硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     これだけは観てから死にたい櫻たち

2013年03月29日 | 

奈良県大宇陀町の又兵衛櫻

 

 

 

      これだけは観てから死にたい櫻たち

 

 財団法人日本さくらの会の櫻の植樹は何の哲学もなく、さりとて根拠もなく、理由があるすれば、財団法人から寄贈した染井吉野を喧伝したいだけで、「日本櫻100選」が存在するのであって、戦後一層押し薦めてきた染井吉野の植樹に、何一つ反省することがない。同財団には一種の怒りさえ感じられてならない。ユンボなどの重機製造で有名なコマツは財団法人日本花の会をやっているさくらの植樹とは違う。私的な機関で、資金も自ら調達しているから、それなりに頑張っていると言ってもよい。結城市にある彼らの苗場を見れば一見にして理解できる。財団法人日本さくらの会は、賭け事の収益から得て、会を賄っている上、染井吉野だけ植え、まるで日本全国を総白痴化しようとしているかのようで、甚だ不愉快である。理事長は時の衆議院議長ときているから猶更不快である。以下日本さくらの会が定めた「日本櫻百選」であるが、既に有名であった箇所と財団が薦めた櫻の箇所と巧妙に混合されているから、実にずるいと言わざるを得ない。戦中・戦後、櫻が政治の舞台に利用されたような匂いがして好きになれない。

 

 ≪日本櫻百選≫

     【 1 】:二十間道路桜並木     ●北海道静内町《Tel:01464.3.2111》 

     【 2 】:松前公園         ●北海道松前町《Tel:01394.2.2275》

     【 3 】:県立自然芦野公園     ●青森県金木町《Tel:0173.53.2211》

     【 4 】:弘前公園         ●青森県弘前市《Tel:0172.37.5501》

     【 5 】:高松公園         ●岩手県盛岡市《Tel:0196.51.4111》

     【 6 】:北上市立公園展勝地    ●岩手県北上市《Tel:0197.64.2111》

     【 7 】:船岡城址公園・白石川堤  ●宮城県柴田町《Tel:0224.55.2117》

     【 8 】:桧木内川堤・武家屋敷通り ●秋田県角館町《Tel:0187.54.1114》

     【 9 】:千秋公園         ●秋田県秋田市《Tel:0188.66.2112》

     【10 】:真人公園         ●秋田県増田町《Tel:0182.45.5516》

     【11 】:鶴岡公園         ●山形県鶴岡市《Tel:0235.25.2111》

     【12 】:烏帽子山公園       ●山形県南陽市《Tel:0238.40.3211》

     【13 】:三春滝桜         ●福島県三春町《Tel:0247.62.2111》

     【14 】:霞ケ城公園        ●福島県二本松市《Tel:0243.23.1111》

     【15 】:鶴ケ城公園        ●福島県会津若松市《Tel:0242.27.4005》

     【16 】:かみね公園・平和通り   ●茨城県日立市《Tel:0294.22.3111》

     【17 】:静峰公園         ●茨城県瓜連町《Tel:029.296.1111》

     【18 】:日光街道桜並木      ●栃木県宇都宮市・今市市《Tel:028.623.3297》

     【19 】:太平山県立自然公園    ●栃木県栃木市《Tel:0282.22.3535》

     【20 】:赤城南面千本桜      ●群馬県宮城村《Tel:0272.83.2131》

     【21 】:桜山公園         ●群馬県鬼石町《Tel:0274.52.3111》

     【22 】:熊谷桜堤         ●埼玉県熊谷市《Tel:0485.24.1111》

     【23 】:大宮公園         ●埼玉県大宮市《Tel:048.641.6391》

     【24 】:長瀞           ●埼玉県長瀞町《Tel:0494.66.3111》

     【25 】:清水公園         ●千葉県野田市《Tel:0471.25.3030》

     【26 】:茂原公園         ●千葉県茂原市《Tel:0475.22.3361》

     【27 】:泉自然公園        ●千葉市若葉区《Tel:043.228.0080》

     【28 】:上野恩賜公園       ●東京都台東区《Tel:03.3828.5644》

     【29 】:小金井公園        ●東京都小金井市《Tel:0423.85.5611》

     【30 】:井の頭恩賜公園      ●東京都武蔵野市《Tel:0422.47.6900》

     【31 】:新宿御苑         ●東京都新宿区《Tel:03.3350.0151》

     【32 】:墨田公園         ●東京都墨田区《Tel:03.5608.6180》

     【33 】:県立三ツ池公園      ●横浜市鶴見区《Tel:045.582.6996》

     【34 】:小田原城址公園・城山公園 ●神奈川県小田原市《Tel:0465.33.1521》

     【35 】:衣笠山公園        ●神奈川県横須賀市《Tel:0468.22.8333》

     【36 】:村松公園         ●新潟県村松町《Tel:0250.58.7181》

     【37 】:大河津分水        ●新潟県分水町《Tel:0256.97.2111》

     【38 】:高田公園         ●新潟県高田市《Tel:0255.26.5111》

     【39 】:大法師公園        ●山梨県鰍沢町《Tel:0556.22.2151》

     【40 】:小諸城址懐古園      ●長野県小諸市《Tel:0267.22.0296》

     【41 】:高遠城址公園       ●長野県高遠町《Tel:0265.94.2551》

     【42 】:臥竜公園         ●長野県須坂市《Tel:026.245.1770》

     【43 】:富士霊園         ●静岡県小山町《Tel:0550.78.0311》

     【44 】:さくらの里        ●静岡県伊東市《Tel:0557.36.0111》

     【45 】:高岡古城公園       ●富山県高岡市《Tel:0776.20.1563》

     【46 】:松川べり彫刻公園     ●富山県富山市《Tel:0764.43.2072》

     【47 】:新境川堤         ●岐阜県各務原市《Tel:0583.83.1111》

     【48 】:霞間ケ渓         ●岐阜県池田町《Tel:0585.45.3111》

     【49 】:根尾谷・薄墨公園     ●岐阜県根尾村《Tel:05813.8.2511》

     【50 】:兼六園          ●石川県金沢市《Tel:0762.21.5850》

     【51 】:足羽川・足羽山公園    ●福井県福井市《Tel:0776.20.5346》

     【52 】:霞ケ城公園        ●福井県丸岡町《Tel:0776.66.3000》

     【53 】:五条川          ●愛知県岩倉市・大口町《Tel:0587.66.1111》

     【54 】:山崎川四季の道      ●名古屋市瑞穂区《Tel:052.841.9350》

     【55 】:鶴舞公園         ●名古屋市昭和区《Tel:052.731.1610》

     【56 】:岡崎公園         ●愛知県岡崎市《Tel:0564.23.6257》

     【57 】:三多気          ●三重県美杉村《Tel:05927.2.1111》

     【58 】:宮川堤          ●三重県伊勢市《Tel:0596.28.3705》

     【59 】:海津大崎         ●滋賀県マキノ町《Tel:0740.28.1188》

     【60 】:豊公園          ●滋賀県長浜市《Tel:0749.62.4111》

     【61 】:嵐山           ●京都市西京区《Tel:075.861.0012》

     【62 】:笠置山自然公園      ●京都府笠置町《Tel:07439.5.2159》

     【63 】:御室桜          ●京都市右京区《Tel:075.461.1155》

     【64 】:醍醐寺          ●京都市伏見区《Tel:075.571.0002》

     【65 】:大阪城公園        ●大阪市中央区《Tel:06.941.1144》

     【66 】:桜の通り抜け       ●大阪市北区《Tel:06.351.5361》

     【67 】:万博記念公園       ●大阪府吹田市《Tel:06.877.3331》

     【68 】:夙川公園         ●兵庫県西宮市《Tel:0798.35.3151》

     【69 】:明石公園         ●兵庫県明石市《Tel:078.912.7600》

     【70 】:姫路城          ●兵庫県姫路市《Tel:0792.85.1146》

     【71 】:奈良公園         ●奈良県奈良市《Tel:0742.22.0375》

     【72 】:吉野山          ●奈良県吉野町《Tel:07463.2.3081》

     【73 】:郡山城址公園       ●奈良県大和郡山市《Tel:07435.2.2010》

     【74 】:紀三井寺         ●和歌山県和歌山市《Tel:0734.32.0001》

     【75 】:七川ダム湖畔       ●和歌山県古座川町《Tel:07357.2.0180》

     【76 】:根来寺          ●和歌山県岩出町《Tel:0736.62.2141》

     【77 】:久松公園         ●鳥取県鳥取市《Tel:0857.22.8111》

     【78 】:打吹公園         ●鳥取県倉吉市《Tel:0858.22.8111》

     【79 】:松江城山公園       ●島根県松江市《Tel:0852.31.5214》

     【80 】:斐伊川堤防桜並木     ●島根県木次町《Tel:0854.42.1122》

     【81 】:鶴山公園         ●岡山県津山市《Tel:0868.22.3310》

     【82 】:千光寺公園        ●広島県尾道市《Tel:0848.25.7184》

     【83 】:上野公園         ●広島県庄原市《Tel:08247.2.2121》

     【84 】:吉香公園・錦帯橋     ●山口県岩国市《Tel:0827.41.2750》

     【85 】:常磐公園         ●山口県宇部市《Tel:0836.31.6416》

     【86 】:西部公園・眉山公園    ●徳島県徳島市《Tel:0886.21.5295》

     【87 】:琴弾公園         ●香川県観音寺市《Tel:0875.23.3933》

     【88 】:松山城          ●愛媛県松山市《Tel:089.948.6557》

     【89 】:鏡野公園         ●高知県土佐山田町《Tel:08875.3.3111》

     【90 】:牧野公園         ●高知県佐川町《Tel:0889.22.1900》

     【91 】:西公園          ●福岡市中央区《Tel:092.741.2004》

     【92 】:小城公園         ●佐賀県小城町《Tel:0952.73.4801》

     【93 】:大村公園         ●長崎県大村市《Tel:0957.53.4111》

     【94 】:熊本城          ●熊本県熊本市《Tel:096.352.5900》

     【95 】:市房ダム湖畔       ●熊本県水上村《Tel:0966.44.0311》

     【96 】:水俣市チエリーライン   ●熊本県水俣市《Tel:0966.63.1111》

     【97 】:岡城公園         ●大分県竹田市《Tel:0974.63.1111》

     【98 】:母智丘県立自然公園    ●宮崎県都城市《Tel:0986.23.2754》

     【99 】:忠元公園         ●鹿児島県大口市《Tel:09952.2.1111》

     【100】:名護城公園        ●沖縄県名護市《Tel:0980.53.1212》

 以上の日本櫻百選は百選にすること自体無謀であり無意味である。これら多くの櫻は財団にて寄贈された櫻である。但し約30箇所以上の櫻は財団とはまったく無縁の櫻である。

 

奈良 貝原の枝垂れ櫻

 

 

  <自薦 これだけは観てから死にたい櫻たち> 

 

  ① 関東の櫻

東京都大島の櫻株 小田原入生田・長興寺の枝垂れ櫻 秩父荒川・青雲寺の枝垂れ櫻 埼玉県北本・石戸の蒲櫻 群馬県鬼石町の櫻山公園 日光・輪王寺の金剛櫻 日光・植物園の櫻 茨城県岩瀬町磯部の櫻川公園 大戸の櫻 雨引観音(楽法寺)の山櫻と霞櫻 青梅・金剛寺の枝垂れ櫻 青梅・梅岩寺の枝垂れ櫻 高尾・森林科学園の櫻実験林 小金井公園の櫻 神代植物公園の櫻 千鳥ヶ淵の櫻 新宿御苑の八重櫻群 小石川植物園(東大付属)の櫻

  ② 日本三大櫻

●山梨県北巨摩郡山高の神代櫻(日本最大の江戸彼岸櫻 根回り13m 樹齢1800) 

●岐阜県根尾谷の淡墨櫻(樹高23m 根回り11,5m 神代櫻につぐ巨木 樹齢1500年)  

●福島県三春の瀧櫻(日本一の紅枝垂れ櫻 樹齢1000)

