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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     宮沢賢治、「行って」なすこと

2014年02月12日 | エッセイ

賢治の死後、「雨にも負けず」の詩編が発見された賢治の手帳

 

 

 

       宮沢賢治、「行って」なすこと

 

 

 昨日で、あの大震災から二年十一ケ月になり、愈々来月は満三年になろうとしています。私はあの震災で、大きな教訓を戴きました。阪神・淡路大震災の時は、まさにボランティア元年というべきで、実際に現地に行っても何をしたらいいか、本当に分からず、ただオロオロするか、勝手連的に、後片付けをするか、気負いばかりが先に立って情けない思いをしたものです。でも今回はボランティアが或る程度機能し、少数の役所関係者等に尋ねると、今ここでは何をすべきか指示を戴き、よく理解出来ましたし、ただの気合いだけでは済みませんでした。過酷な労働でしたが、その点大変よかったと思っております。ただ今の現実は、高台移転と言ってもままならず、遅々として進んでいないのが現実ではないでしょうか。仕方なく、各地に出来た櫻プロジェクトのお手伝いと、毎月11日に、義援金として、如何ばかりかの資金を欠かさずに日本赤十字社へ送らせて戴いております。昨日で34回目となりましょうか。

 お話は変わりますが、今回の東京都知事選挙で得た教訓は、私たちに或る決断をさせました。森の長城プロジェクトは多大な影響と将来のために、絶対に必要なことですが、私たちの団体は、このプロジェクトから離脱を決断致しました。何だか分かりませんが、名を連ねる方々は皆高名な方ばかりで、よってたかってその業績に預かろうとしているかのようで、気持ちが悪いのです。純粋に震災直後から活動されていた宮脇横浜国大名誉教授のもとに参加した頃はいいのですが、最近は特にキナ臭くて、まさにやる気が起きなくなってきました。やはり政治信条がある団体なのかと、極めて無念に思いながら、この判断をさせて戴きました。私たちは広大な山野に、全員で戻ることでしょう。但し苗木は今までと同様にお届け致しますが、同一にする活動は一切停止することに致しました。

 「脱原発」は誰だって同じ意見だろうと思います。でも、こういう科学的実証的に議論しなければいけない問題に、議論を中途半端にして、国民運動をするなどということは、甚だ疑問に思います。福島第一原発を廃炉にするにも、原発を動かさなければ出来ないことすら理解していないことに、酷く腹立たしいのです。更に既にある放射性廃棄物だって、日本には17,000トンもあるのですから。プルトニウムも何もかも一緒くだにするフィンランド型の最終処分場でいいのかさえ、まだまだ議論があることであり、そこで即廃炉っていう結論になるものでしょうか。どこかの左翼のように、聊か能天気過ぎませんか。民主党政権下でくだした大飯原発の再稼働で、私は断固反対致しましたが、それとこれは全く違うのです。あの時は野田政権下、京都府綾部市の生まれで、主に滋賀県で育った細野豪志は、内閣府特命担当大臣(原子力防災)になった時に、あの大飯原発の再稼働を決めたのです。不可思議でした。私はその時、原発自体より、緊急避難する時や、大飯原発に事故が発災した際に、救急車や巨大な放水車など、速やかに現地に行けるのだろうかと単純に思ったのが、当時の反対意見の結論でした。綾部出身なら、大飯原発に行ける国道や県道は片側一車線で、トンネルも多いことは当然ご存知のはずですが、その危惧は、どうしてしないんだろうかと、強く危惧したためでした。でも今回の選挙で、絶叫する脱原発は、全然別個な問題です。そう一筋縄ではいかないからこそ、ここに書かせて戴いておりますが、フィンランドのオンカロをただ絶賛するボケ老人には理解出来ないのでしょう。オンカロは、アメリカ合衆国のネバダ州核廃棄施設ヤッカマウンテン方式と同じですが、果たしてそれでいいのだろうかという重大な懸念があるからです。環境派の作家であるスチュアート・ブランド氏が大絶賛したとか、半ば本気で伺っていましたが、これが問題なのです。重大な課題はプルトニウムの扱い方なのです。それで爆弾を作るか、優良な金属として科学的に処理する方法を見つけ出すか、被爆国日本の使命は、もっと研究し尽くして、常に平和利用の研究の場を作っておくべきだろうと、私は信じているからです。

 先日、Eテレで放映された「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」は衝撃的でした。水爆実験の犠牲になったのは第五福竜丸事件でしたが、その後研究者たちは海中の放射能について永年に渡って研究していたのです。その結果、アメリカ政府と日本政府が談合し、日本政府はその資料すべてを隠していたという疑惑も浮上してまいりました。そういう問題は決して秘匿すべきではないのです。海水の表面には殆ど出ないのが、海中深くには、反応が凄い放射能の部分を検出していたのですから。私の友人で、帰村困難エリアで、スーパーを営んでいた社長が、帰村し、そのまま自死しました。避難場所を転々とした80歳の老女が「私の避難場所はここです」と、祖先が眠る場所で自死した悲劇も、私には決して忘れることは出来ません。確かに放射能の現場では人が亡くなっておりませんが、福島の特異な状況下で、それは言えないのではないでしょうか。他にも大勢の方々が亡くなっているはずです。正しく、福島原発事故は人災そのものであり、今後の検証と実証の鏡になって欲しい念願が強く残っています。

 最近、佐村河内守氏が、実際作曲していなかったとか、耳が聞こえていたとか、喧しいが、彼が震災者に向けて作曲したとされる楽曲があるだけでも、気色悪くなります。岡田英悟という詐欺師が、NPO法人大雪りばぁねっと。として、主に山田町で活動していました。でも資金がなくなると、一方的に現地の方137人を解雇し、本人はいい加減な経理をやっていたなんて、最低も最低。万死に値するものであります。大体本人の顔を見れば分かりそうなものでしょう。人の弱みに付け込むなんて、従前の日本人にいたのでしょうか。情けない限りです。

 岩手県の被災者にとって、最も偉大で、元気を貰える人は宮沢賢治をおいて他にいないでしょう。私は何人からも、そう伺っております。だって賢治の「雨にも負けず」の詩には、必ず東西南北に「行って~~~」とあるではありませんか。行かずに出来ようはずがありません。東西南北に「行って」、被災者に沿うことぐらい出来るのではと思わずにはいられません。賢治のように、誠実に、実直に。

 

  雨ニモマケズ

   

   雨ニモマケズ

   風ニモマケズ

   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

   丈夫ナカラダヲモチ

   慾ハナク

   決シテ瞋ラズ

   イツモシヅカニワラッテヰル

   一日ニ玄米四合ト

   味噌ト少シノ野菜ヲタベ

   アラユルコトヲ

   ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ヨクミキキシワカリ

   ソシテワスレズ

   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

   東ニ病気ノコドモアレバ

   行ッテ看病シテヤリ

   西ニツカレタ母アレバ

   行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

   南ニ死ニサウナ人アレバ

   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

   北ニケンクヮヤソショウガアレバ

   ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ

   サムサノナツハオロオロアルキ

   ミンナニデクノボートヨバレ

   ホメラレモセズ

   クニモサレズ

   サウイフモノニ

   ワタシハナリタイ

         宮沢賢治 詩

 

三陸鉄道北リアス線田野畑村にある島越駅付近 津波にも流されなかった賢治の詩碑

 


     凋(しぼ)れる花の色なうて匂ひけり

2013年12月24日 | エッセイ

昨日より新年五日まで 皇居ライトアップ

 

 

凋(しぼ)れる花の色なうて匂ひけり

 

 

 天皇陛下80歳のお誕生日をお歓び申し上げます。

陛下のお言葉の中に、悲痛な戦争の記憶に触れられておりました。

今上天皇は昭和天皇からの深いお言葉を常とされておられたのでしょう。

には孤独になりがちなお立場を、美智子皇后と出逢い、誠心誠意支えてくれたと感謝を仰いました。

「象徴」とは何かを今もお考えのようです。

天武天皇以来、政治や軍事は一切太政官に任せてこられたのが常であったのを、

突如、ウラ若き明治天皇が軍服をお召しになられました。

明治・大正・昭和の三代の天皇はまことに不幸の極みであったのでしょう。

皆さま、宮内庁の公式行事を、是非一度ご覧になってください。この激務を哀しく思います。

如何に天皇・皇后両陛下は、日々のご公務に、お忙しいことが一目瞭然です。

事実上の元首と言っても過言ではないかもと存じあげます。

 

先日行われた春日若宮の御祭りにおける巫女舞

 

