縄文人の反乱 日本を大事に

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●占守島〔シュムシュ〕●日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき   特に大陸の国は

2012年08月20日 19時57分11秒 | 色んな情報
●占守島〔シュムシュ〕●日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき   特に大陸の国は
★ねずさんの ひとりごと 占守島の戦い http://p.tl/3q0s
今日、8月20日は、樺太の真岡市で、郵便局の電信局の職員の女性9人が、集団自決をされた日です。9人の女性たち、ならびに樺太で犠牲となった多くの同胞たちのご冥福を祈り、追悼を捧げたい。
★ねずさんの ひとりごと 真岡郵便電信局事件と九人の乙女たち http://p.tl/riqv
★『●蝦夷地の地名●樺太●千島列島』 http://amba.to/Pqwkb3
千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
★『●ポツダム宣言受諾【1945年(昭和20年)8月14日】』 http://amba.to/PqwrDu
説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「 ...
★占守島(しむしゅとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
千島列島の最北端にある火山島。ロシア名シュムシュ島Остров Шумшу。語源は千島アイヌ語の「主要な島」の意とされる。北は占守海峡(第一クリル海峡、最狭部12キロメートル)を隔ててカムチャツカ半島のロパトカ岬に対し、南西は幌筵(ほろもしり)海峡(第二クリル海峡、最狭部2キロメートル)を挟んで幌筵(パラムシル)島に連なる。北東―南西方向に長く、長さ約30キロメートル、幅約18キロメートル、面積230平方キロメートル。島の大半は緩い傾斜の溶岩台地か楯状(たてじょう)火山で、わずかに北西部に別飛(べっとぶ)沼を抱える湿原が広がる。中央部に鉢伏(はちぶせ)山(155メートル)、南部に三塚山(190メートル)が平らな山頂をみせる。樹木はほとんどなく、草原が卓越する。南西の幌筵海峡に面して片岡湾があって錨地(びょうち)をなし、湾岸に中心地片岡(バイコボБайково)がある。1893年(明治26)海軍軍人郡司成忠(ぐんじなりただ)(1860―1924)が「報効義会」を組織し、翌年占守島に渡り、1896年移住した。1892年侍従片岡利和(としかず)(1836―1908)が当地を視察、地名の片岡はこれにちなむ。第二次世界大戦前は根室支庁(現根室振興局)管内の占守郡を構成したが、戦後はソ連、ソ連解体後はロシア連邦が支配し、サハリン州に所属させている。[ 執筆者:渡辺一夫 ]
★郡司成忠(ぐんじなりただ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1860―1924)
明治後期の軍人、千島開発者。万延(まんえん)元年11月17日幕臣幸田成延(こうだしげのぶ)の次男として江戸に生まれる。成行(しげゆき)(露伴(ろはん))・成友(しげとも)・延子(のぶこ)らの兄。郡司家の養子となる。海軍兵学寮卒業後少尉となり、大尉に累進。1893年(明治26)ロシアに対する北方警備の必要を唱え報効義会(ほうこうぎかい)を設立して、北千島警備と開発を計画し、50人の予備水兵と7隻の端艇(たんてい)(ボート)で東京・隅田川(すみだがわ)を出発。苦難のすえ、占守島(しむしゅとう)に上陸し、千島探検隊の壮挙と喧伝(けんでん)された。1896年ふたたび同島に上陸して開発を行った。日露戦争に際しては同志とカムチャツカに出征したが捕虜となり、戦後は海事・国防思想の普及に努めた。大正13年8月15日没。[ 執筆者:佐藤能丸 ]
★千島列島(ちしまれっとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/v5tg
北太平洋にカムチャツカ半島南端から北海道東端にかけて連なる火山性の列島。長さ約1200キロメートルの間に花綵(かさい)状に雁行(がんこう)している。日本では古く蝦夷(えぞ)が千島、クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。大きく分けて北千島、中千島、南千島に三分される。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrovaであるが、政治的には、「クリル諸島」という名称に南千島は含まれないというのが日本政府の見解である。なお、ロシア連邦では色丹(しこたん)島と歯舞(はぼまい)群島をあわせて小クリル列島Малая Курильская Гряда/Malaya Kuril'skaya Gryadaとよんでいる。主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。
占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島(以上北千島)。
温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。
択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。[ 執筆者:渡辺一夫 ]
★日ロ関係(にちろかんけい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/M3kj
日本とソビエト連邦、ロシア連邦との関係。
★シュムシュ‐とう〔‐タウ〕【シュムシュ島】
《 Shumshu 》千島列島最北端の島。クリル海峡を隔ててカムチャツカ半島に対する。第二次大戦後はソ連が管轄。シムシュ島。
◆「占守島」とも書く。
★占守島(しゅむしゅとう)http://p.tl/FZnU
★占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)http://p.tl/dkZ2
千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南にはパラムシル海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟んで幌筵島がある。
★[歴史][日露関係]占守島の戦いで,北海道が救われた訳ではない http://p.tl/AYAB
★北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)http://p.tl/TPvO
★北千島占守島における砲兵部隊の活躍 http://p.tl/xnkK
★サムライ魂 ~占守島の士魂部隊~ http://p.tl/B_wn

★もう一つの硫黄島戦 「占守島の戦い」http://p.tl/-pzH
★樺太1945年夏 氷雪の門 予告編 http://p.tl/P6aO
★あの時のことは、何故忘れ去られたのか?
 http://p.tl/cnkB http://p.tl/LKqj http://p.tl/o7TT http://p.tl/HPxT http://p.tl/Y8gE
 http://p.tl/Vuas http://p.tl/kCF5 http://p.tl/eEZg http://p.tl/cK-C http://p.tl/mczf
 http://p.tl/WxXT http://p.tl/HYzX http://p.tl/BhgC

