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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  高村光太郎 幼少期とその周辺

2011年10月19日 | 文学・絵画等芸術関連

昭和30年 詩「生命の大河」 初稿  光太郎の人生最期の作品

 

 

高村光太郎 幼少期とその周辺

 

 

 高村光太郎(明治16<1883>年3月13日~昭和31<1956>年4月2日 忌日を連翹忌と言う)と言えば、あの愛の一大叙事詩『智恵子抄』や『智恵子抄 その後』や『典型』や『道程』で、類稀な男っぽい詩人として有名である。私も、これら詩の巨人が大好きだ。無論多くの優れた彫刻も残したが、高村光太郎全集(全20巻 別冊1巻)と言う膨大な量の著作集を、私は常に手許に置いている。高村光雲(嘉永5<1852>年2月18日=3月8日の説あり~昭和9<1934>年10月10日)の長男で、どこかのボンボンであるかのように思われがちだが、違う。明治・大正・昭和と言う激動の時期を真摯に生きた一庶民に過ぎない。その必死さが桁外れて違うだけなのである。そして一庶民と言っても明治の男どもは、それぞれが高い志向を持ち、直向きに前へと突き進む勇敢なる御仁たちであり、現代に生きる私たちの精神的底辺に脈々と流れている地下水脈となっているように思われてならない。そこで今日は高村光太郎の幼少期と、その凡その系譜をご紹介しながら、私たちの現在の立ち位置を検証してみたいのである。

 高村光太郎は大勢の家族と浅草清島町の裏長屋で生まれ育った。清島町をまっつぐ行くと、河童橋の通りに出た。変な蝮屋などがあった小さな路地を入った九尺二間の、うすっ暗い借家が生家であった。父・光雲は十二歳で、そこから佛師・高村東雲のところに修行に出た。父には兄がいて、先妻の子で相当上手い大工であったようだ。光雲は中島性で、本来は金華山のお寺に貰われて行く寸前であった。髪結処で、それを言うと、床屋の親父は「そんな処へ行くなんてことぁは口惜しいぜぇ。丁度丁稚を頼まれているから」って言うので、金華山に行かずに済み、高村東雲へと、際どい時に行けたのである。東雲の処では十二の年から十何年勤め、その後御禮奉公を二三年やって、二十幾つかで年季が開け、それから独立したようだ。明治の初めには徴兵制ってのがあったが、でも跡取りの長男は行かなくてもよかった。そこで師匠がその当時の風習に倣って、戸籍上名義だけであったが、師匠の妹・高村エツの養嗣子となり、以後高村姓を継ぎ、幸吉と名乗っていた。そして西町三番地に居を構え、清島町から隠居した祖父たちを呼び寄せ、ここでも大家族として九尺二間の裏長屋に住むことに。家の前を上野廣小路の方から流れて来る細い溝が鉤の手となって三味線堀に流れていたことを、幼い光太郎はよく記憶している。少し行った処に佐竹原(さたけっぱら)があって、裏長屋の裏手は紺屋の干し場になっていた。

 ここで少々面白い話を書いておこう。祖父は手が器用であった。紙を細かく折り畳んで作った細工物で、「文福茶釜」だとか、「河豚の水鉄砲」とかと名付け、浅草の大道で売っていた。そこをアチラの方に目をつけられ、堅気じゃ道っ端で、モノ売りしちゃぁいけませんぜと難癖をつけられ、それじゃってことで、祖父は香具師の仲間・花又組に入った。幸いなことに祖父の実弟が甲府で、ヤクザ集団の親分として仕切り、武芸が出来、滅法腕っぷしが強かったと見え、祖父の出世への道を手伝い、祖父は直ぐに頭角を現して、浅草香具師の親分にまでなっていた。体格は小さかったが、声が馬鹿にでかく、怒鳴ると皆平伏したようだ。中島謙吉と言う祖父の名前だが、後に兼松と名を改め、仲間うちから「小兼(ちいかね)さん」と愛称で呼ばれて、肩で風を切って歩いていたと言う。江戸中の顔役が集まり、何か重大な裁きをつけなければならない時は甲府から実弟が乗り込んで来て、鮮やかに裁ききったらしい。そんな関係から光太郎は喧嘩の仕方を祖父から学び、浅草中の興行場はどこでも無料であったと言うから一層痛快な気分となる。光太郎少年にとって、祖父の背中はさぞや大きく見えたことだろう。面白いエピソードが数々ある。祖父は丁髷を切らず、夏など褌一つで何処へでも出掛けた。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんから、「ご隠居さん!もう裸では歩けなくなったんですよ」と喧しく言われ、てやんでぇとばかりに、祖父は透き通る蚊帳で着物を拵え、褌が殆ど見える風体をして、堂々と交番の前を歩いたようだ。更に可笑しいのは祖父謙吉の妻、つまり光太郎の祖母だが、祖父にとっては二度目の女房で、埼玉県の菅原と言う処の、神官の娘で、字も立派だったし、歌も詠み、方位などに滅法詳しく、大変な教養人であったと思える。香具師に神官とは、これ如何に!それがね、可笑しいことに、この神官のお嬢さんを誘拐して来て、謙吉の女房にしたようである。ただ祖母は常に謙吉に足を洗わせようとし、幸吉(後の光雲)の年季が明けた頃には素人になっていて隠居していた。但しこの御仁、ただの楽隠居であろうはずがない。長屋の格子などから、手先が器用なものだから、影絵を作って、富本節に合わせ、近所衆を大いに楽しませていた。そうした祖父の手先の器用さや、祖母の凛とした教養と達者な字書きなど、その両方とも後の光太郎に隔世遺伝したものではなかろうか。そう思えるぐらい豊富な逸話が残されている。何でも鳥取藩士の出で、文化の頃に江戸に出て町人となったらしいが、光太郎自身そんなことはどうせ出鱈目だろうからと言って全く気にしない。祖父はヤクザだけではなく、光太郎の幼少時に記憶があるが、祖父はどんなことに辛いことがあっても、既に身体が不自由になっていた曽祖父を、必ずオンブして毎日銭湯に通っていた優しさもあった。

 処で、西町で、この祖父母たちや光太郎たちと同居して、初めてのドンパチが勃発した。以前の香具師仲間が佐竹原で、奈良の大佛さまの模品を作って見世物にしたことがあった。その模品の出来具合を観た幸吉は黙っていられない。少なくとも佛師見習い明けの立派な彫り物師だったからだ。心(しん)は丸太にしなければならないとか、ここにこういう風に板を張り付けるべきだとか、つい口にしてしまったのである。そこで祖父と大喧嘩になるはずだったのが、大佛の中が伽藍堂になっていたのを、あれやこれやと幸吉は拵え、立派なものに仕立てあげていったと言うから運命は面白い。祖父は呆気に取られてしまったのである。こうして現場監督になった切っ掛けが、後に大きな地歩になるのだから更に面白いものである。ただこの大佛はよほど大きかったらしく、品川のお台場の沖を通る船まで見え、当時としてはモノ凄く大きな作り物だったのだろう。神田明神さまの祭礼の時、どでかい台風が来て、粗末な多くの長屋は全壊したらしいのだが、この佛像だけ半壊程度で済んだようで、幸吉(後の光雲)の腕も、祖父にとっては一種の自慢の種だったことだろう。こうした一件は幸田露伴先生の小説の材料にされているようである。尚、露伴先生の代表作「五重塔」近辺の、谷中の墓地は光太郎が最も慣れ親しんだ遊び場であった。

