硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 パリ郊外ヴァンサンヌの櫻

2007年04月12日 | 

 

 

 

パリ郊外ヴァンサンヌの櫻

 

 

パリ郊外ヴァンサンヌ在住のMiyokoさんから 

美しい櫻の写真のメールが届いた

パリの中でも 特にレアールは中心街でパリ1区には櫻が多い

昔は築地市場のような やっちゃ場の場所であったが解体され 

今や一大商業スペースとして 驚異的な発展をしている

そのほぼド真ん中にポンピドー公園があって 

幾多の櫻が咲いている 八重もあれば種類が多く 花期も長い

色々と品種改良されたであろう櫻も数多くある 

更に今回 ソー公園の櫻の花の写真も送られて来ていたが

こちらのヴァンサンヌの櫻の方を選び ここに掲載することにした

更に驚くことに 色んな通りに並木として櫻が植えられていて

そんなパリの香りを戴きながら 櫻の写真を観るのも嬉しいものだ

日本より北国のパリ中心街にも漸く春が訪れたのであろう

いつか再びパリまで櫻行脚をしようと思う

 

 


 ワシントンD.C.の櫻とエリザの物語

2007年04月12日 | 

 

 

 

ワシントンD.C.の櫻とエリザの物語

 

 

花は盛りの伊勢の神宮を巡って 漸く京都に帰って来た

外から京都を思う時 愛憎蠢く爛熟の様を否応なく想像するが

こうして再び京都に足を踏み入れると ほっとしている我がいる

京都の櫻は今が盛りで 場所によっては散り始めているようである

 

駅頭に立って直ぐ 国道一号線をタクシーで一気に南下 

久世群久御山の川沿いに櫻のアーケードがあるからと

そんな噂を聞いて 社員を誘って一緒に観に行って来た

両岸に零れるような花片が満ち溢れ 春爛漫そのものであった

 

今夜は泊まれる宿がない 社員の一人が どうか泊まって下さいと

ここ吉田中大路町に連れて来られ 温情に甘えるところである

確か近くには吉田神社があるのだろう 閑静な町で直ぐ好きになった

 

櫻のことを ああでもないこうでもないと考えていると

皆様にどうしても伝えておかなければならないことがある

ましてや前記事では 国家の品格の話題を出したから余計にそうで

毎年櫻祭で 世界のポトマック・リヴァーになっているワシントンの

櫻物語には エリザと言うアメリカ人女性の存在なくしては

一つも語れない 日本を愛し櫻を愛し アメリカに持ち込んだ

最大の功労者エリザのことは実に感動的だが 殆ど知られていない

是非 櫻灯路『ワシントンD.C.櫻物語』をお読み戴きたいのである

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!5261.entry?_c=BlogPart

エリザから 今改めて国家の品格を学ぶ時ではなかろうか

 

鎮花祭は 今まさにあちこちの神社で行われている

上記写真の狭井神社縁起に書かれてあるのは 

狭井神社の鎮花祭のことだが 割引しても凄いことが書かれてある

何と国家の行事であると断じているのである ここでの鎮花祭は四月十八日

 

明日十三日は 嵯峨野の法輪寺で 十三参りがある 

生まれて初めてやって来る干支に これから大人へと成長するのを

智恵の御仏さまである虚空蔵さまに 

数えになった歳にお願いするお祭りである

再び櫻灯路の『十三参り』の記事です

http://outouro-hananoen.spaces.live.com/blog/cns!BA05963D8EB5CC5!7136.entry

 

明日もう一度オフィスに出て それから道草さまとお逢いしたいのだが

大先輩の方だから 不用意に御酒の席にお誘いしたら 失礼に当るだろうか

文学について 殆ど門外漢の私にとって 色々と優しくお教え下さり

何時も感謝申し上げている次第で どんなに感謝の言葉を申し述べたいか

 

明日は 今年の京都の櫻 最後の櫻になるだろうか

仁和寺も常照皇寺の九重櫻も気になって仕方がないのだが・・・・

 


 本居宣長・奥墓(オクツキ)の山櫻

2007年04月12日 | 

 

 

 

本居宣長・奥墓(オクツキ)の山櫻

 

 

