硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   東京へ飛散した放射性物質と闘おう!

2011年06月30日 | エッセイ

我が家の茶室 待合への扉

 

 

東京へ飛散した放射性物質と闘おう!

~東京人の闘い (その一)~

 

  •  今日は『夏越の祓いの日』。一年が二つに分けられていた古い証拠である。妻も子供たちと愛犬を連れ、愛宕神社に行き、「茅の輪くぐり」をし、お祓いを受けて帰ってきた。お参りする時の、神妙な妻や子供たちが特別に可愛いかった。戸外でウッカリ遊ばせられない今日、近所の子供たちも一緒に車に乗って、郊外に時々行く。僕が公園デビューした時に知り合った近所の子たちやお母さんたちも一緒に連れてだ。先日は高幡不動から高尾までで、さすがに急に戸外に出ると、どの子もとっても嬉しそう。やはり適時養育、或いは適時教育といったものがあるのだろう。勿論愛犬も一緒で、他の子たちの愛犬も一緒に跳ねる。マスクと、水筒と、麦藁帽子と、長袖でも涼しげな服装は必須アイテムで、熱中症にも気をつけなければならず、林間の木陰を主に選ぶ。但し必ず線量計測してから遊ぶことになる。通常午前中の涼しい時間帯に行くのだが、子供たちもワワンたちも皆大喜びで駆け回り、生き生きとした光景は実にいいものである。その行動範囲は箱根や熱海や青梅や日の出町まで半径100キロにも及び、高速料金が通常に戻ってから割と楽に早く行けるからいい。無論10人乗りのミニバスで行くことになるが構わん。処で東京都の下水処理施設で、特に江戸川区や大田区などでの塵焼却施設では、主灰の他に出る風塵灰の値は基準値の8000ベクレルを遥かに超え、1万5千~2万4千ベクレル(/1㎏当り)も出ているから、家庭の塵の中で何がそうなっているのか実際には分かっていないのが実状。そうなると、かの飯舘村の条件と同様になるように思われるが、そんなに心配したことではないのだろうか。但し今後も、当局の精査を現在も求めている。帰宅時に、ウガイや手洗いが当然で、場合によっては全身シャワーし除洗したいところである。
  •  葉物野菜は悉く水洗いをすべきである。すると70%~80%の割合で、放射性物質を除去出来る。更に根元を少々多めに切るといい。生野菜は避け、極力温野菜を作るようにしたい。炒め物も下茹でしたものを使用し、あっさりと炒めたい。根野菜はなるべく厚めに表皮を切り取ることをお薦めしたいが、出来るなら表皮がついたまま下茹し、湯を流し、その後表皮を厚く剥けば完璧だと言えよう。肉類はパックで売っている細かいカット肉ではなく、ブロックのまま購入し、トリミング(肉の表面を削る作業)をすべきだが、同じ包丁や同じ俎板でやるべきではなく、それぞれ最低でも三丁欲しいし、俎板も然りである。カット面の関係があるからである。内臓関係の肉類は薦めない。ましてや内臓の生肉は避けるべきである。魚類は原発から300キロ圏内の川魚は避けたいもので、特に鮎は中部から関西方面のを食べるべきとお薦めしたい。海中の魚は小魚をなるべく避け、中型魚以上の魚を対象にすべきで、塩焼きは避け、煮魚をし、煮汁は極力捨てることに徹したい。無論カシラの部分を全部取り、尾の部分も切り取り、腹ワタをすべて取り除き、血アイも取るべきかと思う。飲み水は各地の湧き水をお薦めしたい。当家では北海道のニセコ・アンヌプリ(羊蹄山)の湧き水を直送して戴いて愛用しているが、ともかく各地の湧水がお薦めだ。お風呂やトイレや植物の水遣りは都の水道水で充分。かくして調理法は少々狭い範囲になるが、幼児や妊産婦や30歳未満の子たちを守るために、今ここにある危機として、当然なすべきなことであろう。要するに適度な運動により汗をかき、新陳代謝を高め、普通に健康な食事にすべきである。このことこそ、私たちが自分で出来る内部被曝、外部被曝から逃れる道ではなかろうか。
  •  ヨウ素は甲状腺ガンのもとになるので、ヨウ素の値が高ければ、摂取すべきではない。だが一般的には尿や便で放出されるはずであり、半減期という恐怖の数字の心配はさほど必要にないようだ。セシウムも又然りである。プルトニウムやストロンチウムなど、他の人工的に出来た放射性物質が飛来することは少ないだろう。ここ東京・広尾は福島原発からほぼ230キロ離れているし、更に何故かと言えば、それらの物質は金属性物質だからで、原発付近20キロ圏内には心配は当然だが、遠方では今のところさほど心配する必要はないように思う。年間被曝量は20ミリシーベルトと言うのが政府見解(20ミリシーベルトなんて論外)であるが、出来る限り外部も内部も被曝しないことにこしたことはない。小出裕章(京都大学助教)氏が提唱していることは、被曝量などに安全値など絶対にないという見解に大賛成だが、ホットスポットも、かのチェルノブイリ原発事故で出来たホットスポットの有り様を見れば、とんでもない場所にまで広がっている証拠があるのだから、小出先生の言い分は当然の帰結である。お茶の木は葉っぱがよく土中のカリウムを吸い上げることに、お茶の木の大なる特徴があり、カリウムと間違えて、ヨウ素やセシウムも取り込んでしまうのである。従って現在出荷制限を受けている地域の新茶は出回っていないはずでも、これも今のところは生産地域を出来れば選別する必要がありそうである。
  •  子供たちを遊ばせるのに、芝生は今のところ割合安全だが、苔類や砂場は取り分け心配である。当家の盆栽園には始終エアテントがあるから、Googleの地上地図で確認出来ないぐらいだが、それでも盆栽の苔の部分はやや危険だったと申し上げておこう。更に高い樹木の根元付近や、高いビルの原発方向壁面の下部が割りと線量が高く、どのお宅でも雨樋の部分は必ず危険な場所と思い込むほうがいい。そもそも水素爆発した時に、放射線物質の殆どが発生し、風に乗り飛来し、雨とともに落下してきたものである。地形も大いに関係がある。現在の放射性物質飛来の値はかなり低くなっているが、それでも何処の下水溝やU字溝も要注意である。線量はまだまだ高い値だからである。そのまま土中に吸い込ませる雨樋の場合は土を広く深く削り取る必要がありそうだ。年間被曝量を仮に1ミリシーベルト被曝と限定した場合、0,0284マイクロシーベルト(/1時間当たり)以下でなければならない。そうでなければ、放射性物質の飛来を自己管理や自己防衛する方法がないはずであるからだ。自己責任において、健康管理を万全にし、調理法を工夫し、外出時の服装を管理すべきで、放射性物質を、真正面から受けて、断固闘おうではありませんか。これは不可能ではないはずです。
  •  兎に角政府見解は、アテにしないほうが得策である。自分たち自身で、子供たちを防御する以外はないものとしたい。放射性物質の特徴を出来るだけ広い範囲で、自分たちなりに徹底的に調べ上げ、自己防御したいわけである。些細な基準値でも癌発生の一因となり、子供たちの将来に禍根を残したくないのが親として当然の使命であろう。放射性物質はとかく遺伝子損傷の危険が怖いからである。末代まで続く恐れがあるからだ。テレビに出ていた星の数もいる放射能の専門家は基本的にはアテにならない。小出先生は別だが、原発推進派や原発神話に加担していた、いやはや多くの放射能権威の先生方の著作があるが、どれが本物か峻別する力も私たちの責任だろう。原子力政策の神話作りも、保安員も、安全委員会も皆、東京大学工学部放射能学科に縦につながっているから、恐ろしい。原発のチェック役も原発推進役も皆、そこに集約されるので、どうぞ慎重なご注意を促したい。東電の場合、今回辞任を余儀なくされた清水元社長の前は、すべて社長は東大出と決められていた。今回の東電株主総会で司会役を務めていた勝俣会長(=東大出で妖怪であり熔解である)は柏崎原発事故で社長を辞任したはずなのに、会長として、今後も君臨し続けるとしたら、東電の体質は全く変わらないだろう。そんな旧態依然とした組織に、いずれ多大な税金が使われるんだったら大問題である。東電執行部を含め、どう体質改善されるのか、心して注視したいところだ。
  •  もう政治的発言をしないと言ったばかりなのに、余りにも怪しいことが罷り通っているので、一つだけどうしても申し上げておきたい。菅総理は、究極の延命策として「脱原発総選挙」などをやる覚悟らしいが、それは絶対に許されないことである。国民的論議を尽くし、脱原発議論を粘り強く推し進めて行くべきで、前原前外相も、それは究極のポピュリズム(大衆迎合)だと批判していたことを冷静に受け止めるべきである。再生可能エネルギーに急にはカジを取れない(電気料金が高くなる)はずだし、一方では海江田経産省が玄海原発再稼動を要請している今日を、どのように説明するのか。ベトナムから原発受注をどうやって収束させるのか、今や国際問題になっているではないか。何一つ(民主党内閣の特徴)説明しないで、かの小泉劇場型総選挙を模索するとしたら、断じて許されるはずがない、このことだけは断固申し上げておかなければならない。

