硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     青梅市の梅の木 完全伐採へ

2014年03月25日 | 時事問題

青梅市の梅林

 

 

青梅市の梅の木 完全伐採へ

 

 

美しい梅 サクラ属の中でも 梅 杏 桃 李 ネクタリンなどに発生する厄介な病気が確認され

特に日本で 最初に感染が確認された青梅市では09年から 12年まで植物防疫法によって

26,000本あまりの梅の木を処分して来たが 青梅市観光の目玉である「青梅市梅の公園」の残り

1,266本も 来月から 全伐採される この病気は世界的な病気であり 

日本では青梅市の梅林で初めて確認されたわけである 農林省省令第70号に従うしかない

病名は プラム・ポックス・ウィルス(PPV)で アブラムシを媒体として 広く拡散する

最も厄介なことは 潜伏期間があることで 接ぎ木や挿し木に感染済みの苗木も問題だ

1915年以降ブルガリアで発生し 世界中に拡散しているが 日本では症例はなかった

09年に 青梅市吉野郷に初めて確認されてから 青梅の梅の木の伐採が始まったものである

 

梅の葉には斑紋が出て来る

 

梅の実の状態 但し実から感染しないし 人が食べても害にはならない

 

梅の葉には斑紋が出て 梅の実は上記のような変則的なイビツな形状の実となる

予防法や 対処法は殆どなく 全伐採し 三年ほど明けてから 再移植するようになる 

青梅からの 梅の苗木も禁止され 移植は絶対出来ない

従って 毎年10万人もの人々が楽しみにしていた青梅の観梅ツアーは 当面今年で終了

再びあの見事な種類の多様さと 三万本近くの梅林は 観られない一抹の淋しさが残る

然し 市では水仙や福寿草などを植える計画であるらしいが 市名でもある象徴がなくなるのが痛手だ

特に梅農家に至っては 大変な痛手であり これが全国各地に拡散しないことを祈るしかあるまい

 

感染媒体となっているアブラムシ

 

治療法や予防法はまだ見つかっておらず 拡大防止策しか講じようがない

感染エリアからの苗木の持ち出し禁止や 移植規制が徹底して行われる

アブラムシの駆除や伐採後 潜伏期間を設定し 三年ぐらいは植えられないことになる

梅は食用として 日本人にはなくてはならないもの

徹底した封じ込め作戦で 克服した国家あるから それに倣いたいものだ

 


     春一番

2014年03月19日 | 季節の移ろいの中で

大島の藪椿

 

 

春一番

 

 

寒かった今年の冬も そろそろ退散するのだろうか

ようやく櫻の開花便りが 高知県安芸の元網元さんからだった

そして昨日はポカポカ陽気で 一気に20℃まで上がったが 今日は一転し 寒の戻りのよう

 

さて 何度も書こう書こうと思っていたのは 伊豆大島のこと 

去年の台風26号による多大な犠牲者と あっという間の土石流に流された家々

途方に暮れる方々を観て 何度出掛けようかと思ったことだろうか

東京都に問い合わせたり 大島社協のボラセンに登録したりしてから

仲間の数人を送り込んだり 義援金を拠出したりしたが

私は 体調の関係で ついぞ行くことが叶わなかった 羽田からたった30分で行けるのに

 

されば 椿まつりにでも行こうかと思っていたが この23日で今年の椿祭まつりは終了するようだ

でもまだまだ見ごろらしく 樹齢200年にもなる椿のトンネルが100㍍も続き まさに圧巻であり

遅くなったものの ここで少々の宣伝をしておきたい もう直に大島櫻とともに観られるだろう

更に 大島の歴史は古く 土壌も色々とあり 何と原生林もあるのだから

 

あの台風被害の傷は少しは癒えたようでも 未だに行方不明者が4名もいる

死者35名 負傷者22名の大災害であったのに 何と共産党現役党員の町長及び副町長が

島根県の隠岐の島へ出張していて 不在だったと言うから呆れる

正副町長二人で出掛けるとは 如何なものか この夜宴会があり その後キャパクラにも行ったとか

台風が近づいているのを分かっていたはずなのに 何という失態だろう

日本共産党は身内には甘いらしく この町長を批判することなぞ一切ない 如何にもそれらしいが

 