『お釈迦様もみてる』

2012年08月20日 15時06分56秒 | 色んな情報
『お釈迦様もみてる』
★釈迦 - Wikipedia http://p.tl/XCQz
僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来と呼ぶことが多い。
称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。
日本語では、一般にお釈迦様(おしゃかさま)と呼ばれることが多い。
★【お釈迦】(おしゃか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .【お釈迦】
釈迦牟尼(むに)の敬語。釈迦誕生を祝う4月8日の灌仏会(かんぶつえ)に安置する裸体の釈迦(誕生仏)像から、裸をいい、転じて博打(ばくち)などで負けて裸一貫になることをいう。俗語としては、製品をつくり損ねること、またつくり損ねた不良品をいう。このスラングの語源には諸説ある。地蔵像を鋳るに、間違って釈迦像を鋳てしまったことに由来するとも、金細工職人の用語で、溶接の火が強すぎて失敗したことを、「火が強かった」を「四月八日」と洒落(しゃれ)て、お釈迦と連想させたともいわれる。また、製品が使いものにならず、生かせなくなったことを死人と見立て、仏の縁で釈迦を連想したなど、諸説がある。[ 執筆者:棚橋正博 ]
★釈迦三尊(しゃかさんぞん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
釈迦仏を中尊に、薬王(やくおう)、薬上(やくじょう)、または文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)の2菩薩(ぼさつ)を左右の脇侍(わきじ)とする様式。[ 執筆者:江口正尊 ]
★普賢(ふげん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
石川淳(じゆん)の中編小説。1936年(昭和11)『作品』に発表。以後諸種の作品集に収録。芥川賞受賞作。普賢行につながりたいという念願を秘めた主人公「わたし」は、心裡(しんり)に把持するこの理想のために、現実との競り合いにおいて後れをとり、自己の生活喪失にまで立ち至らされる。ところで、この理想がもはや理想でなくなるという事件が起こる。かくて、理想の消失とともにつかみあてた絶望という極から、改めて普賢行への新生を踏み出す。この作者の初期の諸作品にみられ、またその生涯の主題でもある、絶望よりの転生が主題である。作品世界の緊密さ、包含する劇、構想の大きさなどにおいて、初期の大作であり代表作である。[ 執筆者:井沢義雄 ]
★菩薩(ぼさつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
仏教の術語。サンスクリット語でボーディサットバbodhisattvaといい、漢訳では菩提薩(ぼだいさつた)と音写され、その省略語が菩薩である。bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩、人)より「悟りを求める人」の意であり、元来は仏教の創始者釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿をさしている。とくに部派仏教時代に制作された『ジャータカ』(本生譚(ほんじょうたん))は釈尊の前世の修行の姿を菩薩の名で示し、釈尊は他者に対する慈悲(じひ)行(菩薩行)を繰り返し為(な)したために今世で特別に仏陀(ぶっだ)になりえたことを強調した。すなわち、部派仏教では菩薩はつねに単数で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊だけを意味する。そして他の修行者は釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした。西暦紀元前後におこった大乗仏教は、部派仏教の法の学習に基づく阿羅漢への志向に対し、これは釈尊の真の精神たる慈悲行を取り落としたものだと批判し、『ジャータカ』の慈悲行を行う釈尊(菩薩)を自らのモデルとし、自らも「仏陀」になることを目ざした。ここに至って菩薩は複数となり、大乗仏教の修行者はすべて菩薩といわれるようになった。また『般若経(はんにゃきょう)』などでは菩薩は摩訶薩(まかさつ)(マハーサットバmahsattva、大きな志をもつ人)ともよばれる。菩薩が一般修行者を意味するようになれば、おのずから菩薩の修行段階が問題になる。諸経典には種々の階梯(かいてい)が示されるが、とくに『華厳(けごん)経』の十地(じゅうじ)の階梯が有名である。また大菩薩、小菩薩の区別もされるようになり、たとえば観音(かんのん)、普賢(ふげん)、文殊(もんじゅ)などの大菩薩は、仏陀になりうるにもかかわらず衆生(しゅじょう)を勇気づけるために菩薩であり続けているが、実は仏陀と同じ能力を有すると考えられた。ところで、仏陀を目ざして修行する菩薩が複数であれば、過去においてもすでに多くの仏陀が誕生していることになると考えられ、薬師(やくし)、阿弥陀(あみだ)、阿(あしゅく)などの多仏思想が生じた。大乗仏教はまた菩薩乗ともいわれる。菩薩は大乗仏教を理解するうえで、もっとも重要なキーワードである。[ 執筆者:加藤純章 ]
★菩提(ぼだい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
サンスクリット語のボーディbodhiの音写。ボーディはブッドフbudh(目覚める)からつくられた名詞で、真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る知恵を含む。その最高は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)で無上等正覚(むじようとうしようがく)と訳す。この語が、仏教の理想であるニルバーナnirva(涅槃(ねはん))と同一視されるようになり、のちニルバーナが死をさすようになると、それらが混合して、「菩提を弔う」といわれ、それは「死者の冥福(めいふく)を祈る」意味となった。[ 執筆者:三枝充悳 ]
★成道(じょうどう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
仏教の用語。道すなわち悟りを完成するという意。悟りを開いて仏と成ることであるから成仏と同じ意味であり、また得仏(とくぶつ)、成正覚(じょうしょうがく)などともいう。釈尊(しゃくそん)は35歳のときにブッダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で覚(さと)り(無上正等覚、無上菩提)を開いてブッダ(覚者)となったと伝えられ、これを中国・日本では一般に成道とよぶ。八相(はっそう)成道というのは、釈尊の生涯の八つの大きなできごと(八相)のうちで、成道がとくにその中心をなす重要なできごとであることを表す。成道の年時には異説が多いが、中国・日本では12月8日(臘八(ろうはち))説が行われ、この日に修める法要を成道会(え)、禅宗では臘八会といい、とくに禅宗で重視する。南方仏教諸国ではベーサーカ月(インド暦第2月で、太陽暦4~5月に相当)の満月の日が成道の日であるとする。[ 執筆者:藤田宏達 ]

★お釈迦様の仏像写真画像付き事典 http://p.tl/PY8f
★4月8日、お釈迦様の誕生日 [葬儀・葬式] All About http://p.tl/9dfT
★お釈迦様 (広済寺ホームページ)http://p.tl/yftP
★お釈迦様 http://p.tl/IAwH
★お釈迦さまの足あと(ブッダの生涯) http://p.tl/Fd77
★お釈迦様の誕生 http://p.tl/JKW8
★お釈迦様の骨(仏舎利)って多すぎでは? http://p.tl/dquF
★お釈迦様と甘茶 http://p.tl/BY_N
★『お釈迦様もみてる』http://p.tl/Gv-V
今野緒雪による日本のライトノベル(少女小説)シリーズ、およびそれを原作とする漫画作品。
★三法印(お釈迦様基本の説法)http://p.tl/11wg
★菩提樹の木 お釈迦様が悟りを開かれた場所 http://p.tl/WzSV
★お釈迦様が瞑想された場所 http://p.tl/Gl4Z
★武田邦彦 (中部大学): 靖国の17 お釈迦様とイエス様の喧嘩? http://p.tl/duvr
★13.お釈迦様の手の平の上 http://p.tl/XayZ
★お釈迦様の生涯 http://p.tl/rKJV

●お釈迦様もフケてしまうほど暑いね

2012年08月20日 14時11分38秒 | 色んな情報
●お釈迦様もフケてしまうほど暑いね
★フケる(ふける) - 日本語俗語辞書
ふける
ふけるとは、逃げること。授業を途中で抜けてサボること。
 
【年代】 江戸時代・1980年  【種類】 若者言葉
 
ふけるの解説
ふけるとは逃げる、行方をくらます、駆け落ちするといった意味で江戸時代から使われた言葉である。逃げる、行方をくらますという意味では主に盗人の間で使われたが、1970年代末から1980年代のツッパリブーム時になると、その派生として授業を途中抜けしてサボるという意味で不良を中心に若者の間で普及。この場合、フケるという表記が好んで用いられた。
 
 
こんな解説が流行っている。
 
★普化(ふけ、生没年不詳)http://p.tl/fhwh
中国・唐代の禅僧であり、臨済義玄(? - 867年)の語録である『臨済録』の中で、臨済がシテの立場であるとするなら、ワキの役どころを演じているが、その行動が異様なものが多く、風狂僧や神異僧の部類に属する。
、「風狂を演じあげて、世間を騒がせよう」と賞賛されたと伝えられている。
また、その名も、通称であり、本名はおろか、受戒の僧名も明らかではない。普化とは、神出鬼没の普化が、突然に街頭に現れ、道行く人の耳もとで鈴を振り乞食した、つまり「普く化を求めた」ことから付いた俗称である。この場合の「化」は、「施し、布施」の意味である。
その最期も、風狂僧にふさわしい話となっている。ある日、普化が「法衣をくれ」と叫んで、街中を歩き回る。それに対して、臨済が棺桶をしつらえさせ、それを普化に渡す。普化は喜び、「臨済が私に法衣をくれた。私は東門で入滅しよう」と言う。群集が東門に向かうと、「今日はやめた、明日、南門で入滅する」と言う。ということが続き、普化はなかなか入寂しない。4日目になって、誰も来なくなった。すると、普化は一人で城外に出て、棺の中に入り、道行く人に釘で蓋をしてもらった。すぐに城内にそのことが伝わり、群集が押しかけ、棺を開いてみると、中は空っぽであった。そして、ただ、空中に普化の、あの鈴の音が響くのみであった、というものである。
★ふけるとは - 津軽語 Weblio辞書 http://p.tl/aDZY
ここでも面白く解説されている。



