硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     ポンポンダリアと じぃじと

2014年02月05日 | 文学・絵画等芸術関連

ダリアの花々

 

 

        ポンポンダリアと じぃじと

 

 

 ある農村に、一人の少年がいた。その子が大好きだったばぁばが、突然死んでしまった。その時少年に残ったのは、なぜ人って死ぬのだろうという疑問だった。そして何もかも哀しみに満ちているとしか思えなくなっていた。

 家のすぐ前の幹川に、水でおぼれた子が浮かんで来た。お腹をパンパンにはらしていた。村のみんなで、その子を救いあげたが、もう手遅れだった。そんな日の朝、少年が五年間も使っていた、お母さんから買って貰った大切なご飯用のお茶碗を、おっことし、コナゴナに割ってしまった。イノチがないはずのお茶碗の割れたのを見て、少年は新聞紙に、一つ一つ拾い上げ、包んで、戸袋深く仕舞った。泣き止まなかった少年を、お父さんは叱り飛ばした。「キミが悪いんだろ!」

  それから少年はお釈迦様の誕生日生まれなので、毎年のように、お母さんから連れられ、近くの菩提寺さんに行くのが恒例になっていたが、少年は嫌で嫌でしかたがなかった。それというのも、お寺さんの中に、地獄絵図がたくさん掛かっていて、お母さんがそれを見せながら、必ず少年に言った。「正直に生きなさい。ウソをついたら、こうして舌を切られ、針の山へ裸足で行くんです。血の海を果てしなく彷徨う運命になるんだよ。だから悪いことをしちゃいけないし、ウソを言わず、正直に生きるんです」。少年には地獄絵図が怖くてどうしようもなかった。だから誕生日が大嫌いだった。

  小学校に入った少年は、それでも何か月も、口をきけず、ただ押し黙って考え込んでいた。「死って何だ。ぼくも死ぬのかなぁ。イノチあるものは必ず死ぬのかぁ」って、そんなことばっかり考えるようになっていた。夏休みも終わろうとしていた或る日、優しいお母さんが少年に言った。ばぁばが死んでから、じぃじは山にこもっている。じぃじのところに言って、遊んでいらっしゃい。じぃじのことだから、きっとあなたにいいことを教えてくれるんじゃないかなぁ」。お母さんは、少年とじぃじの分、たくさんのオニギリとお漬物を持たせてくれた。「一晩だけならお泊りしてもいいよ」と。少年は嬉しくなって、早速旅じたくをして、家を出た。

 

岩彩で描いた風景画 四万十川をイメージして (絵手紙として)

 

  川のほとりを、少年は歩いた。桐の木や胡桃の木やグミの実がなっている林を抜けると、大蛇が住んでいるという恐ろしい杉の大木が二本立っている通路を通らなければならなかった。少年は勢いで、エイヤッと、やっとこさの想いで通り過ぎた。山は色んな広葉樹の森で、短い一生を送るセミの声だけが鳴り響いていた。樹齢300年と噂されている山櫻の木の下に来た時、見上げると大きな青大将がぶら下がっている。びっくりしていると、青大将をねらって、大空には数羽のオオタカが舞っていた。こけむした大木には30種類ものシダも生えていた。多分数十匹の虫もいそうで、大木がムズムズしているようだったが、色んな種類の小鳥たちは、コケの新芽や虫たちを食べに、集まっていた。中でも一番好きなヤマセミや、大きなアカゲラが元気な声を出していた。ここにも生きるために、生きているものを食べるのがいる。少年は生きるってことは、そうしてお互いが、争って生きているんだろうかと、ばくぜんと思えた。

  やがてじぃじの小さな掘立小屋にたどり着いた。ニカニカほほえんでいたじぃじが少年を迎え入れた。狭い小屋でも、どこか暖かい。どこにでも直ぐ手が届きそうで、けっこうじぃじには暮らしやすかったように見えた。「じぃじ!三年前にばぁばが死んでから淋しくなかったの」と聞いたら、じぃじはニコッと笑って、「ぅうん、淋しくないよ、だって今でもじぃじは、ばぁばと一緒に暮らしているんだから」というと、少年を優しく抱きながら、小さな庭の端っこに連れて行った。小石が三段に積まれているところに、指を指し、「ホラ、ご覧!ばぁばはここにいるんだよ」。少年はびっくりして、よく見ると、白い点々がある。「これっ何」、少年がじぃじに尋ねると、「ばぁばは天に上ってなんかいないのさ。ここにばぁばのお骨がまかれて、早く自然に帰ろうとしているんだよ。人は、ウソではなく、必ず死ぬんだ。でもね、必ず生き返ってくるんだよ。だからこうして自然の中で、ばぁばと過ごしているんだよ、じぃじの心の中にも生きているんだ。だから淋しくないし楽しいものだよ」。少年は何だか分からないけど、涙があふれてしかたがなかった。

  じぃじはいつも直ぐ抱っこする癖があった。それが少年には心地よかった。じぃじは自然は何もかもジュンカンするのさと、わけも分からないことを口にした。「自然にあるお山も、川も、湧水も、大木も、みんな神さまが宿っているんだよ。だから自然を決して壊してはいけない。ばぁばが生き返るとしても、必ず人間に生き返るとは限らない。昆虫になったり、雑草になったり、お水になって海に流れて行ったり色々さ。あのお骨が土に帰ってからの運命で、色んなものに生まれ変われるんだ。それがイノチなんだよ。ぁははは!ちょっとショックかなぁ」と言いながら、たった一冊だけあった本を見せてくれた。星野道夫と言う人のアラスカの本だった。美しい写真が満載の本で、特に白熊やカリブーの群れなど、少年は気に入った。

  夕方になった。山の頂上に、じぃじは少年を連れて行った。西のほうをご覧なさい。これからあの岳の方角へ、じゅっと音を立てて太陽が沈んで行く。でもね、明日の朝には反対側の山脈から、再び出て来るんだよ。お月さんも、朔の日って真っ暗になるんだけど、再び満月になるじゃないか。そういうことがジュンカン」。そしてお星さまが夜空いっぱいに溢れだすと、「このお星さまだって、超新星と言ってね、最後には煌々と明るくなって、大きな爆発を起こし、なくなってしまうんだ。でも粉々になった星のカケラが集まって、そして再び新しい星が生まれくるんだ。何にでも、死もあるし、生きることもあるんだ」

  秋になっただろうか。夜になると寒くなって、じぃじはたき火をしてくれた。そこでお母さんから預かったオニギリを食べると、じぃじはムシロを取り出して、林のない広場にそれを敷いた。「ちょっと寒いけど、ここに寝て、星空を見よう」と、じぃじの言うままにしていたら、林のふるえる音や、ピ~~っと鳴く鹿たちの群れや、ワサワサうるさいウサギたちの騒いでいるのや、しのび足のキツネや、タヌキの小さな音が、よ~く聞こえて分かった。夜空には満天の星。風も少しだけあった。そこに、バサッと何かが飛んだような音がした。少年は怖くなって、じぃじに、思わず抱き着いた。「ぁはははは、あれはムササビだよ。これからお食事に行くんだ。高い木から低い木に飛ぶんだ。そろそろ大きな白いフクロウのお出ましかな。フクロウは野鼠なんかをねらうんだけど、一発百中で必ずしとめるんだよ、凄いだろう」と言われ、耳をすますと、大きな枝から、のっそりとフクロウが顔を出し、目をぎょろっとさせていた。「木々も、動物も、昆虫も、お花も、木の実も、みんなみんな、いったんは死ぬけど、必ず生き返ったりして、自然は偉大なんだ。だから淋しくなんてなってられないんだよ。ただ忙しいのさ。何もかも天然自然に任せておけばいいのさ」と、優しく言うじぃじの胸の中に顔をうずめているうちに、少年は心地よくなって来て、トロトロと眠ってしまった。

  朝焼けの中、小鳥たちの鳴く声がうるさくて、少年は光さす小屋の中で目覚めた。さぁ、崖を下って、顔を洗いに行こうと言うじぃじについて行くと、とうとうと流れる川のほとりに出た。とっくに太陽が出ていたが、お日様のほうへ向かって、じぃじは手を合わせた。少年もマネをして手を合わせた。じぃじは、「今朝が一番若い日だ」と大きな声で叫んだ。冷たい水で顔を洗うと、まるで昨日とは違う感じがして、少年は生き生きとしてきた。手ぬぐい代わりに、じぃじから、少年はお水を吸い込んでくれる水草の干したのを貰って、顔を拭いた。気持ちよかった。

  味噌汁を作りながら、じぃじは言った。「ただね、人間ってのものほど、やっかいなものはいないんじゃよ。動物や、植物とは違って、ただ一つだけ他のイノチとは違ったものがある。それはね、人間には智慧があるってことさ。智慧が働くと、ついつい比較したがる。そうして仲間同士で戦争を始めたり、悪口を言ったり、悪く言えば、それはそれはキリがないんだ。でもね、智慧の中で一番いいところがあるの」と、じぃじは得意顔で言い始めた。「愛ってことだよ」。「愛ねぇ、何だろう。それが智慧のことなの」と、少年は聞いた。そしたらじぃじはウンウンと言って、笑いながら、美味しい味噌汁を食べ始めた。中に入っているのは、ズイキ(さといものくきを干したもの)だったが、味が染み込んでいて、とっても美味しかった。更に、じぃじは「愛することは、キミはもう充分愛されてきたんだよ。これからは、何でも自分から愛して行くことだよ」と。そうっかぁ、生きて愛することなんかぁ、ぼくは妙に大人になったような気分になった。

  じぃじの小屋には何にもないけれど、どこかに豊かな何かがあった。きれいにせいりせいとんされ、まきや、じぃじが信じている自然の風景の写真ばかりだった。それがいいと思った。

 

 こんな色をしたダリアも

 

 さらにじぃじは「人は生まれてくることはめったにないことで、生きるってことは大変なことなんだ。でも、愛さえあれば、とってもすばらしいことなんだよ」と言っていた。そして「自然と丸きりいっしょになることで、不安はなくなるし、死も、生きることも、同じように自然なことなんだぞ、いいかい。分かったら、ばぁばのお骨に手を合わせてから帰ってね。ばぁばは、じぃじの心にいつまでも生きているんだから」と告げた。じぃじが死んだら、ここにばぁばと同じようにお骨をまかれたいと言っていた。そして早く土に帰って、ばぁばといっしょに、草木になったり、動物になったり、それは神さまが決めることだけど、お墓に入っていられないんだよ。誰よりも早く自然に帰るんだからと、つけたした。少年はふぅ~~んとうなづいてから、帰りじたくをはじめた。

 そう言えば、じぃじの小屋の傍には、「草木塔」や「鮭塔」や「田の神さま」や「山の神さま」など、多くの石塔が並んでいた。

 

 米沢に点在する草木塔 鳥海山の近辺には 鮭の供養塔がある

 

 「さぁそろそろ帰る時間かな。そしたらねぇ、じぃじが毎年皆さんが楽しんでくれるようにと、ダリアの花をたくさん植えた道路があるから、そこを通って帰りなさい。杉の木を過ぎてから、逆に左側へね、行くんだよ」、そうしてじぃじは少年を強く抱きしめた。

  不思議なんだけれど、少年にはもう「死」の言葉が消えていた。さらに不思議なことに、あんなに怖かった杉の大木はもう怖くなかった。何かが変わったような気がした。そして家に行く逆のほうに、回り道して行くと、一面の野原に出た。うわぁ~~~、こんなところに、お花畑があったんだぁ。少年は驚いた。この土地を全部、知っているような気がしていたのは間違っていたように思えた。

  あっダリアの花だぁ、いったい全部で何本あるんだろう。少年の心は弾んだ。ルルルンと弾んでいた。

 

 山形県川西町のダリア園 種類の多さに 圧倒され 驚くほど(約600種だとか)

 

 行けども行けども、ポンポンとダリアが咲いている。愛って、お母さんも好き、お父さんも好き、じぃじも、死んだばぁばだって大好きってのが「愛」ってことなのかなぁ。

  ダリアの色んな形や色を見ていると、友達の顔や先生にも見えたし、お隣さんちのおじさんやおばさんにも見えた。

  どこか孤独だった少年の心は、家に帰って、お母さんに、きつく抱き着いてから、どこかに何かがすぅ~~っと消えていったように感じた。

  じぃじ また行くからね。色んなお話を教えてくれてありがとう!

 

 

ダリアの花束

 

一番好きなポンポンダリア

 

再び到来した寒波の中 他愛ないお話に お付き合い戴きまして 心から感謝申し上げます

 


      越前水仙 花物語

2014年01月16日 | 文学・絵画等芸術関連

 

そろそろ水仙の花が そしてあの日のお祈りに

 

 

 

           越前水仙 花物語

 

 時は平安朝末期。木曽義仲が兵を挙げ、京を攻めた時の頃のお話です。居倉浦(越前岬)の山本五郎左衛門は一族郎党を連れて参戦した。但し次男の次郎太だけは、留守居をするために、残っていた。或る日、越前海岸に、溺れたようにして倒れていた美しい姫を発見した次郎太は、凍えて死にそうな姫を、担いで家に戻り、何とかして助けた。日に日に回復して行く姫。その後姫は次郎太に、その恩を返すために断崖絶壁の中腹にある小さな畑仕事を手伝っていた。優しい姫と、逞しい次郎太は、やがて恋に落ちる。

 忘れた頃、長い時間の末、戦が終わり、味方が散々な目にあった兵士たちは、それぞれの家に戻りについた。父・五郎左衛門は敵に殺されてしまい、兄・一郎太も負傷し、一本足になって、ようやく越前まで戻り帰って来た。兄にとっては辛い辛い日々であったのだ。

 越前の我が家に帰ってみると、美しい姫と、弟の次郎太が楽しく暮らしているではないか。日一日と経って行くうちに、やがて一郎太の傷も癒え、三人で暮らし始めた。でも、どう見ても似合いの夫婦に見えた弟と姫。あの悲惨な戦は誰のためにしたのか。それは我が家を守るため以外ないではないかと、やがて兄と弟が口論になる日が多くなった。きっと一郎太に、嫉妬があったはずに違いない。腕のたつ兄の一郎太は、或る日次郎太に、その姫を巡って口論となり、姫を賭けて決闘することになった。本来仲がよかった兄弟だったが、女一人が家の中にいるだけで、険悪な空気になっていたのだ。崖っぷちで、裂帛の気合いで、刀を構える兄弟。冬の荒れた海。二人の争いはすさまじいものであったが、姫はその二人を見て、咄嗟に「私がいるために、こんなことになってしまった」と心を痛め、乱心したかのようになり、その挙句、絶壁の上から荒れた海に向かって、ハラリと身を投げてしまった。闘い中、驚いた兄弟は闘いをすぐに止めた。

 あっと言う間にイノチを絶った姫に、二人の兄弟はびっくりして、海の中を探すのだったが、どこにも姫の姿は見つからなかった。これをきっかけに、兄弟は争うことを止め、再び痩せた断崖の畑を耕し、貧乏だが、元通り仲良く暮らすことになった。翌春、刀上の海岸に行くと、いつか姫が流れ着いた場所に、美しい水仙の花(株か)が流れ着いたのを発見した。次郎太も、兄の一郎太も、きっとこの花は美しい姫の化身に違いないと確信し、大切に育てることにした。数年が経って、寒風吹きすさぶ越前の断崖絶壁には、小ぶりだが、香り高い水仙の花が咲き乱れ、日本一の生産地になったのである。尚越前水仙の花は寒さが酷ければ酷いほど、美しく咲くという。