地下鉄で移動している時に、偶々聞いた女子高生のお話。

「ハロウィンが終わって、クリスマスね。あとはバレンタインディとイースター、楽しもうね」

どこの国家の人かと思わずお顔を見てしまいました。そこにいたのは日本の純真無垢な女子たちだが。

昔日、「祭日」であったのが、いつしか「祝祭日」になり、今や「祝日」に。

徹底して、和的な習俗が排除され、日本はどこへ行こうというのだろうか。

 

韓国の歴史認識はファンタジー、中国の歴史認識はプロパガンダ、日本の歴史認識はヒストリー。

今、東アジアが抱える問題は世界に飛び火し、北朝鮮での粛清は特に驚きをもってみられている。

チベット民族が信仰の御山として大切にしてきた神山を、鉱山発掘の理由で爆破を決行した中国政府。

焼身自殺するチベット仏教徒が後を絶たず、あはれ。何とかならぬものか。

 

小山・修道院に咲く思い川櫻 近くを流れる思い川はエメラルドグリーン その対比に思いを致して

 

先日、櫻塾の塾生が全員、当家に集合した。私からそれぞれに小さなクリスマス・プレゼント。

全員に、私が演ずる「井筒」の序の舞を(約15分間の演技 やっと舞えた)、どうにか見せる。

「凋れる花の色なうて匂い」は、その井筒の中のシテの一節、複式夢幻能なり。

観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年の、大切な節目の今年。

濃厚な世阿弥論を書きたかったが、今年残すところ少なし。能なしの私。

 

そこで、現在八人いる私の秘書は、すべてが各部門の長になっており、

その中の一人が財団の代表。私は二番手がよく似合うと昔から思っている。

私は、いつも二番手だけを目指し、人を育てることに夢中、大いなる歓びを見出す。そして金庫番。

すべての塾生が大きく羽ばたいて欲しいと念願し、心からその成長を見守っている。

どうやら来年も、みんなと一緒に、櫻の花が観れそうであり、嬉しく思う。

来春は、笹部新太郎翁の夢の跡、武田尾に是非行こうと。

 

メリー・クリスマス!

 

 

(笹部新太郎翁の関連で、荘川櫻の記事を是非ご覧戴きたく)

 


    今日は、赤ちゃん!

2013年11月28日 | エッセイ

産まれたてホヤホヤの時の、次女・茉莉

 

 

 

今日は、赤ちゃん!

 

 

今月15日に、やや早産であった次女が産まれました。

少々様子を看るとかで、妻と次女が病院から当家にやって来たのは25日。

昨夜、ようやくやっと、「茉莉」と命名致しました。

 

毎日赤ちゃんを見ているのですが、日々刻々と変化して凄いです。

産まれてホヤホヤの時の赤ちゃんはトンガリ帽子をかぶった女の子のようでしたが、

見る見るうちに、ちゃんとした頭の形状になり、たった二週間で下記のようになりました。

そこで早速大変なことに、手ぐすねひいていた長女と長男にいじられっ放し。ヒヤヒヤものです。

じぃじも、家人もみんなが大歓迎で、京都からもじぃじやばぁばがやって来ました。

 

皆から大歓迎を受けて、茉莉も嬉しそう。長女も長男も母親似ですが、

茉莉はどうやら私似のようで、でもこの先もっと変化して行くことでしょう。

次女の名前は茉莉、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

たった二週間で、こんなに変わりました!

 


     今年のプロ野球・雑感

2013年11月22日 | エッセイ

東京ヤクルト 宮本慎也選手 引退試合における胴上げ

 

 

       今年のプロ野球・雑感

 

 

 〇 巨人軍のⅤ9を達成した川上哲治(享年93歳)氏は、先月28日に亡くなられました。今後この連続日本一の記録は永遠に塗り替えられることはないでしょう。勝負師は非情で、テツのカーテンを敷いた人でもありました。名選手にして名監督でしたが、私は彼の現役時代を知りません。でも伝え聞く彼の野球哲学は凄いと思っていますし、投球されたスピードボールが止まって見えたなんて、あるんでしょうか。如何にも伝説の方らしいエピソードです。ともかく川上さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

 〇 今年の巨人軍は、日本シリーズを戦う前から幾らかの慢心があったとしか思えません。或いは自意識過剰か。貧弱な先発陣に、春先から不安を感じていました。いずれにせよ、原監督は二軍や育成枠にも常に目配せが出来る人ですから、若手投手陣の奮起に期待しましょう。ちょっと話題が変わりますが、読売新聞社主筆のナベツネは大嫌いです。何さまのつもりなんでしょう。私は親子三代続けて巨人ファンですが、それだけは全く理解出来ませんし納得しておりません。いい加減、巨人軍と縁を切って欲しい一念です。タノムから!

 〇 遅まきながら、東北楽天ゴールデンイーグルスの日本一、おめでとう御座います。実に素晴らしいチームでした。MVPは確か美馬投手だったと思うのですが、それは全くの間違いだと思っています。多くの試合に出場し、時折適時打点をあげ、大活躍をした嶋基宏捕手の存在が最も輝いていました。則本投手は、平常フォークボールなど、たった0,1%しか投げていなかったのに、日本シリーズでは実に40%ものフォークボールをリードし投げさせました。果敢にも内角深く突きました。内外角の左右のコースは、巨人打線がついてくると読んだ彼は、高低差のコースへ遠慮ない投球をさせました。案の定巨人打線はクルクル空振りするばかりで、他の投手の投球も全く打てませんでした。今年、全試合勝ち投手となった田中マ~君だって、歴史に残る偉業を達成しましたが、これも深く嶋捕手の手腕があったように思われます。ただ影に徹していただけです。それこそ本当の最高殊勲選手ではないでしょうか。更に酷く余震が残る中、チーム一丸となって被災者を励まし続けました。ですから今度の優勝は、東北のファンの皆さまへ、神様がプレゼントしてくれたのでしょう。被災地の方々と共に歓びたいと存じあげます。ところが11;24の優勝パレードで、4000万円の費用不足の事態だとか、仙台ではファン達が、この寒空の中を一口3000円(楽天のピンバッチ贈呈)の募金活動を行っています。あの小雪舞い散る仙台の街中でですよ。楽天の三木谷浩史社長は何をやっているのでしょうか、理解不能です。祝勝記念販売では元の定価を信じられない値段に引き上げておいて、何が激安セールでしょうか!発覚すると、彼はすべて業者の責任に押し付け、呆れ果てます。たかがネット通販の会社じゃありませんか。チームに大きな汚点を残したのは、球団オーナーだったというから驚きですネ。彼には経営者としての本来の哲学的な資質がありません。今年、第二次安倍内閣で、内閣日本経済再生本部産業競争力会議メンバーになりましたが、すべての薬品が、直ちにネット通販出来ないことが分かり、議員を辞めるとか、また辞めないとか、勝手にすればと思います。裁判するとかしないとか、あの幼稚で姑息な参議院議員の山本太郎シェンシェイとそっくりなようです。そういった会議は自身だけの利益のためにあるのではありません。かつてオリックスの宮内社長の例もあったではありませんか。おまけに、雑誌フォーヴス誌で世界富豪ランキングの上位に入ったなんて、どこか可笑しくウスラ淋しいことです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。今更拝金主義なんて時代遅れです。ですから色んなことを、選手やファンに謝るべきだし、優勝パレードの不足費用ぐらい、ポケットマネーから、ポンと出したら如何でしょう。嘆かわしいですヨ。

 〇 マ~君、沢村賞を始め、全部で七冠に輝いたピッチングはお見事でした。地肩が強い上、体力もあり、スプリットフィンガーボールはダルビッシュ投手以上で、本当に素晴らしい投球を魅せてくれました。まだまだ進化してくれるでしょう。一年間、本当にお疲れ様でした。但し一点だけ、もし大リーグに移籍なさるとしたら、一々派手なガッツポーズすることは止めるべきです。それは打者をリスペクトしていないと、打者のみならず、多くのファンからもそう思われるからです。ベースボール(MLB)と野球(NPB)には、はっきりした野球文化の違いがあります。体力的に到底敵わないような大男ぞろいの打者は怖いです。万一デッドボールを投げた場合、本気モードで殴られる筈で、大リーグの往年の名投手は決してそうはしませんでした。また本場大リーグのファンは鳴り物入りで応援することは全くありません。静かに椅子に座って、ゲームの行方を真剣に見極め楽しんでいるのです。ファインプレーや適時打など、素晴らしいプレーに対して、時折スタンディングオーベーションで盛り上がりますが、驚くほど冷静に観戦しているのですから、その点だけはご注意くださいネ。

