縄文人の反乱 日本を大事に

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●八百比丘尼(やおびくに)伝説●人魚(にんぎょ)

2012年08月19日 23時03分24秒 | 色んな情報
●八百比丘尼(やおびくに)伝説●人魚(にんぎょ)
★人魚(にんぎょ)とは水中に生息すると考えられた伝説上の生き物。http://p.tl/Sjhv
★日本の人魚 http://p.tl/M-SR 八百比丘尼(やおびくに、はっぴゃくびくに)
★人魚 (曖昧さ回避) http://p.tl/dCJv

★八百比丘尼伝説 http://p.tl/mTaX
★八百比丘尼の伝説 - Leyline Hunting http://p.tl/PP1J
★不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼 http://p.tl/Tn3e
★八百比丘尼入定地 空印寺 http://p.tl/8LeW
人魚の肉を食べて不老 不死の力を得たという美女の民話は全国各地に残っています。福井県小浜市の「空印 寺」は八百比丘尼が入定したという洞窟があるお寺です。
★八百比丘尼の不老不死伝説と塔「勝造寺層塔」【香川】http://p.tl/4eGb
★白山町円福寺~八百比丘尼伝説の地 http://p.tl/iXoc
★若狭幻想記:小浜市の八百比丘尼伝説 http://p.tl/rEpU
★春日井の民話シリーズ 八百比丘尼 http://p.tl/WpQt
★八百比丘尼物語 http://p.tl/gnrR
★人魚伝説~八百比丘尼(はっぴゃくびくに)http://p.tl/mhy3
★栃木市 八百比丘尼公園 http://p.tl/VDnW
★八百比丘尼伝説 « 若狭小浜まちなみ探訪記 http://p.tl/BHVa
★八百比丘尼 (やおびくに). (上本郷の七不思議より).http://p.tl/HxED
★八百比丘尼【はっぴゃくびくに】朝日日本歴史人物事典
人寿800歳に達したとされる長命の比丘尼。全国を旅したという伝説が各地に残っている。これら伝説の中心と目されているのは,北陸から能登地方である。福井県小浜市の空印寺の洞穴で入定したといわれる八百比丘尼は,長寿であるにもかかわらず,その容貌は,15,6歳くらいの若い女性のように見えたという。若さを保っているのは,禁断の肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(あわび)を食べたためであると伝えられている。新潟県の佐渡島の伝説では,八百比丘尼は,人魚の肉を食べ1000年の寿命を得たが,200歳の分を国主に譲り,自分は800歳になって若狭の小浜で死んだと伝えている。文献のうえでは,中世室町時代の記録『康富記』や『臥雲日件録』に,文安6(1449)年5月,八百比丘尼が若狭より上京したことを記している。八百比丘尼像の特徴は,手に椿の花を持っていることである。北陸から東北地方にかけての沿岸部には,椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は,春の到来を告げる花とみなされ,椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が,椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている。八百比丘尼の別称は白比丘尼という。白のシラは,再生するという古語であり,シラ比丘尼の長寿は,巫女の特つ霊力とかかわるものであろう。(宮田登)
★八百比丘尼【はっぴゃくびくに】世界大百科事典 第2版
〈やおびくに〉ともいう。800歳に達したという伝説上の老比丘尼で,全国を旅したといわれている。福井県小浜市の空印寺の洞穴に住み,その容貌は美しく,15,16歳のように見えたという。若さを保っているのは,禁断の霊肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(アワビ)を食べたためと伝えられ,たいてい異人饗応譚が伴っている。新潟の佐渡島に伝わる話では,八百比丘尼はここで生まれ,人魚の肉を食べて1000年の寿命を得たが,200歳を国主に譲り,自分は800歳になったときに若狭に渡って死んだと伝えている。
▼八百比丘尼について記述のある項目
 比丘尼【びくに】 人魚【にんぎょ】
 
★八百比丘尼【はっぴゃくびくに】デジタル版 日本人名大辞典+Plus
長寿伝説の尼。
人魚の肉をたべて800歳までいきたとされ,肌が娘のように白く白(しら)比丘尼ともよばれる。若狭(わかさ)(福井県)小浜の空印(くういん)寺を中心に,植樹伝説や椿をもって諸国を巡歴した話が各地に分布する。宝徳元年(1449)若狭から京都にあらわれたという記事が「康富記」「臥雲日件録」にみえる。「やおびくに」ともいう。
★八百比丘尼【はっぴゃくびくに】大辞林 第三版
伝説の一。人魚の肉など特に変わったものを食べたため,娘の姿のまま老いることなく八百歳まで生存したという比丘尼の話。若狭(わかさ)国小浜に結びつけて説くものが多い。
★不吉な人魚伝説「八百比丘尼」:http://p.tl/PbW5
★~ 八百歳の美少女老婆!? 八百比丘尼伝説!!  http://p.tl/Djps
★能登の民話伝説(口能登地区-No.3)http://p.tl/8nM5
★能登の民話伝説(奥能登地区-No.5)http://p.tl/u4FS
★八百比丘尼(やおびくに)伝説 http://p.tl/IfJy
★空印寺(福井県小浜市) 八百比丘尼伝説の洞穴  http://p.tl/Bld6
★粟嶋神社  八百比丘尼の伝説・・静の石屋  少彦名命・・お岩さん http://p.tl/-N2V
★藪椿の花と八百比丘尼伝説 http://p.tl/Y4xo
★わ~~ ここ 福井県にも 八百比丘尼伝説の地がありました http://p.tl/TZJw
★八百比丘尼伝説と不老不死の話 http://p.tl/6mox
★粟嶋神社 (鳥取県米子市彦名町) http://p.tl/j0l4
★福井の山の伝説的なあれ 八百比丘尼伝説 http://p.tl/1Qia
★良弁と八百比丘尼の物語り http://p.tl/fCID
★植水古墳群 八百比丘尼伝説 « 古墳横穴及同時代遺跡探訪記録帳2 http://p.tl/6VMz
★佐渡の伝説・民話 http://p.tl/Axtz
★天ちゃんの・捜妖記 人魚 天羽[司法行政卿]孔明 http://p.tl/ma4R
日本の人魚伝説の中で一番有名なものは、福井県若狭小浜の「八百比丘尼」ではない でしょうか
★まつどの人魚伝説 - ODN http://p.tl/4uBu
★丹土     http://p.tl/B2yR
丹土とは一般に「赤土」のことで、丹と朱は同義語で、赤色を指す。
★民話・伝説語り http://p.tl/HeBM

