硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     戦後は、遠くなっておりませぬ

2013年02月26日 | エッセイ

学徒出陣した興梠武氏の「編み物をする妹」 昭和20年8月8日戦死

 

 

戦後は、遠くなっておりませぬ

 

もう直ぐ2011・3・11の、あの日が来ます。被災者の方々は未だ厳冬に晒されています。

満2年ともなろうというのに、風化を心配する被災者さえ数多くおりますが、何故?

巻頭の図は故・水上勉氏のご長男で、永い間かの作家と会うことがかなわなかった

窪島誠一郎氏が主宰されていらっしゃる信濃・無言館に、ある絵です。

戦争で非業の死をとげた学徒出陣の方々も、あの黒々とした大津波に飲まれた方々の死も、

同じ非業と言えば非業と言えるでしょう。然もあの東京大空襲の日は、3月10日です。

同じような日でも違うと言われれば当然ですが、「魔法の森の二十年」の総仕上げは空襲による

大都会の完全廃墟にした絨毯爆撃。日本中であちこちにも。これこそ戦争犯罪ではないでしょうか。

未だにどちらの出来事も、今日あったことのように、私の心身を深く、切々と痛打するのです。

 

 

       わたしが一番きれいだったとき

                  (茨城のり子 詩)

 
       わたしが一番きれいだったとき
       街々はがらがらと崩れていって
       とんでもないところから
       青空なんかが見えたりした

       わたしが一番きれいだったとき
       まわりの人達が沢山死んだ
       工場で 海で 名もない島で
       わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

       わたしが一番きれいだったとき
       誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
       男たちは挙手の礼しか知らなくて
       きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしの頭はからっぽで
       わたしの心はかたくなで
       手足ばかりが栗色に光った

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしの国は戦争で負けた
       そんな馬鹿なことってあるものか
       ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

       わたしが一番きれいだったとき
       ラジオからはジャズが溢れた
       禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
       わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしはとてもふしあわせ
       わたしはとてもとんちんかん
       わたしはめっぽうさびしかった

       だから決めた できれば長生きすることに
       年とってから凄く美しい絵を描いた
       フランスのルオー爺さんのようにね

 

            (この詩は詩人の出発となった詩で、15歳で日米開戦を迎え、

             19歳で終戦を迎えた。第二詩集「見えない配達夫」に収録、

             そして清冽に生き、2006年、79歳の生涯をスッパリと閉じた)

 

 


    利休居士をしのびて、朝茶

2013年02月25日 | 季節の移ろいの中で

 

            名鉄犬山にある 利休の弟子七賢人の一人

         織田有楽斎の手になる茶室・国宝『如庵』

 

 

 

利休居士をしのびて、朝茶

 

 茶聖と言われた千利休は 今から約415年前 大徳寺における自らの木造像をネタに 秀吉から切腹を命じられて 自刃して果てた 忌日は二月二十八日 当然旧暦であったので 利休忌は 三月の末頃に当たる 表千家では三月二十七日 裏千家では一日遅れで 二十八日に行われる忌日を 今から書くべきではないと言われるかも知れない ましてお雛様の慶事を前にしている 気が引ける だが昨日櫻前線の予報が出た 三月の終わり頃になると  何かと櫻の記事が多くなるので 敢えてこの時期を選んで 朝茶しながら書こうと思った お許し願いたい

 

       <利休の出自>

 茶道と言われるのは 茶の湯の道の略語で 道と言うからには 遊芸と言うだけではなく 心構えを必要としている  分かり易く言えば 『茶のこころ』と言うことであろう このこころを大切にした最初の茶人は 室町時代の茶人村田殊光(むらたしゅこう)であったが  その志を受け継いだのは 殊光の孫弟子に当たる武野紹鷗(たけのじょうおう)であり  その高弟が 同じ堺の出身の千利休であった  1577年 堺の豪商魚屋の長男与四郎として生まれ 早くから茶の湯に親しみ  17歳では北向道陳の元で正式に学び始めた 各地を放浪しながら 禅の修業をしたり  様々な茶器を考案したりしながら 名を宗易と改め 村田殊光にも習った  最初にデビューをしたのは 23歳の時 戦国武将・松永久秀の茶会に  茶頭として 遺憾なく才能を発揮してからであったが 有為転変として 戦国の世を生きたのである  織田信長が堺に矢銭(軍資金)を課すようにした時 堺は抗戦派と和平派に別れた  商人であり茶人の今井宗久・津田宗及などと親しかった利休は 和平派であって  その関係から 利休は信長から取り分け可愛がられた  時に利休は既に58歳になってから 信長の茶頭になったのである  信長自身茶器の名品を漁る批判が多かったぐらい その道のスポンサーのようなものであったろう  かの本能寺には名器蒐集の為 供の者を極端に少なくして行ったお陰で  明智光秀に滅ぼされることとなったと言う皮肉な一説がある  利休62歳の時であったが 信長亡き後 秀吉が利休を 茶頭として召抱えるのである  決して合う筈もない秀吉との確執は次第に深まり 65歳で正親町天皇から 利休の号を授かると  68歳の時利休は 昔参禅をして鍛えた禅宗の大寺・大徳寺に 自らの木造を置いた  それを見咎めた秀吉は 利休71歳の時に切腹を命じ 利休は自刃して果てたのである  尚秀吉の勘気は 正確には定かではないのだが・・・・・・・・ いずれにせよ  利休以前の茶の湯は 書院造りの大広間で行われていた  殊光が茶の道を唱えて そうして紹鷗の頃になると 標準を四畳半に置き 或いはそれ以下とし  数奇屋の小座敷として 亭主も招客も 更にこころを通わせる茶会になって行ったのである  これには利休も大賛成で それまで堺の豊富な資金力に  モノを言わせた派手な茶会は一掃されたものであった

