は、逆にガッカリさせられた方も多かったのではないでしょうか。スウェーデンで行われるのが通常のノーベル賞ですが、五部門のうち、ノーベル平和賞だけはノルウェイの独立機関であるノルウェイ・ノーベル委員会が推奨し、平和賞で選出され、オスロで表彰されています。如何にも政治的なショーの要素がないわけではありません。時々批判の眼が向けられることもあるようです。

 と、言うのも、つい最近イスラム過激派から抑圧されている少女からの証言に、酷く驚かされました。15歳の少女の証言、「13歳で結婚させられ、14歳で出産し、15の私には未だ恋を知らないの」と。この現代に、こんなことがあるんだろうかって言う驚きと、その苛烈さと、少女たちに対する男社会への絶望でしかない仕打ちの証言なのです。確かコーランには男性は女性を保護する役目がありますが、その優しさの教義が、ことイスラム過激派になると、身体全体を黒づくめの衣装ブルガを着る義務を背負わせ、然も女性は教育を受けるなといい、病院では男性医師から看てもらえない等々、こと女性にはたくさんの差別と制約があるようです。同じイスラム圏内でもお国柄色々違うようですが、パキスタン・ターリバーン運動(TTP)は最も過激であり、イラク・シリアに展開するイスラム国はそれに完全に連動し、残忍で、拉致した女性は戦闘員と強制結婚(例え既婚者であっても)させられるか、奴隷とする宣言されてしまうようです。従って識字率も極めて低く、明らかに、女性に対して、それ以上の侮蔑や屈辱はないでしょう。或いは戦闘員も識字率が低いかと思いきや、西洋の異文化圏から賛同し、共に戦闘する若者が増えたことは、今までのテロとは明かに違います。イスラム国は既に建国を宣言し、略奪した製油所から得た豊富な資金で、貨幣を発行し、インフラ整備を整え、世界中からやって来た若者たちに賃金を支払い、危ういのだけれど、国境を確定しないまま、国家として成立しているのです。だから一層恐怖なのです。

 マララさんが国連で、「一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペン。これが世界を変えるのです!」と力強く演説し、世界に教育の重要性を発信しました。如何なる機会にも、彼女はパワフルに発言し続けています。勇気ある弱冠17歳の少女です。マララさんが攻撃された直ぐ傍のペシャワールでは、学校がテロリストの襲撃に合い、140人以上の子供たちが落命致しました。この不条理に対し、何とかならないものでしょうか。日本人も無縁ではありません。愚かにも日本人もイスラム国へ戦闘員として参加したようです。あのアルジェリア製油所襲撃事件で、数多くの日本人が殺害されたにも関わらずなのです。ナイジェリアのイスラム過激派であるボコ・ハラムは、連続して少女たちの誘拐を行っています。また一説には既に一万人以上を殺害しているとか、恐ろしい限りです。私にはイスラム教信者の友人が多数おりますが、イスラム教の教義は他者に優しく、寄り添うものなのに、過激派においては異文化圏へ歴史的に許せない何か巨大な塊があるのでしょう。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書は殆ど同じものなのに、聖典(ユダヤ教トキリスト教)が、啓典(イスラム教)であるだけで三者とも兄弟ではないかと、残念ながら素人ですから、そんな程度で、充分理解出来ていません。そしてマララさんは最初教師になりたいと言っていたのが、医者になりたいと変化し、今は学校を作るために政治家を目指したいとお考えのようです。夢と現実のギャップは相当なもので、過酷です。でも私たちは、この苦境を乗り越え、マララさんの夢を実現して戴くため、あらゆる応援を惜しむべきではありません。と、同時にどうテロとの闘いをなすべきか、森永卓郎と言う馬鹿な評論家が日本人は竹槍で反撃すべきで、これ以上の軍備を増強してはならないと力説していましたが、これって真面目な議論なのでしょうか。戦後カサブタのように蔓延った左翼思想と言う良心がそう言わせたのでしょうか。

 そもそも8月5日発行の朝日新聞における従軍慰安婦記事に対して、誤報と言いながら、全く謝罪はありませんでした。そもそも吉田清治と言う怪しげな人物の書いたものに、実証することなく、32年間も放置した罪悪は大きいと言わざるを得ません。済州島の現地新聞が当初から否定していたではありませんか。これが「吉田証言」問題です。更に福島原発の事故処理に関して、でたらめな記事をでっちあげました。これは「吉田調書」というものです。朝日新聞の戦前の記事の殆どは軍部の御用新聞でもあったことからの反省でしょうが、幾らなんでも戦後ころりと翻り、左翼的なイデオロギーが先行し強すぎませんか。実証よりイデオロギーが先行するなんて、全面社説のようなものじゃないのでしょうか。珊瑚事件とか古墳土器事件とか、朝日は何度も懲りずによくやってくれました。いわゆる従軍慰安婦問題では、大新聞としての、しっかりした謝罪と今後への対応や覚悟を確かめたいと存じます。どの新聞にも言えることですが、事実誤認は最悪です。実証主義こそが当然でしょう。これでは活字離れどころか、新聞離れも大いに起きかねません。各社ともに猛省を促したいと存じます。

 

 高倉健主演 鉄道員(ぽっぽや)から

 

 そして大好きだった高倉健さんの死亡通知もショックでした。寡黙な印象がありますが、彼の著作ではかなり饒舌で、明るいお人柄で、思い遣りのある素晴らしい方だったと直ぐ分ります。遺作となった「あなたへ」は最初、ああ健さんはここまでかとがっかりしたものでしたが、追悼番組で何度か拝見しますと、随所に健さんがおりました。セリフとセリフのあいだの間がいいです。ドスンと相手に伝わるのですから。私は、彼の死が、大好きだった森繁さんと森光子さんと同じ日に逝っただなんて、或る意味では幸運だったのではないでしょうか。今頃三人お揃いで、映画の話をしているのかも知れません。実は私、しばらく下記の本を胸のポケットにしまってベェベェ泣いておりましたが、漸く最近健さんの死を受け入れました。厳しいお母さんにただ褒められたくて、健さんは精一杯頑張ったと思っています。ご冥福をお祈り致します。

 

 高倉健著「あなたに褒められたくて」 1993年8月25日 初版本 あなたとは健さんのお母さんのこと

 