 歳末になると、浅草 鷲神社のお酉さまに、縁起物の熊手をたくさん作っちゃ売りに行く。小さな光太郎は父親が引くリヤカーの後押しをして手伝った。光太郎(本名はみつたろうと呼ばせた)は間違いなく長男だが、上に長女のさくがいて、次女にうめ、そして光太郎で、下に妹のしづがいた。その次が道利で、次に後に高村家を継ぐことになる彫金師の豊周がいて、更に孟彦がいて養子に出され藤岡姓を名乗った。最後に出来た子がよし。そんな子沢山で、子供だけで8人もいたのだ。九尺二間の裏長屋に、それだけの子供たちと、幸吉夫妻と祖父夫妻が暮らしていたのである。時の政府は廃佛棄却(日本史始まって以来の蛮行で愚行)があったために、佛師の仕事が皆無と言ってもいいぐらいだったために、幸吉は家族を養う必要があって、何でも引き受け、どんな彫り物でもこなした。根付とか、お盆だとか、ありとあらゆる彫り物をやったことだろう。後の光太郎は父・光雲の手速さと巧みさに、愛惜を限りなく持ちながら、手記に詳細に述懐している。幸吉の妻(光太郎たちの母親)は、小舟町辺りの金谷という殻問屋に厄介になっていた人の娘で、始めはわかと言い、後にとよと名乗った人だが、大変不幸な人だったらしい。そこを世話好きな祖父がその子の余りの気立てのよさに惚れ込み、倅の嫁にと、半分身請けみたいにして、母を助けたらしい。母はまるで自分を無くすように、父幸吉(=光雲)に忠実に仕え、典型的な日本の母親像であったと光太郎は言う。学問はないが悟りが早く、お家流だけれど字もが達者で、仕来りを大事にし、年中行事に精通していて、それを子供たちに当然のこととして授けたようだ。光雲は金になる象牙はさほどやらなかった。象牙の作品はその重さで値段がつくからで、日本彫刻の本来あるべき「こなし」の技法に拘ったからであった。光雲の作品の値段は実に単純で、何日掛けて仕上がったから、その日々の手間賃で割り出されていたと言う。家計は大いに苦しかったが、弟子も増えて来ると、運命が偶然に開けて来た。岡倉天心先生が是非にと説諭懇願し、父・光雲を現在の東京芸術大学教授に推薦したのだった。西町から御徒町へ移り、それでも長屋暮らしが続いたが、芸大の先生となるとそうはいかない。生活が当たり前のように出来ると、駒込林町(上野寛永寺の薪取り場)に移り住むことになる。だが祖父は相変わらず派手なことが大好きで、光雲もそれを許し、それで尚一層家計は逼迫していた。

 

父・光雲 芸大の教授となる

 

父・光雲像を制作する光太郎 

確か この像は安曇野の碌山美術館にあるはず

 

父・光雲の代表作 「楠公馬上像」 皇居前広場にて

 

父・光雲の代表作 「西郷隆盛像」 上野恩賜公園にて

この時、最も煩かったのは白洲正子の祖父・樺山海軍大臣であった

 

光雲はその木彫に本来の価値があり 万博に出品された「老猿」

 

 父親である光雲と光太郎の二人はお互いの芸術的方法論や手法に、大きな差異があり、父子の相克は酷いものがあったなどと、一般的には書かれてあるが、高村光太郎全集の第十巻にある「回想録」を読めば、全くそんなことはないのである。どれだけ丹念に父の偉大さを評価していたかが分かろうと言うものである。晩年光太郎はロダンを批判する代わりに、父親が言っていたことを、はっきりと書いている。「ロダンの彫刻はまだまだコナシが出来ていない」と。そして光太郎の作品に、木彫の小品が多いが、光太郎の妻・智恵子は、それらの小品を殊更喜び、出来上がると、智恵子は胸中深く作品をしまいこんで、駒込林町の夜の町を飛んで走っていたのだった。光太郎の木彫の立派さは父・光雲の絶大な仕込みがあったからである。光太郎の幼少時分から、制作のあらゆる場面を見せていた。口で言ったり、手本を示すことは一切なかった。「楠公」の像を創る現場に明治天皇がわざわざ出向いて観た時も幼かった光太郎を連れて行った。だが光雲は内心楠公の刀の部分が仮付けであったことを心配し、万一取れるようなことがあったら、切腹ものだと覚悟していたので、光太郎どころではなかった。又光太郎は父・光雲の、どんな行動をも見て育ったものだ。祖父も光太郎を可愛がった。何せ母親のとよは、又女の子であったら離縁も覚悟をした光太郎の出産であったし、そういう時代だったのである。それだけ長子というのは重いものであった。

 一方、光太郎は美大に進んだ時、与謝野鉄幹の雑誌に寄稿したり、次第に文学にも目覚め、洋行から帰ると、中原中也たちとパンの会を創立し、荒くれた生活をしていたことは事実で、だからと言って父・光雲に対しての宛て付けであろうはずがない。最初行ったアメリカも、ロンドン行きもそれぞれ一年ずつだが、パリは9ヶ月。すべて光雲が出した私費であり、官費留学などという甘ったるいものではなかった。パリでは直接ロダンと出逢った。時に留学先で知り合った荻原守衛も一緒だったが、ロダンと出逢って近代彫刻を学んだけれど、父に面と向かって刃向かうことは一切なかった。但し光太郎の随想に、「出さなかった手紙」や「父との関係」という一文が多数はにかむように残されているにはあるが。尚新宿・中村屋二階で、守衛は大量の喀血をし、若干30歳で亡くなるが、中村屋のオーナー相馬夫妻は、何と光太郎と同じ駒込林町に住んでいたのである。ご夫人の黒光と、守衛はただならぬ関係であったようだが、守衛は遊ばれただけであったのかも知れない。可哀相な守衛。荒れくれた生活を送っている時に、偶然出逢ったのが長沼智恵子であった。その智恵子は光太郎の不良性を一気に変えてくれた人と光太郎は自作の詩に歌っている。そうして長沼智恵子と、上野・精養軒で結婚式をあげるに至る。父・光雲は大変な喜びようであったらしい。その後光太郎はロダンの翻訳をし、若き彫刻家にエールを送るが、断じて芸大の教授にはならなかった。僅かな稿料で、智恵子と二人糊口を啜いだのである。智恵子の実家の酒造(花霞)屋が傾くと、智恵子はだんだん可笑しくなり、40を半ばに本格的に狂い始めたが、光太郎の智恵子への愛は変わることが全くなかった。光雲は貧乏だった息子夫婦に何くれと援助し、智恵子を光雲も相当可愛がったようである。半狂人の智恵子48歳の時、光太郎は智恵子を初めて入籍した。もし自分が早く逝ったら、智恵さんはどうやって生きて行けるのだろうと真剣に心配したからであった。光雲も大賛成し、でも智恵子の死を看取ることもなく、明治の大彫刻家は昭和9年に82歳で大往生したのだった。軍部の台頭も知らずに死を迎えた光雲は幸せな人だったかも。尤も光太郎・智恵子の二人は入籍せずともやって行けるはずと、それがモダンな方法だと信じたためであった。それまで智恵子と、三歳差であったことも知らなかった光太郎であった。やがて品川の南ゼームス坂病院で結核を併発すると、総合性失調症で智恵子が死に、光太郎はどんなに哀しみにくれ、嘆き苦しんだことだろう。

 智恵子が52歳で亡くなり、太平洋戦争が勃発すると、遮二無二光太郎は戦争を鼓舞する詩を書いた。まるで智恵子の哀しみを振り払うように、書きまくった。但し実際の戦局は一切知らされることもなく書いたもので、戦後バカ者集団の日本共産党は光太郎のように戦争に関わった人物として糾弾し戦犯の一人として扱ったのである。能天気集団のイデオロギーは一体どれほど時間を持つものか、共産主義の歴史は何年なのかと、今改めて日本共産党をここに激昂するが如く激しく糾弾したいものである。山田耕筰やサトウ・ハチローや、多くの画家など、戦争に駆り出されたすべての芸術家がヤリ玉にあがったが、特に藤田嗣治などが最も可哀相で、彼は二度と日本へ帰ることはなかった。戦争賛美は確かによくないことだが、反論にはならぬが、日本人総員が軍部によって催眠状態ではなかったかとだけ申し上げておこう。中でも宮本三郎が描いた「山下・パーシバル両司令官会談図」などは見事な戦争絵画で、マレーの虎と恐れられた山下中将の敗戦辺りで戦争を終結していたら、原爆投下も沖縄の激戦もなかったことだったろう。たった半年だけの勝利で、延々と負け続けた関東軍は決して許せない。取り分け関東軍の主計だった東条英機は絶対に許せない。本国から戦費の調達が難しくなったら、彼は中国人に芥子を栽培させ、阿片を売買させて、戦争をし続けた張本人であった。自決も出来ぬ軍人などいるものか。まぁこのぐらいにして先に進もう。昭和20年4月の、東京大空襲で光太郎のアトリエが焼かれ、作品のすべてを消失し、腑抜けのようになって光太郎が向かった先は、宮沢賢治の花巻で、生前賢治は光太郎のアトリエに来て、賢治と光太郎は兄弟のような間柄であったからだろう。無論賢治は既に死んでいなかったが、実弟の清六さんを頼みに出掛けた花巻。だが過酷な爆撃は花巻にも及び、賢治の実家は空襲によって灰塵となり、光太郎は途方に暮れた。そこを花巻の青年団が山口に案内し、そこに小さな小屋を建て、生涯最期の七年間を、あの粗末な山荘で、自給自足しながら暮らしたのだった。山口は特に酸性土壌が酷く、過酷な生活体験であったことだろう。粗末な小屋に、真冬は吹雪が吹き込んで来て、光太郎は頬かむりをして寝たようである。そして戦争詩について、ついぞ弁明することがなかった。「私にはもともと離群性がある」としか。そして父親に連れて行って貰った明治天皇陛下との会見があったかどうか、生涯果てるまで、お正月には日の丸の国旗を掲げることを忘れなかった。正月の詩は何十篇も多大に残っているが、昭和30年、山口の山荘前の、白雪に挿した手描きの日の丸の詩篇が最期であっただろう。やがて青森市から注文が来て、十和田湖畔に立つ「乙女の祈り」を完成させ、智恵子の眠る駒込の霊園に仲良く収まったのであった。享年73歳。尚「松庵寺」と言う詩が残されているが、戦災で焼け出された花巻にて、畳二畳ばかりの仮設の寺で営まれた法要のことを歌った詩で、殆ど智恵子の供養をしたことになっているが、仮の位牌は智恵子だけではなく、父・光雲の位牌もあったことは間違いないことである。これら、市井の一芸術家の生死は、今日の私たちにどうだろうか、大きな希望と勇気を与えてくれるものと信じていたい。大勢の家族を一手に引き受け、激動の生涯を終えた光雲にも、お線香の一本でも立てるべきだろう。今回の記事の最後は光雲の手業を盗み磨いた光太郎の木彫の小品をご紹介して終わりたい。更にもう一つ山口に現存する光太郎の山荘を出しておこう。但しこのような立派な鞘堂は以前はなかったことだと申し述べておく。

