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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

       「敬老の日」に

2014年09月14日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

能で 最も重要な面 「翁面」

 

 

「敬老の日」に

 

 

近年は独居老人の数が圧倒して多く 所謂家族崩壊が進んでいる

また徘徊するご老人も多く 行方不明になられた数も 圧倒的に多くなっている

尤も若者の 単身生活者が多いのも その予備軍として憂慮に堪えないのだが

私は 若い人の自死者が多いことに さほど同情的ではない バカヤロウと叫んでしまいたい

哀しいのは 戦前戦後 爪に火を点して生きて来られたご老人の自死 胸が張り裂ける程の痛みだ

都内では墓石をめぐる議論が絶えず起こり 近い将来に対し 痛惜の念をもって心配事が続く

 

私たち財団は三年前から その土地土地のご老人たちを雇用させて戴き

森への智慧や経験や 痛みや悲哀など ユトリ世代の若者たちと真摯に共有させて戴いている

 

孤高の画家・田中一村が描いた「薬草図天井画」

石川県宝達志水町の「やわらぎの郷」 聖徳太子殿天井に描かれている

 

 

   《 還暦 》

  人はたった一度の人生を出来れば長生きしたいと願うのは当然である。そしてその長寿をお祝いし、若者が主となってお祝いするのは、長寿にあやかりたいと願ってのことである。戦前まで、「人生50年」とされ、平均寿命はひどく短かったのである。信長の舞った幸若舞による「人生五十年」が、至極一般常識であったのだ。だから60歳まで生きたということは稀有なことだったのである。

 それが中国から伝来された十干十二支の数え方の影響で、暦年・歴日を算出していた。古代中国で始まった紀念法は、年・月・日を数え、それを記録する方法である。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干からなり、一ヶ月を三旬に割って、一旬十日の各日につけられた名前であった。もともと植物の生長段階に合わせた表記文字だったが、後年、それぞれに動物の名前をあてるようになり、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥とよばれるようになった。この十干と十二支の組み合わせでつくられたのが、俗にいう「えと」である。干と支を順に、甲子、乙丑、丙寅・・・・・・というように組み合わせて、癸亥まで、六十の組み合わせをつくり、六十一で最初の甲子に戻るというわけである。因みに、十干は、陰陽五行説に基づいて、木・火・土・金・水の五行からなり、更に兄(え)と弟(と)<=陽と陰>に配分されるため、例えば「甲」は木の兄、「乙」は火の弟、「丙」は火の兄・・・・・と言った具合に呼ばれた。従って、これに十二支を加えると、甲子(きのえね)とか乙丑(きのとうし)などというようになる。

 いずれにせよ、六十年を一サイクルにして、暦法を用いていたため、六十年で、その人その人の暦が元に還るので、これを還暦と言った。ただ現在の六十歳の方々は現役世代が多く、還暦のお祝いはそう嬉しくもないかも知れないが・・・・。

 昔は年齢を数える時、生まれた年を一歳と呼んだために、六十一歳が満六十歳となったので、六十一で還暦と称された。還暦になると改めて生まれた歳と同じ干支名をつけてゆくことになるから、赤ん坊に還ったと言う意味で、赤いチャンチャンコと烏帽子を贈ってお祝いする習慣が成り立ったのである。これはかなり古くから行われた行事らしいが、庶民の間で一般化したのは江戸時代からであった。そして還暦になると、公職や家長の座から退いて、隠居生活に入ると言う風習も戦前にはあったようである。「今まで家族のために働いてくれてご苦労さま!これからは充分に人生を楽しんでくださいね」と言う謝意であったろう。ところが現在ではご老人の呼び名が非常に高齢になってきている。団塊の世代の方々が圧倒的に多い所為でもあるが、六十と言っても何々楽隠居なんか飛んでもないと言うわけで、政府では七十でも現役として働ける政策があるようである。シニアの活用と女性の活用が成長戦略に欠かせないというのである。何だか余裕のない乾燥した考えのようで、人それぞれと思うが、第二の人生こそ別個な重要な人生があるではと申し上げておきたい。

 

 

どうやら赤いチャンチャンコは流行っていないらしい ケーキとか薔薇とかが贈呈されるという

尚この薔薇は6年ほど前 99歳亡くなられた近所のお爺様の作で 大事な薔薇である

 

 

    《 古稀 》

 古代社会では、四十歳から始まって、五十歳、六十歳と十年ごとの長寿のお祝いをしていたが、還暦の風習が廃れると、最後に七十歳の年祝いだけが残った感がある。中国盛唐時代の大詩人・杜甫の『曲江詩』に、「人生七十古来稀なり」とあり、稀な長寿を祝う習慣は今でも行われているのだろうか。これを「古稀」という通過儀礼である筈だが、筆者には超高齢化となった現日本には、ご長寿の数が世界一となり、何とも心もとないこの記事であろう。

 

 《 喜寿・米寿・卒寿・白寿 》

 七十歳まで生きるのが稀であった時代からすると、更にそれ以上のご高齢者はもっと珍しく御目出度いことであった。それこそそこに日本独特な智慧でお祝いをする儀礼があるから、序でに書いておこう。即ち「喜寿」と言うのが七十七歳のお祝いだが、これは「喜」と言う字を草書体に崩して書くと、七を重ねた文字になり、これを七十七と読んで、「喜寿」としてお祝いしたものであろう。

 「米寿」は「米」の字を分解すると、八十八になることから、古来お米を主食とする日本人らしい発想のお祝いであるだろう。「卒寿」は、「卒」の字を草書体にして書くと、九と十になることから、九十歳のお祝いになるということである。但し米寿と卒寿では一年と数ヶ月しか経っていないので、通常米寿より、卒寿のお祝いが多いように思われるが、如何だろうか。「白寿」と言うのは、「百」から「一」の字をひくと、「白」と言う字になることから、九十九歳のお祝いで、我が家では高祖父が百三歳まで生きたので、それこそお祭り騒ぎのドンチャン騒ぎだったらしい。

 このように、色々なことにこじつけ、判じ物みたいな工夫を凝らして、長寿のお祝いをする日本人独特な生活習慣は、今や有名無実化しているのが淋しい限りであると言えなくもない。長寿に限らず、七五三から始まって、十三歳の歳祝いや十九歳のお祝い(女の子のみ)や、二十五歳や三十三歳のお祝い(女の子のみ)や、四十五歳のお祝い(男の子のみ)や、四十九歳の年祝いがあり、豊かな文化があったと言えようか。長寿のほうも、前掲の年祝いの他、七十三歳や八十五歳の年祝いもあったようである。また厄年と祝年の混同する時期もあったようだが、いずれにせよ、幼い者に対する思い遣りや、ご老人に対する尊敬の念を表す、こうした習慣は今後なくなって欲しくない心情である。犯罪まで、アメリカに追随してゆくような、サミシイ文化の日本ではない筈なのだから。

 

当家に二人いるご老体が好きな 各種お寿司を用意してお祝いをしている

 

通過儀礼と言って それぞれの年齢に合わせたお祝いがある一方で

去年一年間で 認知症などによる徘徊によって 何と一万人以上を超えるご老人が不明であり

警察に届けられた方だけで 1万322人で 統計を取り始めた一昨年より 715人も増え

中でも深刻なことは 既に亡くなっている行方不明のご老体は388人もいて 増加傾向だと言う

GPS機能をつけたほうがいいとか 何だかとってもウスラ寒い思いがするのである

 

また100歳以上となる高齢者は5万4397人で  過去最多を更新したことが

13日「敬老の日」を前にした厚生労働省の調査・発表で分かった

前年から3021人増え 43年連続の増加となり 今年度中に100歳になる人も過去最多の2万8169人と

都道府県別の人口10万人当たりの人数では 島根が高知を抜いて2年ぶりに1位となったようである

幸不幸 糾える縄の如くであるが 長寿のお祝いを 一先ず本ブログで心より申し上げておきましょう

 

多数を占める老人問題は 目線を低くして見るべきである

墓石やら戒名の問題やら それを看るべき不可欠な家庭環境の問題やら 介護の問題やら 

若者を含めて 単身家族時代が到来し 更に多くなってしまったことへの自責はあるのだろうか

 

能楽では 老女物が最も重く難曲で 稀代の名人でも なかなか演じ切ることが出来ないものである

それだけに 「老い」の問題は 社会変化に合わせ 日本人の矜持として考えて行くべきであろう

 

 

年老いて 益々美しさを増す能の女面 (増女と老女面と)

 


     西馬毛内の盆踊り

2014年08月28日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

西馬音内の盆踊り(にしもねのぼんどり) 端縫の衣装を纏う

 

 

 

西馬音内の盆踊り

 

 

毎年、旧盆がくると、

秋田県羽後町西馬音内では、日本一流麗な西馬音内の盆踊りが踊られている。

お囃子方は大太鼓、小太鼓、鼓、三味線、笛、擦り鉦と、甲高く勇ましい歌声で賑やかだが、

「音頭」も「がんけ」も、編笠やひこさ頭巾を被った踊り子の手足は、その賑やかさを嘲笑うかのように、

流麗で、素晴らしい。小生も何度か踊りの輪の中で、挑戦してみたのだが、土台無理で断念した。

それもその筈、西馬音内では、モノ心ついた時分から、親兄弟から手ほどきを受けている。

 

