硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

      櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

2015年03月31日 | 

千鳥ヶ淵の染井吉野 全国一早く満開になり

 

 

櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

 

 今週木曜日(3月29日)に 全国に先駆けて 東京の櫻が満開となりました 都内有数の櫻の名所である上野恩賜公園 目黒川沿い 飛鳥山 浜離宮恩賜公園 六義園 小石川植物園 墨堤公園  アークヒルズ 芝公園 靖国神社 新宿公園 櫻坂 明治神宮公園などなど上野の混雑はピークを迎え 報道ではゴミが散乱しているとか 見るも無残で哀れ 私の家の櫻たちも満開で 昨日午前中だけは 我が家だけで 花見の宴まるで おママゴトのように てんこ盛りの酒のアテやら 子供たちへのスイーツやら 久し振りに家族の団欒 

千鳥ヶ淵の櫻 昔フェアモントホテルがあった頃 二階の部屋を貸切にし 櫻の宴を開いていた 

 人はよく櫻の花は儚いというが バカ騒ぎをして よっぽど人間のほうが儚いのを知っている様子 櫻は満開を過ぎると 丁度一ヶ月経ったオオシマザクラの葉の収穫(櫻餅用) 八重櫻の関山は紅が濃いから 花を収穫して 櫻花の塩漬けにし 櫻茶に 黄色い鬱金(うこん)や 緑色の御衣黄(ぎょいこう)は 花の終わりにピンク色に染まるから面白い 花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに ( 小野小町=9番 『古今集』春・113) 如何にも儚い花の象徴のような歌だが 色は確かに移る だが真夏の暑い日には来期の花芽をつけるのだ そうして 人より遥かに長生きするのが本来である クローン櫻の染井吉野は確かに短い樹齢なれど 江戸彼岸や山櫻は何百年も 或いは何千年以上も長生きして 私たちの儚さに勇気を与えてくれる

東大付属小石川植物園の櫻

小石川植物園の天城吉野など

穏やかな中のお食事 酒は飲めない マナーは最高の観櫻ポイント

六義園の枝垂れ櫻 


 弘前城址公園にある管理事務所には 樹木医の小林勝さんがいて 市の公務員として 年がら年中 櫻守をされておられる 弘前には林檎農家が多数あり 幾多の困難な剪定技術を生かされ その特技は 確かに多くの公園緑地課に 多大な影響を与えておられるが 染井吉野の延命は 果たしてどうだろうか 寿命が60~70年とされる染井吉野は 弘前では間違いなく日本一古い染井吉野が存在し その心を後に樹木医となった橋場真紀子さんに継承されているが 

弘前城址公園の櫻守・小林勝さん もう直ぐ出逢えることだろう  

 染井吉野は いち早く根付き 華やかに咲く櫻なので 持て囃される花だが 寿命は短いはず 小林勝さんは 染井吉野の樹命に 果敢に挑戦している最中であるが 江戸後期に生まれた 箱入り娘のような クローン種(実生では誕生しない)の櫻は 今後にどう生かせるか予測困難かも 日本の櫻の80%は染井吉野種だけに 甚だ注目されるが 小林氏の挑戦に期待したい 尚 勝さんのお兄さんである小林憲士(のりお)氏の跡継ぎとして活躍する勝さんだが 「弘前方式」と言われる櫻木の芯止めの技術や夏の土入れ替えや冬場の伐採などで 特に有名だ 木に巣食う菌類の繁殖を許さず 弱った枝木は遠慮なく伐採し 日本一の櫻公園を維持したままである 日本一一所懸命だから 日本一の櫻の名所でいられると 謙虚にして 熱心な御仁たち