 

光太郎作 木彫 「桃」

 

光太郎作 木彫 「蝉」

 

光太郎作 木彫 「石榴」

いずれの木彫も高い精神性を感じられてならない

 

高村光太郎 山居独考の跡 これは鞘堂で中に本体の粗末な小屋あり

 


   古川柳から見た江戸 第二部・江戸の時間ほか

2011年10月17日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

湯屋 女風呂 但しすべて混浴で 江戸時代の性はおおらかだった

湯船は石榴(ざくろ)口と言われる奥まったところにあり 男女混浴

 

 

古川柳から見た江戸  第二部・江戸の時間ほか

 

 

 江戸時代は時間をどう表現し生活に使われていたのだろう。それは季節によって異なる時差、それを出来るだけ忠実にあろうとして、言わば「不定時法」と言った時間の観念であっただろう。時刻は重要なことであり、子、丑、寅、卯・・・と言った十二支を用いて区分する方法と、単に数字を用いて区分する方法の、両方があったようで、数字の場合は子の刻に当たる午前0時が九つで、以下二時間ごとに、八つ、七つ、六つ、五つ、四つとなり、正午が再び九つとなるように用いられた。但し、日の出が明け六つで、日の入り暮れ六つなので、夏は昼が長く、冬は夜が長いことになる。夏至の頃の、昼の一時(いっとき)は約2,6時間で、冬至の頃の昼の一時は約1,8時間となるわけである。但しそこまで厳格かというと、そこまでではないらしく、時を知らせる市中の「時の鐘」は、柔らかい時間差があったようである。最初に、「市中の鐘」が出現したのは日本橋・本石町の鐘楼で、その後それに続いて鳴ったのは浅草寺・上野山内・本所横川町・芝切り通し・市ヶ谷八幡・目白不動・赤坂円通寺・四谷天竜寺などの鐘楼が続いた。従って若干の時差も出たのであろう。

  石町は江戸を寝せたり起こしたり

  石町は無常に遠き鐘の声

  石町へ越すと早速びっくりし

 鐘の突き方は、九つなら九回突くはずだが、人々の注意を喚起するために、「捨て鐘」と言って、その前に三つ突いたので、合計12回鳴らされる勘定になる。然しそこまで正確ではなく、特に夜中の鐘の数は随分酷いものだったようである。

 

江戸時代の時刻表

 

 明け六つに、長屋の木戸が開けられ、長屋の一日が始まる。

  納豆屋は時計のように廻る也

  納豆と蜆(しじみ)に朝寝起こされる

  金色(こんじき)の男蜆を食い飽きる  (金色とは黄疸のこと 大酒のために肝臓病の一歩手前になったか)

  咲くように朝な朝なの青菜売り  (毎朝のことだが 「な」とは菜を掛けている)

  裏店を見くびるような冬瓜(とうがん)売り

  さかな屋は四つ過ぎまではえらを見せ  (四つとは10時ぐらいまで 新鮮さを見せたがり その後はえらを見せたがらない)

 長屋の亭主族は殆ど手弁当持ちで仕事に出た。ただ手習いに行った子供は昼食に帰ったようで、長屋まで戻るが、一方食後の後片付けをした女房は簡単な内職をしていたようだ。

  昼飯を外からどなる手習い子

  せんたくや近所の人のアカで食い

  呼ばれても二針三針縫って立ち

  手習い子帰ると鍋をのぞいて見

  隠れんぼちょっと眠った立ち姿

  悪筆は蝉や蜻蛉(とんぼ)を後悔し   (手習いをやっておけばよかったと 大人になってから後悔する)

  明日から手習いだあと叩いてる  (太鼓を叩いて歓んでいる場面)

 仕事から帰った亭主が銭湯で汗を流して来ると、夕食になる。長屋には色んな食べ物の行商人がやって来て、旬の食材を提供してくれる。女房は食後の後片付けをしてから、仕舞湯に入りに行く。早寝早起きが長屋の鉄則だ。そんな生活でも、真夏は例外で、風通しの悪い屋内よりも、少しでも風の通る路地に出て涼を求める。子供たちは花火で遊んだりする。

  花火をもらい日が暮れろ日が暮れろ

  涼み台ぎしりぎしりと人が増え

  裏店の涼み大家に追い込まれ

 長屋の木戸は、夜の四つ(午後10時頃)に閉められてしまうので、夜遊びも楽ではなかった。浮世床や遊郭や三業地や浮世風呂など、絶好の社交場であったようである。同じ長屋の者や町内の者同士が、仕事の休みの日や、暇な時間に顔を合わせ、雑談や囲碁や将棋などをして、社交場となるのが、銭湯の浴槽であり、その湯屋の二階であったり、髪結床(かみゆいどこ)の待合の時間であった。そこが唯一の団欒の場所であって、社交場となっていたのである。

  髪よりは無駄をゆうのが多い也

  絵を書いた障子はむだの会所也

  髪結床一冊ずつは絶えずあり  (今もある週刊誌のようなものが置いてあった)

  気の強い女髪結床で聞き   (女性の評判話を聞く絶好の場所か)

  もてぬ奴髪結床を変えてみる  (今でもありそう)

  女湯の義理は小桶のつかいもの  (一桶掛けてやるお世話が効くようだ)

  石榴口(ざくろぐち)人を飲んだり戻したり  (入り口は男湯女湯が違っていても 湯船は同じであって 石榴口から真っ裸の男女が混浴をする 性にはおおらかであった)

  五、六杯入れろと海老が怒鳴る也  (湯加減 真っ赤になった海老のようだと)

  男湯を女の覗く急な用  (この場合の女湯や男湯は湯屋の二階が男女で違っていたからか)

  目の覚めた子を女湯へことづける

  女湯で起きた起きたと抱いてくる   (まさか子供ではなく ??)

 寝床は長屋で、ダイニングルームは屋台であろう。そしてミーティングルームになっているのが、湯屋であり髪結床であったのだろう。ともかく裏長屋はワンルーム暮らしと言った処で、日雇い労働者や店舗を持たない行商人や、素浪人などが住んでいた。単身者も多かった。無論家族持ちも多かったが、家族構成は平均3~4名で、夫婦と子供一人か二人ぐらいだったろう。ワンルームに、つましくささやかに肩を寄せ合って生きていたのである。長屋の稲荷社には地主は勿論のこと、長屋の皆さんも朝な夕なにお供え物をあげて、拍手(かしわで)を打っていた。土間は一畳半ほど。そこには水甕や、竃(へっつい)や、流しや、調理道具などが置かれてあった。トイレは外付けで、雪隠(せっちん)と言い、後架(こうか)とも言った。扉が下半分隠れているのが関東式である。人糞は貴重な肥料となり、近郊の農家が買い取りし、そのお金は通常大家のものになっていた。玄関の引き戸は下半分に腰高板(こしだかいた)を張ったもので、商売をやっている家の腰高障子には屋号が書かれてあった。はきだめ(芥溜 塵置き場)は陶磁器の破片など、分別回収され、それは埋立地に再利用された。畳部分には米びつや飯櫃が置いてあり、箪笥もあった。箪笥のない家ではツヅラを使っていた。雨の日のために、笠と蓑は必須のもので、室内に掛けられていた。角火鉢(丸火鉢も)や煙草盆や、それが不思議なことに殆どの家に神棚があったようである。外装は下見板張りと言って、板の上下が数センチずつ重なるように張った外装で、火事には滅法弱かった。棟割長屋とも呼ばれ、壁は荒壁や板壁で、薄くて壊れやすく、隣家へ、あらゆる話し声などは筒抜けであった。夫婦の睦言もあけすけであった。更に壁に出来た穴などで、隣家同士、穴を通し物の貸し借りもあったようで、真にいいお付き合いなしでは生きてゆけなかったかも知れない。物干しも外にささやかにあったが、板塀と言って、隣家棟との敷地境界線があった。真につましいものであっただろう。