衣装は「端縫(はぬい)」と、手しぼりの藍染の衣装で、暗闇に流れる美しい踊りに、

一層深い情味を与えている。端縫は絹布で、昔、華美になるからと、ツギハギを命ぜられ、

今のような端縫になったようであるが、この盆踊りの由来が不思議にも、まるで分かっていない。

そこがまた、興味のそそるところとなり、私は数年に及んで通ったことがある。

 

8月第一日曜日に、街じゅうが「端縫」や「藍染」の美術館となり、各家で展示される(虫干しか)

 

被りものは、両端が尖った編笠で、前に深く被っているから、踊り手の顔が見えない。

更に「ひこさ頭巾」と言い、この盆踊りを亡者踊りと言われる不思議な頭巾を被り、これも顔が見えない。

庄内地方で言う「はんこたんな」や、由利地方の「はなふくべ」似の、農作業用頭巾なのだろうか。

 

能などによる舞の世界での「幽玄」はあるが、踊りにも「幽玄」があるとは驚きである。

この盆踊りと、「郡上踊り」と、「阿波踊り」で、日本三大盆踊りと称されているようだが、

小生は阿波踊りを、「輪踊り」ではないために、盆踊りの範疇に入れていない。蜂須賀家に対し、

徳島の民衆が献上した民衆芸であったのではないかと、どこかで確信している。その代わりに、

熊本県菊池市の「山鹿灯籠祭り」が、輪踊りで如何だろうかと、いつも思うが、無理だろうか。

 

空也上人が始めた踊り念仏を起源とし、一遍上人で定着したとされるお盆の行事で、

帰ってきた御霊の送りをし、安らかんことを願う盆踊りの習慣は、そもそも佛教的行事であろうが、

古代、7月1日から始まる七夕さまも入っていたはずで、佛教伝来、そして布教が進み、

七夕さまだけが遊離して、盂蘭盆会が独立し、今日に至っているのである。

 

七夕の語源になった「棚機(たなばた)」の習俗・習慣は現在でも探せば点在している。

 

「ひこさ頭巾」での西馬音内の盆踊り 摩訶不思議な魅力がある

 

西馬音内の盆踊りのお囃子は、秋田音頭に似て非なるもので、なかなか威勢がいい。

 

♪ お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 ササ なお恋し (がんけの歌)

 

♪ ホラ 西馬音内(ニシモネ)言葉(コトバ)集めて(アズメデ)見たれば(ミダレバ) 

何たらヤラシクニャ エッピャダバ デケニャ ビャッコダバ 

ヤンカ ンダダテ ンデネガショ (地口の歌)

 

恐らく何百もある歌唱では、当然この地方の方言で謳われており、「音頭」に比べたら、

「がんけ」の詞章は物悲しく、だが踊りは力強くて、流麗だから不思議な踊りである。

 

藍染の衣装を着て、イグサで作った編笠を被る 端縫の他こうした藍染も素敵

 

 

 もう直ぐ、越中・八尾では、おわら風の盆が始まるが、これはお盆の行事ではなく、

養蚕や農事への予祝の行事である。また各地に残る地蔵盆は子供を対象としながら、

地蔵信仰が中心となり、いつしかお盆の期間中に行われることから、

地蔵盆と呼ばれ、お盆の行事の一環となったのであろう。

地蔵盆の盛んな京都周辺では、あの大増水被害で、今年はどうだったのだろうか。

 

端縫を着た踊り手 「がんけ」の振付

 

祭りとは、広義の意味で、「ハレの日」とも言えようか。

そうして、旅に出て、祭りのただ中に身をおいてみることとは、

すべての困難や悲劇など、謂わば「ケ」や「ケガレ」を祓いたまいて、

自分の現在の立ち位置を変えてみるのに、打って付けの場所ではなかろうか。

 

6月半ば、紫陽花の美しい時季に、ひとりのご老人が自死され亡くなられた。

南三陸から、山形県南陽市の次女宅に避難していたS氏は、

妻・長女夫妻・孫三人を同時に津波で流され、独り生き残り、頑張っておられたが、

三年三か月の月日は、よほど重かったのだろうか。当時82歳、

私たちと、山櫻の苗木を植え廻っていたし、頗るお元気な方であった。

この拙記事を、渾身より頑張られたあの御方に、心より捧げたいと存じるのである。

 

町中に立つ囃子方の舞台

 

羽後町観光物産協会「西馬音内盆踊り」案内ページ

 


     仙台夜(せんだいや)

2014年01月26日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

東大寺 二月堂・修二会 韃靼修行図

 

 

 

       仙台夜

 

 

 むかしむかし、ある聖の僧が、仙台の野中に立つ一軒の粗末な家に、突如訪ねて来て、「今夜は泊るあてがない。どうか一夜の宿として泊めてくださらんか」と言う。一人住まいの百姓の男は、僧侶の身なりを見て、いかにもお金持ちそうなことを知り、すぐさま「いいですよ、こんなあばら家だけど、暖を取るぐらいならいくらでも出来ますから」と喜んで返事をし、家の中に僧を迎え入れ、焚き火をたいて、少しさめてしまった残りのオカユを与えた。すっかり安心した僧は、奈良の大仏さま造営のために、奥州に資金を集めに行った帰りだったが、ひどく疲れてしまって、グッスリと寝入ってしまった。

  その夜は満月、男は「お坊さんお坊さん、枕がおはずれですよ」と言い、僧の首を持ち上げた一瞬、僧の首を鋭利なナタを振り上げ、一思いで、ばっさりと切り落としてしまった。懐にある金銀やお金をそっくり盗んだ男はやがて何食わぬ顔で、新しい立派な家を建て、きれいな女性を迎え入れて結婚した。

  やがて二人には美しい女の子が生まれたが、生まれつき唖(おし)で、一言も口を利くことが出来なかった。女の子が12歳になった或る満月の夜、女の子は愚図って、なかなか寝なかった。「あっれ、どうしたのだ、小便でも出るんだろう、近いうち、立派なお武士さんと結婚する話が来ているんだから、又お金もうけが出来るんだわい」と思い、大切に育てたつもりだった。その男の現在は百姓ではなく、奪った資金を元に、あらゆる行商を始め、殆ど家には戻らなかった。それもそのはずで、何人もの愛人さえいた。それがたまたま家に戻った晩であった。他にも幾らでも女がいたので、めったに家に帰ることはなかったのに。でも唖の女の子は幾ら言ってもいうことを何一つ聞かなかった。しびれを切らした男は、強引に娘を抱き上げ、外のトイレに連れて行こうとした。

  その時である。満月の光で、何もかも見える夜、 父親が「どうした、このガキ、親の言うことも聞かないで。そら、おれがいっしょに行ってやるから。な」と言うと、女の子はすっくと立ち上がって、自分で外に出た。その時である。「お父ちゃん、ちょうど今夜みたいな晩だったわねぇ」って言うんで、父親がハッと思い、女の子の顔を見た。あれっ、あの時のあの聖僧とそっくりの顔が、じいっとこちらを睨んでいるではないか。男はたちまち狂ってしまい、何日も何日も苦しんだはて、狂い死にしてしまったのである。

 

これらの能面の眼や歯には金箔が使われている つまりこの世の者ではない証拠である

 

  それから妻と娘は、家や土地や、男が貯めていたすべてのモノを売りさばいて、お坊さんが持っていたお金を何倍にもした。自らが着ていた豪華な衣装も売り捌き、貧相な身なりとなり、一路奈良の都へ。一行は多賀城の兵士に守られて、奈良の都に着くと、天子さまに、金銀財宝を届け申し上げた。天子さまは「東大寺の盧舎那仏建立に、どんなに助かったことか。仙台の人は誠実でいい方だ」と褒め、親子に家を与え、二人とも官女になることを薦められたが、天子さまの奥さまである光明子さまにお仕えし、尼となって、母子は人さまのご病気平癒の手助けをし、生涯光明子さまにお仕えしたそうである。

 

聖武天皇・光明皇后のご尊像 平安仏所 江里康慧作

 

(「罰があたる」という考え方が、現代では死語になっているようです。このお話は宮城県の民話の一つですが、こうして恐ろしい物語を描き、何をしてもいい時代は、一つとしてなかったってことを申し上げたいと存じます。我が菩提寺にある地獄絵図など、殆どの方は信用されないのでしょうか。キリスト教に、『最期の審判』があるように、私には幼少時から、お寺に行く度に見せられてきましたので、その恐ろしさが信じられてならないものです。そうこうして何でもありが現代なのでしょうか。最近、最も嫌いな言葉はリベンジポルノ。SNSの発達は人の心の本当の繋がりを分断し、妄想・虚構の世界だけが肥大化して行くようで、小生には恐ろしくて、スマホはやれません。偶にガラケイと言われる携帯電話を使用しますが、これも国際空港にてレンタルしたものだけで、日本にいる時は殆ど使いません。このパソコンもウィンドウズ8ではなく、7であります。現代は自己中だらけで、限りなくセコクて、嫌な時代だなぁと、一面には感じざるを得ないのです。尚、この民話に通常は出ていらっしゃらないのですが、物語のカタルシスのため、少々のご無理を承知の上で、聖武天皇さまと光明皇后さまの両陛下に、ご登場お願い致しました。)

 


もち花

2014年01月22日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

京都 西利本店のもち花

 