高尾 さくらの保存樹林 約一ヶ月間楽しめる 櫻の全品種350種類がある  

 東京の櫻は殆どが戦後植栽された染井吉野なので まるで団塊の世代のように 後10~20年もすれば 殆ど倒木するか 枯れ死するだろう 皮肉ではなく 櫻の病気としては 花が咲かなくなるテング巣病や 幹や木が枯れるコブ病や 根元に生えるベッコウダケや木の中に生えるアナタケの菌類付着によって樹木が腐る恐ろしい病気 小林氏のように キメ細かな手入れが必要とされるのだが もっと恐ろしいことがある 櫻の廻りに集う際に 昔のように 茣蓙だったらイザ知らず マナー違反の近年青いビニールシートの持ち込みだ 更に櫻の根元を踏み固めてしまって 根の息つぎを無視し 水分が沁み込まなくなってくることである それには 周囲を緑地帯にして ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)などで 囲い込み 幹元に人が入れなくすること 更に密集して植栽すれば 日陰になって 枝が重なり 日陰部分が枯れてしまうはずである 従って 歩道の狭い空気腔しかない場所では ほぼ不向きな街路樹であろう

新宿御苑内の櫻たち 

 昨年 同じ薔薇科の梅が プラムポックス病に罹って 青梅市のすべての梅が伐採された 青梅市内全域では 2600本 青梅・吉野梅郷だけでも 120種 1732本が観梅祭りが終了と同時に伐採がなされた 「青梅市の梅の木 完全伐採へ」という我が記事がある 櫻とて無縁ではありえない

私が大好きな小山・修道院に咲く思い川櫻  

 小金井公園では 櫻の木の周囲を囲んで 人の入場を拒む取組が始まっている 小供たちへの教育も始まった 櫻の授業や 秋には落ち葉を集めて 堆肥や霜よけにしたにしたり 小さなうちから 丁寧で懇切な教育と意識づけが 先ず重要であろう 無論 マナー違反の花見客の無礼千万な行為の花見は 断じて許せないものである 

我が家の庭に咲く櫻たち

その昔 馬屋だった屋根から見える櫻 お分かりでしょうか 

 


      My daughter MALALA!

2015年03月30日 | 時事問題

私が手作りした絵本「天使の昇天」より 一場面

 

 

           My douthter MALALA!

 

 

 昨年2014年、史上最少年でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、女子教育を声高に標榜したために、パキスタンのアルカイダ系過激派組織タリバンから標的にされ、重火器で頭部を銃撃され、瀕死の重症を負いましたが、イギリスへ搬送され、大手術を受けた結果、無事生還できたことは、皆さまご承知の通りです。ノーベル平和賞授賞式の演説でもパワフルに女子教育の重要性を説かれました。その時に、「父は私にインスピレーションを与え、模範であり続けました」と語り、お父様の存在の大きさがクローズアップされました。だが父のジアラディンさんは「娘には特別なことを教えたわけではありません。何もせず、娘を自由にしただけ。それが魂なのです」と語られ、一躍脚光を浴びたのですが、なかなかご本人さまが喋ることはありませんでした。アンネ・フランクにとり、父オットーがいたように、きっと父と娘の素敵な物語があるはずだと、誰もが信じていたと思います。それが今回MIT Media Lab(マサチユーセッツ工科大学メディア・ラボ)で、公開講演会が開かれました。早速そのスーパープレゼンテーションを、本ブログにアップし、皆さまとともに、ご共有したいと存じます。

 ジアラディン・ユスフザイ(Ziauddin Yousafzai)氏。1960年、パキスタン北部生まれ。

 北東部のスワート地区で、私学(KHUSHAL College & Girls High School)を経営しつつ、マララさんに教育を受けさせました。マララさんはこの学校で医者になりたいと勉強に励んでいたのですが、なにせこのエリアは男性優位の社会で、女性は表舞台に立てない環境でした。更に過激派は極端に女性に厳しく、マララさんはその結果、生死の境を彷徨いました。お父さまは未だに続くその恐怖と苦痛に耐えながら、娘マララのことを語り始めました。