 

湯屋情景図 下田に来た外国人が驚きを持ってスケッチをした

 

 上図は渡航した外国人が下田でスケッチした絵であるが、江戸でも同じ光景が見られたようで、スケッチやエッセイなどに数多く残されている。平気で混浴する習慣に、外人は腰が抜けるほどびっくりしたことであろう。幕府は風紀的配慮から時々禁止令が出たが、全く効果がなかったようである。女性が嫌がれば直ぐなくなるものを、当時の女性たちはまんざらでもなかったようである。『守貞曼稿』には、『ユイイル、ト云謎也。「射入る」ト「湯ニ入ル」ト、言近キヲ以テ也。』と書かれてあり、「湯入る」と、「弓射る」とを掛けた江戸っ子の洒落であった。入浴後二階で休息しながら、談笑や囲碁や将棋をして楽しんだ。茶や駄菓子も売っており、覗き窓から女性を鑑賞することも出来た。家に風呂がない時代、湯屋に毎日通い、油っ気が抜けたのを自慢しあっていた江戸っ子たちにとって、夏ともなれば男女の別なく、行水(ぎょうずい)をするのが普通で、室内外を問わず、ちょいと覗けば半裸体や全裸体など極普通のことであった。さすれば現代人と違って、江戸時代の女性たちはさぞや貞操観念が強かったと思われがちだが、実際の庶民は性におおらかそのものであったようだ。そもそも江戸開府以来、地方から仕事を求める人で溢れていた。参勤交代の武士や、浪人など、その多くは単身者が多かったために、市中あちこちに性風俗を売り物にした私娼が出現した。吉原のような幕府公認の遊郭を始め、江戸っ子たちは少しくらいのカカァの浮気は寛大であったようである。例えば寺社仏閣の境内は、大道芸や見世物小屋や茶店などが立ち並び、庶民らの集う一大歓楽地であっただろう。特に矢場はその典型であった。人々のお参りついでに、ちょいと寄る矢場のお目当ては、30矢で6文(約40円)の、手軽な遊びであり、矢を射ると、「矢返し女」が目当てであって、外した矢を返す女は、実は客に春を売る女性であった。又江戸時代の浮世絵はすべての浮世絵師によって、優れた春画が肉筆画としても版画としても膨大な数量が作成された。娘の嫁入りに際し、箱枕に忍ばせた絵が中心で、今で言うならポルノかも知れないが、作画家の特徴をよく捉えており、性教育も行き届いていた証拠となろう。春画については我が尊敬する木村草弥先生のブログに集大成されている。アダルトにつき、取り扱い要注意だが、あの上村松園でさえ、春画の肉筆を残してあるので、その春画(木村草弥先生編纂)を敢えて紹介をしておこう。

 髪結床とは、江戸時代に幕府から営業権を与えられたサービス業のことで。式亭三馬の話にもある通り、髪結床は湯屋(銭湯)の二階と同じで、男の社交場であった。殆どの湯屋には女が休息する場所は少なかったからである。髪結床は通常長屋の脇にあるが、改めた建物にある床もあった。これを「内床(うちどこ)」と言い、橋の袂や町境の空き地にある床を「出床(でどこ)」と言った。「出床」は町の見張り番や、出火の際の役所への駆け込み役など、公儀のお役目も果たしていた。入ると直ぐに、「上がりがまち」があり、1mほどの板敷きになっていて、客は板の間に表を向いて腰掛し、髪を結って貰う。その奥は畳敷きで、そこで自分の番が来るのを待っていた。囲碁に将棋、読み本なども置いてあり、世間話のし放題であった。番が来ると、先ず「小僧」のいる上がりがまちに腰を掛け、元結(もとゆい=髪を束ねている紙のヒモ)を切り、フケを取り、髪を梳く。次に「中床(なかどこ)」に入り、月代(さかやき)を取って顔を剃り、ザッと髪を結い、最後に親方が綺麗に撫でて仕上げると言った風である。

 三味線の起源は14世紀末に中国の三弦が沖縄に輸入され、三線と称し琉球歌曲の伴奏に使用されるようになった。一方、中国の三弦は大阪・堺にも伝来し、琵琶法師が最初に手にすることになる。その後琵琶法師たちがカタチや奏法などの工夫改良をした。胴皮には蛇の皮が使われていたのを、入手しやすいことから、猫や犬の皮が使われることになった。それが現在の三味線の原型となったのである。江戸時代になると、三味線の普及が著しくなり、歌い物(歌詞より旋律を重視した長唄や小唄のこと)と、語り物(浄瑠璃など)の二つに別れ、流派に応じて更に分化し発展していったのである。又歌舞伎の伴奏や、地方の民謡にも多角的に使用されるようになっていった。近世日本を代表する弦楽器である。

 小唄とは元々端唄から派生した俗謡で、一般には幕末から明治に掛けて多数創られた「江戸小唄」の略称であり、略称として定着したのは明治・大正年間であった。端唄は撥(ばち)を使用して使われるのに対し、小唄は爪弾きで、上記の発生事情から大きな差異はない。爪弾きとは言え、正式には爪にあててはならず、爪の横の指の端で弾く。演唱の場は主にお座敷(四畳半)が多く、撥を使用すると音曲が大き過ぎるために、自然と爪弾きになったものだろう。三味線は端唄と違い、中棹を使用し、使用する糸も端唄より太く、駒は端唄より大きな木駒を使用する。ぼんやりとした謡い方で、呟くように軽妙に粋に唄うのが特徴である。基本は三味線1、替手や上調子や下調子が入る唄もある。演奏時間は凡そ一分半から三分程度で、長くとも五分以内。慕情物・情痴物(市井のお色気を扱ったもの)・芝居物・役者物(役者や芝居を題材にするもの)・バレ物(風刺や洒落が効いたもの)・田舎物(民謡風なもの)などがある。端唄は鳴り物が入るが、小唄は三味のみで演唱される。最後に江戸の名菓子である榮太郎本舗の、ほんのり甘い飴でも嘗めながら、小唄の一つでも唄って終わりとしたい。

  『梅は咲いたか』

    ♪ 梅は咲いたか櫻はまだかいな

      柳ゃなよなよ 風次第

      山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな

 

    ♪ あさりは獲れたか はまぐりはまだかいな

      あわびくよくよ 片思い

      さざえは悋気(りんき)で 角(つの)ばっかりしょんがいな

 

 江戸時代の川柳は今の時代に、生き生きとして生きている。江戸の風俗だけではなしに、そこには庶民の信仰や娯楽など、目いっぱいに詰められていて、大火事の後も、天変地変の災害の直後でも、すぐさま再興し、日本人らしく逞しく生きていたのである。七ヶ月過ぎた東日本大震災に、心からのお見舞いと、改めてのお悔やみを申し上げ、江戸庶民とともに、早く復興を果たしたいものである。かくも多くの自然災害が次々にのしかかる日本人にとっては自惚れや慢心などあろうはずがないと、お稲荷さんに再びお誓い申し上げよう!