★お釈迦様
★おしゃか‐さま【御釈迦様】
1.釈迦(釈迦牟尼)の敬称。「―でも気がつくまい」
2.灌仏会(かんぶつえ)のこと。
★しゃか‐むに【釈迦牟尼】
《(梵)kya-muniの音写。釈迦族の聖者の意》仏教の開祖。世界三大聖者の一人。紀元前5世紀ごろ、インドの釈迦族の王子として誕生。29歳で宗教生活に入り、35歳で成道した。45年間の布教ののち、80歳の2月15日入滅。釈尊。釈迦如来。釈迦。
★にゅう‐めつ〔ニフ‐〕【入滅】
[名](スル)滅度すなわち涅槃にはいること。釈迦(しゃか)の死、高僧などの死にいう。
★かんぶつ‐え〔クワンブツヱ〕【×灌仏会】
陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に、花御堂(はなみどう)に安置した釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。正しくは5種の香水(こうずい)を注ぐ。仏生会(ぶっしょうえ)。誕生会。降誕会(ごうたんえ)。浴仏会。花祭り。《季 春》

★お釈迦様(お釈迦様の教え)http://p.tl/_e6x
★釈迦(釋迦、しゃか)http://p.tl/XCQz
★釈迦如来 - Wikipedia http://p.tl/aYBe

★しゃかにせっぽう【釈迦に説法】
よく知り尽くしている者に対して教える愚かさのたとえ。釈迦に経。釈迦に説法,孔子に悟道。

★『釈迦(しゃか)に説法(せっぽう)』http://p.tl/xp2Y
釈迦に対して仏法を説くように、知り尽くしている人にその事を教えるのは愚行である。


★お釈迦(おしゃか)の意味・語源・由来を解説。
【意味】お釈迦とは、作り損ねた不良品。使い物にならなくなったもの。
【お釈迦の語源・由来】
お釈迦は鋳物職人の隠語から出た言葉で、阿弥陀像を鋳るはずが、誤って釈迦像を鋳てしまったことからといわれる。
江戸の訛りで「ひ」と「し」の発音が同じになるため、「火が強かった(しがつよかった)」と、お釈迦様の誕生日「4月8日(しがつようか)」を掛けた洒落ともいわれる。
これらの説は、あまりにも出来すぎた話で信憑性は薄く、物事が駄目になることを「お陀仏」と言うことから、同じような連想で出た言葉と考える方が妥当であろう。
また、博打などで無一文になることも「お釈迦になる」と言うが、この場合の「お釈迦」は、花祭りに水をかけられるお釈迦様のように、裸にされるということから出た言葉で、作り損なった製品や、使い物にならなくなった意味の「お釈迦」の語源とは関係ないと思われる