 〇 阪神タイガースに、掛布雅之氏が打者コーチ(Development Coordinator)として、25年ぶりに参加しています。安芸の球場は大変な活気があるようで、何とも結構なことです。掛布氏は習志野高校出の大選手で、四代目ミスタータイガースと絶賛され賞賛されました。然したった14年間のプレーで引退する以前に、心ない阪神ファンから、罵詈馬頭を浴びせられ、家族まで危険のどん底に突き落とされました。晩年の掛布氏は極端な不調だった時、思い切り誹謗中傷されたのです。一般の熱心なファンが、どうしてそこまでするんだろうと酷く疑念に思いました。もう二度と、そんなことはして欲しくないです。長嶋監督時代、巨人が甲子園球場でリーグ優勝を決めた時も、球場のフィールドで胴上げすら出来ませんでした。ファンの余りの貧相ぶりに呆れ返ります。秩序ある阪神ファンであって欲しいと念願してやみません。阪神のファンである以前に、プロ野球全体の発展を共に願おうではありませんか。それと、どうしてこうも、若手が育たないのだろうか、どうなってるんだろうかと言いたくなります。レギュラーメンバーに、他球団から比べたら圧倒的に生え抜き選手が少ないのが不思議で堪りませんし不満なのです。誰彼なく、大物を連れてくればいいのかと思うと、哀しくなります。いつか巨人が歩いた追憶の日々のようです。だってどんなに立派な選手を大金をはたいて連れてきたって、そのままではチームとして成立しないからです。川藤幸三氏が第七代目のOB会の会長に就任されても、野球解説はお粗末で聞いていられません。何が春団治でしょう。彼の現役の生涯成績はご存じでしょうか。関西風ノリツッコミな阿呆解説で、笑わせないで下さい。それとホームランを打った後の決めポーズをグラッテイと呼ぶのだそうだけど、大リーグから帰って来た西岡選手が始めたことで、今年阪神の唯一の変化ではないでしょうか。あれもこれもこれではこの先、阪神タイガースに栄光は永遠に訪れないのではないかと心配しています。巨人ファンとしても、堂々たる阪神タイガースの復活を切に期待します。そうそうもう一つの変化、藤波晋太郎投手を褒めておかなければなりません。恵まれた身体能力を生かした剛速球は見事でした。でもまだ粗削りです。あのインステップしてくる投球フォームでは将来的に肩を壊すのではないかと危惧しています。和田監督は巨人相手になると、巨人に強い同じ投手ばっかり使ってきます。これって本来は極めて邪道なんです。ローテーションをきっちり守れないからで、必ず他の投手に負担を掛けるだけです。どうか阪神のコーチの方々や熱狂的なファンにお願いです。この才能溢れる藤波投手を、万が一にも潰さないでください。お願いです。

 〇 広島カープの奮戦は大拍手ものでした。雌伏16年、やっとAクラス入りして、クライマックスシリーズに出てきたのには感動しました。練習量が圧倒的に違うのでしょうし、選手一人一人の意識が高いものでした。来年はアマNo.1の大瀬良投手も入る予定です。千葉県出身の丸選手も素晴らしい成長をしました。しぶとい打者が多いし、好打者揃いです。マエケンも素晴らしいです。後は押さえの投手を育てるだけでしょう。またあの球場は垂涎モノです。ネソベリアなど、一度は絶対に行きたい球場です。そして前田智徳選手は素晴らしい選手でした。彼が代打に出た時は怖かったです。無論阪神タイガースの、代打の神様と絶賛された桧山進次郎外野手も今年で引退しましたが、引退試合後、花束贈呈もなく、胴上げもされず、たった一人で外野席のファンの前に行き、ファンの声援に挨拶をしていたのが印象的でした。阪神一筋だったのに。掛布の引退試合と同様にホームランを打ったのにですよ。一方の広島カープ・前田智徳選手の場合は、チーム全員から胴上げされ、ファンの声援に応えて場内一周し、家族全員揃って球場に登場し、幸せな広島一筋の野球人生を終えることが出来ました。阪神のチームは何て残酷で非情なのでしょう。哀しいです。引退と言えば東京ヤクルトスワローズの宮本慎也三塁手は最終試合が負け試合になったものの、チーム全員と巨人軍選手も球場に出て、一緒に胴上げしました。何という素晴らしい光景だったのでしょう。

 〇 東京ヤクルトスワローズの今年の成績は全員が納得行かないものになったことでしょう。とにかく故障者が多過ぎました。ノーラン・ライアンばりの投球をする小川投手には、完全脱帽です。あの投球術はタイミングが取りずらく、今後も大活躍してくれるに違いありません。バレンティン外野手の、ホームラン日本新記録達成も立派なものでした。カリブのキュラソー島に里帰りをした彼は空港から自宅まで延々50キロに渡り、オープンカーパレードをしたニュースは、実に微笑ましいものでした。オランダ領キュラソー島の英雄ですね。昨年より格段に、彼の打撃が上手になっていて驚きました。若手も徐々に成長しているし、来年こそ素晴らしい成績を残してくれるでしょう。キュラソー島と日本の関係で思い出すのは、第二次世界大戦当時リトアニア日本領事館勤務の杉原千畝が、数千名のユダヤ人に発行したビザは、すべてキュラソー島への渡航ビザであったのです。無論オランダ本国はナチスドイツに占領されていましたが、ユダヤ人に比較的偏見がなかったキュラソー島への渡航、途中香港やアメリカに寄港することも充分承知の上で納得しながら、杉原はウソも方便のキュラソー・ビザを発行し続けたのです。楽天の不動の四番打者、アンドリュー・ジョーンズ選手も、この小さな島の出身者です。だから何となく親しみを感じているわけです。

 〇 横浜DeNAベイスターズは、いい投手さえいれば、こんな成績で終わるチームではないはずです。投手では生え抜きの三浦投手を初めとする若手投手陣、野手では荒波外野手や梶谷隆幸内野手、筒香嘉智内野手や石川雄洋内野手など、外野手では松本啓二朗外野手や井出正太郎外野手など、素晴らしい才能に溢れたいい選手がいるではありませんか。曾てスーパーカー・トリオなどがいて、大変な歴史のあるチームです。但し他球団にいい選手を放出ばっかりして、どうなっちゃっているんだろうと心から心配しています。特に今年、楽天で大活躍をした藤田一也選手のトレードはどうだったのでしょう。目のあるコーチ陣がいなかったのでしょうか。残念でなりません。筒香選手を、秋のキャンプから外したり、とても心配です。中畑監督ばかりが目立っていては駄目です。選手が目立たなくてはなりません。広島カープと同様に女性の来場者が増えたことが、ただ一つの朗報です。是非鍛えなおして戴いて、来年こそは巨人軍の横浜銀行などと陰口をたたかれないように、またこんな発言に是非激怒されるように、巨人ファンからも強く望みます。

 〇 中日ドラゴンズに再びやってきた落合氏が断行したコストカット(年俸減額)で、選手の顔色は真っ青です。8億円節約したとかの自慢話に、私たちプロ野球ファンはちっとも歓びません。球団首脳はそりゃ喜ぶのでしょうが、真っ暗な顔をした中日選手たちを明るいチームカラーにしてくれるのでしょうか。谷繁選手兼監督もどうでしょう。多くの投手を潰した経歴のある谷繁氏では、本当に選手のモチベーションが上がるのでしょうか。短いプロ野球選手生命に、オレ流査定を当てはめても、選手は決して明るくならず、またまた暗い雰囲気のドラゴンズが残るだけでしょう。高橋周平選手などを大きく育てて欲しいです。でないとご老体優遇チームのままになります。いずれにせよ、オレさまの院政になるでしょうネ。お好きになさって下さい。井端選手は、さっさと辞めてしまって大正解でした。高額な報酬は、ファンの夢でもあるのですから。さぁさぁ!オレ流と谷繁さまのお手並みをじっくり拝見致しましょう。どうか選手の皆さんも、ファンの方々も、決して腐らないで観てあげてくださりませ。少なくともあの暗いチームカラーは落合博満氏の性格のお陰でしょうから。無念かな中日ドラゴンズ!