 それと、一つだけ訂正しておきたいことがあります。私の韓国に対する発言です。悪漢論や呆韓論や痴韓論など、花盛りで、私は殆ど読んでおりますが、実際の私は韓国を嫌いではありません。戦前日本統治下時代の最後の五年間は大いに反省すべきことですが、少なくとも日本は韓国の近代化に果たした役割は大きいと思っています。同じように台湾を統治した時も、インフラ整備など、多くの近代化を果たしました。台湾の方々は現在でも、その貢献に感謝しているのに、韓国では全く評価致しません。韓国の古老の方々が日本統治下時代はよかったなどとウッカリ発言すれば、事実、反日教育を受けた若者から殴り殺されるのですから、ソラ恐ろしいことです。日本が統治して、何か日本の祖国へもたらしたものがあったのでしょうか。あったら、それは植民地主義ですが、日本は韓国統治が赤字続きであっても、教育改革やインフラ整備を徹底して進めたではありませんか。日韓基本条約では当時の韓国の国家予算の三倍もの多額の資金を拠出し、それを元に、あなた達は「漢江の奇跡」を起こしたではありませんか。でもそれは国民に知らされることがなかったとか、「女性のためのアジア平和国民基金」を創設し、それによって、一部の慰安婦の方々に慰労金として支払われたではありませんか。更に河野談話や村山談話を告知し謝罪申し上げたではありませんか。結論から申し上げると、日本がどんな謝罪をしても、韓国国民が一方的に納得しなければ断固受け入れないものとなっています。それって国家同士の遣り取りに該当するのでしょうか。あんまりにも一方的過ぎるのではないのでしょうか。確かに慰安婦はおりましたし、お世話になったことも事実ですが、軍部の強制性は限りなく低いものです。事実は、韓国国民の国民性というサガが一切を遮断しているのでしょうか。どうか胸襟を開いてください。日本人はどんな告げ口外交にも耐えてみせます。それが日本人の矜持ですから。

 

花子役の吉高由里子さんと柳沢白蓮役の仲間由紀江さん 打ち上げで

 

 更にもう一つ謝罪したいことがあります。「花子とアン」の連続テレビ小説の一件で、私は作者の中園ミホさんへ、痛烈な批判を致しました。何故最も大切な片山廣子が出て来ないのかという点でしたが、遂最近、テレビ討論で、中園ミホさんが片山廣子を出したかったぁと盛んに釈明されておりました。その一言で、私の溜飲がすっかり下がり、寧ろ自らを反省したところです。今を時めく名脚本家の中園さんをご批判申し上げたことを、心から反省しております。同時にドキュメンタリーではない、創作だと、拙い私をメールで諭して下さったのは、他でもなく木村草弥先生でした。事実毎日あんなに楽しんで観ておりましたし、最近の朝ドラの中では秀逸な作品ではなかろうかと、心より謝意を申し上げます。「花子とアン」の総集編やダイジェスト版や、想像上の人物・朝市が主人公のスピン・オフ・スペシャルまで全部観てしまいました。総集編などでは美輪明宏さんの「ご機嫌よう」が聞かれませんでした。どのナレーションも美輪さんの思いの丈が籠められておりました。尚朝市としたのは、朝の放映後始まる「あさイチ」から取ったとか、想像もここまで来ると面白いものですね。いずれにせよ、心から「花子とアン」の一ファンであったことを、今はとても誇りに思っています。中園ミホさん、有難う御座いました。

 三日掛かりで書かせて戴いたこの記事のお陰で、四日掛かりで、漸くお節料理も出来上がったようです。皆さまにおかれましては、どうぞ佳いお年をお迎え下さりませ!ご機嫌よう。

 


       「花子とアン」 ほか日乗

2014年08月19日 | 季節の移ろいの中で

 

NHK朝の連ドラ「花子とアン」の元本

 

 

 

「花子とアン」 ほか日乗

 

 

  随分久しく、このブログを更新せず、我が尊敬する木村草弥さまからの激励のメールを受けてから、

既に半月以上も経ってしまった。殆ど自宅を中心にいるのだが、逆に忙しいのは、何故だろうか。

折りしも先日は、69回目の「終戦の日」。お盆の行事とあい重なって、佛事や神事が多い。

NHKとアメリカABC放送で共同制作されたドキュメンタリー映画・「映像の世紀」によると、

私たち日本人の戦争観が如何にも狭い。日本映画専門チャンネルでは「回天」や「中野学校」など

この大切なお盆の時季に、臭い軍事映画のオンパレードであり、甚だ不謹慎。

官民で310万人もの多大な犠牲者を出したことも、何処吹く風。

余りにも戦争を知らない世代が多いことか、私も含めて、キリキリと自責の念が湧いてくる暑い夏の日。

 

朝の連ドラ「花子とアン」を日々楽しんで観ているが、上記の本の物語でもなく、

中園ミホという脚本家の世界であり、史実とかけ離れているというか、どうもピンと来ない。

今年の櫻の時季に、120名ほど集まって戴いたカルチャー・スクールで、私は講演をした。

『東洋英和学校の設立と女子教育の意義 片山廣子と宮崎子と村岡花子と』と題してである。

私はもともと実証主義者であるから、徹底的に調べあげ、小さな講演でも原稿を準備する。

その視点で、この連ドラにモノ言えば、余りにも不満が残り、我が講演を聞いた御仁からも、

質問が多く寄せられ、甚だ迷惑しているが、ドラマ構成上、人気が取れれば何でもありというのか。

脚本家が悪いのか、プロデュースが滅茶苦茶なのか、判然としないが、酷い出来である。

世間では、「取材力の中園ミホ」と評判なようだが、私の見解では、そこが極めて疑わしい。

 

先ず花子の成長物語として書かれていないこと。初っ端から「想像の翼」とはアンを意識してで、

子とはなを「腹心の友」としているのも同様であり、赤毛のアンが色濃く散りばめられている不思議さ。

表題に出てくる場面も、プリンスエドワード島であり、創作として最初っから破綻しているではないか。

 

第一に、片山廣子を紹介していないのが、

最も不満があるところで、原作にも登場しているのに、何故?