 

もち花

 

 

松飾や注連縄などを焼く左義長やどんど焼きの小正月(15日)が終わると 大寒に至る

すると 全国各地では もち花が飾られ さらに賑わい 華やぐ

米俵にもち花を挿したり 大黒柱に括り付けたり 様々

一般的には 紅白のおもちを 団子木に丸めて 晴れやかに飾る 

時にはモナカ(市販)で出来たもち花もある

このモナカで出来たもち花は 食紅により 五色のもあるから 面白い

 

一般的なもち花の飾り方

 

二十四節気はまことに理路整然とした自然観であり 我が家では旧暦で モノを行うことが多い

ところが このもち花の習慣は 正月行事とも 立春の行事とも やや可笑しくなってはいないか

もち花の本来の習慣は 小正月(15日)から 大寒(20日頃)までの短い期間 飾りおく習慣のことだ

紅白の紅は 農耕の五穀豊穣を願い 白は 繭玉の収穫を祈るものである

言わば 二月から各地で盛んに行われる「田遊び」(予祝行事)の前ぶれであり 

決して歳神さまのお正月や、季節を分かつ節分 立春のお飾りではない

五穀豊穣やお蚕さまに対する 真摯なお祈りの行事である 従ってこれを繭玉ともいう

 

2月1日 木津川市 相楽神社での餅花

 

こうした習俗や習慣の乱れは これも長い時間を掛けて 人々によって変遷されたのであろう

旧伊勢街道では 家の外に飾る習慣がある 花が少ない時季だから そうした習慣になったのだろうか

或いは松飾などに 一緒にお飾りされることもあり その意味は急速に失いつつあるようだ

だが この行事で使われるお餅は 梅雨や夏場の日照りや「ヤマセ」など 冷害などに備えたものであり

その昔 農家では 言わば保存食として 大切にされていた証拠なのである 実利を伴ったものだ

 

正月に 京都の古い旅籠などに泊まると 結び柳に こともあろうに もち花が一緒に飾られたりする

結び柳とは 正月明け お茶の師匠宅へ正装して赴き 初釜になる その祝事に合わせた飾りである

まぁ意味不明の行事の一つになったものであるから 良しとするが 

本来の意味を知って戴きたいものである

我が家のもち花は 元々武家の家であったものの 武家は農家を悉く大切にした残照であろう

 

当家ではこの時季 道明寺糒(ほしい=粉)で 和菓子「つばき」を作る 意味はほぼ餅花に近い

 


て、やんでぇ!

2014年01月05日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

歌川広重 唯一夢想した絵 王子のキツネ図(名所江戸百景から)

 

 

て、やんでぇ!

 

 

「罰があたる」って 言葉は  どうやら死語になっているらしい

関西では寺子屋だが 江戸では手習い 今でも若干の文化の差異はあるが

関東は特に 江戸の頃の文化や文明が分からなくなっちまってるから 背筋が寒い昨今だぜ

 

鏡餅すら分からないでいるらしい お餅は鏡 干し柿は剣 橙は玉で 三種の神器さぁ 常若の精神

 

陰陽で 餅を二段重ねにして 白木三方に 半紙を敷いてから乗せる 日付は最低12月28日か30日か

更に 橙は家が代々存続し ゆずり葉は家計が絶えることがなく 昆布は喜ぶ 裏白は長寿と夫婦円満

鏡餅こそ 歳神さまの依り代であり 当家では下のお餅は土の神さまへ 上のお餅はご先祖さまの御霊へ

たった二枚重ねだって 五穀豊穣の意味をも籠めて 祈る気合いがあるってもんだ

 

東京にだって 未だに徳丸・下赤塚の田遊び があるんだが 広重が描いた狐火の夢想の絵にだって

ちゃんとした霊力があるんだぜ 静岡県焼津の藤森の田遊びほどじゃねぇが 素朴で立派なもんだわさぁ

我が恩師・本田安次は 真剣に向き合って コンコンキツネさまに 田楽復興を遣り遂げて亡くなられた

 

先頭に立つのは わが師・本田安次 王子神社の田楽復興にかけて

 

鶴田浩二が歌った「傷だらけの人生」にだって あるじゃぁねぇか

「何から何まで真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり 右を向いても 左を見ても

ばかと阿呆のからみあい どこに男の夢がある」ってねぇ 猪瀬ってのは小物で 立つがねぇぜ

たかが5000万円ぽっちで 男を落とし 労著「ミカドの肖像」が笑ってらぁ

 

大体徳洲会ってのは 徳田虎雄の超ワンマン医療法人 奄美の保徳戦争ならぬ金権選挙の申し子

そもそも能宗克行容疑者は 実は敏腕な秘書 この人なければ 徳田虎雄も ただのネコ

365日休みなし 医師にはノーリターンにし 患者からの袖の下は一切なし 若手医師は即米国へ研修

素晴らしい病院であるはずだが いけねぇのは 虎雄氏の家族一派との抗争 何もしない家族への

高額な報酬が毅チャンへ 逆に仇となって 責任の押し合い圧し合い 笑い話にもならねぇぜ

能宗氏は 医薬品会社と医師の癒着を避けるために 薬品購入を一元化とし 一筋に仕えた有能な人

そんな腐れ縁から 「人のいい人だと思った」だって ぁははははは~~!

ねぇ ご立派なはずの直樹クン あ~たぁ!貰った時点でアウトってもんだぁ

 

古戸の花祭りにおける「びゃっけ」 神の依り代 湯だて神楽

 

東京は一年もすりゃ 次々に変わる そんなに変わってどうするんだい

東京五輪で また変わる 拝金主義の横行だわさぁ 巨大商業施設は勲章かい アホなぁ!

アメリカの油田・武器・軍隊・原爆など 唯一無二のアメリカ例外主義に 毒されたら いかん

 

お伊勢さんの常若の精神こそ 日本人の誇りで 世界に類例のない素晴らしさ

ここいらで 「ケ」と「ハレ」のことでも 初っ端から教えんといかんのかなぁ 情けねぇ

 

和食文化で 唯一素晴らしいのは 

アスペルギルス・オリゼっていう米麹菌が 唯一日本にしか出来ない菌ってこと

京都には 助野さんって方だったかなぁ 種麹もやし屋さんだったか あったよなぁ

お酒にも お味噌にも 何にでも使われるが 800年の歴史があるんだぜ すげぇだろう!

椿の焼却灰を使って それらを育てて来たんだ 日本人の智慧ってものに ちっとは自信を持ちなよ

 

お正月の疲れは 七草粥でもまったり食べて ゆったりしましょうよ ねぇ皆さん

 

取り敢えず 海老蔵からニラミをして貰って 悪魔祓いと致しましょうほどに

 

 


   古川柳から見た江戸 第二部・江戸の時間ほか

2011年10月17日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

湯屋 女風呂 但しすべて混浴で 江戸時代の性はおおらかだった

湯船は石榴(ざくろ)口と言われる奥まったところにあり 男女混浴

 

 

古川柳から見た江戸  第二部・江戸の時間ほか

 

 

 江戸時代は時間をどう表現し生活に使われていたのだろう。それは季節によって異なる時差、それを出来るだけ忠実にあろうとして、言わば「不定時法」と言った時間の観念であっただろう。時刻は重要なことであり、子、丑、寅、卯・・・と言った十二支を用いて区分する方法と、単に数字を用いて区分する方法の、両方があったようで、数字の場合は子の刻に当たる午前0時が九つで、以下二時間ごとに、八つ、七つ、六つ、五つ、四つとなり、正午が再び九つとなるように用いられた。但し、日の出が明け六つで、日の入り暮れ六つなので、夏は昼が長く、冬は夜が長いことになる。夏至の頃の、昼の一時(いっとき)は約2,6時間で、冬至の頃の昼の一時は約1,8時間となるわけである。但しそこまで厳格かというと、そこまでではないらしく、時を知らせる市中の「時の鐘」は、柔らかい時間差があったようである。最初に、「市中の鐘」が出現したのは日本橋・本石町の鐘楼で、その後それに続いて鳴ったのは浅草寺・上野山内・本所横川町・芝切り通し・市ヶ谷八幡・目白不動・赤坂円通寺・四谷天竜寺などの鐘楼が続いた。従って若干の時差も出たのであろう。

  石町は江戸を寝せたり起こしたり

  石町は無常に遠き鐘の声

  石町へ越すと早速びっくりし

 鐘の突き方は、九つなら九回突くはずだが、人々の注意を喚起するために、「捨て鐘」と言って、その前に三つ突いたので、合計12回鳴らされる勘定になる。然しそこまで正確ではなく、特に夜中の鐘の数は随分酷いものだったようである。

 

江戸時代の時刻表

 

 明け六つに、長屋の木戸が開けられ、長屋の一日が始まる。

  納豆屋は時計のように廻る也

  納豆と蜆(しじみ)に朝寝起こされる

  金色(こんじき)の男蜆を食い飽きる  (金色とは黄疸のこと 大酒のために肝臓病の一歩手前になったか)

  咲くように朝な朝なの青菜売り  (毎朝のことだが 「な」とは菜を掛けている)

  裏店を見くびるような冬瓜(とうがん)売り

  さかな屋は四つ過ぎまではえらを見せ  (四つとは10時ぐらいまで 新鮮さを見せたがり その後はえらを見せたがらない)

