硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

      越前水仙 花物語

2014年01月16日 | 文学・絵画等芸術関連

 

そろそろ水仙の花が そしてあの日のお祈りに

 

 

 

           越前水仙 花物語

 

 時は平安朝末期。木曽義仲が兵を挙げ、京を攻めた時の頃のお話です。居倉浦(越前岬)の山本五郎左衛門は一族郎党を連れて参戦した。但し次男の次郎太だけは、留守居をするために、残っていた。或る日、越前海岸に、溺れたようにして倒れていた美しい姫を発見した次郎太は、凍えて死にそうな姫を、担いで家に戻り、何とかして助けた。日に日に回復して行く姫。その後姫は次郎太に、その恩を返すために断崖絶壁の中腹にある小さな畑仕事を手伝っていた。優しい姫と、逞しい次郎太は、やがて恋に落ちる。

 忘れた頃、長い時間の末、戦が終わり、味方が散々な目にあった兵士たちは、それぞれの家に戻りについた。父・五郎左衛門は敵に殺されてしまい、兄・一郎太も負傷し、一本足になって、ようやく越前まで戻り帰って来た。兄にとっては辛い辛い日々であったのだ。

 越前の我が家に帰ってみると、美しい姫と、弟の次郎太が楽しく暮らしているではないか。日一日と経って行くうちに、やがて一郎太の傷も癒え、三人で暮らし始めた。でも、どう見ても似合いの夫婦に見えた弟と姫。あの悲惨な戦は誰のためにしたのか。それは我が家を守るため以外ないではないかと、やがて兄と弟が口論になる日が多くなった。きっと一郎太に、嫉妬があったはずに違いない。腕のたつ兄の一郎太は、或る日次郎太に、その姫を巡って口論となり、姫を賭けて決闘することになった。本来仲がよかった兄弟だったが、女一人が家の中にいるだけで、険悪な空気になっていたのだ。崖っぷちで、裂帛の気合いで、刀を構える兄弟。冬の荒れた海。二人の争いはすさまじいものであったが、姫はその二人を見て、咄嗟に「私がいるために、こんなことになってしまった」と心を痛め、乱心したかのようになり、その挙句、絶壁の上から荒れた海に向かって、ハラリと身を投げてしまった。闘い中、驚いた兄弟は闘いをすぐに止めた。

 あっと言う間にイノチを絶った姫に、二人の兄弟はびっくりして、海の中を探すのだったが、どこにも姫の姿は見つからなかった。これをきっかけに、兄弟は争うことを止め、再び痩せた断崖の畑を耕し、貧乏だが、元通り仲良く暮らすことになった。翌春、刀上の海岸に行くと、いつか姫が流れ着いた場所に、美しい水仙の花(株か)が流れ着いたのを発見した。次郎太も、兄の一郎太も、きっとこの花は美しい姫の化身に違いないと確信し、大切に育てることにした。数年が経って、寒風吹きすさぶ越前の断崖絶壁には、小ぶりだが、香り高い水仙の花が咲き乱れ、日本一の生産地になったのである。尚越前水仙の花は寒さが酷ければ酷いほど、美しく咲くという。

 

 居倉浦の越前水仙

 

 (このお話は、日本最古の物語である「かぐや姫」や、能「求塚」などと同様に、一人の女性に、複数の男たちが求婚し、女性は一人天界へ、或いは水中へ去り行く日本物語の典型として、現在でも語り継がれている越前水仙発祥の物語です。又この香り高い水仙の花は最も厳しい一月に、波の花散る越前海岸の絶壁で育まれ、或る男が、あの阪神・淡路大震災の日の三日後に、イノチを返りみず、被災地にお届け申し上げた一万本もの越前水仙の花のことでした。中には、お花を投げ還される方もおられましたが、多くの被災者にとりまして、多分ですが、心の中に、どんなに勇気づけられたことかと推測しております。またその大震災から二週間後、神戸をご訪問された天皇・皇后両陛下に、被災者のご自宅に咲いた水仙の花だと言われ、喜んで手にされた美智子皇后さまのお姿をテレビで見た時、その男は、感動し嗚咽して泣き止みませんでした。また二年七か月前の東日本大震災の折も、仙台市宮城野区の避難場所をご訪問された天皇・皇后両陛下に差し出されたお花は、確か翌4月27日のことだったと思いますが、被災者の自宅に咲いた水仙の花だと言われ、手にされた美智子皇后さまにとりまして、両被災地で共通した思わぬ水仙の花を手にされたのです。バスの中からお花を持って、握りこぶしを挙げられた美智子皇后さまのお姿。そして仙台で水仙をのお花を手にされた時の美智子皇后さまの微笑。どんな天変地異でも我が責任だとして、物忌みをなされる天皇家の伝統は、私たち日本人をどんなに勇気づけてくれることでしょう。またあの日水仙の花を神戸・三宮に届けた、その人は、まだうら若き年で、この世とグッドバイし、今この世にいない我が主人のことですが、すべての被災者と、彼の美しい御霊に鎮魂の思いを、お届けしたくて、越前水仙のお話を書かせて戴きました)