 「多くの家父長制社会や部族社会では、息子を見れば父親が分かると言われます。私の場合、それが娘なので珍しいようです。でもそれを私は誇りに思います。マララは2007年に教育の権利のために立ち上がり、2011年に、自国パキスタンで平和賞を受賞しております。そしてマララはとても有名になったのです。その上私はマララの父として有名になりました。人類の歴史を見てみると、女性は散々不平等・不公平な扱いを受けてきました。暴力も搾取も。家父長制社会の現実は、と言うと、女の子は祝福されません。その子の父親も母親も喜びません。近所の人たちは母親を哀れみ、父親にお祝いを言う人はいないのです。女の子を生んだ母親は肩身の狭い思いをします。1人目が女の子だと、母親は悲しみます。2人目も女の子だとショックを受けます。そして男の子が欲しいと思っていても、3人目も女の子だと、自分は犯罪者のような気がするのです。母親だけではなく、生まれてきた女の子も後に苦しみます。5歳は就学適齢期ですが、女の子は学校に行かず、家にいます。男の子は学校に行きます。実は12歳まで、女の子も、一応良い生活が出来、お友達と外で遊ぶことが出来ます。蝶のように、自由に飛び回れるのです。しかしティーンになると、つまり13歳になると、男性の付添なしで、外出を禁止されます。女の子は家に閉じ込められるのです。自由な個人ではなくなるのです。男女の役割は違いますが、家族の面目を潰さないようにして生きることが義務となるのです。そしてもしその規範を破ったりしたら、殺されたりもします。興味深いのは、この規範というのが、女の子の人生だけではなく、男性の人生にも影響を及ぼすということ。娘7人、息子1人という家族を、私は知っています。その唯一の息子は、姉や妹や両親のために湾岸諸国に出稼ぎに行っています。そうしないと、自分が恥をかくことになるという意識、姉や妹が働きに出るのは、彼にとって屈辱的なことなのです。それで自身の生きる喜びも、姉や妹の幸せも犠牲にしている、面目のために・・・・・。それからもう一つ、家父長制社会で重んじられるのは服従です。良い女の子というのは大人しくて謙虚な子、従順な子で、大人しくないといけないのです。何も言ってはいけないのです。父や母や、年上の人が決めたことは受け入れる決まりです。たとえ嫌でもです。たとえ嫌でも好きじゃない男や、かなり年上の男との結婚でも断らないのです。それは反抗期だと思われたくないからです。幼い年齢での結婚でも受け入れるしかないのです。それでどうなるかというと、結婚してベッドをともにして子供が出来ます。すると皮肉なことに、結局この母親も、娘には服従の大切さを、息子には面目の大切さを教えます。悪循環はとどまることはないのです。皆さん、皆さんにはこうした何百万もの女性の苦しみは取り除けるはずとお考えでしょう。でもその為には、私たち男性も、女性も、全員の意識を変えることが大切です。途上国の部族社会や家父長制社会の男性と女性が、家庭及び社会の常識を打ち壊すこと。差別的な法律や制度を撤廃すること。女性の基本的人権を否定するような法律や制度をなくすことが、何よりも大事なことです。

