週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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人身受け難し

2011-08-04 00:31:41 | 法話のようなもの

「人身受け難し、今すでに受く」

お経本の始めのほうにある『三帰依文』の冒頭の箇所です。
「人身」は「にんじん」と読みます。

お釈迦さまは、ガンジス河のほとりに立たれ、遥かに流れる河を見渡しながら、どこまでも続く川辺にある無数の砂の数を、あらゆる生命体の数に例えられました。
そして、その砂を手にすくい、人間に生まれることができるのは、これほどの数しかいないのだということ示されました。

命をいただくことは、とてもとても稀なこと。
そのうえ、人としての命をいただくことは、さらにさらに稀なこと。

それはそれは有り難いことだと思ったら、この『有り難い』もまた、人としての命をいただくことの『有り難さ=有ることが難しい』ということを例えた仏教語。(→過去記事参照

自分が人間であることに、疑問を持つことなんてありません。
けれど、「なぜ生まれたのか」「なんのために生きているのか」という問いにぶつかる人は多いはず。

その答えになるかは分かりませんが、『三帰依文』はこう続きます。

「仏法聞き難し、いますでに聞く」

お釈迦さまは、手のひらの砂を反対の手の爪の先ですくって、仏法に出遇えるのは、これほどの数しかいないのだということを示されました。

他の生命体と比較して、人間が優れているというのでも、人間が尊いというのでもありません。
ただひとえに、あらゆる縁が調って、ようやく仏法に出遇わせていただける身とならせていただいたということが、何よりも素晴らしく、尊いということ。
それが人として生まれた理由であり、生きる目的なのだと受け取れはしないでしょうか。

そしてその喜びが、『三帰依文』の冒頭に書かれているのです。


…とまぁ、固い話はここら辺にして、言いたかったのは、友人夫妻に赤ちゃんが誕生したということでした(祝)

この愛しき幼な子は、お釈迦さまの爪の上の砂の数に含まれた人生を歩むことになるでしょう。
どうか阿弥陀さまのもと、幾重ものご縁に支えられた命を生かされているという「気づき」に溢れた人生を歩むことを願ってやみません。

新たな命の誕生を、心より祝福申し上げます。