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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 あなたと 葉櫻のなかを

2015年04月23日 | 

葉櫻 1   新宿御苑にて

 

 

        あなたと 葉櫻のなかを

 

 二週間も家を空けたのは久し振りのことであった。「さよなら」を言いたくなくて、櫻の花旅をしていたようなものだが、今年の花旅は今までとはやや違っていた。何故なのだろうか、櫻を観る視点が、以前とは隔世の感がある。以前は有名な銘木や、古来から長生きしてきた櫻に逢いに出ていったが、今回はただ縹渺として各地を歩き、出逢いの櫻を観て歩いたような気がする。衝撃的だった3;11の影響がないとは言えない。無論三春の瀧櫻や盛岡の石割櫻を観なかったわけではない。ただ大勢の人のなかで、花を観るのが愈々苦手になって、愛車のジープを繰ってそこらじゅうの寒村を駆け廻った。特に熱心だったのは、まだ残雪の残る山々に入り、山櫻を探し歩いた。江戸時代の大名行列に使われ、今は、ただの狭い道路になりさがっている道端の風情はまた格別で、会津西街道沿いや、朝日連峰の麓の旧道は惚れ惚れして観て廻った。美しく真新しい緑になりつつある山々の中に、ポツポツ点々として、ひっそりと咲き誇る山櫻が、私が最も愛する櫻である。遠巻きにして見惚れる山櫻の美しさは、ほぼ筆舌に尽くし難い。普段は観ることが出来ない櫻の存在が嬉しいからだ。駒止湿原入り口に咲く山櫻、山形花回廊の櫻たち、種蒔櫻の種々、畑のド真ん中に密やかに咲くお達磨櫻など、時間をかけ、堪能させて戴いた。我が櫻への哀惜は相当なもので、よくよく業の深さを知った次第。臨済宗の禅寺・東福寺には修行の邪魔となると理由で、櫻は禁じられたが、どうやら私の修行には、その業の深さが・・・・。

 そして被災地へ。もう何度足を運んだことだろう。染井吉野は殆ど壊滅し、江戸彼岸や山櫻は倒れることなく、多くの瓦礫を、その根元で押しとどめていた。それから、江戸彼岸や山櫻をさくらプロジェクトのメンバーとせっせと植樹してきたのだ。あれから満四年が過ぎても、やっぱり写真でご紹介出来るまでに育っていなかった、だが然し櫻の苗たちは、強かに根付いてすくすく成長しているのがよく分かり嬉しかった。残念無念なこともある。企業宣伝によるさくらプロジェクトや種苗業者が入って、染井吉野が一本三千円だと言うから呆れかえる。違和感を覚える。どの被災地に植樹するのも無償であるべきで、その魂胆からして甚だ情けない。憮然として、そうした現場を、さっさと立ち去る。民族主義でもなく右翼でもなく商売でもなく左翼でもなく、純然たる「和」の心を信じ持てないものだろうか。私は現地の心ある方々と地道に活動して行くだけである。名は捨てろ、ただ無心に丈夫な木を遺せと声を大にして言いたいところである。

  世阿弥の『風姿花傳』に、「初心忘るべからず」という有名な言葉がある。初心とは、モノ事を成すに当たって、夢とか希望とか、抽象的で曖昧な妄想をさすものではなく、具体的な覚悟をキッチリとさしている言葉である。それは、稽古を決して忘れまいとする初めの第一歩、そのことだからである。また世阿弥は「稽古は強かれ」とも、「物数(ものかず)を尽くせ」とも断じていて、こうした世阿弥の峻厳さは、寧ろ爽快な心地さえする。去年アナ雪ブームが吹き荒れ、多くの方が「ありのまま」でいいんだと極端に安堵したように思えるが、果たしてそれでいいのだろうか。「ありのままの自分」に自信が持てる方はどれほどいらっしゃるのだろう。私には不思議に思えてならない。白洲正子もありのままででは、素の人間も見栄えがしないばかりか、素そのものを磨かなければ、何一つ成しえないと断言さえしている。稽古を尽くして、更に尽くして、ようやく自分が何たるかに出逢えそうなものなのであろう。他人のことはよく分かっても、自身のこととなると、サラサラ知らないのが普通である。だからこそ自分磨きとはどうやってするのか、そして自身とは何なのかを、修行し尽くしてこそ知るべきではなかろうか。どうも、あんなにも流行った「ありのままで」とは、どうだろう、先ず信用出来かねるのである。

 

花びらを幾枚か取って帰り 夕餉に ロゼワインを寒天で固め その中に 一ひらを入れよう

 

 今年も大阪造幣局において、櫻の通り抜けがあり。15日に終了した。「今年の花」は花芯に、葉っぱのような緑色の雌蕊を着ける美しい八重櫻の「一葉」であった。咲き初めに、櫻色のピンクが強いが、散り行く頃になると、白っぽく変化して果てるから、より美しい花である。ここ造幣局には、凡そ132種350本の櫻花が競って艶やかに咲き揃い、560㍍の櫻道は人いきれで呼吸困難、立ち止まらないようにとガードマンの声が激しく、うっかり写真など撮っていられない春の天満橋の混雑した風物詩である。明治以来、約130年以上前から一般庶民に解放され、大阪の方々には毎年楽しみにしていらっしゃる筈。長州五傑の一人、遠藤謹助が局長だった明治16年(1883)に、局内の人間だけ観てはいけないと指示し一般公開された。大阪大空襲で、半分以上消失した後に、櫻守の笹部新太郎翁などの協力により復活したが、櫻の枯死などがあって、幾多の櫻が補植されてきた。今年、新たに植えられた櫻は長野県須坂にて、平成18年(2008)、笠原基知治によって発見された新しい品種で、園里黄櫻(現地名;園里黄龍)が見事に咲いたと聞いている。この品種は緑色した御衣黄と八重櫻の普賢象タイプの雑品種と考えられるが、詳細はまるで分かっていない。鬱金や御衣黄のように、散り際にピンク色になってから果てる美しい櫻である。

 

 

  「様々なことを思い出す櫻かな」ではないが、櫻をあれこれ考えているうちに、家内と二人、新宿御苑に花見に来ていた。安倍総理主催の観櫻会があったのだろうが、今日は閑散として、最も数多くの櫻がある裏門付近はほぼ葉櫻で、優しい風が吹いていた。湖水の畔に、イギリスから逆輸入された「太白」もあるはずだが、見当たらない。妻と二人で、随分久し振りに手を繋いで歩いた。愛着と惜別の、深いこの春の櫻。