 マララが生まれた時の話をします。正直にいうと、私は赤ん坊は苦手なんです。そんな私ですが、生まれてきた娘の目を見たら、実は誇らしい気持ちになりました。名前はだいぶ前から考えていました。私はアフガニスタンの伝説のヒロインに関心がありました。マイワンドのマラライです。その人物に因んでマララと名付けました。マララが生まれて数日後のこと、私の従兄弟が家にやってきました。彼はユスフザイ家の家系図を持って現れました。家系図には300年前のご先祖さまからの名前が載っていました。しかしそれは男性ばかりでした。そこで私は私の名前のところから線を引き、マララと書き足しました。そして私はマララが4歳半の時、マララを、私の経営する学校に入れました。女の子が学校に行くというのは、どういうことか申し上げたい。カナダやアメリカのように、先進国では当然のことかも知れません。でも貧しい国、家父長制社会、部族社会では、女の子にとって、とても重大なことなのです。学校に通えるというのは、個人としての存在や尊厳が認められたということで、夢や希望を持てることを意味し、自分の可能性を広げられるということです。私の5人の女きょうだいは、一人として学校に通えませんでした。ですから皆さんが驚くことがあります。2週間前、ビザ申請書を書いていて、家族の欄がありましてね、私、女きょうだいの名字を思い出せませんでした。理由は彼女らのフルネームが書かれた書類を目にしたことがないからです。従って私は、自分の娘を大事にしたいと強く思いました。私の父が娘にしてあげられなかったこと、それを変えなければならないと思ったのです。私は、娘の知性や才能を信じてきました。娘を、私の友人や知人に逢せたり、会合にも連れて行ったりもしました。つまり教育によって解放するのです。良い価値観を身に着けるように導きました。マララだけではないですよ。私の学校の女の子や男の子みんなに、良い価値観を教えてきました。教育によって解放するんです。女の子には、こう教えます。服従という価値観を捨てなさい。男の子には、つまらぬ面目に拘ることを止めなさいと。私たちは主に女性の権利の拡大を目指し努力してきました。女性の社会進出を進めるために奮闘してきました。そんな中、新たな流れが生まれたのです。いわゆるタリバン化です。女性をあらゆることから完全に排除すること、すべての政治・経済・社会活動からです。お陰で、何百もの学校がなくなりました。女の子が学校に行くことを禁止されたのです。女性はベールの着用を強いられ、市場に行くことも禁止されました。音楽も禁止されました。女の子は何の意味もなく鞭打ちされました。或る時、女性の歌手が惨殺されました。でも反対の声を上げたのはごく僅かでした。こういう状況で、自分の権利のために声をあげるのは怖かったからでしょう。殺されるかも知れない、鞭打ちされるかも知れない。でもそんな折、マララが10歳の時に、マララは教育の権利のために立ち上がりました。BBCのブログに投稿したり、NYタイムス制作のドキュメンタリーに出たり、色々なところで発言しました。マララは力強く訴えました。その声は世界中に響き渡りました。その結果、マララの活動はタリバンの怒りを買いました。そして2011年10月9日、マララは至近距離から頭を撃ちぬかれました。絶望でいっぱいになって、まるでこの世がブラックホールに落ち込んだように・・・・。娘が生死の境を彷徨っている時、私は妻の耳元で、ささやきました。「私がこういう運命になったのは私のせいなのでは・・・・」と。すると妻は、私に言いました。「自分を責めないで・・・・」、「貴方はイノチをかけて闘ってきたのよ」、「真実・平和、そして教育のためにね」、「そして私たちの娘もそうしたいと願っていたの」、「正しい道にいるのだから、あの子はきっと助かるわ」。私はそれらの妻の言葉で救われました。そして私は自分を責めるのを止めました。

 マララが入院中のことです。マララの顔は神経に裂かれてしまっていて、酷い頭痛がしていました。妻だって、ああは言ったものの、暗い顔をしていることがよくありました。但し娘のマララはたった一度の不満も言いませんでした。「笑顔のゆがみも、顔のしびれも、私は平気だから・・・・。心配しないでね」。そう言うのです。私たちは娘に勇気づけられました。皆さん、私たちは娘から不屈の精神を学んだのです。それからこれもお伝えしたい。マララはそれでも聖人ではなく、普通の子供です。女性の権利運動の象徴となっているようですけれど、ごく普通の子なんですよ。宿題が終わらければ泣いたりしますし、弟たちと喧嘩をしたりしますしね。ただマララをどう育てたのかと、人々はよく聞いてきます。どうしたらあんな勇敢で堂々とした子になるのかと。その都度私たちはこう応えます。「私たちが何をしたかではなく、何をしなかったか」ということなのですと。私は娘の翼を切らなかっただけです。サンキュー!」

 2010年、タリバンは数百の学校を爆破して行きました。それに対してユスフザイさんは何度も抗議を致しました。ただ彼は、この貧困な国家にでも、お手本になる社会を築きたいとの一心なのです。すべての人に、仕事と教育の機会を持って貰いたいだけなのです。こんな現在でも、このような過酷な社会が、普通に実在しているのです。彼の訴えの中で、最も記憶に残った言葉があります。それは「Ⅰ did not clip her Wings!」という言葉です。翼は自由と勇気の証、この言葉こそ、この稀有な父と娘の関連性ではないでしょうか。そう言えば、マララさんが、2014年10月に、ノーベル平和賞を受賞した際のスピーチに、「私は父に感謝しています。私の翼を切らずに、自由に羽ばたくことを教えてくれて、女の子だって、前向きな人生を生きていけるんだということを、父が教えてくれました」と。マララさんのミッションは敢えて教育に絞って、マララ基金を設立し、この父娘は全世界を飛び歩いています。そう言えば、先日来日されたオバマ大統領夫人のミッシェルさんも女子教育に熱心でしたね。その時、ミッシャルさんが仰った世界で、教育を受けることが出来ない女の子は6200万人いるとか。私にはもっといるような気がしていますが、そんな差別が平気で、現代に存在しているのは、真実どうかしていると言わなければなりません。

