賢治の死後、「雨にも負けず」の詩編が発見された賢治の手帳
宮沢賢治、「行って」なすこと
昨日で、あの大震災から二年十一ケ月になり、愈々来月は満三年になろうとしています。私はあの震災で、大きな教訓を戴きました。阪神・淡路大震災の時は、まさにボランティア元年というべきで、実際に現地に行っても何をしたらいいか、本当に分からず、ただオロオロするか、勝手連的に、後片付けをするか、気負いばかりが先に立って情けない思いをしたものです。でも今回はボランティアが或る程度機能し、少数の役所関係者等に尋ねると、今ここでは何をすべきか指示を戴き、よく理解出来ましたし、ただの気合いだけでは済みませんでした。過酷な労働でしたが、その点大変よかったと思っております。ただ今の現実は、高台移転と言ってもままならず、遅々として進んでいないのが現実ではないでしょうか。仕方なく、各地に出来た櫻プロジェクトのお手伝いと、毎月11日に、義援金として、如何ばかりかの資金を欠かさずに日本赤十字社へ送らせて戴いております。昨日で34回目となりましょうか。
お話は変わりますが、今回の東京都知事選挙で得た教訓は、私たちに或る決断をさせました。森の長城プロジェクトは多大な影響と将来のために、絶対に必要なことですが、私たちの団体は、このプロジェクトから離脱を決断致しました。何だか分かりませんが、名を連ねる方々は皆高名な方ばかりで、よってたかってその業績に預かろうとしているかのようで、気持ちが悪いのです。純粋に震災直後から活動されていた宮脇横浜国大名誉教授のもとに参加した頃はいいのですが、最近は特にキナ臭くて、まさにやる気が起きなくなってきました。やはり政治信条がある団体なのかと、極めて無念に思いながら、この判断をさせて戴きました。私たちは広大な山野に、全員で戻ることでしょう。但し苗木は今までと同様にお届け致しますが、同一にする活動は一切停止することに致しました。
「脱原発」は誰だって同じ意見だろうと思います。でも、こういう科学的実証的に議論しなければいけない問題に、議論を中途半端にして、国民運動をするなどということは、甚だ疑問に思います。福島第一原発を廃炉にするにも、原発を動かさなければ出来ないことすら理解していないことに、酷く腹立たしいのです。更に既にある放射性廃棄物だって、日本には17,000トンもあるのですから。プルトニウムも何もかも一緒くだにするフィンランド型の最終処分場でいいのかさえ、まだまだ議論があることであり、そこで即廃炉っていう結論になるものでしょうか。どこかの左翼のように、聊か能天気過ぎませんか。民主党政権下でくだした大飯原発の再稼働で、私は断固反対致しましたが、それとこれは全く違うのです。あの時は野田政権下、京都府綾部市の生まれで、主に滋賀県で育った細野豪志は、内閣府特命担当大臣(原子力防災)になった時に、あの大飯原発の再稼働を決めたのです。不可思議でした。私はその時、原発自体より、緊急避難する時や、大飯原発に事故が発災した際に、救急車や巨大な放水車など、速やかに現地に行けるのだろうかと単純に思ったのが、当時の反対意見の結論でした。綾部出身なら、大飯原発に行ける国道や県道は片側一車線で、トンネルも多いことは当然ご存知のはずですが、その危惧は、どうしてしないんだろうかと、強く危惧したためでした。でも今回の選挙で、絶叫する脱原発は、全然別個な問題です。そう一筋縄ではいかないからこそ、ここに書かせて戴いておりますが、フィンランドのオンカロをただ絶賛するボケ老人には理解出来ないのでしょう。オンカロは、アメリカ合衆国のネバダ州核廃棄施設ヤッカマウンテン方式と同じですが、果たしてそれでいいのだろうかという重大な懸念があるからです。環境派の作家であるスチュアート・ブランド氏が大絶賛したとか、半ば本気で伺っていましたが、これが問題なのです。重大な課題はプルトニウムの扱い方なのです。それで爆弾を作るか、優良な金属として科学的に処理する方法を見つけ出すか、被爆国日本の使命は、もっと研究し尽くして、常に平和利用の研究の場を作っておくべきだろうと、私は信じているからです。
先日、Eテレで放映された「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」は衝撃的でした。水爆実験の犠牲になったのは第五福竜丸事件でしたが、その後研究者たちは海中の放射能について永年に渡って研究していたのです。その結果、アメリカ政府と日本政府が談合し、日本政府はその資料すべてを隠していたという疑惑も浮上してまいりました。そういう問題は決して秘匿すべきではないのです。海水の表面には殆ど出ないのが、海中深くには、反応が凄い放射能の部分を検出していたのですから。私の友人で、帰村困難エリアで、スーパーを営んでいた社長が、帰村し、そのまま自死しました。避難場所を転々とした80歳の老女が「私の避難場所はここです」と、祖先が眠る場所で自死した悲劇も、私には決して忘れることは出来ません。確かに放射能の現場では人が亡くなっておりませんが、福島の特異な状況下で、それは言えないのではないでしょうか。他にも大勢の方々が亡くなっているはずです。正しく、福島原発事故は人災そのものであり、今後の検証と実証の鏡になって欲しい念願が強く残っています。
最近、佐村河内守氏が、実際作曲していなかったとか、耳が聞こえていたとか、喧しいが、彼が震災者に向けて作曲したとされる楽曲があるだけでも、気色悪くなります。岡田英悟という詐欺師が、NPO法人大雪りばぁねっと。として、主に山田町で活動していました。でも資金がなくなると、一方的に現地の方137人を解雇し、本人はいい加減な経理をやっていたなんて、最低も最低。万死に値するものであります。大体本人の顔を見れば分かりそうなものでしょう。人の弱みに付け込むなんて、従前の日本人にいたのでしょうか。情けない限りです。
岩手県の被災者にとって、最も偉大で、元気を貰える人は宮沢賢治をおいて他にいないでしょう。私は何人からも、そう伺っております。だって賢治の「雨にも負けず」の詩には、必ず東西南北に「行って~~~」とあるではありませんか。行かずに出来ようはずがありません。東西南北に「行って」、被災者に沿うことぐらい出来るのではと思わずにはいられません。賢治のように、誠実に、実直に。
雨ニモマケズ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
宮沢賢治 詩
三陸鉄道北リアス線田野畑村にある島越駅付近 津波にも流されなかった賢治の詩碑