片山廣子は、芥川龍之介が学生時代からの憧れの存在で、

自称弟子と称した堀辰雄にも多大な影響を与えた。

芥川最晩年の著書「或阿呆の一生」で、「才力の上にも格闘できる女性」と表現し、

『相聞』では「君」と歌われた程。

堀辰雄の『聖家族』では細木夫人に、『菜穂子』では三村夫人のモデルになっていて、

芥川表現の「越し方」である廣子のお嬢様・総子が、

堀辰雄の「聖家族」の絹子や、「菜穂子」の菜穂子のモデルになっている。

その片山廣子とはどんな方だろうかと思われる方々は、月曜社から出版されている、

片山廣子著『燈火節』をお読みになられるといい。こんな素敵なエッセイがあるだろうか。

驚く程、上質な品位を感じさせ、この方の生きた時代を考えれば、その高さがうかがえよう。

片山廣子は、鈴木大拙夫人ベアトリス・レインに、アイルランド文学の翻訳を薦められ、

多くのアイルランド文学の翻訳を、松村みね子の筆名で書いたが、知識水準も相当なものである。

又佐々木信綱に師事し、たくさんの歌も詠んでいるが、『燈火節』は、それら歌や翻訳ものではなく、

殆ど彼女のエッセイで綴られており、アイルランド文学の発想や陰影が色濃く投影され、

気高く凛とした品位の高さを感じられることに、今でも新鮮さと、充分な教養を感じられる。

どの篇から読んでもよく、素敵な本である。私は時々、彼女の『燈火節』を読むのが、

近頃の私の癖になっているぐらいである。

 

昵懇の芥川龍之介や堀辰雄の他、室生犀星や萩原作太郎、そして菊池寛にも慕われ、

「くちなし夫人」と呼ばれた。梔子の花かと思いきや、なんとなんと!

他人から聞いたことを一切他言したり、披歴しなかったことからの「クチナシ」であった。

特に自宅を「馬込文学圏」として開放。文学者だけではなく、

川端龍子や伊藤深水や小林古径など、錚々たる画家たちも、そのメンバーであった。

42歳で、日本銀行理事であったご主人を亡くされ、

46歳で、軽井沢の「つるや旅館」にて、芥川と一晩過ごしたが、

無意味で、ゲスな詮索は全く不要である。文学上の真摯な恋心であったと断言しておこう。

 

 

片山廣子像

 

 この方と、東洋英和女学校で、同窓で友人だったのが、

柳沢白蓮(本名・宮崎子)であり、村岡花子で、片山は一番の年長であった。

麻布十番の反対側のところを鳥居坂と言うが、その坂の途中に明治時代、

政府から許可がなかなか下りず、やっと出来た女学校が東洋英和学校で、

後に、学校に読む本がなくなると、廣子は、花子に、自分の英文蔵書を全解放し、

具体的に最初に、ある本で翻訳を進めている。

その本こそ、劇中に出てくるマーク・トウェインのThe Prince and the Pauper(王様と乞食)だ。

それほど決定的に、多大な影響を受けた花子であったわけである。

東京っ子だった廣子だが、花子が蒲田に引っ越すと、廣子も近くに引っ越しし、

先輩・後輩としても、とても仲がよかったと思われる。それでも村岡花子にとって、

「腹心の友」ダイアナのように存在していたのは柳沢子であったのも事実であろう。

短期間しか在学していなかった白蓮は、やがて九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門のところに、

義兄・柳沢義光が貴族院に出馬するための、酷い政略結婚であり、相手は色々と立派なこともしたが、

おんな癖が最悪で、白蓮は9年間も、よく堪え得たもので、生涯孫文を手助けし援助した

7歳年下の宮崎滔天の長男・龍介と、熱烈な恋愛をし、初めて女の歓びを得たものである。

朝日新聞紙上に、離婚宣言をしたのも事実だが、自ら選んだ、初めての結婚相手でもあった。

ほぼドラマ通り筋書きであるが、伝右衛門は、ドラマ構成上、特別素敵に見えるのは何故だろう。

大正天皇の従妹に当たる由緒正しき貴族の出だが、白洲正子の「お公家さん」という本を読むと、

正子独特な言い回しで、「不良公家」と言い放ち、賛否両論があったのは事実だろう。

時代は「姦通罪」があった時代で、思いを遂げた白蓮は幸せだったはずである。

 

大正三美人と謳われた宮崎子像(後の柳沢白蓮)

 

「花さきぬちりぬみのりぬこぼれぬと 己れしらぬまに日へぬ月届かぬ」

子は日蓮宗信仰で白蓮と号し歌を詠んたが 歌の殆どは私小説そのもの

 

従って、同校で、片山廣子を長女とするならば、白蓮は次女で、花子は三女に当たるだろう。

廣子(1878~1957)、白蓮(1885~1967)、花子(1893~1968)の、年の差である。

でも東洋英和学校の同期であり、三人とも、歌人・佐々木信綱の弟子であったことも面白い。

 

村岡花子像

 

「花子とアン」では、花子の詳細な心の成長物語が然程感じられないのが致命的であり、

養女の娘である村岡恵理さんの原作にも、かなり逸脱しているが、恵理さんが歓んでいると聞き、

私事ブツクサいうのは、大概にしなければならいのだろう。

花子はプロテスタントの熱心な教徒として、その生涯の成長が記憶され続けており、

質素・倹約・誠実という、その教義そのものの生き方をした人であった。

 

花子が村岡敬三と結婚したが、その結婚式を山梨で挙げたこともウソで、

東京・築地の築地教会で挙げている。それはフィクションもいいところである。

例えば花子と幼馴染として登場した朝市など、多く登場人物は実在していない。

登場して欲しい人を出さず、如何にもフィクションだと言わんばかりの配置である。

実像を知りたい方には、多大な混乱を起こしかねないわけであろう。

 

僅か5歳の一人息子の道雄が、6歳になる直前に、

当時流行っていた疫痢に罹り、突如亡くした悲劇が哀しい。

また関東大震災の時、従業員から、実印や銀行通帳を持ち逃げされたのも不運であった。

悲劇はいっぺんに襲ってくるものである。然し花子は健気であったし、

子供向けラヂオ放送も大変好評のようで、子供が大好きな人であったのだ。

そんなことで、私は結局毎朝、この番組を楽しんで観ているほうだが、

NHK朝の連ドラの王道とは、かく創られるのかと感心しつつ観ることにしている。

また中園ミホという作家の創作として観れば、腹も立てようがないのかも。(これも想像の翼か)

私は、本当に真摯に生きた村岡花子が大好きである。

 

村岡花子は、敵性外国語の英文を、戦争の最中、必死の思いで翻訳し、

戦後未だ混乱が残る中、昭和27(1952)年に、三笠書房から「赤毛のアン」が発売されるや、

日本中の女の子に夢と希望を与えたのは御存じの通り、花子の功績は計り知れないものがあろう。

但し主人公アン・シャーリーは英文学を教えた教師であったために、多く英文古典が引用されているが、

村岡花子の訳では少々ものたりなく、シェイクスピアやディッケンスなど、頻繁に語彙が使われている。

それらすべてを訳注した松本侑子も、この際参考のために、一応記載しておきたい。

 

この三人に深く影響を与えた雑誌「青鞜」の平塚らいてうや、婦人参政権運動の市川房江のことも、

どうしても書いておかなければならないだろう。私的に、開化期の婦人で、最も輝かしい女性は、

津田梅子ではなかったかとも追記しておきたい。

 

赤毛のアンに関する本がたくさんあり どれも素敵な「ワタクシのアン」に違いない 推奨!

