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小泉首相の靖国神社参拝問題に物申す!

2005年10月20日 20時31分14秒 | エッセイ
-:-:- 歌舞伎町案内人身辺日記-:-:-
実を言うと、今まで中国と日本の関係を語る上でコメントを控えてきた事がある。それは、靖国神社参拝問題の話だ。
私が2001年に中国にやって来て以来、ずっと心に引っかかって来た問題だ。先の10月17日にも、またまた小泉首相が靖国神社への参拝を行い、中国のメディアでも小泉首相及び日本への不信感、反感を露わにしていた。
くしくも10月17日は、中国の『神舟六号』の打ち上げ成功、地球への帰還の為、中国はまさにお祭り騒ぎだった。そんな、何とも嬉しい日にも関わらず、小泉首相は、またまた靖国神社への参拝を敢行した。今回は秋の祭事にあわせての参拝である事、私的参拝である事、礼服、記帳も無しと言う点を隠れ蓑や迷彩服にし、中国がお祭り騒ぎの隙に乗じて、コソコソとゲリラ参拝を行ったのだ。そんな、姑息な手を使った参拝は、一応事前に報告はされていたようだが、公的だろうが、私的だろうが、参拝は参拝であり、しかも中国が宇宙船打ち上げで楽しい雰囲気でいる時に限って靖国神社を参拝して水を注すような行動を良く出来たものだと、中国にいながらにして開いた口が塞がらなかった。
中国や近隣諸国の方々からすれば、公的だの、私的だのと言うのは単なる建前の話で、問題は参拝をするかしないかだ。しかも、これは日本国憲法の前文に反した行為だと思う。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
小泉首相は、この日本国憲法前文の意味するところを真摯に受け止めなくてはいけないと思う。
私は毎回、小泉首相が靖国に参拝を行う度に中国人達から、質問攻めに遭い、大変不愉快な思いをしている。まあ、私一人が不愉快な思いをする位ならまだ良い、他国民の感情を無視して靖国神社へ参拝し続ける小泉首相のお陰で、中国、韓国などの人達は私なんかより、ずっと不愉快な思いをし、憤慨しているのだ。私だって日本人と言う立場上、小泉首相が参拝をする度にトバッチリを受けなくてはならない辛い立場にいるのだ。しかも、職場の日本人は私のみ、たよりのダーリンだって結局は中国人だ。常に小泉嫌いを口にしている
そりゃ、中国人も皆さんの怒りの声も御尤もだと思っているので、私も中国人の神経を逆撫でする様な事は出来ないし、私の意見は中国人と同様である。『もう、靖国神社には参拝しないで欲しい!』…の一言に限る。
日本人の中には、戦死者を祀る事が何故いけないのか、中国や諸外国が日本の政治や風習に口出しするな等と言う方がいるが、それは間違いだ。日本の平和と言うのは、諸外国との協和によって保たれているのだ。参拝は個人の自由だと言うけれど、小泉首相の場合は個人は優先されないだろう。私的に参拝した所で、彼には日本人代表と言う言葉が付きまとっているのだ。実際上、私的に参拝しても小泉純一郎が参拝した事実は変らないと言う事だ。
また、私は会津人なので靖国神社への見方は複雑だ。
何故なら、戊辰戦争以来、天皇に逆らった『賊軍』との汚名を着せられた会津藩士、その子孫である会津人は、靖国神社から徹底的に排除された。さらに、明治維新の功労者である西郷隆盛や江藤新平らの様に、政府に反逆した人物も祀られていない。もちろん、空襲や原爆で亡くなられた民間人や、アジアの戦争犠牲者は全て対象外である。
靖国神社は明治二年に長州の大村益次郎の発案で創設され、戊辰戦争で天皇に忠義を尽くし戦死した官軍の兵士を祀るのが目的だった。それ故、靖国神社では、官軍に刃向かった会津藩士や幕府側の戦死者は『賊軍』として排除された。
中国でこの歴史を知っている中国人は殆どいない。これは日本国内の事情だが、日本人でも会津人は『賊軍』の子孫と言う屈辱的な立場に置かれて来た。私の祖父の弟も戦死しているが、彼もこうした差別の下、靖国神社へは祀られていないが、なにも靖国神社に祀られなければ成仏出来ないと言う事はない。大事なのは戦争の犠牲になった方々の冥福を祈り、今後、あの様な悲惨な事件が起きない様に平和を祈る心だ。しかし、靖国神社は創建からの目的が違っている、それは犠牲者の冥福は祈ると言う肩書きの裏に隠された政治的な意味と『差別性』が有るからだ。
私は靖国神社は聖地でも何でもないと思っている。何故なら靖国神社自体が差別的政治、敵を人間とも思わない、人間の魂の重さと言うものを理解しない政治が生んだ代物であり、日本人が戦争で犯した過ちを悔いている場所では無いからだ。そんな場所で供養される英霊達が可哀相で仕方が無い、しかも、間違った政治の元、死ななくてはならなかった兵士達と彼等に喜んで死ねと言った国の指導者(A級戦犯)が一緒に祀られる事も可笑しな話しだ。
私が戦死者だったら、『何でお前と一緒に祀られなきゃならないんだ。』と文句の一つも言いたくなる所だ。
フランスの女性哲学者シモ-ヌ・ヴエイユは、『真実は苦しむ者の側にある』と言っている。我々日本人は、この言葉のもつ重さを真摯に受け止めて行くべきだと思う。
今日は私が最近気になっている、日本在住の中国人作家にして、歌舞伎町案内人の
李小牧(リー・シャオムー)さんの日記を紹介します。
コメント (1)
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