★おしゃかになる - 知泉Wiki http://p.tl/DwYG

●能のシテ方の流派【喜多流】

2012年08月20日 13時28分09秒 | 色んな情報
●能のシテ方の流派【喜多流】
★しゃか【釈迦】
《(梵)kyaの音写》
1.古代インド、現在のネパール地方に住んでいた種族。釈迦の出た種族。シャーキャ族。釈迦族。
2.能面の一。仏を表す金泥塗りの大きな面。喜多流の「大会(だいえ)」で、大見(おおべしみ)の上に重ねて用いる。
★きた‐りゅう〔‐リウ〕【喜多流】
能のシテ方の流派の一。喜多七大夫が興したもので、江戸初期、元和5年(1619)ごろに幕府から認められた新興の流派。
★して‐かた【仕手方】
能楽師のうち、シテ・シテヅレ・子方・地謡・後見などを専門に務める者。また、その家柄。観世・宝生・金春(こんぱる)・金剛・喜多の五流がある。→ワキ方
★わき‐かた【脇方】
能楽師のうち、ワキ・ワキヅレを専門に務める者。また、その家柄。進藤・春藤・福王・高安・宝生の五流があったが、進藤・春藤は廃絶した。→シテ方
★わき‐く【脇句】
連歌・連句で、発句(ほっく)の次に七・七と付ける第2句。ふつう、発句と同季。脇。
★ほっ‐く【発句】
1.短歌の最初の句。初5文字、または第1・2句。のちには上の句。
2.連歌・連句の第1句。五・七・五の17音からなる句。立句(たてく)。→挙句(あげく)
3.2が独立した短詩形として単独で作られたもの。俳句。
4.せり市で、最初の付け値。
「八十両といふ―から安ければ、負けぬ負けぬ」〈浄・浪花鑑〉
★あげ‐く【挙(げ)句/揚(げ)句】
1.連歌・連句の最後の七・七の句。→発句(ほっく)
2.終わり。結果。末(すえ)。「苦労した―が失敗とは情けない」
3.(副詞的に用いて)結局のところ。その結果として。現在では、連体修飾語を上に付けて用いることが多い。「さんざん迷った―買ってしまった」
★し‐て【仕手/▽為手】
《「し」はサ変動詞「する」の連用形。「仕」は当て字》
1.あることをする人。やりて。「世話の―がない」
2.(ふつう「シテ」と書く)能・狂言の主人公の役。また、その演者。中入りのあるときは前ジテと後(のち)ジテとがあるが、同一役者が演じる。→ワキ →ツレ →アド
3.(仕手)株式市場などで、投機によって大きな利益を得ることを目的として、大量の売買をする人。「―戦」
★のう【能】
1.ある物事をなしとげる力。はたらき。能力。「人を動かす―にたける」
2.ききめ。効能。「薬の―書き」
3.技能。また、誇ったり取り立てていったりするのにふさわしい事柄。「机に向かうだけが―ではない」
4.日本の古典芸能の一。中世に猿楽から発展した歌舞劇。能は歌舞劇の一般名称で、田楽・延年などの能もあったが、猿楽の能がもっぱら盛行したため、それを単に能と称した。室町時代に観阿弥・世阿弥父子が大成、江戸中期にほぼ現在の様式となった。役に扮する立方(たちかた)と声楽をうたう地謡方(じうたいかた)、器楽を奏する囃子方(はやしかた)があり、立方はシテ方・ワキ方・狂言方、地謡方はシテ方、囃子方は笛方・小鼓方・大鼓方・太鼓方がつとめる。現在、その流派はシテ方に五流、ワキ方に三流、狂言方に二流、囃子方に一四流がある。能の詞章を謡曲といい、ふつう脇能物・修羅(しゅら)物・鬘(かずら)物・雑物・切能(きりのう)物の五つに分類し、現在約240曲が上演可能である。
★きょうげん‐かた〔キヤウゲン‐〕【狂言方】
1.演能の際に、狂言を演じる人。本狂言・間(あい)狂言・三番叟(さんばそう)などをつとめる。狂言師。
2.歌舞伎の狂言作者のこと。江戸後期には特に四、五枚目の下級作者をいい、立作者の下でせりふの書き抜き、幕の開閉などの仕事をした。
★きょう‐げん〔キヤウ‐〕【狂言】
1.日本の古典芸能の一。猿楽のこっけいな物真似(ものまね)の要素が洗練されて、室町時代に成立したせりふ劇。同じ猿楽から生まれた能に対する。江戸時代には大蔵・和泉(いずみ)・鷺(さぎ)の三流があったが、鷺流は明治末期に廃絶した。本狂言と間(あい)狂言に大別される。能狂言。
2.歌舞伎。また、その出し物。歌舞伎狂言。
3.人をだますために仕組んだ作り事。「―強盗」
4.道理にはずれた言葉や動作。
 「仏法を知らざる痴人(ちじん)の―なり」〈正法眼蔵・礼拝得髄〉
5.戯れの言葉。ざれごと。冗談。また、ふざけて、おもしろおかしく言うこと。
 「正直にては良き馬はまうくまじかりけりと―して」〈盛衰記・三四〉
★さる‐がく【猿楽/▽申楽/▽散楽】
1.平安時代の芸能で、一種のこっけいな物まねや言葉芸。唐から伝来した散楽(さんがく)に日本古来のこっけいな技が加味されたもの。相撲節(すまいのせち)や御神楽(みかぐら)の夜などの余興に即興で演じられた。
2.平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社に所属する職業芸能人(猿楽法師)が祭礼などの際、1を街頭で行ったもの。
3.平安時代以降、諸大寺で、呪師(じゅし)の芸能(広義には猿楽の一種)のあとに1が演じられたもの。
4.中世以降、23が演劇化して能・狂言が成立したところから、明治初期まで能・狂言の古称。→能 →狂言
★すまい‐の‐せち〔すまひ‐〕【相=撲の節】
平安時代、毎年7月に宮中で、諸国から召し集められた相撲人(すまいびと)の相撲を天皇が観覧した行事。初めは7日、のち、大の月は28日・29日、小の月は27日・28日となった。2日前にけいこの内取りがあり、当日は召し合わせといって20番(のち17番)の取組があり、翌日、優秀な者を選んで行う抜き出、衛府の舎人(とねり)などによる追い相撲があった。場所は多く紫宸殿(ししんでん)南庭で行われた。すまいのせちえ。すもうのせち。すまい。《季 秋》