 

 居倉浦の越前水仙

 

 (このお話は、日本最古の物語である「かぐや姫」や、能「求塚」などと同様に、一人の女性に、複数の男たちが求婚し、女性は一人天界へ、或いは水中へ去り行く日本物語の典型として、現在でも語り継がれている越前水仙発祥の物語です。又この香り高い水仙の花は最も厳しい一月に、波の花散る越前海岸の絶壁で育まれ、或る男が、あの阪神・淡路大震災の日の三日後に、イノチを返りみず、被災地にお届け申し上げた一万本もの越前水仙の花のことでした。中には、お花を投げ還される方もおられましたが、多くの被災者にとりまして、多分ですが、心の中に、どんなに勇気づけられたことかと推測しております。またその大震災から二週間後、神戸をご訪問された天皇・皇后両陛下に、被災者のご自宅に咲いた水仙の花だと言われ、喜んで手にされた美智子皇后さまのお姿をテレビで見た時、その男は、感動し嗚咽して泣き止みませんでした。また二年七か月前の東日本大震災の折も、仙台市宮城野区の避難場所をご訪問された天皇・皇后両陛下に差し出されたお花は、確か翌4月27日のことだったと思いますが、被災者の自宅に咲いた水仙の花だと言われ、手にされた美智子皇后さまにとりまして、両被災地で共通した思わぬ水仙の花を手にされたのです。バスの中からお花を持って、握りこぶしを挙げられた美智子皇后さまのお姿。そして仙台で水仙をのお花を手にされた時の美智子皇后さまの微笑。どんな天変地異でも我が責任だとして、物忌みをなされる天皇家の伝統は、私たち日本人をどんなに勇気づけてくれることでしょう。またあの日水仙の花を神戸・三宮に届けた、その人は、まだうら若き年で、この世とグッドバイし、今この世にいない我が主人のことですが、すべての被災者と、彼の美しい御霊に鎮魂の思いを、お届けしたくて、越前水仙のお話を書かせて戴きました)

 


      小倉百人一首の世界

2014年01月07日 | 文学・絵画等芸術関連

道勝法親王筆百人一首の絵かるた

 

 

       小倉百人一首の世界

 

 「百人一首」として、かるた取りなど、長く親しまれてきたものは、本当は「小倉百人一首」と称されるものであり、それが一般民衆の遊びとして定着したのは、江戸時代になってからである。元禄十一年(1698)の「壺の石ぶみ」と言う書物に、「歌骨牌(かるた)といえば当時百人一首に限りたることとす」とある。そして特に江戸末期には最も盛んになったらしい。

 『小倉百人一首』は、もとは「小倉山荘色紙形和歌」ともいい、「小倉山荘色紙和歌」、また「嵯峨山荘色紙和歌」、「嵯峨中院障子色紙」などと呼ばれた。選者は、藤原定家(1162~1241)である。定家の日記『明月記』には、宇都宮頼綱(定家の子 為家の妻の父)から、嵯峨邸の障子に貼る色紙に染筆を頼まれ、「字を書く専門家ではない自分が、見苦しいことを承知で書いて送りとどけた」と言う意味のことが記されている。時代は、天智天皇(626~671)から、藤原家隆(1158~1237)、藤原雅経(1170~1221)までの和歌を一首ずつ選び、定家も頼綱も小倉山に別荘を持っていたために、「小倉百人一首」とよばれるのが妥当だろう。

 従って選歌の基準は定家の好みによるものである。定家の秀歌大体として、定家の持つ理想を示したものであり、定家の提唱した「有心(うしん)体」の歌とみるべきである。一説には百首より多い歌数であったとされ、後に定家の子・為家によって決定をみたとも言われている。また為家は定家の選歌から二首を省き、九十九番目と百番に、後鳥羽院と順徳院を加えたとも言われている。尚『小倉百人一首』は、次のような歌集から選歌されている。「古今和歌集 二十四首」、「後撰和歌集 七首」、「拾遺和歌集 十一首」、「後拾遺和歌集 十四首」、「金葉和歌集 五首」、「詞花和歌集 五首」、「千載和歌集 十四首」、「新古今和歌集 十四首」、「新勅撰和歌集 四首」、「続後撰和歌集 二首」、以上から選歌されたものである。

 

藤原定家像 伝藤原信実作画 (鎌倉時代)

 

 面白いのは、その時代背景である。かつて平安朝貴族の繁栄は宮廷文学を必定として盛り上げ、我が世を望月の欠けたることがない状態として賛美した道長を最高潮にしたことである。平安朝女流文学がその中で傑出して生まれたのは、時の貴族の教養と政治に関わることではあったが、その華麗で優美な時代は、やがて四百年という長い年月の間に、地方豪族や武士の台頭の機を作ることでもあった。こうした生活の混沌は、やがて「生」の存在、及び鴨長明の「方丈記」にみられる心の無常感がぱっくりと口を開けた人生を否が応でも考えなければならない潮流の構成をしつつあったのだ。度重なる天変地異が、そうした平安文化を自然状況から靴替えさせるに充分であったとも言えそうである。「もののあはれ」という美意識も幽玄も、華麗なることは如何に儚いものであるかと言う知的目覚めによって、人生の井戸を覗く深さに支えられたものであった。定家は、この華麗なるものと知的現実世界との混乱の時期に生を受けた。つまり平安朝末期の人であったのである。

 百人一首には、特に恋歌が多く組まれてる。「花のいろは」の小野小町、「うらみわび」の相模、「難波潟」の伊勢、「君がため惜しからざりし」の藤原義孝、「恋すてふ」の壬生忠見と、宮廷歌人らが社交の礼として歌った和歌だけではなく、恋の繁栄の裏側には、失う恋の哀れがあり、そのことが如何に「生」と「死」を左右するものであるかを、歌に託して詠まれ、しかし貴族文化の後を引き、歌の上手は、恋を獲得し身分保障するために必須のことで、それが何よりの手立てとなる最後の足掻きのような時代でもあっただろう。

 「明月記」によれば、公家貴族の生活は次第に乱脈を極め、後鳥羽院の御幸には、白拍子や遊女を招いた水無瀬御幸のことが記されている。人心乱脈に加え、飢饉や疫病が蔓延し、人心を更に不安へと導いた。定家は無論、後鳥羽院の主宰する和歌サロンに重きを置いたけれども、後鳥羽院の意見とは合い難い側面を持っていた。やがて後鳥羽院から勅勘を受けて、落魄の時を迎えるのである。

 承久三年、北条の勢力を押さえようと図った後鳥羽院の挙が露見し、隠岐へ遠流の哀しみを負われた。又行をともにした順徳院も佐渡に流され無残な最期を遂げている。意見の食い違いがあったけれど、一時は定家の庇護者であった後鳥羽院が、こうした政治の暗い陥穽に落ち込まれた運命を、定家はどのように感じていただろうか。

 「百人一首」の中に、

 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物おもふ身は     

                                  後鳥羽院 (続後撰和歌集 巻十七 雑)

 百しきや 古き軒端の 忍ぶにも 猶あまりある むかしなりけり   

                                  順徳院  (続後撰和歌集 巻十八 雑)

 がある。為家の追補したものであるとしても、この人生の転変を、生と死の重さを、併せて生死の間の「恋」や「うらみ」も、「生」も「もみじ」も、定家の理想に合わせて選じられたものであったろう。確かに為家によって「百人一首」は確定されたとも言えるし、又定家の和歌の理想が結実したものと言ってもいい。

 「百人一首」は天智天皇の「秋の田の」の一首から始まり一番とされ、百番の順徳院で終わる。先の出典を更に遡れば、『万葉集』を初めとして多くの歌集が選じられ、一首一首からは百人の人たちの生きざまが、時代を背景として、如何に生き、如何に夢みたかの風韻をうかがうことが出来る。例えば骨太に勁直に、「秋の田の」と歌った天智天皇の御製にしても、天皇の気質や気概を帯びたものとして、単なる風景だけにはとどまっていない。風景もまた定家にとっては有心の対象であったろう。

 

本年1月3日 午後1時より 八坂神社の「かるた始め」 初手一場面 (京都写真のyoupvさんより)

 

 選をした定家は、「新古今和歌集」の撰者でもあった。長い日本の歴史を踏まえながら、華麗な平安朝から鎌倉期へ移行して行く中世の混乱に目を据えて選んだものであり、「有心体」、つまりは「心悩ます」ものの集大成とも言えるだろう。尚後鳥羽院の祖父である後白河法皇は、白拍子などが歌った庶民の歌謡を集め、「梁塵秘抄」を編纂したものだが、痛切な時代の息吹が直に感じられるもので、「百人一首」より、少々早い時期に編纂されたものである。「遊びをせんとや生まれけむ~~」と有名な歌謡=今様があるが、個人的には「仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたもふ」が好きである。「百人一首」では、約八割を諳んじて愛称している歌が多いので、どれが好きかはなかなか難しいが、二首目の持統天皇の「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」がすっきりしていて、比較的好きな御歌としておこう。藤原京にいた持統天皇は真北に父・天智天皇の墓所を、真南に夫である天武天皇を奉り、真東にお伊勢さんを建てた大変立派な女帝であり、実子・草壁皇子に皇位継承をさせたがったが、若くして亡くなられたために、未だ幼きその子・軽皇子(後の文武天皇)に継承させた。尚この間、繋ぎの天皇として草壁皇子の正妻(阿閇皇女=天智天皇第四皇女)を即位させ、元明天皇となし、その後に文武天皇が即位したのであった。これらの継承問題で、大津皇子などを死なせた苦悶からか、薬師寺に大津神社を建てて供養された。要は、中将姫伝説と同様に、継母問題であったろう。又持統天皇は「常若の心」の正殿である天照大御神の、式年遷宮を始めた方でもある。

 

八坂神社 舞台より偶々落ちてきたカルタ (京都写真のyoupvさんより)

 

 この正月、亡き母が使っていた百人一首のかるたを、静かになった大東京の夜更けの私たちの部屋で、夫婦二人して楽しく興じていた。もはや百人一首も遠くなったのであろうか。今夕だが、「セリ ナズナ ゴギョウ ハコベラ ホトケノザ スズナ スズシロ これぞ七草」と、バカでも覚えさせられた春の七草(南北朝時代の公家である左大臣・四辻善成が詠んだ歌)を、出汁を効かせ、吉野葛で作った餡に全部刻んで入れ、それをタップリと掛けて食べる七草粥(若狭粥仕立て)。これで漸く、正月ご馳走の胃もたれが治るかも知れない。アッサリした献立にしようと思う。

 

後鳥羽院 所縁の水無瀬神宮

 

 


      山頭火を歩いて

2013年05月23日 | 文学・絵画等芸術関連

 幾何学的な丘 山頭火はこんな丘を歩いただろうか

 

 

  山頭火を歩いて

 

 

 明治十五年(1882)山口県防府市に生まれ、昭和十五年(1940)、五十七歳で亡くなった俳人・種田山頭火は、自宅井戸に身投げし失った母親を生涯思い続け、「ほんとうの自分を作り上げること」、「あれこれ厄介をかけないで、ころりと死ぬこと」が、真実の願望であった。その生活は無一物の乞食であり、いつも死を考えながら、死を押さえ込むための活力として、放浪し、膨大な俳句を創った。どうしようもなく惨めで凄まじい生き様から生まれた俳句は、何とも自由で、さびしくて、かなしい。今回の大震災で亡くなりし多くの友人たちに、本文をお届けしたい。

     歩かない日はさみしい

    飲まない日はさみしい

    作らない日はさみしい

    ひとりでゐることはさみしいけれど

    ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない

 

 防府 生誕の地で

 

 [生家跡]

  山頭火が生まれたのは現在の防府市八王寺町2丁目、防府天満宮から徒歩十分くらいのところにある。種田家の屋敷は三方を田んぼに囲まれ、納屋・土蔵・母屋が並んでいたとのことである。
今も種田家はあるが、当時の屋敷は残っていない。生家跡には句碑が建っていた。

    うまれた家はあとかたもないほうたる

 生家跡近くの種田又助商店には、山頭火のうしろ姿のレリーフが、入った立派な句碑が建っている。
    

    分け入っても分け入っても青い山

 

 [山頭火の小道]

 山頭火が小学生の時に通った道は、山頭火の小径と呼ばれて親しまれている。生家跡から「志ほみ羹」(塩味羹)の双月堂付近までの路地は、どこかなつかしい感じがする路地である。また民家の塀などに山頭火の句が張られているのも楽しい。山頭火の小径の東の端付近にある双月堂の茶室入口には、


 
    あめふるふるさとははだしであるく

の句碑がある。

 

 [種田酒造跡]

 明治三十九年、父竹治郎は長男正一(山頭火)名義で、防府市郊外の酒造場を買い取り、酒造業をはじめる。暖冬のため、酒が腐敗したことが原因で破産に追いこまれたのは、大正五年山頭火三十四歳の時であった。

 その後山頭火は妻子とともに防府を後にし、妻の実家がある熊本に移り住んで、古書店「雅楽多」を開業する。熊本・大道新舘のかっての酒造場の前の県道沿いに、山頭火自筆の句碑が立っている。

    酔うてこほろぎと寝てゐたよ

 

 [護国寺門前]

 山頭火十七回忌の昭和三十一年十月十一日、山頭火を顕彰するために護国寺に墓が建てられた。自然石に彫られた素朴で趣きのある山頭火のお墓だ。
境内には7基ほどの句碑がある。門前には、

    風の中おのれを責めつつ歩く


山門を入ってすぐの所に、

   てふてふうらからおもてへひらひら

 

 [防府駅前]

 JR防府駅前、山頭火がこの駅で乗り降りしていた頃とは風景が全く様変わりしたことであろう。

てんじんぐち、つまり防府天満宮のある北口へ降り、駅前広場の左手に歩くと山頭火の銅像が建っている。

笠をかぶり、右手に鉢、左手に杖を持った行乞姿で、台座には、

    ふるさとをのみふるさとの水をあび

と刻まれている。

 防府市内には、山頭火の句碑がたくさん建っている。山頭火ゆかりの地に建っているものもあれば、ゆかりの全くない所に建っているものもある。駅の観光案内所で、句碑めぐりの地図を手に入れてから散策をはじめるべきだろうか。

 漂白の始まり 熊本・味取観音堂

大正十三年に出家した山頭火は、翌大正十四年に曹洞宗瑞泉寺の味取(みとり)観音堂の堂守となり、このときに、

    松はみな枝垂れて南無観世音

 という句を詠んだ。堂守は長続きせず、一年二か月で観音堂を去り流転の旅に出た。大正十五年、山頭火四十四歳、これが漂泊のはじまりであった。味取観音堂への少しゆがんで、磨り減っていた。両側には幾つもの石仏が安置されている。山頭火もこの石段を何度も何度も上り下りしたことであろう。

 [小豆島]

 昭和三年(1928)七月、山頭火は尾崎放哉の墓参のために小豆島に渡り、小豆島で五泊している。山頭火は、土庄の酒屋で買った一升瓶を放哉の墓前に供えたと言う。

 放哉と山頭火は、荻原井泉水門下の「層雲」の同人であったが、生前に会ったことはない。放哉が小豆島で亡くなったのは大正十五年、山頭火の放浪の旅がはじまったのも同じ年で、放哉の終わりのときは、山頭火の始まりの時であったとも言える。