 

新宿御苑 裏門 千駄ヶ谷入り口付近の葉櫻


      散華 ざぁ~んげざんげろっこんしょうじょう

2015年04月05日 | 

 

散華 1

 

 

散華

 ざぁ~んげざんげろっこんしょうじょう

 

 あっと言う間に、櫻の花が散り始めた東京の曇天。まだまだ葉櫻にはなっていないが、これが正しく花の命であろうか。散り櫻も美しく、好きである。皆さまには皆さまだけの櫻がきっと何処かにあるはずで、それらの花々とともに齢を重ねて行くのでしょうか。逝く日から数えて、あと何度櫻を観られるのかと思うのでしょうか。日本人の情念に深く根ざしている花の中、櫻の花こそトップの座にあり続けることでしょう。

散華 2

 今般、天皇皇后両陛下はパラオ諸島に旅立たれる。太平洋戦争の激戦地の一つ、ペリリュー島にも慰霊碑(沖縄は無論、硫黄島・マーシャル諸島・サイパンなどにも慰霊碑が建てられている)が立っている。両陛下は、痛恨の極みである先の戦争の記憶を決して風化させまいとの強いお気持ちがおありになるのだろう。何とこんな小さな島で、一万人もの日本人兵士が玉砕した。生存者はたった約450人で、そのうち34名は終戦を知らずに、二年もの間、洞窟などに隠れ住み戦い続けた。四万人を投入した米軍も約170人の犠牲者を出した。島には両軍とも未だに遺骨が多く残ったままである。この島の守備隊長の中川州男(くにお)大佐は、「サクラ、サクラ」と打電した後、哀れ自決している。哀しい記憶の残る島で、ゼロ戦や戦車や大砲など多数存在し、今は青々とした森林が繁るが、実際は往時のままの状態であるらしい。

散華 3  我が邸内には一面櫻尽くしで そこはかと風情が溢れている

 天皇陛下は、1981年、記憶しなければならない日として、沖縄戦終結の日・広島、長崎の原爆投下の日・終戦記念日の四つを挙げておられたが、戦後50年を迎え、95年には長崎・広島・沖縄・東京都墨田区にある東京都慰霊堂を訪ねられ、更に海外にも思いを寄せられた。当初パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦三カ国へのご訪問を希望されたが、当時諸般の事情により困難と反対されたものの、お諦めになられず、05年にはサイパンに訪れておいでである。バンザイクリフで、皇后さまとお二人で、深く頭を垂れられ、<あまたなる命の失せし崖の下 海深くして 青く澄みたり>と御製を残されたのだった。昭和天皇から続く思いが如何に深いものかと、私たちも感動したものである。

散華 4  足許の櫻の花びらは思いを遺して 間もなく消えゆく運命にある

 良寛和上の歌に有名な<櫻散る 残る櫻も 散る櫻>というのがある。和上も驚くであろう、櫻花を潔く死ねと、軍部は比喩して酷い教えであった。明治憲法下の統帥権の越権による軍部独走を許したのは、他でもなく私たち国民全員である。戦後間もなく太宰治が出版した「人間失格」(1948年6月)の主人公・葉ちゃんの死(=太宰の自死)は罪と罰への告発ではなかっただろうか。戦中一貫して「細雪」だけを執筆し続けた谷崎潤一郎は戦後の浮かれた日本人に対し痛切に皮肉っている。白洲次郎は、「私は戦後というものはちょっとやそっとでは消失するものだとは思わない。我々は現在声高に唱えている新憲法も、デモクラシーも、我々の本当の自分になっているとは思わない。それが本当に心の底から、自分のものになった時において、初めて戦後は終わったと自己満足してよかろう」と証言している。新たな憲法論議も起こる中、美しく散る櫻を通して、深く考えてみるべきだろう。

 (懺悔懺悔六根清浄とは、お岩木山参詣の囃子声であり、地元では懺悔を「サイギ」と呼び、六根清浄=六根懺悔を「ドッコイサイギ」と掛け声を掛けながら、お山参詣する。安寿と厨子王の伝説が残る、美しいお山信仰の不可思議さと、お囃子に使用される長笛(ネプタより長い篠笛)の物哀しい音色とを、今年も散る櫻花に見る思いがするのである。

 


      櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

2015年03月31日 | 

千鳥ヶ淵の染井吉野 全国一早く満開になり

 

 

櫻満開 バカ騒ぎ 儚いのは人のほう!

 

 今週木曜日(3月29日)に 全国に先駆けて 東京の櫻が満開となりました 都内有数の櫻の名所である上野恩賜公園 目黒川沿い 飛鳥山 浜離宮恩賜公園 六義園 小石川植物園 墨堤公園  アークヒルズ 芝公園 靖国神社 新宿公園 櫻坂 明治神宮公園などなど上野の混雑はピークを迎え 報道ではゴミが散乱しているとか 見るも無残で哀れ 私の家の櫻たちも満開で 昨日午前中だけは 我が家だけで 花見の宴まるで おママゴトのように てんこ盛りの酒のアテやら 子供たちへのスイーツやら 久し振りに家族の団欒 

千鳥ヶ淵の櫻 昔フェアモントホテルがあった頃 二階の部屋を貸切にし 櫻の宴を開いていた 

 人はよく櫻の花は儚いというが バカ騒ぎをして よっぽど人間のほうが儚いのを知っている様子 櫻は満開を過ぎると 丁度一ヶ月経ったオオシマザクラの葉の収穫(櫻餅用) 八重櫻の関山は紅が濃いから 花を収穫して 櫻花の塩漬けにし 櫻茶に 黄色い鬱金(うこん)や 緑色の御衣黄(ぎょいこう)は 花の終わりにピンク色に染まるから面白い 花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに ( 小野小町=9番 『古今集』春・113) 如何にも儚い花の象徴のような歌だが 色は確かに移る だが真夏の暑い日には来期の花芽をつけるのだ そうして 人より遥かに長生きするのが本来である クローン櫻の染井吉野は確かに短い樹齢なれど 江戸彼岸や山櫻は何百年も 或いは何千年以上も長生きして 私たちの儚さに勇気を与えてくれる