★み‐かぐら【▽御神‐楽】
神楽を敬っていう語。特に宮中で行われる神楽をさす。→神楽1
★かぐら【神‐楽】
《「かみくら(神座)」の音変化》
1.神をまつるために奏する舞楽。宮中の神事芸能で、先行の琴歌神宴(きんかしんえん)などに、石清水八幡(いわしみずはちまん)などの民間の神遊びを取り込み、平安時代に内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)として完成。楽人は左右の本方(もとかた)・末方(すえかた)の座に分かれ、歌い奏し、主要部分では舞を伴う。御神楽(みかぐら)。
2.諸社、民間の神事芸能で、神を迎え、その御魂を人々の体内にいわいこめる一連の儀礼中に行われる歌舞。採物(とりもの)神楽(出雲流(いずもりゅう)神楽・巫女(みこ)神楽)・湯立(ゆだて)神楽(伊勢流神楽)・獅子(しし)神楽など、多くの系統がある。《季 冬》
3.能の舞事の一。女神・巫女などが幣束を持って優美に舞う。また、その囃子(はやし)。笛を主に、大鼓・小鼓・太鼓が特有の神楽の譜で演奏される。
4.狂言の舞事の一。また、その囃子。笛と小鼓の囃子で、巫女が鈴と扇を持って舞う。能の神楽とは別の曲。
5.歌舞伎下座音楽の一。能管・太鼓・大太鼓ではやす。3からの流用で、時代物の神社の場面などに用いる。本神楽。
★いわしみず‐はちまんぐう〔いはしみづ‐〕【石清水八幡宮】
京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧官幣大社。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)・比売大神(ひめおおかみ)。貞観元年(859)宇佐八幡宮を勧請(かんじょう)したのが起源。石清水放生会(ほうじょうえ)は三大勅祭の一。宇佐・筥崎とともに、三大八幡といわれる。男山八幡宮。
★かみ‐あそび【神遊び】
神前で、歌舞を奏すること。また、その歌舞。神楽(かぐら)。
「かご山やさか木の枝ににぎかけてその―思ひこそやれ」〈夫木・一八〉
★もと‐かた【本方/元方】
1.宮廷の御神楽(みかぐら)のとき、二組に分かれた歌い手のうち、先に歌いはじめる方。神殿に向かって左側に位置する。⇔末方(すえかた)。
2.卸売りする店。問屋。また、製造元。
3.事業の元手を出す人。出資者。また、興行の主催者。興行主。
★すえ‐かた〔すゑ‐〕【末方】
宮廷の御神楽(みかぐら)のとき、二組に分かれた歌い手のうち、あとに歌いはじめる側。神殿に向かって右側に位置する。⇔本方(もとかた)。
★げざ‐おんがく【下座音楽】
歌舞伎の効果音楽。唄・合方(あいかた)・鳴り物に大別され、三味線・笛・太鼓などを用い、舞台下手の黒御簾(くろみす)の中で演奏する。幕の開閉、人物の出入り、せりふその他の舞台演技の効果を上げるためのもの。陰囃子(かげばやし)。
★あい‐かた〔あひ‐〕【合方】
1 能楽で、謡(うたい)の伴奏をする大鼓(おおつづみ)・小鼓(こつづみ)・太鼓・笛による演奏。
2 邦楽で、唄と唄との間をつなぐ、三味線の合いの手の特に長いもの。長唄に多い。
3 歌舞伎の下座音楽で、三味線を主とし唄を伴わないもの。
★なり‐もの【鳴(り)物】
1 楽器。また、音曲。
2 歌舞伎下座音楽で、三味線と唄以外の鉦(かね)・太鼓・鼓・笛などの楽器による囃子(はやし)または擬音。また、それらの楽器。
★うた【歌/唄】
1 拍子と節をつけて歌う言葉の総称。また、それを歌うこと。神楽歌・催馬楽(さいばら)・今様(いまよう)から、現今の唱歌・民謡・歌謡曲などまで種類が多い。
2 一定の音節数によって語の調子を整えた感情の表現。長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)や近代詩などの総称。
3 (歌)和歌。特に、短歌をさしていう。「―の道」
4 (唄)三味線を伴奏とする「うたいもの」の称。長唄・端唄(はうた)・小唄・地唄など。
◆2で、近代詩の場合には「詩」とも書く。http://p.tl/JY4i
[下接語]
東(あずま)歌・後(あと)歌・糸繰り歌・田舎歌・稲刈り歌・稲扱(こ)き歌・今様歌・伊呂波(いろは)歌・祝い歌・牛追い唄・牛方唄・臼(うす)歌・江戸唄・大歌・置き唄・踊り歌・替え歌・返し歌・神楽歌・懸け歌・陰唄・数え歌・片歌・門付(かどづけ)歌・賀の歌・歌舞伎(かぶき)唄・神歌・上方唄・唐歌・杵(きね)歌・木遣(や)り歌・口説き歌・組歌・久米(くめ)歌・下座(げざ)唄・恋歌・小唄・小歌・腰折れ歌・琴歌・木挽(こび)き歌・子守歌・在郷(ざいごう)歌・棹(さお)歌・防人(さきもり)の歌・座敷歌・戯(ざ)れ歌・騒ぎ歌・地歌・仕事歌・地搗(つ)き歌・芝居唄・三味線歌・祝儀歌・巡礼歌・畳句(じょうく)歌・田植え歌・田歌・田打ち歌・立(たて)唄・茶摘み歌・継ぎ歌・付け歌・鼓唄・紡ぎ歌・連ね歌・手鞠(てまり)歌・鳥追い歌・長唄・長歌・長持(ながもち)歌・端(は)唄・白鳥の歌・鼻歌・浜歌・流行(はや)り歌・引き歌・鄙(ひな)歌・百首歌・琵琶(びわ)歌・風俗(ふぞく)歌・船歌・祝(ほぎ)歌・盆歌・盆踊り歌・前歌・馬子唄・鞠(まり)歌・短(みじか)歌・持ち歌・本(もと)歌・大和(やまと)歌・童(わらべ)歌
★かぶき【歌舞伎/歌舞×妓】
《天正時代の流行語で、奇抜な身なりをする意の動詞「かぶ(傾)く」の連用形から》近世初期に発生、江戸時代の文化が育てた日本固有の演劇。先行の舞踊・音楽・科白劇(かはくげき)などの諸要素を集大成した、庶民的な総合演劇として今日に至る。歌舞伎劇。歌舞伎芝居。
★かはく‐げき〔クワハク‐〕【科白劇】
純粋にせりふとしぐさだけからなり、歌や踊りなどのない劇。音楽劇・舞踊劇などに対する呼称。