 去年6月、一方的に、過激派集団イスラミック・ステーツ(以後 「IS」と表現 但し本ブログでは決してイスラーム国と翻訳し表現しない 何故なら私はアレを国家として認めていないから)なる組織を樹立し、アブー・バクル・アル=バグダディ容疑者が、何とカリフに即位し、勝手に建国してしまいました。このカリフとやらの宣言は全世界のイスラーム教信者に強いメーセージとなり、各地の過激派は支持、もしくは賛同し、或いは忠誠を誓い、瞬く間に伝播し、現在世界的な脅威となっています。無論ISを、殆どのイスラーム国家でさえ、国家として未承認であります。国家の三要素たる一定に区画された地域もなく確定せぬまま、不確実性であっても人民がいると豪語し、主権とは何かさえ不明のままにです。暴挙と言わざるをえないのですが、反資本主義と反共産主義と反民主主義を語り、北アフリカエリアから、スペイン、更にはフランスやイタリアや地中海沿岸諸国や、インドや中国の一部まで、広大な地域を武力革命(ジハード主義=暴力革命)し、忠実なイスラーム国家にしようというわけです。一時期中世の支配エリアを妄想しています。残虐な殺戮場面を次々にネットで流し、その映像によって、若者たちは、トルコ国境を越え、シリアの過激派に集結しているようですが、これこそ正しくカルト教団としか認定出来ず、オウム真理教と全く変わりません。彼らの論理では国境の必然性が全くなく、イラク・フセイン政権下のバアス党員の生き残りの殆どで、凡そイスラーム教とは無関係の様相で、ニヒリストのように闇雲に全力をあげ支えているようです。アメリカ占領下のあと、統治したシーア派のマリキ政権は、米軍が和解の象徴として折角作ったスンナ派民兵組織をさえ弾圧し、シーア派とスンナ派の同調によるイラク建設が瞬く間に泡沫と消え、逆にスンナ派の激しい反感を買い、シリア内戦に乗じて、圧倒的なIS増長に手を貸してしまった経緯が発端です。カルトである証拠は、殺人を何の躊躇もせずに出来ること。教理・教義が古式で単純で胡散臭いこと。ワンイシューにて、徹底的に洗脳出来る能力があること。或いは、資金収集に異常に熱心であることなどで充分言えることでしょう。世界初の特別攻撃隊と言い、彼らに自爆テロの手法を、旧日本軍の零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)が教えたことです。また直近では、日本赤軍派という極左過激派集団で起こしたテルアビブ空港銃乱射事件によって、手榴弾で自爆した奥平剛志を英雄扱いにされ、その後の自爆テロの模範にされました。あの忌まわしいホロコーストで、600万人もの罪なきユダヤ人を惨殺したナチスでさえ躊躇し使用しなかったサリンを、世界初にやったのは日本のカルト教団・オウム真理教によって実行された地下鉄サリン事件です。悪意に満ちたISの残虐は、実は日本発なのかも知れません。ですから私たち日本人にとって無縁では絶対にないのです。日本人も、アルジェリア人質事件を始めとし、既に多くのジャーナリストなどの人命を奪われてきました。座視しているだけではどうあっても防げません。