 


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4 コメント

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17日、あれからはや19年 (mfujino)
2014-01-16 23:23:00
硯水亭さん、昨年の暮れにいい温泉があると聞き、蓮如さんゆかりの吉崎御坊と温泉を楽しんだ後、荒れた日本海の景色を楽しみながら越前海岸のドライブを楽しみました。その際ふと迷い込んだのが水仙が咲き誇る時期には早い山の斜面でした。行けるかなと案じながら行けるところまで行ってみようと奥へ奥へと車を進め、Uターンに苦労したのも楽しい思い出です。一部の株はもう花を咲かせていました。

この様な悲しい話があるのは不学にして初めて知りました。いい話を聞かせていただきました。ありがとうございます。同じ花や風景を見るにも、こういった背景を知り見るとより感慨深いものでしょうね。
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早いものですねぇ (硯水亭歳時記)
2014-01-17 09:55:25
    Mfujinoさま

 本当に早いものですねぇ。つくづく、そう思います。あれから19年も経ったんだと思うと感慨深いものがあります。苦労して苦労して現地に行って、何も出来なかった無力感があったのを、よく覚えています。あの時、私たちの友人は殆どがご無事でしたから、そこだけはホッとしたものでした。あれからあの東日本大震災ですものね。日本人は謙虚に生きなさいという天の声なのでしょう。

 本日は、おいで頂きまして、心から感謝致します。有難う御座いました。今朝5時46分の朝まだき厳冬の中、関西へ向かって、家族、揃ってお祈り申し上げました。
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水仙、そして19年・・ (屋形船)
2014-01-18 07:30:43
 哀しい花物語を知った今日からは、水仙がいちだんと趣のある花になりそうです。ご主人の献身の精神、しかもすばやい行動力、心打たれました。
 私も神戸の人間です。垂水で被害はそれほどではなかったのですが、知人に犠牲や大きな被害がありました。
19年の歳月、多くのものを押し流したような気がします。父、妻、母と順番に亡くなり、今、ベトナムに住んで、ほぼ4年が経ちます。想像もつかなかった自分がいます。自分の行くべき道を行くだけのことだと思っています。
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春告げ花の行方 (硯水亭歳時記)
2014-01-18 09:05:02
    屋形船さま

 あの時もそうでしたが、今回もそうでした。日本にノホホンと住んでいる我が人生に、圧倒的に多大な影響を受けております。何かしなければ生きて行けないという心象でしょうか。人さまのためになどという恐れ多いことではありません。被災された方々とともに生きたいという気持ちなのかもしれませんが、不遜にはならないで、ということでありましょう。
 私たちはあの阪神・淡路大震災で一ヶ月以上の活動を継続して行いましたが、無力感しか残りませんでした。今回はやや継続的に、横浜国大の宮脇名誉教授やニコルさんなどと一緒に森の長城プロジェクトに参加したり、津波到達地点に山櫻を植樹する櫻プロジェクトに参加したり、そこそこの継続的活動をさせて貰っています。でももう直ぐ三年になるというのに、まだまだです。仮説住宅では歌も歌えないんですよ。茫漠たる津波の跡を見るにつけ、やはり無力感を禁じ得ません。でも、出来ることはやらねばと、少し生意気ですが、今後も継続したいと念じています。

 屋形船さまのご登場を嬉しく思います。神戸のご出身でしたか。神戸はようやく復興されましたが、人の心の傷跡はまだのようです。寧ろ驚いているのは、神戸在住の方で、震災を知らない方が40%以上になったことが、昨日のテレビニュースで知り、こちらのほうがショックでした。災害大国として、アジア各国に、そのお手本となり、然るべき時にはいつでもパワーになれる日本でありたいものですね。今日は有難う御座いました。ベトナムのホイアンだったでしょうか。日本人が建てた屋根つきの日本橋がありましたね。中国名では來遠橋。小さなお川ですが、洪水の多い街で、その橋の真ん中には水神さまが祀られていたのを思い出します。再びベトナムに行きたいです。今日は本当に有難う御座いました!
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