 長屋の亭主族は殆ど手弁当持ちで仕事に出た。ただ手習いに行った子供は昼食に帰ったようで、長屋まで戻るが、一方食後の後片付けをした女房は簡単な内職をしていたようだ。

  昼飯を外からどなる手習い子

  せんたくや近所の人のアカで食い

  呼ばれても二針三針縫って立ち

  手習い子帰ると鍋をのぞいて見

  隠れんぼちょっと眠った立ち姿

  悪筆は蝉や蜻蛉(とんぼ)を後悔し   (手習いをやっておけばよかったと 大人になってから後悔する)

  明日から手習いだあと叩いてる  (太鼓を叩いて歓んでいる場面)

 仕事から帰った亭主が銭湯で汗を流して来ると、夕食になる。長屋には色んな食べ物の行商人がやって来て、旬の食材を提供してくれる。女房は食後の後片付けをしてから、仕舞湯に入りに行く。早寝早起きが長屋の鉄則だ。そんな生活でも、真夏は例外で、風通しの悪い屋内よりも、少しでも風の通る路地に出て涼を求める。子供たちは花火で遊んだりする。

  花火をもらい日が暮れろ日が暮れろ

  涼み台ぎしりぎしりと人が増え

  裏店の涼み大家に追い込まれ

 長屋の木戸は、夜の四つ(午後10時頃)に閉められてしまうので、夜遊びも楽ではなかった。浮世床や遊郭や三業地や浮世風呂など、絶好の社交場であったようである。同じ長屋の者や町内の者同士が、仕事の休みの日や、暇な時間に顔を合わせ、雑談や囲碁や将棋などをして、社交場となるのが、銭湯の浴槽であり、その湯屋の二階であったり、髪結床(かみゆいどこ)の待合の時間であった。そこが唯一の団欒の場所であって、社交場となっていたのである。

  髪よりは無駄をゆうのが多い也

  絵を書いた障子はむだの会所也

  髪結床一冊ずつは絶えずあり  (今もある週刊誌のようなものが置いてあった)

  気の強い女髪結床で聞き   (女性の評判話を聞く絶好の場所か)

  もてぬ奴髪結床を変えてみる  (今でもありそう)

  女湯の義理は小桶のつかいもの  (一桶掛けてやるお世話が効くようだ)

  石榴口(ざくろぐち)人を飲んだり戻したり  (入り口は男湯女湯が違っていても 湯船は同じであって 石榴口から真っ裸の男女が混浴をする 性にはおおらかであった)

  五、六杯入れろと海老が怒鳴る也  (湯加減 真っ赤になった海老のようだと)

  男湯を女の覗く急な用  (この場合の女湯や男湯は湯屋の二階が男女で違っていたからか)

  目の覚めた子を女湯へことづける

  女湯で起きた起きたと抱いてくる   (まさか子供ではなく ??)

 寝床は長屋で、ダイニングルームは屋台であろう。そしてミーティングルームになっているのが、湯屋であり髪結床であったのだろう。ともかく裏長屋はワンルーム暮らしと言った処で、日雇い労働者や店舗を持たない行商人や、素浪人などが住んでいた。単身者も多かった。無論家族持ちも多かったが、家族構成は平均3~4名で、夫婦と子供一人か二人ぐらいだったろう。ワンルームに、つましくささやかに肩を寄せ合って生きていたのである。長屋の稲荷社には地主は勿論のこと、長屋の皆さんも朝な夕なにお供え物をあげて、拍手(かしわで)を打っていた。土間は一畳半ほど。そこには水甕や、竃(へっつい)や、流しや、調理道具などが置かれてあった。トイレは外付けで、雪隠(せっちん)と言い、後架(こうか)とも言った。扉が下半分隠れているのが関東式である。人糞は貴重な肥料となり、近郊の農家が買い取りし、そのお金は通常大家のものになっていた。玄関の引き戸は下半分に腰高板(こしだかいた)を張ったもので、商売をやっている家の腰高障子には屋号が書かれてあった。はきだめ(芥溜 塵置き場)は陶磁器の破片など、分別回収され、それは埋立地に再利用された。畳部分には米びつや飯櫃が置いてあり、箪笥もあった。箪笥のない家ではツヅラを使っていた。雨の日のために、笠と蓑は必須のもので、室内に掛けられていた。角火鉢(丸火鉢も)や煙草盆や、それが不思議なことに殆どの家に神棚があったようである。外装は下見板張りと言って、板の上下が数センチずつ重なるように張った外装で、火事には滅法弱かった。棟割長屋とも呼ばれ、壁は荒壁や板壁で、薄くて壊れやすく、隣家へ、あらゆる話し声などは筒抜けであった。夫婦の睦言もあけすけであった。更に壁に出来た穴などで、隣家同士、穴を通し物の貸し借りもあったようで、真にいいお付き合いなしでは生きてゆけなかったかも知れない。物干しも外にささやかにあったが、板塀と言って、隣家棟との敷地境界線があった。真につましいものであっただろう。

 

湯屋情景図 下田に来た外国人が驚きを持ってスケッチをした

 

 上図は渡航した外国人が下田でスケッチした絵であるが、江戸でも同じ光景が見られたようで、スケッチやエッセイなどに数多く残されている。平気で混浴する習慣に、外人は腰が抜けるほどびっくりしたことであろう。幕府は風紀的配慮から時々禁止令が出たが、全く効果がなかったようである。女性が嫌がれば直ぐなくなるものを、当時の女性たちはまんざらでもなかったようである。『守貞曼稿』には、『ユイイル、ト云謎也。「射入る」ト「湯ニ入ル」ト、言近キヲ以テ也。』と書かれてあり、「湯入る」と、「弓射る」とを掛けた江戸っ子の洒落であった。入浴後二階で休息しながら、談笑や囲碁や将棋をして楽しんだ。茶や駄菓子も売っており、覗き窓から女性を鑑賞することも出来た。家に風呂がない時代、湯屋に毎日通い、油っ気が抜けたのを自慢しあっていた江戸っ子たちにとって、夏ともなれば男女の別なく、行水(ぎょうずい)をするのが普通で、室内外を問わず、ちょいと覗けば半裸体や全裸体など極普通のことであった。さすれば現代人と違って、江戸時代の女性たちはさぞや貞操観念が強かったと思われがちだが、実際の庶民は性におおらかそのものであったようだ。そもそも江戸開府以来、地方から仕事を求める人で溢れていた。参勤交代の武士や、浪人など、その多くは単身者が多かったために、市中あちこちに性風俗を売り物にした私娼が出現した。吉原のような幕府公認の遊郭を始め、江戸っ子たちは少しくらいのカカァの浮気は寛大であったようである。例えば寺社仏閣の境内は、大道芸や見世物小屋や茶店などが立ち並び、庶民らの集う一大歓楽地であっただろう。特に矢場はその典型であった。人々のお参りついでに、ちょいと寄る矢場のお目当ては、30矢で6文(約40円)の、手軽な遊びであり、矢を射ると、「矢返し女」が目当てであって、外した矢を返す女は、実は客に春を売る女性であった。又江戸時代の浮世絵はすべての浮世絵師によって、優れた春画が肉筆画としても版画としても膨大な数量が作成された。娘の嫁入りに際し、箱枕に忍ばせた絵が中心で、今で言うならポルノかも知れないが、作画家の特徴をよく捉えており、性教育も行き届いていた証拠となろう。春画については我が尊敬する木村草弥先生のブログに集大成されている。アダルトにつき、取り扱い要注意だが、あの上村松園でさえ、春画の肉筆を残してあるので、その春画(木村草弥先生編纂)を敢えて紹介をしておこう。

 髪結床とは、江戸時代に幕府から営業権を与えられたサービス業のことで。式亭三馬の話にもある通り、髪結床は湯屋(銭湯)の二階と同じで、男の社交場であった。殆どの湯屋には女が休息する場所は少なかったからである。髪結床は通常長屋の脇にあるが、改めた建物にある床もあった。これを「内床(うちどこ)」と言い、橋の袂や町境の空き地にある床を「出床(でどこ)」と言った。「出床」は町の見張り番や、出火の際の役所への駆け込み役など、公儀のお役目も果たしていた。入ると直ぐに、「上がりがまち」があり、1mほどの板敷きになっていて、客は板の間に表を向いて腰掛し、髪を結って貰う。その奥は畳敷きで、そこで自分の番が来るのを待っていた。囲碁に将棋、読み本なども置いてあり、世間話のし放題であった。番が来ると、先ず「小僧」のいる上がりがまちに腰を掛け、元結(もとゆい=髪を束ねている紙のヒモ)を切り、フケを取り、髪を梳く。次に「中床(なかどこ)」に入り、月代(さかやき)を取って顔を剃り、ザッと髪を結い、最後に親方が綺麗に撫でて仕上げると言った風である。

 三味線の起源は14世紀末に中国の三弦が沖縄に輸入され、三線と称し琉球歌曲の伴奏に使用されるようになった。一方、中国の三弦は大阪・堺にも伝来し、琵琶法師が最初に手にすることになる。その後琵琶法師たちがカタチや奏法などの工夫改良をした。胴皮には蛇の皮が使われていたのを、入手しやすいことから、猫や犬の皮が使われることになった。それが現在の三味線の原型となったのである。江戸時代になると、三味線の普及が著しくなり、歌い物(歌詞より旋律を重視した長唄や小唄のこと)と、語り物(浄瑠璃など)の二つに別れ、流派に応じて更に分化し発展していったのである。又歌舞伎の伴奏や、地方の民謡にも多角的に使用されるようになっていった。近世日本を代表する弦楽器である。