 CNN放送でずっと放映していた事件がありましたね。チュニジアのバルドー博物館で、テロリストからの銃撃があり、多数の死傷者が出たと報じていました。観光客なら誰でも行くチュニスのバルドー博物館でです。日本人の観光客3人を含む22人の死亡者が出ました。唯一アラブの春が成功した国家なのに無念です。ギリシャもそうですが、観光だけで国家の運営が成り立つはずがありません。何とか他の産業の育成も手助けしたいものです。イエメンでは反政府軍シーア派武装組織フーシ族と、バディ大統領派で内戦が始まったばかりです。フーシを応援して武器提供をしているのはイランです。アラブ連合は必ずしも一枚岩ではないのですが、スンナ派の国家サウジアラビアやエジプトのシシ大統領は早速空爆によって参戦し、スンナ派とシーア派の宗教対立のように見えますが、湾岸諸国の主導権争いともなっています。無論その抗争地帯には、ISが深く参与しているのは言うまでもありません。ダニのようにはびこる連中ですから。ただ一つだけ希望があります。ソマリアと言っても、あの国は三つに分かれていて、最も西にあるソマリランドは別天地で、平和国家を築いています。イスラームとして重大なヒントがあるように思えてなりません。また先日、LCC航空・ジャーマンウィンズのエアバスが、南アルプス山中に墜落した事件はどうやらこうした過激派と無関係のようですが、どこでいつ何が起きてもおかしくありません。私たち日本人にとっても、今ここにある危機です。当然のように自衛的手段を取らなければならないでしょう。辛くて嫌な世の中になったものです。だからこそ時々刻々、私たちは世界中の出来事に深く注視したいものです。

 

 シリアで、この3歳の子が亡くなった時に発した遺言

「ぜ~~んぶ 神さまに言いつけてやるんだから」と言って絶命した

 


      櫻の花に恋して

2015年03月24日 | 

川崎鈴彦 作画 「花」 山中に爛漫と咲き誇る櫻の絵

 

 

櫻の花に恋して

 

 

予想より早く開花したようである

昨日午前11時に 気象庁の職員が靖国神社の標準木に 六輪の櫻の開花をみつめたようだ

また今年も 櫻の花爛漫たる時季になってきた

 

皆さんはどちらにお出掛けですか

方々に様々な種類の櫻が咲き 日本中に 人々の微笑が溢れることでしょう

雪が多かった今年の京都の櫻や 古都・奈良の風情ある櫻も魅力的だが

私は被災地に行って 津波到達地点に植えた山櫻のラインを見て歩こうかと思っている

各地の櫻プロジェクトによって植えられた山櫻の成長を見て歩くのが一番楽しい

 

我が家の庭に咲く山櫻も 漸くほころびかけてきたようだ

 

騒々しい世の中だが 花の咲く時季ぐらい季節の風に吹かれていたいものである

谷戸の櫻とは 清少納言の「枕草子」に出てくるから 櫻が邸内に植えられたのは

そんなに古いものとは思えない 御簾のかかる廊下に 櫻のひと枝があるのが いとおかしとある

全国の櫻の公園はすべて危機的状況で あと何年持つのだろうか

染井吉野だけ珍重して植えた結果である 明治ご維新の富国強兵策により

江戸彼岸や山櫻が殆どであったのが 櫻は堅い木がゆえに

櫻の名所の木は 鉄砲の台座として すべて伐採された経緯がある

キナ臭い昨今だからこそ あの時世の哀しみを忘れてはならない

 

生まれてからこの方 櫻の花に恋して 今年も漂うことにしよう

あの世と この世の境に遊びつつ

 

 

我が家の床の間には 既に江戸彼岸の花が満開である

 


      櫻開花予想 「気温600度の法則」

2015年03月18日 | 

智積院 本堂内 櫻の襖絵

 

 

櫻開化予想 「気温600度の法則」

 

 

愈々 暖かくなり 今日は春のお彼岸の入りで お墓詣りはされましたか

お彼岸と言えば 染井吉野よりひと足早く咲く彼岸櫻は もうすぐそこ

(通常江戸彼岸の花は染井吉野より 一週間早く咲く

尚 枝垂れ櫻はすべて江戸彼岸種で 染井吉野では枝垂れない)

 

染井吉野の開花までも あと少しですね

染井吉野の開化予想には 結構信憑性のある法則があります

無論これは染井吉野のことだけですが 2月1日から 一日の最高気温を

合計して 累計が600度に達したら 櫻が開花するというものです

実はこの法則は誰が発見したか 分かっておりませんが

北陸や北海道などの寒冷地にも当て嵌まりますから おかしいですね

また結構当たる法則’前後三日の違いなし)なのですから 一応ご紹介しておきましょう

昨日今日と東京は 夏日かなと思われる 20度近くまで気温が上昇し 愈々かな

都内では 現在の気温の合計が 503度らしいので もうすぐでしょう

来週は 再び冬の低気温になるらしく 従って予想は 3月25日頃でしょうか

 