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●横井小南(よこいしょうなん)

2012年08月20日 10時47分32秒 | 色んな情報
●横井小南(よこいしょうなん)
★横井小楠(よこいしょうなん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1809―1869)
幕末維新期の思想家、政治家。熊本藩士。名は時存(ときあり)、小楠は号。藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、実学にも関心を寄せた。1839年(天保10)江戸に遊学、佐藤一斎(さとういっさい)、藤田東湖(ふじたとうこ)らと交渉をもったが、過失あり帰藩逼塞(ひっそく)を命ぜられた。ペリー来航時攘夷(じょうい)論を唱えたが、その後世界地理書『海国図志』(ブリッジマン著、魏源編集)を読んで開国通商による富国強兵論を主張するに至った。1858年(安政5)福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の招聘(しょうへい)を受け藩校明道館で講学、ついで江戸へ行き、政事総裁職となった慶永の補佐にあたり、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。1862年(文久2)刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剥奪(はくだつ)の処分を受け蟄居(ちっきょ)。明治政権成立後、徴士、参与、制度局判事となり、岩倉具視(いわくらともみ)の信任を受けたが、病気のためたいした活動はできなかった。しかも洋風化の中心としてキリスト教を広めるとみた旧攘夷(じょうい)派のため暗殺される。彼は外国語に通じなかったがよく西洋文物を理解し、勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らを敬服させたが、その教養の根底には政治と学問とを連続したものとみなす朱子学の理念が強く流れていたといわれる。
[ 執筆者:山口宗之 ]
★坂本龍馬(さかもとりょうま) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1835―1867)
幕末の志士。天保(てんぽう)6年11月15日、土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)一丁目に郷士坂本八平の次男に生まれた。実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。本家は富商才谷屋で、曽祖父(そうそふ)兼助が郷士(ごうし)株を取得して分家した町人郷士。領知197石など家産があり裕福であった。幼少時愚鈍の評があったが、城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場での剣術修行でたくましくなった。1853年(嘉永6)3月、江戸に出て北辰(ほくしん)一刀流千葉定吉道場に剣を学び、1年余で帰国。1856年(安政3)8月、ふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許を得、1858年9月帰国。1861年(文久1)8月土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。10月剣術修行を名目に出国、翌1862年1月には長州萩(はぎ)に久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪(とぶら)い、帰国後3月24日脱藩。大坂、京都を経て江戸へ出た。
在郷当時、海外事情に詳しい絵師河田小龍(しょうりゅう)の通商航海論に共鳴していた龍馬は、江戸で異色の幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪い、その見識に感激して入門、単純な攘夷(じょうい)論を捨て、航海術を修業し、勝の信頼を受け、勝を補佐して活動した。1863年には、勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、10月その塾頭となったが、1864年(元治1)10月には勝の突然の失脚によって、操練所は解散された。この間、龍馬は松平春嶽(しゅんがく)(慶永(よしなが))、横井小楠(しょうなん)、三岡八郎(由利公正(ゆりきみまさ))、大久保一翁(忠寛(ただひろ))ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛(さいごうたかもり)とも知り合った。
操練所解散後、龍馬は薩摩(さつま)藩の保護を受け、1865年(慶応1)5月ごろ、同志を率いて長崎に商社(亀山(かめやま)社中)を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎(しんたろう)と協力して翌1866年1月20日には京都で薩長同盟を成立させた。その直後の23日、伏見(ふしみ)寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍(りょう)の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚した。薩長同盟の成立は幕府の長州再征を失敗に導いた。
1866年土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張してきた参政後藤象二郎(しょうじろう)(かつての土佐勤王党の弾圧者)と龍馬は翌1867年1月に会談。山内容堂(ようどう)の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた土佐藩は、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許し、龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。6月、後藤とともに藩船で京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめたが、これが土佐藩論を動かし、10月山内容堂は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白、慶喜はこれをいれて朝廷に奉還を上奏、朝廷は10月15日これを許可し大政奉還は実現した。その後も龍馬は土佐、長崎、福井などを奔走、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋(おうみや)で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組(みまわりぐみ)に襲われて斃(たお)れた。年33。贈正四位。[ 執筆者:関田英里 ]
★時習館(じしゅうかん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
熊本藩の藩校。1755年(宝暦5)藩主細川重賢(しげかた)が侍講秋山玉山(あきやまぎょくざん)の勧めもあって熊本城内二の丸に設立。校名は、孔子のことば「学びて時に之(これ)を習う」から採用。校舎は、学問する時習館と、武術稽古(けいこ)の東(とうしゃ)・西(せいしゃ)からなる。初代教授は玉山で、朱子学および古学、古文辞学を中心とする教育であった。算数、音楽、天文学も教育し、子供の能力・個性に応ずる教育方針をとり、身分・年齢を問わず入学させ、人材の養成に努め、藩政改革の一環とした。最優秀の学生は居寮生とし、藩費で菁莪斎(せいがさい)に寄宿させ、江戸留学もさせた。その後、教育方針が朱子学一辺倒となり、卒業生が藩政の中枢部を牛耳(ぎゅうじ)ったことから、政党「学校党」の拠点ともなった。卒業生には、幕末国家論を献策した横井小楠(しょうなん)(実学党)、明治天皇の侍講元田永孚(もとだながざね)、教育勅語を起草した井上毅(こわし)らがいる。1870年(明治3)藩政改革で廃止。同名の藩校は大田原(おおたわら)、笠間(かさま)、大聖寺(だいしょうじ)、三河(みかわ)吉田の各藩にもあった。[ 執筆者:森山恒雄 ]
★福井藩(ふくいはん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
越前(えちぜん)国福井(福井市)地方を領有した藩。親藩。越前藩、北庄(きたのしょう)藩ともいう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が68万石を賜って成立。その後忠直(ただなお)、忠昌(ただまさ)(50万5000石)、光通(みつみち)(42万石)、昌親(まさちか)(47万5000石)、綱昌(つなまさ)、吉品(よしのり)(昌親再封、25万石)、吉邦(よしくに)、宗昌(むねまさ)(30万石)、宗矩(むねのり)、重昌(しげまさ)、重富(しげとみ)、治好(はるよし)(32万石)、斉承(なりつぐ)、斉善(なりさわ)、慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))、茂昭(もちあき)と続いて明治維新に至る。姓は秀康に諸説あるが、忠直以降松平(まつだいら)を称し、名も将軍の偏諱(へんき)を賜った。秀康・忠直父子は優れた武将で、秀康は藩政の基礎を固め、忠直も祖父が「日本の樊噌(はんかい)」とその功を賞したほどであったが、秀康の弟徳川秀忠(ひでただ)が将軍になったこともあってか、ともに奇矯のふるまいが目だち、忠直は1623年(元和9)豊後(ぶんご)国(大分県)に配流された。家光の将軍就任に先だち、2代にわたる不遜(ふそん)を責め禍根を断ったものとみられる。ただし「酒色に耽(ふけ)り無辜(むこ)を殺戮(さつりく)」したと伝えられる忠直の乱行なるものは、多く潤色であり、そのまま史実とは認められず、鳥羽野(とばの)開拓などみるべき治績も多い。重富の代1768年(明和5)には、2万人が参加したとされる有名な城下打毀(うちこわし)が起こった。1838年(天保9)襲封した慶永は、橋本左内(さない)、横井小楠(しょうなん)(熊本藩)、中根雪江(せっこう)などのブレーンに恵まれて藩政改革に成功した。さらに幕政でも一橋(ひとつばし)派として井伊大老と対立し、敗れて「隠居急度慎(いんきょきっとつつしみ)」とされたが、1862年(文久2)政事総裁職として復帰し、公武合体路線を主張して活躍した。産業は、早くから越前奉書の名をもつ五箇(ごか)の和紙が盛んで、藩の専売品となっていた。また絹織物は幕末期下級武士の内職として行われた。藩校は正義堂、さらに明道館と称した。1871年(明治4)廃藩、福井、足羽(あすわ)、敦賀(つるが)、石川県を経て、81年再置の福井県に入る。[ 執筆者:隼田嘉彦 ]
★福井(県)(ふくい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
近世
関ヶ原の戦い後、徳川家康の二男結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)が越前国68万石に封ぜられ、1601年(慶長6)に入部したが、2代忠直以後たびたび改易処分を受け、松平氏福井藩は石高(こくだか)が半減した。幕末の1838年(天保9)16代藩主となった松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))は藩政の危機を打開するため積極的に人材を登用した。横井小楠(しょうなん)、橋本左内(さない)、三岡石五郎(由利公正(ゆりきみまさ))らである。幕末の福井藩は公武合体雄藩として当時の中央政界に雄飛した。
越前には、このほか江戸中期に有馬氏丸岡(まるおか)藩4万6000石、土井氏大野藩4万石、小笠原(おがさわら)氏勝山藩2万2000石余、間部(まなべ)氏鯖江(さばえ)藩4万石、酒井氏敦賀(鞠山(まりやま))藩1万石の諸藩があり、また天領、旗本領もあった。一方、若狭では1600年(慶長5)京極(きょうごく)高次が8万5000石で小浜に入封したが、1634年松江に移封、以後酒井氏小浜藩11万3000石余で明治に至った。[ 執筆者:印牧邦雄 ]