 [南郷庵(なんごうあん) 現在の尾崎放哉記念館]に筆者立ち寄る

  土庄町西光寺の南郷庵跡地に、放哉が書き残したものを手がかりに1994年に尾崎放哉記念館として復元された。展示物も充実していて、放哉の書簡などを中心に、山頭火の書も数点ある。山頭火がおとずれたのは放哉の死の三年後、当時、南郷庵はまだあったのだろうか。小豆島は島四国八十八ヵ所。墓地近くには遍路道標。放哉の句も残されていた。「墓のうらに廻る せきをしてもひとり一日物云はず蝶の影さす 入れ物がない両手でうける つくづく淋しい我が影よ動かして見る」

放哉の墓標の後ろに、西光寺の五重塔が見える。山頭火はこの墓前で、酒でも飲みながら過ごしたのであろうか。春の山のうしろから烟(けむり)が出だした(放哉最後の句が刻まれている)

 [国東半島]

 山頭火が国東半島へやって来たのは昭和四年(1929)十一月下旬。阿蘇から英彦山へ拝登。中津の俳友宅に立ち寄り、宇佐神宮へ参拝した後、国東半島の天念寺や両子寺をたずねた。そして、阿弥陀寺や安国寺に投宿したと伝えられている。

 ■阿弥陀寺(国見町)

阿弥陀寺の石段下に立つ真新しい句碑。

   こんな山水でまいまいがまうてゐる

「まいまい」とはミズスマシのこと。

阿弥陀寺入り口付近に地蔵尊像が立っていた。

 ■安国寺(国東町)

茅葺屋根の山門に仁王像がある。また山門前に山頭火の句碑がぽつねんと立っていた。

     日暮れて耕す人の影濃し

 

[日奈久]

 ■昭和五年九月十日 晴、二百廿日、行程三里、

日奈久温泉織屋宿。午前中八代町行乞、午後は重い足

ひずり日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん

夫婦と再び一緒になった。

 方々の友へ久し振りに音信する。その中に、                   
 「 ……私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅に出ました。歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます。温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよく、海もよい。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)」

 山頭火が宿泊した織屋が現存し、その近くの「憩いの広場」には山頭火の記念碑が立っていた。

  ■     昭和五年十月十一日 晴れ 滞在

午前中行乞、午後は休養す 此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである。

  ■     昭和五年十月十二日 晴れ 休養

入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と活動写真見物、あんまりいろいろと考へさせられるから。

  ■     昭和五年十月十三日 曇り 時雨 佐敷町川端屋

 八時出発 二見まで歩く、一里ばかり、九時の汽車で佐敷へ。三時間行乞、やっと食べるだけいただいた。此の宿もよい。爺さん婆さん息子さんみんな親切だった。

  通常こんな漂白の旅である。日奈久を出て二見が近づくと、右手に八代海が見えてくる。山頭火も二見までの約4キロの道を、海を見ながら歩いたことだろう。汽車は、次の駅上田浦の先まで海岸をかすめるように走り、肥後田浦へ向かって海から離れる。山頭火は佐敷から東へ歩き、球磨川沿いを人吉へ向かった。八代海の夕暮れ(上田浦~肥後二見)、今も昔も天草の島影は全く変わっていない。佐敷城址から眺めた佐敷の町屋は今もゆったりと流れていて、素晴らしい。佐敷川対岸が人吉に抜ける道であろうか。

 

 [日南海岸]

 ■昭和五年九月三十日 秋晴申分なし

青島を見物した。檳榔樹が何となく弱々しく、そして浜万年青がいかにも生々してゐたのが印象として残ってゐる。島の井戸ーー青島神社境内ーーの水を飲んだが、塩気らしいものが感じられなかった。その水の味も亦忘れえぬものである。

久しぶりに海を見た、果てもない大洋のかなたから押しよせて砕ける白い波を眺めるのも悪くなかった。(宮崎の宿では、毎夜波音が枕にまでひびいた。私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するやうになってゐる)

  この日の夜、山頭火のところへ国勢調査員がやって来る。山頭火は、「先回は味取でうけた、次回の時には何処でうけるか、或ひは墓の下か、・・・」とこの日の日記に書いている。尚日記から二首、

       波の音たえずしてふるさと遠し


      白浪おしよせてくる虫の声

 

 ■昭和五年十月一日 曇。午後は雨。

 九時から十時までそこらあたりを行乞する。それから一里半ほど内海まで歩く。峠を登ると大海に沿ふて波の音、波の音がたえず身心にしみいる。内海についたのは一時、二時間ばかり行乞する。

 今日歩きつつつくづく思ったことである。ーー汽車があるのに、自動車があるのに、歩くのは、しかも草鞋をはいて歩くのは、何といふ時代おくれの不経済な骨折りだらう、(その実今日の道を自動車と自転車とは時々通ったが、歩く人には殆んど逢はなかった)然り而して、その馬鹿らしさを敢て行ふところに悧巧でない私の存在理由があるのだ。


      泊めてくれない村のしぐれを歩く


      蕎麦の花にも少年の日がなつかしい

 

 ■昭和五年十月六日 晴。

 九時から三時まで行乞、久しぶりに日本酒を飲んだ、宮崎、鹿児島では焼酎ばかりだ、焼酎は安いけれど日本酒は高い、私の住める場所ぢゃない。

 十五夜の明月も飲まないで宵からねた、酔っぱらった夢を見た、まだ飲み足らないのだらう。油津といふ町はこぢんまりとまとまった港町である。海はとろとろと碧い
山も悪くない、冬もあまり寒くない。人もよろしい。世間師のよく集るところだといふ。
 

       小鳥いそがしく水浴びる朝日影

 油津の堀川運河にかかる堀川橋は石積みで格別に美しい。山頭火も渡ったことだろうか。

  昭和五年十月七日 晴。

 雨かと心配していたのに、すばらしいお天気である。そこここ行乞し、目井津へ。このあたりの海はまったく美しい。あまり高くない山、青く澄んで湛へた海、小さい島は南国情緒だ。吹く風も秋風だか春風だかわからないほどの朗らかさであった。

      草の中に寝てゐたのか波の音

 細田川河口や目井津港付近はいつ行っても美しい。山頭火もどうやらこの美しい小さな島影を見たようである。

 

虹の松原はこんな松林ではないが、玄界灘を背負う膨大な松はいつまでも風に揺れていた

 

 ≪本文について≫

 ドナルド・キーンさんの文章の中で、日本人は好き嫌いで作家の文章を判断しがちだが、それは悪い意味で私小説的判断の証だと言っていた。そこからこのどうしようもない男・山頭火を読み返してみると、何とそこには豊穣な人間性があるではないか。生涯8万もの句を詠んだ男とは、私は時間がある限り、山頭火の歩いた道を辿り、山頭火の日記をたよりにしながら、吟唱された句を何度も読み返している。どこへ行っても最早山頭火が歩いた時代の風景はない。でも不思議に風というか匂いというか、その場所に立ってみると、そこはかとなく山頭火が感じられるから面白いものだと思っている。キーンさんが泣きながら英文で書いたという「正岡子規」を読み、久し振りに感動した。今後石川啄木を書くという。そう言えば私が若かりし折、啄木の「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」っていう歌を随分永い間、抱いていたような気がする。キーンさんから教えられながらも、近代俳句や近代短歌の世界を少しずつ読み進めて行こうと思う。尚山頭火終焉の地・松山まで、今後どれだけ旅をしたらいいのか分からないが、意欲満々であることだけは確かなようである。(硯水亭) 


    小林秀雄の「古事記伝」論 (松岡正剛による)

2013年03月26日 | 文学・絵画等芸術関連

痛々しい我が家の老樹 染井吉野

 

 

  小林秀雄の「古事記伝」論 (松岡正剛による)

 

 本居宣長に三っつの不思議がある。愛してやまなかった鈴、そして山櫻、それから遺言にあったように死後どこに行ったかということである。黄泉の国に行くとは言っていたが、何々こと細かに遺言書にはアレコレと指示し書かれてあるから面白い。師匠・賀茂真淵などは死後黄泉の国なんぞに行くわけがない。山室山山中の、自分の墓所に大勢の知人を招いて、歌会や、己が書き残した多くの著書に添削やら書き換えや、色々と忙しくしているのだろうと。鈴は駅鈴などを収集する趣味があり、大好きであった。自分の住んでいた家を鈴屋と称したほどである。山櫻は山室山の墓所へ山櫻を植えさせ、生涯愛してやまなかったし、何と300首もの山櫻の歌も残している(櫻の歌人・西行は生涯200首の櫻の歌を残し、「山家集」にはその半分の100首が入っている)。父親が男の子を欲しいと念願し、吉野中の千本にある水分(みくまり)神社に願掛けをしたことから、宣長が誕生した。後年その恩義を感じた宣長は水分神社に詣でている(菅笠日記)。水分神社と言えば、吉野でも最も吉野らしい場所で、中の千本と上の千本の境目で、吉野を一望出来る「花矢倉」がある絶景ポイントである。山櫻の本場に願掛けをして生まれてきた子供だったとして、宣長自身、山櫻に恩義を感じたのだろうか。宣長の歌はそれほど巧くはないが、でもまぁ筆者が想像するほど単純なものではないであろう。鈴も山櫻も好きだから好きだと言われればそれまでであろう。

 ここに興味深く、素晴らしい論考がある。編集工学の松岡正剛氏が千夜千冊というページに書いた小林秀雄「本居宣長」に関する評論である。かなり長いが興味のある人は読んで下さりたく。なお各章の題名は分かりやすいようにつけたが、小林氏の言ではない。

 

木くずなどで染井の養生をしているが 多分倒れてくる危険性があるから伐採しなければならないだろう

 

 第1章  遺言書1 墓、葬儀、法事、桜の歌

 本居宣長(1730-1801)の出だしでいきなり遺言書から始めたのは奇策だ。これが小林秀雄の個性である。遺言書に墓の設計から葬式の仔細を指示するのは本居宣長の個性である。彼は松阪の人であり、彼は自分の墓所を山室の妙楽寺と定めたが、本居家の菩提寺である樹敬寺にも墓がある。面白いのは妙西寺の墓所の設計書を残したことである。七尺(2.1m)四方中央の塚に花の見事な桜を植え、前に高さ(台は別)四尺(1.2m)の山型の碑を建て「本居宣長之奥津紀」とし、境には延石を敷くこと(なおこれは後でもいい)。そして命日の定義(前夜九時から当夜九時まで)をし、遺体の処理仕方(沐浴、髭剃り、経帷子、木の脇差)と棺への収め方(座布団、詰め物、、蓋、釘等々)を定めている。そして当時の風習に従い両墓制を取り、遺体は妙楽寺へ、空荼毘を樹敬寺とした。葬儀の行列は、妙楽寺へは次男の子西太郎兵衛と門弟の二人で夜ひそかに収めること、菩提寺である樹敬寺へは空送で僧を先頭に長男春庭が続き提灯行列を行う(この行列の図も描かれていた)。位牌は「高岳院石上道啓居士」と自分で定め、後に妻と入る墓(自分は入っていない)を定めた。この本居宣長の遺言に対して奉行所は、夜陰に死体を妙楽寺へ運ぶことに異議を立てたが結局どうなったのかは不明である。遺言書には妙楽寺への墓参りは年一度の命日でいいとして、命日の霊前の位牌のおくり名は「秋津彦美豆桜根大人」として、花、灯、魚、酒を用意し、宣長の自画像をかけること、門弟たちに歌会を開くよう要請した。この宣長自画自賛の肖像画には有名な「しき嶋の やまとごころを 人とわば 朝日ににおう 山さくらかな」の賛がある。本居宣長に桜の歌が多いことはよく知られるところだが、吉野百首に続いて、「まくらの山」と題する三百首の桜の歌がある。年をとると朝が早いので枕もとで桜の歌を書き付けて三百首になったというものである。へたくそな歌だが桜が好きだという個性があった。

  第2章 遺言書2 辞世の歌

「これは遺言書というよりはむしろ宣長の独り言であり、信念の披露だと」小林氏は考える。宣長自身は日ごろから「亡き後のことを思い図ることはさかしらごと」と言っていた。まあ何か悟るところがあって自説を無視したのだろう。人はそんなもんだ。宣長の辞世の歌二首とは以下である。

「山室に ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」

「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」

  第3章 本居家の昔話、小児科医開業

 本居家は松阪の城下町を築いた蒲生氏郷の家臣であったが、会津で討ち死にし、妻は小津の油屋源右衛門に身を寄せその子供が小津家の養子になり別家を立てた。宣長は1730年享保十五年に生まれ、一時紙屋に養子に出されたが家に帰った。1752年23歳の時京都にのぼって堀景山に弟子入りし医術を武川幸順に学んだ。四年の京留学の後松阪に帰り小児科医を開業した。そこでかっての本居家を名のった。学問の志は捨てないもののやはり生計をたて、家を興すことが先決と考えた。これが宣長のこころざしであった。彼の学者生活を終始支えたものは医業であった。

  第4章 宣長の学問の系譜 学びの力

 本居の養子大平が書いた「恩頼図」は宣長の学問の系譜を列記したものだが、徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東崖、山崎闇斎、そして父母と書かれている。実に雑多な人名が挙げられているが、影響を受けたというよりは勉強したに過ぎない。京都に留学したしたときの師堀景山は藤原惺窩の門で代々芸州浅野家の儒官であった。堀景山は徂徠を尊敬し国学にも友人があった一級の教養人であった。宣長は景山の儒書会読会で闊達に遊んで教養を深めたようだが景山の影響は特筆するものは無い。つまり小林氏は「宣長については環境から思想を規定することは出来ない。宣長一人の学びの力により独創的な思想を育んでいったようだ」と結論する。

  第5章 青年宣長の儒教観

 青年宣長が京都遊学時代の友人に宛てた手紙のなかで聖人の道を排する気持ちが大きい。聖人の道は「天下を治め民を安んじる」道のことであるが己の身は天下国家を治める身分ではない。孔子の言は信じるが孔子は道を行うのに失敗した人である。道を行うことの不可能を知った人だ。したがって宣長は「好信楽」という態度から風雅に従うという基本的な学問態度を貫いた。当時の儒学の通念を攻撃したが、自分は自分の身の丈にあった生活態度を維持した。

  第6章 契沖の大明眼と歌学

 宣長は「あしわけをぶね」に契沖(1640-1701)の大明眼を賞賛して近世の学問の師と崇めた。契沖の画期的業績とは古歌や古書に接するに後世の解釈を介せずその本来の面目を見ることであった。いわば近世における日本の学問のルネッサンスと言える物であった。契沖は「万葉代匠記」が最大の業績である。契沖、宣長ともに歌詠み(歌道)であったが、契沖のほうが歌はうまく宣長の歌はさっぱり面白くないという評判であった。平田篤胤は宣長の歌の面白くないのは彼の業績にとって幸いだったと妙に感心している。宣長はなぜ下手な歌を「石上稿」に八千首も作り続けたかといえば、「自らよむになりては。我が事なる故に、心を用いること格別で、深き意味を知ることになる。」というためであった。やはり宣長にとって契沖に出会ったことが学びの道に邁進する人生を決定つけたようだ。

  第7章 契沖「万葉代匠記」

 加藤清正家のお取り潰しとともに契沖の家は没落し、契沖の幼年から青年期の生活は実に哀れを誘うほど暗い。一家の兄弟姉妹はあちこちの家に転々と盥まわしにされ、まるで「さそりの子」の様な境遇に育った。高野山で修行後室生山で自殺を図ったが、30歳で和泉に閑居し万葉代匠記の稿を起こした。こんな契沖には同じような境遇で育った年長の下河辺長流という唯一の親友がいた。ここで二人の強い個性が結びついたことが、近世の万葉研究の基礎を作った。長流の学問が契沖に流れ込んで契沖の才がこれを完成した。水戸徳川家より万葉注釈事業を依頼され、契沖の万葉歌学は完成した。