  ③ 古都の櫻

大阪・造幣局の八重櫻群 常照皇寺の九重櫻 嵐山の櫻及び山櫻 兵庫県湯村・正福寺のショウフクジサクラ 平野神社の櫻の種類の多さ 京都府立植物園の櫻 円山公園の枝垂れ櫻 御室仁和寺のおたふく櫻 京都御所の左近の櫻 醍醐寺・三宝舘の枝垂れ櫻群 奈良・知足院の奈良八重櫻 吉野山の山櫻 三重県・三多気の山櫻街道 鈴鹿市白子の不断櫻 大宇陀町の又兵衛櫻 法隆寺・夢殿の枝垂れ櫻 瀧蔵神社の権現櫻 奈良貝原の枝垂れ櫻

  ④その他の注目すべき櫻

沖縄名護城の寒緋櫻 四国高知県の牧野公園の櫻 中国吉備高原家族村たけべの森の櫻 錦帯橋・吉香公園の櫻 岐阜・中将姫誓願櫻 臥龍櫻 荘川櫻 揖斐の二度櫻 弥彦櫻 石川県林業試験場樹木公園 兼六園公園の菊櫻 高遠櫻 花回廊の久保櫻と釜の越し櫻 霞城公園の櫻 会津・石部櫻 鶴ヶ城の櫻 会津坂下の杉の糸櫻 開成山公園の櫻 花見山公園の櫻 鹽釜神社の八重櫻 北上展勝地 盛岡・石割櫻 小岩井農場の一本櫻 角館・武家屋敷の枝垂れ櫻と檜内川堤の櫻群 弘前公園の櫻 松前町櫻見本園 静内・二十間道路の蝦夷山櫻 根室・清隆寺の千島櫻

 以上の櫻たちは圧倒的に山櫻や江戸彼岸の櫻が多い(染井はゼロではないが)。尚枝垂れ櫻は100%江戸彼岸と思って戴いても結構である。彼岸櫻というぐらいで、染井吉野より早く開花する。開花情報を確実に得る方法は最寄の役所へ、観光課や商工課に電話して確認する方法が最も適切である。美山の常照皇寺の場合、櫻のことが知りたかったら、あんたが来て確認したらどうやって、えらくどやされる場合があるからである。

 

龍安寺の枝垂れ櫻


    櫻始開

2013年03月27日 | 

 

原発から10キロ範囲で 春まだき富岡町 櫻道のわきにある商店は殆ど盗難にあっている

 

 

   櫻始開 七十二候のうち 春分の次候にあたりて)

 

 二十四節気は皆さまはよくご存じのことと思います。その、それぞれ節気を五日ずつ分けて更に詳しく節気を表現したのが、七十二候ということになります。必ずしも中国伝来だけではなく、所々日本人の感性にあった節気になっています。偶々今日は春分から五日目で、七十二候の「櫻始開」になります。この春分・次候の「櫻始開」には櫻の花が咲き始めるというわけです。又「雷乃発声」の日とも言われ、同日より遠くで雷の音がし始めるということでしょう。その上、今日は101年前ワシントンで櫻が植樹されたのを記念し、財団法人日本さくらの会では「さくらの日」に設定していますので、本日は「さくらの日」となります。また表千家・不審菴では利休忌が行われているでしょう。けれど私たちはアレコレ能天気なことを言っている場合ではないかも。

 被災地の春はまだき、それでも櫻が咲くのを心待ちに、心待ちにして方が大勢いらっしゃることでしょう。読者の皆さまには震災から満二年だと思われておいでの方が多いはずです。でも被災地の春は、今度で三度目なのです。どんなに変化した町にも村にも、又花が咲きます。どれほどの哀しみを抱えられた方もきっと楽しみにされていらっしゃることでしょう。樹に咲く花は人を忘れません。津波に倒れなかった櫻は山櫻か江戸彼岸が圧倒的に多く、それを参考にして、各地で始まった櫻の植樹。私たちは各地の植樹に、コツコツと協力して参ります。同時に広葉樹の植樹も数多く協力させて戴きたいと念じています。

 

福島・浜通り さくらプロジェクト ワッペン

 

 頑張れ、福島!でも政治家の方々は福島の再生なくて、日本の再生はないと、言葉では皆口々に言いますが、だったら後何年経ったら帰村出来るのでしょう。口先八丁なんぞいい加減にして欲しいものです。付近の岡や山など、高い部分から除染しなかったら何もならないのです。半径たった100メートルで、5分の1になるなんて、放射線防護研究グループの報告がありますが、これは真っ赤なウソ。雨が降ると、近所の山からまた新しい濃度の高い放射性物質が麓に流れてきて新たに汚染されるのです。その繰り返しで、これが実態で、家の周辺だけでの除染はまったく効果がありません。現在の除染の仕組みを根本から改めて欲しいものです。除染された福島県内の村などに行ったことがありますか。青ビニール袋に目いっぱいになった放射線濃度の高い袋がほとんど自宅わきに野積みにされているのですよ。中間貯蔵所もない。まして最終処分場もないのが真実です。行き場のない除染物がどうにもならない状況になって、除染したはずの自宅にあるのです。確実な見通しを提言すべきです。改めて政府にお願い申し上げます。

 東電の、今回の電源喪失については、私たちは激烈な怒りを感じます。二年経っても、緊急用の自動車から取る電源でしたか。はぁそうですか。何をさて置いても、冷却水確保のための電源ではないんですか。ネズミの侵入ですか。そんな子供騙しの言い訳は相変わらずで、困ったものです。何が大事で、何を先行すべきか、未だに分かっておいででないようですネ。東電のような巨大企業はその体質から言って、悪い意味で、まるでお役所仕事のようなものであり、そのお役所でも最も頭が悪いお役所としか言いようがありません。お役所にお勤めの方でも、客観性の高いガバナンスを完璧に出来る方は幾らでもいますヨ。もう一度喫緊に総ざらいをして、出直して欲しいものです。

 

富岡町のさくらたち 去年撮影 今年も立ち入り禁止

 

富岡町の観光課が出している「富岡町夜の森さくら 360°パノラマ」を

是非お楽しみ下さい!彼らを励ますためにも。今年も帰れない町なのですから

どの櫻の花印をクリックしますと、美しい櫻のパノラマ映像が出ます!

 


    小林秀雄の「古事記伝」論 (松岡正剛による)

2013年03月26日 | 文学・絵画等芸術関連

痛々しい我が家の老樹 染井吉野

 

 

  小林秀雄の「古事記伝」論 (松岡正剛による)

 

 本居宣長に三っつの不思議がある。愛してやまなかった鈴、そして山櫻、それから遺言にあったように死後どこに行ったかということである。黄泉の国に行くとは言っていたが、何々こと細かに遺言書にはアレコレと指示し書かれてあるから面白い。師匠・賀茂真淵などは死後黄泉の国なんぞに行くわけがない。山室山山中の、自分の墓所に大勢の知人を招いて、歌会や、己が書き残した多くの著書に添削やら書き換えや、色々と忙しくしているのだろうと。鈴は駅鈴などを収集する趣味があり、大好きであった。自分の住んでいた家を鈴屋と称したほどである。山櫻は山室山の墓所へ山櫻を植えさせ、生涯愛してやまなかったし、何と300首もの山櫻の歌も残している(櫻の歌人・西行は生涯200首の櫻の歌を残し、「山家集」にはその半分の100首が入っている)。父親が男の子を欲しいと念願し、吉野中の千本にある水分(みくまり)神社に願掛けをしたことから、宣長が誕生した。後年その恩義を感じた宣長は水分神社に詣でている(菅笠日記)。水分神社と言えば、吉野でも最も吉野らしい場所で、中の千本と上の千本の境目で、吉野を一望出来る「花矢倉」がある絶景ポイントである。山櫻の本場に願掛けをして生まれてきた子供だったとして、宣長自身、山櫻に恩義を感じたのだろうか。宣長の歌はそれほど巧くはないが、でもまぁ筆者が想像するほど単純なものではないであろう。鈴も山櫻も好きだから好きだと言われればそれまでであろう。

 ここに興味深く、素晴らしい論考がある。編集工学の松岡正剛氏が千夜千冊というページに書いた小林秀雄「本居宣長」に関する評論である。かなり長いが興味のある人は読んで下さりたく。なお各章の題名は分かりやすいようにつけたが、小林氏の言ではない。

 

木くずなどで染井の養生をしているが 多分倒れてくる危険性があるから伐採しなければならないだろう

 

 第1章  遺言書1 墓、葬儀、法事、桜の歌

 本居宣長(1730-1801)の出だしでいきなり遺言書から始めたのは奇策だ。これが小林秀雄の個性である。遺言書に墓の設計から葬式の仔細を指示するのは本居宣長の個性である。彼は松阪の人であり、彼は自分の墓所を山室の妙楽寺と定めたが、本居家の菩提寺である樹敬寺にも墓がある。面白いのは妙西寺の墓所の設計書を残したことである。七尺(2.1m)四方中央の塚に花の見事な桜を植え、前に高さ(台は別)四尺(1.2m)の山型の碑を建て「本居宣長之奥津紀」とし、境には延石を敷くこと(なおこれは後でもいい)。そして命日の定義(前夜九時から当夜九時まで)をし、遺体の処理仕方(沐浴、髭剃り、経帷子、木の脇差)と棺への収め方(座布団、詰め物、、蓋、釘等々)を定めている。そして当時の風習に従い両墓制を取り、遺体は妙楽寺へ、空荼毘を樹敬寺とした。葬儀の行列は、妙楽寺へは次男の子西太郎兵衛と門弟の二人で夜ひそかに収めること、菩提寺である樹敬寺へは空送で僧を先頭に長男春庭が続き提灯行列を行う(この行列の図も描かれていた)。位牌は「高岳院石上道啓居士」と自分で定め、後に妻と入る墓(自分は入っていない)を定めた。この本居宣長の遺言に対して奉行所は、夜陰に死体を妙楽寺へ運ぶことに異議を立てたが結局どうなったのかは不明である。遺言書には妙楽寺への墓参りは年一度の命日でいいとして、命日の霊前の位牌のおくり名は「秋津彦美豆桜根大人」として、花、灯、魚、酒を用意し、宣長の自画像をかけること、門弟たちに歌会を開くよう要請した。この宣長自画自賛の肖像画には有名な「しき嶋の やまとごころを 人とわば 朝日ににおう 山さくらかな」の賛がある。本居宣長に桜の歌が多いことはよく知られるところだが、吉野百首に続いて、「まくらの山」と題する三百首の桜の歌がある。年をとると朝が早いので枕もとで桜の歌を書き付けて三百首になったというものである。へたくそな歌だが桜が好きだという個性があった。

  第2章 遺言書2 辞世の歌

「これは遺言書というよりはむしろ宣長の独り言であり、信念の披露だと」小林氏は考える。宣長自身は日ごろから「亡き後のことを思い図ることはさかしらごと」と言っていた。まあ何か悟るところがあって自説を無視したのだろう。人はそんなもんだ。宣長の辞世の歌二首とは以下である。

「山室に ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」

「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」

  第3章 本居家の昔話、小児科医開業

 本居家は松阪の城下町を築いた蒲生氏郷の家臣であったが、会津で討ち死にし、妻は小津の油屋源右衛門に身を寄せその子供が小津家の養子になり別家を立てた。宣長は1730年享保十五年に生まれ、一時紙屋に養子に出されたが家に帰った。1752年23歳の時京都にのぼって堀景山に弟子入りし医術を武川幸順に学んだ。四年の京留学の後松阪に帰り小児科医を開業した。そこでかっての本居家を名のった。学問の志は捨てないもののやはり生計をたて、家を興すことが先決と考えた。これが宣長のこころざしであった。彼の学者生活を終始支えたものは医業であった。