 

製図にはCADという真に便利なものがあるが、ガラケイもスマホもやらない私は、

多分今時分の男にとって、甚だ奇妙で滑稽な人間かも知れぬ。電子メールでやり取りするよりは、

一々手紙に認めるほうが好きである。従ってCADも使うけれど、手作業のほうを選ぶ。

不思議なもので、手作業だと、書きながら、ふとした発想が滾々と生まれ出で、

それが決定的に大事になることが、非常に多いためだ。

 

年がら年中、製図板を相手にしていると、ついブログの更新が疎かになる。

更に面倒なことに、すべてに許認可がついて廻る。致し方ないことだが、

その心は、基礎工事や環境留意にあるのだから、由とせねばならない。

 

久し振りに、ブログの更新を後押しして戴いた木村草弥先生に、心から御礼を申し上げたい!

 

赤毛のアン記念館 村岡花子文庫 (ただ今休館中)

東洋英和女学院 「村岡花子と東洋英和展」 (9月27日まで)

 

角川「短歌」誌九月号に「村岡花子と短歌」が収録されている 

(我が意を得たり これも木村草弥先生から教えて戴いたものである)

 

 


      うつりゆく季節の風をうけて

2014年04月30日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

 

うつりゆく季節の風をうけて

 

 

吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはず成にき

 

西行の歌を歌うべくもなく この四月は 初めて悔しい思いで過ごした

蔵王堂の花供会式には毎年行っていたが 今年は何処に出ることもなく

家族中心に過ごし 行っても有栖川公園か せいぜい小石川植物園ぐらいであった

近くの山種美術館で展示されている奥村土牛先生の「醍醐」で せめてもの憂さ晴らしをした

 

 

運がいいこともある スイスに預けていた運用資金の膨張であり 皆と相談し

リハビリ中の私にやることが出来た 櫻の研究棟の建設・設計である

これには多くの方々の支援が大きく 特に住友林業には今後もお世話になることだろう

序に私は 一般見学者用の宿泊施設や その他諸々の施設の設計にもかかるだろう

どうやらこの浮いた資金は早速生きそうな気配がする そうだ私は元来建築屋なのである

 

 

品川のマンションにある私の設計資材を すべて我が家に運んでもらった

使い古した製図板デスクの前に座ると 妙に落ち着き 今年の櫻は新しく思えた

水泳教室での歩行訓練や 子供たちとの生活や 何やら忙しくなりそうである

また膨大な建築用資料もあり 参考資料や図版も少なくない

一つ一つ柔らかに手にして 新たな決意を固めた次第

 


     春一番

2014年03月19日 | 季節の移ろいの中で

大島の藪椿

 

 

春一番

 

 

寒かった今年の冬も そろそろ退散するのだろうか

ようやく櫻の開花便りが 高知県安芸の元網元さんからだった

そして昨日はポカポカ陽気で 一気に20℃まで上がったが 今日は一転し 寒の戻りのよう

 

さて 何度も書こう書こうと思っていたのは 伊豆大島のこと 

去年の台風26号による多大な犠牲者と あっという間の土石流に流された家々

途方に暮れる方々を観て 何度出掛けようかと思ったことだろうか

東京都に問い合わせたり 大島社協のボラセンに登録したりしてから

仲間の数人を送り込んだり 義援金を拠出したりしたが

私は 体調の関係で ついぞ行くことが叶わなかった 羽田からたった30分で行けるのに

 

されば 椿まつりにでも行こうかと思っていたが この23日で今年の椿祭まつりは終了するようだ

でもまだまだ見ごろらしく 樹齢200年にもなる椿のトンネルが100㍍も続き まさに圧巻であり

遅くなったものの ここで少々の宣伝をしておきたい もう直に大島櫻とともに観られるだろう

更に 大島の歴史は古く 土壌も色々とあり 何と原生林もあるのだから

 

あの台風被害の傷は少しは癒えたようでも 未だに行方不明者が4名もいる

死者35名 負傷者22名の大災害であったのに 何と共産党現役党員の町長及び副町長が

島根県の隠岐の島へ出張していて 不在だったと言うから呆れる

正副町長二人で出掛けるとは 如何なものか この夜宴会があり その後キャパクラにも行ったとか

台風が近づいているのを分かっていたはずなのに 何という失態だろう

日本共産党は身内には甘いらしく この町長を批判することなぞ一切ない 如何にもそれらしいが

 

元町中心が被災したが 大島の藪椿は相変わらず見事に咲いている

 

大島の方言で アンコとは未婚の女性のことで アンコ椿という言葉は存在しない

 

大島特産の椿油にする椿の種(収穫時期9月~11月)

 

大島椿油の製品各種

 

結婚する前 我が妻はよくこの椿油を ロングヘアーに 少々だが つけていた

その香りが大好きであった私は サラサラとした彼女の髪の毛をなぞれるまでに 随分かかったものだ

実は京都に オフィスを構えていた時のことで 彼女はそこにアルバイトで来ていた

それが 私と妻とのなれ初めで 何となくあの頃の仄かな香りが 懐かしい

 

高田精油所の工程図

 


   謹みて新年の寿ぎを申し上げます

2014年01月01日 | 季節の移ろいの中で

「能にして 能にあらず」 神ごととしての翁面

 

 

謹しみて新年の寿ぎを申し上げます

 

 

皆さま 新年明けましておめでとう御座います

今年も きっと素晴らしいお年をお迎えのことと ご拝察申し上げます

 

さて能では 新年に「翁」が奏されますが 「翁」は別格の扱いを受けます

正月三が日を中心に一月にしか 「翁」は上演されません

特別に ぐるりと注連縄が張り巡らされた舞台で奏上されます

舞台上で シテが翁面をつけたり 演奏中は途中から決して客席にも入れません

客席入り口のドアーに 紙封が施されるほど 厳格なものです

 

世阿弥をして 「翁は能にして 能にあらず」と申しました通り 神格化された特別な能だからです

 

当家でも 新年に 菩提寺や墓参をし 邸内の小さな八幡宮に初詣でをしてから すべてが始まります

また当家には 翁面が 正月飾りと一緒に 大切にお飾りを申し上げています

背筋をピンと伸ばし 拝礼することも お正月通例のことです

 

