硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

孫次郎

2010年11月27日 | 能・狂言

 

伝 孫次郎 (三井美術館蔵)

 

 

孫次郎

 

 女性を表現する能面に「孫次郎(まごじろう)」というのがある。能の「金剛流」という流儀の四代目大夫久次(役者で、後に孫次郎に改称)の一人であった、金剛孫次郎という人物が、自ら能面を打って舞台に用いた面だ。16世紀半ばのことで、世は五度目の川中島の戦があった時代に創られた。特に、この「孫次郎」については逸話があり、金剛孫次郎が亡き妻の面影を偲び、彼女に似せて打ったと言われ、「ヲモカゲ」の愛称で親しまれている。

 最初に打たれた一面だけで、金剛流はもとより、他の流儀も含めて、全ての能の舞台をまかなうことは出来ないので、優れた能面が打たれた場合、複数の能面打ちが、その面を模倣して、全く同じか酷似した、またはそれに似せた面を打つ。面を創作する過程を「打つ」と言い、面を顔に付けることを、「面を掛ける」と言う。更に能楽に使われる面を能面と言われる。そうして模倣されて打たれた面を「写シ」といい、原作として打たれた面は「本面(ほんめん)」といって、区別しているが、金剛孫次郎が「ヲモカゲ」として打った面はおそらく一面だけで(多分三井家の所蔵となっていると上記の能面だと思う)、金剛孫次郎自身が、その後も何面か、同じ趣向で打った面があるとも考えられ、そういうものから、多分高い確率で金剛孫次郎本人が打ったと思われる「孫次郎」に、「伝孫次郎作」という銘が与えられているのだろう。

 能面の名称として、能面作者の名前がそのまま冠せられることは別に珍しいことではなく、「増(ぞう)」または「増女(ぞうおんな・ぞうのおんな)」という女神などの役柄を表す面は「増阿弥(ぞうあみ)」という能面作家の創作面で、女の嫉妬や怒りを表した面として有名な「般若(はんにゃ)」も、「般若坊(はんにゃぼう)」という作者の創作面である。金剛流の代表的な若い女性を表現している能面の、この金剛右京久次(金剛座の太夫 後に改名して孫次郎)が亡くなった妻に似せて作ったところから、この作者の名が付いているが、本面には「ヲモカゲ」の銘がわざわざ付けられている。頬の肉付きや毛描きなど、小面よりやや年老いているが、決して中年の女性ではない。毛描きの本数が増え、少しずつ乱れると、年齢を経た女性になることは能の世界では約束事になっているが、小面よりやや年齢を重ねているこの能面で演ぜられる演目は井筒・浮舟・采女・賀茂物狂・祇王・源氏供養・墨染櫻・住吉詣・千手・草紙洗小町・玉蔓・東北・野宮・半蔀(はじとみ)・花筐(はながたみ)・二人静・仏原・六浦・夕顔などがあり、二年前だったか、三井記念美術館で行われた「旧金剛宗家伝来能面」54面の重要文化財新指定記念 寿(ことほ)ぎと幽玄の美―国宝雪松図と能面―」展に出ていたが、以前は金剛宗家に伝来した本面であると確認出来た。

 女面は際立って美しいものが多い。女面で若い順から言えば小面(こおもて)、小姫(こひめ)は可憐な娘面で十代の女性かもしれない。その上が万眉(まんび)、孫次郎(まごじろう)、若女(わかおんな)と続き、小面より若干年上で二十代前半から中盤だろうか。そして美しい極みの女面が多い増(ぞう)、増女(ぞうおんな)、節木増(ふしきぞう)、増髪(十寸神ともますかみとも言う)は極めて清澄な神女であるに相違いない。これらの女面は三十代に差し掛かった女面だろう。更に中年の女性になると、理知的で都会風の女性である深井(ふかい)と、情感的で田舎風の曲見(しゃくみ)がある。老女もまた美しい。姥(うば)。シテが尉をつけるとき、ツレが使う事が多い。痩女(やせおんな)、老女(ろうじょ)、霊女(りょうのおんな)、檜垣女(ひがきおんな)などすべて気品に満ち、幽玄の極致のような面となる。「姥捨」で、月光の下で姥が佛恩を嘆じ、法悦の舞をヒラヒラと舞う姿は美しい極みである。

 又女面の大きな特徴として鬼女の系統も見逃せない。「葵上」などに使われる泥眼(でいがん)は眼に金泥がつかわれ、金泥が使われた面はこの世のモノではないと言う能の約束事になっている。泥眼は品がよく身分の高い美女が嫉妬に狂う有様に演じられる。鉄輪女(かなわおんな)や、橋姫(はしひめ)などの女面は更に深い嫉妬を表現したものである。般若(はんにゃ)は嫉妬の度が極めて強く、鬼のような形相になった女性のことで、最も美しい女性を想像しなければ打てない面である。良く見ると女性的な眉が描いてある。また蛇(じゃ)や真蛇(しんじゃ)は般若より更に鬼度が増したものであり、「もはや聞く耳を持たない」という意味なのか、耳がないのが特徴で、蛇は道成寺の専用面である。