  第4章 宣長の学問の系譜 学びの力

 本居の養子大平が書いた「恩頼図」は宣長の学問の系譜を列記したものだが、徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東崖、山崎闇斎、そして父母と書かれている。実に雑多な人名が挙げられているが、影響を受けたというよりは勉強したに過ぎない。京都に留学したしたときの師堀景山は藤原惺窩の門で代々芸州浅野家の儒官であった。堀景山は徂徠を尊敬し国学にも友人があった一級の教養人であった。宣長は景山の儒書会読会で闊達に遊んで教養を深めたようだが景山の影響は特筆するものは無い。つまり小林氏は「宣長については環境から思想を規定することは出来ない。宣長一人の学びの力により独創的な思想を育んでいったようだ」と結論する。

  第5章 青年宣長の儒教観

 青年宣長が京都遊学時代の友人に宛てた手紙のなかで聖人の道を排する気持ちが大きい。聖人の道は「天下を治め民を安んじる」道のことであるが己の身は天下国家を治める身分ではない。孔子の言は信じるが孔子は道を行うのに失敗した人である。道を行うことの不可能を知った人だ。したがって宣長は「好信楽」という態度から風雅に従うという基本的な学問態度を貫いた。当時の儒学の通念を攻撃したが、自分は自分の身の丈にあった生活態度を維持した。

  第6章 契沖の大明眼と歌学

 宣長は「あしわけをぶね」に契沖(1640-1701)の大明眼を賞賛して近世の学問の師と崇めた。契沖の画期的業績とは古歌や古書に接するに後世の解釈を介せずその本来の面目を見ることであった。いわば近世における日本の学問のルネッサンスと言える物であった。契沖は「万葉代匠記」が最大の業績である。契沖、宣長ともに歌詠み(歌道)であったが、契沖のほうが歌はうまく宣長の歌はさっぱり面白くないという評判であった。平田篤胤は宣長の歌の面白くないのは彼の業績にとって幸いだったと妙に感心している。宣長はなぜ下手な歌を「石上稿」に八千首も作り続けたかといえば、「自らよむになりては。我が事なる故に、心を用いること格別で、深き意味を知ることになる。」というためであった。やはり宣長にとって契沖に出会ったことが学びの道に邁進する人生を決定つけたようだ。

  第7章 契沖「万葉代匠記」

 加藤清正家のお取り潰しとともに契沖の家は没落し、契沖の幼年から青年期の生活は実に哀れを誘うほど暗い。一家の兄弟姉妹はあちこちの家に転々と盥まわしにされ、まるで「さそりの子」の様な境遇に育った。高野山で修行後室生山で自殺を図ったが、30歳で和泉に閑居し万葉代匠記の稿を起こした。こんな契沖には同じような境遇で育った年長の下河辺長流という唯一の親友がいた。ここで二人の強い個性が結びついたことが、近世の万葉研究の基礎を作った。長流の学問が契沖に流れ込んで契沖の才がこれを完成した。水戸徳川家より万葉注釈事業を依頼され、契沖の万葉歌学は完成した。

  第8章 私学の祖 近江聖人中江藤樹

 契沖から宣長の学問の概要を述べてから、小林氏の著述は時代を遡る事になる。即ち日本近世(江戸時代)の学問の系譜を詳らかにしたいためであろうか。まづは日本の学問のルネッサンスといわれる古典重視の学問を築いた中江藤樹(1608-1648)の儒学の系譜について小林氏の弁を聴く。中江藤樹は近江の貧農の生まれで大成して近江聖人と呼ばれた。愛媛の大州の武家に養子に入り勇猛であったが、学問の志と国の老母を養うため脱藩し近江に帰った。大阪夏の陣で「国家安康」の言いがかりを見つけた林羅山が幕府の官学の祖となったのに対して、中江藤樹は儒家の理想主義と学問の純粋性を求めて私学の祖となった。そもそも私学というものが勃興したこと自体、個人の実力時代の幕開けでも在った。

  第9章 儒学新学問の潮流 中江藤樹と伊藤仁斎

 中江藤樹の学問の目的は「人間第一義の意味を考えること」にあった。藤樹の良知説といわれるものは結局学問は一人で考え練るしかないことを言っている。私学が出来たのも、学問を独占した公家の博士家が戦国の時代に崩壊し、民の力が充実したからである。藤樹の最大の革命性は遅ればせのルネッサンスにように「古典に帰れ」を提唱したことにある。(そのため心の目をひらく「心法」という怪しげな訓練を課した)古典の復活は儒学では熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠へ受け継がれ、日本学では契沖(万葉)、賀茂真淵(万葉)、本居宣長(源氏、古事記)などが輩出した。まさに近世のルネッサンスといわれる所以である。伊藤仁斎は「論語」、「孟子」を先人の注解なしに読むことで語孟の信を回復した人であり、今日的に言えば近代文献学の先駆者とされる。仁斎は「「学んで知る、思うて知るは学問の基本だが、書が持つ含蓄して露さざるを読みぬく力、すなわち眼光紙背に徹するを工夫した人であった」と小林氏の評価である。このあたりについては私は全くの門外漢なのでコメントできない。

  第10章 荻生徂徠の学問(歴史)

 伊藤仁斎の学問を継承した一番弟子は荻生徂徠というこれまた独学者であった。仁斎の「古義学が徂徠の「古文辞学」に発展した。彼らの学問は「道」である。したがって「人生いかに生きるべきかという問題は、帰する所歴史を知るということあると信じるに至った」と徂徠は「答問書」に述べている。「歴史を知るとは、言葉を載せて遷る世を知るにしかず。言は遷るが、道は古今(歴史)を貫く。即ち変わらぬものを目指す「経学」と、変わる「史学」の交点が「古文辞学」だという訳だ。しかし歴史は定義され対象化されることを拒絶している。徂徠は自己の内的経験が純化されたものが歴史だという確信をもった。私にはなかなかこの独特の悟りが分らない。歴史は内面化されてこそ一躍生気あるものになる。利口な輩が見たとする形骸化した歴史は死んでいる。ということであろうか。

  第11章 宣長の学問と徂徠

 第4章から第10章まで長々と宣長の学問にいたる背景や潮流を述べてきた。これで概ね近世の私学の学者の目指すところと伝統は見えてきたはずである。23歳で京都に遊学に上った宣長の学問への興味は殆ど万学に渉っていた。「好信楽」に従い雑学に励んでいたに違いない。堀景山という一流の知識人に師事したおかげで、儒学・和学を勉強し、徂徠の見解の殆どすべてを学んだようだ。

  第12章 本居宣長 賀茂真淵に入門

 本居宣長が賀茂真淵の門人になったのは、1764年宣長35歳、真淵68歳で時であった。このときまでに宣長の「もののあわれ」論は出来上がっていた。1757年に著された宣長京都在住時代のメモ「あしわけ小舟」や1763年に著された「石上私淑言」、「紫文要領」にもののあわれ論が展開された。そして次の章からそれをつぶさに見てゆこう。

  第13章 もののあわれ論 

 もののあわれという言葉は勿論宣長の専売特許ではなく、古くは紀貫之「土佐日記」に「楫とり もののあわれも知らで」と使われ、古今集序に「やまと歌は ひとつ心をたねとして」の心を宣長はもののあわれを知る心と読んだ。もののあわれという言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人によって、長い間使われてきて当時ではごく普通の言葉だったのである。藤原俊成も「恋せずば 人は心も なからまじ 物のあわれも これよりぞしる」とある。宣長29歳に著した「阿波礼弁」に、人からもののあわれの義を質問され「大方歌道はあわれの一言より他には、余義なし」と答えた。これが幽玄や有心といよいよ細分化してゆき衰弱する。宣長は「玉のおぐし」で「世の中の、もののあわれのかぎりは、この物語(源氏物語)に、残るなし」、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」と述べている

  第14章 源氏「蛍の巻」 物語論とあわれ認識論

 「源氏蛍の巻」で、源氏が絵物語を読む玉鬘を訪れ物語について話し合う。ここは下心として、作者紫式部がこの源氏物語の大綱を述べるものと宣長は解した。物語は空言ながら物のあわれを写すのが作者の腕ということが言いたいのであろう。その時の習いを知るには源氏は最高の物語だと宣長は考えた。「石上私淑言」で宣長は、「見る物、きく事、なすわざにふれて、情の深く感じることを阿波礼と言うなり」と分析した。小林はこの心の動きを解析して、「思うに任せる時は心は外に向かい内を省みることは無いが、心にかなわぬ筋の時は心は内の心を見ようと促される。これを意識という。宣長のあわれ論は感情論であるというよりは認識論とでも呼べるような色合いを帯びている」。「紫文要領」では、「よろずの事の心を、わが心にわきまえしる、これ事の心を知るなり。わきまえしりて、其のしなにしたがいて、感ずる所が、物のあわれなり。」そして宣長はあわれをさらに解析して、あわれとあだなる事、情と欲を混合してはならないが互いに遷ることがあることなどを述べている。ただこのあたりの小林氏の解説はやたら難しくかえって分からなくしているのは私のひがみか。源氏物語「帚木」の「雨夜の品定」において、理想の女性論として「実なる」と「あだなる」との道徳的比較が行われるが、あわれを知ることをよきほどのに保つ難しさ、つまり紫式部はあわれは理想であるが押し通すものでないことを自覚していた。

  第15章 源氏「浮舟」、「夢浮橋」 式部の表現のめでたさ 

 源氏「雨夜の品定」で夫の世話をする女の備えるべき資質に「物のあわれ」を入れようとした宣長は明らかに間違っていた。そして宣長はこの「うしろみに方の物のあわれ」を取り下げるのだが、しかし日常生活に物のあわれの意味を検証しようとする宣長の姿勢は源氏物語に一貫している。宣長の感情論(こころ、情)は物語のうちからあわれの言葉を拾い集めることから始まったのだが、空言(物語)によろずの物に感じる人のこころ(情)のありようを味わうことが出来るのが物語のめでたさつまり作者の才であると宣長は悟り、「この物語の外に歌道なし」と言わしめたようだ。「浮舟」、「夢浮橋」という物語で、匂宮というあだなる人(行動人貴族)と、薫という実なる人(内省的貴族)を対して、無性格な浮舟というあわれな女を置いて人のこころを描いた式部の腕をみてみよ。

  第16章 源氏物語の批評 式部の創作動機

 源氏物語に触れた文や批評は、江戸時代1673年北村季吟「湖月抄」まで殆どない。「更級日記」に源氏を読む少女の楽しみ、「無名草子」、俊成、定家に僅かな言及があるのみである。宣長は旧来行われてきたいわゆる準拠説(源氏の記載事項を史実に当てはめる説)はさほど重要と思えないと軽くいなしている。すなわち式部の物語りの世界は式部の現に生きた生活世界を超えたものだという考えを宣長は確信した。式部の動機はただ語らうことに集中される。宮中であった出来事をそのまま移すことが目的で無く、式部のこころの感じることを(あわれと宣長はいう)言いたかったまでのことだ。 

  第17章 源氏物語 今昔の批判

 本居宣長は源氏物語「帚木」の冒頭文に、これから始まる光源氏の恋物語の序を聞いた。陰翳と含蓄とでうごめくような文体に宣長は式部の物語の始まりに心をときめかしたようだ。ところが今昔の批評家の源氏に対する風当たりは強い。とくに江戸時代の国文学者は儒教の道徳から脱することあたわず、公式には否定せざるを得なかったようだ。契沖は「源氏拾遺」において、反道徳書としてあらゆる道に違うとして批判した。ただ定家の言うように「可玩詞花言葉」としての用は認めたが。賀茂真淵は「源氏物語新釈」において、上代より文は劣り続け源氏物語は其の劣の極まりと批判した。「万葉のますらお」は「源氏の手弱女ぶり」を許せなかった。上田秋成(1834-1804)は「ぬば玉の巻」において、学者の立場から契沖と同じく其の反道徳性を非難したが、読み本作家としては式部の文才をいたく激賞している。源氏から学んだ文は自作「雨月物語」に生かしたようだ。森鴎外、夏目漱石は完全に無視してコメントをしていない。さすが明治の高踏派である。谷崎潤一郎氏は「雪後庵夜話」で、自分が源氏の現代語訳を試みたのは、光源氏のねじけた性格は好きになれないが、紫式部の作家の偉大性に感心したためだとする。やはり作家としては秋声と同じ立場から其の文体に注目したようだ。正宗白鳥は鴎外と違ってはっきり源氏悪文論者であるが、源氏とくに宇治十帖は欧州近代の小説に酷似すると其の小説の特異さを強調している。なを私は源氏を原文で読むことは高校生いらい拒否している。トンチンカンプンで息が続かない。そういう意味では源氏悪文論者かもしれない。私が読んだ源氏の訳本は谷崎潤一郎、与謝野晶子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らである。