 

父の盆栽 苔に予想外の放射性物質が付着しているから ビニール手袋を進めている

 


  野の花に生きる

2011年06月29日 | エッセイ

高幡山金剛寺(高幡不動)さん近くの田園にて 稲の傍に沢瀉(おもだか)草の花

土方歳三の石碑あり、沢瀉柄で京透かし文様の刀鍔でも身につけていたのだろうか

 

 

野の花に生きる

 

 

母が遺した和服の中に、丹後ちりめんや、各地の紬など数十点ある。

父は妻に、それをすべて遣り、叔母がコツコツと手直しし、今風に仕立て直し、

透き通ったシボのある丹後ちりめんの襦袢など、如何にも着心地よさそうである。

母の着物を、我が妻が着ていると、まるで母が生き返ったように思うのか、

父の顔がとたんに綻び、僕も嬉しい。

 

品川の自宅の書架は耐震性になっていたために、妻の蔵書ともども今回被害はなかった。

広尾の実家のほうでは、陶器が幾つか壊れたし、扁額の幾つかも落ちて破損した。

永年愛用していた父の、ガラス製の紅いランプが倒れ破損した。悔しそうな父の横顔。

あれから110日過ぎ、グンさま騒動だか訳分からんが、次第に平常に戻りつつあるのかも。

私たち夫婦にとっては、睡眠時間を惜しむかのように目録作りの作業が続いている。

 

何度も申し上げているが、

三角形の頂点の文化は文字を読み書き出来る文化で、表層文化と言える。

三角形の底辺にある文化は実は圧倒的に数が多く、幅広く、膨大な量である。

読み書きが出来ない一般庶民の、基層文化のことが実は大切な部分である。

三角形の頂点の文化は政治・経済にしても、常にコロコロ変化するのであるが、

三角形の底辺の基層文化のほうはよほどのことがない限りは変化しづらい文化で、

これが民俗や民間信仰などと言った日本人の基層文化となり、重要なものである。

基層を知らずして、表層が分かるはずがない。

 

復興構想会議での復興構想案では、

各地にある基層文化の資料の保存・修理など、全く入っていなかった。

江戸時代、全国は300藩にも別れ、個別に独自に民俗が保護されてきたが、

地名も、ひらがなや、場合によっては外国語のカタカナ文字も出現する時代では、

その保護・保全を口にするのも、何か後ろめたくおこがましい。だがスッキリとしない。

ましてや全国を大きく分け、大前研一氏が主張した道州制にする構想も囁かれ、

復興特区とか、経済面だけで復興の判断が体制を占めているようだ。

 