「翁」 奏上には 舞台の隅々まで 注連縄を張り巡らされます

 

先日 京都に雪が降りましたが 雪の京都は一層美しい都になるようです

京都・上賀茂神社は まことに荘厳な神域となり 私が愛してやまない神社です

拝殿の上には 氏子さんが作られた日本一美しい注連縄として 「宝船」が飾られ 見事です

京都の中でも 最も美しい神域だと 私は信じています

 

「宝船」 上賀茂神社の正月飾りで 日本一美しい

 

それというのも 何時かのお正月に かの人が 上賀茂社の巫女さんになっていたからです

この写真は お神酒の綬所になっている所ですが 本当にドキリとした美しい巫女の 彼女の所作でした

 

 

 

紅白歌合戦で 拍手をやめろと叫んだ泉谷しげるの演奏には 感動致しました

たった独りで 紅白歌合戦を観ておられる方々へ 確かなメッセージを伝えたかったのだと思われます

だって仮説住宅には まだまだたくさんの孤独な方々がおられるんですもの 当然でしょう

更に 美輪明宏さんの歌・『ふるさとの空の下に』に とても感動致しました 

NHKでは初の反戦歌だったでのしょうか 或いは被災地へでしょうか 素晴らしい歌手で 驚きました

 

今夜は 毎年楽しみにしている「ウィーン・フィル管弦楽団のニュー・イヤー・コンサート」があります

お花はどんな色調で飾られるのでしょうか 今年の指揮者はダニエル・バレンボエム お馴染みです

ウィーン・フィルの皆さんが 我が日本の被災地に 何度も足を運び 沢山の演奏してくれました

感謝して余りあり 栄えある楽団の基地・ウィーン楽曲家協会で どんな演奏や演出があるのでしょう

妻との約束に お正月には ウィーンに行き このコンサートを楽しむ約束があります 是非そのうちに

でも まだ小さな茉莉を中心に 今は小さな幸せの頂点を 家族全員で楽しんでいます お陰さまです

 

いずれにしましても 皆さまのご多幸を 心から心から念じています

又 皆さまには今年も ご指導・ご叱責を賜りまするよう お願い申し上げます

 

 

硯水亭主人

 

 


     皆さま どうぞよいお年をお迎え下さりませ

2013年12月31日 | 季節の移ろいの中で

 

花祭り 歳神さまのご招来

 

 

皆さま どうぞよいお年をお迎え下さりませ

 

様々なことありて 怒りも 哀しみも 歓びも また楽しさもあった今年 

皆さまには 疾風怒涛のこの年の 大晦日を如何お迎えでありましょうか

私は 被災地へセッセと出向き 向き合い 植樹し 日々疲労困憊致しました

ウェリントンでの手術後 リハビリに徹し 殆ど外出することなく 家族とともに過ごしています

 

来る年はお互いさまにて 健康でありますように 心よりお祈り申し上げます

さて被災地での私の感想ですが 東京オリンピックと 浮かれていられないのではと

ヘソ曲りでしょうか 何か斜めに見てしまいます

 

そこで 今年の大団円として 奇妙でしょうけれど 

ちょうど20年前に亡くなられたオードリー・ヘプバーンの遺言を書かせて戴きます

 

 

  「死の淵にて 愛する長男ショーンと次男ルカへ贈る私の言葉」

 

 美しい唇には 優しい言葉を話しなさい

 

美しい瞳のためには 人の良いところを見付けなさい

 

スリムな体型のためには 食べ物を分かち合いなさい

美しい髪のためには 子供から梳いてもらいなさい

 

一人では歩いてゆけないことを知りなさい

 

未来と伝統を あなたたちに遺す

 

人間の思い遣りは 決して廃れることはありません

人は向上して行くことが出来るのだから

 

 オードリーは享年63歳 スイスの小さなトロシュナ村で 大腸癌のために他界す

今は人手に渡ったその家に ラ・ペジーブル(静かな家)の表札が 当時のまま

1993年1月20日の葬儀には あの小さな村なのに 千人もの方々が集まりました。

村をあげて哀しみにくれたのです ユニセフの関係者も多く集まりました

大好きなものは 白い花・犬・散歩・青空市・チョコレート・家族・友人 ただそれだけ

村の共同墓地に眠るオードリーに 隣村のモルジュの店々や青空市から購入した花々や 

モルジュのチョコ屋さんで買ってきた 大好物のチョコレートなどが いつもお供えしてあります

 

はじけるように素敵だった出世作・「ローマの休日」のポスター

 

ユニセフでの活動 老いても尚 素敵な方でした

 

トロシュナ村にあるオードリーの墓地 明るく静謐なご安所

 

決して誰も見捨ててはならない

年をとると 二本の手があることに気付くだろう

片方は自分自身を助けるために もう片方は他人を助けるために

(オードリーから皆さまへのメッセージ)

 

皆さま どうぞ良いお年をお迎え下さりませ

 

硯水亭主人より

 

北野天満宮の初絵馬 (京都写真のyoupvさんの写真よりお借りしました)

 


     立冬を迎えた栄華の墓所

2013年11月08日 | 季節の移ろいの中で

 

京都市左京区鹿ケ谷若王子山町にある同志社墓地 新島襄(右)と八重の墓所(左)

 

 

          立冬を迎えた栄華の墓所

 

 哲学の道・南端にある熊野若王子神社付近は、同志社大学の共同墓地へ行く案内板で、辺りは今年随分賑々しいらしい。そこから20分ほど山中に入らなければならないが、永観堂の丁度裏手にあたる位置に同志社の墓地がある。新島襄は無論、新島八重や実兄・山本覺馬や、権八や佐久や三郎などの八重の家族もあり、八重を「鵺(ぬえ)」呼ばわりした徳富猪一郎(=蘇峰、後年鵺発言を謝罪し、襄亡き後、同志社設立に大いに貢献し、八重の墓碑銘を書いた)の墓所もある。初期・同志社建学の精神がここには眠っているのだろう。私学設立には余程難渋したに違いないが、而して私学は私学の存在意義は大いにあり、官学ではなしえない自由と進取の精神に富んでいると思われる。