●建前(たてまえ)

2012年08月19日 19時18分09秒 | 色んな情報
●建前(たてまえ)
★建前(たてまえ)http://p.tl/qh2H
・建築での主要な柱、梁、棟木などの組み上げ。また、その時に行う式典。上棟式を参照。
・企業などが表面上に示している方針、概念、理念。内実とは違ってる場合が多々ある。本音と建前を参照。

★家を建てるぞ!!: 上棟式(建前)http://p.tl/aF6T
★建築(けんちく)http://p.tl/Z5wp
人間が活動するための空間を内部に持った構造物を、計画、設計、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。また、そのような行為によって作られた構造物そのものを指すこともある。ただし、本来後者は建築物と呼ぶのが適切である。
★建築物(けんちくぶつ)建築された構造物。http://p.tl/zHCm
日本の法律用語としては建築基準法に定義があり、土地に定着する工作物(こうさくぶつ)[1]のうち特定条件を満たすものが建築物とされる。
★構造物(こうぞうぶつ)http://p.tl/Wcjc
道路、ビル、ダム、堤防などのように複数の材料や部材などから構成され、基礎などにより重量を支えられた構造で造作されたもの。空港、高速道路、高層ビル、駅、港湾などのようにコンクリート構造で作られたコンクリート構造物、鋼橋、工場、その他の鉄骨建造物などのように主要な部材が鋼材である鋼構造物、堤防、盛土、土手などのように土を使用した土構造物など、使用する材質によっていくつかに分類される。建築を除外した土木工学で扱う構造物は特に土木構造物と呼ばれることがある。
★柱(はしら)http://p.tl/oP_u
材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)としたもの。
材料は、古来は木材、石材、竹材などが使われ、近世以降は鋼材、コンクリート、鉄筋コンクリート製のものも現れた。
柱は建築物の構成要素となるほか、電柱や御柱など、それ自身が構築物(内部空間がないので建築物ではない)となっていることもある。
用途、場所、役割によって呼び名が異なる。床の間に使う装飾的な柱を床柱、門を支えるものを門柱、塀を支える柱を控柱、また、大壁を真壁に見せかけるための付け柱などとそれぞれに名称が付けられている。家の中心となるような太い柱は、大黒柱・大極柱(だいこくばしら)と呼ばれる。
※比喩
社会や組織において建築物における柱と同じ役割を果たすものの例え(暗喩)にもよく用いられる。特に大黒柱の呼称は、家族の主人に喩えられる。
●●●??? ↓↓↓   誰か助けて解らない 説明不可
★メタファー(metaphor)(暗喩から転送)http://p.tl/gcQi
隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、伝統的には修辞技法のひとつとされ、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。
つまり、「~のようだ」のような形式だけであからさまに比喩とわかる比喩(=simile直喩)ではないもののことである。
★転義法(比喩から転送)http://p.tl/U2oe
転義法(てんぎほう)あるいは転義(てんぎ)(英、trope)とは、修辞学の修辞技法の一種で、例えば、言葉を文字通りの使い方あるいは標準的な使い方とは別の方法で用いることを指すための学術的な用語。
日本語で通常「比喩」「比喩的用法」あるいは「喩」などと呼ばれているものは、およそこれに相当する。洒落も転義法に含まれる。
●●●??? ↑↑↑


★★本音と建前(ほんねとたてまえ)http://p.tl/FCZg
何がしかに対する人の感情と態度との違いを示す言葉であり、また日本人の価値観に固有であることから、しばしば日本人論に見出される言葉である。
 
 
 
こんなものと一緒
私は馬鹿です

●庇(廂、ひさし)●母屋(もや、おもや)

2012年08月19日 18時38分56秒 | 色んな情報
●庇(廂、ひさし)●母屋(もや、おもや)
★庇(廂、ひさし)http://p.tl/D27l
家屋の開口部(窓、出入り口)の上に取り付けられる日よけや雨よけ用の小型の屋根のこと。
日本建築では、主にろく庇と腕木庇の二つが造られている。
★鼻隠(はなかくし)http://p.tl/V5s1
軒先に取り付けられる横板。垂木(たるき:屋根板又は屋根下地を支えるために母屋から軒にかけられる材)の先端部(鼻)を隠すために取り付けられる。鼻隠(し)板・鼻搦め・風返しなどともいう。鼻隠は木製のものが多いが、金属製・プラスティック製などもある。モルタルや漆喰で塗籠めたり、板金などを張る場合もある。
★垂木(たるき)http://p.tl/4YNR
木造・鉄骨構造などの建築における小屋組構造材である。棰(木へんに垂)とも書かれる。
軒桁-母屋-棟木の上に等間隔に渡される。垂木の上に野地板や構造用合板などを張り、屋根下地とすることが多い。
★母屋(もや、おもや)http://p.tl/cBvK
日本建築で使われる空間名称または、小屋組の構造部材の一つ。
○母屋(空間名称)
・「もや」から「おもや」へ
「母屋」はもともと「もや」と読み「庇」・「孫庇」の対義語であったが、寝殿造の建物がつくられなくなると、読みと意味を変えている。
それには、平安時代後半から、屋根を支持する天井より上の構造と、屋内を形づくる天井より下の構造とを分離させた日本独自の建築技術が発達したことが大きくかかわっている。
これによって用途や機能に応じた部屋が屋内に自在に配置されるようになり、「母屋」の指し示す対象が大きく変化したと考えられている。
・もや
中世以前(主として古代以前)の日本建築で使われる空間名称。寝殿造などで家屋の主体になる部分。「庇」に対する語。「身舎」とも書く。身舎の外側を「入側」と呼ぶこともある。
建物の中心である母屋に対し、その周囲をとりまく空間は庇と呼び、庇は母屋より一段低い空間とされた。儀式の際には身分の上位者だけが母屋に座るなど、用途も区別されていた。これには、三角形の屋根をのせる古墳時代以来の古代建築のあり方に強く制約されていた。
・おもや
中世以降(主として近世以降)の日本建築で使われる空間名称。屋敷にある建物のうち家族がふだん住居として生活する空間で、「離れ」や「納屋(物置)」、「蔵(倉庫)」、「外便所」など附属屋に対する語。主屋(おもや)。本屋(ほんや)。
○母屋(建築部材)
母屋(もや)は木造建築・鉄骨構造の小屋組部材の名称。一般住宅のほとんどの場合約90ミリ四方の杉の角材であることが多く意匠の目的で丸材を用いることもある。在来工法では、小屋梁の上に約900ミリ間隔で小屋束を立てその上に上げられる。切妻や入母屋の妻側に突出させた母屋を鼻母屋といい、部材自体を化粧材としたり、漆喰やモルタルなどで塗籠めるかまたは破風板で隠したり木口に板金を被せるものもある。
★離れ(はなれ)http://p.tl/_BqZ
一定の広さをもった敷地内において、主たる建物である母屋(おもや)に対し従たる建物として母屋から離れた場所に存在する建物である。離れ座敷、離れ家ともいう。