  第8章 私学の祖 近江聖人中江藤樹

 契沖から宣長の学問の概要を述べてから、小林氏の著述は時代を遡る事になる。即ち日本近世(江戸時代)の学問の系譜を詳らかにしたいためであろうか。まづは日本の学問のルネッサンスといわれる古典重視の学問を築いた中江藤樹(1608-1648)の儒学の系譜について小林氏の弁を聴く。中江藤樹は近江の貧農の生まれで大成して近江聖人と呼ばれた。愛媛の大州の武家に養子に入り勇猛であったが、学問の志と国の老母を養うため脱藩し近江に帰った。大阪夏の陣で「国家安康」の言いがかりを見つけた林羅山が幕府の官学の祖となったのに対して、中江藤樹は儒家の理想主義と学問の純粋性を求めて私学の祖となった。そもそも私学というものが勃興したこと自体、個人の実力時代の幕開けでも在った。

  第9章 儒学新学問の潮流 中江藤樹と伊藤仁斎

 中江藤樹の学問の目的は「人間第一義の意味を考えること」にあった。藤樹の良知説といわれるものは結局学問は一人で考え練るしかないことを言っている。私学が出来たのも、学問を独占した公家の博士家が戦国の時代に崩壊し、民の力が充実したからである。藤樹の最大の革命性は遅ればせのルネッサンスにように「古典に帰れ」を提唱したことにある。(そのため心の目をひらく「心法」という怪しげな訓練を課した)古典の復活は儒学では熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠へ受け継がれ、日本学では契沖(万葉)、賀茂真淵(万葉)、本居宣長(源氏、古事記)などが輩出した。まさに近世のルネッサンスといわれる所以である。伊藤仁斎は「論語」、「孟子」を先人の注解なしに読むことで語孟の信を回復した人であり、今日的に言えば近代文献学の先駆者とされる。仁斎は「「学んで知る、思うて知るは学問の基本だが、書が持つ含蓄して露さざるを読みぬく力、すなわち眼光紙背に徹するを工夫した人であった」と小林氏の評価である。このあたりについては私は全くの門外漢なのでコメントできない。

  第10章 荻生徂徠の学問(歴史)

 伊藤仁斎の学問を継承した一番弟子は荻生徂徠というこれまた独学者であった。仁斎の「古義学が徂徠の「古文辞学」に発展した。彼らの学問は「道」である。したがって「人生いかに生きるべきかという問題は、帰する所歴史を知るということあると信じるに至った」と徂徠は「答問書」に述べている。「歴史を知るとは、言葉を載せて遷る世を知るにしかず。言は遷るが、道は古今(歴史)を貫く。即ち変わらぬものを目指す「経学」と、変わる「史学」の交点が「古文辞学」だという訳だ。しかし歴史は定義され対象化されることを拒絶している。徂徠は自己の内的経験が純化されたものが歴史だという確信をもった。私にはなかなかこの独特の悟りが分らない。歴史は内面化されてこそ一躍生気あるものになる。利口な輩が見たとする形骸化した歴史は死んでいる。ということであろうか。

  第11章 宣長の学問と徂徠

 第4章から第10章まで長々と宣長の学問にいたる背景や潮流を述べてきた。これで概ね近世の私学の学者の目指すところと伝統は見えてきたはずである。23歳で京都に遊学に上った宣長の学問への興味は殆ど万学に渉っていた。「好信楽」に従い雑学に励んでいたに違いない。堀景山という一流の知識人に師事したおかげで、儒学・和学を勉強し、徂徠の見解の殆どすべてを学んだようだ。

  第12章 本居宣長 賀茂真淵に入門

 本居宣長が賀茂真淵の門人になったのは、1764年宣長35歳、真淵68歳で時であった。このときまでに宣長の「もののあわれ」論は出来上がっていた。1757年に著された宣長京都在住時代のメモ「あしわけ小舟」や1763年に著された「石上私淑言」、「紫文要領」にもののあわれ論が展開された。そして次の章からそれをつぶさに見てゆこう。

  第13章 もののあわれ論 

 もののあわれという言葉は勿論宣長の専売特許ではなく、古くは紀貫之「土佐日記」に「楫とり もののあわれも知らで」と使われ、古今集序に「やまと歌は ひとつ心をたねとして」の心を宣長はもののあわれを知る心と読んだ。もののあわれという言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人によって、長い間使われてきて当時ではごく普通の言葉だったのである。藤原俊成も「恋せずば 人は心も なからまじ 物のあわれも これよりぞしる」とある。宣長29歳に著した「阿波礼弁」に、人からもののあわれの義を質問され「大方歌道はあわれの一言より他には、余義なし」と答えた。これが幽玄や有心といよいよ細分化してゆき衰弱する。宣長は「玉のおぐし」で「世の中の、もののあわれのかぎりは、この物語(源氏物語)に、残るなし」、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」と述べている

  第14章 源氏「蛍の巻」 物語論とあわれ認識論

 「源氏蛍の巻」で、源氏が絵物語を読む玉鬘を訪れ物語について話し合う。ここは下心として、作者紫式部がこの源氏物語の大綱を述べるものと宣長は解した。物語は空言ながら物のあわれを写すのが作者の腕ということが言いたいのであろう。その時の習いを知るには源氏は最高の物語だと宣長は考えた。「石上私淑言」で宣長は、「見る物、きく事、なすわざにふれて、情の深く感じることを阿波礼と言うなり」と分析した。小林はこの心の動きを解析して、「思うに任せる時は心は外に向かい内を省みることは無いが、心にかなわぬ筋の時は心は内の心を見ようと促される。これを意識という。宣長のあわれ論は感情論であるというよりは認識論とでも呼べるような色合いを帯びている」。「紫文要領」では、「よろずの事の心を、わが心にわきまえしる、これ事の心を知るなり。わきまえしりて、其のしなにしたがいて、感ずる所が、物のあわれなり。」そして宣長はあわれをさらに解析して、あわれとあだなる事、情と欲を混合してはならないが互いに遷ることがあることなどを述べている。ただこのあたりの小林氏の解説はやたら難しくかえって分からなくしているのは私のひがみか。源氏物語「帚木」の「雨夜の品定」において、理想の女性論として「実なる」と「あだなる」との道徳的比較が行われるが、あわれを知ることをよきほどのに保つ難しさ、つまり紫式部はあわれは理想であるが押し通すものでないことを自覚していた。

  第15章 源氏「浮舟」、「夢浮橋」 式部の表現のめでたさ 

 源氏「雨夜の品定」で夫の世話をする女の備えるべき資質に「物のあわれ」を入れようとした宣長は明らかに間違っていた。そして宣長はこの「うしろみに方の物のあわれ」を取り下げるのだが、しかし日常生活に物のあわれの意味を検証しようとする宣長の姿勢は源氏物語に一貫している。宣長の感情論(こころ、情)は物語のうちからあわれの言葉を拾い集めることから始まったのだが、空言(物語)によろずの物に感じる人のこころ(情)のありようを味わうことが出来るのが物語のめでたさつまり作者の才であると宣長は悟り、「この物語の外に歌道なし」と言わしめたようだ。「浮舟」、「夢浮橋」という物語で、匂宮というあだなる人(行動人貴族)と、薫という実なる人(内省的貴族)を対して、無性格な浮舟というあわれな女を置いて人のこころを描いた式部の腕をみてみよ。

  第16章 源氏物語の批評 式部の創作動機

 源氏物語に触れた文や批評は、江戸時代1673年北村季吟「湖月抄」まで殆どない。「更級日記」に源氏を読む少女の楽しみ、「無名草子」、俊成、定家に僅かな言及があるのみである。宣長は旧来行われてきたいわゆる準拠説(源氏の記載事項を史実に当てはめる説)はさほど重要と思えないと軽くいなしている。すなわち式部の物語りの世界は式部の現に生きた生活世界を超えたものだという考えを宣長は確信した。式部の動機はただ語らうことに集中される。宮中であった出来事をそのまま移すことが目的で無く、式部のこころの感じることを(あわれと宣長はいう)言いたかったまでのことだ。 

  第17章 源氏物語 今昔の批判

 本居宣長は源氏物語「帚木」の冒頭文に、これから始まる光源氏の恋物語の序を聞いた。陰翳と含蓄とでうごめくような文体に宣長は式部の物語の始まりに心をときめかしたようだ。ところが今昔の批評家の源氏に対する風当たりは強い。とくに江戸時代の国文学者は儒教の道徳から脱することあたわず、公式には否定せざるを得なかったようだ。契沖は「源氏拾遺」において、反道徳書としてあらゆる道に違うとして批判した。ただ定家の言うように「可玩詞花言葉」としての用は認めたが。賀茂真淵は「源氏物語新釈」において、上代より文は劣り続け源氏物語は其の劣の極まりと批判した。「万葉のますらお」は「源氏の手弱女ぶり」を許せなかった。上田秋成(1834-1804)は「ぬば玉の巻」において、学者の立場から契沖と同じく其の反道徳性を非難したが、読み本作家としては式部の文才をいたく激賞している。源氏から学んだ文は自作「雨月物語」に生かしたようだ。森鴎外、夏目漱石は完全に無視してコメントをしていない。さすが明治の高踏派である。谷崎潤一郎氏は「雪後庵夜話」で、自分が源氏の現代語訳を試みたのは、光源氏のねじけた性格は好きになれないが、紫式部の作家の偉大性に感心したためだとする。やはり作家としては秋声と同じ立場から其の文体に注目したようだ。正宗白鳥は鴎外と違ってはっきり源氏悪文論者であるが、源氏とくに宇治十帖は欧州近代の小説に酷似すると其の小説の特異さを強調している。なを私は源氏を原文で読むことは高校生いらい拒否している。トンチンカンプンで息が続かない。そういう意味では源氏悪文論者かもしれない。私が読んだ源氏の訳本は谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らである。

  第18章 物語論

 坪内逍遥はその「小説神髄」において、「小説の作意が娯楽、歓懲であるという誤りから醒め、専ら人情世態の描写にあることを早く認識すべきである。その点で源氏玉のおぐしにある物語論はまことに卓見である」と述べた。宣長は源氏に対する自分の経験の質を感性から入って源氏の「詩花言葉をもてあそぶ」感性を得て出てきたといえる。したがって彼はこういわざるを得なかった。「そもそもいましめの心を持てみるは、この物語の魔也という。いましめの方にて視る時は物のあわれを醒ます故也」。世の批評家は物語を実と勘違いして批評するようだ。物語はあくまで現実生活の事実とは縁を切った、創り出された「夢物語」である。その創りは式部という才によって歌の道に従った用法により作り出された調べに迫真性があるからだ。当然の事だが儒の心(からごころ)で読んで批判するのはお門違いであろう。

  第19章 賀茂真淵 冠辞考

 1764年宣長35歳のときに、たまたま松阪に来た賀茂真淵に面会し入門を果たした。そのとき宣長は真淵から「神の御典をとかむとおもえば、まず古言をえるべし、古言を知るには万葉にしかず、ひくきところよりかためてたかきところにのぼるがすじなり」(「玉かつま」二の巻)という助言を得たようだ。これが古文辞学の原則であった。真淵の「万葉体翫」(体で覚える万葉学習法)とは「返り仮名のついた点本で意を求めずに5回読む、1回意を大まかに吟味する、無点本で読む(点本をみてもよろしい)、このような訓練を他の古書にも応用してまた万葉の無点本にもどる、そうすればいろいろな考えが出てくる」(万葉解通釈)ということであった。学者にしてそのような訓練をしているとは思わなかった。宣長はその回想において真淵の冠辞考にいたく感心したようだ、「冠辞とは、ただ歌の調べのたらぬを整えるよりおきて詞をかざるものである。真淵の基本的な考えは、おもうことひたぶるなるときは言たらず、したがって言霊の佐くるをもって詞の上に飾る詞が冠辞または枕詞という」万葉に限らず日本の歌には意味の定かでない五文字の形容詞がある(黒にかかる「ぬばたまの」、母にかかる「たらちねの」、大和にかかる「あおによし」などなど)。最近の巷の説ではこれは古代朝鮮語と解する説があり説得性を持っている。

 第20章  真淵の万葉考と師弟問答

 小林は「彼の万葉研究は、今日の私たちの所謂文学批評の意味合いで最初の万葉批評であった。後世の批評もこれに付加できるものはないだろう。彼の前に万葉なく、彼の後に万葉なし」と絶賛した。真淵は万葉六巻(1,2,11,12,13,14巻)を橘諸兄選としこれを万葉集原型と考え,他14巻は家々の歌集と見た。真淵の万葉考は批評というよりは賛歌の形をとったのは真淵の感情が激しかったためといえる。万葉の「ますらおの手振り」の剛毅、古雅の頂点が柿本人麻呂となる。真淵は寄る死の足音を聞きながら、最後まで万葉の「実」、「道」を求め続けたが「高き直きこころ」以外に適切な言葉は発見できなかった。真淵の激しい感情に、宣長は時折これを無視したかのように,下手な歌を歌っては添削を乞うたり、契沖説にしたがって万葉集を全巻大伴家持私選説を持ち出したりして、真淵の怒りを誘発し破門同然となった。

  第21章 本居宣長の歌論

 真淵の破門状に接して、ほうほうの態で侘びを入れ無事仲直りをしたものの、宣長の歌論はそれからも継続される。真淵の万葉至上主義で後の時代の歌は堕落の一途という図式ではなく、宣長は確かにその崩れは承知しながらも新古今和歌集に(定家選)そのよさを認める見解である。これは師と議論するとまたけんかになるので、黙って歌論を研究したようだ。頓阿の歌集「草菴集」の注解書「草菴集玉箒」が彼の最初の注解書になった。その外に「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)、「美濃家づと」(新古今)があって、なかでも「古今集遠鏡」の意訳はとても面白い大衆向けの歌紹介になった。宣長の歌史論はメモ「あしわけ小舟」に詳しいが、「歌が時代の人情風俗につれ変易するのでこれを味わうことが普遍を求めることより大切で、なかで歌うを旨く歌おうとする意識が最高潮になったのが新古今である。したがってまずい歌もあるが優れた歌も多いというのが宣長の見解である。しかしながら既に俊成よりその衰えの兆しは顕著になり、歌道と家筋(父子相伝)という考えになっては完全に停滞し堕落した。」と小林は纏めた。

  第22章 宣長の歌論 歌の実と実の心

 師真淵がなくなって、宣長の歌論はいよいよ「うい山ぶみ」より本格的に展開される。へたないにしえ礼拝者は復古復古といいながら、歌の伝統の姿をしらないがために、そのいにしえが定まらないと批判した。「私たちは今の世に生きている。今日では俳諧こそ情態言語であり便利極まりない。どうしてこのことが分からないのか」と宣長の批判は厳しく師に迫るものがある。私は、小林氏の議論の展開を逆にして、分かりやすいようにこの章を説明する。歌に限らず、人が考えるということは言葉の適切な誘導が無ければなしえない。人間(サルではない)の思考活動は最初に言葉ありきである。ましてや歌というものは漢詩に見ればよく分かるように、歌の言葉が先行し誇張し、調子を整えるもので、実の心はたわいないことであるかもしれないが、その詩が評価されるのは詩の言葉とリズムである。詠歌の最高の形は自足した言語表現の世界を作り出すことにある。実の心と歌の実は質の異なる秩序に属し直に結合してはいない。したがって「和歌は言辞の道也。心に思う事を程よくいう事」である。和歌を学ばんとする人には藤原定家の「専ら三代集(古今、後選、拾遺)を用いて手本とすべし」という考えは中古いらいの伝統である。和歌とは中古以来の長い伝統の上を今日まで生き続けた言葉の操作術である。どうであろうか、この逆展開のほうが演繹法的で見通しがよく分かりやすいのではないか。