3:11以来、このブログでは政治的発言を止むを得ずしてきたが、

昨日の民主党の両議員総会での荒れ具合を見るにつけ、勝手にやってろと思う。

この国家の一番の権力者・菅直人は恥も外聞もないようだから、最早絶望的である。

私たちは地方を大事にし、祭りも、地方文化特有の息遣いがあって始めて成り立つ。

長く続くこの大震災での闘いは、政治的コミック・ショーなどでは絶対にない。

これ以上政治的発言はここではしない。馬鹿馬鹿しい限りであるからだ。

 

捻花・方波見・赤爪草・箆大箱など 野の花を 

博多・祇園山笠の「てのごい=手拭」 中洲流れの上に 飾ってみた

 


   不娶 寡欲 画道専一 ~高島野十郎の最晩年~

2011年06月26日 | 文学・絵画等芸術関連

高島野十郎 自画像

 

 

 

不娶 寡欲 画道専一

 

 ~高島野十郎の最晩年~

 

 

私は、素敵にお年を召された女性を多く存じているが、男性の晩年にも深い興味を持つ。

発災以降、どうしようもなく忙しくなった私なのだが、是非もなく高村光太郎を読みたかった。

3:11以降、私は高村光太郎全集を二度読了した。

女性の老いと違って、男性の晩年には特別な意味合いがあるように思う。

それまで歩いた果てしのない苛烈な旅路を見るからである。

智恵子を亡くし、失意のうちに、昭和20年4月13日東京大空襲、

智恵子との思い出や、父の作品と対峙した思い出のアトリエを消失している。

そのことは「消失作品おぼえ書き~アトリエにて 9・10」として残っているが、

よく言われる父・光雲との確執など何処にもなく微塵もないが、

父の作品と己の作品をなくした哀しさに溢れる貴重な愛惜の文献である。

その後宮沢清六氏を頼って花巻へ。

苛烈な環境で、独居。真冬は頬被りをして寝ないと吹雪が入って眠れなかった。

父、ロダン、萩原守衛、その後の智恵子抄など、独居七年、旺盛に書き記している。

何が戦犯だろう。宮本三郎も、サトウハチローも藤田嗣治も山田耕筰も戦犯か。

高村光太郎全集26巻には平均的日本人以外のことは何も感じられない。

明治・大正・昭和と駆け抜けた一介の日本人そのままである。

深い精神性以外、そこにはあり得ない。

 

処で主家の床の間に、時々飾ってある高島野十郎の「蝋燭」の焔の絵は、

何一つ語ってくれない。言い訳めいた文章を殆ど残さなかったが、黙って鑑賞すると、

この高い精神性の絵は尋常ではない。これら焔の連作は柏市増尾の片田舎で描かれた

最晩年の絵だ。うっかりすると、観る者の魂をさえ、すっかり奪ってしまわれかねない。

絵以外殆ど残さなかった高島野十郎は、絵だけで充分であったのだろう。

光太郎と一緒で、明治・大正・昭和を駆け抜けた一市民に違いない。

 

高島野十郎 最晩年の連作「蝋燭」

 

 私は、高島が最晩年を過ごした柏市増尾という場所に行ってみた。

近所の方に伺うと、そりゃあ昭和35年だったものだから、何もなかったけれど、

今は高島さんの住居跡もなくなり、新興住宅地になっているという。

付近に、毎年カタクリの花が群生して咲く場所を教わり、

そこにじっと佇み、野十郎の生き様を夢想する。幽かに孤高の画家の香りが。

 

久留米の富裕な家に生まれ、東京帝大農業部水産学科を首席で卒業し、

帝大から銀時計を贈られたが、それを辞退、主任教授からの金時計だけは受けた。

その時は既に画業に専念したかったのだろう。これという師もなく基礎もない画家に。

二三年助手を務めた後、野十郎は帝大を辞し、恐らく放浪の旅に出ていたのだろう。

そして郷里・久留米に帰り、二度ほど個展を開いたようだが、

政局・時局には一切関わりを持たなかった。そして描く絵は写実の絵のみ。

戦前や戦争中はどうした心理状態でいたのだろうか、全く判然としない。

だが「無一物 無尽蔵」といった風貌で、きっと無欲であったに違いない。

 

戦後昭和4年から8年間、野十郎は欧州へ旅立つ。

ミレー、ダ・ヴィンチ、デユーラーなどを観た僅かな消息がある。

北米経由で、戦前のドイツ・フランス・イタリアなどで、主にルネッサンス時代の絵画に

ぞっこんであったようだ。そこで更なる高みを目指す精神性を自分なりに獲得。

よく第一次戦争などのゴタゴタした欧州を旅したものである。

そこが如何にも、骨格の太い野十郎らしい。

 

帰国後、郷里久留米を中心に盛んに個展などによって発表するが、

戦後昭和23年、再び上京し、北青山などに住み着く。

東京五輪で、アパートを道路拡張などで追われ、各地を転々と余儀なくされる。

東北、秩父、小豆島、奈良、京都などを転々と放浪し、昭和35年に柏に住み着くことに。

古希を迎えていた野十郎は独居生活。その貧乏暮らしをものともせず、

最晩年の15年の殆どを、「蝋燭」の焔(ほむら)を描いて過ごしている。

そして昭和50年、野十郎の命の焔が燃え尽きようとする時に、

齢88歳の老姉が、85歳の弟を看取ったと言われている。

田中農協病院を経て、野田市にある特別介護老人ホームで死去。

野田市にて葬儀あり、市川市霊園の中、野十郎は五輪塔で静かに眠っている。

生前真言宗を愛し、空海の秘密曼陀羅十住心論」を座右の銘としたようだ。

即ち、「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば

落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として

生まれる前の裸になる事、その事である」と、深い写実の精神性を示唆している。

遺稿には、「花も散り世はこともなくひたすらにたゞあかあかと陽は照りてあり」と、

「ノート」最終頁に綴られていたと言われている。

 