★庇(廂、ひさし)
1.建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。軒(のき)。
2.帽子の、額の上に突き出た部分。つば。
3.「庇髪(ひさしがみ)」の略。
4.寝殿造りで、母屋(もや)の外側に張り出して付加された部分。周囲に妻戸などをたて、外に縁を巡らす。庇の間(ま)。入り側(がわ)。
・庇を貸して母屋を取られる
1.一部を貸したために、やがて全部を奪われるようになる。
2.保護してやった相手に、恩をあだで返される。
・ひさしがみ【庇髪】
束髪の一。入れ毛を使って前髪と鬢(びん)とをふくらませ、庇のように前方へ突き出して結う髪形。明治30年代ごろ、女優川上貞奴(かわかみさだやっこ)が始めてから、大正の初めにかけて流行。また、女学生が多く用いたことから、女学生の異称ともなった。
・ひさしのくるま【庇の車】
⇒網代庇(あじろびさし)の車
『唐破風(からはふ)造りの屋根と庇をつけた網代車。親王・摂関・大臣・大将などの乗用。ひさしのくるま。』
・ひさしのごしょ【廂の御所】
鎌倉幕府で、将軍の御所の庇の間。廂番が宿直した所。
・ひさしのだいきょう【庇の大饗】
平安時代、大臣が初任の時、寝殿の庇の間で行った大饗宴。ひさしのたいきょう。→母屋(もや)の大饗
『もや‐の‐だいきょう〔‐ダイキヤウ〕【▽母屋の大×饗】
《寝殿の母屋で行われたところから》平安時代、毎年正月に行われた大臣の大饗。→庇(ひさし)の大饗』
・ひさしのふだ【廂の簡】
鎌倉幕府で、小侍所(こざむらいどころ)に属した番衆のうち、将軍に親しく近づくことを許された者の姓名を記して廂の御所に掛けておいたふだ。
・ひさしのま【庇の間】
「庇4」に同じ。
・ひさしばん【廂番】
鎌倉幕府の職名。廂の御所に交代で宿直して将軍を護衛する役。1番から6番まであり、それぞれ10名前後であたった。廂の衆。

★「庇」で始まる言葉 - 国語辞書の検索結果 全18件
・かばい【庇い】 かばうこと。
・かばい‐ぐち【庇い口】 人をかばうような言い方。また、その言葉。
・かばい‐だて【庇い立て】 [名](スル)しきりにかばうこと。何かにつけてかばうこと。「自分の子だけ―する」
・かばい‐て【庇い手】 相撲で、重なり合って倒れるとき、上になったほうが相手をかばうために先に手をつくこと。負けにならない。
・かば・う【庇う】 [動ワ五(ハ四)]
1 他から害を受けないように、助け守る。いたわり守る。「いじめられている子を―・ってやる」「傷を―・う」
2 大事にしまっておく。「古いのを着て、新しいのは―・っておきな」〈滑・浮世床・二〉
・たば・う【庇ふ/貯ふ】 [動ハ四]
1 害などから大切に守る。かばう。「与一殿討たれ給ひぬと聞きて後は誰ゆゑ身をば―・ふべき」〈盛衰記・二〇〉
2 大切にしまっておく。蓄える。「生(な)り物類なら何にても、―・うて虫は入れまいに」〈浄・八百屋〉
・ひ【庇】 [人名用漢字] [音]ヒ(呉)(漢) [訓]かばう ひさし 1 上からおおうようにして守る。かばう。「庇蔭(ひいん)・庇護/高庇」 2 ひさし。「雪庇(せっぴ)」
・ひ‐いん【庇陰/庇蔭】 [名](スル)
1 ひさしのかげ。
2 かばうこと。また、おかげをこうむること。「罪人を―することは」〈鉄腸・南洋の大波瀾〉
・ひ‐けい【庇恵】
おかげ。恩恵。庇護。「貴殿の御―にて勅勘を赦(ゆる)さるるも」〈浄・反魂香〉
・ひ‐ご【庇護】 [名](スル)かばって守ること。「両親の―のもとに育つ」
・ひご‐けん【庇護権】
国家が、外国の犯罪人や政治的避難者で保護を求めてきた者を、自国領域内で庇護する国際法上の権利。自国の在外公館などでの庇護は原則として認められない。
・ひ‐さし【庇/廂】
1 建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。軒(のき)。
2 帽子の、額の上に突き出た部分。つば。
3 「庇髪(ひさしがみ)」の略。
4 寝殿造りで、母屋(もや)の外側に張り...
・ひさし‐がみ【庇髪】
束髪の一。入れ毛を使って前髪と鬢(びん)とをふくらませ、庇のように前方へ突き出して結う髪形。明治30年代ごろ、女優川上貞奴(かわかみさだやっこ)が始めてから、大正の初めにかけて流行。また、女学生...
・ひさし‐の‐くるま【庇の車】 ⇒網代庇(あじろびさし)の車
ひさし‐の‐だいきょう【庇の大饗】
平安時代、大臣が初任の時、寝殿の庇の間で行った大饗宴。ひさしのたいきょう。→母屋(もや)の大饗
・ひさし‐の‐ま【庇の間】 「庇4」に同じ。
・庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られる
1 一部を貸したために、やがて全部を奪われるようになる。
2 保護してやった相手に、恩をあだで返される。
・ひ‐ほう【庇保】 [名](スル)
かばいまもること。庇護。ひほ。「家康を―弁護し」〈逍遥・小説神髄〉