東大付属小石川植物園の櫻

小石川植物園の天城吉野など

穏やかな中のお食事 酒は飲めない マナーは最高の観櫻ポイント

六義園の枝垂れ櫻 


 弘前城址公園にある管理事務所には 樹木医の小林勝さんがいて 市の公務員として 年がら年中 櫻守をされておられる 弘前には林檎農家が多数あり 幾多の困難な剪定技術を生かされ その特技は 確かに多くの公園緑地課に 多大な影響を与えておられるが 染井吉野の延命は 果たしてどうだろうか 寿命が60~70年とされる染井吉野は 弘前では間違いなく日本一古い染井吉野が存在し その心を後に樹木医となった橋場真紀子さんに継承されているが 

弘前城址公園の櫻守・小林勝さん もう直ぐ出逢えることだろう  

 染井吉野は いち早く根付き 華やかに咲く櫻なので 持て囃される花だが 寿命は短いはず 小林勝さんは 染井吉野の樹命に 果敢に挑戦している最中であるが 江戸後期に生まれた 箱入り娘のような クローン種(実生では誕生しない)の櫻は 今後にどう生かせるか予測困難かも 日本の櫻の80%は染井吉野種だけに 甚だ注目されるが 小林氏の挑戦に期待したい 尚 勝さんのお兄さんである小林憲士(のりお)氏の跡継ぎとして活躍する勝さんだが 「弘前方式」と言われる櫻木の芯止めの技術や夏の土入れ替えや冬場の伐採などで 特に有名だ 木に巣食う菌類の繁殖を許さず 弱った枝木は遠慮なく伐採し 日本一の櫻公園を維持したままである 日本一一所懸命だから 日本一の櫻の名所でいられると 謙虚にして 熱心な御仁たち

高尾 さくらの保存樹林 約一ヶ月間楽しめる 櫻の全品種350種類がある  

 東京の櫻は殆どが戦後植栽された染井吉野なので まるで団塊の世代のように 後10~20年もすれば 殆ど倒木するか 枯れ死するだろう 皮肉ではなく 櫻の病気としては 花が咲かなくなるテング巣病や 幹や木が枯れるコブ病や 根元に生えるベッコウダケや木の中に生えるアナタケの菌類付着によって樹木が腐る恐ろしい病気 小林氏のように キメ細かな手入れが必要とされるのだが もっと恐ろしいことがある 櫻の廻りに集う際に 昔のように 茣蓙だったらイザ知らず マナー違反の近年青いビニールシートの持ち込みだ 更に櫻の根元を踏み固めてしまって 根の息つぎを無視し 水分が沁み込まなくなってくることである それには 周囲を緑地帯にして ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)などで 囲い込み 幹元に人が入れなくすること 更に密集して植栽すれば 日陰になって 枝が重なり 日陰部分が枯れてしまうはずである 従って 歩道の狭い空気腔しかない場所では ほぼ不向きな街路樹であろう

新宿御苑内の櫻たち 

 昨年 同じ薔薇科の梅が プラムポックス病に罹って 青梅市のすべての梅が伐採された 青梅市内全域では 2600本 青梅・吉野梅郷だけでも 120種 1732本が観梅祭りが終了と同時に伐採がなされた 「青梅市の梅の木 完全伐採へ」という我が記事がある 櫻とて無縁ではありえない

私が大好きな小山・修道院に咲く思い川櫻  

 小金井公園では 櫻の木の周囲を囲んで 人の入場を拒む取組が始まっている 小供たちへの教育も始まった 櫻の授業や 秋には落ち葉を集めて 堆肥や霜よけにしたにしたり 小さなうちから 丁寧で懇切な教育と意識づけが 先ず重要であろう 無論 マナー違反の花見客の無礼千万な行為の花見は 断じて許せないものである 

我が家の庭に咲く櫻たち

その昔 馬屋だった屋根から見える櫻 お分かりでしょうか 

 


      櫻の花に恋して

2015年03月24日 | 

川崎鈴彦 作画 「花」 山中に爛漫と咲き誇る櫻の絵

 

 

櫻の花に恋して

 

 

予想より早く開花したようである

昨日午前11時に 気象庁の職員が靖国神社の標準木に 六輪の櫻の開花をみつめたようだ

また今年も 櫻の花爛漫たる時季になってきた

 

皆さんはどちらにお出掛けですか

方々に様々な種類の櫻が咲き 日本中に 人々の微笑が溢れることでしょう

雪が多かった今年の京都の櫻や 古都・奈良の風情ある櫻も魅力的だが

私は被災地に行って 津波到達地点に植えた山櫻のラインを見て歩こうかと思っている

各地の櫻プロジェクトによって植えられた山櫻の成長を見て歩くのが一番楽しい

 

我が家の庭に咲く山櫻も 漸くほころびかけてきたようだ

 

騒々しい世の中だが 花の咲く時季ぐらい季節の風に吹かれていたいものである

谷戸の櫻とは 清少納言の「枕草子」に出てくるから 櫻が邸内に植えられたのは

そんなに古いものとは思えない 御簾のかかる廊下に 櫻のひと枝があるのが いとおかしとある

全国の櫻の公園はすべて危機的状況で あと何年持つのだろうか

染井吉野だけ珍重して植えた結果である 明治ご維新の富国強兵策により

江戸彼岸や山櫻が殆どであったのが 櫻は堅い木がゆえに

櫻の名所の木は 鉄砲の台座として すべて伐採された経緯がある

キナ臭い昨今だからこそ あの時世の哀しみを忘れてはならない

 

生まれてからこの方 櫻の花に恋して 今年も漂うことにしよう

あの世と この世の境に遊びつつ

 

 

我が家の床の間には 既に江戸彼岸の花が満開である

 


      櫻開花予想 「気温600度の法則」

2015年03月18日 | 

智積院 本堂内 櫻の襖絵

 

 

櫻開化予想 「気温600度の法則」

 

 

愈々 暖かくなり 今日は春のお彼岸の入りで お墓詣りはされましたか

お彼岸と言えば 染井吉野よりひと足早く咲く彼岸櫻は もうすぐそこ

(通常江戸彼岸の花は染井吉野より 一週間早く咲く

尚 枝垂れ櫻はすべて江戸彼岸種で 染井吉野では枝垂れない)

 

染井吉野の開花までも あと少しですね

染井吉野の開化予想には 結構信憑性のある法則があります

無論これは染井吉野のことだけですが 2月1日から 一日の最高気温を

合計して 累計が600度に達したら 櫻が開花するというものです

実はこの法則は誰が発見したか 分かっておりませんが

北陸や北海道などの寒冷地にも当て嵌まりますから おかしいですね

また結構当たる法則’前後三日の違いなし)なのですから 一応ご紹介しておきましょう

昨日今日と東京は 夏日かなと思われる 20度近くまで気温が上昇し 愈々かな

都内では 現在の気温の合計が 503度らしいので もうすぐでしょう

来週は 再び冬の低気温になるらしく 従って予想は 3月25日頃でしょうか

 

