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週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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法話・「信心」

2011-07-14 02:47:49 | 法話のようなもの

       (7月9日 お経の会の法話より)


今日は「信心」についてお話しようと思います。

「信心」、すなわち「信じる心」ですが、さて皆さん、阿弥陀さまを信じていますか?
…ちょっと答えにくいようですね。

では、質問を変えましょう。
皆さんのご主人、もしくは奥さまを、これまで信じてこられましたか?
ご両親やお子さんを、心の底から信じていましたか?

…これまた答えにくいですよね。
家族と言えども、いざっていうときは信じられるものですが、普段もそうかと言われると、ちょっとしたことで不信感を抱いてしまったりするものです。

ではここで、一つ例え話をしますね。

一昨日の夜に、副住職(主人)が友人と夕飯を食べに出掛けました。
そのお友達は出張で大阪から東京に来たんだそうです。
けれど、これはあくまで副住職から聞いた話なので、実際のところ、それが本当の出来事だったかどうかは分かりません。
もしかしたら、友人じゃなくて、浮気相手だったのかもしれない。

ここで私が副住職に、「信じてるからね」と言ったとします。
さて、これは果たして言葉通りに、私は副住職のことを信じているのでしょうか?
…もし本当に信じていたとしたら、そんな言葉は出ませんよね。
やっぱり、一抹の不安があるからこそ、そういう言葉が出るんだと思うのです。
(※ 実際には言ってませんよ・笑)

そうなると、やっぱり信じことは難しいですし、これが「信じ続ける」となると並大抵のことではありません。 
信じたのなら、相手に裏切られようと、何があろうと、信じ続けることこそ本当の「信」のはず。
けれど、「ここまでは許すけど、ここからは許さない」とか、「信じてるから〇〇して」とか、線引きしたり、取り引きしたり、条件付けをしてしまうのが、私の「信」です。

そこには、自分の都合だけで相手を信じている私がいます。
相手をどこまでも信じきることのできない私がいます。
それはもしかしたら、始めから信じていなかったのかもしれません。

相手のせいで信じ続けることができないのではありません。
私の心のせいで信じ続けることができないということなのです。

                       (法話・「信心」へと続きます)



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