 小唄とは元々端唄から派生した俗謡で、一般には幕末から明治に掛けて多数創られた「江戸小唄」の略称であり、略称として定着したのは明治・大正年間であった。端唄は撥(ばち)を使用して使われるのに対し、小唄は爪弾きで、上記の発生事情から大きな差異はない。爪弾きとは言え、正式には爪にあててはならず、爪の横の指の端で弾く。演唱の場は主にお座敷(四畳半)が多く、撥を使用すると音曲が大き過ぎるために、自然と爪弾きになったものだろう。三味線は端唄と違い、中棹を使用し、使用する糸も端唄より太く、駒は端唄より大きな木駒を使用する。ぼんやりとした謡い方で、呟くように軽妙に粋に唄うのが特徴である。基本は三味線1、替手や上調子や下調子が入る唄もある。演奏時間は凡そ一分半から三分程度で、長くとも五分以内。慕情物・情痴物(市井のお色気を扱ったもの)・芝居物・役者物(役者や芝居を題材にするもの)・バレ物(風刺や洒落が効いたもの)・田舎物(民謡風なもの)などがある。端唄は鳴り物が入るが、小唄は三味のみで演唱される。最後に江戸の名菓子である榮太郎本舗の、ほんのり甘い飴でも嘗めながら、小唄の一つでも唄って終わりとしたい。

  『梅は咲いたか』

    ♪ 梅は咲いたか櫻はまだかいな

      柳ゃなよなよ 風次第

      山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな

 

    ♪ あさりは獲れたか はまぐりはまだかいな

      あわびくよくよ 片思い

      さざえは悋気(りんき)で 角(つの)ばっかりしょんがいな

 

 江戸時代の川柳は今の時代に、生き生きとして生きている。江戸の風俗だけではなしに、そこには庶民の信仰や娯楽など、目いっぱいに詰められていて、大火事の後も、天変地変の災害の直後でも、すぐさま再興し、日本人らしく逞しく生きていたのである。七ヶ月過ぎた東日本大震災に、心からのお見舞いと、改めてのお悔やみを申し上げ、江戸庶民とともに、早く復興を果たしたいものである。かくも多くの自然災害が次々にのしかかる日本人にとっては自惚れや慢心などあろうはずがないと、お稲荷さんに再びお誓い申し上げよう!

 


   古川柳から見た江戸 第一部・長屋

2011年10月17日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

江戸の古地図(一部) 時代によって古地図は違っている

 

 

古川柳から見た江戸 (第一部・長屋)

 

 江戸は新興地である。太田道灌が、1587年に江戸城を築城してから三年後、1590年に徳川家康がここを居城と定めた。無論幾多の災害や飢饉があって、江戸はそれ以来安泰だとは必ずしも言えない。だが、1603年に家康が江戸城に幕府を開設して以来、264年間の長きに渡って平和な時代が築かれたのである。今日の私たちの足許を見詰める時、江戸時代から解きほぐすことから始めたほうが分かり易い。江戸時代というのは不正解で、正確には徳川時代であったろう。異論反論はあろうが、約二世紀半のも間、泰平の世が続いたのであった。

 1603年 ①家康 江戸に幕府を開く (この年イギリスではシャイクスピアの「ハムレット」が初上演される。

 1605年 ②秀忠 キリスト教禁止令 吉原に遊郭開設を許可

 1623年 ③家光 海外渡航と帰国が厳禁に 参勤交代の制度化

 1651年 ④家綱 明暦の大火で江戸の大半が焼失す

 1680年 ⑤綱吉 八百屋お七の火事 生類憐れみの令 松尾芭蕉『奥の細道』に出立 元禄赤穂浪士事件が発生 井原西鶴『好色一代男』くぉ発表

 1709年 ⑥家宣 新井白石らによる政治改革 近松門左衛門『冥土の飛脚』初演

 1713年 ⑦家継 江戸城大奥の「絵嶋生島」事件発生

 1716年 ⑧吉宗 享保の改革 大岡忠相が町奉行に着任

 1745年 ⑨家重 柄井川柳が点者としてスタート 『川柳評万句合』の発行

 1760年 ⑩家治 鈴木春信が錦絵を始める 『俳風柳多留』発行 アメリカ独立戦争

 1787年 ⑪家斉 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』発行 曲亭馬琴『南総里見八犬伝』発行 伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』完成 葛飾北斎『富嶽三十六景』、歌川広重『東海道五十三次』など次々に発行され 旅行ブームに

 1837年 ⑫家慶 アメリカ船、中浜(ジョン)万次郎を伴い琉球に渡航 

 1853年 ⑬家定 ペリー艦隊が浦賀に来航

 1858年 ⑭家茂 桜田門外の変 アメリカ大統領リンカーンが奴隷解放を宣言す

 1866年 ⑮慶喜 薩長同盟成立

 1876年    徳川幕府は大政奉還し 慶喜は朝廷に政権を返上して 徳川幕府は終わる

 主な徳川時代の出来事の列挙であるが、この長い幕藩体制の時代、時代の証言とも言える多くの川柳が残っていて、江戸庶民の生活など様々な事象が窺える。川柳とは柄井川柳から始まったものであるが、いつしか川柳だけで、今の時代にもその時代の反映が見てとれる。

 川柳とは、前句付から独立した17字の短詩のことで、前句として、「切りたくもあり切りたくもなし」などという7・7の前句(=短句)に、「5・7・5」の付け句(=長句)を付けることを前句付(まえくづけ)と言った。因みにこの前句に付けられた句は、「さやかなる月をかくせる花の枝」とか、「盗人を捕らえてみればわが子なり」という前句付になり、この後の句が独立して川柳となったものである。江戸時代中期に、前句付の点者(てんじゃ=選者)であった柄井川柳(からいせんりゅう)による選句を「川柳点」と呼び、付句が独立し「川柳」となったわけで、古くは狂句などの呼称もあったようだ。明治以降統一され、川柳となったのを切っ掛けに、明治以前の川柳を「古川柳」と呼ばれるものである。柄井川柳(本名 八右衛門)は宝暦7年(1757年)、40歳の時に点者としてスタートし、8月25日に万句合の第一回を開き、『川柳評万句合(せんりゅうひょうまんくあわせ)』が発行され、明和2年(1765年)には『俳風柳多留(はいふうやなぎだる)全』(後に初篇と呼ばれる)が刊行された。『俳風柳多留』は、24篇までが柄井川柳選により、その後は他の点者によるもので、天保11年(1840年)まで、167篇が刊行されるに至った。

 さて江戸の人口はどのくらいあったろうか。無論時代差が若干あるものの、ほぼ同意見で集約されている。実に110万人もの人が住んでいて、当時世界的にはトップクラスの座にあったと言えよう。武家方が55万人で、町方も55万人であったという。今のように埋立地が少ない当時の狭い江戸の総面積に占める割合では、実に69%が武家方の居住地域で、寺社地が15%、従って町方の居住地域はたったの16%であった。人口密度で計算すると、町方の居住エリアは息も出来ないくらいの狭さ。町方の総面積は約270万坪(約9キロ平方メートル)なので、1キロ平方メートル当たり、約6,1万人となる。現代の東京23区で最も人口密度が高い中野区でも、1キロ平方メートルに約2万人程度だから推して知れることだろう。ここに「長屋」の存在が大きかったわけである。そうして火事と喧嘩は江戸の花となるのであった。

 長屋とは二軒以上の住宅が一つの棟下に立ち並び、細長く見えるがゆえの名称で、原則として同じ間取りの連棟であった。つまり賃貸アパートのようなものだ。江戸住民の比率も面白い。「真の江戸っ子」は1割、「斑(まだら=両親のどちらかが江戸っ子)」が3割、「田舎子」が6割ということである。そんな構成からすると、長屋とは「諸国のはきだめ」の観が否めない。然しここには驚くべき運命共同体のような存在があり、しかも驚くほど強固だったことは特筆に値しよう。

  江戸者の生まれそこない金をため

  独り者やれ茶をくれろ火をくれろ

 表通りに面して3軒から5軒ぐらいの2階建ての表店(おもてだな)があり、無論表長屋もあったが、殆どが路地内にあって裏店(うらだな)とか、裏長屋と呼ばれるものであった。路地を挟んで向き合う形で10軒前後が並び、それを一つのグループにした。落語や講談に出てくるのは、こんな裏長屋の住人たちのことで、路地は実に狭くたった3尺(0,9m)しかなく、川柳に「裏店へ傘青眼(せいがん=剣道でいう正面相対の構え)の身の構え」というのがあるが、見事にその狭さを表現している。京都の場合、先に表通りの店から始まり、後付で、その内側の空いた土地に、店子や身内のために家を造営したために、路地(京都ではロージという)のが数多く発達した結果である。更に裏長屋は俗に「九尺二間」と言われている。即ち間口が九尺(2,7m)、奥行きが二間(3,6m)で、入り口・台所含めて3坪(6畳分)が標準サイズであった。