元町中心が被災したが 大島の藪椿は相変わらず見事に咲いている

 

大島の方言で アンコとは未婚の女性のことで アンコ椿という言葉は存在しない

 

大島特産の椿油にする椿の種(収穫時期9月~11月)

 

大島椿油の製品各種

 

結婚する前 我が妻はよくこの椿油を ロングヘアーに 少々だが つけていた

その香りが大好きであった私は サラサラとした彼女の髪の毛をなぞれるまでに 随分かかったものだ

実は京都に オフィスを構えていた時のことで 彼女はそこにアルバイトで来ていた

それが 私と妻とのなれ初めで 何となくあの頃の仄かな香りが 懐かしい

 

高田精油所の工程図

 


     東日本大震災と 宮沢賢治と

2014年03月11日 | 時事問題

宮沢賢治 最期のメッセージ 鳥谷ケ崎神社にある句碑

 

 

     東日本大震災と 宮沢賢治と

 

 今日で、未曽有の東日本大震災から三周年。国立劇場で政府主催の追悼式が行われた。天皇・皇后両陛下のお言葉に、凛としたシンシビリティが込められていた。被災者代表も参加したが、台湾代表の方が一般参加ではなく、各国代表団と同じ位置づけで、指名献花されておられたのを嬉しく思った。イの一番に最大の200億円もの救援金を出してくれた台湾に対し、民主党政権下では二階の一般参加席に追い遣られていたのを悔しく思ったものであり、更に天皇・皇后両陛下の登場の際、民主党政権下では皆着席していたのに奇異な感じがしたものだったが、今日は全員起立してお迎えになられた。如何に民主党政権は幼稚な政権であったかと今更ながらに無念に感じた。

 さて小生は、昨年の夏に、ニュージーランドで大手術を受けてから、殆ど旅をせず、リハビリに専念していたが、今般陸前高田市の或る方からのお誘いがあって、秘書数人を同行し、9日に行われた追悼式に参加した。テンデンバラバラになった市民が集まれるようにと、早めに日曜日の9日に行われたためである。久し振りの岩手入り。まぁ随分変わったものである。あれだけ瓦礫があったのが、綺麗さっぱりと片付いていたのだ。但し多くの仮説住宅を見るにつけ、復興が進んでいるとはとても思えない。9日午後2時46分の時報に合わせて合掌し、多くの犠牲者の御霊安らかれと、皆さんと一緒に祈った。案内する方の車で、他の被災地にも出掛け、巡礼するかのように各地で、深々と頭を垂れ合掌を繰り返した。いずれの合掌でも涙が溢れ、止めることが出来なかった。8日から昨日まで、旧知の被災者とも懇談することが出来た。文通している方々とも会えたが、少しずつ復興に向け、気分だけは高揚しているようで、それが嬉しかった。又来月には三陸鉄道が全線開通するようであり、堪らなく嬉しくなった。開通したら直ぐでも乗りたい一心だ。