  第18章 物語論

 坪内逍遥はその「小説神髄」において、「小説の作意が娯楽、歓懲であるという誤りから醒め、専ら人情世態の描写にあることを早く認識すべきである。その点で源氏玉のおぐしにある物語論はまことに卓見である」と述べた。宣長は源氏に対する自分の経験の質を感性から入って源氏の「詩花言葉をもてあそぶ」感性を得て出てきたといえる。したがって彼はこういわざるを得なかった。「そもそもいましめの心を持てみるは、この物語の魔也という。いましめの方にて視る時は物のあわれを醒ます故也」。世の批評家は物語を実と勘違いして批評するようだ。物語はあくまで現実生活の事実とは縁を切った、創り出された「夢物語」である。その創りは式部という才によって歌の道に従った用法により作り出された調べに迫真性があるからだ。当然の事だが儒の心(からごころ)で読んで批判するのはお門違いであろう。

  第19章 賀茂真淵 冠辞考

 1764年宣長35歳のときに、たまたま松阪に来た賀茂真淵に面会し入門を果たした。そのとき宣長は真淵から「神の御典をとかむとおもえば、まず古言をえるべし、古言を知るには万葉にしかず、ひくきところよりかためてたかきところにのぼるがすじなり」(「玉かつま」二の巻)という助言を得たようだ。これが古文辞学の原則であった。真淵の「万葉体翫」(体で覚える万葉学習法)とは「返り仮名のついた点本で意を求めずに5回読む、1回意を大まかに吟味する、無点本で読む(点本をみてもよろしい)、このような訓練を他の古書にも応用してまた万葉の無点本にもどる、そうすればいろいろな考えが出てくる」(万葉解通釈)ということであった。学者にしてそのような訓練をしているとは思わなかった。宣長はその回想において真淵の冠辞考にいたく感心したようだ、「冠辞とは、ただ歌の調べのたらぬを整えるよりおきて詞をかざるものである。真淵の基本的な考えは、おもうことひたぶるなるときは言たらず、したがって言霊の佐くるをもって詞の上に飾る詞が冠辞または枕詞という」万葉に限らず日本の歌には意味の定かでない五文字の形容詞がある(黒にかかる「ぬばたまの」、母にかかる「たらちねの」、大和にかかる「あおによし」などなど)。最近の巷の説ではこれは古代朝鮮語と解する説があり説得性を持っている。

 第20章  真淵の万葉考と師弟問答

 小林は「彼の万葉研究は、今日の私たちの所謂文学批評の意味合いで最初の万葉批評であった。後世の批評もこれに付加できるものはないだろう。彼の前に万葉なく、彼の後に万葉なし」と絶賛した。真淵は万葉六巻(1,2,11,12,13,14巻)を橘諸兄選としこれを万葉集原型と考え,他14巻は家々の歌集と見た。真淵の万葉考は批評というよりは賛歌の形をとったのは真淵の感情が激しかったためといえる。万葉の「ますらおの手振り」の剛毅、古雅の頂点が柿本人麻呂となる。真淵は寄る死の足音を聞きながら、最後まで万葉の「実」、「道」を求め続けたが「高き直きこころ」以外に適切な言葉は発見できなかった。真淵の激しい感情に、宣長は時折これを無視したかのように,下手な歌を歌っては添削を乞うたり、契沖説にしたがって万葉集を全巻大伴家持私選説を持ち出したりして、真淵の怒りを誘発し破門同然となった。

  第21章 本居宣長の歌論

 真淵の破門状に接して、ほうほうの態で侘びを入れ無事仲直りをしたものの、宣長の歌論はそれからも継続される。真淵の万葉至上主義で後の時代の歌は堕落の一途という図式ではなく、宣長は確かにその崩れは承知しながらも新古今和歌集に(定家選)そのよさを認める見解である。これは師と議論するとまたけんかになるので、黙って歌論を研究したようだ。頓阿の歌集「草菴集」の注解書「草菴集玉箒」が彼の最初の注解書になった。その外に「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)、「美濃家づと」(新古今)があって、なかでも「古今集遠鏡」の意訳はとても面白い大衆向けの歌紹介になった。宣長の歌史論はメモ「あしわけ小舟」に詳しいが、「歌が時代の人情風俗につれ変易するのでこれを味わうことが普遍を求めることより大切で、なかで歌うを旨く歌おうとする意識が最高潮になったのが新古今である。したがってまずい歌もあるが優れた歌も多いというのが宣長の見解である。しかしながら既に俊成よりその衰えの兆しは顕著になり、歌道と家筋(父子相伝)という考えになっては完全に停滞し堕落した。」と小林は纏めた。

  第22章 宣長の歌論 歌の実と実の心

 師真淵がなくなって、宣長の歌論はいよいよ「うい山ぶみ」より本格的に展開される。へたないにしえ礼拝者は復古復古といいながら、歌の伝統の姿をしらないがために、そのいにしえが定まらないと批判した。「私たちは今の世に生きている。今日では俳諧こそ情態言語であり便利極まりない。どうしてこのことが分からないのか」と宣長の批判は厳しく師に迫るものがある。私は、小林氏の議論の展開を逆にして、分かりやすいようにこの章を説明する。歌に限らず、人が考えるということは言葉の適切な誘導が無ければなしえない。人間(サルではない)の思考活動は最初に言葉ありきである。ましてや歌というものは漢詩に見ればよく分かるように、歌の言葉が先行し誇張し、調子を整えるもので、実の心はたわいないことであるかもしれないが、その詩が評価されるのは詩の言葉とリズムである。詠歌の最高の形は自足した言語表現の世界を作り出すことにある。実の心と歌の実は質の異なる秩序に属し直に結合してはいない。したがって「和歌は言辞の道也。心に思う事を程よくいう事」である。和歌を学ばんとする人には藤原定家の「専ら三代集(古今、後選、拾遺)を用いて手本とすべし」という考えは中古いらいの伝統である。和歌とは中古以来の長い伝統の上を今日まで生き続けた言葉の操作術である。どうであろうか、この逆展開のほうが演繹法的で見通しがよく分かりやすいのではないか。

  第23章 詩歌の歌謡論

 あわれ・「ああーはれ」という感動はこの声を長く・「ながむる」ことによって歌になる。長息するという意味の「ながむる」が、つくづく見るという意味の「ながむる」に成長する、それがそのまま歌人の実の意識となって歌になる。喪において哭するの礼と同じくその実を導くの仕方である。「歌道の極意は物のあわれを知るところになる。物のあわれに耐えぬところより、ほころび出ておのずから文ある辞が歌の根本」と宣長は言う。これは今でも宮中で行われている歌会始の歌の謡い方に引き継がれ、長ーく言葉を伸ばして意味がつかめぬくらいに歌っている。また祝詞などの言葉もしかりである。歌の原始的形を言っているが、はたしてそんな歌謡論で意味のある歌が説明できるのだろうか。宣長の「古今集遠鏡」(古今集の意訳、現代語訳)について、小林氏は宣長は随分さばけた柔軟で鋭敏な心を持っていたと指摘する。しかし宣長の歌の現代語訳はいただけない。まるで中・高学校の参考書のような現代語訳が果たして大衆の歌心を刺激するだろうか。歌の言葉はその時代の響きを持った味わい深いものでありたい。歌全体を砕いて平易な言葉に置き換えてとしても歌のリズムや美的趣は失われる。言葉の意味が判らなければ脚注で知ればいい。やはり歌は声を出して歌うべきだ。とすれば宣長の主張は前と後ろで矛盾している。

  第24章 てにをは論

 この章は短いにもかかわらず、前半と後半に何の関係も無い。前半は「てにをは」論、後半は源氏物語歌論になっている。「詞の玉緒」は宣長50歳の作だが、詩歌の作例を引用して「てにをは」のととのえが発見され、「いともあやしき言霊のさだまり」がいわれている。「てにをは」は助詞ではなく文意、文脈を貫くなくてはならないものという今日の文法についての論である。「てにをは」の働きは日本語になくてはならぬもの、これこそ日本語の特徴であるという論議は文法学者で長く論じられてきた。たとえば大野晋、丸谷才一は「日本語で一番大事なもの」という本を出している。(中公文庫)つぎに源氏歌論であるが、「宣長は源氏とは歌ではない、日常言語の表現が人生という主題を述べたものである」という。しかし第13章に、「紫文要領」では「この物語の他に歌道なく、歌道の他にこの物語なし」ともいっている。どっちが本当なのか小林氏に聞きたい。やはり自分で「紫文要領」を読まなければいけないのだろう。

  第25章 漢才と和学の論争 やまと魂

 賀茂真淵は「やまと魂」という言葉を万葉歌人らによって詠まれた「ますらおの、ををしく強き、高き直きこころ」という意味に解した、しかし「やまと魂」とか「やまと心」という言葉は上代に使われた形跡は無い。源氏物語に出てくるのが所見である。宣長はこの言葉の用例を文献に追って、やまと魂を漢才、漢学の知識に対する、これを働かす心ばえと理解し、「そもそもこの国に、上代より備わった人の道、皇国の道」という意味に押し上げた。師より随分拡大した解釈である。これより後に宣長は「直毘霊」という書にはじめて「古道」を取り上げた。ここから宣長の「皇大御国」信仰が始まる。これについては激しい儒学者との論争があるが省略する。儒学は現権力者のお抱え論者とすれば、「やまと魂」は今は無き皇国のまぼろしか。そういう意味では復古主義は反権力闘争に利用され、最終的には右翼天皇主義に堕落する反動理論であるといえる。これは私の説です

  第26章 宣長「直毘霊」から篤胤神道へ

 真淵の学問の方法は「文事」すなわち、古意、古語を得るための方法論であった。しかるに宣長が古道という国粋主義を唱えてからは、平田篤胤の神道とか霊の世界へ堕落するのに時間は要しなかった。篤胤には学問は無く宣長の言葉だけを金条にして神秘的なあやしげな神道をでっち上げた。彼は宗教家である。以下は私の独り言です。・・・・・・・・やまと魂の古意は「勇武を旨とする心」である。真淵もいう「ただ武威を示して、民の安まる皇威盛んな時代」の言葉である。「やまと魂」を言うのは明らかに支配者の武力支配の論理である。とすれば漢心は仏教・儒教で国を治める文治政策ではないか。なのに専制武力支配を求めるとはなんと言う時代錯誤であることか。上代の支配者の論議は私達素人には分からないが、大陸・朝鮮半島の王族の興亡から日本への民族移動の歴史と理解しても当たらずといえども遠からずと思う。すれば上代の日本人の心ををなぜ神聖視するのかさっぱり不明だ。よく言えば西部開拓パイオニアの精神ともいえる。

  第27章 平安時代 和歌の復興と源氏物語成立の意味

 奈良・平安時代の漢文・漢詩政策によって和歌は傍流に追いやられた。しかしその言語伝統はしっかり生活に根ざした流れに生きていた。和歌は歌合せの流行という好機を捉えてようやく復興の道を開いた。漢才が和歌を傍流に追いやった時、和歌はしっかり反省と批評精神を養っていたわけである。古今和歌集の勅撰が始まったとき紀貫之はその仮名序において「やまと歌は人の心を種としてよろずの言の葉となれりける」といったが、「あわれを知る」という内省の意識を身に付けていたのである。さらに貫之は「土佐日記」において「男もすなるという日記を女もしてみむ」とい画期的な仮名による散文の試みをした。日本語によるの仮名文学の誕生である。とうぜん源氏物語がその流れの上に仮名文学を完成した。ここに日本最古の小説が生まれ,世界に誇りうる文学の誕生となった。