 女性の人生を投影したようなこれらの女面は、それぞれの年齢の美しさと幽玄さを表現している。高村光太郎が妻智恵子が晩年狂乱して行くにつれ、「をんながだんだん付属品を棄てると どうしてこんなにきれいになるのか」と智恵子抄の一篇・「あなたはだんだんきれいになる」を思い起こすのである。能に描かれた女性はどの女性も余計な説明が削ぎ取られた美しさに満ちている。

 従って孫次郎を模倣し、孫次郎亡き後もこの魅力的な女面が創られた。桃山時代から江戸初期に掛けて活躍した面打ちの河内や是閑など、そうして現代の面打ちにさえ模倣され、数多くの孫次郎が存在する。小面や若女より、やや人間的に見えるのは、孫次郎が亡き妻に寄せる思いが強い共感を呼ぶせいであろう。伝孫次郎は至極の美の孫次郎である。孫次郎は孫次郎でしかないカンナメ(鉋や鑿あと=筆致の特徴と同じこと)があり、何よりも本面としての証拠である。例えば「天下一是閑」と焼印が押されてあってもサインなどが書かれてあっても、面裏に刻んであるカンナメの判定で、息子・友閑の創作面であったりする。書き文字は他人が幾ら真似ようとしても土台本物でないと分かるように、カンナメは真似ることは困難だからである。孫次郎の美しい能面は孫次郎の思いを現代にしっかりと伝えて余りある。

 

 「面を掛ける」 面を持つ時は面紐の部分しか触ってはならない 彩色が落剥するため

 


京の「いけず」の精神文化

2010年11月20日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

 大好きな御寺 紅葉の真如堂の本堂 (黒谷にて)

 

 

 

     京の「いけず」の精神文化

 

 京には様々な文化と伝承があり、町衆と公家、或いは武士との合間と言った、

混在する多種多様な文化があるが、中でも「いけず」の精神文化は最も興味がある文化である。

通常「いけず」とは意地悪なとか、「いけすかない」とかの意味があろうが

京町屋ではそんな悪いような言葉ではなさそうである。「いけず」とは人間関係の潤滑油であろう。

中京区にある杉本家は家内の実家の直ぐ傍であるが、家内の実家でも杉本家でも、

隣近所とのお付き合いは専用の入り口がある。正客の出入り口とは全く異なる。

どんなに親しい間柄であっても正客の出入り口には通さない。つまり必ず一定の幅を持ち、

キリリとした間柄を保っているのがその背景である。乱世あり、いつどのようになっても、

必ず新しい秩序に対応出来るように出来ているのが、その「いけず」の精神であろう。

可笑しなことに、京都にいる御仁でもこの深い精神性が全く分かっていないのが実情だ。

そう言えば近頃四条や、床しき花町にも暴走族が出ているようである。何たることであろう。

 

団塊の世代は戦後の日本を支え、その功績は讃えてあまりあるが、

団塊の世代の、少し前の世代は戦後民主主義に毒された甘っちょろい世代である。

礼儀作法も知らなければ、青雲の志もなく、肝油やDDTで育った方であろう。

決して侮蔑して申し上げているのではない。その心根が甘いのである。

散々金満家と揶揄する人に、すっ高い御酒を何年も馳走になりながら、

一転して他人のコメント蘭に悪口を書き込みする。その悪態ぶりは尋常ではない。

書かれた御仁も迷惑せんばんな筈で、その弊害が広がらないことを祈る。

 

金満家とは笑止の至り、あなたのように毎夜の晩酌を一切せず節約の日々を送っている。

もともと武家であった当家の伝統は質実剛健である。あなたのようにユルイ人生を送っていない。

八幡さま境内に疎開されていたようだが、八幡さまが何たるかを全く知らない。

山頭火ばりの情緒的な生き方に終始し、八幡大菩薩は貴殿を大いに笑っておられることだろう。

 

こうして人を非難するような記事を、我がブログの記事に書きたくないが、

お他人さまのフンドシを利用して書く批判行為は日本随筆家協会も、大いに嘆いていることだろう。

今日の政治的軽薄な言葉は、あなた方世代の大なる責任がある。

真摯な「いけず」の精神的文化も知らずして笑止。勇気があれば自分のブログで反論したまえ!