私は市川霊園の野十郎のお墓を詣で、五輪塔に手を合わせると、

「不娶 寡欲 画道専一」(妻帯せず 我欲なく 画業一意専心」と、

書かれた野十郎の直筆を見た。野十郎は生前、それほど評価が上がらなかったが、

没後次第に野十郎の画業に、派手なスポットライトが当たっているように思う。

尚主家に来た蝋燭の絵は昭和48年頃届いたと聞いている。

 

「雨 法隆寺塔」

 

この作品は盗難にあい、4年間床下に放置されていた 処が修復された時、

裏面いっぱいにワニスが縫ってあり、画面は完璧であって

当時 絵の具の質感など無視した象徴画に流れて行く中、

かくも絵の具の本質を見事に追求した画家はいなかったと最大限評価された

 

今どき、何故野十郎か、人の上に立ち、宰相になれる器の人は

野十郎以上のピュアさと我欲のなさと骨格の太い国家観が必要であると思えたからである

菅総理よ、貴殿の最後の仕事は「税と社会保障の一体改革」のみ しっかり果たせ!

 

又本日の日曜美術館で「思い出を蘇せる画家 諏訪敦」の番組に深く感銘を受けた。

写実と言ってもただ写し取るものではないことが分かった 野十郎に一脈通じていたかも

 


汝、左様に義の違ひたることを申すか!

2011年06月24日 | エッセイ

真夏の様相 雲凛々と高く 6月というのに39℃を超えたという

 

 

 

汝、左様に義の違ひたることを申すか!

 

 

少年は、学校をさぼって海を見ていた。

宮古の海は少年の夢が詰まっていたからだ。

父と漁師になる約束をしていたが、中学だけは卒業してからなと。

突如、大地震が来て、足許もグラグラして立っていられなかった。

町のほうから、津波が来るから高台に逃げるようにとアナウンスが必死!

少年は商店街の坂道を駆け上がって逃げた。3時20分頃、

振り返ると、突然ウミネコやカラスがびっしりと天空を真っ黒に飛んでいたが、

何やら沖のほうから、飛沫のような、靄のような、暗雲がさすようになり、

あのドス黒い海が坂道を駆け上がって来たのだ。少年は寸での処で命拾いした。

それは浪がやって来たのではない。ドでかい海がやって来たのだった。

 

ハイビスカスの花も咲き 関東の奥は みな39℃を超えたという

 

今日から私たちの仲間が又一人増え、これで10名を超した。全員孤児。

彼らには仲間が要る。そして何よりも愛が要る。彼らはボロボロになってやってきた。

でも、不思議と明るい。こんな大災害で一番先に元気な顔を取り戻すのは、

きっとこうした少年や、子供たちなのであろう。子供たちは、天才である。

どの子も心に深い傷を受けているのに、逆に明るくしている。

生のみ着のままでやって来たこれら子供たちを心からいとおしく思う。

そんな子たちは、係累がいなくなったそぶりを決して見せない。

漁業に就くつもりが、林業継承を最大の目標にしている私たちに、彼らは来た。

それでも構わないと思う。ここで心魂から元気になって貰えればいいことである。

そしていずれ漁業に就くことになっても、私たちは応援し、心から嬉しく思う。

私たち職員全員で、親代わりとし、心底から彼らを補佐し応援して行くことだろう。

健康な森林はやがて清流となり、海へそそぎ、海の豊饒を約束してくれる。

野山と海は一体なのである。

 

内閣不信任決議案否決の時も、菅はペテンをやった。

そして「新首相の下」では、「新体制」の下でとなり、又してもペテンを二度犯した。

日本人である一国の総理が、日本語を危うくし、青年のためによろしくない。

「目途」という字は、決して曖昧に出来る話ではない。

 

夏スミレ (イエロー・ムーンの鉢植え)

 

昨日、菅総理は始めて沖縄に行った。23日は沖縄慰霊の日であるからだ。

アメリカで、2+2会談。普天間基地問題を、辺野古移設と改めて決めておいて、

菅総理は仲井真知事と、そのことを、一切話すことはなかった。

呆れたことによくある雑談で昼食会を終わったと言うから可笑しい。

仲井真知事は食事の時、仕事の話は一切しないことで有名でも、

それでも何故沖縄・普天間基地移設問題を話し合わなかったのか、

イラ菅ならず、こちらが遥かにイライラとしてがっかりする。

伊波普猷の「おもろさうし」を読んだのか、仲宗根政善の「方言礼」を読んだのか、

甚だ疑わしい。沖縄は17世紀に嶋津藩により、平定を余儀なくされたが、

彼らはあらゆる方面に対し、琉球王国は平和的な外交しか持っていなかった。

仲宗根先生は「ひめゆり学徒」とともにあり、戦陣の巷に辟易としたのだったが、

伊波普猷への、鎮魂の歌を心から信じていたのだろう。

訳して申せば、沖縄の自尊心である。

 

「彼ほど、沖縄を識った人はいない」

「彼ほど、沖縄を愛した人はいない」

「彼ほど、沖縄を憂えた人はいない」

 

 

東日本大震災にかまけて、沖縄問題を齟齬にした。その罪だけでも万死に値する。

沖縄の人は日本人の愛国の心をもって、最も勇猛な闘いをし、今まだ戦っている。

本も読まず、究極のポピュリズム一辺倒の、この総理は甚だしく如何なものだろう。

沖縄の人々は対外交において、すべての国々と共に平穏に生きた歴史を知らん癖に。

 

目の前の、「古琉球」の本を前にし、沖縄や日本への憂国の情冷め遣らず!