  第28章 古事記序 稗田阿礼の誦習について宣長の意見

 さていよいよ古事記伝に入る。古事記序について論争に入るので序を引用しておく。「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年是れ二十八、人となり聡明にして、目に度たれば口に誦み、耳に払れれば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日嗣及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。この稗田阿礼が誦習したところを安万侶が撰録して和銅四年九月十八日に献上したのが古事記である。安万侶は全文を仮名書きにすべきしたかったのだが、まだひらがなはなかった。そこで、音と訓を交えたり、全く訓でもって表記しよう努めた。彼は表記法の基礎となるのは漢字の和訓であることを実行した。古事記内の和歌は、其の表記は一字一音の仮名である。この日本語表記法の発明はひとりの人間により一日でなったとは思えないから、安万侶だけの成果にするのは、明らかに間違っている。宣長は稗田阿礼が誦習したを大変大切なことと考えた。「ただに義理をのみ旨とせむには、まず人の口に誦習はし賜うは、無用ごとならずや」 すなわち古事記の修史の目的が内容ではなく古辞の表現に在ると宣長は断定したのである。それ以降にも柳田国男氏の稗田阿礼を語り部猿女君の流れに見る意見や、折口信夫氏の口承文藝の伝統を祝詞や宣命に原点を求める意見があり、二人は宣長派直系ともいえる。難しい問題であるが、時の権力者である天皇が昔の言葉の意味を保存するためという文学趣味で、勅命で古事記を編纂するとも思えない。やはり宣長の言う「内容より言葉だ」という見解は頂けない。ただ日本書紀が漢文で書かれたことと古事記が日本語(音訓読みの漢字)で表記されたことは、編纂目的を異にするはずである。律令制の国体が整備された後で中国を強く意識して、国史を書き直したのが日本書紀だという現代の意見もうなずける。     

  第29章 古事記序 稗田阿礼の誦習について津田左右吉の意見

 津田左右吉氏の「神代史の新しい研究」の「記紀研究」(大正2年)では、徹底した科学的批判が行られ津田史学はその後の歴史研究に多大の影響を与えた。津田氏は「宣長の古事記研究の成果は無視できないし、是については感嘆のほかはない」ともいっているが、ここで問題にするのは古事記序の稗田阿礼の誦習についてである。津田氏は日本書紀から引用し「帝紀及び上古諸事」とあるのを引いて、「辞」を「事」とする考えを動かさない。つまり古事記は言葉ではなく事跡を記録したものである。誦習とは暗誦ではなく、「誦む」は「訓む」つまり解読という意味である。宣長と同じ問いかけ「便利な漢字があるのになぜ、記録するためになぜ口うつしの伝誦が必要なのか」から出発して、宣長とは違う見解に達した。

  第30章 古事記撰録の目的、 「訓法の事」

 古事記撰録の理由については「是に天皇詔りたまわく、朕聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くは虚偽を加ふと。今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討かくして、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまう。」と述べられていることは第28章にも述べた。是を宣長は「そのかみ世のならひとて、万の事を漢文に書き伝ふとては、その度ごとに、漢文章に牽かれて、もとの語は漸に違いもてゆく故に、かくては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ裳のぞと、かしこく所思看し哀しみたまえるなり」という風に、言葉が漢字に毒されて失なわれてゆ事を天皇が哀しんで撰録を命じられたといっている。何処にそんなことが書いてあるのか。宣長は紙面にないことを言っている。また序の書き方も典型的な官僚用語で誤りを正すという書き方である。是もうそ臭い。官僚はいつももっともらしい能書きで下心丸見えの文章を書く。小林氏は「支配者大和朝廷が,己の日本統治を正当化使用がための構想に従って、書かれた物で、上代のわが民族の歴史ではないと言っても、何を言ったことにもならない。編纂が政策によったものにしても、歴史事実を無視しては進めない」という風に極めて物分りのよさそうな出だしで訳の分からないことをいっている。現代の意見も尤もだけれど宣長に間違いはないという立場を固守する。これは津田左右吉氏の論に対しても全面的肯定を示しながら、むにゃむにゃの訳の分からない言葉で宣長賛美の立場を崩さない。一度信じ込もうとしたら、形勢悪しといえど操は守る律儀さには感心した。宣長の訓法のいさぎよさは、有名である。例として倭建命の嘆きのセリフを見事な決断で読み下されるのである。ちょっと強引ではないですかと言いたいとこだが、その訓み下し文は分かりやすい。名人の技といえよう。是には感心した。

  第31章 古事記神代之巻

 古事記神代之巻の荒唐無稽な内容は近世の多くの史家を悩ました。儒学者特に朱子学者は合理主義者であり、古事記の非合理的解釈を拒否して、水戸光圀編纂「大日本史」や、林鵞峯編纂「本朝通鑑」にしても神代は敬遠して神武から始めている。ところがなぜか江戸幕府の儒者新井白石は将軍家宣の要請で「古史通」を著し、そこで神代の合理的解釈の一例を示したが、納得できるものではない。津田左右吉氏は記紀研究において「新井白石は、元来不合理な話を合理的に解釈しようとして牽強付会に陥っている。宣長は一字一句文字通り真実とみなしているが、人間として不可能でも神としては可能と言う説は人間に関しては一種の合理主義かも。しかしいまどき宣長を継承する人はいないが、追従するものはいる。」と言う立場である。

 

 

我が家の入り口 敷石の傍らに ニオイタチツボスミレたちがひょっこり顔を出している

 


      お願いがございます!

2013年03月22日 | 季節の移ろいの中で

 

我が家の白爪蒲公英 (叔母管理の小さな雑草園にて)

 

 

お願いがございます!

 

当ブログに、いつもお越し頂きまして、心から感謝申し上げます。

このブログは製作者のある意図があり、そのもとで書かれています。

それは、この画面を125%(もしくは150%)で、ご覧戴きたいことであります。

ツールバー表示に、「拡大」があります。そこで125%に拡大して戴き御覧賜れば、

これほどのご幸甚は御座いません。製作者の我儘、勝手気儘な意図でありますが、

字、及び写真など、その大きさに照準を合わせ、書かせて戴いて御座いますので、

どうかご理解戴きまするよう、又ご協力賜りますように、心よりお願い申し上げます!

 

硯水亭歳時記 主人

 

 

裏庭に咲くマルハタチツボスミレ

 

玄関わきに咲く、白いシバザクラ 今が満開

 


まぁ、また咲いてくれましたねぇ!

2013年03月21日 | 

我が家の染井吉野 元気な部分の先端

 

 

      まぁ、また咲いてくれましたねぇ!

 

 自宅に再びの花の到来。あんなに寒かった日々はスッカリ遠くなったようです。二人の子供たちと妻と、我が家にて静かに花見をする。子供たちはいつも以上に輝いてみえる。日頃静かな妻も嬉々としている。歓びが、みんなで炸裂する。我が手作りお料理を、茣蓙を敷いて広げ、雛祭りが終わったばかりだから、春の野遊びのようである。子供たちは随分大きくなったもので、今度生まれてくる子とは少々年齢が離れてて、だからこそきっとお姉ちゃんお兄ちゃんとして面倒みよくみてくれるに違いない。かもな!

 

我が家の染井吉野 樹齢100年ほど 曽祖父が植えたもの

 

 我が家の染井吉野は多分100年以上は経っているだろう。曽祖父が植えたもので、老齢な樹だから、幹から彦生えも生えてこない。戦災にも耐えた花である。でもあとどのくらい持つのだろう。そして我が庭には江戸彼岸もあるし、小彼岸もある。種類が違う山櫻も二本植えてある。私たちが結婚した時に、紅枝垂れ櫻を植えたが、まだまだ妙心寺・頭塔の退蔵院のような華麗な樹になってはいない。ちょろちょろと少しずつ上に伸び、実に可愛いもので、こんな都会にも健気に育っているから微笑ましい。まるで私たち夫婦のようなもので、私たちも夫婦として成長しているのだろうか。更に屋敷傍に、もう直ぐ夥しいスミレたちが賑やかに咲くことだろう。芝の端をよ~く見ると、オオイヌフグリやオドリコソウやナズナやハナニラなど、今を盛りに咲いているから更に嬉しい。白爪蒲公英は、叔母がどこからか取ってきて植えてあるはずだが、まだ姿を見せていない、どうしたことだろう。辛夷はとっくに盛りを過ぎ、思い切り外へふんぞり返り、今にも散りそうである。あぁ、春だ、私たち家族は春を通り越し、初夏のような陽気の中で汗ばんで過ごしていた。そう言えば亡き母がいつも口にしていたことがある。「Rちゃん、花は時を忘れずに咲くものよ。きっと人間より偉いんだわ」と、まるで恩知らずな人とは違うと言わんばかりであったから、よく覚えている。確かにそうだ、早い遅いの若干の差があるものの、時季が来たら必ず咲いてくれる花たち、有難いことである。子供たちのワワンたちはみ~~んなお家の中。折角だもの邪魔されたくない。こうして我が家の櫻の季節は静かにやってきたのである。

 

父が丹精こめてつくったヤマモミジの盆栽たちも、若葉を伸ばして元気いっぱい

 

 本居宣長は「古事記伝」で特に有名だが、宣長19歳の時「源氏物語」と出遭って、その10年後の29歳から弟子に対し、「源氏物語」の講釈を始めた。それから40年飽くることなく、殆ど終生続くのだが、その結晶が「源氏物語 玉の小櫛」となって私たちにも残された。如何に「源氏物語」を裏から表まで読み込んでいたかが、よく理解出来る。勧進懲悪的だったり、好色的と批判されがちな佛教的儒教的な説教部分を一切省いて、「もののあはれ」を追求した奇跡的な宣長の集大成である。「古事記」の読み込みはその途中であっただろうと想像されるが、宣長にとって「古事記」とは、源氏で掴んだ結論を補完するためであっただろう。師匠・賀茂真淵から、万葉仮名を勉強するようにと薦められ、宣長は「万葉集」もこと細かに読んでいる。だが、それまでだれもが解読不可能と言われた「古事記」を初めて読み解き、現代の私たちにどれほどの恩恵を与えていることだろう。漢意(からごころ)を詳細に解きほぐした「玉勝間」は、昨今、最も重要な宣長の説かも知れない。今夜は、宣長43歳の時綴った「菅笠日記」でも読もう。古都・奈良への旅はもう少し先だろうから。

 


    日本人とは、あなたは何を身につけますか

2013年03月18日 | 

錦帯橋の櫻たち

 

 

   日本人とは、あなたは何を身につけますか

 

 日本人とは、何者でしょうか。歴史を知らず、如何なものでしょう。日本史に近づきたくないようで、何だか哀しいです。声高に中華思想の誇示を掲げる習近平新総書記に怖さを感じる前に、あなたは日本人たる道理をどう語るのでしょう。WBCやサッカーの国際試合に日の丸を掲げますが、私たちは普段何を知り何を身につけようとしているのでしょう。家族愛・郷土愛・愛国心など、どう育んで行くべきでしょう。戦後復興での古い価値観の日教組的教育では何一つ分からない時代になっているのに。日本人から生まれたから日本人なのですか。しかも海外事情に極めて疎く、英語力がどうしても肝心だと思われるのですが、あなたは海外で一人でホテルのチェックインが出来ますか。スンニ派とシーア派の違いって判りますか。今そこにある日本の何をご存知ですか。今日はせめて櫻のお話を知りたい方々のために、櫻に関する本のご紹介に止めます。だってここまで来たら、お花が待ちきれませんね。 

 

  <櫻好きな方にお薦めしたい本>

 

薄墨の桜    著者/宇野千代 ●集英社文庫

岐阜県根尾谷の淡墨桜を一躍有名にした一冊。本書は小説だが実在の人物も多く登場する。前田利行氏は、昭和24年枯死の危機に瀕したこの桜に238本の根接ぎをおこないみごとに甦らせた伝説の人物。実話と創作を織りまぜつつ進行する老桜の妖美な物語。淡墨桜を愛でるための必読書。