 先日、東京都知事選挙の件で、原発を容認するような記事を書いた。でも私は決して原発容認派でもなく、直ちに脱原発派でもない。選挙で、シングルイシューだけの戦いは容認出来なかっただけである。震災で、ゴーストタウン化した多くの自治体を存分に知っている。飼われていた牛の多くは死に、養鶏場は殆どはエサ遣りが出来なかったために、すべての養鶏は白骨化した。帰還困難エリアの方々は和歌山を除いた46都道府県に移住し、それも移住を更に重ねている。体力のなくなったご老人は自死するか、その死を早め、無残さを残したままである。震災直後は60%i以上が帰りたいと言っていたのが、最近の調査ではたった18%に落ち込み、被災地の多くでは帰還者が見込めず、水道料金も10%値上がりし、特に事業者にとっては大なる痛手であるに相違ない。櫻並木の美しい富岡町に、人が戻って来る公算が少ない。だからこそ、さればこそ原発について、充分な知識と、その依存の度合いを慎重に見極め考え、そしてその学術な門戸や窓口を絶対に閉めてはならないと言ったまでである。情念に流されてはいけないと。普段交流している方から、批判的な多くのメールを頂戴したが、私はその一つ一つ大切に応えている。原発をゼロにしたはずのドイツは、未だに四割の原発を稼働させているが、ウクライナ情勢のもと、クリミア自治区での国民総選挙の強行で、ロシアのプーチン大統領の圧政的な方針に断固反対しているユーロの現状、大丈夫かと大変心配している。ドイツのエネルギー源の三割はロシアから輸入された石油に頼っているからだ。資源のない我が国では、更に一層冷静に考え、何にその源を求めて行くのか、熟考の要するところだろう、苦渋の念を抱いたままに。

 あの3月11日に、被災地で誕生した赤ちゃんは、実に110人にのぼる。個々別々な事情があるものの、複雑な感情とともに生きていらっしゃることも事実のようである。生と死、同時に、未だに誕生日に祝うことを逡巡していらっしゃる方も多いと聞く。でも南三陸町で生まれたダウン症の、同日に生まれた三歳になるお子さんを抱えた周辺の方々の、明るい笑顔を忘れない。どんな形であれ、誕生したお子さんたちのお祝いを遠慮なくしてほしいものである。暗い闇の中で生まれたキミの瞳を、決して忘れられないからだ。

 

いずれも 当時の被災写真 ニューヨークタイムズの写真集より 

但しご遺体の写真も多くあり ご閲覧にはご注意を

 

 ところで以前、被災者にとって、宮沢賢治が最も読まれ愛されていることを、このブログでも書かせて戴いたが、特に大好きな賢治の作品は「銀河鉄道の夜」であったように思う。軽井沢朗読館を設立され、軽井沢町の町立図書館館長に就任されていらっしゃる青木裕子さん(ナイナイで有名なTBSの同名の方ではなく、元NHKのアナウンサー)は、被災地でも数多くの朗読会を開いて来られた。被災者は彼女の朗読会に、心底から感動し、多くの方々は初めて、その心の丈を吐露したようである。初めてワッと泣けたと。そこで改めて賢治の偉大さを実感したように、私には思えた。

 宮沢賢治の巻頭の写真は、花巻市街の中心部にある鳥谷ケ崎神社に静かに佇む石碑で、賢治人生最期の句である。

      方十里
      稗貫のみかも
        稲熟れて
      み祭三日
        そらはれわたる

             賢治

 宮沢賢治は、何と明治三陸地震の二か月前に生まれ、そして昭和三陸地震の年に亡くなった方であり、大震災の間に生まれ生きたが、それについての具体的な記述は見当たらない。だが然し、賢治の作品のすべては、こうした自然現象を暗示し、勇敢に闘った人であったかと思えてならないのである。子供時分、この鳥谷ケ崎神社で、賢治はよく遊んだもので、「方十里」とはよく言ったものである。北上川のほうから行くと、かなりな急な道を登らなければならない。その先に小高い丘があり、そこがこの神社で、裏手から見た景色は圧巻で、東方に伸びた眺望は、明るく開け素晴らしい景観である。