皆さまにおかれましても 各地方で それぞれ計算してみてください

尚 春の金麦プレゼントもご紹介しておきましょう

 

東京の櫻の名所の一つ 中目黒にある「郷さくら美術館 東京」では

3月7日~5月10日まで 毎年新作の日本画による櫻の絵展が開かれます

競馬じゃないんだけど 櫻花賞というのだそうで 同館では新作をすべて買い上げと言い

結構な力作があります 更に都内の各美術館では 櫻図がかけられることでしょう

 

この時季 大倉集古館では 横山大観の夜櫻が展示され

また市川市にある東山魁夷紀念館では 円山公園の枝垂れ櫻を描いた

名作「花あかり」が展示されるのではと思っています

中島千波さんは櫻の絵をよく描かれますが 実在感に薄く 小生はそう感心はしません

奥村土牛(醍醐)や後藤純男(櫻花塔映)や高山辰雄(みず辺)など 数多くの画家に描かれていて

洋画家でも多くの方々が挑戦され 中でも三岸節子さん最晩年の作品に 櫻の絵があります

多くの櫻の絵や陶芸や扇面や絵巻物もまた たくさん観てまいりましたが

平安時代からそれぞれの時代を代表するもので 櫻とその時代の感性を感じさせてくれるものです

 

でもやっぱり櫻図の最高傑作は 智積院・国宝館収蔵の

長谷川久藏の「櫻図」だと信じています その圧倒する生命力の障壁画は他に類例がありません

あの絵には二本の櫻と 瑞々しい若柳が垂れていて 美しい色彩の上 見事な表現力です

逆縁となり夭折した久藏に 等伯はよほど落胆したのかが よく理解出来る絵です

 

皆さまは どなたの櫻図がお好きでしょうか 人ごみの中の櫻見物だけではなく

静かに先人の遺した櫻への思いに 深く耽ってみるのもいいでしょうね

 

 

上野恩賜公園内にある伏見宮彰仁親王像

(鳥羽伏見の戦いや 会津戦争・越後口での総大将になられた方)

 

パンダ舎出口での我が家の次女茉莉 やっと歩きはじめました

 


   これから五年目の春

2015年03月08日 | 時事問題

我が絵本・「大海嘯(おおつなみ)」より  流された妻の亡霊が出てくる場面

 

 

             これから五年目の春

 

 未曽有の大震災から早くも満4年が過ぎようとしているが、各地の仮設住宅での闘いはまだまだ道半ばである。とりわけ仮説住宅の、高齢者が亡くなられ、その空室が気になって仕方がない。多分どこの仮説住宅でも、30%が空き家に相違ない。福島の仮設住宅では空き家が90%を超える場所もあるといわれている。瓦礫が或る程度片付いて、ガランドウな被災地をみると、一見復旧・復興が進んだかに見えるが、でも隈なく歩いてみると、そう簡単ではなさそうである。

 それだけではない。現在でも数多くいらっしゃる各地への人的応援のなかで、2013/1/5の日経に出ていた記事は痛ましいものであった。東日本大震災の被災自治体支援で岩手県大槌町に派遣されていた兵庫県宝塚市の男性派遣職員(45)が、何と復興の最中、自ら自死したのである。