平均的長屋 これが二棟向き合ってあり 端には木戸があった

 

  九尺店(くしゃくだな)長いもらしい梁(はり)ばかり

  裏店へ貳俵(にひょう)重ねて憎がられ

  九尺店琴をならわせそねまれる

  その手代その下女ついに九尺店   (結婚し新世帯=あらぜたいを持った意)

  その手代その下女昼は物言わず   (奉公先ではお互いに口を利かなかった)

 障子を開けると、玄関と土間がある。その左右いずれかに3尺四方の流しがある。竃(へっつい 或いはかまど)があり、台所用品を置く3尺四方の板縁があった。

  女房が留守で流しに椀だらけ   (女房がいないとどうにもねぇ)

 板縁の奥は四畳半一間の座敷だが、フスマなどの仕切りがないので、玄関から全部丸見えだった。夜具は片隅にまとめられ、衝立(ついたて)で隠されていた。

  竃祓(かまばらい)ひたひで鈴をふりおさめ  (荒神信仰による年越しの挨拶だが、何と言っても狭かったから、額に当たることで済ませたとある)

 両側・裏側とも壁一つを境にし隣り合っている関係上、風通しが悪く、隣家のどんなことでも聞こえてきたものであった。

  裏店の壁には耳も口もあり

  隣まで朝寝をさせぬ小擂鉢(こすりばち)

  隣の子おらがうちでも鰯だよ

  朝帰りそりゃ始まると両隣

  朝帰り四隣(しりん)しばしば振動し

平均的長屋の内部 (大江戸博物館参照)

 

 まるで落語の会話そのもののようで、興味深く面白い。路地の突き当たりには共同の水道場(井戸)があり、共同便所(雪隠=せっちん)や、最奥には稲荷社があった。路地中央には幅3寸(9cm)の溝が排水路として走っている。ドブ板が乗せてあった。

  井戸端へ人のうわさを汲みに行き

  井戸端へ我がおさらばを揃えて居   (井戸自殺するために下駄をわざと揃えていたが、誰か止めてくれよとの願いが込められている川柳)

  井戸替えに大家と見えて高足駄   (7月7日 井戸の大掃除 店子は皆裸足であったが、大家は威張っていたと見える)

  長屋中検視が済むと井戸を替え   (井戸の中へ身投げした後始末 大掃除 足駄を揃えるのは身投げするのを止めての意)

  雪隠へ先を越されて月をほめ

  雪隠へものを言うのは急なこと

  雪隠の屋根は大方屁の字なり

  肥取りに尻が増えたと大家言い   (肥は飼料として売られて 店子全員に分配されるか大家個人の手取りにもなった)

  家主の世話で肥取りいもを売り   (下肥のこと)

  店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき (その餅は分配されることもある)

 地主の持つ土地や家屋の管理人が大家で、「大家と言えば親も同然」の関係であった。大家の任務は、土地や建物の管理(貸与・修繕・家賃の取立て)で、奉行所への連絡義務や、奉行所からの貰い下げや、お触れの伝達や、訴訟の付き添い、出生死亡など人別(にんべつ=戸籍)の移動などの責任があり、長屋の者たちへは絶対的な威厳があり、結構為すべきことがあった。

  雨もりを大家の前にぶちこぼし   (守宮=やもり 家守を掛けている川柳か)

  店賃(たなちん)の帰りに屋根の穴を言い

  独りもの店賃ほどはうちにいず   (独身者のこと)

  むつかしい大家はたえず札を張り   (入居募集の張り紙)

  空き店(あきだな)の左右鍛冶屋に粉屋なり   (近所迷惑な騒音)

  空き店が四十七軒暮れに出来   (元禄15年12月14日 赤穂浪士の討ち入り事件に揶揄して詠まれた川柳)

  四、五人の大家をしかるいいくらし

 長屋にはそれぞれの路地口に木戸があり、朝夕の開閉は長屋の住人の月番(つきばん)と大家が行う方法があった。そして驚くことに殆どの長屋の奥に稲荷神社が祀られ、通りの中心は下水で、その上にはドブ板がはめ込まれていたが、結構臭かったことだろう。井戸はお上さん連中の最上の社交場で、井戸端会議なる楽しみがあった。長屋につき、お隣の音は筒抜けで、隣は今何をやっているのか、井戸端会議では多くそうした話題にコト欠くことはなかったのである。手習(てならい=関西は寺子屋)などによって識字率も非常に高く、こうしたいい意味での運命共同体は明治ご維新の際、世界に類を見ない植民地にならなかった功績として大きい。薩長閥だけではなく、多くのこうした庶民の中からも立身出世し、かの奇跡的な革命が達成されたのである。第二部では江戸における時間のことを書かせて戴きたい。

  跡月(あとづき)をやらねば路地もたたかれず (店賃滞納の場合、心苦しく、威張って木戸を叩けなかった)

  店賃は済んだが路地のたたきよう  (木戸を大きな態度では叩けなかった)

                                (第二部 江戸の時間に続く)

湯屋 男湯二階の様子 一人の男が亀覗きをしている場面 だが入浴は混浴

 


  風の盆恋歌

2011年09月01日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

風の盆 女踊り

 

 

風の盆恋歌

 

 

 叔母の自慢の、たった2坪の雑草地はワンダーランドである。中でもキツネノカミソリというお花の一株は本当に面白い。2月頃に地上に芽が出て、3~4月頃に葉を広げて、光合成をする。5月には葉が枯れて、一旦休眠する。それがね、8月になると蕾だけを立ち上げて開花するのである。花の時期には葉が落ちる習性を持っているらしい。そして9月には結実し、種子を落として本格的に休眠する。こんなサイクルをずっと続けているキツネノカミソリは実にいとおしい。

 台風襲来の予報を聞いてから長い。時々ゲリラ豪雨のような激しい雨が降り、東京では今日、大掛かりな防災訓練が行われた。約10分間の交通規制であったが、たいした混乱もなく終了したようで、どのクルマの運転手からも不平不満は聞かれなかった。その必要性を都心の人々が共有しているせいであろう。

 210日に当たる今日から三日間、越中八尾の風の盆が行われる。いつか行った日、濃厚に思い出されてならない。美しい踊りや音曲、高橋治の「風の盆恋歌」を思い出される。私たちは列記とした新婚だったが、当時行った時の「街流し」は心底から、この踊りの持つ情念の世界に浸ったものであった。

 

風の盆 女踊り 2

 

 高橋治著の小説・『風の盆恋歌』は不倫の小説であるが、美しい物語を紡いでいた。オトコは30年前、旧制高校時代の仲間だった女性と、越中・八尾の風の盆で愛し合う。彼は大手新聞社の外報部長で妻は弁護士。一方彼女には外科医の夫と大学生の娘がいる。

 思いを寄せる彼女から遠ざかったのは、仲間と別れた風の盆の夜だった。彼の勤務先であるパリで再会した二人は、誤解が生じた経緯を知り、急速に近づく。彼女はもう一度でいいから、貴方と風の盆に行ってみたいと思う。

 八尾・諏訪町の一軒家で彼女を待つ彼。彼女が京都からやって来たのは4年目の風の盆の宵だった。列車が駅に止まるたびに降りて戻ろうかと思った彼女は、「足もとで揺れる釣り橋を必死で渡ってきたのよ」。ふたりは3日3晩、美しいおわらに酔いしれる。「おれと死ねるか」と聞く彼に、彼女は「こんな命でよろしかったら」と応える。翌年も風の盆で会うが、彼女は娘に不倫をしているのではないかと知られてしまう。

 3度目の逢瀬になるはずだった風の盆の初日の夜、原因不明の難病に侵された彼は八尾の家で息絶える。駆けつけた彼女は、「夢うつつ」と染め抜いた喪服姿で彼に寄り添い、睡眠薬自殺する。

 まるで、大人の御伽噺を見るような美しい物語で、風の盆が見せる魅力の不思議さを垣間見させ、私たち夫婦は構わずに、美しい風の盆に酔い痴れた。その後、石川さゆりの歌・『風の盆恋歌』が絶大な支持を受け、全国区に蔓延した。それから八尾の風の盆は観光客で溢れ、午後10時過ぎの富山行き最終列車が過ぎるのを待たなければならない。漸く静まり返った坂の道・八尾に、小さな集団で「街流し」が始まる。甲高い歌声、泣くような胡弓、三味の音色、ポコポコとなる太鼓の囃子方と、女踊りの数人と、それを誇張し称える男踊りの小集団が朝方まで続く。

 

坂の町・八尾の日本百選の道 雪洞がゆらゆらとして一層幻想的である

 

酔芙蓉の花陰に光る女性の、美しい蔭

 

 我が妻は京都出身だが、近くの日本舞踊のお師匠さんに教えられ、越中・八尾の風の盆を踊れた。あの日、踊りが上手く合わせているからと言われ、或る街の女踊りの装束を貸して貰って、明け方まで踊った。私はその夜の闇に流れる美しい旋律や歌謡を酔うように、踊り手に続いて歩いた。

女踊りの美しい所作 この踊りは簡単には踊れるものではない

 