皆さまにおかれましても 各地方で それぞれ計算してみてください

尚 春の金麦プレゼントもご紹介しておきましょう

 

東京の櫻の名所の一つ 中目黒にある「郷さくら美術館 東京」では

3月7日~5月10日まで 毎年新作の日本画による櫻の絵展が開かれます

競馬じゃないんだけど 櫻花賞というのだそうで 同館では新作をすべて買い上げと言い

結構な力作があります 更に都内の各美術館では 櫻図がかけられることでしょう

 

この時季 大倉集古館では 横山大観の夜櫻が展示され

また市川市にある東山魁夷紀念館では 円山公園の枝垂れ櫻を描いた

名作「花あかり」が展示されるのではと思っています

中島千波さんは櫻の絵をよく描かれますが 実在感に薄く 小生はそう感心はしません

奥村土牛(醍醐)や後藤純男(櫻花塔映)や高山辰雄(みず辺)など 数多くの画家に描かれていて

洋画家でも多くの方々が挑戦され 中でも三岸節子さん最晩年の作品に 櫻の絵があります

多くの櫻の絵や陶芸や扇面や絵巻物もまた たくさん観てまいりましたが

平安時代からそれぞれの時代を代表するもので 櫻とその時代の感性を感じさせてくれるものです

 

でもやっぱり櫻図の最高傑作は 智積院・国宝館収蔵の

長谷川久藏の「櫻図」だと信じています その圧倒する生命力の障壁画は他に類例がありません

あの絵には二本の櫻と 瑞々しい若柳が垂れていて 美しい色彩の上 見事な表現力です

逆縁となり夭折した久藏に 等伯はよほど落胆したのかが よく理解出来る絵です

 

皆さまは どなたの櫻図がお好きでしょうか 人ごみの中の櫻見物だけではなく

静かに先人の遺した櫻への思いに 深く耽ってみるのもいいでしょうね

 

 

上野恩賜公園内にある伏見宮彰仁親王像

(鳥羽伏見の戦いや 会津戦争・越後口での総大将になられた方)

 

パンダ舎出口での我が家の次女茉莉 やっと歩きはじめました

 


北の空に 春が来た

2014年04月16日 | 

 

北リアス線の田野畑駅 到着

 

 

北の空に 春が来た

 

 

櫻の時季に 東京の家に籠っていると 悶々として 眠れぬ日々が続く

阿賀の夫婦櫻は咲いたか 初恋櫻は咲いたか 瀧櫻は大丈夫かと 浮かんでは消え 限りない

娘の入学式が終え しばらく大人しくしていたが 三鉄が全線開通したことを聞き

遂に居ても立ってもいられず 秘書二人を連れ 9日岩手へ 新幹線で八戸から久慈駅に

そこで待ちに待った三鉄北リアス線に乗車する 車内は溢れるほどの観光客やら何やら

 

私たちは島越駅で 下車し 仮説住宅へ

 

四年目の春に遭遇し 春まだき潮風の香立つ海辺へ だが工事中で行けなかった

駅舎も まだ工事中 六月には地域コミュニケーション駅として あのカルボナード駅が再現される

建物自体が 賢治の童話「グスコーブドリの伝記」の舞台の一つ、カルボナード火山島に由来して可愛い

 

知り合いたちを尋ねると この三鉄が再開したことを 格別に喜んでいた

 

私には苦い思い出がある 阪神・淡路大震災の折 西明石から加古川へ向け 延々と続く仮説住宅

そこに住んでいた知り合い三人を亡くしている 満三年以上経つと 精神に本当の異常が来るらしい

何と三人とも 死に方は別だが 自死したのである 私はどれほど無力感を 又無念に陥ったことだろう

 

あはれ三年の年月が 精神に根付いたあの震災の衝撃を増幅させるということを 私は知らなかった

 

島越だって 殆どの方々は高台移転をし 駅周辺には 人家が少なくなることは分かっている

美しい浜辺で 往時は海水浴客で 溢れていた そこに防潮堤の工事をしているが

果たして 往時の島越が復活するだろうか それでも住民の方々に 春がやって来ているようだ

北山崎めぐりの観光船も 復活するらしく 駅舎完成の後は テンデンに集まって賑わうことだろう

そう満三年が被災者の精神状態に三鉄の復活が どれほど大きな貢献をするだろう そう信じたい

 

田老から お仲間が自家用車で 迎えに来てくれた そして宮古へ 櫻が少しほころびかけていた

ただあの惨状の爪痕は そうそう消えるものではない 荒涼たる空地を観に来た者すべて部外者だろう

愛車を有料にしてくれたお仲間に 感謝しつつ 盛岡まで送って戴いて 帰路につく

たった一日の岩手行き 三鉄再開にどれほどの方々が歓びに満ちていたことだろう

 

北と南をつなぐJR山田線は サンセクにするか どうするか 未だに結論がついていない

南リアス線の盛駅から 代替えのバスが運行しているものの 気仙沼までは 未だ繋がっていない

 然し地元の方々に どれほどの希望を与えているだろうか

心なしか 皆さんのお顔が随分明るくなったようで 嬉しい一日となった次第である

 

南リアス線の恋し浜駅舎 (元は小石という名であった)

 

奇跡の列車が車庫にあった 櫻咲く

 

どうぞ皆さまも一度は 三鉄に 観光ででも お出掛け下さりませ 

沿線は美しい海で いっぱいです 人情も大変濃いものがあります 

 

 


     櫻と、父性

2014年04月06日 | 

次女と まだズリバイ状態 離乳食を始めたばかり

 

 

櫻と、父性

 

 

 天は よくよくこの世を見給おうていらっしゃるようである 

我が足が 急に腫れてきて 高知から空路突然帰京し 病院に行った 

医者がいうには 一日5キロ限度の歩行を守らなかったねと それを意識してタクシーなどに乗り 

まだリハビリ中の身体の体調を考慮し 歩かないつもりであったが 無意識のうちに 

それを守れなかったようである それは私ではなく 櫻が悪いのである

 

時に 長女が自宅近く 徒歩で行ける小学校に入学する

小学校と言っても 幼稚舎と言い 小中高大と一貫校である 先輩には尊敬する千住兄弟がいる

もっと近くの日赤病院傍には 創立者聖マグダレナ・ソフィア・バラの女子大もあり 

同じく初等科もあるが 妻はそこを選ばなかった

東洋英和(プロテスタント系)といい 聖心(カトリック系)といい ミッション・スクールに 

何の違和感もない私なのだが 妻の意見はもっと広義であってほしいとか

 