  第23章 詩歌の歌謡論

 あわれ・「ああーはれ」という感動はこの声を長く・「ながむる」ことによって歌になる。長息するという意味の「ながむる」が、つくづく見るという意味の「ながむる」に成長する、それがそのまま歌人の実の意識となって歌になる。喪において哭するの礼と同じくその実を導くの仕方である。「歌道の極意は物のあわれを知るところになる。物のあわれに耐えぬところより、ほころび出ておのずから文ある辞が歌の根本」と宣長は言う。これは今でも宮中で行われている歌会始の歌の謡い方に引き継がれ、長ーく言葉を伸ばして意味がつかめぬくらいに歌っている。また祝詞などの言葉もしかりである。歌の原始的形を言っているが、はたしてそんな歌謡論で意味のある歌が説明できるのだろうか。宣長の「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)について、小林氏は宣長は随分さばけた柔軟で鋭敏な心を持っていたと指摘する。しかし宣長の歌の現代語訳はいただけない。まるで中・高学校の参考書のような現代語訳が果たして大衆の歌心を刺激するだろうか。歌の言葉はその時代の響きを持った味わい深いものでありたい。歌全体を砕いて平易な言葉に置き換えてとしても歌のリズムや美的趣は失われる。言葉の意味が判らなければ脚注で知ればいい。やはり歌は声を出して歌うべきだ。とすれば宣長の主張は前と後ろで矛盾している。

  第24章 てにをは論

 この章は短いにもかかわらず、前半と後半に何の関係も無い。前半は「てにをは」論、後半は源氏物語歌論になっている。「詞の玉緒」は宣長50歳の作だが、詩歌の作例を引用して「てにをは」のととのえが発見され、「いともあやしき言霊のさだまり」がいわれている。「てにをは」は助詞ではなく文意、文脈を貫くなくてはならないものという今日の文法についての論である。「てにをは」の働きは日本語になくてはならぬもの、これこそ日本語の特徴であるという論議は文法学者で長く論じられてきた。たとえば大野晋、丸谷才一は「日本語で一番大事なもの」という本を出している。(中公文庫)つぎに源氏歌論であるが、「宣長は源氏とは歌ではない、日常言語の表現が人生という主題を述べたものである」という。しかし第13章に、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」ともいっている。どっちが本当なのか小林氏に聞きたい。やはり自分で「紫文要領」を読まなければいけないのだろう。

  第25章 漢才と和学の論争 やまと魂

 賀茂真淵は「やまと魂」という言葉を万葉歌人らによって詠まれた「ますらおの、ををしく強き、高き直きこころ」という意味に解した、しかし「やまと魂」とか「やまと心」という言葉は上代に使われた形跡は無い。源氏物語に出てくるのが所見である。宣長はこの言葉の用例を文献に追って、やまと魂を漢才、漢学の知識に対する、これを働かす心ばえと理解し、「そもそもこの国に、上代より備わった人の道、皇国の道」という意味に押し上げた。師より随分拡大した解釈である。これより後に宣長は「直毘霊」という書にはじめて「古道」を取り上げた。ここから宣長の「皇大御国」信仰が始まる。これについては激しい儒学者との論争があるが省略する。儒学は現権力者のお抱え論者とすれば、「やまと魂」は今は無き皇国のまぼろしか。そういう意味では復古主義は反権力闘争に利用され、最終的には右翼天皇主義に堕落する反動理論であるといえる。これは私の説です

  第26章 宣長「直毘霊」から篤胤神道へ

 真淵の学問の方法は「文事」すなわち、古意、古語を得るための方法論であった。しかるに宣長が古道という国粋主義を唱えてからは、平田篤胤の神道とか霊の世界へ堕落するのに時間は要しなかった。篤胤には学問は無く宣長の言葉だけを金条にして神秘的なあやしげな神道をでっち上げた。彼は宗教家である。以下は私の独り言です。・・・・・・・・やまと魂の古意は「勇武を旨とする心」である。真淵もいう「ただ武威を示して、民の安まる皇威盛んな時代」の言葉である。「やまと魂」を言うのは明らかに支配者の武力支配の論理である。とすれば漢心は仏教・儒教で国を治める文治政策ではないか。なのに専制武力支配を求めるとはなんと言う時代錯誤であることか。上代の支配者の論議は私達素人には分からないが、大陸・朝鮮半島の王族の興亡から日本への民族移動の歴史と理解しても当たらずといえども遠からずと思う。すれば上代の日本人の心ををなぜ神聖視するのかさっぱり不明だ。よく言えば西部開拓パイオニアの精神ともいえる。

  第27章 平安時代 和歌の復興と源氏物語成立の意味

 奈良・平安時代の漢文・漢詩政策によって和歌は傍流に追いやられた。しかしその言語伝統はしっかり生活に根ざした流れに生きていた。和歌は歌合せの流行という好機を捉えてようやく復興の道を開いた。漢才が和歌を傍流に追いやった時、和歌はしっかり反省と批評精神を養っていたわけである。古今和歌集の勅撰が始まったとき紀貫之はその仮名序において「やまと歌は人の心を種としてよろずの言の葉となれりける」といったが、「あわれを知る」という内省の意識を身に付けていたのである。さらに貫之は「土佐日記」において「男もすなるという日記を女もしてみむ」とい画期的な仮名による散文の試みをした。日本語によるの仮名文学の誕生である。とうぜん源氏物語がその流れの上に仮名文学を完成した。ここに日本最古の小説が生まれ,世界に誇りうる文学の誕生となった。

  第28章 古事記序 稗田阿礼の誦習について宣長の意見

 さていよいよ古事記伝に入る。古事記序について論争に入るので序を引用しておく。「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年是れ二十八、人となり聡明にして、目に度たれば口に誦み、耳に払れれば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日嗣及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。この稗田阿礼が誦習したところを安万侶が撰録して和銅四年九月十八日に献上したのが古事記である。安万侶は全文を仮名書きにすべきしたかったのだが、まだひらがなはなかった。そこで、音と訓を交えたり、全く訓でもって表記しよう努めた。彼は表記法の基礎となるのは漢字の和訓であることを実行した。古事記内の和歌は、其の表記は一字一音の仮名である。この日本語表記法の発明はひとりの人間により一日でなったとは思えないから、安万侶だけの成果にするのは、明らかに間違っている。宣長は稗田阿礼が誦習したを大変大切なことと考えた。「ただに義理をのみ旨とせむには、まず人の口に誦習はし賜うは、無用ごとならずや」 すなわち古事記の修史の目的が内容ではなく古辞の表現に在ると宣長は断定したのである。それ以降にも柳田国男氏の稗田阿礼を語り部猿女君の流れに見る意見や、折口信夫氏の口承文藝の伝統を祝詞や宣命に原点を求める意見があり、二人は宣長派直系ともいえる。難しい問題であるが、時の権力者である天皇が昔の言葉の意味を保存するためという文学趣味で、勅命で古事記を編纂するとも思えない。やはり宣長の言う「内容より言葉だ」という見解は頂けない。ただ日本書紀が漢文で書かれたことと古事記が日本語(音訓読みの漢字)で表記されたことは、編纂目的を異にするはずである。律令制の国体が整備された後で中国を強く意識して、国史を書き直したのが日本書紀だという現代の意見もうなずける。     

  第29章 古事記序 稗田阿礼の誦習について津田左右吉の意見

 津田左右吉氏の「神代史の新しい研究」の「記紀研究」(大正2年)では、徹底した科学的批判が行られ津田史学はその後の歴史研究に多大の影響を与えた。津田氏は「宣長の古事記研究の成果は無視できないし、是については感嘆のほかはない」ともいっているが、ここで問題にするのは古事記序の稗田阿礼の誦習についてである。津田氏は日本書紀から引用し「帝紀及び上古諸事」とあるのを引いて、「辞」を「事」とする考えを動かさない。つまり古事記は言葉ではなく事跡を記録したものである。誦習とは暗誦ではなく、「誦む」は「訓む」つまり解読という意味である。宣長と同じ問いかけ「便利な漢字があるのになぜ、記録するためになぜ口うつしの伝誦が必要なのか」から出発して、宣長とは違う見解に達した。

  第30章 古事記撰録の目的、 「訓法の事」

 古事記撰録の理由については「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。」と述べられていることは第28章にも述べた。是を宣長は「そのかみ世のならひとて、万の事を漢文に書き伝ふとては、その度ごとに、漢文章に牽かれて、もとの語は漸に違いもてゆく故に、かくては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ裳のぞと、かしこく所思看し哀しみたまえるなり」という風に、言葉が漢字に毒されて失なわれてゆ事を天皇が哀しんで撰録を命じられたといっている。何処にそんなことが書いてあるのか。宣長は紙面にないことを言っている。また序の書き方も典型的な官僚用語で誤りを正すという書き方である。是もうそ臭い。官僚はいつももっともらしい能書きで下心丸見えの文章を書く。小林氏は「支配者大和朝廷が,己の日本統治を正当化使用がための構想に従って、書かれた物で、上代のわが民族の歴史ではないと言っても、何を言ったことにもならない。編纂が政策によったものにしても、歴史事実を無視しては進めない」という風に極めて物分りのよさそうな出だしで訳の分からないことをいっている。現代の意見も尤もだけれど宣長に間違いはないという立場を固守する。これは津田左右吉氏の論に対しても全面的肯定を示しながら、むにゃむにゃの訳の分からない言葉で宣長賛美の立場を崩さない。一度信じ込もうとしたら、形勢悪しといえど操は守る律儀さには感心した。宣長の訓法のいさぎよさは、有名である。例として倭建命の嘆きのセリフを見事な決断で読み下されるのである。ちょっと強引ではないですかと言いたいとこだが、その訓み下し文は分かりやすい。名人の技といえよう。是には感心した。

  第31章 古事記神代之巻

 古事記神代之巻の荒唐無稽な内容は近世の多くの史家を悩ました。儒学者特に朱子学者は合理主義者であり、古事記の非合理的解釈を拒否して、水戸光圀編纂「大日本史」や、林鵞峯編纂「本朝通鑑」にしても神代は敬遠して神武から始めている。ところがなぜか江戸幕府の儒者新井白石は将軍家宣の要請で「古史通」を著し、そこで神代の合理的解釈の一例を示したが、納得できるものではない。津田左右吉氏は記紀研究において「新井白石は、元来不合理な話を合理的に解釈しようとして牽強付会に陥っている。宣長は一字一句文字通り真実とみなしているが、人間として不可能でも神としては可能と言う説は人間に関しては一種の合理主義かも。しかしいまどき宣長を継承する人はいないが、追従するものはいる。」と言う立場である。

 

 

我が家の入り口 敷石の傍らに ニオイタチツボスミレたちがひょっこり顔を出している

 


    西暦1912年という100年前に

2012年04月25日 | 文学・絵画等芸術関連

石川啄木原作「林中の譚」より 訳:山本玲子 絵:鷲見春佳 「サルと人と森」

 

 

   西暦1912年という100年前に

 

 今年から100年を遡ると、西暦1912年(明治45年)ということになり、色々な面で一つのエポック・メイキングな時ではなかっただろうか。先日、短時間ではあったが、ジャクソン・ポロック展を見学することだ出来、彼の繊細かつ先見性に打たれた。その彼は同年に生まれ、現在生きていたら100歳になるはずである。同年生まれで、映画監督として未だに現役である新藤兼人はお元気であるらしく素晴らしい。そして我が尊敬する日本人彫塑家の佐藤忠良と舟越保武も同年の生まれであり、戦後の日本にどれだけの希望を与えただろうか。無論明治天皇崩御の年で、それに伴い203高地攻撃で有名な愚策を選んだ乃木稀典と静子夫人が自刃し殉死。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では散々な評価で尤もかと思う。本ブログで何度も紹介したエリザ・シドモア女史斡旋により、ワシントンのポトマック河畔に、尾崎行雄東京市長から贈られた櫻を植えられたのも、同年であった。あの不沈と言われたタイタニック号の沈没事故もこの年であった。無論同年大正へ元号が変わり、色んな出来事、そして逝く人、生まれるべくして生まれた人、様々であり、私にはそんなに遠い日のこととは思えない。

 この年、歌人で思想家と言ってもいい石川啄木が、26歳の若さで亡くなった年でもある。去年ボランティア活動の行き帰り、偶々石川啄木記念館による機会があった。宮沢賢治の記念館にはよく行くが、それまで啄木には縁が遠かったように思う。森鴎外記念館(旧館潮楼跡~文京区千駄木 団子坂途中)にあった啄木の借金申し込みなどで、それまでさほど関心がなかったか、悔やまれるが・・・・。啄木記念館で手にした一冊の絵本。私たちと同じ植林をしているNPO法人森びとプロジェクト委員会発行の「サルと人と森」を見た。本書は石川啄木が102年前に母校・盛岡中学に寄稿した「一握の砂」の一節・『林中の譚』がもとになっている。それを石川啄木記念館の学芸員・山本玲子さんにより訳され、プロジェクト会員でもある多摩美卒の鷲見春佳さんの美しい絵による、よく出来た本であった。私たちもお世話になっている横浜国大名誉教授の宮脇昭の序文と、ジャーナリストで同法人理事長である岸井茂格(きしいしげただ)の推薦文も嬉しかった。

 人類は現在岐路に立っている。取り分け日本人はその渦中にあるのではないか。そんなまるで今日を予見したような啄木の慧眼と予知能力に感服し驚愕するのである。そしてこれから私たちが進むべき道を、本書ははっきりと指し示しているではないか。100年経った今に、啄木が新鮮に語りかけ、今からでも遅くはないのではないかとも思ったりする。

    さらにサルは言いました。

    人間にとって怠慢の歴史だけが日々に進歩している。

    ほら、人間が自慢する文明の機械というものは、

    結局、人間をますます怠け者にする悪魔の手ではないか。

                          (サルと人と森)の一節より

 

  明日から東北・北海道櫻行脚。絵本の中身を噛み締めながら、熱く櫻を観て来よう。先ず三春の瀧櫻から出発し、会津五櫻へ。そして米沢・花回廊や仙台や塩竃櫻の確認へ。無論弘前や静内へも。では!