 

    <利休の茶の有り方>

 利休は 小座敷における茶の有り方を 次のように述べている 「小座敷の茶の湯は 仏法をもととして 修行し 得道することである 結構な家に住み  珍しいモノを食べ それを楽しみとするのは 俗世のことである 家は雨の漏らない程度  食事は飢えない程度で事足りる これが仏の教えであり 茶の湯の本旨である  水を運び 薪を取り 湯を沸かし 茶を点てて 仏に供え 人にも施し 

我も飲み 花を立て 香を焚く これは仏祖の行いの跡を学ぶ僧侶の日常の行事であり  小座敷で茶の湯を催す人々も やはりこうした僧侶と同様な心持で  仏祖の行跡を学ぶべきである この道理を忘れたのでは 草庵の茶事は成り立たない」と このように 茶の湯は宗教芸術の一環であり 然も実生活のうちに 日常茶飯事として催されるべきものだと言う意味だ 物質文明とはっきり区別され 近代主義をも拒否しようとし 科学万能では割り切れないモノを持っているのだ 小座敷の茶の湯における亭主の心得 招客の心得も 仏法の実現の一つだと 理解しなければ 何一つ理解は出来ないようになっている  侘び寂びの美意識や心境も これらの原理を抜きに  何一つ理解出来ないようにしているわけだ 言わば贅沢の対する大いなる反骨であった

 

        <利休の言う茶事の心得>

 茶の湯で 炉と風炉と 夏と冬の茶事の心得を 或る者が利休に質問をした すると利休は  「夏は如何にも涼しいように 冬は如何にも暖かいように 炭は湯の沸くように  茶は服のよいようにつとめれば それで茶の湯の極意は尽きた」と応える  怪訝に思った質問者は 誰でもやっている事だと言い張る  再び利休は「それならば 今教えたこころに適うようにして この利休をお客にして御覧なさい  ついでにあなたの弟子になってもいいでしょう」と応えている つまりこうなのだ 言うは易く 行うは難しいと言う意味なのである  特に茶の湯は 日常茶飯事の所作のことだから 理屈より 実行が大切であると言うわけだ  茶の湯を説くことは簡単であっても 道の通りに行うことは 大変難しいわけで  飽くまでも口先の問題ではなく 所作の原動力になるのは こころの動きだと  まごころの発露こそ 亭主と招客の間に 初めて通じ合うモノが出来て来ると言うのだ 

 

長谷川等伯が描いた「利休図」

 

       <利休の逸話>

 天才利休の逸話は数々ある それらの一端を垣間見 利休の人となりを考えてみたい  或る茶の朝会に 相客とともに招かれた時 朝の嵐の後 椋の木の葉が散り積もって 露地の表がまるで山林に差し掛かったような風情であった なかなか面白いと思っていた お茶の巧者であれば きっと これを掃き清めないであろうと予測していたが  予測とは違って 後入り(ごいり)の時 落ち葉が一枚も見られなかった  そこで利休は「朝方の茶会ならば 宵のうち 昼の茶会ならば朝のうちに掃除し その後幾ら落ち葉が散り積もっても そのまま掃かないのが 巧者と言うものだ」と教えている  露地の掃除は招客の時刻より早めにし 招客到着後はそのままにしていた方が風情があると言うものだと  自然な様子を説いていて 掃除の時期も きちんと決められている 