入学のお祝いは 極めて地味で 鯛の御頭付きと赤飯であったが

晴れやかな娘の顔を見ながら 何故かほっとした

真新しい制服を着て 勢い家を出る 家人総出で 見送ったが 娘は自然

頼もしい思いがしたものだが ベビーシッターの方だけ泣いていた

 

 

築180年の長屋門と櫻

 

 

京都の妻のご実家から 義父母がお祝いに駆け付けた 幸い私は間に合った次第

それも 皇居乾門から 初の通り抜けを許されたのを観たかったからだとも言う

たった650㍍の宮内庁脇から伸びる櫻の馬場であるが 

約86本のも 瀟洒な山櫻などで 結構な見栄えするものだったらしい

今上天皇陛下 ご傘寿のお祝いに因んで 一般開放したようであるが 厳父も昨日一緒に出掛けた

大変な人出で 水飲み場があったり トイレがあったり またそのトイレから間近に観れる櫻が凄いとか

人を観に行ったか 観櫻だったか分からない模様 でも父も義父母たちも 大いに楽しんで来てよかった

 

我が家の枝垂れは 未だ15年しか経っていないが 年々華やかさを増している

 

庭園の奥にある竹林に咲く藪椿 満開

 

やっと根付いた白菫(マルハスミレ

 

 

父親とは お腹を痛めていない分 親として母親より少し子供に対して愛情がないとか

言われる方も多いだろうけれど 私としては そうは思っていない

愛情の持ち方の差異があるのではないかと 密かに考えている 問題は俯瞰する心だ

 

塾生の中に 今年三人ほど 静岡縣立天龍林業高校を卒業した子供たちがいる

残念ながら 今年から 日本で唯一「林業」の名のついた校名がなくなる 

二俣高校と春野高校と合併するからだが 林業を教えることには変わりがないようである

 

全国に 地区長の指導する塾生がいるが 皆それぞれに活躍している 

「ユトリ世代」だとか 「サトリ世代」だとか言われて久しいが 彼らはまだまだ余裕があるだけだ

私には こうした多くの子供たちもいて 我が家の三人の子供たちと 何も隔てていない

 

山櫻の植樹は 我が畢生の願望だ 

大和心の育成と 山櫻の植栽は同義の心であり 我が子にも当て嵌まる

各地の櫻プロジェクトに寄贈した櫻たちも 我が子供たちの範疇である

単に櫻だけを扱うのではなく 林業全体の中の櫻でいたいと願ってやまない

父性とは そうした勝手気儘な俯瞰の構図を持っていると信じているが どうだろうか

 

 

我が家の樹齢200年の柘榴 昨年はたった5個しか実をつけなかった

 


満開の櫻の海を ただよいつつ

2014年04月01日 | 

 

眉山にて 吉野川を望む(水彩スケッチ)

 

 

満開の櫻の海を ただよいつつ

 

 

苗場の安行から 我が愛車ジープに乗って ひとっ走り

西の吉野に 東の櫻川と 世に謳われた特別記念物「櫻川のサクラ」を起点に

今年もまた 櫻行脚の旅の最中 

 

本拠地岐阜山中近くの下呂の苗代櫻を一目観て 京都に入りぬ 

城南宮・おかめ櫻の満開が最初 御所にて 改めて山櫻の気品に打たるる

近衛邸跡の枝垂れ櫻の美しさ しばし茫然とせり 上賀茂神社の御所櫻も 健在なり

 

夕べ 新田次郎・藤原正彦親子共著の<孤愁~サウダーデ>を小脇に抱え 徳島のモラエス墓地へ

市内行脚しているうちに 夜半は紺屋町 料亭「青柳」は残念ながら倒産していたが

もともと この傍には花街が現役としてあり 小洒落た和食店に落ち着くと

青柳さんは 鳴門で復活しているとの店主のお話に花が咲く よかったなぁ 小山さん

 

少々お酒の度が過ぎ 定宿のホテルクレメント徳島に行ったのは何時だったろうか

 

下呂の苗代櫻

 

左近の櫻は 山櫻なり

左近の櫻のアップ

 

御所 近衛邸跡の枝垂れ櫻

 

記念碑近く 「櫻図譜」に記載された特別記念物のサクラの看板

 

櫻川のサクラのチップの上で 記念撮影

櫻川の櫻山

 

明日は 高知県吾川の「ひょうたん櫻」を観に行く予定

江戸彼岸の丸い顎と 花の蕾のうちの丸みとが ちょうどひょうたんに似ているから そう命名された

また ひょうたん櫻があるは 「桜」という村名にしたみたいである

 

ところで 我が長女・杏が小学校への入学式を控えている

帰って来ようかと 妻に言ったら それは私がしますから ご存分に櫻(はな)を楽しんでと

いつも この時季になると 家にいない習慣が徹底されているようである

芭蕉の旅行は必ず帰れる場所があったから 「旅」であった

山頭火の旅は旅ではない 山頭火のは 一所不住の当てなき 「彷徨」である

櫻を観に出掛ける時 私はいつも その彷徨でありたいと願っているが 所詮無理な話であろう

 

清冽な川が多い土佐に向かう車中にて これを書きアップす

高知県立牧野植物園から 吾川の桜地区へ行くところ 途中櫻饅頭の接待をされるだろうか

 

 


宵戎に初夢 花笑みの櫻旅

2014年01月10日 | 

大津西街道の櫻 湖水より観て

 

 

     宵戎に初夢 花笑みの櫻旅

 

 篠山城址の櫻を見ていたら、花散らしの花の乱。翌日朝には快晴になっていた。満開の櫻には強い雨は打撃を与える。地面には花びらがびっしりと散っていた。でも湖北の春は遅いだろう。まだまだ観るべき櫻の場所がありそうであり、湖北が七分咲きなら丁度よかろうと思っていたら、何と海津大崎はその七分咲きとの情報を得る。ならば出かけない手はない。先ず琵琶湖畔の三井寺(総本山園城寺)へ。道々瀬田川沿いの櫻が花吹雪。残されし花も白く変色して哀れである。三井寺の春も幾らか遅いが、それでもまだ充分で、広い境内にたくさんの櫻が舞う。小鳥が飛び交い、鳴き声がにぎやかで、ひらひらと舞い落ちる花吹雪に、石段や小さな池に落ちる花びらの風情は格別だ。 