 

菫が最盛期を終えたら カキドオシが菫にかわっていた

 


   舟越保武・桂親子の「祈り」

2011年12月31日 | 文学・絵画等芸術関連

舟越保武作 「聖ベロニカ」

 

 

   舟越保武・桂親子の「祈り」

 

 

 北茨城から、岩手最北部・久慈まで、凡そ450キロ(直線距離で)に渡り私は被災地を歩いた。毎週土日には塾生を何班かに分けてボランティアをさせて戴いた。塾生に、私は普段主に江戸時代における様々な家訓(かくん・かきん)を講義し、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」など、賢治の一連の詩や本を読みとく講義をしていた。何度も出掛けた塾生はこれらの出動で、私の軟弱な講座を膨らませ、こうしてどんなに大きく成長したことだろう。数多くのドラマを追体験し、あなたの痛みは私の痛みと深く認識させられ、おまけに賢治の詩魂まで、少し理解出来たようで、寒さに凍え、中には孤独死さえされた被災者の方々寄り添うことの大事さを幾らかでも理解したように思う。方々の被災地遍路した最終章に、岩手県立美術館が燦然と輝いていた。そこで私は舟越保武と出逢った。舟越保武(1912/12/7~2002/2/5)は岩手県出身で、今年逝ったばかりの佐藤忠良とともに、戦後の日本彫刻界をリードしてきた二大巨星である。高村光太郎の「ロダンの言葉」を読み、彫刻を志し、東京芸大に進む。だが赤貧洗うが如くの生活が待っていた。長男誕生するも、死んでしまった我が子の鎮魂をするために、一家あげて、保武の実父が信じていたカトリック教の信者となり、それから著しく精神性の高く深い造形者となっていったのである。深い信仰とともに、どの造形にも優しさと慈悲とが溢れ、思わず被災者のことを造形に祈ることが出来た。何だろう、この静寂は。静かで深い精神性を湛え、こちらに迫って来る造形にただただ圧倒された。岩手県立美術館には舟越の創った数多くの彫塑が常設されている。

 

舟越保武作 「聖クララ」

 

 無論キリスト教への信仰から根ざした作品が多いのだが、それがどことなく日本的であり、和の静寂も兼ね備えているように思われた。

 

Lola像 横顔

 

唇が半開きで永遠の微笑をたたえた「聖ベロニカ」の横顔

 

 高村光太郎賞を受賞したり、国外でも評判をとると、舟越保武は芸大に帰り、漸く安定した収入を得、制作に没頭したようである。長崎の26殉教者像など、高い評価を受けた。

長崎26殉教者像 (高村光太郎賞 受賞作)

「原の城の武士」 全体像 (中原悌二郎賞  受賞作)

「原の城の武士」 横顔

 

 原の城とはいうまでもなく、天草四郎を総大将にした大規模一揆・「島原の乱」のことである。江戸時代、江戸幕府がした唯一の大規模戦争と言ってもよい。カトリック信者からしたら、バテレン禁止令に対抗した殉教の闘いであっただろう。原の城に立て籠もった兵も、幕府軍の大勢も甚大な被害を出し、死者も両軍とも膨大な出来事であった。舟越保武は確信を持って、一兵士像を創りだし多くの殉教者を鎮魂した造形であった。本作品は、この像を創作した翌年ローマ教会パウロ六世から大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章を受けている。とにかく深い精神性は信者でなくとも、感動し余りある。

 

「T嬢」

 

 又舟越保武は普通の女性像も数多く創った。中には田沢湖にたたずむ「たつこ像」があることでも知られるが、岩手県藤沢町大籠にある隠れキリスタンの村にも、大籠キスリタン殉教公園があり、保武の彫塑が多く見られる。盛岡白百合学園の構内にも保武の創った美しいリリーフがあり、確か「美しい心でのみ美しいものが見える」と書いてあったかも。岩手県内にはそうして多数の舟越保武の作品が残ったのである。

 ところで幸せな芸術家だけで終わったのではなかった。75歳の時、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になってしまった。だがそれで終わる保武ではなく、左手一本で頻りにデッサンを練習し、最晩年も必死の創作活動があったことも知るべきである。無論それまでの端整な美しい造形ではないが、荒々しいタッチの素晴らしい生命力のある彫塑を残していた。

 

 

「ゴルゴダ」 最晩年の作品

 

 孤高な芸術家の魂は肉体さえも超越するらしい。これも岩手県立美術館にある。タッチが何と言っても荒々しいが、左手一本で為しえた造形であった。

 

「ダミアン神父」

 

 「ダミアン神父」像は保武の生涯手放すことがなかった作品であり、如何に信仰とともに創作があったということが分かろうというものである。

 

舟越保武著 「石と随想」 表紙装丁

 

 舟越保武は名随筆家としても知られている。’83年に日本エッセイスト賞を受賞した『巨岩と花びら』は私の愛読書の一つである。「山峡の岩の下に不貞寝して、平手峡の巨大な岩のそばに寝ころんで休んだときの小さな一つの情景を、私はいまでも鮮明に思い出す。おそ咲きの山ざくらの花びらが一枚飛んできて、私の頭上の黒い岩肌にとまったが、すぐ次の風に吹かれて、私の視野から消えていった。一枚の小さな花びらが、私の目の中を走り去った。・・・私の目の上にある岩は、何千年も何万年も前からここにあって、流れを見下ろしている。それなのに私は、たた一度だけこの岩に会って、手を触れて、少し語りかけて、永久に去ってしまうのか。そして私が死んだ後も、君は平然とずうずうしく、まだ何千年もここにでんとすわりつづけるのかと考えて、この岩に嫉妬を覚えた。いま飛んでいった花びらは、せいぜい五日間ぐらいしか生きていなかったのに、君はまったく無表情で、何万年もそこにいる。・・・君はいやなやつだと、私はひとりごとを言う。私の声は瀬の音にかき消されて、どうせ聞こえない。・・・あくせくと緊張し、心配し、苦労している自分の日常が、何の意味もないと思われる。・・・安らぎの時も所も持つことのできない自分が、山峡の岩の下に不貞寝して、平手で岩肌をたたくこうしたときが、せめてもの安らぎであろうか。」(「巨岩と花びら」より)

 「父は熱心なカトリック信者であった。わたくしは子どものころから毎日曜日、かならず教会のミサに連れてゆかれた。それが嫌でならなかった。何ということなしに、子ども心に反抗していたのであろうか。・・・ついに父の生前には洗礼を受けなかった。わたくしの妙にひねくれた意地っ張りがそうさせたのか、ときどき駄々をこねて父に反抗した。
 わたくしは18歳の春に、右脛骨の骨髄炎にかかった。・・・わたくしが発病したとき、父もからだ が悪く床についていたのだが、足の病気の腫れを治すにはハコベの葉の汁が卓効があると聞いて、父は夕方人力車にのって雪の降る中をでかけた。暗くなってから、ほんの少しばかりのハコベを持って帰ってきた。雪が深くて少ししか採れなかった、と淋しそうなようすであった。手術後の、かなり恢復したころ、医師の指示で、父は毎日、わたくしの醜く変形した脛の傷をクレゾール液で洗った。メスの痕の無惨な傷口を、いたいたしそうに洗ってくれた。18歳の若いからだの、美しかるべきわが子の足の、ぞっとするほど醜怪に変形したその傷口を洗うときの、父の心はどんなに苦しかったことか。  
 ある日、父はわたくしの傷を洗うとき、小さな硝子の瓶に入った透明な水を数滴、傷にかけた。「これは教会からいただいてきた尊い聖水だ。これで傷は早く治るのだ」といった。
 いつもよりいっそう緊張した父の態度に、わたくしはたまらないほどの父の愛を直感したように思うのだが、突然「やめろ、傷口が悪くなる」ときちがいのようにわめいた。傷口の中、1センチほどのところに骨があるのだ。バイキンが入る、と言って怒鳴り散らした。自分はなぜこのときこんなに激昂したのであろうか。父はすぐクレゾール液でわたくしの傷口を洗い直して、聖水を流し去ってしまった。
 わたくしは今でも、そのときの父の心が見える。信仰と、わが子への肉親の愛、この板ばさみになった父の苦痛が、わたくしの足にじかに伝わってくるようであった。
 父はどんなに苦しんだであろうか。石のように堅く守りつづけてきた永年の信仰が、自分の子をいたわる気持ちからたとえ瞬時でもぐらついてしまったことについて、取り返しのつかないこの一事が父の心をずたずたにしてしまったのではなかったか。父のその心がつたわってか、わたくしも胸を掻きむしるような思いがあった。
 わたくしはひと言も父に詫びなかった。父は黙って自分の部屋に引っ込んだ
。父はその夜、眠れなかったではないか。眠らずに自分の不信を責めつづけたのではなかったろうか。
 父はその年の暮れ近く癌で死んだ。父の死顔の、冷たい額の髭をを剃りながら、わたくしは聖水を足の傷にかけてくれたときの父を想っていた。そのときも涙が流れてしょうがなかった。
 四年がかりの制作(註:長崎26殉教者像の制作)の間に、なんべんも同じ夢を見た。黒いガウンを着た父が、声もなく涙を流しながら、わたくしの頭を撫でているのだ。目が覚めると、わたくしはぐっしょりと汗をかいていた。制作でひどく疲れているときに、よくこの夢を見た。
 わたくしは、夜ふけのアトリエの真ん中に立って、フランシスコ・キチの像を見上げながら、雲
の上で父とむかって立ているような気持ちであった。」・・・(「断腸記」より)

 そして89歳、舟越保武はついに帰天(カトリックでは亡くなることをいう)してしまうのだが、その日2月5日というのは、1597年(慶長元年12月19日) のことで、豊臣秀吉の命により、長崎でカトリック信徒二十六名が処刑された、その同じ日であったとは。(日本二十六聖人

 皆さんは舟越保武の次男で、不思議な塑像を創作する舟越桂氏をとっくにご存知だろう。さて高村光太郎と宮沢賢治の関係はいつぞや申し上げたが、賢治の死後、賢治の本の出版に奔走したのが光太郎であった。その光太郎の翻訳書を慕って彫刻家になった桂氏の父・保武氏のことを考える時、又賢治とのことも想像してみたくなる。何故かと言えば、舟越桂が創造する造形の不思議さを感じざるを得ないからである。あの目は「銀河鉄道の夜」に出てくる「とりとり」のような第四次元世界以上の人のように思う。保武が遺児・桂氏の今後の活躍を見つめて行きたい。まるで銀河鉄道に、ジョヴァンニやカムパネルラと一緒に乗車しているような、壮大な人間ドラマを観ているかのように!

 主に父・保武のことを中心にし、保武・桂親子の鎮魂の「祈り」をお借りし、この記事を書いた。東日本大震災で被災された方々は当然として、本文をあらゆる日本人に鎮魂のメッセージとし、新たなる年を魂振の御心でお迎えして戴きたい祈りである。本記事を持って本年の最終としたい。明日元日我が先祖の墓参りの後、京都へ旅だつ。皆さまにおかれましては、より善き御年をお迎え下さるよう、心から祈念しつつ筆を置きます。(硯水亭歳時記)

舟越桂の彫塑が装丁に使われた天童荒太の大ベストセラー



  手づくり絵本展

2011年12月29日 | 文学・絵画等芸術関連

今回の手づくり絵本展

 

 

手づくり絵本展

 

 

 

亡き母が尊敬していたK先生のご指導のもと、今回も創作絵本を手づくりし、

展示会に参加させて戴きました。被災地へ送った本の原画も展示致しました。

被災地の子供たちと、いつも共にいたい一心で、創作し創画し作ったものです。

 

今回私は無謀にも『赤毛のアン』に挑戦。

アン11歳でプリンスエドワード島に来てそれから一年半後、

12歳のアンがマシュウからパフスリーブのドレスを贈られ、

その夜の暗唱会で、村民から大絶賛を受けた後、マリラから「男の子12人より、

アン一人のほうが私たちにとって、どんなに楽しく嬉しいか」と言われるまでの

ホンの少々の物語を絵本にしました。

アンの小さな胸に孤独さが遠のくまでのお話です。

私は恥かしながら女の子を描いたのは初めて。

当家の杏も大風も目を丸くしていました。

 

今回出品致しました「アンのクリスマス」の表紙

 

 

一時泣くことすら出来なかった被災地の殆どの子供たちは、

大雪コンコンになった現在、元気いっぱいです。

フイに下向きになり、しょげかえる大人たちに元気をあげています。

世界の内外に素晴らしい絵本があります。

私は会場で動物の鳴き声を演じました。

オオカミや、ナヌーク(白熊)や、カリブーや、アザラシや、鯨の泣き声です。

一所懸命にやったはずですが、当家の子供たち始め、

本当だと誰にも信用してくれません。しかたなく最後に、

ひょうきんな声で「オヨヨ」と言ったら大笑いされました。

当家で日々やっている手遊びもしましたが、

小さい子たちは長い時間には耐えられません。

でもキラキラした子供たちの目は明日に向かって輝いていました。

私はどんなに嬉しかったことでしょう。

 

私が描いた赤毛のアン 不思議と妻の顔に似てしまいました

A3判 全24ページ 多くの方々に見て戴きました

 

先生方が教えていらっしゃる生徒さんたち120名の絵本もあってか、

全部で800冊、大きな絵本展になりました。このクリスマス時期だったんです。

私のは絵も文も下手です。でも少ない時間の中で一所懸命に創作致しました。

世界中の民俗や、櫻行脚をしているためか、私は話題にはコト欠きません。

更に、今回の震災で出逢った多くの感動、数限りないものです。

これからも精魂こめて被災地へ贈る絵本づくりを頑張りたいと思っています。

子供たちのために、そして純粋に自分自身をみつめるために。

 

いつか星野道夫さんの写真文集「ナヌークの贈り物」のような作品を

描きたいのですが、多分星野さんの文章力の資質は、

オイソレと真似の出来るようなものではないでしょう。

 

(会員18名 そのうち3名がプロ 私は会員外で男性ただ一人参加 母のお蔭)

 

 会場の雰囲気 コーナーには紙芝居や読み聞かせも

 


   僕の、『赤毛のアン』

2011年11月09日 | 文学・絵画等芸術関連

 

Anne of Green_Gables

 

 

僕の、『赤毛のアン』

 

 

  現在、地中海沿岸部を中心に巨大な低気圧があり、イタリア西部から、フランス南部、或いはスペイン東部に掛けて、まるで台風がやって来たようになっています。各地で震災が懸念される中、ユーロ危機に加え、こうした気象現象は大変な脅威になっている筈です。地中海の風は現在は聊か収まっていて、どこかでホッとしていますが、でもまだ油断なりませぬ。タイの洪水が始まる一週間前からCNNでは連日低気圧の進路予報や警告を鳴らし続けていたのですが、まさかまさかの連続で、大変なことになっています。心から先ずはお見舞い申し上げます。でも3:11のように、未曾有の天災だと言うだけではどうなんでしょうか。

 日本人に古くから伝わる四季の表現、春のことを「山笑う」と言い、夏を「山滴る」と言い、秋を「山装う」と言い、冬を「山眠る」としてきました。四季がはっきりしているのが日本の原風景なのでしょう。でも近頃は春から冬が来るような、でも僕たちは、そんな理不尽な季節変動に直面しています。季節も漠然と綯い交ぜになって移り変わって行くようでなりません。人心もそうなのでしょうか。新聞は12紙取っており、テレビも比較的よく観るほうで、決して世間に疎いほうではありませんが、バラバラ殺人事件とか、子供の虐待とか、挙句の果て子殺しだとか、ひき逃げの報道とか、よく読むと心を痛めることが数多く、三面記事はなるべく読まないことにしています。

 何時ぞや正月に行った日暮里駅は、日暮里~舎人ライナーが開通してから驚異的に発展し、駅構内は斬新なデザインに満ち新しく生まれ変わりました。江戸情緒を色濃く残す色街の向島五丁目など、東京スカイツリーのせいか、東武浅草線近辺の風景がガラリと一変しました。昔からの風景は次第に失せつつあり、荷風散人が歩いた散歩道は滅び行く運命にあります。僕が住んでいる地域は何やら人々の羨望の地域になっているらしいのですが、ホンの少し前までは長閑な風景でした。江戸末期に、四谷の上屋敷から移り住んだ先祖が来た時の広尾は一面薬草園だけだったそうです。著しく変化するものと、少しばかりですが、変化しない部分とがあるようです。有栖川宮記念公園の佇まいもそうで、戦後造られた、入り組んだ狭い道もそうかも知れません。外苑西通りから幾らか中に入っているせいか、閑静な住宅街となっているだけです。