●げや●したや●しもや●おもや●本家(ほんけ)●上・中・下屋敷

2012年08月19日 16時45分32秒 | 色んな情報
●げや●したや●しもや●おもや●本家(ほんけ)●上・中・下屋敷
★げや【下屋】
母屋(おもや)から差し出して作られた屋根。また、その下の空間。さしかけ。さしかけ屋根。
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★げや【下屋】建築用語大辞典
【用  語】下屋
【よみがな】げや
【意  味】 2階建てでいう平屋部分。屋根のかかった1階部分をいう。
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★げや【下屋】リフォーム用語集
主屋の屋根より一段下げた位置に取り付けられた片流れの屋根、またはその下にある空間。建物外周部に面した縁側・物入・押入・トイレなどが下屋として構成されることが多い。
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★げや【下屋】歴史民俗用語辞典
読み方:ゲヤ(geya)
母屋につけ足した葺きおろしの小屋。
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★したや【下家/下屋】
(1)母屋(おもや)に付属する小さな家。
(2)階下・縁の下など家屋の下側。
「二階の口よりさし覗けば、男は―に顔を出し/浄瑠璃・曾根崎心中」
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★しもや【下屋】
寝殿造りで、主な建物の後ろにあって召し使いなどが住み、調度などを置く建物。しものや。
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★しも‐やしき【下屋敷】
江戸時代、本邸以外に江戸近郊に設けられた大名屋敷。しもやかた。したやしき。
★なか‐やしき【中屋敷】
江戸時代、大名などが上屋敷(かみやしき)の控えとして設けた屋敷。
★かみ‐やしき【上屋敷】
江戸時代、上級武士、特に諸国の大名が江戸市中に設けて平常の住まいとした屋敷。

★した‐や【下家/下屋】
1.母屋(おもや)に付属する小さな家や小屋。
2.縁の下。床下。
「縁の―にそっと入れ」〈浄・曽根崎〉
3.床下(ゆかした)の部屋。懸け造りの家の下の部屋、または、2階屋の階下の部屋をいう。
「―へ廻って探りより、闇にも光るだんびら抜いて突っ込む二階の板」〈浄・矢口渡〉
★おも‐や【母屋/母家/主屋】
1.敷地内の中心になる建物。主人や家族が住む。本屋(ほんや)。
2.庇(ひさし)・廊下などに対して、家屋の中央の部分。
3.分家・出店に対して、本家(ほんけ)。本店。
「惣じて其処(そこ)は出店で…―は松屋町九之助橋の角」〈浄・生玉心中〉