  ついでにすぐ近くの琵琶湖疎水まで徒歩でトボトボと歩く。ここの染井吉野は格別に見事である。それから少し後戻りして、近江大橋へ向かう。近江大橋を渡り、湖岸道路へ。この道は大好きな道で、今まで民俗の研究で何度も来ている。いつ走ってもそれぞれ季節や天候でそれぞれに興趣があり、飽きることがない。夏は沸き立つ白い雲、ギラギラと照りつける太陽に湖面が生き生きと輝き、水生植物公園みずの森にはあでやかな睡蓮の大群が咲き、秋にはコスモスが可憐に咲いて、比叡山に沈む夕日がたまらなく美しい。冬はユリカモメなどの渡り鳥が湖面いっぱいに。鴨はここの産に限ると「菊乃井」のご主人村田吉弘さんが言っていたような気がする。真冬には雪も舞い、寒さもきびしく春を待つ気持ちをより一層強く感じさせてくれる。

 

琵琶湖疏水入り口の櫻たち 染井吉野や山櫻たちが美しい

 

 湖国にもその春がようやく訪れていた。特にこれ以上ない陽気。水の色はより青く、比叡から比良まで山もくっきり見えて、湖岸では雪柳・水仙・山吹などの花も咲き競い、春爛漫の季節となっている。既に京都では春が終わりを告げ、遅咲きの櫻の季節になっていた。琵琶湖大橋を渡り、北を目指す。やがて山の中腹がピンクの固まり。それもハンパな広さではない。到着したびわ湖バレーの広い駐車場は、山の斜面に設けられており高低差が酷い。だがそのまわりを櫻の木が埋め尽くしている。満開の櫻の花越しに大きな琵琶湖を望み、対岸には近江富士が見える。白髭神社を過ぎ国道から離れ、湖岸道路を道の駅しんあさひ風車村へと向かう。すると間もなく櫻並木が現れた。残念ながらまだ5分咲きくらいか。近年徐々に増やされているらしく、まだ若い木も多い。中には咲き始めの木もあり、あと一週間くらい先には満開になりそうである。だがこの櫻並木の長さには驚かされる。7~8Kmはありそうで、その中間にある道の駅には菜の花畑が広がり、素敵な雰囲気が醸し出されている。白木蓮の花があたり一面に香り、早くもチューリップの花も咲いている。

  今津町から酒波寺へ。山裾の静かで小さなお寺には満開の大きな櫻の老木が一本。エドヒガンザクラである。ひと足先に満開となる。花びらが小さく繊細だが、古風な派手さで、すこぶる気に入って素晴らしかった。この櫻の典雅さはどう表現したらいいのだろうか。訪れる人もあまりないようで、何か得をした気分になる。JRマキノ駅を右に見て、しばらく走った国道から少し入ったお墓に、一本の満開の櫻の老木。清水の櫻と書いて『しょうずの櫻』と読むそうで、こちらはアズマヒガンザクラである。ここは良く知られているらしく結構な人が多い。いかにも老木らしく威厳を感じさせている。丁度会津坂下町の杉の糸櫻に似たり。 

 

 清水(しょうづ)のアズマヒガン 周囲は戦没者墓地 樹齢300年 高島市マキノ町海津に咲く

 

 さていよいよ海津大崎へ。だが国道から曲がった途端、車が動かない。かなりの車の量と前後に観光バス。この道も何度も走っている。この先には卍型の交差点とその上狭い道。 そこへこの車の量と何台も続いた大型バスでは渋滞も止むを得ないはず。それならばと踵を返し国道303号線へ、奥琵琶トンネルを過ぎてからの逆の道で海津大崎を目指すことにした。思った通りこちらは順調に湖岸に出れる。出た!あっと驚くような見事な櫻並木が続いている。櫻の時期に来たことはあるが、その時少々早かったらしく少しばかり物足りなく感じたものだったが、今回は見事に満開。やはり湖北の春は遅かった。そして五分咲きと満開ではかくも違って見えるものなのかと驚嘆する。更に湖水の青さにも驚かされる。それまでこんなに青い琵琶湖を見たことがなかったような気がする。

  途中、観光バスとすれ違う度に少しばかり車が混みあい、やがて狭いトンネルでかなり渋滞。ついに動かなくなった。しかしここでは満開の櫻と美しい琵琶湖、そして竹生島をバックに軽快なヨットが浮かぶ風景。前に来たときは車も少なく、観光バスも見られなかった。今日は駐車場に車を止めて少し散歩する予定であったのだが、これでは何か勿体無い。やがて満車の駐車場は次第に少なくなり、皆、海津大崎を去って行った。駐車場にクルマを置いたまま、再び花見を。奥琵琶湖パークウェイから、つづら尾崎展望台の先まで大方15Kmに、櫻の木が植えられており、それが今見事に満開の時期を迎えているだろう。今回は観ないことにし、マキノで翌日のモーター・ボートをチャーターしに行く。車中泊。そして翌朝早く湖面へ。湖水から観た海津大崎の櫻の幻想的な美しさったらなかった。染井吉野でこんなに興奮したことがなかったように思う。思い出の海津大崎である。

 

 海津大崎の櫻並木 殆ど染井吉野 満開の時は道路事情に要注意

 

 その日船を下りてから、一目散に京北町へ。常照皇寺の九重櫻へひた走る。山里の風が心地いい。何だかひんやりする御寺に入ると、何とまぁ九重櫻も満開であった。左近の櫻もまた満開。この満開は海津大崎とほぼ同じ頃なのだろうか。それまでは仁和寺の御室櫻の満開だけを頼りにしていたが。でもよかったぁ。花のつき具合・上品な色香・枝ぶり・樹勢、どれをとっても超一級であり申し分がない素晴らしい櫻のはずだが、背景の杉林の影響か、本当は痛々しい櫻である。御車返しの櫻はもう駄目で、その幼木が少しずつ成長しているように見える。それでも九重櫻の樹に抱きついたり、樹に耳をあて水の気配を聞いたり、いっぱいに広がる樹の下の苔にへたりこんだり寝たり、その日昼食を取ることも忘れて、日がな九重櫻と過ごした。閉門時間がどんなに辛かったことだろう。さらば九重櫻、長生きしろよ!