利休はわざと庭木を揺すり 落ち葉を落とし 掃かぬは巧者だと言う逸話があるくらいだ 又或る田舎の侘び茶人が 金子一両を 利休のもとへ送り届け 「どのようなものでもいいから これでお茶の道具を買って下され」と頼んだ  無論利休を 天下一の茶匠として 日頃蓄えたお金を委託したものであったろう  ところが利休は「この金子残らず白布を買ってあげよう」と返事をした  「侘び茶人とは 他の道具がなくても ただ茶巾さえ綺麗なものであったら お茶は飲める」と付け加えたと言う  これは奇言奇行ではまったくなく 利休の茶に対する見識の高さが伺える逸話だ  人が茶を飲むのに 常によく漱ぎ お茶を点て勧めるものであって  うす汚れた茶巾でぬぐうのを 侘びと勘違いなされぬようにと言うことで  茶碗を清潔に保つ為には 茶巾は幾らあってもいい  名器を求める金銭に余裕のない侘び茶人にとって  生半可な茶器を求めるより 遥かに理に適ったものであると言う意味である  又或る日 婿の百万代屋宗安を伴い 侘び茶人のところに行った時 露地の内側に 古い狐戸が釣ってあった  それを見た宗安は如何にもさびていて 面白いと言った 利休は全く関心を示さない 何故と問い質すと  利休は これは遠方の山寺に所望して そこから大枚を叩いて 持ち込んだものであろう  もし本当にさびたこころがあったなら そうはしないだろう  私なら 戸を売る店に行って 如何にも粗末な猿戸を欲しいと頼むだろう  そうすると戸屋は 松や杉の板屑を継ぎ合せて 何とか作りましょうと言うに違いない  そのようにして出来た戸を そのまま釣ってこそ さびて面白いと言うものだ  こんなちょっとしたことでも その茶人のお手並みは分かろうと言うものだと伝えられている 人に見せびらかす侘びやさびであってはならない 茶の侘びとは 亭主の心得のあらわれなのだからと  そのさびは さびと言う仮面をつけた贅沢に他ならない  万事このような偽りのこころで 招客を持て成すのではない  真実のこころでしか お持て成しは出来ないものだと 又 或る人が 茶の湯のへつらいと言うことを聞いた  利休は 山科のノ貫と言うオトコの話を 例に出して話し始めた  「ノ貫が私を茶に招いた時 刻限通り山科のノ貫の家に行くと  内露地のくぐり戸の前に穴を掘り その上に簀の子が敷いてあって  土を被せてあったのが分かった 何気なくその上を通り 中に入ろうとした時  土が崩れて 穴の中に落ち込んでしまった 穴の中は粘土質でベトベトであった  やっと這い出し 湯浴みをして 茶室に入り 「湯上りの清々した気分で お茶を戴いた」と言う  かねて期明(きめい)と言う人が来て もし山科のノ貫のところに招かれたら  入り口に穴がある そのような仕掛けがあるのを用心された方がいいと 早くから知っていた  然しそれだからと言って 亭主のこころ尽くしを無駄にする手はない  その志を汲んでわざわざ落ちたのである  これでこそ その日の茶事は興趣深く 生涯の思い出となったのである  ただ相手にへつらえば いいと言うものではない  亭主と招客が 共鳴し合わなければ 茶の道は成り立たぬと教えたと言う これは山科のノ貫の奇行を伝えて世に知られているが  実は奇行でも何でもなく 亭主のこころ入れを 招客が受けて立つと言う  茶の道の極意を示したことに他ならないのである 世俗は虚偽と形式に充ちている  山科のノ貫も又 虚偽を憎み 真実に生きる勇気ある茶人であったのだ  千利休は 何も小難しいのではない 虚偽が嫌いなだけであった

 

        <利休のこころは生きているか>

 侘びさびは 日本独特の美意識である  千利休によって大成された美意識と言って過言ではない  侘びさびと言った古色蒼然とした粗末な中に 美を見つけようとした利休は  幾ら粗末で侘びていても こころ豊かにと言うのが本義であろう そして物質文明に対する毅然とした挑戦であったろうし  贅沢に 怒りを持ってなした反骨であったろう  然れば現代の茶道と言えば 利休後に造られた作法が多く  がんじがらめになっていて 学ぶのは 大枚を叩かなければならない  これでいいのだろうか 利休が聞いたら 嘆くのではなかろうかと  不図淋しい気持ちになって来る 利休の目指した日常における仏事の如き茶事を  もう少し一般庶民に到るまで やり易く 普及発展しても良さそうなものである  如何にも残念な部分がないわけではない

 利休のお墓を中心に 千宗淳(千家二世宗匠)・宗旦(宗淳の子で 千家三世)・宗守(宗旦の子で 武者小路千家の祖) ・宗左(宗旦の三男で 表千家の家元)・宗室(宗旦の四男で 裏千家の家元)・道安(利休長男)の面々の墓石が堺に居並んでいる 現在の状況を 反骨の精神に満ちていた彼等は  今一体どうして何を見詰めているのであろうか 興味深いことである 

 

    巻頭図は利休居士墓石 以下利休辞世の句

「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」

 

   巻頭写真の国宝『如庵』は無為変転とし 現在は名鉄犬山ホテルにある

     http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/nyoan.html

   表千家ホームページ

     http://www.omotesenke.jp/index.html