 ※ 尚小生はパ・リーグについては詳しくありませんので、ここらで終わりますが、日ハムの大谷選手の二刀流はどうなるんでしょう。密かに期待はしているのですが、現実からするとどうなんでしょう。分かりません。ソフトバンクもライオンズもマリーンズもファイターズもオリックスもこんなはずではなく、来期こそ捲土重来を期して頑張って戴きたいものです。最後に、プロ野球一ファンとして一層のご繁栄を願っています。もう一つ、加藤良三コミッショナーが今期限りで辞めて戴いて大変結構なことでした。統一球問題で、あの無責任ぶりには呆れてモノが言えませんでした。大リーグとのコネや交渉も全くなく、甚だ迷惑千万の限りでした。お疲れ様で~~すぅ。バイバイ!

 


    会津慕情と、現代史教育

2013年10月26日 | エッセイ

会津彼岸獅子 鶴ヶ城にて演舞 

(お城の瓦は黒色で 取り換えられる以前の写真です。 

2011年に往年の赤瓦に復刻されましたが 

風評被害のため 爛漫と咲き誇る櫻の時季も 観に来る観光客はありませんでした)

 

 

 

        会津慕情と、現代史教育

 

 

 NHK太河ドラマの「八重の櫻」で、前半のハイライトである壮絶な会津戦争が繰り広げられた記憶が生々しいものですね。迷惑かけるからと言って、入城を拒否する女人たち。戦火で逃げ惑う一般庶民。鉄砲を持ち少年隊を率いる八重がスペンサー銃を片手に、相手大将目掛けての大乱射。中野竹子の壮絶な殉死。城代家老・西郷頼母一家の女性たち21名の自刃。白虎隊の切腹。山川大蔵の、会津・彼岸獅子を従えての堂々の入城。薩摩藩邸に捕えられ、座敷牢にいた八重の兄・山本覚馬が、その時上申した「管見」は三権分立を主張し、まことに立派なもので、テレビの映像から、自然と涙を浮かべざるをえないエピソードばかりでした。長らく観ないうちに、今は京都が主な舞台で、安中藩士出身の新島襄(幼名=七五三太~しめた)と八重の物語が中心のようですが、寺社仏閣が特別に多い京都で、クリスチャン伝道の大学を作るというのですから、多くの困難が立ちはだかったことでしょう。旧薩摩藩邸を襄に無償で差し出した覚馬、帝都でなくなった京都復興に尽力した覚馬の功績は大きかったのではないでしょうか。それにしても松平容保は孝明天皇のご宸翰と御製二通を、肌身離さずに持って戦ったのに、もう少し方法はなかったのかと、哀れでなりません。かくして孝明天皇御自身未だに毒殺された説があるぐらいですから、果たして官軍に、それらを披歴したとて、何の効力も持たなかったのではないかと思われます。結果、板垣退助(ご維新後、会津の名誉回復の為に奔走した)を大将にした官軍が勝利を収めたのですが、会津城明渡は明かな敗戦ではなく、一ヶ月もの籠城により、トイレが満杯になったから開城したものでした。惨いことに、会津藩の戦死者に触ることを一切許されず、半年もの間、累々たる屍は放置されておりました。白虎隊などは、飯盛山から崖の下の小川に死に水を取りに来たところ、官軍兵士に身ぐるみ略奪され、ほぼ裸体の状態で哀れな醜態だったとか、現地では今でも伝えられています。

 悲惨の極みであった斗南藩(現青森県むつ市)に行った会津の人たちは、貧乏の極地にあって尚、粗末ながら藩校・日新館を創設します。お腹が空いて仕方がなかった少年・柴五郎は雪の中を裸足で通い、後に陸軍軍人となり、義和団事件鎮圧に、大きな功績を残しました。その武士らしい美学を持った軍人に、イギリス軍は大変感銘を受け、日英同盟まで発展し、柴五郎は影の功労者と讃えられました。柴は特に中国通として知られ、何と昭和20年の太平洋戦争敗戦まで生きて軍属として大活躍をします。最期は自決を図るのですが、死にきれず、その傷が原因で病死しました。でも見事な会津魂を持った武人と言ってもいいのではないでしょうか。無論大蔵とともに新規に家老に任ぜられた佐川官兵衛は、西郷の西南戦争のために、手薄になった警察組織へ、旧会津藩士300名を従えて入隊し、西南戦争では抜刀隊として先鋒を務め、凛々しく戦死しましたが、見事な最期だったと明治政府によって讃えられています。また山川大蔵の五妹で捨松は、岩倉使節団と共にアメリカへ留学し、後に大山巌の妻になり、鹿鳴館の華となりました。惨憺たる会津であっても、会津戦争で生き残った人々の、まことに立派な人生を生き抜いて、本当に驚嘆に値します。今では会津のどの小中学校でも「あいづっ子宣言」を唱和し、先人の誉に倣って、会津っ子は元気いっぱいです。

 何故官軍は好戦的だったのか。官軍の主力部隊は長州藩出身者で、関ケ原の戦いで敗北して以来、長州藩の領地は四分の一まで減封され、徳川260年余、幕藩体制に対して激烈な憤怒と怨念があったのでしょう。毎年の正月に、藩主に対し、「今年は如何しましょうか」、「ふむ、未だ時期にあらず」とのやり取りが必ずあったのですから、明らかに武闘の精神が代々培われて来たのでしょう。ご維新後、明治11年に、薩摩藩出身の最後の大物・大久保利通が紀尾井坂の変で、暗殺された後は、長州出身者の独壇場であったのではないでしょうか。官僚組織そのものも、今でもそれが伝統として続いているのかも知れません。和戦派の坂本龍馬が暗殺された真相は、好戦的な人脈とは違い、本人は和戦派で、幕閣だった要人も新政府に入れる手筈でした。でも武器輸出を目論むグラバーやイギリス公使パークスなどから、かなり敬遠されたようです。最も過激な外人はアーネスト・サトーでした。従って龍馬はイギリスなど海外のエージェントとして活躍していたのではないだろうかと想定されるのです。でなかったら、莫大な龍馬の活動資金は一体どこから出ていたのでしょうか。長崎にて海援隊(後の亀山社中)を結成したのも、海外からの支援金があってこそ龍馬は存在しました。無論薩長同盟に関し、薩摩藩から資金援助されたことは充分承知していることですが。それが龍馬は和戦派ということで、永年資金援助してきた海外人脈から疎まれたのではないかと充分忖度されるのです。乙女姉さんに、龍馬は生涯で、300通の手紙を出していますが、一通あたり10両として、実に3000両にも及ぶわけですから、龍馬の資金源探査だけでも面白いと思われてなりません。そうして実際は陸援隊の中岡慎太郎もサトーに幾らか関与していたのではないかとも想像されます。中岡は30ヶ所以上の刀傷があり、龍馬はたった三太刀でした。それは何を意味するのでしょう。中岡が龍馬に短筒で打っていたら、どうだったかとか想像が膨らみます。今では京都見廻組の今井信郎が函館戦争で捕縛され、龍馬暗殺を最初に白状し、その後京都見廻組の与頭だった佐々木只三郎と、その部下六人によって暗殺されたというのが現在の定説になってはいるのですが、あれほどの剣客だった龍馬が何故にアッサリと惨殺されたのか不思議に思えてなりません。この定説は、実際はかなり不可思議なものであり、外圧との関連性を調べるべきと小生は考えるのです。いずれにせよ、現在も尚、龍馬の活動資金の出所が未だ詳らかにされてはいないのではないでしょうか。