 そして憧れの栗尾峠へ、櫻旅も終わろうとして。そうそう、もう一踏ん張りして黒田百年櫻も観ようとしたのだったが、無念、夢からサッと醒めてしまった。大寒に向かって、一番寒い宵戎さんの明け方、そんな初夢を見たのだ。また今年も櫻に逢える。そう思うだけで、私は幸せになるのである。

 

 常照皇寺の九重櫻(エドヒガンザクラ) 樹齢600年か アップ

 

老齢な九重櫻と 左近の櫻と

 

常照皇寺門前の紅枝垂れ櫻 まだ若い櫻

 

憧れ 栗尾峠 俯瞰図

 


      かくも長き不在に

2013年10月11日 | 

あなたと お茶して

 

 

             かくも長き不在に

 

 長き不在は、七月にアラスカ行きから始まり、そして漸く苗が育ちはじめたウェリントンへの旅。ただ旅の期間中、無念かなチョッとした病を得て入院。七月二十二日、ウェリントンで二度にわたる手術後の入院中、ひどい地震に遭遇。震度6,7度、幸い然程の被害が出なかったものの、点滴を何本もぶら提げての移動で、改めて我が東日本大震災を思い起こす。同行した秘書に聞いたら、塾生は相変わらず被災地へ行き、東松島市ではニコルさんが、そして宮脇昭先生は岩沼市を中心にやっておられる「森のプロジェクト」をお手伝いしている様子で、至極安堵した次第。金剛寺住職の日置道隆師も寺内にて二万本のタブの樹を温室にて育てておられ、「いのちを守る森の防潮堤」創りに精を出しておられる由、同士の方々の奮闘に心強く思った所存。尚三年前から取り組んでいるウェリントンの苗場では、江戸彼岸と山櫻の苗が約三千本ほど育ち始めてた。背丈はまだ30㎝ほどだが、短期であっても、塾生がホームステイなどでお世話になっている方々へお贈りするもので、苗場も牧草地にビニール製の温室小屋を建て、そこで栽培している。代わる代わる我が塾生が行き、育て、見果てぬ夢を紡いでいるものだ。まぁ何でも手間暇掛ければ、それなりに育つものであろう。

 さて世界は益々混迷の度合を深め、強国アメリカではネジレ議会で10月から執行の予算が通らず、国立関係職員はすべて自宅待機とか。17日に迫った米国国債の上限法案も怪しく、オバマ大統領の求心力が失われつつあり、アジア太平洋経済協力(APEK)がバリ島で開かれているが、オバマ大統領不在で大いに混乱しているようだ。その隙を狙って中国の習近平が主役を務めているとか、この無能な国家主席に一体何が出来るだろうか。精々自国の海洋権益を正当化するための活動だけだろうか。ロシアとの合議によって、シリア・アサド政権が保有する化学兵器絶滅に、国連がやっと動き出したようだが、アサドはすべて申告するだろうか。自国民をあれほど殺戮しておきながら、未だに延命しようとしている厚面皮。アメリカのNavy SEALsが、先日ケニアでテロの惨劇があった主犯格の拠点を急襲し、イスラーム過激派を打破したとか。どこまで攻撃出来たか定かではない。イラン・イスラム共和国の新大統領のハサン・ローハニー師が国連で演説。核問題で譲歩するかのようだが、その上に最高指導者であるアリー・ハーメニイー師が君臨している以上、あの過激なマフムード・アフマディーネジャード前大統領とは全く違う政策が可能なのだろうか、極めて疑わしい。イスラームには大きく分けて、シーア派とスンニ派が存在しているが、シーア派は理想主義的で妥協に全くの余地がない。一方スンニ派は比較的穏健で、教義にも柔軟で、西洋文明をとうに受け入れている。15億人とも言われるイスラーム教80%がスンニ派で、シーア派は極少数意見だ。教義には厳格で、その代表国家がイランであり、過激派に資金提供をし、武器供与も当然ながらしている。イスラエルを打倒すべく存在するヒズボッラーやハマースはイランという国家とは切り離せない。当然シリアにも武器だけではなく、多くの軍人も出しているようだ。ベンヤミン・ネタニヤフ首相が羊頭狗肉とバッサリと切捨てて批判した、しっかりした根拠があるからだ。前大統領は影響力を残すべく、要所要所に自らの子飼いの人間を配置し、濃縮ウランの製造は国家の権利として決して手放さないと主張しているからであるが、一方やんわりと米国と雪解けムードも出てきたようである。シリアのアサド氏夫人は中東の薔薇とも言われ、中東のダイアナとも称され、スンニ派出身の同夫人には多大な期待が寄せられた時期があったが、アサド父子出身母体である最小数派のアラウィー派に鞍替えしたのだろうか。アラブの春は一体何だったのだろうか。中国から飛来するPM2,5は恐ろしい。中国の闇銀行である巨大なシャドー・バンクのバブル崩壊も現実味が大いにある。毛沢東への回帰を語り、多くの庶民の支持を得た元重慶市トップの薄熙来氏は無期懲役刑になったらしいが、本人は飽く迄徹底的に階級闘争する構えらしい。今年反日デモは起きなかったようだ。それは中国政府によるコントロールによって如何様にもなるという証拠であり、私たちはまだまだ全く安心出来ない。中国が歴史問題を言うんなら、数千万名もの知識人が虐殺された文化大革命や天安門事件も明らかにすべきだろう。韓国に対するヘイトスピーチは日に日に大きくなって行き、街宣車に対する厳しい判決が出た。如何にも成熟した日本の社会のことで歓迎したいが、韓国におけるヘイトスピーチを拾ってみると、呆れてモノが言えない。ここでは省くことにするが、朴槿恵大統領の無能ぶりには呆れかえる。習近平と会談した時に、我が国の総理大臣であった伊藤博文を、ハルピン駅で暗殺した犯人である安重根の銅像を作って欲しい要請をした。これにはさすがの習さんもテロリストの銅像はどうかと思ったせいか、「検討する」と答え、後日ハルピン駅近くの公園に、その史実が書かれた小さなプレートを置くようにしたとかしないとか。漸くやっと朴槿恵さんの無能ぶりが全世界に認知され始めたようである。アベノミクスによりウオンが極端に下落したため、よっぽど堪えているのだろう。従軍慰安婦問題で、韓国国内でも新しい論文が出始め、国をあげて侃々諤々のようで、曰く日本政府の問題ではないと。中国も韓国も、今はまともに相手にすべきではない。国家の品格に、違いがあり過ぎるからである。