最近『国家の品格』と題する本が出て評判になった

日本人のアイデンティテーを何処に求めるかであろう

凡そ武士道に求めたように思われたが 

もう一つ大倭心があるのではないかと思われ 

急に思い立つように 松坂に向かう

 

吉野から山を降りて 室生・長谷寺の櫻も巡った

だが 伊勢・松坂へ 心ははやにどうしても行かなければと

本居宣長 山室山に眠る宣長の奥墓に立つ山櫻へ

山の下にある妙楽寺から 更に山室山へ登り 立派な奥墓があった

見ると背後に確かに山櫻が咲いていたが 何と周辺には殆ど山櫻の植栽

多分後から植えられた山櫻であろうか 美しく咲いていた

晴れた日なぞは ここから富士の高嶺も見えると言う

 

以前この奥墓の横には 宣長を御祭神とする山室山神社があった

神に祀られた宣長はその後有為翩々としながら 手厚く庇護され

明治政府・取分け明治天皇から 金一封を受けられたこともあって

現在は松坂町殿町に移転し 従四位から従三位へ格上げになり

『本居宣長ノ宮』と改称されたのは平成七年であり 記憶に新しい

 

古事記を丹念に調べ 『古事記伝』を著し 『玉勝間』など多数

更に驚くべきことは 詠んだ歌が一万首を超えている

大和心とは何であるかを只管追求した稀有の人生であった

 

我が死の葬送の方法を 

そしてそこに山櫻を植えよと言った遺言を事細かに指示し

「秋津彦瑞櫻根大人(アキヅヒコミヅサクラネノウシ)」として

霊牌を作り 祭祀を行うようにとの詳細があった

何故斯くの如くして逝かれた根拠は何だったのか

憶測に過ぎないが 魂の在処への拘りだったような気がしてならない

我が魂は 皆と共にあると

 

弟子・平田篤胤は言う

「師の翁も、ふと誤りてこそ、魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、

彼処(カシコ=黄泉の国)ぞといはれつれど、老翁(オヂ)の御魂(ミタマ)も、

黄泉国(ヨオツノクニ)には往坐(イデマ)さず、

その坐(マ)す処(トコロ)は、篤胤(アツタネ)たしかにとめ置きつ、

しづけく泰然(ユタカ)に坐まして、先だてる学兄達(マナビノイロセタチ)を

御前に侍(サモ)らはせ、歌を詠(ヨ)み文(フミ)など作(カ)き、

前(サキ)に考(カンガ)へもらし、解誤(トキアヤマ)れることもあるを、

新(アラタ)に考へ出(イデ)つ。こは何某(ナニガシ)が、

道にこゝろの篤(アツ)かれば、渠(カレ)に幸(チハ )ひて悟らせてむなど、

神議々(カムハカリハカリ)まして、

現に見るが如く更に疑ふべくもあらぬ をや」

 

又このようにも言う

「然在(シカラ)ば、老翁(ヲヂ)の御魂(ミタマ)の座(オハ)する処

(トコロ)は、何処(イヅコ)ぞと云ふに、

山室山(ヤマムロヤマ)に鎮座(シヅマリマ)すなり。さるは、

人の霊魂(タマ)の、黄泉(ヨミ)に帰(ユク)てふ混説(マギレコト)をば、

いやしみ坐(マ)せる事の多(サハ)なりし故(カラ)に、

ふと正(タダ)しあへ給はざりしかど、然(シカ)すがに、

上古(イニシヘ)より墓処(ハカドコロ)は、

魂を鎮留(シヅメトド)むる料(タメ)に、かまふる物なることを、

思はれしかば、その墓所を、かねて造(ツク)りおかして、

 