 立冬のこの時季、大原・古知谷の阿弥陀寺には、白やピンクの大文字草の花が見事に満開になっているから嬉しい。ツワブキも鮮やかな黄色に染まって、紅葉より一足先に楽しめる。先日、山縣有朋(狂助)の悪口をここで書いたら、二三叱責を受けた。確かに奇兵隊を率いた明治の元勲には違いないし、日本国軍の父であったと思うものの、たった6年半で終局を迎えた奇兵隊は、山縣にとって、果たしてどれだけの意味があったのだろうかと疑ってやまない。奇兵隊は高杉晋作が創設した長州藩の一諸隊に過ぎないが、高杉が教法寺事件の責を取り、たった三ケ月で失脚すると、その後を担ったのは吉田松陰松下村塾、初の優秀な卒業生であった赤禰武人であった。かくして赤禰が総督となり、極めて優れた隊規となった「諭示(ゆじ)」を残している。明治政府は各藩の精鋭部隊をすべて解散させ、奇兵隊は脆くも消え去った時、赤禰武人は藩内を纏めようとしていたが、槇村は言い訳を一切許さず、28歳で非業の斬首となってしまった。長州藩を一つに纏めようとしたに過ぎないのに、幕府方のスパイと見做されたからだろう。こうして奇兵隊は最後過酷な運命が待っていたのである。恩義があり、前の隊長であった赤禰武人を、何故山縣狂助は赤禰を助けなかったのか。理解不能である。早々に、明治政府の命令によって欧州へ軍隊創設の留学をさせられていたからだと言えばそれまでだが、長州藩が割れて、正義派(山口)と俗論派(萩)の二手で内部分裂をするところであったから赤禰にとって気が気ではなかっただけなのに。高杉をして死の直前に、赤禰武人を「武人の気持ちを察することが出来なかったのは残念だ」と病床にて語らせている。だが足軽出で、最後の奇兵隊の長であった山縣は、松下村塾の丸太棒であり、出来損ないであったことは明白であり、諸氏には許して貰えないだろうか。無論その後山縣によって、陸軍が創設され、国民皆兵制となって、列強から、日本を守った偉人であることは充分分かるのだが、赤禰武人の「諭示」の本懐を理解していたのだろうか。松下村塾の最劣等生が、最も長生きして、陸軍大将から総理まで上り詰め、名声を勝ち得たことになる出世に、聊かの躊躇があるのは致し方あるまいと存ずる。要するに個人的な毛嫌いがあるからで、太平洋戦争まで続いた陸軍の軍閥と思い上がりは、百年千年の智慧がなかった山縣まで遡るのではなかろうかと、小生は密かに実証してみたい気で満々である。

 あのスッカラカンの管直人が組閣した時、なんの意味があってか知らぬが、自身の内閣を「奇兵隊内閣」と豪語したのが、未だに意味不明であり、笑止千万の極みである。所詮、小市民運動家で終わって欲しいだけで、何が東京工業大学出身者だと自慢し豪語したのかと思う。あの原発事故を巨大化し肥大化させた張本人、それは貴殿であっただろう。

 それにしても山本覺馬の活躍は、京都府議会の初代議長であったばかりではなく、佐久間象山仕込のグローバルな視点がモノを言った。京都人の公家や町衆まで誰一人知り得なかった明治天皇の東京奠都(秘密裡に短時間で決行された)が実行され、大都は急速に活気がなくなってくる。その廃れ行く京都を救ったのは旧会津藩で砲術指南役の山本覺馬ではなかったか。覺馬のような骨格の太い人物が初期議会や初期商工会議所にとって、どれだけの功績があったか計り知れない。覺馬が薩摩藩中牢座敷で書き上げた「管見」三権分立の「政体」に始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」、太陽暦の採用を勧めた「暦法」、西洋医の登用を訴えた「官医」と内容は多岐にわたり、将来を見据え 優れた先見性に富んでいる)は、明治新政府の政策の骨格とも繋がり、明治憲法制定に多大な影響を与えたものであったろう。覺馬と対立した槇村正直は、府知事であったが、どこに功績があったのだろうか。精々ヒゲでも伸ばし、中央官庁に行って、山縣同様華族になるのがオチであったろう。下士の子の、品格のなさを大変に残念に嘆くのみ。

 

 同志社墓所内にある山本覺馬の墓 墓碑銘は勝海舟による

 

 京都の紅葉はまだこれからだが、立冬を迎えて、漸くそれらしい美味しい寒さになっているようだ。上賀茂社近くの、すべてお任せ料理である「秋山」で、マツタケと鱧の土瓶蒸しでも戴きたいものだが、京北の「登喜和」で、予め発注しておいてのマツタケ入りすき焼きも魅力がある。いやいや、自宅で、里芋と和牛と長葱と舞茸だけ入れ、単純で素朴な山形風お醤油味の「芋煮」も、お手軽でいいのかも知れない。冬の味覚に、しばし思いを馳せる。玄界灘のクエ(九州ではアラ、モロコなどともいう)には絶品の季節、越前蟹、ふぐ、マナガツオ、青首(マガモ)、鯉料理、牡蠣、マル(スッポン)、甘鯛(白皮が一番だが、赤アマ=グジも扱いによっては最高)、黍魚子(キビナゴ)、虎魚(オコゼ)、皮剥(カワハギ)、秋刀魚(サンマ)、鮭(シャケ)、蕪(カブラ)、白菜、山東菜、柚子、色々と秋の美味しさを演出する日本の至宝だ。お節料理や、四季折々の一般庶民の民俗性豊かな和食を取り入れた日本の和食文化を、世界無形文化遺産としての登録が、この十二月に正式に認められる見通しである。これは和食離れしていることへの警鐘であり、信じがたいワンプレート料理(カレー、パスタ、ハンバーグ)しか、現代の主婦が作りたがなくなり、米離れも深刻化しているからであろう。日本文化は食文化から崩壊しつつある危機的状況であるのだ。味だって、お手軽に各社によって味の素類の商品で溢れ、インスタント食品だらけで大仰だ。味そのものが全く均一化し、舌の劣化が進んでいる証拠である。そうした現代人の舌の都合に合わせ、名店や各デパートや有名お惣菜屋まで、偽装、若しくは誤表示されていても、全く気づかない筈であり、情けない。和食文化の世界無形文化遺産への登録は、飽く迄今日的事情の逆説と捉えるべきである。