 この踊りは盆踊りではない。盆踊りの基本は輪踊りであり、歌い手は好きに歌を選んで歌う。精霊迎えと送りの歌は、中には五穀豊穣を願う歌もある。日本三大盆踊りとして下記のような盆踊りがある。岐阜県の郡上踊りや秋田県の西馬音内の盆踊りや、熊本県菊池の山鹿灯篭踊りなど、すべて行列の端に行けば輪踊りであることが理解されよう。処がこの八尾の盆踊りは他の盆踊りと違い、決して輪踊りではない。流して踊る稀有な舞踊で、名だけが不思議と盆踊りとなっているが、輪踊りではないのである。

編み笠から幽かに見える踊り手の表情

 

 この欄に、妻が踊っている図を掲載した。果たしてどれだろうか。読者諸氏のご判断に委ねることにし、あれから短時間の、私たちの歴史だが、濃密なる時間であったと思えてならない。朝、下の井田川の河原に行くと、グミの木が実をたわわにつけて茂っていた。朝靄は清々しいものであったことだろう。尚、八尾の風の盆は9月1日から3日までだが、雨に打たれる日がないようである。その時は小学校の講堂を利用した演舞会場で行われるが、やはり清らかな水音の鳴る街で見る流しは最高の贅沢になろう。観光客が増え、8月20日から30日まで、前夜祭と称せられ踊られているようだが、余り感心しない。観光客が増えるのも、狭い街で行われる八尾の風の盆にはふさわしくないように思う。「風の盆恋歌」は「風の」で切ってはならず、「風の盆」と「恋歌」に分けられる。まさか「風の、ボンコイウタ」とは言うまい。

 

 兄弟ブログ 風の盆関係記事

 「硯水亭歳時記 Ⅱ」  『こひしや風の盆』

                  『風の盆 あれから一年』

 


   喧騒の、祇園祭終わりて尚

2011年07月27日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

蟷螂山 全32基の山鉾のなかで 唯一カラクリ仕掛けで 動く山鉾

 

  

 喧騒の、祇園祭終わりて尚

 

   祇園祭は宵々山、宵山、山鉾巡行などで、山場を迎えるが、それで終わりではない。四条寺町のお旅所から、牛頭天王など仮寓していた三神を八坂さんまでお連れしないと、長かった祭りの終焉とはならない。祀とは本殿に鎮座していた神々をお旅所にお連れして、神人饗応の体をなしていなけねれば、祭り(=祀り)とは言えないのである。言わば神輿遷幸とは神迎えや神送りのことで、お旅所で神人饗応があって始めて成立する。観光客受けする派手な山鉾巡行や花笠巡行だけが祇園祭ではありえない。 

 

   上記に掲げた通り、祇園祭とは、第一に「山鉾巡行と花傘巡行」。第二に「神輿渡御」。第三に「奉納行事」。第四に「神社神事」と、主に四つの行事によって成り立っている。中でも、第二の「神輿渡御」行事は祭りとして、大変重い行事であり、最後の「神社神事」で、この祇園祭の性格を的確に表現していると言えようかと思う。更に言えば「疫病の災悪神」と、善神である素戔 嗚尊(=牛頭天王)さまと、両方を一遍にお祭りしてしまうと言う贅沢なお祭りで、従って一見複雑なお祭りに見えるが、夏越の祭りを最後にするところに本祭の特徴がある。

   社伝には、八坂神社の創祀を斉明天皇2年(656)と伝えられているが、祇園の祭祀が始めて行われたのは貞観十一年とあり、この年疫病が、京都市内中で蔓延したようで、三陸沖大地震の所為もあったのだろうか。そこで疫病退散を願った祭として祇園さんであったのだろう。でも貞観十一年と言えば、皆さまには先刻ご存知のことでありましょう。そう、今年3;11の大地震と同程度の地震が起きた「貞観大地震」ことであった。そうした理由で一ヶ月もの長い祇園祭り最終日の7月31日に、八坂さん境内・疫神社で行われる「茅の輪くぐり」をし、茅之輪守の「蘇民将来之子孫也」の護符を戴きたかったし、被災者のためにも粟餅も頂戴したかった。

 

蟷螂町での御神籤所にある可愛い蟷螂(とうろうともカマキリと読んでも良い)

   この時期、京都駅頭に下りると、直ぐに駅舎放送されている「コンチキチン」の鉦の音に心踊らされる。だが八坂さんの祈りや願いは相当に深いものがあるのは確かである。全国に数多く伝播した八坂神社があり、祇園祭も多数あるが、土地土地によって、その場所に根付いた立派な祇園祭となっている。地方祇園祭の代表格として、博多・祇園山笠」などがあり、佐原祇園囃子で有名な「佐原の大祭」も見逃せない。この佐原は今回の大震災で、液状化現象を起こし、有形文化財に多大な影響を与えられている。この他に、「全国の祇園祭」は数多くあり、津波や地震で喪失した八坂さんや、原発事故によって、浪江町の八坂さんには入ることすら出来ないので、今年の祇園祭は格別に重たいものを感じている。

   古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観十一年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行した。平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国に因み、66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことが始まりであり、貞観大地震は5月に起きていることから、今回の東日本大震災と無縁ではないのではなかろうか。

蟷螂山の提灯(蟷螂山は前祭の「山」であり 「鉾」ではない) 

  八坂神社は元々は神佛混交の社殿であったが、明治時代、史上最悪の愚策である「神佛分離令」によって、廃仏毀釈せざるを得ず、八坂神社となったものである。これにより全国の御佛や御寺は最悪の受難をしたのだった。神道原理主義者や江戸時代の国学者のせいにして一般人の扇動となっているが、薩長出身者だけで固められた旧藩閥政治の愚策に間違いないと小生は思っている。

  妻の実家がある蟷螂町は実に小さな町で、近年特別マンションが建ち並び、旧来の町衆は少なく、西洞院通錦小路下ル(四条通り上ルでも通じる)蟷螂山町は、他の通りと違い、二車線の道路だけに車輌の喧騒でいっぱいとなる。 

   禁門の変(蛤御門の変)で蟷螂山も消失し、長らく休み山(居祭)となっていたが、元治元年に会津・薩摩連合軍と長州藩とのその激突による火災だけではなく、明治5年の寄町制度廃止によって財政的に苦しくなり、休み山へ。昭和56年の新しい蟷螂の復活で、漸く祇園さんに再び復活したのだが、実に109年に及ぶ休み山は余程辛かったことだろう。そして現在は町衆だけでの運営は厳しく、マンション住まいの新住民の方からも、多大なるご協力を得ていると言う、蟷螂の御神籤は彼らの発想によって出来たものらしい。 

   これと足利義詮軍と戦い戦死した四条隆資(たかすけ)卿の武勇ぶりを蟷螂に見立て、永和2(1376)年に、近くに居住の四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりで、江戸時代の「洛中洛外図」にもよく描かれており、当時から人気の山だったようだ。この蟷螂は祇園祭で唯一のからくり仕掛けで、御所車七代玉屋庄兵衛により新作され、又、前懸 胴懸 見送 水引などの全ての懸装品が京友禅染で仕上がっているのは蟷螂山だけで、友禅染作家で人間国宝の羽田登喜男さんの無償制作されたもので惚れ惚れする見事さである。前掛の「瑞祥鶴浴之図」、胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」、見送り図は「瑞苑飛翔之図」、そして最後に水引として「吉祥橘蟷螂之図」が献納された。カマキリの動きの愛らしさだけではなく、羽田師の友禅染も必見の価値がある。

   今回実家に帰れなかったが、空也堂の空也町も直ぐ傍にあり、隠れ家的カフェも多い。但し不思議に、二人でこの界隈を歩いたことがなく、錦市場ぐらいなものだろうか。


   ナヌカビ~日本人の七夕信仰の素型

2011年07月14日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

 

オショロサマ(先祖霊)をお迎えする笹船流し (萩原秀三郎・法子著「神島」より)

 

 

 

  ナヌカビ~日本人の七夕信仰の素型

 

 

  七夕伝説の本家・中国では「七夕」の故事由来をすっかり忘れ去られ、特に若い方には西洋のバレンタイン・デーだと公言され、若い男女がデートしプレゼントをする日だとされています。経済成長著しい中国では故事来歴など感心が薄いのは当然でしょうけれど、 『論語 為政篇』に「温故知新」の言葉にある通り、果たして古い物事を簡単に忘れ去っていいものでしょうか。無論ひと事ではありません。本邦でもたいした差がない風潮で、仙台や平塚や茂原の七夕は知っていても、その意味することすら忘れられています。仙台の七夕は飾り物の奥に水神さまが安置されておりますから、まだましなほうでしょう。この七夕を幼稚園や小学校で遊ぶイベントになっているだけですから、仕方がないことなのでしょうか。全国の地名も市町村合併などにより、本来あるべき地名も平気で変えられています。これでは、そこにどんな歴史や文化があったのか、探り当てる糸口すら分からなくなってくるじゃありませんか。私はそうした傾向に対し深い危惧と憂慮の念を抱きます。そこで改めて、新暦の七夕(7月7日)の時期を外してここで論考することにしました。以下ご興味のある方には是非とも知って戴きたいと書くことを決意しました。