 


   古川柳から見た江戸 第一部・長屋

2011年10月17日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

江戸の古地図(一部) 時代によって古地図は違っている

 

 

古川柳から見た江戸 (第一部・長屋)

 

 江戸は新興地である。太田道灌が、1587年に江戸城を築城してから三年後、1590年に徳川家康がここを居城と定めた。無論幾多の災害や飢饉があって、江戸はそれ以来安泰だとは必ずしも言えない。だが、1603年に家康が江戸城に幕府を開設して以来、264年間の長きに渡って平和な時代が築かれたのである。今日の私たちの足許を見詰める時、江戸時代から解きほぐすことから始めたほうが分かり易い。江戸時代というのは不正解で、正確には徳川時代であったろう。異論反論はあろうが、約二世紀半のも間、泰平の世が続いたのであった。

 1603年 ①家康 江戸に幕府を開く (この年イギリスではシャイクスピアの「ハムレット」が初上演される。

 1605年 ②秀忠 キリスト教禁止令 吉原に遊郭開設を許可

 1623年 ③家光 海外渡航と帰国が厳禁に 参勤交代の制度化

 1651年 ④家綱 明暦の大火で江戸の大半が焼失す

 1680年 ⑤綱吉 八百屋お七の火事 生類憐れみの令 松尾芭蕉『奥の細道』に出立 元禄赤穂浪士事件が発生 井原西鶴『好色一代男』くぉ発表

 1709年 ⑥家宣 新井白石らによる政治改革 近松門左衛門『冥土の飛脚』初演

 1713年 ⑦家継 江戸城大奥の「絵嶋生島」事件発生

 1716年 ⑧吉宗 享保の改革 大岡忠相が町奉行に着任

 1745年 ⑨家重 柄井川柳が点者としてスタート 『川柳評万句合』の発行

 1760年 ⑩家治 鈴木春信が錦絵を始める 『俳風柳多留』発行 アメリカ独立戦争

 1787年 ⑪家斉 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』発行 曲亭馬琴『南総里見八犬伝』発行 伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』完成 葛飾北斎『富嶽三十六景』、歌川広重『東海道五十三次』など次々に発行され 旅行ブームに

 1837年 ⑫家慶 アメリカ船、中浜(ジョン)万次郎を伴い琉球に渡航 

 1853年 ⑬家定 ペリー艦隊が浦賀に来航

 1858年 ⑭家茂 桜田門外の変 アメリカ大統領リンカーンが奴隷解放を宣言す

 1866年 ⑮慶喜 薩長同盟成立

 1876年    徳川幕府は大政奉還し 慶喜は朝廷に政権を返上して 徳川幕府は終わる

 主な徳川時代の出来事の列挙であるが、この長い幕藩体制の時代、時代の証言とも言える多くの川柳が残っていて、江戸庶民の生活など様々な事象が窺える。川柳とは柄井川柳から始まったものであるが、いつしか川柳だけで、今の時代にもその時代の反映が見てとれる。

 川柳とは、前句付から独立した17字の短詩のことで、前句として、「切りたくもあり切りたくもなし」などという7・7の前句(=短句)に、「5・7・5」の付け句(=長句)を付けることを前句付(まえくづけ)と言った。因みにこの前句に付けられた句は、「さやかなる月をかくせる花の枝」とか、「盗人を捕らえてみればわが子なり」という前句付になり、この後の句が独立して川柳となったものである。江戸時代中期に、前句付の点者(てんじゃ=選者)であった柄井川柳(からいせんりゅう)による選句を「川柳点」と呼び、付句が独立し「川柳」となったわけで、古くは狂句などの呼称もあったようだ。明治以降統一され、川柳となったのを切っ掛けに、明治以前の川柳を「古川柳」と呼ばれるものである。柄井川柳(本名 八右衛門)は宝暦7年(1757年)、40歳の時に点者としてスタートし、8月25日に万句合の第一回を開き、『川柳評万句合(せんりゅうひょうまんくあわせ)』が発行され、明和2年(1765年)には『俳風柳多留(はいふうやなぎだる)全』(後に初篇と呼ばれる)が刊行された。『俳風柳多留』は、24篇までが柄井川柳選により、その後は他の点者によるもので、天保11年(1840年)まで、167篇が刊行されるに至った。

 さて江戸の人口はどのくらいあったろうか。無論時代差が若干あるものの、ほぼ同意見で集約されている。実に110万人もの人が住んでいて、当時世界的にはトップクラスの座にあったと言えよう。武家方が55万人で、町方も55万人であったという。今のように埋立地が少ない当時の狭い江戸の総面積に占める割合では、実に69%が武家方の居住地域で、寺社地が15%、従って町方の居住地域はたったの16%であった。人口密度で計算すると、町方の居住エリアは息も出来ないくらいの狭さ。町方の総面積は約270万坪(約9キロ平方メートル)なので、1キロ平方メートル当たり、約6,1万人となる。現代の東京23区で最も人口密度が高い中野区でも、1キロ平方メートルに約2万人程度だから推して知れることだろう。ここに「長屋」の存在が大きかったわけである。そうして火事と喧嘩は江戸の花となるのであった。

 長屋とは二軒以上の住宅が一つの棟下に立ち並び、細長く見えるがゆえの名称で、原則として同じ間取りの連棟であった。つまり賃貸アパートのようなものだ。江戸住民の比率も面白い。「真の江戸っ子」は1割、「斑(まだら=両親のどちらかが江戸っ子)」が3割、「田舎子」が6割ということである。そんな構成からすると、長屋とは「諸国のはきだめ」の観が否めない。然しここには驚くべき運命共同体のような存在があり、しかも驚くほど強固だったことは特筆に値しよう。

  江戸者の生まれそこない金をため

  独り者やれ茶をくれろ火をくれろ

 表通りに面して3軒から5軒ぐらいの2階建ての表店(おもてだな)があり、無論表長屋もあったが、殆どが路地内にあって裏店(うらだな)とか、裏長屋と呼ばれるものであった。路地を挟んで向き合う形で10軒前後が並び、それを一つのグループにした。落語や講談に出てくるのは、こんな裏長屋の住人たちのことで、路地は実に狭くたった3尺(0,9m)しかなく、川柳に「裏店へ傘青眼(せいがん=剣道でいう正面相対の構え)の身の構え」というのがあるが、見事にその狭さを表現している。京都の場合、先に表通りの店から始まり、後付で、その内側の空いた土地に、店子や身内のために家を造営したために、路地(京都ではロージという)のが数多く発達した結果である。更に裏長屋は俗に「九尺二間」と言われている。即ち間口が九尺(2,7m)、奥行きが二間(3,6m)で、入り口・台所含めて3坪(6畳分)が標準サイズであった。

平均的長屋 これが二棟向き合ってあり 端には木戸があった

 

  九尺店(くしゃくだな)長いもらしい梁(はり)ばかり

  裏店へ貳俵(にひょう)重ねて憎がられ

  九尺店琴をならわせそねまれる

  その手代その下女ついに九尺店   (結婚し新世帯=あらぜたいを持った意)

  その手代その下女昼は物言わず   (奉公先ではお互いに口を利かなかった)

 障子を開けると、玄関と土間がある。その左右いずれかに3尺四方の流しがある。竃(へっつい 或いはかまど)があり、台所用品を置く3尺四方の板縁があった。

  女房が留守で流しに椀だらけ   (女房がいないとどうにもねぇ)

 板縁の奥は四畳半一間の座敷だが、フスマなどの仕切りがないので、玄関から全部丸見えだった。夜具は片隅にまとめられ、衝立(ついたて)で隠されていた。

  竃祓(かまばらい)ひたひで鈴をふりおさめ  (荒神信仰による年越しの挨拶だが、何と言っても狭かったから、額に当たることで済ませたとある)

 両側・裏側とも壁一つを境にし隣り合っている関係上、風通しが悪く、隣家のどんなことでも聞こえてきたものであった。

  裏店の壁には耳も口もあり

  隣まで朝寝をさせぬ小擂鉢(こすりばち)

  隣の子おらがうちでも鰯だよ

  朝帰りそりゃ始まると両隣

  朝帰り四隣(しりん)しばしば振動し

平均的長屋の内部 (大江戸博物館参照)

 

 まるで落語の会話そのもののようで、興味深く面白い。路地の突き当たりには共同の水道場(井戸)があり、共同便所(雪隠=せっちん)や、最奥には稲荷社があった。路地中央には幅3寸(9cm)の溝が排水路として走っている。ドブ板が乗せてあった。

  井戸端へ人のうわさを汲みに行き

  井戸端へ我がおさらばを揃えて居   (井戸自殺するために下駄をわざと揃えていたが、誰か止めてくれよとの願いが込められている川柳)

  井戸替えに大家と見えて高足駄   (7月7日 井戸の大掃除 店子は皆裸足であったが、大家は威張っていたと見える)

  長屋中検視が済むと井戸を替え   (井戸の中へ身投げした後始末 大掃除 足駄を揃えるのは身投げするのを止めての意)

  雪隠へ先を越されて月をほめ

  雪隠へものを言うのは急なこと

  雪隠の屋根は大方屁の字なり

  肥取りに尻が増えたと大家言い   (肥は飼料として売られて 店子全員に分配されるか大家個人の手取りにもなった)

  家主の世話で肥取りいもを売り   (下肥のこと)

  店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき (その餅は分配されることもある)

 地主の持つ土地や家屋の管理人が大家で、「大家と言えば親も同然」の関係であった。大家の任務は、土地や建物の管理(貸与・修繕・家賃の取立て)で、奉行所への連絡義務や、奉行所からの貰い下げや、お触れの伝達や、訴訟の付き添い、出生死亡など人別(にんべつ=戸籍)の移動などの責任があり、長屋の者たちへは絶対的な威厳があり、結構為すべきことがあった。

  雨もりを大家の前にぶちこぼし   (守宮=やもり 家守を掛けている川柳か)