 

櫻男行状   著者/笹部新太郎 ●双流社

「桜好き」の小林秀雄が、水上勉にすすめたという一冊。私財を投じ、生涯をさくらの保護育成に捧げた櫻男・笹部新太郎の自叙伝である。笹部新太郎は、水上勉の「櫻守」に登場する竹部庸太郎のモデルとされる人物。笹部桜、造幣局通り抜けの桜、荘川桜の移植などなど――櫻男の話は尽きない。

 

桜守二代記   著者/佐野藤右衛門 ●講談社〔1973〕【絶版】

昭和22年、枯死した京都・円山公園の祇園枝垂れ桜のあとに、嵯峨の自園で育てた二世の桜を移植したのがこの本の著者、桜守二代目・佐野藤右衛門。日本のさくらを守り育てるために、父子二代で日本全国を旅して接ぎ木のための穂木を集め品種収集につとめた。さくらにひとすじに賭ける情熱がすさまじい。

 

桜のいのち庭のこころ    著者/佐野藤右衛門 ●草思社〔1998〕

こちらの佐野藤右衛門は桜守三代目、植木職・植藤16代目の藤右衛門である(「さくら大観」の著書)。桜と庭にまつわる氏の語りが、土の感触を忘れて久しい我々現代人の欠落した感覚を思い出させてくれる。桜好きでなくとも、ぜひ、おすすめしたい一冊。

 

櫻よ―「花見の作法」から「木のこころ」まで 
著者/佐野藤右衛門[聞き書き]小田 豊二 ●集英社〔2001〕

藤右衛門さんの本はどれも読みやすくおもしろい。本書は、京都を中心に各地の桜を歩いたときの聞き書きをまとめたもの。自然をどこまでも破壊してきた人間に「このままでいけば、いつか自然のしっぺ返しを受けるにちがいない」人間は自然と共生して生きるべき動物である――と独特の語り口で諌言する。

 

桜伝奇   著者/牧野和春 ●工作舎〔1994〕

桜の巨木との出会い、日本人と桜の深淵さを綴った12の桜の小伝記集。真鍋の桜、根尾谷淡墨桜、醍醐桜、山高神代桜、石部桜、荘川桜、常照皇寺の九重桜、伊佐沢の久保桜、高麗神社のしだれ桜、桜株、三春滝桜、狩宿の下馬桜を紹介。桜巨木を語るのに欠かせない一冊。

 

巨樹と日本人 異形の魅力を尋ねて   著者/牧野和春 ●中公新書(1998)

『桜伝奇』の著者であり、全国巨樹・巨木林の会の理事でもある牧野和春氏が、全国から60本の巨樹を選び紹介する。うち桜は、角館のシダレザクラ、三春滝ザクラ、真鍋のサクラ、山高神代ザクラ、常照皇寺の九重ザクラの5本が収録されている。

 

櫻 守   著者/水上勉 ●新潮文庫(1976)

主人公の庭師・弥吉を通して笹部新太郎の桜に寄せる情熱を描いた小説。(小説では竹部庸太郎。上段『櫻男行状』の著者)。兵隊検査を丙種でのがれた弥吉が、竹部との出会いにより桜を守り育てる情熱に引き込まれていく物語。荘川桜の移植の他、根接ぎの話、各地の桜のエピソードも多く紹介されている。

 

在所の桜   著者/水上 勉 ●立風書房(1991)

根尾の淡墨桜、円山枝垂れ桜、越前ぜんまい桜、山高神代桜、石州三隅の桜、荘川桜など22の桜への思いが綴られた桜随想集。全国各地の名桜を訪ね歩いた思い出、小林秀雄や多くの人たちとの出会いを通して著者の桜観・自然観が語られている。

 

花見と桜〈日本的なるもの再考〉   著者/白幡洋三郎 ●PHP新書(2000)

「群桜」「群食」「群集」の3つを成立条件とする日本の花見は、世界に類のない民衆文化……と説くユニークな花見論。名木は追いかけても、名所はよけて通った私が、ちょっとだけ花見の写真も撮ってみようかと心動かされた一冊。

 

サクラを救え〈「ソメイヨシノ寿命60年説」に挑む男たち〉

著者/平塚晶人 ●文藝春秋(2001)

樹齢135年のソメイヨシノが、絢爛に咲き誇る青森・弘前公園。桜管理のパイオニアである同公園の試行錯誤を中心に、日本の桜名所の管理状況をルポした好著。読後には、桜を観る目が変わってくる、桜好きには絶対オススメの一冊。

 

桜と日本人ノート    著者/安藤潔 ●文芸社(2003)

語源にはじまる「サクラ」とは何か、古代の「桜」、「桜」に魅せられて、「桜」の民俗などなど。万葉集から日本酒のラベルまで、サクラにまつわるさまざまな姿をその源まで遡り、桜と日本人の関わりを考察しようと試みる「桜ノート」。桜を堪能する絶好の書。

 

日本の桜   解説・川崎哲也 写真・奥田實/木原清  ●山と渓谷社(1993)

あらゆる桜の種類や分布など網羅している。桜好きには必須の本。(すべての桜の学術的解説 及び写真掲載)

 

櫻 史  著/山田孝雄 山田忠雄校訳 ●講談社学術文庫(1990)

日本文学史に出てくるあらゆる原典から引用し、著者独自の視点で櫻の歴史を考察。(文学史から見た櫻の歴史 筆者が最も愛する本)

 

 

帯芯に描いた私の岩彩(芭蕉の句)


    櫻の種類

2013年03月17日 | 

吉野の山櫻

 

   櫻の種類 

 

 昨日東京の櫻も気象庁によって開花宣言された。史上最も早い二度目の記録らしい。尤もこの開花は染井吉野だけに限定されたもので、当ブログではどうでもいい櫻である。日本には案外櫻の種類が少ない。ただ山櫻や江戸彼岸の櫻たちは本邦原産の花である。「敷島のやまとごころと 人とはば 朝日に匂ふ山櫻ばな」と歌を詠んだ本居宣長の本質は「もののあはれ」であり、「からごころ」を排除して見えてきたものである。「からごころ」とは「漢意」と書き、中国からの知らず知らずのうちにうず高く蓄積していった漢籍・漢文影響への抵抗であったろう。「やまとごころ」とは大和魂などという勇ましい話ではなく、「和心」と書き「やまとごころ」と表現している。このことは宣長の作で、「玉勝間」に詳細に書かれているから、よく理解出来よう。又宣長は弟子を集めて最初に講釈をしたのは『源氏物語』であり、源氏を最初に正確に評価した人であったともいえようか。ではこの辺で本州の櫻の種類を掲げておこう。何故なら私たちの塾やグループでの仕事は花の時季に繁忙期を終えるからである。

 

櫻の種類

 

① カンヒザクラ群

  野生種は沖縄中心としたカンヒザクラ(分布の北限は関東地方)

  琉球寒緋櫻・寒櫻・大寒櫻・修善寺寒櫻・河津櫻・伊豆多賀赤・熱海早咲・大漁櫻・         横浜緋櫻・陽光・オカメ・啓翁櫻・初御代櫻・明正寺・椿寒櫻など

 ② エドヒガン群

  野生種は北海道と沖縄以外ならどこでもある 染井吉野は大島櫻×江戸彼岸の人口交配種につき野生種は存在しないが、学術的には江戸彼岸群に入る 江戸彼岸は別名/立彼岸・東彼岸・姥彼岸ともいう 望月櫻・八重望月櫻・枝垂・望月櫻・山望月櫻・枝垂櫻・紅枝垂・八重紅枝垂・雨情枝垂・紅鶴枝垂・勝手櫻・蒲櫻・三隅大平櫻・八重紅伊豆吉野・天城吉野・船原吉野・御帝吉野・三島櫻・咲耶姫・昭和櫻・アメリカ(植松作出の曙)・鞍馬櫻・神代曙・枝垂染井吉野・薄毛大島・衣通姫・白玉・盛岡枝垂・仙台吉野・水玉櫻・熊谷・八重紅彼岸・四季櫻・小彼岸・十月櫻・思川・白滝櫻・緑吉野・越の彼岸櫻・巴櫻・猩々・西法寺櫻・瀧野櫻・駿河櫻・茂庭櫻・松前薄墨櫻・穂先彼岸八重櫻など 

③ ヤマザクラ群

  南方は山櫻で、関西以北は大山櫻に分類される 北海道にも大山櫻がある 筑紫櫻・稚木の櫻・山越紫・仙台屋・内裏の櫻・衣笠・兼六園熊谷・八房櫻・紅南殿・養老櫻・佐野櫻・琴平・伊予薄墨・日吉櫻・市原虎の尾・二度櫻・火打谷菊櫻・気多の白菊櫻・来迎寺菊櫻~以上山櫻群 

  大山櫻群の別名は蝦夷山櫻・紅山櫻ともいう 初雪櫻・毛蝦夷山櫻・奥州里櫻など

  カスミサクラ群は北海道・本州・四国に分布し、九州にはない 朝霧櫻・片丘櫻・吉備櫻・奈良の八重櫻・紅玉錦・松前薄紅九重など

  オオシマザクラ群も山櫻に分類される 潮風櫻・薄重大島・寒咲大島・雲竜大島・八重紅大島・赤実大島・上匂・御座の間匂・駿河台匂・八重の大島櫻・伊豆櫻・青葉・水上・新墨染・細川匂・瀧匂・宗堂櫻など

  この他のヤマザクラの仲間として 江北匂・金剛櫻・祇王寺祇女櫻・伊保櫻・誓願櫻・御信櫻・木の花櫻・善正寺櫻

  この他のオオシマザクラの仲間として 梔子櫻・枝垂大島櫻・枝垂小山櫻・野中の櫻・暁櫻・明星・高嶺大山櫻など

  この他のカスミザクラの仲間として 霧降櫻・八重の霞櫻など   

  サトザクラも山櫻群に入る 山櫻と大山櫻の影響に入るサトザクラも多い 関山・紅殿・小汐山・金剛山・紫櫻・八重紫・嵐山・八重紫櫻・御室有明・仙台枝垂・不断櫻・千原櫻・荒川匂・御殿匂・大沢櫻・長州緋櫻・御所御車返し・手弱女・妹背・紅華・二尊院普賢象・鬼無稚児櫻・突羽根・梅護寺数珠掛櫻

  カスミオザクラの影響が見られる里櫻 水晶・名島櫻・太田櫻・鵯櫻

  オオシマザクラの影響が見られるサトザクラとして 明月・帆立・貴船雲珠・八重匂・白山旗櫻・永源寺・房櫻・早晩山・光善寺白八重櫻・苔清水・渦櫻・一葉・日暮・五所櫻・松月・玖島櫻・普賢象・天の川・御車返し・小南殿・菊櫻・御衣黄・鬱金

  ヤマザクラ群その他のサクラで、サトザクラの仲間として 類嵐・龍雲院紅八重・平野寝覚・祝櫻・増山・福櫻・菊枝垂・虎の尾・大芝山・九重・撫子櫻

  マザクラの影響が見られるサトザクラとして 真櫻・鷲の尾・大明・駒繋・車駐・太白・千里香・有明・白妙・雨宿・牡丹・大提灯・白雪・狩衣・翁櫻・今宿櫻

  ウスズミ系のサトザクラとして 薄墨

  高嶺櫻の影響が見られるサトザクラとして 松前紅緋衣・芝山・福禄寿・八重曙・高砂・松前早咲・綾錦・紅豊・江戸・東錦・八重紅虎の尾・白山大手毬・手毬・楊貴妃・糸括・法輪寺・紅時雨・静香・蘭蘭・松前大潮・新珠・松前愛染・紅笠・松前八重寿・松前・北鵬・松前花山院・花笠・松前花染衣・松前富貴・三ヶ日櫻・高台寺・矢岳紫・渋谷金王櫻・東京櫻・伊予熊谷・万里香・朱雀・小金井薄紅櫻・旭山・白華山・麒麟