浅井長政家臣の言葉を、表題の通り、決死の覚悟で贈ろうと思う。

 

「復興庁」が出来るらしいが、今回の震災を、「東日本大震災」と呼ぶのは止めましょう。

「東日本大震災(中黒=・)福島原発災害」と呼称致しましょう。

福島の方々にとっては並大抵なことではないからである。

だって三陸地方と違って、明日が全く見えないのだもの。

 


  爽やかな一陣の風が吹き

2011年06月22日 | 季節の移ろいの中で

デンマーク王家 フレデリック皇太子

 

 

爽やかな一陣の風が吹き

 

 

今回の震災で、祖国に逸早く帰って行く各国大使の中で、

最も被災の凄かった東松島に、一人で義捐金を持って行った大使がいた。

デンマーク大使・メルビン氏で、3月30日、まだ混沌としている中で駆けつけた。

東京から車に支援物資を積み込んで同市に入り、

義援金1650万円と避難所にデンマーク製のブロックおもちゃ

「LEGO」(レゴ)を40箱寄付していた。余震が続く中、何と勇気ある行動だろう。

しかも最も甚大な被害を受けた東松島市に直接行ったのだから、

現地でも大変驚き、大使の行動にどれだけ励まされたことであろう。

 

こうした活動を知ったデンマーク王家のフレデリック皇太子が感激され、

ご自身も直接行きたいということになり、先日13日皇太子は、日本へ。

早速、御所へ天皇・皇后両陛下に表敬訪問をされ、翌14日に東松島市へ。

 

フレデリック皇太子と 天皇・皇后両陛下

 

瓦礫の中を歩いて、幼稚園へ行き、デンマーク製の文具など4000万円を市長宛てご寄贈。

園児たちからは、紙で作った兜を贈られた。その兜にはデンマークと日本の両国の国旗が。

嬉しそうに皇太子がそれを被ると、園児たちはデンマーク民謡をベースにした歌を歌う。

その中に入り、皇太子もともに歌う。何という光景か。

海外王家で、直接こうした援助があったのは初めてのこと。

 

紙の兜の返礼に思わず微笑む皇太子 

この三月双子の赤ちゃんが出来たばかりで、四児のパパに

 

そればかりではない。小学校に移動し、皇太子からハッピー・コインのプレゼントが。

 

皇太子からのプレゼント ハッピー・コイン

 

そして皇太子が大好きなサッカーをすることになる(ミニサッカー)。

精力的に東松島市を巡回する皇太子に、市民から絶大な歓声が飛ぶ。

この日、普通なら海外の方が大好きな松島は風評被害で60%減、そこで皇太子は宿泊し、

翌15日、松島湾のクルーズへ。何としても風評被害を止めたいとの強い思いがあったのだ。

デンマークからやって来た取材チームは計11チーム、32名、きっと海外にも発信された筈。

約40分の湾内クルーズを楽しまれ、デンマークとの絆が一層深まったような気がする。

相変わらず天空に、カモメが乱舞し、爽やかな表情の皇太子が印象的であった。

梅雨空に爽やかな一陣の風を残して、皇太子は帰国されたが、前々回のサッカーでは、

Aリーグに入って、韓国大会であり、練習場は和歌山であったような記憶がある。

そして今回の南アフリカ大会では、日本と激突。日本が勝利しているが、

サッカー好きの皇太子にとっては日本との関わりが親密に感じられたことだろう。

 

フレデリック皇太子着用のTシャツには 「希望」の漢字と「Japan」の文字と日本国旗が

 

 

統治能力を完璧に失った菅内閣、

未だ義援金届かず、これだけでも万死に値する。

私は日赤に父とともに義援金を渡したが、大失敗。

フレデリック皇太子のように、現地の首長さんに、

直接手渡しすべきであったと改めて反省した次第!

政治空白は、今後70日も続き、己の責任の所在を知らぬ

歴史に、最悪の宰相として名を残す最低の菅総理。

最早政治はアテにはならぬ。

バラバラな民主党もグッドバイ!

 


  古き佳き日本人の典型を 台湾で知る

2011年06月21日 | 季節の移ろいの中で

山百合の花 スタンバイ OK

 

 

古き佳き日本人の典型を 台湾で知る

 

 

僕に、台湾・高雄市出身の大親友がいる。

もう早20年以上にもなるだろうか、

泌尿器科医で、日本で開業している陽気で気さくな御仁だ。

酒に滅法強く、酔えば、カラオケに直ぐ走る。

千昌夫の「北国の春」を歌うためだ。

但し故郷、台湾の高雄を思い出す手段でもある。

口癖は、「日本人なら日本人らしくしろ」と。そして彼は帰化した。

 

20日の小さな囲み記事に、台湾から被災地へ短歌が送られる話が載った。

台湾・高雄市にある義守大学応用日本語科発行の短歌・俳句集のこと。

年一回発行の、この雑誌には熱い思いが籠もっていた。

戦前日本の教育を受けた古老や日本語を学ぶ学生を中心に、

台湾歌壇のメンバー62名の、120首の歌が掲載されている。

同歌壇の代表、蔡焜燦氏が次のように述べている。

「国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」と。

そして今回の災害に対し衷心からの歌が寄せられていた。

 

TAIWAN HAIKU「特集;東北関東大震災祈祷平安文集」とある

 

   「未曾有なる 大震災に見舞はれど 秩序乱れぬ 大和の民ぞ」

   「天災に 負けずくじけず 我が愛友よ 涙も見せず 鬼神をば泣かす」

   「原子炉の 修理に赴く男の子らの 『後を頼む』に 涙止まらず」

   「福島の 身を顧みず 原発に 去りし技師には 妻もあるらん」

   「大正生まれ 昭和育ちの我ならば 日本大災難に 心のしずむ」

 

又、今は亡き呉建堂(台湾歌壇の創始者)の歌が残されている。

「万葉の流れ この地に留めんと 命の限り 短歌詠みゆかん」

同じく今は亡き洪坤山(呉先生の愛弟子)の歌に、

「北に向き 年の始めの祈りなり 心の祖国栄えあれかし」

「日本語のすでに滅びし 国に住み 短歌詠み継げる人や 幾人」

500部発行のうち、200部が宮城・岩手の贈呈されるという。

 