★横井小楠(よこいしょうなん)http://p.tl/dNML
日本の武士(熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。
熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革、公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
本姓は平氏。「小楠」は、彼が使った号の一つ。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら の ときひろ / ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
★書名 横井小楠 著者名 松浦玲 http://p.tl/jQMb
今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」と勝海舟は「氷川清 話」で述べている。
★横井小楠 よこいしょうなん http://p.tl/ggJY
★横井小楠記念館(四時軒)http://p.tl/-J4A
★横井小楠(よこいしょうなん)をめぐる維新群像 http://p.tl/P6h9
★維新から近代へ。幕末の思想家「横井小楠」http://p.tl/PcQA
★横井小楠(熊本歴史・人物)http://p.tl/czTF
★日向ぼっ子の大江戸散歩 龍馬に大政奉還を説いた男 http://p.tl/S6Pr
★日本の夜明け -明治維新で活躍した人たち- http://p.tl/jbNR
★ねずさんの ひとりごと 横井小楠に学ぶ http://p.tl/aqdf
★横井小楠の教育・政治思想(Adobe PDF)http://p.tl/BAqA
★横井小楠ゆかりの地 http://p.tl/VdCK

★別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .

2012年08月20日 10時01分03秒 | 色んな情報
★別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
1871年(明治4)神社の社格制度が「神社は国家の宗祀(そうし)」という理念の下に整備され、その一つとして官幣社が定められたが、翌72年に創建された湊川(みなとがわ)神社は別格官幣社とされ、以降逐次増加し、計28社あった。官幣小社に準じて待遇された。祭神は、国家的見地からみて功労があり、広く国民からの崇敬を受けている人臣であることが特徴であった。靖国(やすくに)神社もその一つであった。[ 執筆者:牟禮 仁 ]
★官幣社(かんぺいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古代の神社制度で、神祇官(じんぎかん)より幣帛(へいはく)を供え、祀(まつ)った神社。また明治の制では祈年(きねん)祭・新嘗(にいなめ)祭・例祭に皇室から幣帛を供えた神社のこと。国幣社とともに官国幣社(かんこくへいしゃ)といわれ、俗に官社ともいわれた。[ 執筆者:編集部 ]
★かんぺい‐しゃ〔クワンペイ‐〕【官幣社】
古くは神祇官から、明治以降は皇室から幣帛を奉った、社格の高い神社。大社・中社・小社・別格官幣社の別があった。皇室崇敬の神社や天皇・皇族・忠臣などを祭る神社が多い。昭和21年(1946)廃止。→国幣社
★官国幣社(かんこくへいしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
官幣社(かんぺいしゃ)と国幣社(こくへいしゃ)のこと。神社が国家管理下にあった時代、国家により経営され、祭祀(さいし)が行われ、また宮司の任免をされた神社で、官社ともよばれ、府県社以下のいわゆる民社と対していた。平安初期の延喜(えんぎ)の制では、官幣社とは神祇官(じんぎかん)より例幣が奉られ、国幣社とは国司の庁より幣帛(へいはく)が奉られる神社であったが、1874年(明治7)の制では、官幣社は祈年祭(きねんさい)・新嘗祭(にいなめさい)・例祭に、国幣社は祈年祭・新嘗祭に皇室から幣帛を供進(きょうしん)され、国幣社の例祭には国庫から幣帛料が供進されることとなっていた。
明治の制を祭神からみると、皇室の祖神または建国に功績のあった神、天皇、国家に功労のあった神を祀(まつ)る神社が官幣社、湊川(みなとがわ)神社など忠臣を祀る神社が別格官幣社、国土開発・地方開拓に功労のあった神を祀る神社が国幣社とされ、それぞれに大社・中社・小社と区分されていた。[ 執筆者:鎌田純一 ]
★神祇官(じんぎかん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
(1)令制(りょうせい)官司の一つ。古訓では「かみづかさ」とよむ。この官司・官名は天武(てんむ)・持統(じとう)朝(672~696)ころに成立したと思われるが、詳細は不明で、令制では太政官(だいじょうかん)と並ぶ格が与えられており、神祇および朝廷の祭祀(さいし)、祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)の名籍などをつかさどり、職員は伯、大副、少副、大祐、少祐、大史、少史各1人、神部(かんべ)30人、卜部(うらべ)20人、使部(しぶ)30人、直丁(じきちょう)2人の定員があった。神祇伯以下の諸職には中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)ら名負(なおい)の氏の就く例が多く、平安中期以降、神祇伯は花山(かざん)天皇の後裔(こうえい)白川家が世襲したが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、官司自体が衰退した。
(2)明治初期における神祇の祭祀(さいし)と行政をつかさどる政府機関。祭政一致をスローガンとして成立した明治維新政府は、神祇官の再興を企て、1868年(慶応4)1月17日神祇事務科、翌月3日神祇事務局を置き、閏(うるう)4月21日太政官(だじょうかん)の下に神祇官を置いた。さらに翌年7月8日これを太政官から独立させて上位に置き、また職制も令制に倣って伯(初代神祇伯は中山忠能(ただやす))以下を置くことによって、名実ともに神祇官を復活した。ただしその職掌には、令制にはない宣教と陵墓の管理が付け加わった。この神祇官の下でいわゆる神道(しんとう)国教化政策が展開されたが、「近代化」政策の推進のなかで、71年8月神祇省に格下げされた。以後、長く国体論者たちにより復興運動が続けられたが実現せず、ファシズム期に神祇院(1940.11~46.1)が内務省の外局として設置されたにとどまった。[ 執筆者:菊池克美・中島三千男 ]
★神祇(じんぎ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
天神地祇(てんじんちぎ)の略。天神は「あまつかみ」とよび、天上で生まれ、あるいは天上から降(くだ)った神。地祇は「くにつかみ」とよび、地上に天降った神の子孫、あるいは地上で生まれた神をいう。『令義解(りょうのぎげ)』では、天神として伊勢(いせ)、山城鴨(やましろのかも)、住吉など、地祇として大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛城鴨(かずらきのかも)などをあげている。[ 執筆者:大原康男 ]
★天神(てんじん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
宗教学上での天神(てんしん)sky godとは、在天の神というより天そのものを人格化した神をいい、未開社会には広くみられ、至高神の地位を占めることが多い。日本では天神(てんじん)・地祇(ちぎ)と並称され、地祇(くにつかみ)(国神)に対する天神(あまつかみ)をさす。神話では高天原(たかまがはら)に座(いま)す神々、また高天原から国土に降臨した神とその子孫の神々をいい、日本の神祇を区別づける重要な標準とされた。なお、後世はもっぱら菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする天満天神(てんまんてんじん)をさす称号となった。[ 執筆者:牟禮 仁 ]
★国神(くにつかみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
国津神、地祇(くにつかみ)とも記す。主として記紀神話の天神(あまつかみ)、天神之御子(あまつかみのみこ)に対応して用いられる神。一般には高天原(たかあまのはら)にある天神に対して、葦原中国(あしはらのなかつくに)にある神をいうとされる。『古事記』では国神として大山津見神(おおやまつみのかみ)、猿田古(さるたひこ)神、椎根津日子(しいねつひこ)などを、『令義解(りょうのぎげ)』の「神祇」では地祇として大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛木鴨(かつらぎのかも)、出雲大汝(いずもおおなむち)神などを、そして『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では地祇として大国主命(おおくにぬしのみこと)、海神綿積豊玉彦(わたつみわたつみとよたまひこ)命、椎根津彦(しいねつひこ)命などをあげている。また『日本書紀』では、その土地固有の神、未平定地の神、外国の神に対して日本の神などをもさし、『万葉集』では人間の国土を支配し守る神をさしている。このように国神の性格、内容は種々の要因を含み複雑である。[ 執筆者:森安 仁 ]
★宗教学(しゅうきょうがく) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/tFjl
history of religions [英語]
Religionswissenschaft [ドイツ語]
science religieuse [フランス語]
宗教現象を客観的、批判的に研究し、特定の宗教でなく、宗教一般の本質を明らかにすることを究極の目的とする学問の総称。客観的というのは、特定の信仰を前提として、その護持を図ることを目的としないということであり、批判的とは、攻撃的ということではなく、宗教の根拠、本質を資料と論理によって把握するということである。宗教哲学もこれに含まれるが、宗教学をとくに実証的研究を行うものに限る場合もある。[ 執筆者:柳川啓一 ]
目次   ↓↓↓以下↓↓↓
宗教学
1.起源
宗教学の起源についてはさまざまに説かれている。宗教に対する批判的分析という点で、ギリシアの哲学者に求め、あるいは、ヘロドトスのように、異国の宗教習俗について深い関心をもった者をあげる。また、理性の限界を超えて形而上(けいじじょう)的思索を行うことを避け、批判哲学を完成したカントが、宗教哲学の祖となっていることもあわせて、宗教学的立場の意義と立場を初めて明らかにしたとするものもあるが、普通には、宗教学の訳語の基であるscience of religionを初めて使ったマックス・ミュラーが宗教学の開祖であるとする。彼は古代インド宗教の学者であるとともに、古代の宗教、神話について比較研究を行い、1873年に『宗教学概論』を出版した。しかし英語ではscience of religionは使われなくなり、宗教学にあたる語はhistory of religionsあるいはcomparative religionが用いられている。[ 執筆者:柳川啓一 ]
2.展開
宗教哲学を除き、その後の宗教学の傾向は二つの流れに分かれる。一つは、マックス・ミュラー、ティーレ、ゼーデルプロムら、古代宗教の文献学的研究を土台としながら諸宗教の比較を行うものである。初め比較宗教学とよばれたこの学問は、いまは宗教現象学とよばれている。哲学における現象学とは直接の関係がなく、宗教的観念、制度の類型学となっていた。一方、聖書の文献学者ロバートソン・スミスが未開人の人類学的・社会学的研究を使って『セム族の宗教』(1889)を書いたように、「人間の科学」の一分野として宗教学をみる立場があった。
タイラー、フレーザーの文化人類学的研究、デュルケーム、マックス・ウェーバーの社会学的研究、ウィリアム・ジェームズ、フロイト、ユングの心理学的研究などから、宗教民族学、宗教社会学、宗教心理学が生まれた。これらの学者は宗教理論の形成に大きな業績をもたらしたが、彼らは社会学者、人類学者、心理学者であって、宗教学の側からの積極的取り組みがなかったため、宗教学は他の学問と交合する領域だけで盛んで、宗教学独自の領域での活動は停滞したうらみがあった。こういった情勢のとき、ファン・デル・レーウ、エリアーデなどが宗教現象学の立場から宗教学独自の分野を開こうとし、とくに象徴研究に力を注いだギアツ、宗教社会学のベラ、宗教人類学(民族学)のターナーらの研究も象徴分析に新境地を開いた。レビ・ストロース、リーチの構造主義もこれと関係するところが多い。1960年代になって人類学、社会学、心理学においても宗教研究の関心が強くなっている。
日本では、1905年(明治38)東京帝国大学に宗教学講座が設けられたように、比較的古い歴史をもっている。姉崎正治(あねざきまさはる)をはじめとする宗教学の開拓者たちは、多く仏教に関係する者の出身であり、ヨーロッパの宗教学が暗々のうちにキリスト教を最上の地位に置くのに対して、仏教の、あるいは東洋・日本の宗教の独自性を、比較のうえで明らかにしたいという目標をもっていた。日本は、神道(しんとう)、仏教、キリスト教、新宗教が併存していて研究対象にも恵まれており、欧米の宗教学がなお脱することのむずかしいキリスト教的見解からも自由であるので、世界の宗教学における発展が期待されている。[ 執筆者:柳川啓一 ]