 明治7年(1874)は高浜虚子やサマーセット・モームが生まれた年、ウィンストン・チャーチル宰相と全く同じ生年月日に生まれたのが、「赤毛のアン」の作者 L・M・モンゴメリでした。主人公のアンは自分の名前に「e」を付けるようにと、小説には時々執拗に出てきます。モンゴメリも、ルーシー・モード・モンゴメリと、フル・ネームで呼んで欲しくなかったらしく、必ずL・M・モンゴメリと呼ばれることに拘ったようですが、孤独なアンとダブるぐらいに、モンゴメリの生い立ちも孤独性に満ちていました。幼児の頃からとても利発な子で、特に記憶力が凄かったようです。若かった頃少しずつ稿料が入るようになると、貯めたお金で、ウィリアム・シェイクスピア全集を購入し、その殆どを記憶したと言うのですから驚きです。そしてアンの物語にしばしば出て来るキー・ワードはImagination(想像、想像力)と言う言葉です。男の子を迎えに来たはずのマシューが想像力豊かでお喋りな女の子にスッカリ魅了され、グリーン・ゲイブルズに連れて帰ってしまう発端から、アンのImaginationが爆発し留まることはなかったように、孤独な少女の心を豊かに満たしてくれるものがそれでした。ところが原典を読むと、それがなかなか厄介なもので、僕なりに翻訳するのに随分と苦労致しました。だってシェイクスピアやテニスンや、多くの詩人や偉大な文学者の言葉で満ち溢れているのですから。そしてImaginationはアン自身の心だけではなく、周囲の人々を温かく巻き込み、希望に満ちた夢の世界に誘うのですもの。アンのImaginationは、この小説の大きなキー・ワードであり、読書上での最も重要なフレーズになっているのです。

 

様々なことが腑に落ちた松本侑子著

『「赤毛のアン」に隠されたシェイクスピア』

 

 孤独なアン、僅か三ヶ月で両親を失うアンにとって、生き延びるためには豊かなImaginationが必要不可分でした。小さな胸が押し潰されるようにして、PEI(プリンスエドワード島)にやって来た11歳のアンは、薔薇のような皮膚と、目は美しい星のようなスミレ色だと想像出来ても、ニンジンのような赤毛と七つのソバカスと醜い痩せっぽちな容姿が嫌で嫌で堪りませんだったのです。どうしても超えられない劣等感の塊。後に騙されて毛染め薬を買い、赤毛が緑色をする事件を起こしてしまいますが、マリラの友人のリンド夫人と悶着起こしたり、大事件となりました。アヴォンリーの、最初行った学校で出逢った運命の人ギルバート・ブライスに赤毛のことを「ニンジン!」とからかわれ、石盤事件を起こし、ずっと恨み続けたのですが、マシューが亡くなった後、シャーロットタウンのクイーン学院を首席で卒業します(ギルは金メダルを獲得)。眼が弱くなって来たマリラのために、アンはレドモンド大学への進学を諦め、カーモディの教師になることを決心しました。一方家庭の事情で、レドモンド大学への進学を諦めたギルバートは、学資を得るために教師の道を選択します。そんな時、アンの近くの、アヴォンリーの学校教師を、ギルはアンに譲りました。そこからアンとギルは仲直りするのですが、恋仲になるまではなかなかそうは簡単には行きません。たった16歳の夏のことでしたから。やがて心友ダイアナがフレッド・ライトと婚約します。その前後山彦荘の主ミス・ラベンダー・ルイスと偶然に知り合い、そこでポール・アービングをひき合わせました。運よく二人は大の仲良しになり、やがて山彦荘で結婚式を挙げるのですが、ミス・ラベンダーの感性を気に入ったアンは、彼女の結婚式の後、ギルから告白されます。ラベンダーさんのように遠回りしなければいいのにと言うギルの言葉でしたが、18歳のアンには無理でした。6月頃、マリラはアンにレドモンド大学への進学を進めます。そこでギルと、プリシラ・グラントとともに、三人でキングスポートのレドモンド大学へ進学することになるのです。11歳からのアンを、Anne of Green Gables(赤毛のアン)と、新任教師となった16歳から18歳の、レドモンド大学の入学が決まるまでの期間を、Anne of Avonlea(アンの青春)で描き、パティの家を見つけ、大いなる青春の門を開くのでした。シリーズ三作目のAnne of the Island(アンの愛情)は18歳から22歳まで、ギルとの結婚を決めるまでが描かれています。Anne of Windy Poplars(アンの幸福)ではレドモンド大学卒業後、サマーサイド中学校の校長に赴任し、柳風荘で過ごした独身最後の三年間が描かれています。25歳で、ギルと結婚。Anne's House of Dreams(アンの夢の家)では結婚後の25歳から、27歳までの新婚生活が生き生きと描かれています。フォア・ウィンズでのエピソードの数々でした。Anne of Inglesids(炉辺荘のアン)では主婦になってから40歳までのことが中心で、夢の家より大きな炉辺荘に移り、Anneと名付けられた物語の最後が描かれています。更に、Rainbow of Valley(虹の谷のアン)はギルとの間に出来た六人の子供たちに起きる騒動が描かれ、41歳になったアンと一家の、約一年間が描かれています。そして最後の章はRilla of Ingleside(アンの娘リラ)が描かれ、第一次世界大戦によって、長男ウォルターに戦死され、哀しみにくれるアンの49歳から、54歳までが描かれ、次第に末娘マリラ(愛称リラ)の目線で描かれるようになって行きます。

 

東側で日当たりのいい、グリーン・ゲイブルズのアンの部屋

女物をモジモジしながらマシューがやっと購入したドレス

アンの部屋にはパフスリーブの、そのドレスが掛けられています

 

 

 シリーズ合計八作が、「アン・ブックス」と呼ばれ、アンの長く、然し短い人生模様が生き生きと描かれていますが、このうち「炉辺荘のアン」と「アンの幸福」は後から書かれたものでした。でもこれは作者L・M・モンゴメリ公認のシリーズですから、この八部をそう呼んで間違いはないでしょう。アンの翻訳者で、特筆される方は村岡花子さんに違いありませんが、多くの方々が今も、アンへの思いを筆に託し労苦を惜しんでおりません。高柳佐知子先生も、大きな影響を受け、今も活発に活動していらっしゃいます。最近は松本侑子さんの翻訳本が面白いです。深くその中身が吟味され、僕など男性には腑に落ちる内容が多いからです。村岡花子さん云々だからではなく、松本侑子さんの翻訳も見逃せませんのです。村岡花子さんは作者モンゴメリとよく似た素敵なエピソードをたくさん抱えていらっしゃいます。麻布の鳥居坂にある東洋英和女学校の話はアンそのものような錯覚に襲われ、本当に素敵です。同級に片山廣子さん(偉大なる作品・「燈火節」の作者)がいらっしゃったのも、何やら不思議です。片山さんを慕って引越しし、そこの隣接した場所に、将来ご主人になられる福音印刷(後の福音館出版社)があったのも不思議な運命の綾と言うべきでしょう。村岡さんの、アン・シリーズの完訳は実に素晴らしいことで、戦後の人々にとって、どんなに勇気づけられたことでしょう。これは筆者間の比較の問題ではありません。より一層モンゴメリを知りたい我欲だけです。太宰治で文壇デビューした松本侑子さんが「赤毛のアン」をどう解釈し読むのか、興味津々なだけです。

 

 

本作だけではなく 心中相手の「山崎富榮」のことも描きました 

何故アンと関係があるのか その辺がとっても興味深く感じています

 

 松本女史の中で、アン・シリーズと太宰治はどう関連性があるのか、僕は深く興味を抱いています。アン・ブックスで、松本女史は色々な作家と挙げ、モンゴメリが受けたであろう影響を考察していますが、そう言えばアメリカの太宰治と言われるF・スコット・フィッツジェラルドはモンゴメリとほぼ同世代でした。彼の「グレート・ギャッツビー」は確か村上春樹氏が翻訳していたかも。光と影の部分を持つモンゴメリと、「赤毛のアン」は、彼女自身の実体験として、アン同様ある面で過酷な人生を歩んだお話です。神父だった夫は、晩年鬱病で苦しみ、モンゴメリも又苦しみました。モンゴメリは三人の男の子を出産しましたが、二番目の男の子は臍の緒が首に巻き付いたまま出てきたので、何と哀れ死産でした。その子の名前をつけてあげました。そんな耐え難い哀しみのうち、超繁忙期。妻として、女として、母親として、そして創作者として、編集者などの仕事人として、「赤毛のアン」シリーズは、モンンゴメリの壮絶な忙しい時季に纏めて仕上げられたもので、驚嘆に値します。モンゴメリは先祖探ししたアイルランドへ新婚旅行に行った以外は、トロント付近やPEIしか知りません。要するにカナダの作家なのです。「赤毛のアン」の初版は、モンゴメリが五回目挑戦し達成出来た金字塔です。他には「エミリー・シリーズ」など多数ありますが、貧乏神父を支え続けなければならず、何処まで本当に自ら歓喜に満ちて創作したものであったでしょう。夫と死別した後、最晩年のモンゴメリは再びPEIへ帰って来て、旅路の果ての家に住むことになるのですが、その後そこで淋しく亡くなりました。或いはと、自殺説があるぐらいです。そしてグリーン・ゲイブルズを眼下に見た小高い丘の共同墓地で、今も静かに眠っているのです。

 先月NHK bsで「赤毛のアン」の映画が放映されました。ミーガン・フォローズ主演の素晴らしい映画でしたが、大変な疑問も持ちました。「赤毛のアン 前・後篇」、「アンの青春 前・後篇」、「「アンの結婚 前・後篇」、及び「アン 新たなる始まり」の全七作でした。でも「赤毛のアン」や「アンの青春」は原作に近いのでいいのですが、「アンの結婚」や「アン 新たなる始まり」の三篇はどうにも合点が行かなかったのです。始めの二作と映画監督が違うし、まるきり創作されたもので、全く魅力がありませんでした。赤毛など生まれ付き持たされたことや、戦争とか、男性でも意のままにならないことが多々ありますよネ。そうした危機を乗り超えて行く逞しさは心底から敬愛されるもので、男性にとっても「赤毛のアン」は重大な主題を持っているわけです。ギルは戦争に行ったでしょうか。ギルを追い掛け、アンはヨーロッパに渡ったでしょうか。創作なら創作として受け止めますが、映画「ひまわり」じゃあるまいし、呆れてモノが言えません。あんなに素敵なアンの生涯、原作をいじる必要があるでしょうか。更にこの作品を、僕は原書で読みましたけれど、児童書などでは決してありません。ましてアニメで済む物語でもありません。運命と言う抑圧を受けた人間の解放の物語です。そして松本侑子さんの翻訳はまだ三巻しか出ておりませんから、リラまで、どう翻訳なさるのか、ワクワクしながら新たなる出版が待たれるところです。是非完訳して戴きたいと心から念願します。

 

 

松本侑子さん PEIへ一般の方の旅行企画もしていらしゃいます

 

 遂先日、ニューヨーク一帯が数十年ぶりに豪雪に見舞われました。それより北に位置するプリンス・エドワード島は、恐らく甚大な被害があったのではないかと心配でなりません。小さな島ですが、カナダ国家発祥の地でもあります。四季折々の風情豊かなままの、静かな島であってくれたらいいのに。 そして何でもないような湖水に情感たっぷりの名前や、真っ赤な土の小道に、可愛い名前をつけたアン。何もかも優しかったマシューは使途マタイ、厳格でも心根の優しいマリラは言うまでもなく聖母マリアではないでしょうか。「ぅうんアン、男の子12人より、あなた一人のほうがずっといいよ」と、この兄妹からアンに贈られた真実の言葉でした。聖書関係も翻訳に手間取りましたが、僕の下手糞な手作り絵本に、「アンのクリスマス」と言う作品があります。アンのクリスマス関連ハプニングを集め、それを絵と文章に新しく仕立てたものです。ギルが舞踏会で拾ったアンの薔薇の花を胸ポケットに入れるしぐさの場面も重要で、何気なくサラリと入れてあります。今後も、僕はアンと長くお付き合いをして行くことになるでしょう。読んでいると、生きる勇気と仕事へのチャレンジ精神を存分に味わい頂戴出来るのですから。

 


  高村光太郎 幼少期とその周辺

2011年10月19日 | 文学・絵画等芸術関連

昭和30年 詩「生命の大河」 初稿  光太郎の人生最期の作品

 

 

高村光太郎 幼少期とその周辺

 

 

 高村光太郎(明治16<1883>年3月13日~昭和31<1956>年4月2日 忌日を連翹忌と言う)と言えば、あの愛の一大叙事詩『智恵子抄』や『智恵子抄 その後』や『典型』や『道程』で、類稀な男っぽい詩人として有名である。私も、これら詩の巨人が大好きだ。無論多くの優れた彫刻も残したが、高村光太郎全集(全20巻 別冊1巻)と言う膨大な量の著作集を、私は常に手許に置いている。高村光雲(嘉永5<1852>年2月18日=3月8日の説あり~昭和9<1934>年10月10日)の長男で、どこかのボンボンであるかのように思われがちだが、違う。明治・大正・昭和と言う激動の時期を真摯に生きた一庶民に過ぎない。その必死さが桁外れて違うだけなのである。そして一庶民と言っても明治の男どもは、それぞれが高い志向を持ち、直向きに前へと突き進む勇敢なる御仁たちであり、現代に生きる私たちの精神的底辺に脈々と流れている地下水脈となっているように思われてならない。そこで今日は高村光太郎の幼少期と、その凡その系譜をご紹介しながら、私たちの現在の立ち位置を検証してみたいのである。

 高村光太郎は大勢の家族と浅草清島町の裏長屋で生まれ育った。清島町をまっつぐ行くと、河童橋の通りに出た。変な蝮屋などがあった小さな路地を入った九尺二間の、うすっ暗い借家が生家であった。父・光雲は十二歳で、そこから佛師・高村東雲のところに修行に出た。父には兄がいて、先妻の子で相当上手い大工であったようだ。光雲は中島性で、本来は金華山のお寺に貰われて行く寸前であった。髪結処で、それを言うと、床屋の親父は「そんな処へ行くなんてことぁは口惜しいぜぇ。丁度丁稚を頼まれているから」って言うので、金華山に行かずに済み、高村東雲へと、際どい時に行けたのである。東雲の処では十二の年から十何年勤め、その後御禮奉公を二三年やって、二十幾つかで年季が開け、それから独立したようだ。明治の初めには徴兵制ってのがあったが、でも跡取りの長男は行かなくてもよかった。そこで師匠がその当時の風習に倣って、戸籍上名義だけであったが、師匠の妹・高村エツの養嗣子となり、以後高村姓を継ぎ、幸吉と名乗っていた。そして西町三番地に居を構え、清島町から隠居した祖父たちを呼び寄せ、ここでも大家族として九尺二間の裏長屋に住むことに。家の前を上野廣小路の方から流れて来る細い溝が鉤の手となって三味線堀に流れていたことを、幼い光太郎はよく記憶している。少し行った処に佐竹原(さたけっぱら)があって、裏長屋の裏手は紺屋の干し場になっていた。