詠(ヨ)ませる歌(ウタ)に、

 
  山室に ちとせの春の 宿(ヤド)しめて


          風にしられぬ 花をこそ見め


また、


  今よりは 墓無(ハカナ)き身とは 嘆かじよ


          千世の住処(スミカ)を 求め得つれば



と詠(ヨマ)れたる、此は凡て神霊(タマ)はこゝぞ住処(スミカ)と、

まだき定めたる処に鎮居(シヅマリヲ)るものなる事を、悟(サト)らしゝ

趣なるを、まして彼山は、老翁(ヲヂ)の世に坐(マシ)し程(ホド)、

此処(ココ)ぞ吾が常磐(トコトハ)に、鎮坐(シヅマリヲ)るべきうまし山と、

定置(サダメオ)き給へれば、彼処(カシコ)に坐(マ)すこと何か

疑(ウタガ)はむ。その御心(ミココロ)の清々(スガスガ)しきことは、



  師木島(シキシマ)の 大倭心(ヤマトゴコロ)を 人とはゞ


          朝日(アサヒ)に匂(ニホ)ふ 山さくら花



その花なす、御心の翁(オキナ)なるを、いかでかも、

かの穢(キタ)き黄泉国(ヨミノクニ)には往(イデ)ますべき」



 

更に

 
「さて、此身死(マガ)りたらむ後に、わが魂(タマ)の往方(ユクヘ)は、

疾(ト)く定(サダ)めおけり、そは何処(イヅコ)にといふに、



   なきがらは 何処の土に なりぬとも


          魂(タマ)は翁の もとに往(ユ)かなむ



今年先(コトシサキ)だてる妻(イモ)をも供(イザナ)ひ

【かくいふを、あやしむ人の、有るべかむめれど、あはれ此女よ、

予が道の学びを、助成せる功の、こゝらありて、

その労より病発りて死ぬれば、如此は云ふなり、

それは別に記せるものあり】


直(タダチ)に翔(カケ)りものして、翁の御前(ミマヘ)に

侍居(サモラヒヲ)り、世(ヨ)に居(ヲ)る程(ホド)は

おこたらむ歌のをしへを承賜(ウケタマ)はり、

春は翁の植置(ウヱヲ)かしゝ、花をともども見たのしみ、

夏は青山(アヲヤマ)、秋は黄葉(モミヂ)も月も見む、

冬は雪(ユキ)見て徐然(ノドヤカ)に、

いや常磐(トコトハ)にはべらなむ」

 

平田篤胤説に依れば 宣長が死して後 黄泉の国に行くと言っていたのは

誤りで 私がはっきりと聞いている

亡骸は 千代の棲家とした山室山にあるけれど

霊魂は それぞれの弟子や心ある者たちと一緒になり

今までの学説の誤りや新しい学説の後人との議論を待っていると

 

そして同じ歳に亡くなった妻は永年学問の犠牲になったので

それまで歌詠みなどを出来なかったが 今度は妻と二人で出来るようになる

予め造っておいた墓所で 櫻を植えて貰い

その春の花を愛で 夏の青山を見 秋には紅葉や月を楽しみ 

そして冬は雪を観て 泰然自若としていると

 

私は思ったのである 国家の品格とは武士道にだけあるものではなく

厳粛に己が人生をすべてヤマトゴコロに捧げた人があったではないかと

 

神道の極意は 教義もなく 何なのか

それは祓いであり 清めであるに違いなく 鎮魂と魂振である

清浄なる世界への祈りが神道であったと

但しあの軍部独走から 何たる恥辱を受け続けたのだろうか

 

明治のご維新の際 戊辰戦争などで亡くなった薩長同盟の戦死者だけを葬り

事後国家神社としてなせる靖国神社の在り方は 何処か偏屈であり

ましてや戦地で死ぬこともなく 自決も出来ず 戦犯として亡くなった方を

果たして本当に 他の戦死者と同列に置いていいものか 

私には甚だ疑問に思えてならない 一遺族として憮然たる思いが残る

 

戦犯で亡くなったご遺族は 自らの手で それぞれの御霊の霊牌を作り

それぞれの神社を作って祀ったらよかろうと思うが極論ではない筈である

善通寺市にある四国76番札所・金倉寺に「妻返しの松」があった

逢いに来た妻を帰した処にある松で 明治人の気骨溢れる逸話であったが

我が敬愛する乃木稀典のように ご自身の社を堂々と作ったらいい

 

私は周辺諸国に阿っているつもりは一切さらさらない

本居宣長のすべての学問に照らし合わせ そう断じたいだけである

 

今日は 伊勢の神宮を参詣してから 再び京都に入ろう

 


 

 

巻頭写真は 山室山山麓の御寺・妙楽寺にある宣長の絵馬

宣長の奥墓は妙楽寺から領地を分けて貰い 本人が建てたものであった