★いくたましんじゅう〔いくたまシンヂユウ〕【生玉心中】
浄瑠璃。世話物。三段。近松門左衛門作。正徳5年(1715)大坂竹本座初演。遊女おさがと茶碗屋嘉平次の生玉神社での情死事件を脚色したもの。
★そねざきしんじゅう〔そねざきシンヂユウ〕【曽根崎心中】
浄瑠璃。世話物。3巻。近松門左衛門作。元禄16年(1703)大坂竹本座初演。曽根崎天神で起きたお初と徳兵衛との情死事件を扱ったもので、近松世話物の第1作。お初徳兵衛。
★しんれいやぐちのわたし【神霊矢口渡】
浄瑠璃。時代物。五段。福内鬼外(ふくちきがい)(平賀源内)作。明和7年(1770)江戸外記座初演。新田明神(東京都大田区)の縁起を「太平記」をもとに脚色したもの。通称「矢口渡」。
★たいへいき【太平記】
1.南北朝時代の軍記物語。40巻。小島法師作と伝えられるが未詳。応安年間(1368~1375)の成立とされる。鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を、華麗な和漢混交文で描く。
2.「太平記読み」の略。
★たいへいき‐よみ【太平記読み】
江戸時代に、道端などで太平記などの軍記物を講釈すること。また、それを職業とした人。のちの講談のもとという。太平記講釈。軍書読み。
★わかん‐こんこうぶん〔‐コンカウブン〕【和漢混交文/和漢混×淆文】
和文の要素と漢文訓読語の要素を合わせもつ文体。特に、鎌倉時代以降の軍記物語などにみられる漢語を多くまじえた文語文。
★わ‐ぶん【和文】
1.日本語で書かれた文章。日本語の文。国文。邦文。
2.和語を主とし、特に平仮名を用いて書かれた文章。平安時代の和歌・物語・日記などにみられる文章。
★かんぶん‐くんどく【漢文訓読】
漢文を日本語の文脈に直して読むこと。→訓読
★くん‐どく【訓読】
[名](スル)
1.漢字を、その意味にあたる日本語の読み方で読むこと。「花」を「はな」、「草」を「くさ」と読む類。くんよみ。⇔音読。
2.漢文を日本語の文法に従って、訓点をつけて読むこと。
★おん‐どく【音読】
[名](スル)
1.声を出して文章を読むこと。⇔黙読。
2.漢字を字音で読むこと。おんよみ。⇔訓読。
★もく‐どく【黙読】
[名](スル)声に出さずに読むこと。「脚本をひととおり―する」⇔音読。
★ぐんき‐ものがたり【軍記物語】
中世文学で、戦争・合戦を主題として時代の展開を描いた叙事的物語。保元物語・平治物語・平家物語・太平記など。広義には義経記・曽我物語なども含む。文体は、多く和漢混交文。戦記物語。軍記物。
★ほうげんものがたり【保元物語】
鎌倉時代の軍記物語。3巻。作者未詳。承久年間(1219~1222)ごろまでに成立か。源為朝の活躍を中心に、保元の乱のいきさつを和漢混交文で描いたもの。
★へいじものがたり〔ヘイヂものがたり〕【平治物語】
鎌倉時代の軍記物語。3巻。作者・成立年ともに未詳。平治の乱のいきさつを和漢混交文で描いたもの。平治記。
★へいけものがたり【平家物語】
鎌倉時代の軍記物語。流布本は12巻に灌頂巻(かんじょうのまき)を加えたもの。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が作ったと徒然草にはあるが、作者・成立年ともに未詳。治承~寿永期(1177~84)の動乱を、平家一門の興亡を中心にとらえ、仏教的無常観を基調に流麗な和漢混交文で描いた叙事詩風の作品。平曲として琵琶法師によって語られ、後世の文学に大きな影響を与えた。治承物語。平語。
★しなののぜんじ‐ゆきなが【信濃前司行長】
鎌倉初期の人。関白九条兼実の家司(けいし)であった中山行隆の子。徒然草の記述では平家物語の作者に擬されている。生没年未詳。
★くじょう‐かねざね〔クデウ‐〕【九条兼実】
[1149~1207]鎌倉初期の公卿。藤原忠通の子。九条家の祖。法名は円証。源平争乱期に複雑な政治生活を送るが、源頼朝と結び、摂政・関白となった。博学をもって知られ、典礼・和歌・音楽・書に秀でた。日記「玉葉」がある。月輪(つきのわ)関白。法性寺殿。
★ぎょくよう〔ギヨクエフ〕【玉葉】
平安後期から鎌倉初期にかけての九条兼実(くじょうかねざね)の日記。66巻。長寛2年(1164)から建仁3年(1203)までを記述し、朝儀や政界の実情などに詳しい。玉海。
★じょじ‐し【叙事詩】
叙情詩・劇詩とともに詩の三大部門の一。歴史的事件、英雄の事跡、神話などを題材に、民族または国民共同の意識を仮託した長大な韻文。「イリアス」「オデュッセイア」「ニーベルンゲンの歌」など。エピック。
★へい‐きょく【平曲】
語り物の一種。琵琶(びわ)の伴奏によって平家物語を語るもの。鎌倉初期、盲人生仏(しょうぶつ)が始めたという。鎌倉末期、一方(いちかた)と八坂(やさか)の二流に分かれ、南北朝時代に一方流に明石検校覚一が出て大いに流行した。江戸時代以降、八坂系が衰え、一方系の前田流・波多野流が伝えられたが、今日は前田流を伝える人がわずかに残る。平家琵琶。平家。
★びわ‐ほうし〔ビハホフシ〕【×琵×琶法師】
琵琶を弾くことを職業とした盲目僧体の芸人。平安中期におこった。鎌倉時代、主として経文を唱える盲僧琵琶と、もっぱら平家物語を語る平家琵琶とに分かれた。→平曲
★かたり‐もの【語り物】
日本の声楽曲の一系統で、筋のある物語を節をつけて語るもの。また、その詞章。平曲・幸若(こうわか)舞曲・説経節・祭文(さいもん)・浄瑠璃・薩摩(さつま)琵琶・筑前琵琶・浪花節など。→歌い物
★こうわか‐まい〔カウわかまひ〕【幸若舞】
室町時代に流行した、曲舞(くせまい)系統の簡単な舞を伴う語り物。南北朝時代の武将桃井直常(もものいなおつね)の孫、幸若丸直詮が始めたと伝える。題材は軍記物が多く、戦国武将が愛好した。現在は福岡県みやま市瀬高町大江に残存。舞。舞々。
★説経1が、和讚(わさん)・平曲・謡曲などの影響を受けて音楽化し、語り物となったもの。初めは鉦(しょう)・簓(ささら)、のちには胡弓(こきゅう)・三味線などを伴奏にした。鎌倉末期に成立、本来の門付け芸から、操り人形と結んで江戸初期には劇場にも進出したが、義太夫節の流行とともに衰微。説経浄瑠璃。→五説経
★ご‐せっきょう〔‐セツキヤウ〕【五説経】
説経節のうち、「苅萱(かるかや)」「三荘太夫」「俊徳丸」「小栗判官」「梵天国」の五つの曲目。また、「俊徳丸」以下を「愛護の若」「信太妻(しのだづま)」「梅若」と入れ替える場合もある。説経節の代表曲で、浄瑠璃・歌舞伎などへの影響が大きい。

●   お洒落(おしゃれ)

2012年08月19日 15時25分48秒 | 色んな情報
●   お洒落(おしゃれ)
★洒落(しゃれ)http://p.tl/VYsD
垢抜けていること、気の利いていること。洒落の利いていることを洒落るという。
語源は、一説には、「曝れる(しゃれる)」、つまり「曝される(さらされる)」の意味で、曝されて余分なものがなくなったということからという。
○洒落に関する言葉
・お洒落(おしゃれ) - 特に、服装や髪型,身なりが洒落ていること。
・駄洒落(だじゃれ) - 出来の悪い洒落。ここでは地口のこと。
・洒落女(しゃれおんな) - 遊女のこと。
・洒落本(しゃれぼん) - 主に遊郭をテーマにした江戸中期の大衆文学。
・洒落風(しゃれふう) - 芭蕉の弟子其角が興した俳諧の一派。
・お洒落番長(おしゃればんちょう)- グループの中でもファッションリーダーのこと。または、ファッションに強いこだわりを持った格段にオシャレな人物に与えられる称号のこと。
・マツダ・トリビュートの台湾名、「マツダ・オシャレ」。
★洒落(しゃれ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】洒落とは、語呂合わせなどで、人を笑わせる気の利いた言葉。
【洒落の語源・由来】
洒落の語源は、「晒れ(され)・戯れ(され)」が転じたとされる。
「晒る(さる)」は、長い間、風雨や日光に当たり、白っぽくなるという意味が原義。
「戯る(さる)」は、「たわむれ」の意味。
これらの意味から、「洗練される」「しゃれて趣がある」という意味になった。
「され」が「しゃれ」となったのは、室町時代以降である。
漢字で「洒落」と書くのは、心がさっぱりして物事にこだわらないさまを意味する漢語「洒落(しゃらく)」に由来し、意味の上でも音の上でも似ているため、江戸時代の前期頃から、当て字として使われるようになった。
「洒落」に「酒」が使われるかと問うものもあるが、「洒」は「酉」ではなく「西」である。
★お洒落(おしゃれ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】おしゃれとは、化粧や服装など身なりに気を配ること。美しく装うこと。また、そのような人。オシャレ。
【おしゃれの語源・由来】
おしゃれは、漢字で「御洒落」と書くように、「洒落(しゃれ)」と同じく、「晒れ(され)」「戯れ(され)」が転じた言葉である(漢字の由来等は「洒落の語源」参照のこと)。
おしゃれは、「晒れ」よりも「戯る」に基づくものとされる。
「戯れること」は機転が利き気が利くことから、垢抜けしていることでもあり、そこから、おしゃれをする意味の動詞「しゃれる」が生まれ、おしゃれになったと考えられる。
★いきまたは意気(粋から転送)http://p.tl/eMjp
江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。
江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。
身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。
また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。
反対語は野暮(やぼ)または無粋である。
粋を「いき」と読むのは誤用・誤読である。
上方の美意識である「粋(すい)」とは区別しなければならない。