 様々に失われようとしているものもあれば、新しく萌芽するものもたくさんある。今後50年先には、台風の目は主に800hPa(ヘクトパスカル)台に確実に巨大化し、風速80㍍~100㍍が標準となりそうでソラ恐ろしい。地球温暖化の影響で、益々異常気象が起こり得るだろう。現在の世界総人口は70億人だが、100億人を突破するのは時間の問題である。第一水資源の確保であり、地球温暖化のストップであり、食糧不足の解消であり、汚染された放射能や水銀濃度の管理が最も大切である。〇〇劇場よろしく脱原発だけを吹聴している方がいるが、誰しも原発に依存しない社会を望んでいるのは当たり前だ。でも現在存在している原発を、今後最低10万年は管理していかなければならない責務がある。従って再稼働するかどうかの小規模問題(いずれ無くなる故)より、半永久的に管理して行く若手研究者を、今後も強力に継続し育てて行かなければならない。ここが問題だ。放射能は半減期や地上に吸い込まれて行く性質もあるが、水銀汚染は深刻である。今回熊本で締結された水俣条約は非常に重要な問題であり、水銀は永遠に半減することがないからである。日本は生産量が少なくなったからと言っても、未だに輸出大国である。硫黄と化合させ、超高速撹拌し、別な化学物質に替えることが、日本では既に技術開発がなされている。早く普及して欲しいものだ。水俣条約の批准を世界が急いで欲しい一点である。

 私たちは私たちで出来ることを仲間とともに進めて行くしかない。日本の森林は70%以上もあるのだが、国内で使用される70%の木材は廉価な輸入木材に、その多くは頼っている。この足許の異様さと異常さ。賢明なる読者諸氏にはきっとご理解戴けることだろう。

 

 私たちに出来ること 広葉樹の樹木や山櫻を生産し、広範に移植し、代々に亘って続けて行くこと

 


     赤く染まった庭先で

2013年10月29日 | 季節の移ろいの中で

我が家の櫻 紅葉す

 

  

           赤く染まった庭先で

 

 

 大都会のど真ん中にある我が家の広葉樹は、このところの寒さで、あっと言う間に紅葉が進んだ。この秋は極端に短くなるような気がする。そう言えば秋海棠もとっくに終わり、庭の広葉樹の主木や根廻り木などの紅葉もあっと言う間に進み、花はホトトギスが満開、山茶花の蕾も膨らみかけ、既に冬到来の予感がしている。季節が巡り来る歓びは格別で、日本の四季は嬉しい極みに違いない。但し気象状況は何となく亜熱帯化しているようで、どことなくソラ恐ろしくもある。

 海外に出ていると、如何にも日本の治安はいいように思えるが、果たしてどうだろうか。最近テレビの報道番組や各新聞などを見るのが辛くなる時がある。教師が女の子の着替えを盗撮したとか、裁判官が教習生の女性にセクハラしたとか、警官が窃盗をしたとか、本来あり得ない役職者の犯罪が目立つ。何でもありのような醜態で、極めて憂慮している。今回起きた有名ホテルでの偽装問題は、誤表示を言い張って終わりにしようとしている。お客さん本意のサービス業でもこうした悪辣な無責任ぶりなのだ。大阪・船場の吉兆での食品偽装事件はまだ記憶に新しいはずなのに、中国産ウナギの偽装や焼肉屋で提供されたユッケによる食中毒事件もあったではないか。汚染米の偽装、博多っ子明太子偽装、伊勢の赤福まで偽装があった。無念!特に食中毒になったり、原産地公害ばらまき型偽装はどうしても許せない。そしてそのことが経営者にとって致命的になることも知ってか知らずや、情けない極みである。戦前には未だ少しはあったはずの公徳心や道徳心はほぼ壊滅状態で、戦後68年の歴史は内的精神文化崩壊の歴史でもあったようである。スマホの普及は罪悪感を薄め、平気でストーカーやら、いじめに使われ、際限がない。従ってテレビを観るのはBS・NHKが中心となり、後は好きなクラシック音楽や、子供たちの楽器の演奏や妻の弾く上方舞や義太夫節の三味の音を静かに楽しむ以外にはない。小生は能管や撥の演奏で偶に応えるが、すっ高い音だから少々遠慮気味。娘・杏の弾くヴァイオリンは褒めていい範疇になりつつあるようだ。

 塾生に説いた、江戸時代の各藩における家訓の講座は結構みんながよく聞いてくれたが、それじゃ自分たちの塾訓を出して欲しいとの提案には、二年以上も経ってから漸く全員一致として出て来た。「敬・愛・信」、この三文字だけである。ゆとり教育で育った子たちの割にはなかなかいい提案だったと小生は強か満足している。各位の胸に深く刻んで戴きたいと念じている。昨年から、金品の決済出来る職員を三人にし、年次予算範囲内の執行をすべて任せた。監査役も置いた。驚くことに財団原資を全く減らしていないばかりか、スイスのパーソナル・バンクの運用がよかったせいか、逆に増え続けているようだ。アベノミクスの影響だろうか、何だか気味が悪い。尤もスイスって国家はユーロ圏外であり、周辺の国家から大いに嫌われているようである。三年前父からの相続がすべて終了した時点で、アメリカのグリーカード(永住権獲得による節税)を返却してしまった。無論現在、すべての納税は日本において行われているが、馬鹿高い納税額は仕方がないものであり、ほとほと諦めている。小生はその為に日々預貯金をし、毎年の納税に備えていて、賃料など入るものがあっても、贅沢など先ず出来るものではない。納税したお金は無駄なく使われて欲しい一念だけである。

 更に小生の秘書を八人制にして、すべてを事業企画部や人材運営部など、各部署の執行役員にした。私がいなくとも、すべてが執行して行けるようにしたからだ。そのせいか皆生き生きと働いているようで嬉しい。我が財団自身では未だに収入の道が少ししかなく、ほぼ払い出し一方であるが、数年前亡くなった我が主人の遺したお陰であり、贅沢さえしなければ、何とか生きて行けるようである。新しい職員は現在数十名単位で募集をしているようだが、すべて縁故採用にしているらしい。出来るだけ、地方の方や農事・林業などに熱心な興味がある人に入って欲しいものである。越谷の寮には現在殆ど人がいなくて、岐阜や岩手や宮城や、各支所に分散し働いている。落伍者は極めて少なく、塾生同士・三組も結婚した。その予定者がまだ何組かいそうで微笑ましく、若いカップルが共に手を携え、地方の山林に入って行こうとしている。自分たちで決めた「敬・愛・信」を胸に、自分の道は自分で切り拓けと、私は常に鼓舞し続けているのだが。

 残念ながら、今年いっぱい現場に出ることは辞めようと思う。皆元気で頑張ってくれることを心から信じているからだ。感謝あるのみである。

 

父手製の盆栽たち 目下紅葉中


     もう一つの半夏生

2013年07月06日 | 季節の移ろいの中で

最上紅花 不思議なことに 半夏生の時 紅花畑に たった一輪だけ花をつける

 

 

       もう一つの半夏生

 