 1933年(昭和8年)9月17日から19日までの三日間、花巻の町はこの鳥谷ヶ崎神社の祭礼で賑わっていた。この年は、奇しくも宮沢賢治が生まれた1896年(明治29年)と同様、三陸地方は津波による大きな被害を受けたが、賢治が生まれた稗貫地方は空前の豊作にわいていた。病床にあった賢治も、祭礼の三日間は家の門口に椅子を出して、神輿や人の波をうれしそうに眺めた。9月19日、祭りの最終日も快晴でもあった。賢治は、この日の夜に「お旅屋」から丘の上の鳥谷ヶ崎神社に還御する神輿を拝みたいと言い張った。そこで家族は何とか彼の希望をかなえてやろうかと、弱った賢治を門口まで運び、神輿を待っていたが、夜になって、辺りは徐々に冷えこんで来る。母イチは心配して、賢治に部屋に戻ることを勧めたのだが、「だいじょうぶ、ええんすじゃ」と言って、彼は最後まで屋外で、神輿と人の列を見送った。9月20日の朝、やはり前夜の冷気がきつかったのか、賢治の呼吸は明らかに苦しくなる。往診に呼ばれた医師は、急性肺炎と診断した。Schub と呼ばれる、結核の急性増悪だった。この日賢治は、のちに「絶筆」と呼ばれることになる二つの短歌を、半紙に墨書した。(そのうちの一つが、この鳥谷ケ崎神社の石碑になっている)

 夜7時頃になり、一人の農民が肥料相談に訪れた。家族が、それを賢治に伝えると、「そういう用ならぜひ会わなくては」と言い、賢治は服を着替えて二階から降りてきて、丁寧に話を聴きはじめた。いつ終わるとも知れぬ話に、家族はみんないらいらしたり、気が気ではなかったとようだ。1時間あまり話だったろうか、疲弊しきった賢治は、弟の清六に抱きかかえられて、階段を上がり、二階で休んだ。そして翌9月21日、賢治はこの世を去ったのだった。享年37歳という若さ。

 この最期の句にある通り、「そらはれわたる」と結んでいることが重要だ。今度の大震災にも、賢治は希望を与え続けているのではなかろうか。皆さんとともに、元気と勇気を戴けるようにと、現実を直視しながら、賢治を読み続けて行きたいものである。

 

賢治の絵 「日輪と山」

 

賢治が愛した種山が原に咲く草花 種山が原の歌も作曲した 歌は20曲ほど残されている

 

「銀河鉄道の夜」の自筆草稿

 


花寄せと ひいなの物語

2014年03月03日 | 歳時記

大宰府天満宮の曲水の宴

 

 

    花寄せと ひいなの物語

 

 

 五月五日は男の子の祭り、三月三日は女の子の祭りということになっているが、女の子の祭りのほうが派手で華やかで、美しくモノ哀しいように思う。雛人形を飾り、菱餅や桃の花をお供えし、白酒で祝うものだが、お祝いの集まる女の子たちも精々おしゃれをして、白酒でほんのり酔えば、座も一層賑わうというものである。当家では昨日このお祝いをした。杏や茉莉の同病院で生まれた子や公園で知り合った子たちで、たくさんのお母さんたちとお子たちが集合し賑わった。当家には江戸時代からの雛人形もあり、古いお雛さまは全部で6セットあるのだが、母が亡くなって以来、箱から出されることはなかった。だが長女・杏が誕生し、妻の郷里より新しい内裏雛が届いて以来、毎年賑やかに雛祭りを執り行っているのである。さぞかし亡き母も、草場の影で歓んでいることだろう。

 このお祭りの主役である雛人形は緋色の雛段に、内裏雛を始め、宮廷の風俗を思わせる飾り付けをする。最上段には男女一対の内裏雛を置き、次段から下へは三人官女、五人囃子、左大臣、右大臣、三人仕丁などが置かれる。これら雛人形とともに、内裏雛の背後に屏風を置くほか、雪洞、左近の櫻、右近の橘、菱餅、白酒、雛菓子などが供えられる。それだけではない。あるセットには、重箱、箪笥、長持、鋏箱、鏡台、駕籠、御所車など、贅の限りを尽くしているものもある。それら調度品は女の子が大きくなってからの嫁入り支度を想像させ、ファンタスティックに表現してみたのであろう。その上に、まだ早き桃の花や菜の花を活け、煎り豆、アサツキなます、ハマグリ、アサリなどを調理して雛段にお供えし、ついでに祭り寿司などを作って、集まった方々と会食するのである。