 李登輝 元台湾総統の言葉


「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。(中略)『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積み上げられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。人類社会全体が危機竿頭の大変な状況に直面している時だけに、世界有数の経済大国であり平和主義国家でもある日本および日本人に対する国際社会の期待と希望はますます大きなものとなりつつある、と断言せざるを得ません。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、六十億人余の人類社会全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤い尊敬と信頼を集めているからです」

 

台湾には植民地化された印象が薄いように思う。

韓国から、日本より占領されていたではないかと抗議されると、

日本はあらゆるインフラを整え、整理整頓してくれた恩人であるとし、

韓国と国交を断絶してしまったのである。李登輝さんは、

京都大学で農業を学び、台湾に農業を振興させた御仁でもある。

台湾全土に、村人が建立した日本兵への恩賜の御霊廟も多い。

 

そろそろ我が親友から、ライチが届く季節になっている。

 

叢に 密かに咲くカタバミの花 (僕は野の花が大好きだ)

 


   かんかんたる父へ

2011年06月19日 | 歳時記

父へのプレゼント

 (日本橋「竺仙」のさやま縮の浴衣と兵児帯と、入谷「平井履物」のからす表の右近下駄も、

京都の義父へは綿95%のかりゆしと、西川文二郎製作のパナマ帽を贈る)

 

 

 

かんかんたる父へ

 

山に行かない時の父は、誰と逢うでもなし、

盆栽いじりと書斎とを行ったり来たり、

80歳をとうに超えている。だが軍隊で鍛えた分だけ、

未だに矍鑠として、衰えを知らない。

父の日のプレゼントを妻とチビたちと一緒に書斎に持っていった。

孫たちをみると直ぐに相好を崩し、

函を開け、我が妻の名を呼び、感謝の言葉を伝える。

僕はその様子をじっと見ていたが、

いつかこうなることを望んでいたのだろう。

 

それにしても日本の外交を背負っていた父が、

最も長くついた政治家はT首相やS首相で、

父は自らを「絶対公僕」と言って憚らなかった。

その後の混迷の中、父は忽然と役所を辞めた。

 

小さい僕は父と遊んだ記憶がない。祖父母とは数多く、

そして最も愛してくれたのは亡き母であった。

 

僕が大学に入り、亡き主人宅へ書生として、

入ったことが最大の要因ではないかと、今でも勘ぐっているが、

戦後忸怩たる思いのまま、

請われるように入った外交の戦場は、

きっと様々な難渋なことがあったことであろう。

岳人意外の友人は、意外と海外のご老人が多い。

身内の集まりはそう好きではない。

 

そして父は孤高のうちに、自宅を粛々と守り、

寡黙な中で、或いは若くして亡くなった母を愛していたのかも。

爾来読書と山登りに没頭していた。

山への憧れは、祖父を通じて、深田久弥を知り、

祖父から父へと伝達されたものであったろう。

 

父の背中を見るにつけ、以前では考えられないようなことがある。

何と、幅広く頑丈な父の背中は、

あの一の倉沢から見上げた「谷川岳」に見えるではないか。

地味ではあるが、今でも二つの日記をコツコツと書き続け、

今度は北岳の縦走に挑むという。

 

 

梔子の花が咲いたよ

 

   「報告」

 

   あなたのきらひな東京へ

   山からこんど来てみると

   生まれ故郷の東京が

   文化のがらくたに埋もれて

   足のふみ場もないやうです。

   ひと皮かぶせたアスファルトに

   無用のタキシが充満して

   人は南にゆかうとすると

   結局北にゆかされます。

   空には爆音、

   地にはラウドスピーカー。

   鼓膜を鋼で張りつめて

   意志のない不生産的生きものが

   他国のチリンチリン的敗物を

   がつがつ食べて得意です。

   あなたのきらひな東京が

   わたくしもきらひになりました。

   仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。

   あの清潔なモラルの天地で

   も一度新鮮無比なあなたに会いませう。

   (高村光太郎 70歳 昭和27年11月22日作 雑誌『いづみ』に発表)

 

杏や大風が大好きな ばぁばの作ったイタリアン・トマト

 


  文化のガラクタを並べた政治ショー

2011年06月18日 | エッセイ

四月下旬だったか 亀戸天神に子連れで行った時見えた東京スカイツリー 

今はクレーンなど一切ないが真下のショッピング街の建築に忙しいらしい

高さ634m(むさし) 来年5月22日開業 大展望台まで料金3000円と設定された

尤も何でも直ぐ変化する東京に 全く興味なし

 

 

文化のガラクタを並べた政治ショー

 

中国や韓国やロシアも虎視眈々と我が国家の領土を狙っている。

韓国国会議員三名が北方四島に、ロシア高官と仲良く出向いた。

馬鹿な民主党議員が韓国に行き、竹島を「独土」と呼ばせるように約束をした。

その結果、来年度から使われる日本の教科書には、「独土」と表記されてある。

まさに売国奴そのもので、かの李承晩(라인)元大統領が勝手に引いたライン。

昭和27年以来、いつしか軍事実行支配され、日本海を「東海」の表記し直せだと。

 

日本海沿岸に世界有数の眠る地下資源を狙っている。試算では600兆円以上と。

一体全体政治は今まで何をやってきたのか、憤激さえおぼえる。

 

そして対馬に、コーリアン・マネーの土地投機が続き、

いつの間にか対馬でさえ韓国領と言い出す始末。

 

中国は尖閣諸島を領有する目論見。小平が始めた改革政策が既にあり、

沖縄も、奄美も、領有権を密かに計画し、今まで引き継がれてきた。

ロシアは秋から核兵器の配置を北方四島に決めた。鮭加工場だと思っていたのに。

日本人は、仏独国境の町・アルザスのような国境領有の厳しさに慣れてない。

だからと言って、放置出来るものか。外交はとっくに死に絶えているかのようだ。

現代における「元寇」の最中なのに、何一つ対策が取れていない。

 

日本近海は宝の山であり、国境を堅固に防御せずして何とするのか アホウども!