 七月二日の半夏生が過ぎたところで申し訳ありませんが、半夏生のお話を少々。先月末はワラビ粉や米粉や葛を利用し、グラニュー糖で味付けし、温めてから、ほどよくかき混ぜて、四角い型に流し込み、地熱になるのを待って冷蔵庫で冷やしておいた。そこへ四日間掛かった小豆の、はんなりした甘さのある小豆も上々の仕上がりで、冷めてから、冷蔵庫の中の四角い台を取り出して、小豆をびっしりと敷いた。そこに台座用の残りの汁を満たし、再び冷蔵庫の中へ。しばらくすると透明な台座に悪魔祓いの小豆が収まっている。それを幾つも小口に三角に切り完成だ。京女の家内に味見をして貰ったら、何とか合格点を戴けた。台座三枚を作ったので、合計66個の「水無月」が出来た。普段お付き合いをしている隣近所へ半分差し上げ、我が身内にもお裾分けし、茅の輪くぐりの後、冷やしておいた水無月を家族で食べた。プルルンとして美味しかったと評判が良かった。これで半年の穢(ケ)が取れ、晴れて文月を迎えることが出来る。

 文月の二日が今年の半夏生。皆さんのブログには賑やかに半夏生の記事が躍動しておられた。この時季、芭蕉翁は出羽路、尾花沢に長逗留し、紅の花を観たのだろう。「まゆはきを俤にして紅粉の花」と名句を残されたが、各務支考の選集した江戸時代の連歌・俳諧・俳句集の中に、「西華集」(早稲田大学図書館蔵)というのがある。支考はたくさんの別号を持っていたが、この本は西華坊という別号で選集していた。この中に、芭蕉翁が尾花沢で詠んだ俳句として、「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花」という句が残されている。これもなかなかの秀句で、芭蕉翁の好きな一句であるが、いずれの句もほんのりと色香が漂っていて、いい句だなぁと思っている。

 今田信一著「最上紅花史の研究」によると、北前船に乗せた最盛期の紅花出荷は一万駄近かったという記述がある。一駄とは、馬の背に片方二俵ずつ振り分けたので、合計四俵が一駄となるが、何と江戸時代、関西に送られた紅花の出荷量は凄い量であったことを想定せられる。近代になり、西洋から化学的な染料が入ってくると、一気に紅花生産はされなくなったようだ。然し近年、あの黄金色に輝く紅花が見直され、山形のあちこちで栽培されるようになったようである。お化粧用だけではなく、草木染の原料としても需要が高いようだ。衰退した後も作っていたのは河北町谷地の辺りで、古来紅花豪商として君臨した鈴木家には、帰りの船に積まれて帰ってきたであろう数体の享保雛もあるから驚きである。更に近隣の大庄屋であった槇家にはお蔵が七個もあり、邸内の神社に、近江商人たちが挙って寄進したと思われる石灯篭や宝塔がズラリと立ち並んでいる。在りし日の繁栄ぶりが想像されるだろう。そして恐らく、「芋煮会」の原点は北前船で行って帰った後、河原で一種の「直会(なおらい)」をやったからではなかろうか。何故なら具材の差はあっても、京都の芋棒に酷似しているからである。

 

かわいい紅花娘が 毎年選ばれる

 

 ところで面白いお話がある。実は現在、紅花は最盛期を迎えているが、半夏生の朝、朝露に紛れて、広大な紅花畑に、たった一輪だけ先に、紅花の花が咲くのだ。その後一斉に咲き揃い、花が咲いてから四日目まで、花を摘み取らなければならない。本日あたりが摘花の最盛期だろう。それも朝露になる朝四時半前後一時間だけ、紅花の棘は刺さっても痛くならないので、その一瞬のうち摘み取らなければならない。的確で素早い作業が大事なのだろう。近年、よく丸い葉をした紅花が都会の花屋には出回っているが、最上紅花の葉先は鋭く尖っており、丸い葉をした紅花は決して紅花ではないと現地の人は厳しく言っている。更に本来の紅花は黄色い花で、花弁だけを集め、一旦水洗いを徹底して雑味を取る作業を行う。それから筵の上に、すこしずつ花を盛り、更に花筵を上に乗せ、足で踏んで平らな紅餅を作る。つまり花の酸化を促すのだ。そうして乾燥させ、やっと出荷に漕ぎ着ける。でもただ紅餅を水に溶かしても、紅色に直ぐなるわけではない。最初に染まるのは黄色か肌色で、何度も何度も絹糸をくぐらせないと、そう簡単には紅色に染まらない。又、芸妓の口紅として、眉刷毛で染めると、見た目に黄金色に輝いて見えるが、そこまでする工程は職人さんのすご技がありそうである。中里恒子の「花筐」に、若い時紅色で染められた紅絹(もみ)の裏地をした着物を着せられたという一節があるが、裏地に紅を遣った紅絹とは恐れ入る。まぁ団十郎の「助六」にもあるからいいとするか。多分除虫の意味合いもあって、使われていたのだろうが、私は表地に真紅の和服しか見たことがない。数代前の嫁入り時に使用されたとの伝聞がある真紅の振袖がある。梅雨の衣更の折、当家では古書や古衣装を虫干しするが、古書にはタバコの葉を入れ、古衣装には樟脳を忍ばせる。いずれにせよ紅は大変に高価なものであったろう。志村ふくみさんが仰られていたのは西洋の化学染料とは違って、草木染の染料には雑味があって丁度いいのだと。ラピスラズリのような青色と、日本の藍色との差異だろう。日本人は丁度いい、はんなりとした色彩を好むようである。

 千曲市から杏の実が5キロも届いた。杏ジュースを作って娘に与えたが、酸味がどうも嫌らしい。そこで水無月で使用した蜂蜜などを使って、杏ジャムを作ってみたら、朝パン食の時歓んで食べてくれた。まだ少し原材料が残っているから、フォションケーキでも作ってみようかと思っている。先日水無月の小豆に甘味を入れるため養生していた時、エジプト情勢をCNNで観ながら、夜仕事をした。エジプトはムスリム同胞団がバックにいて、モルシ大統領を支えていたが、逆に物価が高くなり、ガス・水道・電気のインフラがめちゃくちゃになったらしい。そこへイスラム化が一層拍車を掛け、人心が離れたようだ。政教分離はトルコにも言えそうである。民主主義はそう簡単には根付かない。エジプトに、日本は250億円も拠出し、クフ王のピラミッド付近に新しいエジプト国立博物館を建設中である。今までのより数倍も大きな博物館で、エジプト観光のために寄与するはずであり意義深い。無事な国家建設を切に祈りたい。

 

完熟した杏の実は 今や盛んに都会に出荷されている