  店賃(たなちん)の帰りに屋根の穴を言い

  独りもの店賃ほどはうちにいず   (独身者のこと)

  むつかしい大家はたえず札を張り   (入居募集の張り紙)

  空き店(あきだな)の左右鍛冶屋に粉屋なり   (近所迷惑な騒音)

  空き店が四十七軒暮れに出来   (元禄15年12月14日 赤穂浪士の討ち入り事件に揶揄して詠まれた川柳)

  四、五人の大家をしかるいいくらし

 長屋にはそれぞれの路地口に木戸があり、朝夕の開閉は長屋の住人の月番(つきばん)と大家が行う方法があった。そして驚くことに殆どの長屋の奥に稲荷神社が祀られ、通りの中心は下水で、その上にはドブ板がはめ込まれていたが、結構臭かったことだろう。井戸はお上さん連中の最上の社交場で、井戸端会議なる楽しみがあった。長屋につき、お隣の音は筒抜けで、隣は今何をやっているのか、井戸端会議では多くそうした話題にコト欠くことはなかったのである。手習(てならい=関西は寺子屋)などによって識字率も非常に高く、こうしたいい意味での運命共同体は明治ご維新の際、世界に類を見ない植民地にならなかった功績として大きい。薩長閥だけではなく、多くのこうした庶民の中からも立身出世し、かの奇跡的な革命が達成されたのである。第二部では江戸における時間のことを書かせて戴きたい。

  跡月(あとづき)をやらねば路地もたたかれず (店賃滞納の場合、心苦しく、威張って木戸を叩けなかった)

  店賃は済んだが路地のたたきよう  (木戸を大きな態度では叩けなかった)

                                (第二部 江戸の時間に続く)

湯屋 男湯二階の様子 一人の男が亀覗きをしている場面 だが入浴は混浴

 


   文化の一大がらくたショー

2011年10月10日 | エッセイ

ロダンの本に アカガシやマテバシイの団栗を置いてみた

 

 

文化の一大がらくたショー

 

 

  網目のように、美しいNZの国土を隈なく突っ走ると、文化と自然が見事に溶け合っていた。私を待っている人のために、久し振りに東京に帰ってみると、まぁそこらじゅうが文化のがらくた市で、足の踏み場もない。特に福島の方々が哀れでならない。「京都五山の送り火」は二転三転し、結局高田の松原の松は使われることがなかった。これは福島県ではなく、岩手県だぜ。後日成田山で、放射性物質の検査をしてみると、全く反応がなく、安全だということで、無事「お焚き上げ」に使われた。当初抗議をしていた人からも賞賛のメールに変わったという。文化人のツラァして、一皮剥いたら何ということはなく、餓鬼にも仁義があるのだと京都人に言いたい。そしたら今度は愛知県日進町の花火大会で、福島県川俣町産の花火が放射性物質の拡散があるとの強い市民抗議に屈し、愛知県産の花火に差し替えられた。大阪府河内長野市の架橋工事で、福島県郡山市の建設会社が製造した橋桁であったために、地元住民から放射能汚染の心配の抗議があって、発注元の大阪府はこの工事を中断した。又福島県の農産物支援ショップを計画した福岡市の市民グループは、放射能汚染の苦情が殺到し、計画断念に追い込まれた。何と言う恥の上塗りだろうか。どれもが基準値以下であり、そしてそれらは被災地からの申し出ではなく、主催者からの発注であったことが特別に悲しい。正しく知って正しく恐れる科学的な根拠に乏しく、もそっと勉強し給えと申し上げておく。船橋市の中学校に数人の福島第一原発近くから避難してきた生徒に、放射能が移るから近寄るなといった集団イジメに相当し、開いた口が塞がらない。子供たちの、あのイジメとどこが違うのだろう。お互いをリスペクトする心情に甚だ欠けている。政府や東電の迷走ぶりに、こうした風評被害が裏打ちされ、後を絶たないのだろうか。ウンザリである。

 

我が家の池の葦などで作った風車や笹ぶね

 

 我が家では8月に、父と二人して徹底的に除染した。二日掛かりであった。雨樋の落ち口付近や高木の庭木の下部付近や暗渠になっている庭の水路や、盆栽の苔や自家製コンポストや落葉樹の落ち葉などで高い線量が計測されたためで、高速放水車をチャーターして、徹底してやった。でもさすがに盆栽には高速砲が使えず、父は何度手で水洗いをしたことだろう。お蔭で、宅内の殆どで計測しても検出されなくなったが、放射性物質を含んだ土嚢数十個は、未だに行き場がなく、二重三重にブルーシートで包まれたまま宅内に貯蔵している状況で、都庁に相談中。尤も高い線量といっても、年間1ミリシーベルト未満を頭から信用していないわけで、被災地の皆さまからは笑われる値かも知れないが、用心するに越したことはない。

 帰国してから、邸内の安全な野の草取りをし、子供たちと日がな遊んだ。付近の公園や外出など控えてきたためであるが、笹ぶねを作って、鯉が遊魚している中に流した。風車も、皆で歓んで作った。娘は相変わらずヴァイオリンをギコギコやっている。専属の先生の顔も時々綻ばせるらしい。長男は最近絵を見るのが好きらしく、絵本を心行くまで眺めている。ディズニー番組やカートゥーンやアニマックス番組などのテレビ動画はまるで観ない。更にムーミンやピーター・ラビットをたくさん傍に置いてあるが、「スーホの白い馬」が特に気に入っているらしく、寝る時もいつも一緒である。親としてはただ材料を与えるしか出来ないが、どこかで何かが、弾けるように目覚めて欲しい一心。でも子供たちは日々勝手に大きくなるらしい。

 

いつか行った多摩川上流域や奥多摩湖に 又行きたいと姉弟からの連呼

 

 世界は今大きく変化しようとしている。東日本大災害以上の大きなウネリで、差し迫ったことばかりである。ギリシャ国債の大量購入した銀行や生保など、青色吐息である。フランスとベルギーに拠点があるデクシア(大手銀行)は遂に破綻して、ユーロは泣いている。ギリシャ国債を多く所有していたためであり、欧州ではこうした傾向は今後も続くだろう。ロシアのプーチン首相が再び大統領として復活し、強政大国となるのか。ポルポト政権を応援した中国政府は中越戦争を起こし、その罪科は未だに看過出来ない。何故なら今度は南海沖の領有権問題で、強引にベトナムと揉めているからである。資本主義大国のアメリカも、社会的システムの再構築を求められている。習近平氏が最高指導者になったら、日中関係はどうなるだろうか。勝手に李承晩ラインを引いて、竹島を実効支配している韓国はグン様だとかヨン様だとか、小母様族が言いなりになり、新大久保のコーリャン・タウンは老若ないまぜの女性たちで溢れ返っている。BSテレビでは矢鱈に韓流映画で溢れ、まるで韓国政府から洗脳されていそうな勢いである。ロシア空軍は何度も日本の排他的海域上空を周回し、海軍軍団も千島沖航行に幅を利かせている。アラブの春がやってきても、エジプトでは選挙される気配すらない。アフガン政府とインド政府が極く最近、蜜月ぶりを発揮し、パキスタンを困惑させている。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地が混在するエレサレムはたった1キロメートル四方に過ぎない。パレスチナ問題は一層複雑になる一方である。ノルウェイで起きた右翼青年の銃乱射事件は欧州各国が潜在的に持つ火種で、欧州各国が大航海時代から植民地主義を強行した移民問題の帰結で、残り火である。ソマリアに自衛隊を派兵するかどうかも大きな問題で、更に農作物の不作による飢餓は地獄そのものだ。最も優秀な共産国家であったキューバもカストロ元首相の衰退とともに、カリスマ性が薄れ、貧困のどん底に喘いでいる。世界は同時に沈没して行くようで、これじゃ世紀末と認識されても仕方があるまい。コロコロ変わる日本の指導者は世界中の何処でも名前すら覚えて貰えていない。党として態を為していない民主党は川内博史代議士(小澤派)が公言する通り、一政党に二つの政党があると、どのツラ下げて発言しているのか。八ツ場ダム問題は2年経過しても、解決の糸口すらない有様だ。TPP問題を先送りすれば、日本は世界の孤児になろうとしているのに、民主党では議論すら行われていないことが不思議である。未だに瓦礫撤去が捗らず、大震災の問題は遅々として進んでいない。いきなり原発危険区域の解除を言われても、安全であるかどうか、そいつが先だろう。トコトン福島県民を苛めぬいている。若者はかつての学生と同様に、純粋な動機でデモを画策する気配すらない。沖縄問題、格差社会、年金問題、官僚第一主義、電力会社の独占体質、安全保障問題、海水汚染問題、原発問題、財政再建問題など、数々の問題を抱えたまま、政府はズルズルと結論を出せないまま、気がついてみると、いつのまにか日本は社会主義国家になってしまった風である。若者は平気なツラをして、オタク文化に現を抜かし花盛りの頂点であり、老いも若きもどこかのことのようであり、海外に出れば一層恥かしく嘆かわしく思われる。