 こうした形式が定着したのは、実際はそんなに古くはない。江戸時代中期、寛文・延宝(1661~81)の頃である。都市における武家や町人社会で発達したが、どうしてもその風潮は次第に華美になり過ぎ、徳川体制下では寛文八年(1668)や、宝永元年(1704)などに、雛人形や雛段飾りが豪華過ぎることを禁ずる布告を出されたのだった。それでもこうした雛祭りが盛んなのは都市部だけで、地方にまで広まらなかった。ところが明治になると、人形の製作技術が進歩するにつれ、雛人形の商品化が全国的に普及していったのである。一つには女の子の誕生祝いが贈答品として盛んになったのが、その理由の一つであっただろう。現在でも雛人形の大量生産が可能になった反面、一体一体に工夫を凝らされ、一層華美に豪華になったものが多く、一年中で最も売り上げが多い時期として、各業者の鼻息が荒い。だが肝心の雛祭りや雛遊びのほうはどうであろうか。

 

我が家の新しい雌雛(御所人形風)

 

 現在の御節句と言えば、三月三日の雛祭り(桃の節句)と五月五日の端午の節句だけになっているようで、それぞれは女の子の節句であり、男の子の節句というべきであろうか。ともに五節句の一つである。五節句とは平安時代、朝廷で節ごとの五つの公事後の宴会、五節会を設けたのに準じて、公家以下の一般人が会食して祝う日として定められたものである。ところが五節会のほうはその後廃れ、朝廷でも五節会に準じた行事のみが残り行われたようである。

 五節句は、人日(じんじつ=1月7日)、上巳(じょうし=3月3日)、端午(たんご=5月5日)、七夕(たなばた=7月7日)、重陽(ちょうよう=9月9日)の五つがある。人日以外、奇数数字が重なっており、それが特徴であり、「節供」という言葉は、節句の時に出される供御(くご)のことで、つまりご馳走を意味した。上巳のことというのは、旧暦の三月最初の「巳の日」のことで、もと中国で三月上巳に起こった出来事に端を発し、発展、成長してきたお祭りだからいうのだが、上巳を俗に、「じょうみ」とも言い、三月上旬の「み」と三日の「み」を照応させて三月三日に定めたらしく、三が重なることから、これを「重三の節句」などとも呼ばれたようである。先ず上巳の日の起こりともなった中国の故事であるが、この日、中国の人々は池や川など清流のあるところに行って、「流杯曲水の飲」をしたとある(『荊楚歳時記』)。これは、水の流れ(曲水)に杯を浮かべて、その杯が所定の場所に到着するまでの間に、詩をつくって競うという、まことに風流な遊びのことをいったようである。この中国で古くから伝えられている行事の由来につき、晋の武帝が問い質したところ、「漢の章帝の時代に、平原(今の山東省徳州平原県)に、徐肇(じょちょう)という者がいて、三月に初めて三人の女の子が生まれた。ところが三人とも三日後に死んでしまった。村中の者が、この事件を大変な衝撃として扱い、みんなで酒を携え、『東流の水辺』に亡骸を運び、酒などでよく洗滌して水葬にした。このことに因んで、流水に杯を浮かべる行事が起こった」という答えであった。武帝は、「それではおめでたいことではないではないか」というと、他の部下は「昔、周公も流水に酒杯を浮かべたし、秦の昭王も、三月上巳には河曲に置酒した」と答えて、武帝の怒りを鎮めたと言われている。いずれにせよ、これが、水辺に出て災厄を祓う行事となり、発展して、「曲水の飲」と呼ばれる祝い事的な行事となって、我が国にも伝わって来たもようである。但し「災厄を祓う」という考え方は、あとあとまでついて廻り、「邪を砕く力がある」とされる桃の湯、又は桃花酒を飲むと言う習慣も出来て、ちょうど桃の季節でもあり、「桃花節」とか「桃の節句」という言葉が出来たのである。