★野暮(やぼ)または無粋 http://p.tl/daBy
洗練されていない様を表す語である。「いき」の反対の形容である。
★野暮(やぼ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】野暮とは、洗練されていないこと。垢抜けていないこと。形容詞化され「野暮ったい人」などと使われる。世情に疎く、人情など微妙な心の動きを理解できないこと。またそのような人。
【野暮の語源・由来】
野暮は、遊郭などの事情に疎いことを意味していたが、その意味が転じ、洗練されていないことを広く意味するようになった。
野暮の語源には、田舎者を意味する「野夫」が転じたとする説と、雅楽の「笙(しょう)」という楽器にある「也(や)」と「毛(もう)」という二本の管は音が出ないため、役立たずの意味で「やもう」「やも」「やぼ」と変化し、「野暮」になったとする説がある。
この二説が有力とされるが、正確な語源は未詳である。
また、東京都国立市にある谷保天満宮の名から、「野暮」や「野暮天」という言葉ができたとする説もある。
しかし、狂歌師の大田蜀山人が「野暮」と「谷保」を掛け、「神ならば出雲の国へゆくべきに目白で開帳やぼのてんじん」と詠んだことから、そのような説が生まれたもので、それ以前から「野暮」という言葉は存在していたため、「野暮」の語源と「谷保天満宮」は無関係である。
★九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)
日本の哲学者。東京都生まれ。http://p.tl/Yleu
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼嘉隆。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
★九鬼周造 『「いき」の構造』http://p.tl/Jq10

★伊達(だて)の意味・語源・由来を解説。
【意味】伊達とは、侠気(きょうき・おとこぎ)を見せること。また、そのさま。人目をひく派手な行動や、派手な服装で外見を飾ること。好みが粋であるさま。洒落ているさま。
【伊達の語源・由来】
伊達政宗の家臣が、華美な服装で人目をひいたことからという説が有名である。
「伊達」の漢字が使われている由来は政宗にちなんだものと考えられるが、「だて」という言葉本来の由来と政宗は関係ない。
「だて」は「忠義立て」など、「ことさらそのように見せる」「いかにもそれらしく見せる」といった意味を表す接尾語「だて(立て)」が語源である。
この接尾語が、室町末期頃から名詞や形容動詞として独立した。

★斜め(ななめ)の意味・語源・由来を解説。
【意味】ななめとは、垂直・水平・正面などの方向に対し傾いていること。また、そのさま。はす。はすかい。
【ななめの語源・由来】
ななめは、平安後期より漢文訓読文で見られるようになるが和文には見られず、当時は「なのめ(斜め)」が多く用いられた。
中世に入って「なのめ」の使用が減少したのに伴ない、「ななめ」の使用が増えており、「なのめ」が転じて「ななめ」になったと思われる。
「なのめ」の「なの」は、「なのか(七日)」の「なの」と同じ「七」のことで、七つ時が日の傾く頃であるところからといわれる。
10のうち5、6を峠とすると、7は下りで斜めになるところからといった説もあるが、登りも斜めであるし、他の数でも斜めと言えるので考慮しがたい。
七つ時の説が有力と思えるが、「なのめ」は「傾く」の意味よりも、ありきたりなさまや、平凡なさま、いい加減なさまの意味で用いられているため断定は難しい。
★歌舞伎(かぶき)の意味・語源・由来を解説。
【意味】歌舞伎とは、舞踊・音楽・科白劇などの要素を集大成した日本の代表的演劇。歌舞妓。
【歌舞伎の語源・由来】
歌舞伎は、近世まで歌や舞をする女性という意味から、「歌舞妓」の字が用いられ、「歌舞妃」とも書かれた。
歌舞伎の表記は、明治以降に一般化したもので、「歌舞妓」の「妓」に「伎芸」などの「伎」が当てられた当て字である。
ただし、「歌舞妓」も当て字のため、歌舞伎の語源とは関係無い。
歌舞伎の語源は、「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」である。
「かぶく」の「かぶ」は「頭」の古称といわれ、本来の意味は「頭を傾ける」であったが、そのような行動という意味から「常識外れ」や「異様な風体」を表すようになった。
さらに転じて、風体や行動が華美であることや、色めいた振る舞いなどをさすようになり、そのような身なり振る舞いをする者を「かぶき者」といい、時代の美意識を示す俗語として天正(1573~1592年)頃に流行した。
この「かぶき」という語が、現代の「歌舞伎」となったのは、17世紀初頭、出雲大社の巫女『出雲の阿国(いずものおくに)』と呼ばれる女性(巫女ではなかったという説もある)の踊りが、斬新で派手な風俗を取り込んでいたため、「かぶき踊り」と称されたことによる。