 新島襄は密航してアメリカに渡り、直ぐ洗礼を受け、実に七年を掛けて、リトルアイヴィーと呼ばれたアマースト大学を理学士として卒業するのですが、同校の教授に、札幌農学校開設メンバーだったことでよく知られているクラーク博士がおりました。襄は彼からも習っておりました。更に初代日本公使であった森有礼によって、公式的に密航の身分を許され、正式な留学生となるのですが、それが後に来る岩倉具視使節団一行の有能な通訳として、アメリカのみならず、欧州まで七か月間同行し、その報告書として「理事功程」を纏め上げ、明治政府の教育指針となったようです。そもそも新島襄は勝海舟率いる幕府方操練所と関係があったわけですから、そこを通じて一定の既知が多かったものと思われます。グローバルな襄の視点は明治政府に計り知れない恩恵を与えたのでしょう。特に新島襄大隈重信は同志社大学設立の件で、堅い絆で結ばれていました。明治23年、襄は道半ばにして病で倒れ、死の淵では、有名な「狼狽することなかれ、グッドバイ、されば亦逢はん」と言い残して、若干47歳で亡くなってしまったのですが、八重がその後大隈重信ら多くの助力によって、襄念願の同志社大学設置を果たしたのです。同志社と言う学校名は覚馬がつけた校名でした。そして遺骨は京都東山若王子山頂に葬られ、その墓碑銘は勝海舟によって書かれたものでした。ドイツ立憲君主制を説いた伊藤博文(実は大隈重信によって抜擢された人物)と、イギリスのような二院制立憲国家を願った大隈重信は激論の末、岩倉具視らの軍配は伊藤のほうに上がり、やがて大隈は下野します。そして当時田圃の真ん中だったところに、東京専門学校(早稲田大学の前身)を開校しました。山の上(目白通り)には山縣有朋の豪壮な別荘・椿山荘があり、それを早稲田人はどのような心境で眺めたのでしょうか。大正11年、大隈は早稲田で死去し。私的な告別式が終わってから、未曽有の国葬となり、実に30万の人々が日比谷公園での葬儀を見送り、盛大なものとなりましたが、そのたった三週間後に、同じ日比谷公園で開かれた山縣有朋の国葬は惨憺たるもので、参加数の少なさに各紙は驚愕して報じています。尚大隈候は明治22年に暴漢から襲われ、右腕を失いましたが、現場に残された大隈候の血の色を、早稲田大学の人々が決して忘れまいと、校旗をエンジ色に染めたのは、その地べたに残った血の色がエンジ色だったからであります。結局山縣有朋は国民皆兵制度を創り、富国強兵に力点を置いた長州出身(下級武士)の政治家であったのでしょう。たったそれだけのことでしたが、明治の元勲として、堂々と名を連ねています。明治初頭の日本で、国民全員が赤貧洗うが如しだった折、キンピカの勲章をつけ、幾つも別荘(南禅寺前の無鄰菴なども)を建て、女妾も多くいた山縣は、私は好きではありません。

 

岩瀬忠震筆 死の直前に描かれた日本画 「藤に芍薬」

 

 そもそもご維新以前に、抜擢された有能な幕閣の人材が多数おりました。上記絵を残した岩瀬忠震小栗忠順水野忠徳など、非の打ちどころがないぐらい優秀な人材です。それがいとも簡単に官軍に葬り去られたのが、とても残念でなりません。島崎藤村の「夜明け前」に登場する岩瀬忠震は日露和親条約で知られています。小栗は遣米使節団として渡米し、日米修好条約の金比率に対して、猛烈な抗議をしました。横浜製鉄所を残し、海軍の基礎を創りました。東郷平八郎は小栗を尊敬してやまなかったのですから。夫人の道子は会津に逃れ、松平容保の薦めで、女児を産み、国子が誕生しました。国子は親戚である大隈重信に引き取られ、後に小栗家を再興しました。日英和親条約や日仏和親条約に功績のあった水野忠徳も、ほぼ無残な死を遂げています。彼らがいなかったら、危うく日本は列強の植民地になっていたかも知れません。と言う訳で、その後のご維新は絶対的に正当であったのでしょうか。明治新政府は旧幕臣の彼らの活躍によって確率された基盤を中心に、その延長で利用していたのではないでしょうか。更に「廃仏棄却」とか、「官幣社の創設」とか、愚策をあげたらキリがありません。孝明天皇亡き後、ご即位された明治天皇は若干15歳だったのですから驚きです。官軍の錦の御旗や官軍・賊軍という仕分けは、かの岩倉具視の権謀術策ではないでしょうか。いわゆる偽勅であったかもと畏れるのです。明治新政府は岩倉など下級公家たちと、最下層の武士たちだったわけですから、本当の意味での品格はあったのでしょうか。そして長州藩の勢いを借りた茶番の面も多々あったのではなかろうかと思われ、今一度明治新政府の検証をしたいものだと、小生はずっと考えております。そんなこんなの日本近代・現代史に関しては或る程度教育され、知っていることはあるのですが、司馬遼太郎が表現した「魔法の森の二十年」とは昭和初期から敗戦に至りるまでのことで、司馬遼太郎は無念かな、昭和史ではさほどの検証をされていらっしゃらないのが堪らなく残念でなりません。確かに、私たちは歴史教育において、ほぼ日露戦争や、サンフランシスコ講和条約まで、掻い摘んで知っているのですが、後は読んでおけと教師に言われ、特に現代史における歴史教育そのものが、現在もお寒いものでしかありません。

 現韓国大統領の朴槿恵さんの父・朴正煕元大統領の暗殺された日は、伊藤博文初代総理が中国のハルビン駅頭で、安重根によって暗殺された日と、奇しくも、今日の日付と同じ10月26日です。伊藤は初代・韓国統監もしていましたから、独立運動家に睨まれたのでしょうが、「日韓は兄弟、共に繁栄すべき」と伊藤は主張していました。テロリストの銅像建設を根回しの段階で断られながら、直談判で習近平に執拗に要望した朴槿恵大統領でしたが、韓国の、激烈な民族主義者への右傾化としか考えられません。渤海を韓国の初期の国家だとしたヨンさま主役の時代劇「太王四神記」などは笑止の至りでした。余りにも史実に乏しく、近世に創作された物語を、荒唐無稽にテレビ映像化したに過ぎないのです。中国でも放映禁止になったほどです。「朱蒙」も然りで、飽く迄歴史ファンタジーに過ぎず、それを亦NHKやBSの民放で、未だに放送し続けているのですから、韓国民族主義者から、日本国民が洗脳されているのだとしか思われません。韓国の歴史は史実中心ではなく、そうありたいと願う願望の歴史です。過剰なまでの、手荒い筋書きである韓国ドラマの放送を、日本ではもういい加減にしてほしいものです。最近朴槿恵大統領はドイツ首相のメルケルさんに、従軍慰安婦問題で、日本をケチョンケチョンに批判したとか、アメリカ議会での演説でも、日本批判を展開しましたが、何と同行した大統領補佐官が韓国系アメリカ人にセクハラして発覚、アメリカの警察に捕まる前に、韓国政府あげて強制帰国させたとか、竹島で軍事演習をした映像をガンガン流しているとか(これは世界的恥辱になりますよ)、ご自身の大統領選挙で不正が発覚したとか、話題に事欠きません。この大統領は本当に能力があるのでしょうか、世界は疑い始めています。ウォン高になって、輸出が伸び悩んでいることへのヒステリーなのかも知れません。他国へ日本批判を展開し、同情を買う外交が、韓国外交の常套手段であるからなのでしょう。韓国が言う歴史認識とはそう言う事実も隠すべきではありません。だから、あなたの父親・朴正煕氏が言い放った次の一文をご進呈致しましよう。

 「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」(朴正煕 談)

 せいぜい、貴女の手によって、再び「漢江の奇跡」を起こせるのでしょうか、ゆるりと傍観させて戴きましょう。尚台湾では、日本が残した多くのインフラを今でも感謝しているのですが、「日韓基本条約」によって、日本が無償で残した多くのインフラや建物など、殆ど感謝されておりません。恨(ハン)の文化意識が根強い国家だからでしょうか。全く哀れとしか申し上げられません。河野談話や村山談話や、「女性のためのアジア平和国民基金」など、過去の日本がして来た多くの努力を今後どう評価し展開して行くのでしょう。どうかご冷静に!

 

従軍慰安婦像設置を猛省するアメリカ・グランデール市の市長

 

 韓国だけではありません。中国に対してもどんな歴史問題があるのか本当によく知りたい一心です。特に在中・関東軍がしたことの昭和史を。どう言うわけか未だに封印されているじゃありませんか。尚現在、南京虐殺の真相は学問的にほぼ決着しているようですから、それはいいとしても、軍資金が送付されなくなってから、東条英機が満州近郊で芥子栽培することなどによって、麻薬を大量に売りに売って莫大な軍資金にしたとか、気になる噂話か、その種の話題が結構あるようです。韓国人では、日本名をつけさせられた屈辱やトラウマが残滓として残っているのでしょうし、千年経っても消え去ることにならないらしいのですから、未来志向の互恵関係は成り立たないのでしょう。韓国発ヘイトスピーチのご本家が現職大統領なのですから、呆れてしまいます。

 1943年10月21日から、既に70年。あの雨の明治神宮外苑競技場で学徒出陣してから、先日の21日でちょうど70年になるのです。そこが、後に国立競技場となり、1964年10月10日開催の東京オリンピック会場となりましたが、この度、2020年再び東京オリンピック招致が決まりました。再びこの同じ場所が、そのメーン会場になるようです。あっと言う間に、直ぐ7年は経ってしまいます。それまで日本はどんな将来像を描き、世界平和に圧倒的に寄与するのでしょうか。勇気を持って、もっと明確に昭和史や平成の、今の時代と真正面から向き合いたいと願ってやみません。多くの会津人たちへの思慕を綯い交ぜに、きりっとした生き方を模索し、我が子供たちへ、どんな日本を遺して逝けるのか・・・・です。