 世界は騒然として、どこにでもきな臭い匂いがありそうで、この美しく青い地球はわなわなと怯えているかのようである。時代がどんなに進んでも、人間の智慧に所詮限界があるのだろうか。アラスカでも確認したが、氷河は極端に少なくなり、地球温暖化問題は正直に確実であって、全世界で発生している異常気象になるのは当然と言えば言えなくもない。何て浅はかな存在だろう。

 

ゼンマイのお煮しめ

 

 八月の大半は西オーストラリアの友人宅があるパースに、身を寄せて過ごした。途中子供たちと、妻が見舞いに来てくれて、全員でゆっくり過ごせた。ちょっと見ないうちに、子供たちは随分大きくなったものであり、それぞれ一人でに大きくなるのかも知れない。そんな旅路でも、妻は古書や幾つかの本を持ち込み、出来るだけ独りになりたいようである。妊娠しているお腹は明らかに目立ってきたようで、安定期に入っているのだろう。そんな折に長く留守をした不徳を詫びた。ただ夜だけは親子四人で、澄んだ海風が吹きぬける海辺の家にいて、何もないが、どことなく豊かに過ごせたかと思う。

 

野菜サラダ すべて叔母の手作り野菜

 

 妻と子供たちの都合により、旧盆過ぎてから帰国したが、日本の暑さは半端ではなく、従兄弟の所有する軽井沢の山荘に逃げ、しばらくは養生をした。少しはひんやりとした林を歩き廻って、精根こめて体力の回復に努めた。堀辰雄が愛した矢野綾子をモデルにして「風立ちぬ」(作品では節子)を描き、綾子亡き後、綾子の遺言によって、堀は多恵子を妻に娶った。底抜けに明るかった多恵子は、「風立ちぬ」の最後を暗示させ完成した。また「燈火節」の片山廣子をモデルにした「聖家族」・「菜穂子」も書かれた軽井沢。あの道この小道へと、どなたかと歩いた記憶を尋ね歩きながら、私は、不思議に晩年の「花あしび」を思った。それは堀辰雄の友人知人たちが堀より先に逝ったことへのレクレイエムとしてだろうか。緩やかな木陰に、僅かに流れる風を受け、多くの文人たちと、軽井沢で交流を持った堀辰雄に、微かな嫉妬さえ覚えて楽しかった。

 

おにぎり これさえあれば大丈夫

 

 ウェリントンでの手術を受ける際、ご老体をおして父がやって来て、手術に立ち会ってくれた。心強かった。少なからず逆縁にはなるまいと麻酔を掛けられ、意識が少しずつ遠のく時間の流れに、どうにかヒシと感じた通り、その十二時間後に、無事生還し、どんなに嬉しかったことだろう。涙があふれた。私の精神が萎えると思ったのか、妻や子は敢えて連れて来なかった父に、実はどんなに感謝したことだろう。父と二人で、剱岳山頂に行く約束を未だに果たしていない悔しさ。無口な父でも恐らくはきちっとやってくれたのだろう。助かった。更に父の薦めと、かの病院の優秀な医師団の勧告もあって、築地の国立癌研究センター中央病院に行ったのは九月も終わりの頃。八種類の癌検査すべてを終え、陰性であったことが分かった。取り敢えずほっとしたところ。但し二か月に一度の検査の必要があるとか。それでも、それは生還した瞬間であったように思え、心震える感動をおぼえた。

 

自宅 渡り廊下

 

 私たちのグループは櫻をキーワードにして活動を続けている。樹木とは最低でも50年という年月を経なければ結果は出ない。伊勢の神宮に使用される檜においては最低200年。遷宮行事の最初を飾る山口祭で、斧で伐り倒される檜は、300~500年は掛かろう。然も一回の式年遷宮で一万本のご用材が必要である。元は神宮の森が御杣山であったが、現在は木曾山中が御杣山になっている。式年遷宮は実は息の長い植林があってこそ成立するようなものであり、植樹・植林の結果は永く引き継ぎして行くから成り立つもので、それには人を常に育てることに徹して戴きたいものである。宮崎県綾町のように、日本一の照葉樹の森も凄いもので、震災で必要な樹木はタブなどのように、根っこが深く真っ直ぐ地中に根付くものでなければならない。日本では好んで海辺や水辺に松が植えられてきたが、それほどの土がなくとも根付くのが松である。あの松島の各島に生息する松はこの類であるだろう。だが今回の大震災で証明された通り、松は津波対策には酷く脆弱で、櫻では染井吉野が圧倒的に弱かったのである。櫻に対する拘りは、日本人としての矜持の花ばかりではなく、我が震災大国への警告になれればいいのである。

 私は今日の朝、妻を伴い、先祖の霊魂が眠る菩提寺と青山墓地へ参拝した。手術の無事を報告し、心から感謝を申し述べるためである。特に母の御霊へは。そして東日本大震災から2年7ヶ月の月命日でもある。多くの被災地では鎮魂の祈りが捧げられていることだろう。生存された方々へのエールも同時に、心から祈らせて戴いた。

 ところでこの度10月2日に、伊勢の神宮での遷御の儀では「カケコー」とのご発声でつつがなく内宮で遷御が行われ、5日「カケロー」のご発声で外宮の遷御の儀が滞りなく終わったようである。平成二十五年の第六十二回式年遷宮の諸祭日程は、平成十七年:三つ紐伐りによる山口祭、木本祭、御杣始祭、御樋代木奉曳式、御船代祭。平成十八年:木造始祭、第一回御木曳行事 陸曳(外宮)、川曳(内宮)。平成十九年:第二回御木曳行事。平成二十年:鎮地祭。平成二十一年:宇治橋渡始式。平成二十四年:立柱祭、上棟祭。平成二十五年:お白石持行事、杵築祭、後鎮祭、川原大祓、後遷、奉幣、御神楽と、長い長い行事で終了したようであるが、常に清らかで新たなる心御柱(しんのみはしら)に神宿ると信じられてきた伝統である。「伊勢神宮」というのはない。「伊勢神宮」であり、それは内宮・外宮だけではなく、伊勢市の三分の二に存在する広大な神域に、点在する125柱の総称のことである。天武天皇の御世から1300年の伝統を持ち、唯一神明造りである社殿のみならず、御神宝700種1600点ものご宝物も、伝統工芸の作家たちによって真新しくされる一大イベントである。「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠った西行ではないが、一般庶民のどなたさまも、この新しくなった千木や鰹木10本や高床式御神殿に、きっと御感動されたことでしょう。私も近々にご拝礼したいものである。私たちの櫻の事業もかくのごとき永い継続を望んでやまないのだが・・・・・・。