 今回クリントン国務長官が日本人の留学生が極端に減少していることに憂慮されたことはいみじくも他国の干渉と一言で片付けられない問題である。ランク上から言えば東大は断トツで下部に位置する。勉強せず、エログロナンセンスのオンパレードで、目標も夢も持たない若者を抱える国家には重荷でしかなく、悲劇でしかない。村上春樹がノーベル文学賞を受賞出来なかったのは勿怪の幸いである。エンターテイメントな作品だけでは、売れているからと言ってもしょうがないのであり、指導者の一人としてもっと社会性を発揮して貰いたいと注文を出しておこう。天下のハルキストには済まぬが、止むを得ぬ。汚物に溢れ、義理人情もとっくに失せた日本を心から憂慮して余りある。来月は家内と一緒にパリに行くが、書誌学も科学の分野に入りつつあるからである。私は妻の通訳として同行する。私にとっても家内にとってもきっといい旅になることだろう。

 

遊びは工夫や発見に満ちている

 


   春のニュージーランドへ

2011年10月08日 | 

クライストチャーチの民家の櫻

 

 

春のニュージーランドへ

 

 被災地通いで、すっかり塞ぎ込むことが多かった私を、妻が後押ししてくれて、私は久し振りに、三週間余、海外に出ていました。最初はNYへ。美しい初秋のセントラルパークが眼前に広がるザ・リッツカールトンに宿泊し、9;11を迎えました。そしてあの恐ろしいテロの鎮魂の儀式へ。グラウンド・ゼロには、二つの四角い池があり、その周囲に犠牲者の名前が刻印されていて、我が親友の名前もありました。せめてもの鎮魂の碑なのでしょう。多くの犠牲者を悼むご家族で溢れていました。私は優しくその刻印をなぞると、再び涙が溢れ、あの惨劇の凄まじさが蘇ってきて堪りませんでした。JF・ケネディ空港から既に厳戒態勢で、物々しい取締り。まるで厳戒令でも出ている風でした。前と現在の大統領には逢えませんでしたが、それが逆によかったように思われてなりません。白黒二極どちらに味方するのかと全世界に迫った単細胞のリトル・ブッシュに逢いたくなかったからでありましたが、その式典こそアメリカ国民自身のものであったからであります。既に100階以上の新しい高層ビル建築が始まり、現在80階まで完成していました。その他三つのビル群が立ち並び、いずれのビルも再び悲劇の舞台にならないことを祈るばかりです。そこからたった200mの地点に、新しいモスクの建設の話が。知人に聞いてみると、未だに決定的な建築される模様はないようです。そこに、イスラムのモスクを建築していいものか、実はイスラムの信者間でも議論があるようで、偶々私が連絡したイスラムの宗教者は何とも言えない複雑な繰言を繰り返すばかりでした。五番街の、元居たオフィスに立ち寄ると、ミシガン州のディアボーンは凄いよと教えらました。少々興味がありましたので、空路ディアボーンに入ってみました。花の自動車産業の町だとばかり思っていたのに、何と町の殆どの人々はイスラム教信者でした。変われば変わるものです。シーア派もスンニ派も仲良く暮らしておりましたが、過激な主義主張の人は無論表面上では一切見受けられませんでした。イスラムの人々は何かと肩身が狭い思いがあるようで、太平洋戦争中、在米日本人がすべての個人資産を没収され、各地に強制収容されたようなことが二度と起きて欲しくありません。

 戦争の殆どは宗教対立かエネルギー戦争の、そのどちらかです。あの魔法の森に陥った太平洋戦争もエネルギー戦争がそもそもの発端でありました。ようよう秋に近づいているこのデイアボーンの無機質な町を歩くと、何だかジャズの聖地ニューオリンズに似ているような独特な雰囲気がありました。最も酷い被害を受けたニューオリンズの復興がなされたのでしょうか。今年のアイリーンの被害も、あれやこれや心配です。でもどこに過激な思想を持った人がいるのだろうかと、私は真摯に疑いました。皆無ではないでしょうけれど、イラク戦争は時期尚少ではなかったか、様々な疑問を持つべきです。そうした状況下でか、何かアメリカは閉塞状況が強く、今回の「格差社会反対デモ」が始まる前に、ミシガンからLAに飛び、漸くサンタフェの自宅に到着致しました。遣る瀬無さで満ち溢れています。アメリカに行っても被災地巡りはないだろうと、日本でチビ達と頑張る妻に電話をすると、カラカラと笑われてしまいました。日干し煉瓦の我が家のベットで丸二日間爆睡状態。数度のトイレと水のみ以外完全に深い睡魔に襲われていました。心配して見に来て下さった管理人から起こされるまで、殆ど何も食べず眠っていたのです。余っぽど疲れていたのでしょう。アメリカを後にしました。リーマンショックだけではなく、莫大な対テロ戦争の戦費も、重々しく国民に圧し掛かっているのではないでしょうか。

  アメリカ滞在はたった五日間で、今回何としても行きたかったニュージーランドに行く途中、私は西オーストラリアのパースの友人宅にお邪魔しました。サンタフェ同様、パースはまことにいい気候で、やっとこさ気楽になりました。パース近郊のフリーマントルの友人宅に二泊しました。世界金融はどうなっているのか、第三者のようなこの町の金融人に聞けば相当だろうと思われました。我が友も金融関係の人ですが、南半球で最大の金融機関が集まるパースは、最も冷静に現在の世界金融状況を分析していました。いずれユーロ危機はギリシャが追い出されるか、ドイツが抜けるか、二つに一つだと言う結果でしたが、果たしてそうなるのでしょうか。その後スペインやイタリアやポルトガルが待機している状態です。ギリシャは観光と海運だけで、五人に一人は公務員です。財政再建の道は果てしなく遠いもののようです。今後のギリシャの再建は優秀なドイツマネーを注ぎ込んでも結局上手くいかないだろうと言うものでした。ユーロは政治的な思惑が本音だったのでしょうか。まさに経済的な連携だけでは可笑しいものだと断じていました。愛のないセックスを嫌々ながらしているようなものだとウィンクされました。スイスフランはGDPの半分を市場介入し、安定しています。ユーロに入らなかったイギリスは少しは楽なものだったのでは。

 私はオーストラリア航空の便が偶々あったので、ニュージーランド北島の最も大きな空港であるオークランド国際空港を目指さず、その隣のハミルトン空港を目指して飛びました。ニュージーランドには今回二つの目的があったからです。15万人もの署名を集めて、ラグビー・ワールドカップの招致をした日本チームはJ・F(ジョン・カーワン)コーチのもと必ずやいい結果を出してくれるに違いないと、私には確信がありましたし、特に本国ニュージーランドとの世紀の一戦を観戦したからからでもあります。空港を降り立って、すぐブルルとしました。たった3時間のフライトで、住み易さは違うようです。春まだきといったところでしょう。夕刻だったので、周囲の状況はよく見えず、ハミルトン・ワイカトスタジアムに行きました。入場券を購入し、中に入ると、もう一つの目的である櫻塾々生たちの、ホームスティ見学。全員で、48名の塾生のうち、11名ほどがホームスティ先の方々と一緒に来ていました。試合開始は20時。既に、気温は10℃をとうに切っていたように思われます。何と、日本との試合は特別な意味があると。そう言えば、ジョン・キー首相と、日本ラグビーフットボール会長の森嘉朗氏が選手たちと整列していました。ニュージーランドでは今年2月に大地震に見舞われ、両国の友情と災害への同じ思いから特別にメッセージが出されました。

 

日本ラグビーフットボール協会の 正式ロゴマーク

 

 セレモニーでは、日本~ニュージーランド両国の大地震被災に対する哀悼の辞が読み上げられ、その後選手も会場の方々も全員による黙祷が捧げられました。観ると、ニュージーランド国民の方々も、日本応援団として数多く日の丸が出ていました。大感激した一瞬でした。同時に私は世界中廻っても、日本の震災は忘れられるものではないことを強か知りました。

 

ラグビーワールドカップ2011ニュージーランド大会
大会マッチデープログラム JRFUから感謝のメッセージ 内容

【掲載文】

Thank you to the global Rugby family

On behalf of all Japanese people, the Japan National Team and Japan Rugby Union, we would like to express our
deepest gratitude to the global Rugby family for your kindness, consideration and sympathy following the tragedy of the March 11 earthquake and tsunami centred on East Japan.