 

1943年10月21日 雨の明治神宮外苑競技場で開かれた学徒出陣式典

この日から 今年今月の21日に 丁度70年目の節目になりました

 多くの若者が特攻隊員として 戦場の露と消えた ああ無念かな無念かな


      「森の長城プロジェクト」を応援して

2013年06月08日 | エッセイ

「森の長城プロジェクト」による植林 やがて怒涛のごとく完成へとヒタ走ることだろう

 

 

 

      「森の長城プロジェクト」を応援して

 

 

 我が山林がある岐阜山中に、人工杉林を伐採し、苗場を作り、シラカシやコナラやスダジイやアカガシやクヌギやアラカシやカシワやマテバシイなどの団栗から発芽させ、もう二年にもなる。立派に苗木として成長し、宮脇昭先生率いる「森の長城プロジェクト」にセッセと出荷し、私たちも積極的にボランティアに参加している。岩手から福島まで、300キロに亘る壮大な夢の森だ。震災一か月後に宮脇先生にお逢いした時、既にこの構想に着手され、初めて聞いた時はそんなことってと圧倒されたものだったが、その後細川護煕氏が、先生の考え方に同意され財団を作られてから一変した。海岸線に特区が出来たり、様々な規制があるはずだと危惧していたが、それはほぼ要らぬ心配であった。先生は出来るところから、いとも簡単に行動を起こした。混植と多植の考え方である。根の張り方が浅い針葉樹は植栽しない。私たちはトウカエデやイロハモミジやオオモミジなどの落葉樹も贈った。無論日本固有のヤマザクラやヒガンザクラの苗木もである。それには先生も大喜びであったから嬉しく思う。

 各地に出来た「桜プロジェクト」にも、私たちは積極的に関与している。震災で根ごとスッカリ流されたのは染井吉野が殆ど。ヤマザクラやエドヒガンは強いから、イグネ(屋敷林のこと)の役目を果たし、瓦礫をそこで食い止めた事実。櫻の樹高に、多くの被災物が引っかかっているを見たが、それらの櫻の樹幹はビクリともせず、凛として立っていた。或るブログで、染井吉野を馬鹿にするなんてと、批判がましく小馬鹿にしたような話があったが、私は完全無視。言わせておけばいいだけである。可笑しなことに、伏見に住むそのご老体は、以前「ポケドン運動」なるものをしていた。散歩中、ドングリをポケットに忍ばせ、あちこちに撒き散らして歩く運動のことである。偶々ドングリを植えられたお宅も迷惑なことだったろうが、まぁ彼のブログに登場した多くの女性に支持されたから、尚可笑しい。その後運動はどうなっただろう。ところが宮脇先生の想像力は半分呆けた老人の散歩で出来る話ではない。瓦礫を長城の真下に埋めれば、全部埋めてもたった4,7%で済むと言う主張だった。土中の間隙は広葉樹の根っこには丁度いい隙間であることを熱弁されていた。鉄筋コンクリートなどの構築物は年ごとに劣化して行くが、広葉樹の森は年輪とともに強くなって行くものだと、震災直後に被災地に入られた先生はすぐさま検証し、新たな対策を立てていたのだ。最低でも20㍍の土盛りをして、主に広葉樹を中心に密集して植栽する計画だ。そう言えば和歌山であった集中豪雨による土石流の正体は人工杉が殆どであった記憶を隆起させよう。

 

左からお二人目が宮脇昭・横浜国大名誉教授

 

 私たちの山林は岐阜を中心として、全国5ヶ所に5700haで、主に山林復活と山櫻の普及活動をしている。岐阜山中にある不入山近隣の我が山林で伐採した20~30年モノの杉の木は直径20センチ以上はある立派な木だが、売り捌いてガックリした。一本たったの2000円。間伐の費用さえならない。国内での住宅用木材の輸入先は、カナダ、オーストラリア、ロシア、 アメリカ、マレーシア、欧州などで、これらの木材は、米材(アメリカ、カナダ)、南洋材(インドネシア、マレーシア、その他)、北洋材 (ロシア)、欧州材(ヨーロッパ)、その他(オーストラリア、 チリ、ニュージーランド、中国など)に分類されている。これら輸入材は、私たちの身の回りで実際どのように使われているのか。まず、木造建築の例を見ると、土台や柱には米材の米マツ、米ツガ、米ヒバなどで、床材や壁材としては、欧州材のホワイトウッド、レッドパイン、北洋材のアカマツ、ナラ材、タモ材、メープル、 南洋材のイエローメランチ(合板)など様々な樹種が用いられているようだ。家具はどうか? たとえば、学習机。近年は中国で製造されたものが多く、その多くが北洋材 のナラ材、タモ材で作られているし、これらの木材を産出するのはロシアの極東に位置する沿海地方の豊かな森が対象だが、 ロシアで伐採されたナラ材やタモ材も中国で加工され、学習机として日本輸出されているのが現状である。安価な建売住宅会社では一時アマゾンの流域で伐採された木材もあったと言う。木材を使う会社が安価なものであれば、どこでもいいと言うことだろうか。政府が言っているように、最低でも木材の自給率が50%に届きたいところである。日本の木材は高いが経年劣化することが少ないものと確信している。神社仏閣に使われる檜でさえ台湾産が多いようである。日本の風土に慣れ育った木材はそれなりに劣化しにくいはずだ。日本全土の約七割が山林である我が国土を単なる価格だけで滅ぼしていいものか。

 

 苗場には今日も出荷を待つ広葉樹の苗木たちが

 

  私たちは今まで8万本の苗木を、宮脇先生を中心としたグループや、各地の櫻プロジェクトに無償で提供してきた。無論その1000倍になってもいいと覚悟を決め、苗場ではセッセとその作業が続いている。多分それでも足りなくなるだろう。しかも急ぐのだ。南海トラフなどの防災・減災を考慮に入れると、まだまだ足りないはずである。この美しい日本を滅ぼしてはならない。

 ところで中国人たちは我が領土の買占めに忙しい。北海道の岩内では泊原発のすぐ傍に広大な土地が中国人によって買い占められた。各地の原発の近くにしても同様で、日本各地にある自衛隊の基地近くでも全く同じような現象が起きている。外国人土地法なるものがあるが、あの宇宙人・鳩山由紀夫内閣と、イラ菅総理はこの法律の趣旨を、丸っきり簡単に一蹴し、今に至っている。対馬も韓国人の土地買占めにあっていて、長崎県の帰属が酷く心配である。水源地を巡る中国人の土地買占めも大問題だ。我が山林に、虫食い状態になっている所有者不明の土地があったが、三年掛けてやっと探し出した。実際は中国人名義だが、現法では買占めの事前協議が必要ないばかりか、土地登記ですら後回しでいいことになっている。そこが問題なのである。私たちは一見公道に見える私たちの道路の何ヶ所かに張り紙を出しておいた。その土地に行く場合、あらゆる交通手段はないと。無理にでも行くならば、直ちに不法侵入で訴えると日本語と中国語で書いておいた。諦めて売り払う場合の連絡先も併せて書かせて戴いておる。国会のシェンシェイ方にあれもこれもしっかりしろと言いたくてならない。何でも喧嘩ごしの韓国、拡張主義の中国、平和ボケしている日本人は曾てない危機に直面していることだけは確かなようである。ただ日本人は遥かに大人であり、それ相応の接し方をすべきである。いずれ日本もいつか通ってきた道であるからである。

 

「森の長城プロジェクト」完成予想図


      東京タワーは死なない

2013年05月31日 | エッセイ

昨日、サンクトペテルブルグにて、日本勢が気鋭をあげていた際、

オリンピック応援色に、東京タワーは静かに輝いた

 

 

 

        東京タワーは死なない

 

 

 本日午前9時に、デジタル放送が一斉にスカイツリーに移った。今後東京タワーはFM東京や地上デジタルに移るらしい。スカイツリーのバックアップもするそうだ。でも、何かやるせない。長嶋茂雄が入団最初の試合で四三振した年だとか、王貞治が巨人入団が決まった時だとか、栃若時代であったとか、私は知らないことだが、品川の我がマンションからすぐ傍に見え、永く親しんできたものにとって、どこか腑に落ちないような気がしてならない。まぁ時代のせいと言えばそう言えるんだろうけれど、愛着が違う。広尾の自宅からも見えた1958年設立の東京タワーが私にとっては稀有の文明であった。