★はてなキーワード > 洒落
地口・雑俳・おやじギャグ(蔑称)・お洒落(ファッション・オサレ)の類語
およそ以下の様なニュアンスと思われる
・気の利いたこと、洗練されたこと(美的なこと)、凝ったこと、可笑しみのあること(冗談)
・特に、同音異義連結(に類する諧謔、言葉遊び)
   ・駄洒落(蔑称)
実作(例)
1.「動物(例)」と、「行動(例)」を組み合わせる場合(↓)
2. 同じ発音、「さる(動物)」と、「さる(行動)」との引っ掛け
3.【「猿(さる)」が「去る(さる)」】、という完成文(例)

★地口(じぐち)http://p.tl/6Iet
駄洒落の一種と見なすことができる言葉遊びである。発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易であり、また、形態も多様化している。
★雑俳【ざっぱい】http://p.tl/QB-W 雑俳(ざっぱい) 落語 http://p.tl/PeSJ
俳諧様式の一群の総称。1692年(元禄5)ごろから,俳諧から独立した前句付(まえくづけ)が,単独に万句合(まんくあわせ)興行として行われるようになり,以後,笠付(かさづけ)や折句(おりく)を加えて盛行,そこから種々の様式も考案され,最後には川柳風狂句を生み出した。この興行では月並み,点取,景品というような条件を伴い,純粋俳諧とはやや存在の意味や目的を異にするので,一括して古くは〈前句付〉と呼んでいたが,明和(1764‐72)ごろの大坂で〈雑句・雑俳〉の語が人事句を主とするところから使用されはじめ,前句に代わって総称となった。

★はてなキーワード > オサレ
文脈としては「オシャレ」に置き換えることで問題ないが、本来の意味するオシャレとどこか外したものを示す場合が多い。
用例
当人はオシャレのつもりでも、まわりから見たらオシャレじゃない場合
ふだんはオシャレしない人がオシャレしたときに照れ隠しに使う
まったくオシャレじゃないものに対して、オシャレの反意語としても使われることがある
オシャレ志向であること・ひとに対する揶揄がこめられていることがある

●暑気払い(しょきばらい)●“暑気寄せ”(しょきよせ)、“暑気乞い”(しょきごい)

2012年08月19日 12時52分57秒 | 色んな情報
●暑気払い(しょきばらい)●“暑気寄せ”(しょきよせ)、“暑気乞い”(しょきごい)
ハイクから洒落で暑気払いを見つけよう。

★暑気払い(しょきばらい)http://p.tl/9YZs
夏に薬や酒を飲んで体に溜まった熱気を取り除こうとすること。「暑さをうち払う」という意味である。
漢方などの考え方に基づき、「体を冷やす効果の有るもの」を摂るものであり、冷たいものとは限らない。
むしろ薬湯のようなものが飲まれていた。江戸期から明治にかけては、枇杷や桃の葉を煎じた「枇杷葉」というものが暑気払いとして江戸・大阪などで辻売りされていた。
また、上方で「柳蔭」、関東で「直し」と称する本直し(味醂に焼酎を加えたもの)も暑気払いと称して飲用されていた。
江戸の川柳に「枇杷と桃 葉ばかりながら 暑気払い」というものが残っている。
これは「葉ばかり」と「憚りながら」をかけて、「(本来は実を食べるはずの)ビワとモモの葉っぱばっかりですいませんがひとつ暑気払いでも…」という句だが、枇杷の葉に体を冷やす効果の有ることが知られていたことがわかる。
その後は、単に夏場の暑さやストレスを発散する名目としての宴会、飲み会を指すことも多くなった。
東北地域ではかき氷を食べたり、そうめんを食べたりすることも表す。
また、夏が暑くなると売上が増す業界(清涼飲料や冷菓など)において、暑気が失せると売上が下がるために、逆の表現である“暑気寄せ”(しょきよせ)、“暑気乞い”(しょきごい)と称されることもある。
★本直し(ほんなおし)http://p.tl/h31R
アルコール飲料の一種。直しとも。調味料でもある甘味の強いみりんに焼酎を加えて甘味を抑え、飲みやすくしたもの。
柳蔭(やなぎかげ)と美称されることもある。
「飲みにくい酒を手直しする」というニュアンスから「直し」という呼称が発生した。
江戸時代には焼酎の亜種としてよく飲まれていたが、現在では一般にはマイナーな存在である。
かつては夏の暑気払いとして、井戸で冷やされて楽しまれ、高級品として扱われていたことが、上方落語の「青菜」に窺える。
また正月の屠蘇のベースとして用いられた。
★枇杷葉(びわよう):生薬、民間薬販売 http://p.tl/E3UZ http://www.kanpoyaku-nakaya.com/biwayou.html
江戸時代、天秤棒で荷を肩にした枇杷葉湯売りが、夏の町を流し歩いていたという。 それは渇をいやすだけでなく、暑気あたり、下痢止めの薬でもあった。枇杷葉に肉桂や甘草など七味を加えて煎じたのが枇杷葉湯で江戸の夏の風物詩であったという。
★枇杷の知識 http://p.tl/NFsf
枇杷の木があると「ろくでもない病人ばかりが集まってきて、縁起が悪い!」心の狭い人たちは考え,枇杷の木を植えることを嫌い,“縁起の悪い木” となったのである。

★柳陰(やなぎかげ)http://p.tl/_xVS
 江戸時代から明治くらいまで、夏の酒として「柳陰」(本直し)と言うものがありました。
 江戸時代、川端の柳の陰で「鯉のあらい」なんぞを肴に冷やした「柳陰」で暑気を払うのが江戸っ子の心意気だったようで、風流ですねー。
★柳陰って何? http://p.tl/cHkg
上方落語で人気のあった桂枝雀さんが得意とした演目に「船弁慶」や「青菜」という話があります。そのなかにこの「柳陰」が登場します。

★「暑気払い」解釈の両面を知ることでアプローチの幅が広がる http://p.tl/Tuff

★打ち水 夕立ち 夕涼み - 志葉楽の日記 http://p.tl/q11W
また、夏が暑くなると売上が増す業界(清涼飲料や冷菓など)において、暑気が失せると売上が下がるために、逆の表現である“暑気寄せ”(しょきよせ)、“暑気乞い”(しょきごい) と称されることもある。