 我が国にも、この習慣は上流階級に古くから伝わったようであり、平安時代初期には、その記録も残されている。平安貴族たちは三月の上巳の日に、陰陽師をよんでお祓いをさせ、人形(ひとがた=形代~かたしろを作って、それで身体をなぜることによって、人形に穢れを移すというお祓い)を、川や海に流すという行事が盛んに行われるようになったようだ。これは中国から伝わった「曲水流觴(りゅうしょう 觴は杯のこと)の飲」と、お祓いを済ませた人形を水に流し送るという日本古来の習慣と、中国とが習合しあって出来たものと言ってよい。そんなお祓いの道具として人形(ひとがた)が、たんなる紙製のものだけではなく、押し絵、糸製、土焼製、更には胡粉塗の飾り雛に発展して行くにつれ、次第に華美になって、本来の意味が失われるというべきか薄れて行くというべきか、現代に至るようになったのであろう。しかし人形を流し送る習慣は、そう容易く消え去るものではない。今でも地方によっては、三月三日の日の節句の日に、戸外に出て、野遊びや山遊びをしたうえ、持参した紙雛で遊んだあとに、川や海へ流す「ひいな送り」の習俗があるのだ。この流し雛の習慣には、遠い昔の中国で、一度に三人の女の子を亡くして川へ弔った父親の哀しみのようなものが原風景としてあるように思われてならない。

 また花寄せというのがある。雛祭りは三月二日の晩に行われる宵の節句から始まり、四日の送り節句で終わるというのが一般的風習である。つまり五日になれば、雛段は片付けられ、雛人形はしまわれて、再び巡り来る来年の雛祭りまで大切に保管されるのである。だがこうした前後に、実はもっと大切な日本古来の習慣習俗が隠されているように思えてならない。それは中国地方や九州では、四日の日を「花の四日」と言い、山へ行って草花を摘む習慣があることが、そうなのである。五日を「花寄せ」の日にし、山遊びをするところがある。つまり五日になっても雛祭りの余韻があって、野遊びをしたり山遊びをしながら、楽しく飲み食いをする習慣が未だにあるという意味を重んじたい。雪解けした近くの野山に行って、花摘みをする習慣こそ、人形に「ケ」をつけ流す習慣以前に、既に存在していたのではないか、ということである。新しい新芽を摘み、それを食べる習俗。

 春の摘み草と言えば、土筆、嫁菜、オランダガラシ(クレソン)、野蒜、タビラコ、ヨモギなど、事欠かない。我が家の庭には、菫たちが出番を待っているが、梅や木瓜や椿やサンシュユや蒲公英や金縷梅などがいっぱいで溢れいる。まだ寒いのに、既に春の陽気な感じなのである。野の草摘みでも、食べようと思えば様々な工夫をして食べられるものばかりである。若菜や若芽はよく茹でたり、お浸しや和え物や汁の実にもなる。嫁菜の嫁菜ご飯はいける口であり、卵とじや天麩羅など。そして野蒜の三杯酢などは、実に美味しいところだろう。生命感溢れるそれら具材は、生命の「気」を戴ける意味のものだろう。それは逆に、「ケ=穢れ」を祓うことに繋がらないかと想像する。万葉集に、「春日野に煙立つ見ゆ少女らし 春野のうばぎ採みて煮らしも」という歌があり、春の野の草摘みによって、夕餉に一工夫あってもいいんではないかと考えるのだ。その上こうした野山での遊びは、農事につく際の覚悟と祈りの心持も入っているかも知れない。

 また東京の郡部では未だに、この五日に、雛市が立っていたり、ダルマ市が開かれたり、人の心に、滔々と余韻を残すばかりではなく、どうにも一億年にもなる日本人の独特な縄文文化があるようで、浪漫溢れてならないと思ったりする。それと注目していい記事がある。京都の山国の天台宗の御寺・最玄寺では人形供養が行われているようである。Mfujinoさんのブログ北山・京の鄙の里・田舎暮らしでの記事「最玄寺の人形供養」では丁寧で優しい人形供養の記事が載せられている。山国の文化の高さに、思いは極端に馳せるのである。

 

家人で作った吊るし雛 伊豆稲取が有名な本場だが 実の本場は長野県で 

伊豆に移住した人々によって伝えられたのであろう それぞれの雛には意味がある