  現存しないと思われるサトザクラとして 曙・玉鉾・紅鵯・采配櫻・奥都・王昭君・南殿・羽二重・乙女櫻・暁櫻・早咲櫻・勇櫻・尾上櫻・白菊櫻・紅虎の尾・墨染・満月・大南殿・蓬莱山・伊勢櫻・金綸寺白妙・都・黄金 

  以上のようにサトザクラ群に最も八重櫻が多く交配しやすい 

④ マメザクラ群 

マメザクラはマメザクラとタカネザクラの二つに分けられる。野生種のキンキマメザクラは敦賀を中心に滋賀・京都山手・兵庫裏日本・島根などに分布するが、野生種のマメザクラは富士山を中心にしか存在しない。

 マメザクラ群としては 豆櫻・大花豆櫻・近畿豆櫻・緑近畿豆櫻・武甲豆櫻・雪洞櫻・勝道櫻・富士霞櫻・飴玉櫻・藪櫻・緑櫻・水土野八重・茜八重・湖上の舞・熊谷櫻・鴛鴦櫻・二上櫻・海猫・勝道彼岸・正福寺櫻・真鶴櫻・ 

 フユザクラはマメザクラと何かが交配して出来た櫻で豆櫻群に。 

 野生種のタカネザクラは本州近畿地方の高山から東北と通り北海道の高山に広く分布する 高嶺櫻・千島櫻・石鎚櫻・小豆櫻・比翼櫻・八重の豆櫻・富士菊櫻・山豆櫻・身延櫻・枝垂小葉櫻・長柄の豆櫻・御殿場櫻・含満櫻・毛武甲豆櫻・武甲霞櫻・八ヶ岳櫻

 ⑤ チョウジザクラ群

 この花は東北の太平洋側に点在し、関東北部と西部から中部地方の山地に多いが滋賀県から西では急に少なくない

  丁字櫻・奥丁字櫻・深山奥丁字櫻・日光櫻・花石櫻・秩父櫻・大峰櫻・雛菊櫻・四季咲丁字櫻・大奥丁字櫻・鳴沢櫻・小根山櫻・霞奥丁字櫻・丸葉秩父櫻・小倉山櫻・丁字豆櫻などが該当する

⑥ シナミザクラ群

 この櫻は殆どが中国原産である 支那実(しなみ)櫻が中心

 だが東海櫻・子福櫻・泰山府君・箒櫻などは日本産の江戸彼岸や山櫻などとの交配種である  風戸八重彼岸・正永寺櫻などもある  

 ⑦ ミヤマザクラ群 

  中国原産の櫻で 深山櫻・八重深山などがある  

  この中に上溝櫻(犬櫻とも呼ばれている)も入れていいと推定される。但しズミなどと同種に扱う研究者もいる

⑧ 雑種群 

 様々な櫻が人工的に交配をすることにより、新しい櫻が生まれつつある。最も交配しやすい種類はサトザクラであろう。 

 現在数えられる櫻の品種は約340種である。交配種が不明な櫻も出て来たが、それらすべては三島の国立遺伝研究所でDNA鑑定されている  

 

一葉(ヤマザクラ群のオオシマザクラの影響がみられるサトザクラ 真ん中に一枚の葉が)

 


    今年も、あなたと花を見る

2013年03月15日 | 

  

福島第一原発から20キロ範囲の富岡町 櫻並木

 

 県立いわき総合高校の櫻の絵

 

 

 

今年も、あなたと花を見る

 

 

今年も震災の日がやってきた。

国立劇場で式典が開かれ、民主党政権下では2階席にいた

大切な友人・台湾の代表団が、今回は各国の代表の方々と前面にいた。

あのスッカラカンの菅元総理は八か国に対しお礼の広告を出したが、

中国に遠慮してだろうか、200億円も義援金を頂きながら、

台湾には、ただ一度も感謝の広告を出さなかった。この人でなし!!

 

チャイニーズ・タイペイとWBC日本代表との戦いの席に、

「謝謝 台湾 震災3,11 損贈」と書かれた日本応援団のカードを見た。

同時に「加油 東北!」と書かれたCTチーム応援の方々もいた。

更に試合後、チャイニーズ・タイペイチームは、

マウンド近くで円陣を組み、チーム全員で、祈りを捧げていた。

 

今年の3,11の色々な新聞の中で、読売新聞に見開きで、

被災者と、その家族のメーッセージが59記事出た。

どの記事を読んでも涙に溢れた。親子、友人、身内、職場関係など。

涙にくれるなら、どこかボランティアの地で迎えたかったのに。

原発被災地では何一つ見通しがたたず、私たちもただ見守るしかないのだろうか。

 

    長谷川櫂氏 『震災句集 四』より

    みちのくの山河慟哭初桜

    天地変いのちのかぎり咲く桜

    この春の花は嘆きのいろならん

    瀧桜一つひらきてとめどなし 

    みちのくを二分けざまの桜かな

    みちのくの大き嘆きの桜かな

    咲きみちて咲きみちて無残瀧桜

    さはさはと余震にさやぐ桜かな

    涙さへ奪はれてゐる桜かな

    花冷や津波のあとの大八洲

    花冷ゆる心をもって国憂ふ

    俳諧の留守の間に咲く桜かな

    俳諧の十日の留守や桜ちる

    マスクして原発の塵花の塵 

 

県立いわき総合高校の女子生徒が櫻の絵の前ではじける。

この北校舎は震災で使えず、この春に解体される。

昨日、避難先で多くの卒業式が行われていた。心からの応援を!

 


     豊穣、子福櫻と田の神と

2013年03月01日 | 

 上記写真は上溝櫻の実生

 

 

         豊穣、子福櫻と田の神と

 

 この忙しい折、私に第三子が授かったようである。満面に喜ぶ妻や、父や叔母や家人や、ただ二人の姉・弟の子供たちには分からないかも知れないが、五穀豊穣の予兆として、私も頗る嬉しく思っている。今宵は以前書き置いた国見と花見などの下記の文章を喜びのうちに掲げておきたい。

 

 富士山の元に鎮守されている浅間大社、そこに祀られる木花之咲耶姫は、櫻を象徴している神として広く知られている。毎春、日本国中爛漫と咲く花に熱中する日本人にとって至極親しい神様であるのだろう。「サクラ」と言えば、100%に近い日本人の脳内に「櫻の花」のイメージが浮かんで来るはずである。然し、もともと「サクラ」はもっぱら「櫻の花」を特定して指す花ではなく、稲作と深く関わりのある花の総称であった。

 

   1 「サクラ」の語源

 日本語の中の「サクラ」の語源について、和歌森太郎の『花と日本人』によると、民俗学では、「サ」とは、「サカキ」、「サケ」、「サクラ」、「サツキ」、「サナエ」、「サオトメ」「サガミ」の「サ」は全て神の意味で、すなわち稲田の神霊を指すと受け取っておられていた。お田植神事関係の用語は、「サアガリ」、「サノボリ」、訛って「サナブリ」とも言われるが、田の神が山にあがって山の神になることを指し示していると考えられる。逆に田の神になる時は山から降りて田の神になる必要がある。熊本県のタノカンサーなどが最もいい例であり、田植はまさしく農事である以上、「サ」の神の祭りを中心とした神事であるべきである。そこで田植とほぼ同じ時期4,5月に咲く「サクラ」の「サ」にも通じているのではないかと想定せられる。「クラ」とは、古語で神霊が依り鎮まる座を意味する。(類例:神座<カンザ→カミクラ→カグラ>は神楽に変遷している) 「イワクラ」「タカミクラ」「カミクラ」などの類例があり、「サクラ」は古代農民にとって、もともとは稲魂の神霊が憑き依る花(依り代=神の降りて来る目標物 ヨリシロ)とされたのかもしれない。

 

   2 「サクラ」と国見

 大和朝廷が最も盛んであった万葉時代、大和盆地の人々は稲作農耕をしながら、五穀豊穣を祈るため、さまざまな民俗風の純朴な神事を伴い行われていた。毎年の早春、ほぼ正月の予祝神事が終っての「こと始め」によって準備がなされ、早い段階に行う畦作りから水源確保の水路の仕事から、更には苗代作りから種蒔きに至り、本番の田植までの間に、様々な農作業が次々と行われてゆく。村の人々は真冬に自然界の山に生きて、気温の上昇によって咲いて来る花全般を「サクラ」と呼んでいた。そしてそれぞれの花はそれぞれの農作業の適切な実施時期を正確に知らせてくれる。従って「サクラ」にはたくさんの種類があると考えるのは至極当然なことであろう。その中で特に名高いのが白雪と見紛う白い花をつける「辛夷(こぶし)」(もくれん科もくれん属)や、タムシバ(辛夷の仲間)、そして同様に白い花を咲かせる「江戸彼岸櫻」や「山櫻」である。その時の櫻といえば、まだ現代人におけるイメージのピンク色の櫻ではなく、日本産野生種であり、春先一足早く咲く江戸彼岸や山櫻なのである。色は辛夷と同じくほぼ白であり、清かなる品の高い花であった。万葉時代の櫻は、後世の平安王朝のように都人によって華麗な櫻の美を愛でることがなく、山村の原始的な美が弥増しに漂う。神の宿る山に春が来ると、草木は幻のように白い木の花が咲く、村人たちが山を登り、これから田植が始まる村里の田園風景を望み、そして満開になる花の下で楽しむ様子は現代日本人と殆ど変わりはない。また花には稲霊が宿っていることが信じられ、今年木の花が盛かんに咲いたかどうかの具合によって、その年の吉凶が占われる。

 花見が終った後、万葉の人たちが山を下り、手折った辛夷や山櫻、また山櫻と少しだけ時間差をおいて咲く躑躅の花に稲霊が宿っているとも信じられ、秋の豊穣を祈りながら、水口に刺し、その後家々は漸く田植を始める。これは一種の稲作の予祝神事であり、「国見行事」といい、万葉時代に農耕を生業とした農民たちにとって、最も重要な行事であった。

 この行事の中で、「サクラ」はけっして櫻だけを指すではなく、山櫻のほか、辛夷や躑躅、田植時期の前後に咲く花であれば、全て大雑把に「サクラ」と表現されていた。当時の奈良盆地周辺の里山では、多くの木材が人々の生活するための燃料や住居用材、そして幾つかの宮を設営された用材として、あるいは農耕用器具もしくは堆肥として、伐採されていた。長い間続いていて、松などの常緑樹が山地に生育する主要な樹種になることによって、その下部には多くの辛夷、山櫻、躑躅、冬青(そよご)などの多くは落葉する広葉樹を主たる樹種として二次林になった。奈良の人たちにとって、これらの山櫻、躑躅などの春先に咲く木の花が、身近くにあり馴染み深く、そして生活に深く関わりのある植物であったのである。

 

   3 朝廷の国見

 さて万葉の歌から、かつて朝廷秘儀であった国見行事を見てみよう。万葉集巻一の構成を見ると、前半は第一~五三首(「持統万葉」一巻)、後半は第五四~八三首(宮廷歌の集合、「元明万葉」二巻のはじめ)である。くっきり前半と後半との仕切りが存在している。

 万葉集巻一の第一は雄略天皇の歌で、二は舒明天皇の国見歌である。この二の歌は: 

 天皇登香具山望國之時御製歌

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 (読み:やまとには、むらやまあれど、とりよろふ、あめのかぐやま、のぼりたち、くにみをすれば、くにはらは、けぶりたちたつ、うなはらは、かまめたちたつ、うましくにぞ、あきづしま、やまとのくには)

 意味は、大和(やまと)にはたくさんの山があるが、特に良い天(あま)の香具山(かぐやま)に登って、国を見渡せば、国の原には煙(けぶり)があちこちで立ち上っている上、海には、鴎(かまめ)が飛び交っている。本当に良い国だ、蜻蛉島(あきづしま)の大和の国は。