 ここで少々面白い話を書いておこう。祖父は手が器用であった。紙を細かく折り畳んで作った細工物で、「文福茶釜」だとか、「河豚の水鉄砲」とかと名付け、浅草の大道で売っていた。そこをアチラの方に目をつけられ、堅気じゃ道っ端で、モノ売りしちゃぁいけませんぜと難癖をつけられ、それじゃってことで、祖父は香具師の仲間・花又組に入った。幸いなことに祖父の実弟が甲府で、ヤクザ集団の親分として仕切り、武芸が出来、滅法腕っぷしが強かったと見え、祖父の出世への道を手伝い、祖父は直ぐに頭角を現して、浅草香具師の親分にまでなっていた。体格は小さかったが、声が馬鹿にでかく、怒鳴ると皆平伏したようだ。中島謙吉と言う祖父の名前だが、後に兼松と名を改め、仲間うちから「小兼(ちいかね)さん」と愛称で呼ばれて、肩で風を切って歩いていたと言う。江戸中の顔役が集まり、何か重大な裁きをつけなければならない時は甲府から実弟が乗り込んで来て、鮮やかに裁ききったらしい。そんな関係から光太郎は喧嘩の仕方を祖父から学び、浅草中の興行場はどこでも無料であったと言うから一層痛快な気分となる。光太郎少年にとって、祖父の背中はさぞや大きく見えたことだろう。面白いエピソードが数々ある。祖父は丁髷を切らず、夏など褌一つで何処へでも出掛けた。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんから、「ご隠居さん!もう裸では歩けなくなったんですよ」と喧しく言われ、てやんでぇとばかりに、祖父は透き通る蚊帳で着物を拵え、褌が殆ど見える風体をして、堂々と交番の前を歩いたようだ。更に可笑しいのは祖父謙吉の妻、つまり光太郎の祖母だが、祖父にとっては二度目の女房で、埼玉県の菅原と言う処の、神官の娘で、字も立派だったし、歌も詠み、方位などに滅法詳しく、大変な教養人であったと思える。香具師に神官とは、これ如何に!それがね、可笑しいことに、この神官のお嬢さんを誘拐して来て、謙吉の女房にしたようである。ただ祖母は常に謙吉に足を洗わせようとし、幸吉(後の光雲)の年季が明けた頃には素人になっていて隠居していた。但しこの御仁、ただの楽隠居であろうはずがない。長屋の格子などから、手先が器用なものだから、影絵を作って、富本節に合わせ、近所衆を大いに楽しませていた。そうした祖父の手先の器用さや、祖母の凛とした教養と達者な字書きなど、その両方とも後の光太郎に隔世遺伝したものではなかろうか。そう思えるぐらい豊富な逸話が残されている。何でも鳥取藩士の出で、文化の頃に江戸に出て町人となったらしいが、光太郎自身そんなことはどうせ出鱈目だろうからと言って全く気にしない。祖父はヤクザだけではなく、光太郎の幼少時に記憶があるが、祖父はどんなことに辛いことがあっても、既に身体が不自由になっていた曽祖父を、必ずオンブして毎日銭湯に通っていた優しさもあった。

 処で、西町で、この祖父母たちや光太郎たちと同居して、初めてのドンパチが勃発した。以前の香具師仲間が佐竹原で、奈良の大佛さまの模品を作って見世物にしたことがあった。その模品の出来具合を観た幸吉は黙っていられない。少なくとも佛師見習い明けの立派な彫り物師だったからだ。心(しん)は丸太にしなければならないとか、ここにこういう風に板を張り付けるべきだとか、つい口にしてしまったのである。そこで祖父と大喧嘩になるはずだったのが、大佛の中が伽藍堂になっていたのを、あれやこれやと幸吉は拵え、立派なものに仕立てあげていったと言うから運命は面白い。祖父は呆気に取られてしまったのである。こうして現場監督になった切っ掛けが、後に大きな地歩になるのだから更に面白いものである。ただこの大佛はよほど大きかったらしく、品川のお台場の沖を通る船まで見え、当時としてはモノ凄く大きな作り物だったのだろう。神田明神さまの祭礼の時、どでかい台風が来て、粗末な多くの長屋は全壊したらしいのだが、この佛像だけ半壊程度で済んだようで、幸吉(後の光雲)の腕も、祖父にとっては一種の自慢の種だったことだろう。こうした一件は幸田露伴先生の小説の材料にされているようである。尚、露伴先生の代表作「五重塔」近辺の、谷中の墓地は光太郎が最も慣れ親しんだ遊び場であった。

 歳末になると、浅草 鷲神社のお酉さまに、縁起物の熊手をたくさん作っちゃ売りに行く。小さな光太郎は父親が引くリヤカーの後押しをして手伝った。光太郎(本名はみつたろうと呼ばせた)は間違いなく長男だが、上に長女のさくがいて、次女にうめ、そして光太郎で、下に妹のしづがいた。その次が道利で、次に後に高村家を継ぐことになる彫金師の豊周がいて、更に孟彦がいて養子に出され藤岡姓を名乗った。最後に出来た子がよし。そんな子沢山で、子供だけで8人もいたのだ。九尺二間の裏長屋に、それだけの子供たちと、幸吉夫妻と祖父夫妻が暮らしていたのである。時の政府は廃佛棄却(日本史始まって以来の蛮行で愚行)があったために、佛師の仕事が皆無と言ってもいいぐらいだったために、幸吉は家族を養う必要があって、何でも引き受け、どんな彫り物でもこなした。根付とか、お盆だとか、ありとあらゆる彫り物をやったことだろう。後の光太郎は父・光雲の手速さと巧みさに、愛惜を限りなく持ちながら、手記に詳細に述懐している。幸吉の妻(光太郎たちの母親)は、小舟町辺りの金谷という殻問屋に厄介になっていた人の娘で、始めはわかと言い、後にとよと名乗った人だが、大変不幸な人だったらしい。そこを世話好きな祖父がその子の余りの気立てのよさに惚れ込み、倅の嫁にと、半分身請けみたいにして、母を助けたらしい。母はまるで自分を無くすように、父幸吉(=光雲)に忠実に仕え、典型的な日本の母親像であったと光太郎は言う。学問はないが悟りが早く、お家流だけれど字もが達者で、仕来りを大事にし、年中行事に精通していて、それを子供たちに当然のこととして授けたようだ。光雲は金になる象牙はさほどやらなかった。象牙の作品はその重さで値段がつくからで、日本彫刻の本来あるべき「こなし」の技法に拘ったからであった。光雲の作品の値段は実に単純で、何日掛けて仕上がったから、その日々の手間賃で割り出されていたと言う。家計は大いに苦しかったが、弟子も増えて来ると、運命が偶然に開けて来た。岡倉天心先生が是非にと説諭懇願し、父・光雲を現在の東京芸術大学教授に推薦したのだった。西町から御徒町へ移り、それでも長屋暮らしが続いたが、芸大の先生となるとそうはいかない。生活が当たり前のように出来ると、駒込林町(上野寛永寺の薪取り場)に移り住むことになる。だが祖父は相変わらず派手なことが大好きで、光雲もそれを許し、それで尚一層家計は逼迫していた。

 

父・光雲 芸大の教授となる

 

父・光雲像を制作する光太郎 

確か この像は安曇野の碌山美術館にあるはず

 

父・光雲の代表作 「楠公馬上像」 皇居前広場にて

 

父・光雲の代表作 「西郷隆盛像」 上野恩賜公園にて

この時、最も煩かったのは白洲正子の祖父・樺山海軍大臣であった

 

光雲はその木彫に本来の価値があり 万博に出品された「老猿」

 

 父親である光雲と光太郎の二人はお互いの芸術的方法論や手法に、大きな差異があり、父子の相克は酷いものがあったなどと、一般的には書かれてあるが、高村光太郎全集の第十巻にある「回想録」を読めば、全くそんなことはないのである。どれだけ丹念に父の偉大さを評価していたかが分かろうと言うものである。晩年光太郎はロダンを批判する代わりに、父親が言っていたことを、はっきりと書いている。「ロダンの彫刻はまだまだコナシが出来ていない」と。そして光太郎の作品に、木彫の小品が多いが、光太郎の妻・智恵子は、それらの小品を殊更喜び、出来上がると、智恵子は胸中深く作品をしまいこんで、駒込林町の夜の町を飛んで走っていたのだった。光太郎の木彫の立派さは父・光雲の絶大な仕込みがあったからである。光太郎の幼少時分から、制作のあらゆる場面を見せていた。口で言ったり、手本を示すことは一切なかった。「楠公」の像を創る現場に明治天皇がわざわざ出向いて観た時も幼かった光太郎を連れて行った。だが光雲は内心楠公の刀の部分が仮付けであったことを心配し、万一取れるようなことがあったら、切腹ものだと覚悟していたので、光太郎どころではなかった。又光太郎は父・光雲の、どんな行動をも見て育ったものだ。祖父も光太郎を可愛がった。何せ母親のとよは、又女の子であったら離縁も覚悟をした光太郎の出産であったし、そういう時代だったのである。それだけ長子というのは重いものであった。

 一方、光太郎は美大に進んだ時、与謝野鉄幹の雑誌に寄稿したり、次第に文学にも目覚め、洋行から帰ると、中原中也たちとパンの会を創立し、荒くれた生活をしていたことは事実で、だからと言って父・光雲に対しての宛て付けであろうはずがない。最初行ったアメリカも、ロンドン行きもそれぞれ一年ずつだが、パリは9ヶ月。すべて光雲が出した私費であり、官費留学などという甘ったるいものではなかった。パリでは直接ロダンと出逢った。時に留学先で知り合った荻原守衛も一緒だったが、ロダンと出逢って近代彫刻を学んだけれど、父に面と向かって刃向かうことは一切なかった。但し光太郎の随想に、「出さなかった手紙」や「父との関係」という一文が多数はにかむように残されているにはあるが。尚新宿・中村屋二階で、守衛は大量の喀血をし、若干30歳で亡くなるが、中村屋のオーナー相馬夫妻は、何と光太郎と同じ駒込林町に住んでいたのである。ご夫人の黒光と、守衛はただならぬ関係であったようだが、守衛は遊ばれただけであったのかも知れない。可哀相な守衛。荒れくれた生活を送っている時に、偶然出逢ったのが長沼智恵子であった。その智恵子は光太郎の不良性を一気に変えてくれた人と光太郎は自作の詩に歌っている。そうして長沼智恵子と、上野・精養軒で結婚式をあげるに至る。父・光雲は大変な喜びようであったらしい。その後光太郎はロダンの翻訳をし、若き彫刻家にエールを送るが、断じて芸大の教授にはならなかった。僅かな稿料で、智恵子と二人糊口を啜いだのである。智恵子の実家の酒造(花霞)屋が傾くと、智恵子はだんだん可笑しくなり、40を半ばに本格的に狂い始めたが、光太郎の智恵子への愛は変わることが全くなかった。光雲は貧乏だった息子夫婦に何くれと援助し、智恵子を光雲も相当可愛がったようである。半狂人の智恵子48歳の時、光太郎は智恵子を初めて入籍した。もし自分が早く逝ったら、智恵さんはどうやって生きて行けるのだろうと真剣に心配したからであった。光雲も大賛成し、でも智恵子の死を看取ることもなく、明治の大彫刻家は昭和9年に82歳で大往生したのだった。軍部の台頭も知らずに死を迎えた光雲は幸せな人だったかも。尤も光太郎・智恵子の二人は入籍せずともやって行けるはずと、それがモダンな方法だと信じたためであった。それまで智恵子と、三歳差であったことも知らなかった光太郎であった。やがて品川の南ゼームス坂病院で結核を併発すると、総合性失調症で智恵子が死に、光太郎はどんなに哀しみにくれ、嘆き苦しんだことだろう。

 智恵子が52歳で亡くなり、太平洋戦争が勃発すると、遮二無二光太郎は戦争を鼓舞する詩を書いた。まるで智恵子の哀しみを振り払うように、書きまくった。但し実際の戦局は一切知らされることもなく書いたもので、戦後バカ者集団の日本共産党は光太郎のように戦争に関わった人物として糾弾し戦犯の一人として扱ったのである。能天気集団のイデオロギーは一体どれほど時間を持つものか、共産主義の歴史は何年なのかと、今改めて日本共産党をここに激昂するが如く激しく糾弾したいものである。山田耕筰やサトウ・ハチローや、多くの画家など、戦争に駆り出されたすべての芸術家がヤリ玉にあがったが、特に藤田嗣治などが最も可哀相で、彼は二度と日本へ帰ることはなかった。戦争賛美は確かによくないことだが、反論にはならぬが、日本人総員が軍部によって催眠状態ではなかったかとだけ申し上げておこう。中でも宮本三郎が描いた「山下・パーシバル両司令官会談図」などは見事な戦争絵画で、マレーの虎と恐れられた山下中将の敗戦辺りで戦争を終結していたら、原爆投下も沖縄の激戦もなかったことだったろう。たった半年だけの勝利で、延々と負け続けた関東軍は決して許せない。取り分け関東軍の主計だった東条英機は絶対に許せない。本国から戦費の調達が難しくなったら、彼は中国人に芥子を栽培させ、阿片を売買させて、戦争をし続けた張本人であった。自決も出来ぬ軍人などいるものか。まぁこのぐらいにして先に進もう。昭和20年4月の、東京大空襲で光太郎のアトリエが焼かれ、作品のすべてを消失し、腑抜けのようになって光太郎が向かった先は、宮沢賢治の花巻で、生前賢治は光太郎のアトリエに来て、賢治と光太郎は兄弟のような間柄であったからだろう。無論賢治は既に死んでいなかったが、実弟の清六さんを頼みに出掛けた花巻。だが過酷な爆撃は花巻にも及び、賢治の実家は空襲によって灰塵となり、光太郎は途方に暮れた。そこを花巻の青年団が山口に案内し、そこに小さな小屋を建て、生涯最期の七年間を、あの粗末な山荘で、自給自足しながら暮らしたのだった。山口は特に酸性土壌が酷く、過酷な生活体験であったことだろう。粗末な小屋に、真冬は吹雪が吹き込んで来て、光太郎は頬かむりをして寝たようである。そして戦争詩について、ついぞ弁明することがなかった。「私にはもともと離群性がある」としか。そして父親に連れて行って貰った明治天皇陛下との会見があったかどうか、生涯果てるまで、お正月には日の丸の国旗を掲げることを忘れなかった。正月の詩は何十篇も多大に残っているが、昭和30年、山口の山荘前の、白雪に挿した手描きの日の丸の詩篇が最期であっただろう。やがて青森市から注文が来て、十和田湖畔に立つ「乙女の祈り」を完成させ、智恵子の眠る駒込の霊園に仲良く収まったのであった。享年73歳。尚「松庵寺」と言う詩が残されているが、戦災で焼け出された花巻にて、畳二畳ばかりの仮設の寺で営まれた法要のことを歌った詩で、殆ど智恵子の供養をしたことになっているが、仮の位牌は智恵子だけではなく、父・光雲の位牌もあったことは間違いないことである。これら、市井の一芸術家の生死は、今日の私たちにどうだろうか、大きな希望と勇気を与えてくれるものと信じていたい。大勢の家族を一手に引き受け、激動の生涯を終えた光雲にも、お線香の一本でも立てるべきだろう。今回の記事の最後は光雲の手業を盗み磨いた光太郎の木彫の小品をご紹介して終わりたい。更にもう一つ山口に現存する光太郎の山荘を出しておこう。但しこのような立派な鞘堂は以前はなかったことだと申し述べておく。

 

光太郎作 木彫 「桃」

 

光太郎作 木彫 「蝉」

 

光太郎作 木彫 「石榴」

いずれの木彫も高い精神性を感じられてならない

 

高村光太郎 山居独考の跡 これは鞘堂で中に本体の粗末な小屋あり