 岩手県大槌町に派遣された兵庫県宝塚市の職員は、宿泊していた宮古市の仮設住宅で首をつった状態で死亡していたことが5日分かった。カレンダーの裏に遺書のようなメモがあり、自殺とみられる。大槌町などによると、遺体が見つかったのは3日。2日から連絡が取れなくなったことを心配した男性の妻が、宮城県南三陸町に派遣されている宝塚市の同僚職員に確認を依頼。様子を見に行った同僚が発見した。カレンダーの裏には、周囲への感謝と「大槌は素晴らしい町です。大槌頑張れ」と記されていたという。大槌町によると、男性は昨年(2012)10月1日に派遣され、任期は今年(2013)3月31日までだった。都市整備課で土地区画整理事業の用地交渉などを担当していた。仕事納め後の昨年12月29、30両日も復興計画に関する住民の聞き取り調査のため出勤していたという。碇川豊大槌町長は「ご家族や派遣元自治体の関係者には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。職員の心のケアをさらに強化しないといけない」と話した。被災地派遣の職員死亡に方々から「やりきれない」と聞かれ、宝塚市長中川智子市長は5日に記者会見し「誠実な人柄で、被災者に寄り添って頑張ってくれていた。無念でならない」と話した。[共同 日本経済新聞 2013/1/5}

 この方は、大みそかまで、被災者と直談判をしたが、結論を引き出せなかったようである。高台移転と、ひと口で言われるが、地主や不動産屋がただ同然であった山林を高値にしてしまったことがあったり、様々な要因が考えられる。ただ彼は一人悶々とし、よくよく疲労した結果であったのだろう。移転そのものとは被災者にとって、なかなか大変なことであり、役所の方の説得をそう簡単に聞き入れてもらえなかったようでもある。返す返すも無念でならない。改めて追悼の誠を捧げたく、本ブログに記載した次第。

 福島のことは格別に悲惨である。帰宅困難エリアで、大きなスーパーを営んでいた方が、その場に帰って、首吊り自殺をされた方もいらっしゃれた。同じような場所で暮らしていた老女が、自身のご先祖が眠る墓場で、「私の帰る場所はここです」と言い残し自死して果てられた。何ということだろう。無論他にも痛ましい話題は幾らでもあり、ここに書ききれるものではない。

 

岩手県三陸地方の惨状

 

     遠野物語 99話(大海嘯)

     (柳田國男著 『遠野物語』 全119話のうち)

 土淵村の助役北川清といふ人の家は字火尻にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟 に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

 夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れた所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばる船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

 死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後、久しく煩(わずら)ひたりといへり。



【田の浜(山田町船越)の被災状況】(明治29年6月15日) 

全戸270戸流失、死者763人。火災発生し、役場職員全員死亡。津波の高さ9・11メートル。

 

 

 私は、柳田先生の「遠野物語」(明治43年刊)に、遠野以外唯一収録されている「大海嘯」の、海辺の上記のお話を絵本にして描き、手作り絵本にしてみた。被災者の或る方に、恐る恐るそれをお見せしたところ、残酷だとか、これで吹っ切れるかもとか、様々にご丁寧なご批判を戴いたものである。でもこのお話は、明治時代のものだからと言われ、少々受け入れてもらったようでもある。柳田先生が聞き書きをした佐々木喜善さんは、後日といっても昭和5年、ご自身の著書(縁女綺聞)に、あっさり書かれた先生の記事に異論を唱えるかのように、妻たきのが本当は生きていたのではないかとして、たきのに向かって、福二から、子供に対する存念はないのかとか、罵詈雑言を浴びせている。実話であったので、そう簡単に片づけられなかったのではなかろうか。佐々木氏の縁者である福二へのオマージュでもあったのだろうが、実は福二の孫にあたるお婆ちゃんが80歳を過ぎてから、今回の大海嘯によって飲み込まれたまま、未だに行方不明なのである。海人というは凝り性もなく(失礼ですが)、忘れたころに再び海辺に家を構えてしまうようである。海に生きるためにはそうならざるをえないようだが、どうかどうかご自重願いたいものだと心底願ってやみませぬ。当日は再び三陸の被災地に行き、流し灯籠祭りにでも、是非参加させて戴きたいものである。御供養しても、し切れるものではないことを知っていながら。

 又その日の、24時間内に誕生されたお子たちは、被災地全部で、凡そ110人いらっしゃるという。死者・行方不明者の総数は18,483人で、全壊・もしくは半壊家屋は40万以上の未曽有の災害のなか、たったそれだけの赤ちゃんかも知れない誕生なのだが、奇跡の誕生は、縦の時間軸にとって大きな存在となるであろう。皆さまとともに、こころから、満4歳の誕生日を寿ぎたいものである。