 中には水族館もある。様々なイベントもある。特に恋人たちには欠かせない場所であろう。ところが長らく親しんだ東京タワーに大きな異変があった。1958年、第一次南極越冬隊に15頭の樺太犬がいたが、止む無く15頭の犬たちを鎖につないで置き去りにしなければならなかった。その後第三次越冬隊が向かった折、何と二頭の樺太犬が生きていたのだ。日本全国にどれほど大きな感動と勇気を与えたことだろう。このタロとジロの像が立派に建てられ、他の犬たちの供養ともなった。私は娘を連れて行ったことがある。娘に説明してやると、普段は殆ど泣かない子なのに、その日一日は泣いていた。そんな驚愕の歴史をイトも簡単に捨て去ってしまうとは。この15日に完璧に撤去されて、タロ・ジロがいなくなったのだ。こんな大切な史跡に、来るか来ないか判らない2020年の東京五輪の看板設立のために立ち退きになり、国立市の極致研究所に、この15日に移されたという憮然たる話。反対運動がややこしくなる前の、電光石火の移動だったのだろう。大勢の方に観てこそ意味があっただろうに、何て残念なことだろう。

 開業して55年、私たちはこの永い時間の東京タワーとともに、これからも歩き続けることだろう。朝に、昼に、夕べのライトアップに、行く末々愛着の度を強めて行くことになる。恋人たちのスポットとしても、元気に生きて行くことだろう。

 

恋人たちのためのハートマーク 素敵な儀式

 

 

15頭の、第一次南極観測隊のための樺太犬たち


     戦後は、遠くなっておりませぬ

2013年02月26日 | エッセイ

学徒出陣した興梠武氏の「編み物をする妹」 昭和20年8月8日戦死

 

 

戦後は、遠くなっておりませぬ

 

もう直ぐ2011・3・11の、あの日が来ます。被災者の方々は未だ厳冬に晒されています。

満2年ともなろうというのに、風化を心配する被災者さえ数多くおりますが、何故?

巻頭の図は故・水上勉氏のご長男で、永い間かの作家と会うことがかなわなかった

窪島誠一郎氏が主宰されていらっしゃる信濃・無言館に、ある絵です。

戦争で非業の死をとげた学徒出陣の方々も、あの黒々とした大津波に飲まれた方々の死も、

同じ非業と言えば非業と言えるでしょう。然もあの東京大空襲の日は、3月10日です。

同じような日でも違うと言われれば当然ですが、「魔法の森の二十年」の総仕上げは空襲による

大都会の完全廃墟にした絨毯爆撃。日本中であちこちにも。これこそ戦争犯罪ではないでしょうか。

未だにどちらの出来事も、今日あったことのように、私の心身を深く、切々と痛打するのです。

 

 

       わたしが一番きれいだったとき

                  (茨城のり子 詩)

 
       わたしが一番きれいだったとき
       街々はがらがらと崩れていって
       とんでもないところから
       青空なんかが見えたりした

       わたしが一番きれいだったとき
       まわりの人達が沢山死んだ
       工場で 海で 名もない島で
       わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

       わたしが一番きれいだったとき
       誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
       男たちは挙手の礼しか知らなくて
       きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしの頭はからっぽで
       わたしの心はかたくなで
       手足ばかりが栗色に光った

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしの国は戦争で負けた
       そんな馬鹿なことってあるものか
       ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

       わたしが一番きれいだったとき
       ラジオからはジャズが溢れた
       禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
       わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

       わたしが一番きれいだったとき
       わたしはとてもふしあわせ
       わたしはとてもとんちんかん
       わたしはめっぽうさびしかった

       だから決めた できれば長生きすることに
       年とってから凄く美しい絵を描いた
       フランスのルオー爺さんのようにね

 

            (この詩は詩人の出発となった詩で、15歳で日米開戦を迎え、

             19歳で終戦を迎えた。第二詩集「見えない配達夫」に収録、

             そして清冽に生き、2006年、79歳の生涯をスッパリと閉じた)

 

 


     大寒、そして二十歳のキミ達へ

2013年01月20日 | エッセイ

  

長女・杏のために描いた絵本 『ポンポンダリアとじぃじぃと』の一場面より

 

 

大寒、そして二十歳のキミ達へ

 

 二十歳のお祝い!簡単に貸衣装が借りられると思っていたのに、何と二年も前からレンタル予約しないと借りられないことを知り、バタバタと慌ててしまって、本当に御免なさいネ。生地や柄から選んでもらって、銘々の身丈など寸法を測り、私の人脈総動員。見事な本振袖がヤットコサ!たった一週間で間に合わせることが出来ました。そんなに高くはなかったけれど、帯や小物も新調出来ましたネ。気が気でなかったけれど、四人の女の子、いやぁ立派なレディになりました。八人の男の子達には既製服のスーツで何とか勘弁してもらい、一応ダンディなフォーマルスーツに。銀座・田屋でタイをそれぞれに似合ったのを選んで、靴も勿論新調。ピカピカの紳士が誕生して、何て素敵なんでしょう、ついホレボレ!成人式に、ワケあって帰れなかったキミ達と一緒に神田明神へお参りして、私からちょっぴりの記念品を贈呈、お食事会。ささやかだったけれど、結構楽しい純白の大雪の日の成人式でした。

 曰く、「自分を見捨てるな、そしてひとを辱めるな」と。湊かなえの小説「贖罪」に出て来る登場人物たちのように、互いにどこか決定的に傷つけあい、どうしようもなく絶望の淵に立つのは都会を彷徨うもの達の真実の姿かも知れないが、いやいやちょいと待って!鮮やかに切り替えて、ここらで森へ行こうよ、田舎へ出ようよ。そうしてそこで自分自身に対し徹底して見詰め、信じ、向き合おうよ。何故なら日本の国土の七割は森林だからで、仕事が多く、その上嬉しいことに、何箇所かの浜辺の町で、山ノ神神事も見たではないか。海の豊饒は山の恵だとはっきり言っていたではないか。絶望を説くのは多分簡単なんだろうけれど、豊かな発想と行動は常に困難に脅かされるから、逆に勇気が要るではないか。だからネ、私達は安易と困難のどちらを選ぶかと言われれば、率直に困難を選ぼうと言おう。単純でもいいから。私の眼はキラキラと光るキミ達の日常をちゃんと観ている。決して絶望しないキミ達を見ている。節操がなく、不甲斐ない大人達をすっかり追い越して、さっさとトップを突っ走れ!決して遠慮は要らぬ。後始末は全部私がやる。

 お正月、京都に帰った時、久し振りに伏見稲荷に詣でてから帰路についた。伏見社の参詣は「お山する」と言うが、時間の都合上、山頂の一ノ宮まで行けなかった。無数の朱の鳥居はすべて杉で出来ている。鳥居は御膳谷奉拝所を始めとし、お塚は山内に一万箇所はあるだろう。大杉社のご神木である杉へ畏敬を籠めて「しるしの杉」を頂いてきた。伏見奥の院と言っても山内の中腹。可笑しい「おもかる石」もあって、少しばかり愉快。四辻のお店に「きつねうどん」があったが、私達は「お稲荷さん」を購入し頬張る。様々なご利益がある神々が大勢いらっしゃるのが面白く凄いもので、眼力社や熊鷹社や新池や、色々あってまるで庶民のワンダーランド。道理で、江戸の長屋という長屋の突き当たりにはお稲荷さんがシカと祭られていたのだろう。

 人工林の杉林の多くは、下草へ太陽光が入らない。中には持ち主さえいない杉林もある。薄気味悪く杉だけが鬱蒼と繁り、野鳥も殆ど近づかない。一昨年あった和歌山での爆弾低気圧、その土石流の大半は、それら手を尽くしていない人工杉林が中心であっただろう。その奥深く、落葉・広葉樹の森で、思索に耽ったのが、維新の悪法・神社合祀令に徹底反対した南方熊楠で、鎮守の森伐採計画を身体を張って抵抗し護った。厳島の弥山や、伊勢の神宮の広大な自然林や、木曾山中の不入山や、その他天領として守られた多くの御用林や、山岳信仰対象の山々の自然林はいざ知らず、多くの場合人の手を入れずして美林には決してなれないのだ。今、手を尽くさなければ完全に遅きに失するだろう。今日は一年で最も寒い「大寒」、丁度こんな日がいい。私達は陽のあたる美林を目指し、今年もそろりと歩き始めよう!