●「819(ハイク)」●ハイク(俳句,Haiku) トンチのあった日でもある

2012年08月19日 12時22分24秒 | 色んな情報
●「819(ハイク)」●ハイク(俳句,Haiku) トンチのあった日でもある
ハイクの日(http://p.tl/iUv9)はてなハイク(http://p.tl/NRmA)
★8月19日(はちがつじゅうくにち)http://p.tl/pe2g
年始から231日目(閏年では232日目)にあたり、年末まであと134日ある。
★はてなキーワード > 俳句の日
8月19日。
正岡子規の研究家の坪内稔典が「819(ハイク)」の語呂合わせから夏休み中の子供たちに俳句への興味を持ってもらおうと制定した。
日本記念日協会公認の記念日でもある。
なお、はてなハイクにおいては同日は「ハイクの日」という別の記念日とされる。
★8月19日は語呂合わせで「ハイク(俳句)の日」http://p.tl/H1YP
ハイク(俳句,Haiku)は五・七・五の形式の世界最小の定型詩です。ただし近年
発達した外国語のHaikuの場合は文字数・音節数には余りこだわらずに3行程度
の短い詩が作られています。また俳句には「季語」といい季節を感じさせる言
葉を必ず埋め込むという約束がありますが、近年の現代俳句やHaikuでは必ず
しもとらわれません。
「俳句」という言葉は意外に思われる方もあるでしょうが、明治20年代に正岡
子規が作った造語で、「俳諧の発句」を縮めたものです。松尾芭蕉や小林一茶
などがやっていたのは実は「俳諧」であって、まだ当時は「俳句」という言葉
はありませんでした。
「俳諧」とは「連歌」の形式で滑稽や生活感情などを読み込んだものです。そ
れはいづれも最初に誰かが五・七・五の形式の「発句」をして、それに別の誰
かが七・五の形式の「付け句」をするということを続けて何連も続いていくと
いうお遊びです。手軽に体験してみたい方はFPOEMのRTに決まった曜日に行き
ますとやってますのでどうぞ(^^;

★俳諧【はいかい】世界大百科事典 第2版
漢詩,和歌,連歌,俳諧等の用語。〈誹諧〉とも書くが,〈俳諧〉のほうが一般的である。俳諧はもと中国で滑稽とほぼ同じ意味に用いられた言葉で,機知的言辞が即興的にとめどもなく口をついて出てくることをいう。現在残っている作品はそう多くはないが,中国の詩に詼諧体,俳諧体というのがあった。日本文学で俳諧(誹諧)という言葉が用いられるようになったのは10世紀初頭のころからで,《古今和歌集》巻十九〈雑体〉の部に〈秋の野になまめきたてる女郎花あなかしがまし花もひと時〉(僧正遍昭)以下58首の〈誹諧歌〉が収められている。
▼俳諧について記述のある項目
 季語【きご】 俳論【はいろん】 俳言【はいごん】
★俳諧【はいかい】百科事典マイペディア
発句(ほっく)と連句の総称。もともとは漢詩や和歌の用語で,滑稽や機知諧謔(かいぎゃく)を主とすること。早く《古今和歌集》雑体の部に誹諧歌(はいかいか)がある。のち,俳諧の連歌の略。
★俳諧【はいかい】デジタル大辞泉
1 こっけい。おかしみ。たわむれ。
2 俳句(発句(ほっく))・連句および俳文などの総称。
3 「俳諧の連歌」の略。
4 「俳諧歌(はいかいか)」の略。
★俳諧(はいかい)http://p.tl/Y5kz
主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。
★俳論【はいろん】世界大百科事典 第2版
俳諧・俳句用語。俳諧・俳句の本質,理念,方法,規則,語彙などに関する論の総称。その発生は早く歌論,連歌論の中に見いだされる。俳諧の原義を滑稽,狂言などに求めた藤原清輔の《奥儀抄》や順徳院の《八雲御抄》,俳諧を連歌の一風体としてとらえた二条良基の《連理秘抄》などがそれである。しかし真の意味の俳論は,文芸の一ジャンルとして確立された〈俳諧之連歌〉の論でなければならない。 貞門においては,松永貞徳の〈十首式目歌〉(1628成立)を嚆矢(こうし)として85部の俳論が書かれた。
俳諧・俳句についての理論や批評。代表的俳論書に「去来抄」「三冊子」などがある。
★俳言【はいごん】世界大百科事典 第2版
俳諧用語。俳諧の制作に用いることばのうち,俗語,日常語,ことわざなど和歌・連歌に嫌うことば,音読する漢語,鬼,女,竜,虎,狼など千句連歌に一度だけ使用を許された耳立つことばをいう。〈俗言(ぞくごん)〉〈ただごと〉〈ひらことば〉ともいう。俳文芸ジャンルの確立をめざす貞徳は,〈抑(そもそも)はじめは誹諧と連歌のわいだめ(区別)なし。其の中よりやさしき詞(和語,歌語)のみをつゞけて連歌といひ,俗言を嫌はず作する句を誹諧といふなり〉(《御傘(ごさん)》)と,用語のうえから俳諧,連歌を区別した。
俳諧に用いて、和歌・連歌には用いない俗語・漢語などの総称。俗言(ぞくごん)。はいげん。
俳諧に用いる語。和歌・連歌には使わない俗語・漢語。貞門で重要視された。俗言。はいげん。
★国際日本文化研究センター|俳諧データベース http://p.tl/oPuB
★俳諧(はいかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和歌、連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、詩文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきようぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~40年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から70年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。
[ 執筆者:乾 裕幸 ]
★俳諧摺物データベース http://p.tl/_7RE
★寺田寅彦 俳諧の本質的概論 http://p.tl/gLpg
★「夫馬基彦の風人通信」中の「俳諧・連句」欄です)http://p.tl/bhNY
★百姓俳諧寺 http://p.tl/_SdU
★俳諧について http://p.tl/WYmJ
★俳諧七部集(芭蕉七部集)http://p.tl/k0uK
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★蕉風について http://p.tl/RgIp
★「連歌(れんが)」と「連句(れんく)」 - 和歌・俳諧 http://p.tl/DbKk
★Category:俳諧 http://p.tl/VzcI