Our team and our Union would also like to offer our heartfelt sympathy to all those affected by the earthquakes in Christchurch. We feel bound   together with the people of New Zealand as both countries face the consequences of these events and continue the long rebuilding process.

We aim to show our appreciation for the support we have received as a nation by responding as a team and giving
our best performance at RWC 2011.

We are determined to participate in the tournament with courage and pride.
Yours in Rugby,


Japan National Team
Japan Rugby Football Union

 

【日本語訳文】

ありがとう、世界のラグビーファミリーの皆様

我々日本代表チーム並びに財団法人日本ラグビーフットボール協会は、日本国民を代表して、この度の東日本大震災に対して世界中のラグビーファミリーの皆様からいただいた様々な御支援や御厚情に対し、心より感謝の意を表したいと存じます。

今回の大会ホスト国であるニュージーランドのクライストチャーチも大地震の被害を受けており、被災された皆様には心からのお見舞い申し上げます。また、共に大震災によってもたらされた困難に直面している国同士として、ニュージーランドの人々との強い絆を感じます。

我々日本代表は、この大会でベストパフォーマンスをお見せすることが、この度の災害に対して寄せられた皆様の御支援にお応えすることになると信じています。

我々は勇気と誇りを持ってこの大会を戦ってまいります。

日本代表チーム選手団
日本ラグビーフットボール協会

 

 世界ランキング一位との格闘の結果は惨敗でした。「うなぎステップ」の小野澤選手のワントライだけでしたが、誇り高いニュージーランドとの一戦は格の違いが大きく、横綱と十両の試合のような試合でした。それでも日本選手へ拍手は会場割れんばかりで、私たち日本人も多くの勇気を貰った素晴らしい試合でした。ニュージーランドにも「判官びいき」というものがあるのでしょうか。日本の真似をしてまでペインティングをしてたたくさんの若きNZの国民に、心から御礼を申し述べたいと思いました。だってただ一度の手抜きもせず、徹底して圧勝したわけですから、これが相手国に対する最高の礼儀というものでしょう。試合開始直前、ブラックジャージー軍団(オールブラックス=NZ代表チーム)によって、先住民マオリ族の戦闘を鼓舞する「ハカ」が演じられ迫力満点でした。最初っから感動の連続で、私は大きく満たされました。私はアイスホッケーやラグビーをこよなく愛します。

 結局、日本チームは予選全敗でしたが、釜石ラグビー部の選手もいる日本チームはとても誇らしく思いました。だって真紅のジャージーに、櫻のエンブレムが躍動していたのですから。ビデオで観た対フランス戦は中盤で3点差まで追い詰め、あと一息の大接戦でした。いい夢を魅せてもらったものです。今後とも櫻のエンブレムを背負った日本チームに継続精進して欲しい一心です。それにしてもNZは国技がラグビーということもあって、ラグビー競技場が多いこと、驚きました。羨ましい限りです。

 

クライストチャーチ ハグレー公園の櫻道

 

 8月の末から、ニュージーランドの各地に、我が塾生がホームスティしています。私は出来るだけ、塾生にいる風景を見たかったのですが、翌日からレンタカーを貸し切りにして、各地を櫻巡礼をすることにしました。NZ中、全距離6千キロ。出発前、ラグビー球場で出逢った二・三のお宅に訪問し、私はすっかり安心しました。塾生は皆生き生きと元気いっぱいで、櫻の開花と共に、羊の子供たちのベビーラッシュでもありました。子供たちは何と贅沢な日々を過ごしているのでしょう。受け入れて下さった四市の市長に表敬訪問をし、記念品を差し上げ、和気藹々でした。このNZでは8月中旬に、50年ぶりと言う豪雪に見舞われたようでしたが、夏の終わりである日本の時季には、ニュージーランドでは春の盛りとなります。塾生たちの家庭訪問や塾長に任せ、北島や南島に生息する櫻の樹を観て歩きました。ウェールズ出身の塾の教師ただ一人が私と行動を共にしてくれました。ワイカト大学のキャンパスも、IPC(パーマストンノース大学)も春真っ盛りで、何てこんなに櫻があるのか不思議に思えてなりませんでした。ただその殆どは染井吉野であったことが気に入りませんでしたが、湖水から見られる雪山の風景に、櫻は実によく似合っていました。そしてそれぞれ土地で櫻祭りが開かれておりました。国土は日本の四分の三ほどですが、人口密度が低く、驚くほど多くの国立公園が点在していました。何だか箱庭のような風景でもありましたが、素晴らしいことです。パチンコ屋のような消費電力が多いお店もなく、小さな水力発電が個々のお宅を支えております。本物のエコの精神でしょう。

 全部で、800本の櫻の樹を調査して廻りました。根回り・樹齢・樹勢・管理人名・樹種・来歴などなど。全行程距離6000Km、期間十日間で。ハグレー公園には山櫻や太白もあります。樹齢は150年を過ぎていることから、イギリス王立キュー植物園あたりから寄贈されたものでありましょう。そこで19世紀半ばに、日本にやってきたプラントハンターから持ち出されたものと推定致しました。高峰譲吉博士や、財団法人日本さくらの会から持ち込まれた新しい櫻もありましたが、私たちはホームスティしているお宅に、二本ずつ持ち込みました。山櫻と江戸彼岸の枝垂れ櫻です。凡そ120本の櫻の苗木は厳格な検疫のため、塾生の手許に届いたのは二週間も掛かってからであったようですが、それぞれのご家庭の、美しい庭に植えたれたようです。櫻というのは不思議なもので、満開の日、たった一日だけはひとひらの花びらも散りません。でも驚くことに、ニュージーランドの櫻は満開のまま、普通二週間ほど、凄いのは一ヶ月ほど満開の状態が続くと得意顔でした。日本より寒冷のまま咲き続けるのでしょう。

 私たちは全世界を櫻の海にしたいと思っておりません。適切な場所に、お人さまの懇願があって植樹することにしています。世界各地の風土を壊す気などさらさらありません。そうして、NZの風土はまことに正しく、足し算の文化ではありませんでした。電力も真摯に考え、こと足りるだけの需要と供給のバランスが重要でした。自給自足の法則が当たり前になっている国民なんです。印象的なIPC(パーマストン大学)の櫻並木。クイーンズタウンや、特に凄かったのはクライストチャーチでした。ハグレー公園は最高でしょう。私は櫻の花翳にスッカリうずもれていたように思います。

 

10年前に 亡き主人と植えた枝垂れ櫻は見事でした

 

IPC大学正門通りの『櫻祭り」は強烈でした

 

 西洋では樹のなる花は、お花だけの観賞ではこと足りず、果実そのものが楽しみとされ、重要視されて参りました。果実がなっても利用し収穫が出来ない多くの櫻は、そんな期待はされせんが、近年実の利用されない花の櫻でも多くの地域で、受け入れつつあるように思われます。櫻に添って、特にNZ国民と共にありたいと強く願いました。怒涛の二週間の大半がNZ各地に、櫻への股旅行脚。櫻バカになりきって夢のようなひと時を過ごして参りました。探せばあるはあるはなんです。たっぷり櫻の風景を満喫し、成田から自宅に帰ると、咽せ返るような金木犀の香りに圧倒されました。ヒヤッとする秋本番でした。NZの満開の櫻は標準的に十日間も満開の状態で、これから八重の櫻も咲くのでしょう。9月20日から来年の4月まで夏時間となり、日本との時差が1時間長くなりますが、どうも帰国してから十日間も経つというのに、頭が夢まぼろしのように、あちらNZの櫻のほうに向いているようです。

 すっかり秋ですねぇ。万葉の時代は萩の花も花見に行く対象でした。何故花を観るか、生きとし生けるものにとって、自然から得られる生命感を心身に満たしたかったからなのです。それを「感染呪術」と言いますが、五穀豊穣を祈る際に、子宝祈願もしていたことによく似ています。花だけの観賞が意味が無いとする過去の西洋人の考え方は間違っています。南島の小さな村で、私のミニ講演会があった時、そのことを申し述べました。櫻を愛する村人の方々もほぼ同意見であったのがとっても嬉しかったです。

 十月五日、私たちの塾生たちは元気いっぱいでただ一人の脱落者もなく、帰って参りました。引率者8名も皆無事でした。来春予定されている北米とプリンスエドワード島への上陸、今回行けなかった子供たちもきっとそれを楽しみにしていることでしょう。櫻は勇気ある再生の花であり、痛んだ心は股旅同様の花行脚の旅でスッカリ癒えたよう、今後も塾生たちと、被災地復興のお手伝いをすべく、再びの強い覚悟が湧き上がってきております。