 

パンジーの花達に雪が降る この後完全に埋もれた たった8cmの雪に都会は大慌て

 

それでも我が家の盆栽ドームの中は どうにか春めいて


   文化の一大がらくたショー

2011年10月10日 | エッセイ

ロダンの本に アカガシやマテバシイの団栗を置いてみた

 

 

文化の一大がらくたショー

 

 

  網目のように、美しいNZの国土を隈なく突っ走ると、文化と自然が見事に溶け合っていた。私を待っている人のために、久し振りに東京に帰ってみると、まぁそこらじゅうが文化のがらくた市で、足の踏み場もない。特に福島の方々が哀れでならない。「京都五山の送り火」は二転三転し、結局高田の松原の松は使われることがなかった。これは福島県ではなく、岩手県だぜ。後日成田山で、放射性物質の検査をしてみると、全く反応がなく、安全だということで、無事「お焚き上げ」に使われた。当初抗議をしていた人からも賞賛のメールに変わったという。文化人のツラァして、一皮剥いたら何ということはなく、餓鬼にも仁義があるのだと京都人に言いたい。そしたら今度は愛知県日進町の花火大会で、福島県川俣町産の花火が放射性物質の拡散があるとの強い市民抗議に屈し、愛知県産の花火に差し替えられた。大阪府河内長野市の架橋工事で、福島県郡山市の建設会社が製造した橋桁であったために、地元住民から放射能汚染の心配の抗議があって、発注元の大阪府はこの工事を中断した。又福島県の農産物支援ショップを計画した福岡市の市民グループは、放射能汚染の苦情が殺到し、計画断念に追い込まれた。何と言う恥の上塗りだろうか。どれもが基準値以下であり、そしてそれらは被災地からの申し出ではなく、主催者からの発注であったことが特別に悲しい。正しく知って正しく恐れる科学的な根拠に乏しく、もそっと勉強し給えと申し上げておく。船橋市の中学校に数人の福島第一原発近くから避難してきた生徒に、放射能が移るから近寄るなといった集団イジメに相当し、開いた口が塞がらない。子供たちの、あのイジメとどこが違うのだろう。お互いをリスペクトする心情に甚だ欠けている。政府や東電の迷走ぶりに、こうした風評被害が裏打ちされ、後を絶たないのだろうか。ウンザリである。

 

我が家の池の葦などで作った風車や笹ぶね

 

 我が家では8月に、父と二人して徹底的に除染した。二日掛かりであった。雨樋の落ち口付近や高木の庭木の下部付近や暗渠になっている庭の水路や、盆栽の苔や自家製コンポストや落葉樹の落ち葉などで高い線量が計測されたためで、高速放水車をチャーターして、徹底してやった。でもさすがに盆栽には高速砲が使えず、父は何度手で水洗いをしたことだろう。お蔭で、宅内の殆どで計測しても検出されなくなったが、放射性物質を含んだ土嚢数十個は、未だに行き場がなく、二重三重にブルーシートで包まれたまま宅内に貯蔵している状況で、都庁に相談中。尤も高い線量といっても、年間1ミリシーベルト未満を頭から信用していないわけで、被災地の皆さまからは笑われる値かも知れないが、用心するに越したことはない。

 帰国してから、邸内の安全な野の草取りをし、子供たちと日がな遊んだ。付近の公園や外出など控えてきたためであるが、笹ぶねを作って、鯉が遊魚している中に流した。風車も、皆で歓んで作った。娘は相変わらずヴァイオリンをギコギコやっている。専属の先生の顔も時々綻ばせるらしい。長男は最近絵を見るのが好きらしく、絵本を心行くまで眺めている。ディズニー番組やカートゥーンやアニマックス番組などのテレビ動画はまるで観ない。更にムーミンやピーター・ラビットをたくさん傍に置いてあるが、「スーホの白い馬」が特に気に入っているらしく、寝る時もいつも一緒である。親としてはただ材料を与えるしか出来ないが、どこかで何かが、弾けるように目覚めて欲しい一心。でも子供たちは日々勝手に大きくなるらしい。

 

いつか行った多摩川上流域や奥多摩湖に 又行きたいと姉弟からの連呼

 

 世界は今大きく変化しようとしている。東日本大災害以上の大きなウネリで、差し迫ったことばかりである。ギリシャ国債の大量購入した銀行や生保など、青色吐息である。フランスとベルギーに拠点があるデクシア(大手銀行)は遂に破綻して、ユーロは泣いている。ギリシャ国債を多く所有していたためであり、欧州ではこうした傾向は今後も続くだろう。ロシアのプーチン首相が再び大統領として復活し、強政大国となるのか。ポルポト政権を応援した中国政府は中越戦争を起こし、その罪科は未だに看過出来ない。何故なら今度は南海沖の領有権問題で、強引にベトナムと揉めているからである。資本主義大国のアメリカも、社会的システムの再構築を求められている。習近平氏が最高指導者になったら、日中関係はどうなるだろうか。勝手に李承晩ラインを引いて、竹島を実効支配している韓国はグン様だとかヨン様だとか、小母様族が言いなりになり、新大久保のコーリャン・タウンは老若ないまぜの女性たちで溢れ返っている。BSテレビでは矢鱈に韓流映画で溢れ、まるで韓国政府から洗脳されていそうな勢いである。ロシア空軍は何度も日本の排他的海域上空を周回し、海軍軍団も千島沖航行に幅を利かせている。アラブの春がやってきても、エジプトでは選挙される気配すらない。アフガン政府とインド政府が極く最近、蜜月ぶりを発揮し、パキスタンを困惑させている。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地が混在するエレサレムはたった1キロメートル四方に過ぎない。パレスチナ問題は一層複雑になる一方である。ノルウェイで起きた右翼青年の銃乱射事件は欧州各国が潜在的に持つ火種で、欧州各国が大航海時代から植民地主義を強行した移民問題の帰結で、残り火である。ソマリアに自衛隊を派兵するかどうかも大きな問題で、更に農作物の不作による飢餓は地獄そのものだ。最も優秀な共産国家であったキューバもカストロ元首相の衰退とともに、カリスマ性が薄れ、貧困のどん底に喘いでいる。世界は同時に沈没して行くようで、これじゃ世紀末と認識されても仕方があるまい。コロコロ変わる日本の指導者は世界中の何処でも名前すら覚えて貰えていない。党として態を為していない民主党は川内博史代議士(小澤派)が公言する通り、一政党に二つの政党があると、どのツラ下げて発言しているのか。八ツ場ダム問題は2年経過しても、解決の糸口すらない有様だ。TPP問題を先送りすれば、日本は世界の孤児になろうとしているのに、民主党では議論すら行われていないことが不思議である。未だに瓦礫撤去が捗らず、大震災の問題は遅々として進んでいない。いきなり原発危険区域の解除を言われても、安全であるかどうか、そいつが先だろう。トコトン福島県民を苛めぬいている。若者はかつての学生と同様に、純粋な動機でデモを画策する気配すらない。沖縄問題、格差社会、年金問題、官僚第一主義、電力会社の独占体質、安全保障問題、海水汚染問題、原発問題、財政再建問題など、数々の問題を抱えたまま、政府はズルズルと結論を出せないまま、気がついてみると、いつのまにか日本は社会主義国家になってしまった風である。若者は平気なツラをして、オタク文化に現を抜かし花盛りの頂点であり、老いも若きもどこかのことのようであり、海外に出れば一層恥かしく嘆かわしく思われる。

 今回クリントン国務長官が日本人の留学生が極端に減少していることに憂慮されたことはいみじくも他国の干渉と一言で片付けられない問題である。ランク上から言えば東大は断トツで下部に位置する。勉強せず、エログロナンセンスのオンパレードで、目標も夢も持たない若者を抱える国家には重荷でしかなく、悲劇でしかない。村上春樹がノーベル文学賞を受賞出来なかったのは勿怪の幸いである。エンターテイメントな作品だけでは、売れているからと言ってもしょうがないのであり、指導者の一人としてもっと社会性を発揮して貰いたいと注文を出しておこう。天下のハルキストには済まぬが、止むを得ぬ。汚物に溢れ、義理人情もとっくに失せた日本を心から憂慮して余りある。来月は家内と一緒にパリに行くが、書誌学も科学の分野に入りつつあるからである。私は妻の通訳として同行する。私にとっても家内にとってもきっといい旅になることだろう。

 

遊びは工夫や発見に満ちている