 そして五二、五三の歌は、二の持統天皇の国見にかかわりのある藤原宮御井の歌である。

 五二 長歌:よみ人知らず

 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

 (読み:やすみしし、わごおほきみ、たかてらす、ひのみこ、あらたへの、ふぢゐがはらに、おほみかど、はじめたまひて、はにやすの、つつみのうえに、ありたたし、みしたまへば、やまとの、あをかぐやまは、ひのたての、おほみかどに、はるやまと、しみさびたてり、うねびの、このみづやまは、ひのよこの、おほみかどに、みづやまと、やまさびいます、みみなしの、あをすがやまは、そともの、おほみかどに、よろしなへ、かみさびたてり、なぐはし、よしののやまは、かげともの、おほみかどゆ、くもゐにぞ、とおくありける、たかしるや、あめのみかげ、あめしるや、ひのみかげの、みづこそば、とこしへにあらめ、みゐのましみづ)

 歌の意味は、国を治められている大君(おおきみ)の日の皇子(みこ)が、藤井(ふぢゐ)が原(はら)に大御門(おほみかど)をお建て始めになり、埴安(はにやす)の堤(つつみ)の上にお立ちになってご覧になれば、大和の青々とした香具山(かぐやま)は東側の大御門(おほみかど)に、春山らしく茂って見えます。みずみずしい畝傍(うねび)の山は西側の大御門(おほみかど)に美しく見えます。青々とした耳成山(みみなしやま)は、北側の大御門(おほみかど)に神々しく見え、名高い吉野の山は、南側の大御門(おほみかど)を通じて遠くの雲の向こうにあります。天に届くように高くそびえる宮殿のある、この地の水こそはいつまでもあってほしい、御井(みゐ)の清水(しみづ)よ。

 万葉集巻一の前半は、二である舒明天皇の国見の歌を始め、そしてその歌と対応した五二、五三と続く藤原宮御井の国見の歌で終わり、これは巻の構成上重要な特徴の一つであり、大和朝廷にとって、国見行事の重要性は軽んずることは出来なかった。稲を生業として生活していた農民にとっても、農業が国の重要な経済の支えである朝廷の施策にとって、春先に国見をし、一年の豊穣を祈り、稲作を大事にすることは古代日本では確かなことであった。

 国見行事は、最初は朝廷の行事で後に民間の稲作神事に変化してきたか、それとも最初は民間の稲作神事で後に朝廷の大事な行事になってきたか、現在調べは出来ていないが、これは民間の収穫祭である「あへのこと」などと国家の祭祀「神嘗祭」が同時に混在していると同じことで、稲作文化であった古代日本では、稲は最も重要なことであり、稲作神事は人々の心から、敬虔に祀られていたからに違いない。

 

   4 「木の花」と「櫻」

 前述したように、「サクラ」はもともと専門的に「櫻」を指すことではなく、少なくとも、万葉時代にはそうではなかった、その時代に「サクラ」とは、辛夷や山櫻や躑躅などが、多く国見の時に咲く花の通称、或いは総称であった。然し後世になると次第に「櫻」のみが「サクラ」の代名詞になってきた。そもそも、「木花之咲耶姫」も同じことである。もともとは「木の花」があらゆる樹木の花を現わされていたが、これも又後世になると、だんだん専門的に「櫻」を指すようになってきたのだった。

 山田孝雄は名著『櫻史』の中で、「咲耶姫(さくやひめ)」は「櫻姫(さくらひめ)」の誤りである仮説を提出した。折口信夫も『古代研究・民俗学篇Ⅰ』、「花の話」の中で、万葉時代の稲作農民が花の咲く具合を見て、今年が豊作かどうかを占うことを語った一方、「木の花」は実は櫻であることを証明しようと、万葉集に載せられている木の花の歌を例として挙げた。

 巻六 一四五六  藤原朝臣廣嗣、櫻の花を娘子に贈れる歌一首

 この花の一辨のうちは百種の言ぞ隠れるおほろかにすな

    一四五七  娘子の和ふる歌一首

  この花の一辨のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや

 この二首の歌の中で、確かに「木の花」で「櫻」のことを指していたが、この二首だけの歌であって、万葉時代全般で「木の花」=「櫻」を証明することは十分ではない。この歌を詠んだ藤原朝臣廣嗣も娘子も、貴族の人間であり、稲作作業をしたこともない彼らは、わくわくとして国見行事をし、苗代や種蒔、田植などの田圃の重労働である仕事を準備し、豊作を念頭にして頑張ろうとする農民たちの心の中での「木の花」像の深みとはまるで違うと思う。

 さて、『日本書記』で木花之咲耶姫について書かれてある段にも、明らかに木花之咲耶姫は「櫻」であることを触れられていなかったが、稲作との関わりが書かれていた。

 ① 木花之咲耶姫が最初に書紀に現れたときは、稲作と関りのある神として現れていた。

 巻第二 神代下 第九段 一書第三

 「時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)、以占(うら)定田(へた)、号曰狭(せ)名田(なだ)。」

 神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)は、木花之咲耶姫の別名である。ここでは、彼女は巫女的神性を有するので「神」の字を冠し、神田を司る神であり、父親の大山祗神は山の草木や獣などを司る神となっている。

 占(うら)定田(へた)とは、占いにより神田と定められた田のことである。狭(せ)名田(なだ)は、狭長田、すなわち狭く細長い田である。神田の特徴に基づいた表現、神田は、山の最初の水を取って治られる山田であるので、狭くて細長い。

 「以其田稲、醸天甜酒之。又用()()()稲、為飯嘗之」

 嘗は、「大嘗祭」の嘗と同じく、神と供薦して神に献饌する。渟(ぬ)浪田(なた)とは、沼(ぬ)浪(な)田、すなわち波立つ沼のように水が多い水田のことである。これらは全て水稲農耕の主な特徴であり、書記に書かれた木花之咲耶姫に関する神話の中で出たのは興味深い話である。

 ②書記で二回目の登場する時、彼女の名は時神(かむ)吾(あ)田鹿(たか)葦津(しつ)姫(ひめ)から木花之咲耶姫に変わっている。

 「于時高皇産靈尊以真床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、使降之、皇孫乃離天磐座、、、彼國有美人、名曰、鹿葦津姫、亦名、神吾田津姫、亦名、木花之開耶姫、皇孫問此美人曰、汝誰之子耶?、對曰、妾是天神娶大山祇神所生兒也、皇孫因而幸之、即一夜而有娠、皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間令人有娠乎、汝所懷者、必非我子歟、 故鹿葦津姫忿恨、乃作無戸室、入居其内而誓之曰、妾所娠、若非天孫之胤、必當焦滅、如實天孫之胤、火不能害、即放火燒室、始、起煙末生出之兒、號、火闌降命、是隼人等始祖也、火闌降、、、次、避熱而居生出之兒、號、火火出見尊、次、生出之兒、號、火明命、是尾張連等始祖也、凡三子矣。」

 ここで、斎庭から稲穂を地に持ってきた皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊が、稲とゆかりのある木花之咲耶姫と結婚し、子が生まれた。まるで稲と花との象徴的結合である。ここにも相変わらず木花之咲耶姫は「櫻」であることを言っていないが、木花之咲耶姫はあくまでも、やはり田植の目印としての「サクラ」だと理解すれば良いと思う。それが証拠に殆どの場合、村々のどの位置からでも容易に見える最も高い場所に櫻の巨木がそそり立っている。

 そんな訳で文献上「木の花」はいつの時代になってから「櫻」になったか実は分かっていないのであるが、和歌の世界で、「花」が「櫻」を表すのは早くても平安に入ってからのことである。『万葉集』では、櫻の歌は43首で、梅は117首もある。万葉の人は櫻よりはるかに唐の国の象徴である梅を好まれていた。『古今集』では、「梅」の歌が18首に対して、櫻の歌は70首と櫻の歌の割合がぐんと増えた。然し『古今集』では櫻を歌うときに、必ず「櫻の花」と明確に注を加えている。さらに『新古今』という和歌の黄金時代になると、吉野の山櫻が盛んに詠まれるようになり、櫻の歌は119首で、梅は僅か23種に留まる。特に「櫻の歌人」と呼ばれた西行が櫻を愛し、櫻を讃えた歌は200首を超え、『山家集』にはそのうち100首余りが掲載され、多くの名歌を残している。その後も櫻を好む文人が絶えず、中世文学では、「花」はほかの花ではなく、専門的に「櫻」を指すようになっていた。また、鎌倉時代に入ると、武家思想は櫻によって大きな影響を与えられていた。当時の風潮により、日本人はやがて「木の花」を「櫻の花」というような理解になってきたのではないかと思う。

 また一般的な風評として平安時代に、梅派の菅原道真一族と櫻派の藤原一族との争いがあり、藤原氏が勝利したために、宮中内裏・紫震殿に植えられていた左近の梅が櫻に取って代わったというのは未だ充分に論証されていないことも付記しておきたいことである。 更に木花之咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の万葉仮名での呼び名の中で、「ヤ」が「ラ」だから本来はコノハナサクラヒメと言う説があることも表記しておきたい。

 

   5 「櫻の花」と田植

 日本人の近世で櫻を好む風潮により、都会にも田舎にも全く関わらず、人々は花見を楽しむ習慣が一般的になってきた。無論農村部の春先の田植神事をするときも、櫻の花だけを重視し、櫻の花の咲き具合のみで田植をし、五穀豊穣を願う判断にされて来ることになってきたかからではないだろうか。辛夷は畦作りで、躑躅は苗代から種蒔きと時期が特定され、櫻を全般的に象徴として農作の花として一般化され具現化されたのであったのだろう。

 いまでも、櫻を田植の目印と見られる農作の習俗・習慣は、前述した奈良盆地だけではなく、東北から中部、四国、全国各地にまで類例は見られる。この農作における自然暦と見られた櫻は、関連する農作業によって、種蒔き櫻、種あげ櫻、苗代櫻、芋種櫻、田打櫻などと、さまざまな名をつけられた櫻が多く散見される。また、豪雪地帯である一部東北地方では、春の農作業の目安は櫻のほかに、山の雪形(残雪の形)とも含まれて、農作業は周囲の自然と深く結び付けられている。

 そのほかの櫻と関係する稲作神事の例をあげれば、各地に数多くの櫻の大木に関する伝説が伝えられている。その一つは「駒つなぎの木」の伝説:里の祖霊たちが山に神集って山の神になっている。この山の神が樹木に宿って再び里に下られる時に、歳の神・農の神になる。農の神は、田の側の松や櫻などの大木に神が憑き依ることが信じられている。村民は農の神を祭った木を、「駒つなぎの木」として、「咲いた櫻に、なぜ駒つなぐ。駒がいさめば、花が散る」と歌いはやして、稲の花が無駄に散らないように念願し、豊作を祈っていた。木の種類は地方により、松や櫻、杉、椋(むくのき)などさまざまであるが、この行事は意外に一致点があり、全国に広く分布している。神馬は、神の乗り物であり、農の神でもある。それを木につなぎとめることで、山の神が村に下りて来て、農の神になり、長く田にいらっしゃれることに願ったものと思う。

 もう一つの「子持櫻」や「子福櫻」の伝説は、娘が櫻の花を懐に入れた夢を見、妊娠することになった。これは櫻に稲霊さまが宿り、稲にも繁殖させる力を信じ、開花した櫻の枝を、まだ播種していない田圃の水口に刺し、今年の稲花の開花を切に祈ることで、一種の感染呪術(カマケワザ)と同じことであろう。ここから派生して安産・子授けの神にもなっている。

 幾つか時代が変わっても、日本の村々に櫻の花の咲く風景は変わらない。稲と櫻のこんな素朴な組み合わせはこのように品のある美的感性に結晶して存在し、人の心の奥に深く沁みていくのである。どこかの本で読んだか詳細は覚えてないが、かつて柳田國男が農村に調査しに行った時、長く村の櫻を眺めていた。農林省出身の彼にとって好む櫻は、けっして現代人の好む華やかな都の枝垂れ櫻ではなく、日本の村々に咲く田の櫻であったのだろう。

 

  

「ケ」を祓う流し雛 (下鴨神社)

 

 * 参考文献

 「桜Ⅰ、Ⅱ」(ものと人間の文化史) 有岡利幸 法政大学