 

 

何故、日本海域が狙われるか、

メタンハイドレード・石油・天然ガスの、隠れた資源大国だからである。

赤坂・サカスで、森さんが既にやっているコージェネレーション

ウチの電源タイプと同じタイプ。こんな電源を、各自治体ごとやっちまえば、

今更太陽光発電を進めたいとか、誰にも相談なく、ダボラを噴く宰相の唇寒し。

辞職しない理由はただ一つ。広島・長崎の記念日に、

高らかに「脱原発」を宣言したいのか。なるほどそうすれば民主党は勝てるかも。

エネルギー問題は党派を超えて議論を尽くせ!原発反対でもドイツのように、

或いはイタリアのように、15%~23%も、有線で、原発大国フランスから、

容易に電力を補えるのか。欧州大陸は地続きで、我が国家は海中のど真ん中!

でも何をしたいのかしたくないのか、経済政策、全く無為無策で、

馬鹿の一つ覚え、「雇用、雇用、雇用!」の大連呼!

雇用する側がぽしゃっちゃったら、菅が雇ってくれるのかい?

万一、現状より電力供給が30%下がったら、日本の生産ラインに大打撃。

 

我輩の掲げる黒潮・親潮利用の発電は火力発電所の片隅に小さくあればいい。

夜も昼も関係なく、海中にてプロペラが回り、海底ラインを引いて来るだけのこと。

北九州市でハイグリッド・システム開発が順調、電力の地産地消、もう目の前!

八十八箇所のお遍路も終わってないスッカラカンの菅なんかにぁ、

何ぁ~~んにも教せぇてやんない。

 

 

一部北九州市で 実験されているスマートグリッド・システム図 電気代3割カット

 

 

反原発か推進か一向に明らかにせずして、浜岡原発停止の責任も転嫁し、

歴史に名が残せるように、8月の広島・長崎、或いは終戦記念日で「脱原発」を

高らかに宣言するだろう。しかも思いつきでネ。

それも延命戦術か選挙目当てか、このポピュリストのガラクタどもめが!

阿呆な鳩山、巨悪の小澤、意地悪親父のスッカラ菅!

早くそこを脇にどき、静かにせんかい!

 

政治空白は間違いなく、国民にとっては真に不幸の極みであるが、

かくも幼稚であったとは、極左あり極右ありで、政党ではなく、

単なる野合集団が民主党の正体である。

「最少不幸社会」の実現が、今や「宰相不幸社会」が現実なのだから。

 

最も親日的な台湾から来た義援金は160億円とダントツで、

2位アメリカからは90億円。中国からも韓国からも、世界8ヶ国へ感謝の広告を出す。

日中記者交換協定」で中国に配慮し、台湾には感謝する政府声明は一言もない。

そもそも50年前に作られた協定なんかにゃ、全く意味がない。尖閣諸島で、

中国漁船衝突事件を未だに、この内閣は公表していないから当然だろう。

 

人口一人あたりで換算すると、台湾694円とダントツ。中国は一人あたり0,23円。

更に韓国では、一人あたり3,2円、義援金の約8割を韓国領土対策に使うという。

それで今回韓国議員三人はロシアの高官と北方四島に上陸した。

何と無礼なことだろう。対馬の土地を買うのも、その背景があってのことか。

 

考えて見てご覧、参議院民主党代表・輿石東が常に標榜していることは、

憲法違反に違いなく、教師に政治的中立などありえないと堂々と吹聴し、

毎回日教組山梨支部丸抱えで当選し、あの小ズルそうな人相・風体。

私の従兄妹も嫌々ながら、すっ高い組合員費を払わされ、

時に運動を強要されるが、断じて行かないとキッパリ。

 

考えてからよくよく民主党の党旗をみると、日本の国旗が分断されているようだ。

媚中、親韓(北朝鮮含む)、露無批判、反米、反日本文化。

レーニンが言った「暴力装置」と自衛隊を揶揄した仙石よ、被災地へ行き、

決死の活動を続け、現地の人々に受け入れらた隊員の前で土下座しろ!

君達を選んだ国民も悪いし、重大な責任がある。私もその一員だ。

 

万一、沖縄普天間基地が固定化されたら、断じて貴様らぁ許せねぇ!

 

菅総理が官邸で記者会見をする時は紅いカーテンが背景にあるはずなのに、

官房長官の記者会見と同じグレーのカーテン。気が付いた方がいるだろう。

この国難にあたって、何たる情けない総理だろう。

こんな人に大震災の復旧・復興のグランド・デザインなんか、任せられない。

いい加減にしろぃ!!!

 

津軽半島の風力発電所 もっと増やせるが東北電力が送電線の増大を許さない

各電力会社の独占意欲だけが突出し 新しい電力開発の行く手を阻んでいる

発電・送電の分離案を このブログでは強力に発信し続けたい

 


   野辺のかほ花

2011年06月17日 | 季節の移ろいの中で

  

亡き主人の「八甲田牧場」の絵に 蛍袋と野蒜の花をそえてみた

 

 

野辺のかほ花

 

高円(たかまど)の

野辺のかほ花

面影に

見えつつ妹(いも)は

忘れかねつも

 

大伴家持

万葉集 巻八 一六三〇 

 

亡き妻へ歌った大伴家持の鎮魂歌である。ここでいう「かほ花」とは

一般的に「昼顔」のことらしいが、家持の悲哀は昼顔だけだったのだろうか。

美しい花、皆「かほ花」に見えて、尽きせぬ喪失感を表現したものであろう。

高村光太郎は、妻・智恵子を肉として捉え、生涯忘れなかったように。

 