  7月7日は、元々は7月15日のお盆を中心とする行事の一環でした。盆は稲作の収穫を感謝するとともに、秋の豊作を祈願するために、ご先祖さまをお迎えし、その霊魂を祀るという大切なイベントでありました。これに先立って、人々は色々な準備をします。女の子は髪を洗い、町屋では硯をきれいにし、神にお供えする食器類を洗い、チガヤやマコモで作った「七夕馬」を作って屋根に上げ、ご先祖さまをお迎えする風習があったぐらいです。又盆とともに来臨する神々の衣づくりをするために選ばれた神女が、村から離れた川ツ淵や海辺などに作られた棚(タナ)で機織(ハタオリ)をしました。所謂棚機娘(タナバタツメ)のことで、これが棚機(タナバタ)=七夕の語源となったものです。

  ところが佛教伝来とともに、お盆の行事はいつしか佛教行事の一環として特化するようになりました。そこで七夕の行事だけがポツンと取り残されてしまったのです。平安時代の上流社会に伝播された中国の星祭りである乞巧奠(キッコウデン)や、織姫・牽牛伝説に、日本の七夕が飲み込まれていったのでした。但し律令制度時代、七夕の時期に合わせ、盛んに宮相撲の節会(せちえ)がありましたが、これは五穀豊穣を占う行事で、現在でも九州各地に執り行われています。

  七夕は元来秋の行事です。新暦ではなく、旧暦の7月7日でなくてはなりません。何故かと言えば、旧暦の7月7日に天の川をはさんで織姫と牽牛が最接近するからです。新暦の夜に天の川が見えるのはたった26%程度しかありません。論拠もなく、大変可笑しな行事となってしまっているのです。旧暦には、それでも天の川が見えるのは54%ほどと気象庁のデータがあります。ロマンティックな夢をぶち壊してしまうようで申し訳ありませんが、雨が多い日が七夕だなんて愈々味もそっけもない行事になってやしませんでしょうか。8月過ぎ、立秋前後に本来の七夕行事があります。今年は新暦で言えば8月6日に当たりますが、ちょうどこの時季には青森ネブタや弘前ネプタがあり、仙台の七夕も、秋田の竿灯もあると言った風で、「ねぶり流し」系統のお祭りが盛んに行われているのです。ですから七夕は一種の「ねぶり流し」の行事ではなかろうかと言う説があります。農家にとっては眠気は最も恐るべき悪神であり、風流(フリュウ=派手な作り物)ものに、眠気の悪神をくっつけて、五穀豊穣を祈るための一連のお祭りが「ねぶり流し」の行事なのですから。

  日本の節供は人日の1月7日、上巳の3月3日、端午の5月5日、七夕の7月7日、重陽の9月9日と五大節供でありますが、これとて中国伝来の行事でした。中国での七夕は七夕を特別な日とすることがいつから起こったか実ははっきりしておりません。でもこの日の行事について書かれた最も古い文献は後漢(25~220)時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されておりますが、七夕の風俗を記したものとしては東晋(314~420)時代に葛洪が記した『西京雑記』に、「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見とされております。織女と牽牛の伝説は『文選』の中における漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされております。でもまだ7月7日との関わりは明らかではありません。その後、南北朝(439~589)時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であるとはっきりと明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べ針仕事の上達を祈ったと書かれています。そして7月7日に行われた乞巧奠(キッコウデン)と、織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かってまいります。また六朝・梁大の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証出来る史料の一つとなっているのです。つまり織姫と牽牛は熱烈に愛し合って、天帝である父親の許しがあって結婚したのです。結婚後二人は激しく愛し合うばかりで仕事に一向に身が入らなくなったのを父親は見咎め、二人を引き離してしまうのですが、可愛そうなので、一年に一度だけ逢うことを許されたというわけです。織姫と牽牛は×一だったわけです。

 日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死に、アヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)で、又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」、更に、お盆の精霊棚とその幡(=機)から棚幡(或いは棚機)と一般的に流布され、日本では奈良時代に節気の行事として宮中で行われていたようです。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)=たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ =などと、七夕に纏わる歌が御座います。本来、宮中行事であったのですが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がったものでした。尚、日本において機織は、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではありません。

 佛教伝来の奈良時代から少々ややこしくなってきたのですが、本来の七夕行事は一般庶民の行事でした。七夕神を7月1日にお迎えをし、7日に、流し雛と同じように、短冊(=ひとがた~穢れをつける)を、神宿る神聖な笹の葉にくくりつけ、川、海などに流してしまうというものでした。これを「七夕送り」、或いは「七夕流し」と言われております。織姫と牽牛が出会えますようにと、ここから梶の葉伝説(=天の川を渡るための漕ぐ葉)などが生まれました。また短冊にはその昔は裁縫が上手になりますようにとか、(里芋の葉に貯まった水で墨をつけ、お習字の手習いが上手になるという伝説)などが生まれました。或いは流すという意味では、流しソウメンの伝承も生まれましたし、こうして穢れを祓い清めてから、愈々お盆の行事になったのです。

笹船作り 女性には神聖な能力がある

 

  一例をあげれば、伊勢湾に浮かぶ神島には依然として古色蒼然たる七夕のお祭りがあります。お盆の始まりは8月1日で、早朝4時半から南の山で、七夕の竹を三本取ってきて飾りつけします。短冊には「ぼんこいぼんこいせみがなく」と書かれます。この日から6日間、毎日夕方になりますと、笹に吊るしてある提灯に灯を入れます。昔はこの山は禁忌のお山でしたが、行けない時は墓場から取ってきたようです。娘が竹を取りに行くようになっていましたから、娘がいないお宅では近所の娘に頼んでいた模様です。そして神島の御寺である桂光院では「オニバタ」と呼ばれる幡をあげます。お盆の月に入ったよう!と言う知らせの幡です。オニバタのオニとは施餓鬼のオニのことで、供養するために立てられるものです。オニバタには「唵麼尼嚩日哩吽」の文字と、「唵麼尼駄哩吽泮呢」とが書かれた二つの白幡が立てられます。そして8月7日、午前5時頃、オショロさま迎えの笹船作りが始まります。笹船は竹の葉のついたままの葉を船に作り、ロウの葉(合歓の木)を差し込みます。竹三本とロウの葉は朝5時前に女性が山から刈り取ってきます。12杯の笹船(閏年には13杯作る)のついた竹と残りのロウの葉を藁に結びます。これと提灯をつけたままの七夕竹を一緒にし、築堤より女の人、或いは女の子が、「ご先祖さまみな仲良く乗っといで」と声を出しながら海へと流します。流れ行く七夕竹を見ながら合掌する方もおられます。ロウの葉を笹船につけるのは、櫓漕ぎ船の名残か、梶の葉伝説の一種でしょうか。

  笹船流しが終わると、一斉に墓掃除が始まります。雑草や塵などは全て海へ流し、浜から新しい砂を運び、墓一面に撒くのです。そしてシキビを供え、線香を点てます。それが終わると、家々では障子を貼り替え、ガラス拭きなどして家の中の大掃除をするのです。神さま佛さまの道具を洗い清め、寝床のシーツまでも新しく替えます。7日この日はオショロサマのことをするのだから、針仕事は一切致しません。迎え火、送り火に使うジン木(松脂の多い部分で、火が点きやすい)も小さく割って用意しておきます。

  初盆の家では21日の朝まで「御先祖の腰掛」と称する高灯篭を軒に立てます。これは女の人が山から刈ってきた茅を竹竿に逆T字型に縛りつけ、そこに軒灯篭をつけたものです。毎日、灯を入れる慣習です。

  8月10日、桂光院で村全体の佛の供養として隠居衆や梅香講の人々が参集しお経をあげます。終わると、和尚より茅に二色の短冊をつけたセガキバタを戴き、各家のお佛壇に飾ります。ハタには「南無十方佛」と書かれています。8月12日、海難事故で亡くなった霊魂を呼び出し、薬師堂でお施餓鬼をします。当然隠居なり(80歳過ぎたご老人方 島では最も権威ある御仁たち)の方々が参加し、お祈りをします。8月13日、愈々お佛壇飾りをして、迎え火の準備をします。8月14日と15日はお佛壇にご馳走を運び、ご先祖の供養をします。14日は更に「ハッポウデン」と呼ばれる無縁佛を祈る行事があります。それは神佛となったご先祖を供養する演芸会(青年団主催)の途中で行われます。8月15日は大施餓鬼や精霊送りなどがあり、8月16日には、浜施餓鬼や燈篭送りや三文講などが行われます。8月16日は、「餓鬼の棚焼き」が執行され、8月18・19日は「ウラサマ(海神祭り)」が行われます。そして8月20日は「ウラ盆」と呼ばれ、「百万遍」などが続きます。こうして長い長いお盆の行事が行われるというものです。詳細に述べたいのですが、割愛し、実際現代でも行われている行事であることにご注目戴きたいものです。

  七夕は古い民間信仰でありました。お盆の行事の一環だったのです。七夕さまを恋物語などしなくて申し訳ありませんが、七夕さまは懇ろな信仰の一つだったことを申し上げておきます。神島の「ナヌカビ」こそ、七夕さまの古い信仰のカタチが伝承されてあるのではないでしょうか。浮かれるのもいいのですが、実際天空では織姫と牽牛は旧暦で最接近するのであり、それと西洋のバレンタインデーを映し返ることは難しいのではないでしょうか。ご判断は皆さま方に委ねます。今日も長々とした文章にお付き合い願い、大変恐縮です。久し振りに民俗のことを書きましたから、やや興奮を抑えられません。

 

七夕流し お精霊さまのお迎え