(7月9日 お経の会の法話より)
今日は「信心」についてお話しようと思います。
「信心」、すなわち「信じる心」ですが、さて皆さん、阿弥陀さまを信じていますか?
…ちょっと答えにくいようですね。
では、質問を変えましょう。
皆さんのご主人、もしくは奥さまを、これまで信じてこられましたか?
ご両親やお子さんを、心の底から信じていましたか?
…これまた答えにくいですよね。
家族と言えども、いざっていうときは信じられるものですが、普段もそうかと言われると、ちょっとしたことで不信感を抱いてしまったりするものです。
ではここで、一つ例え話をしますね。
一昨日の夜に、副住職(主人)が友人と夕飯を食べに出掛けました。
そのお友達は出張で大阪から東京に来たんだそうです。
けれど、これはあくまで副住職から聞いた話なので、実際のところ、それが本当の出来事だったかどうかは分かりません。
もしかしたら、友人じゃなくて、浮気相手だったのかもしれない。
ここで私が副住職に、「信じてるからね」と言ったとします。
さて、これは果たして言葉通りに、私は副住職のことを信じているのでしょうか?
…もし本当に信じていたとしたら、そんな言葉は出ませんよね。
やっぱり、一抹の不安があるからこそ、そういう言葉が出るんだと思うのです。
(※ 実際には言ってませんよ・笑)
そうなると、やっぱり信じことは難しいですし、これが「信じ続ける」となると並大抵のことではありません。
信じたのなら、相手に裏切られようと、何があろうと、信じ続けることこそ本当の「信」のはず。
けれど、「ここまでは許すけど、ここからは許さない」とか、「信じてるから〇〇して」とか、線引きしたり、取り引きしたり、条件付けをしてしまうのが、私の「信」です。
そこには、自分の都合だけで相手を信じている私がいます。
相手をどこまでも信じきることのできない私がいます。
それはもしかしたら、始めから信じていなかったのかもしれません。
相手のせいで信じ続けることができないのではありません。
私の心のせいで信じ続けることができないということなのです。
(法話・「信心」②へと続きます)