私には痛くも痒くもないことだから。(爆笑)

 

<もし反論があれば、このブログのコメント蘭にカキコしたらよかろう、待っている!>

 

 

暮れになるとこうした「西利」本店の店内風景が すぐきや千枚漬けが美味しかろう

 


我が家の七五三

2010年11月15日 | 季節の移ろいの中で

 

我が家の庭にて もはや錦秋の候か

 

 

 

我が家の七五三

 

 

我が家の長女が数えで三歳になりましたから、当家流の七五三を昨日致しました。

母が昔着ていた加賀友禅の振袖を再利用し、叔母が杏用に丁寧に仕立て直してくれました。

杏もいたく気に入り、神妙なお姉ちゃんぶりです。和服のパワーって凄いものですネ。

杏が七歳になった時のために、その和服も同時に、違う絵柄を変えて創って戴きました

当家の七五三は伝統的に当家の菩提寺で行われます。

更に青山墓所にある私たちのご先祖の御霊にも参拝致します。

夜は集まってくれた親戚一同と賑やかな宴会をし、長女のお祝いを致しました。

本来なら産土神に、お参りするのが当然ですが、

実は当家の菩提寺に氏神が祀ってあるためでもあります。

従って五歳の時の長男と、七歳の際には男女とも菩提寺にある産土神にお祈り致します。

七歳を「氏子入り」するとでも申しましょうか、我が家では七歳のお祝いを最も盛大にします。

 

妻の実家・京都から誘われ、京都の寺社仏閣で七五三をやってはと言われましたが、

妻は当家の伝統に従うときっぱり伝えた模様で、祝賀の際にはじぃじとばぁばが、

我が家にやって来て滞在しております。暑い京都を過ごし、秋になったかならないうちに、

冬の香りが漂っていると言っておられました。だからもう直ぐ錦秋の京都になることでしょう。

東福寺は櫻が修行の邪魔になるからと植樹を拒否、唐楓を植えたのが始まりです。

通天橋の直ぐ傍に三枚仕立ての、最も早く紅色に染まる唐楓がありますが、頷けます。

神護寺などの三尾・嵯峨野・黒谷・東山・北山・鞍馬など多分25日以降が盛んでしょうか。

 

関東も随分と紅く染まって参りました。神宮の公孫樹並木も見事な黄葉で散り始めています。

我が家の盆栽たちも紅葉が真っ盛りです。つい最近小さな我が池に水鳥が飛来しました。

七五三という通過儀礼も、季節の移ろいの中に鮮明な足跡を刻んでいるのでしょう。

 

近頃の江戸っ子は新しくなるスピードが早いがために、新規のものにそれ程興味がなく、

べったら市とか、羽子板市だとか、古いものだけに拘っています。東京スカイツリーには、

見に行くことすら殆どありません。オフィスのある東京駅の丸の内側では、赤煉瓦の、

本来あった当初の三階建ての駅舎にするらしく、深々とネットが掛かっています。

一ヶ月東京を留守にすると周辺が驚異的な変化をするのがザラですから、

まじに興味がないのです。中延や北品川や谷中の夕焼けダンダンなどの、

昔からさして変わらない風情を求めて彷徨する習性が根っからついているからです。

秋の小石川植物園や、当家の近所・有栖川宮公園や、変化がない処が大好きで、

大体我が旧友たちは皆勝手で、それぞれの実家を継いでいるか、ジャーナリストか、

そもそも出世する意欲は皆無の連中ばかり、それぞれが楽しんでいるようです。

但しウチ向きで、海外に行くことがない奴って一人もいないことだけは自慢です。

そう言えば先日7日の立冬の日に、「一の酉」がありましたが、高村光太郎の父親(光雲)は、

お酉さま造りの職人からスタートした人で、幼い光太郎は父のリヤカーを引いた記憶があると。

光太郎の自宅があった千駄木の駒込林町周辺には様々な人が住んでいました。

森鴎外・サトウハチロー・青踏社、数えあげたらキリがないくらいです。

それと新宿・中村屋の創業者であった相馬夫妻も住んでいました。

あの美しい安曇野の碌山美術館主人、荻原守衛(碌山)との関係も深く感慨深いです。

 

千駄木周辺は広大な敷地を所有していた東叡山・寛永寺の寺領で薪取り場だったんです。

徳川天下が終了した明治のご維新にて、一般に開放された所ですから、

様々な職種の方々が住みつくようになり、特に高級官僚の御妾さんが多かったのです。

樋口一葉の素敵な小説や、森鴎外の小説でも明らかでありましょう。

東京は新しい町です。京都の比ではありませぬ。

でもここにいると世界に通じる何かがあります。集まってくる資料も半端ではありませぬ。

東京のパワーは凄いものです。憎い相手を、Tファンのように他を蔑むことがありません。

Gファンは最もGに対して厳しいことです。ブルーカラー・ライン上のTファンは、

私たち関東人にとって、モノの数に入っていないのです。お分かりですか、ご老醜!

でも愛らしいものですネ。生え抜きの選手が殆どいないのに熱烈な応援なのですから。

要するにお互いをリスペクト出来ない関係は全く無意味です。

 

関西にも大変な品性があることが、田辺聖子さんによって縷々教えて戴き勉強しております。

 

 

父の愛する盆栽 小さな紅葉の葉っぱと緑の苔