本来は十字花のドクダミだが 我が家には八重のドクダミがある

 

我が家の叔母は柿生にお嫁に行っていた 

そこから財産分与を受けた畑が彼女のフィールド

年中有機野菜が取れ 日々困ったことがない 

住宅街に約三千坪の畑あり 税金が大変

その結果税金対策として 2000坪ほど 

近所の方々に 家庭菜園として貸し出し中

このフルーツは改良型の「夏グミ」 大量に出来た

 

ラズベリーって不思議 花の脇には実がなっているのだ 

蜜蜂も止まっていた 右上にいる

 

ヒメウツギの小さな花が咲いていた

 

「墨田の花火」はもう少し 叔母は76歳 

今でも軽トラに乗って 時々柿生の菜園に通っている

 

この花 何ていうのと聞いても返事がない 

ゲンノショウコのような不思議な花

 

野蒜を採ってきて、しみじみと眺めた。

濃い緑色の茎が真っ直ぐに伸び、その先に小さな丸い顎が固まっており、

そこから更に細い線が十数も伸びて、六枚の白い花をつける。

花が開き始めの頃、先端にピンクの色が可愛らしい。

小さな花だけど、蕊は長く、堂々として蜜蜂たちを待っているようだ。

 

野蒜(のびる)と 蛍袋

(白・ピンク・紫などがあるが 純白の蛍袋がだぁ~~い好き)


   「無用」の美を求めて

2011年06月16日 | 季節の移ろいの中で

静かで清楚な天神坂 登りきったところに この石塔があり 三樹荘があった

 

 

 

 

「無用」の美を求めて

 

 我孫子・手賀沼 文学散策 (Ⅱ)

 

 

祖父は、白樺派を全面的に認めていたわけではないが、

同人・柳宗悦だけは別格であったらしい。

柳の志向の高さに惚れていたのだろう。

三樹とは、「智・財・寿」と呼び、地元の人に崇められていた、

三本の椎の木のことである。

柳は、嘉納治五郎(実母・勝子の弟)の薦めにより、

治五郎邸の前に、この三樹荘を建てた。

大恋愛の末、結婚した兼子との新婚生活を送るためでもあった。

兼子の弾くピアノは祖父の心をときめかした。湖水にアルトの音声が

よほど美しく響いたことだろう。幸せな祖父!

 

治五郎邸跡から見た三樹荘 柳宗悦退去後 やってきたのは深田久弥や田中耕太郎

 

我孫子に最初にやって来たのは 嘉納治五郎であり 

そこから文化村が出来た ここは治五郎邸跡

 

 

多くの白樺派が集まり、柳宗悦も同人であったが、

彼の思考する美意識が全く違っていた。「西洋かぶれ」に加担しないのだ。

和を意識し、この新居に引越しと同時に見た朝鮮白磁に圧倒された。

従って、ここから「日本民藝」への意識が芽生えたと言っても過言ではない。

朝鮮総督府の弾圧が始まると、柳は朝鮮に渡り、民具や民藝を収集し、

そして朝鮮民族博物館を建ててしまった。ここまでの反骨精神は凄い。

 

白樺派同人写真プレート 武者小路や柳や志賀が見える

 

 

更に沖縄に激しい頻度で通い、沖縄の民藝美の発見に尽くした。

又、木喰上人の「無垢な直感の美」を持つ木造仏像を発見し公表した。

そこに河合寛治郎や浜田庄司や芹沢圭介や棟方志功などが大挙賛同し、

一時大ブームとなったのだが、日本人特有の熱し易く冷め易い性分に、

何時しか、「日本民藝運動」も忘れ去られてしまったようだ。

司馬遼太郎は読むが、柳田國男は読まない、今日的現象であろうか。

 

現在、御土産屋などに、柳宗悦の見出した美は一切ない。

 

 

子(ね)の神大黒天の阿吽像 

私たちは「南無大師遍照金剛」と唱えて祈った (右端はカネノワラジ)

 

この前方後円墳のすぐ裏手に祖父の墓所がある 

尊敬した「向井去来」のような 小さな墓所であった

妻と僕は 小っこい曾々孫と 幾種類かの「野の花」を摘んで手向けた

  

祖父の膨大な記録を前にし、父から漸く許しを得て、祖父の日記を、

妻と共に読み始めた。ここには古き良き時代の日本人が生き生きと、

描かれ、まさに時代の証言というべきものがある。

 

宗悦が利休居士と似ていると言われ、柳は激怒したらしい。

権力や金力を利用した利休など、本来の利休なら望まなかったはずだと。

現代の茶道の有り様を見たら、一目瞭然だろうとも。

我が祖父は柳の発言をコツコツと聞き書きし記録し書き残した。

祖父は昭和の始め、A紙新聞記者のロンドン支局員として、

「魔法の森の20年」前を生き抜き、大正末期生まれの父の代に変わった。

 

祖父の墓参を終え、杏の望む湖畔へ。

渡らないバンやオオハクチョウの家族たちが、私たちを迎えてくれた。

杏も、大風もどんなに喜んだことだろう。

墓参とは、根っこから清々するものである。

 

三岸好太郎は 女画学生だった節子とともに

同じ、この崖の絵を描き湖畔にて求婚をした

 

若かりし折の岡田嘉子が撮影をしたキネマ撮影所跡 

藤蔭静樹は彼女の舞踊の先生であった

この後、松竹撮影所は蒲田に移転した 

岡田の駆け落ちは会社をも巻き込む大事件であった

 

杉村楚人冠は祖父の先輩 詩句は陶板製で 

「筑波見ゆ 冬晴れの 洪(おお)いなる空に」 アサヒグラフ創刊など

 

やっとこさ行けた湖水 渡らないオオハクチョウの家族がいた 

杏が待ち望んでいた風景

この他 寺山修司の奥さんだった九条あや子のご実家にも回った

 大好きな作家・中勘助の仮寓跡もあり 盛沢山!