★福井県大好き!!!(part1) http://p.tl/6_io 福井県大好き!!!(part2) http://hukui-blog.com/
★「もえさが」が提供する縁結び神社 足羽神社 出雲大社 金崎宮 若狭彦神社 http://p.tl/QT6t
★越前祖神 足羽神社 / 福井市足羽山 http://www.asuwajinja.jp/
★福井県護国神社 http://www.fukuigokoku.jp/
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★地元で「くろたつさん」と呼ばれ親しまれている毛谷黒龍神社。http://p.tl/VglV
★福井神社(ふくいじんじゃ)http://p.tl/OcKi
★石川県と福井県の神社 http://p.tl/6wco
★福井神社(ふくいじんじゃ)http://p.tl/FkhG
★福井県神社庁 http://www.jinja-fukui.jp/
★Category:福井県の神社 http://p.tl/_WGF
★藤島神社(ふじしまじんじゃ)http://p.tl/TSnL
福井県福井市の足羽山にある神社である。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。
南北朝時代の武将・新田義貞を主祭神とし、義貞の子の新田義顕・新田義興・新田義宗、弟の脇屋義助、および一族の将兵を配祀する。
★福井神社(ふくいじんじゃ)http://p.tl/sDCi
福井県福井市にある神社である。旧社格は別格官幣社。
★Category:別格官幣社 http://p.tl/yDkX
★「神道入門」(井上順孝:平凡社新書)より http://p.tl/jyj4
★西本願寺伝道院と石造の妖怪たち http://p.tl/Vofw


★全国各神社の社格制定 http://p.tl/xxpo
★官社(官幣社、国弊社、別格官幣社)の巡拝を満行!http://p.tl/LrTR
★祭神(さいじん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
神社に祭られる神をいう。神社には一般的に複数の神々が祭神として祭られるが、その場合、もっとも中心になる神を主神または主祭神(しゅさいじん)といい、他の神を相殿神(あいどのかみ)ともいう。神社の祭神には、『古事記』や『日本書紀』などの古典に名がみえる神々のほか、歴代の天皇や歴史上の人物がある。またある特定の地域を支配するとされる神で、とくに神名のない神も、ときとして神社の祭神となっている場合がある。靖国(やすくに)神社や護国神社では戦没者の霊を祭神とする。百済(くだら)王や高麗(こうらい)王などの朝鮮系帰化人を祭神とする神社もある。全国の神社のなかでは、稲荷(いなり)神社がもっとも数が多いので、その主祭神である宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)(倉稲魂(うかのみたま)神)がもっとも数多くの神社で祭られている祭神といえよう。
[ 執筆者:落合偉洲 ]
★相殿(あいどの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
複数の神が相並び坐(ま)す殿の意で、その祭神もしくは御殿(ごてん)をいう。合殿、会殿とも記す。谷川士清(たにかわことすが)の『倭訓栞(わくんのしおり)』には、「凡(およ)そ神社には皆相殿あり、儀式帳に同殿神称相殿と見ゆ」とある。同じ殿内に2神以上の神が祀(まつ)られた場合の称であるが、一般に神社の祭神は、主祭神と配祀(はいし)神または従祀神とに分けられ、配祀神または従祀神を相殿神という。『延喜式(えんぎしき)』神名帳に「前」とあるのは、相殿神をさしたものとみてよい。相殿神に対する礼遇は主祭神よりも下る場合が多い。また、扉は二つあるが、2間を一つにあわせてつくった社殿を、相殿造または二間社(にけんしゃ)という。
[ 執筆者:沼部春友 ]
★谷川士清(たにかわことすが) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1709―1776)
江戸中期の国学者。名は昇また公介。通称養順。淡斎などと号し士清は諱(いみな)。家号恒徳堂、社号振々霊社また森蔭。代々医を業とし父義章長男として宝永(ほうえい)6年2月26日、伊勢(いせ)国安濃(あのう)郡新町八丁刑部(おしかべ)(三重県津市)に出生。20歳上京、福井丹波守(たんばのかみ)に医学を、22歳松岡仲良に国学を学び、玉木正英(まさひで)に神道(しんとう)を学んで24歳神道免許状を、23歳小笠原(おがさわら)家よりいけ花許状を受けた。27歳京都山下氏女(むすめ)と結婚、森蔭社洞津谷川塾を創設し古典、神道を講じた。44歳有栖川(ありすがわ)家に歌道を学び、57歳ころより本居宣長(もとおりのりなが)と親交を結んだ。『日本書紀』を重んじ、諸説を集め和漢の出典を精査した『日本書紀通証』が43歳成り54歳刊行した。和漢雅俗語を五十音順に解説した『和訓栞(わくんのしおり)』は国語辞書の、『倭語(わご)通音』は活用研究の先駆で、随筆『鋸屑譚(かなくずばなし)』、家集『恵露草(めぐみのつゆくさ)』などもある。草稿を氏神世子明神の反古冢(ほごづか)に埋め、翌安永(あんえい)5年10月10日没。68歳。墓は津市押加部(おしかべ)町福蔵寺。
[ 執筆者:林 勉 ]
★神名帳(しんめいちょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「じんみょうちょう」とも読む。別に神社帳、神帳、神祇官(じんぎかん)帳、官帳などともいう。神社名または神名を列記した公簿の意味である。『延喜式(えんぎしき)』巻9(神名上)・巻10(神名下)に収載されている全国の神名帳は、「延喜式神名帳」「式神名帳」ともいわれて有名である。全国を宮中・京中・五畿七道(ごきしちどう)諸国に分け、合計2861官社(3132座)の神名を列記している。式神名帳は延長(えんちょう)5年(927)の成立で、そこに登載される神社を、とくに式内社(しきないしゃ)または式社という。式神名帳のほかに、各国ごとに作成された神名帳があり、これをとくに国内神名帳という。これは、諸国の国司が、管内主要神社を祀(まつ)り、巡拝するために、また行政上必要とされた。当初は全国にそれぞれ存在したものと考えられるが、現在は十数か所のそれが現存するのみである。このほうは、神階(しんかい)と神社名を記している場合が多く、神階帳ともよばれたりしている。
[ 執筆者:落合偉洲 ]
★式内社(しきないしゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
律令(りつりょう)時代の法典のなかで弘仁(こうにん)、貞観(じょうがん)の二式およびその後の式を集大成した『延喜式(えんぎしき)』(50巻)には、神祇(じんぎ)関係の法規が冒頭10巻にわたり記されている。その巻9「神名上」、巻10「神名下」は、それら神祇関係法規の適用される範囲の神社名を列記したもので、この2巻すなわち『延喜神名式』(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)を式内社という。したがって『延喜式』成立の927年(延長5)以前創建の神社となり、いずれも1000年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。それだけに廃絶した式内社や、それに該当すると称する神社が複数で論争している式内社もなかにはある。
[ 執筆者:白山芳太郎 ]
★延喜式(えんぎしき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
養老律令(りつりょう)に対する施行細則を集大成した古代法典。50巻。905年(延喜5)編纂(へんさん)開始、927年(延長5)撰進(せんしん)、967年(康保4)施行。三代格式(きゃくしき)(弘仁(こうにん)、貞観(じょうがん)、延喜)のうちほとんど完全な形で残っているのは本書だけであり、しかも規定の内容が微細な事柄に及び、百科便覧的な趣(おもむき)すらあるだけに、日本古代史の研究に不可欠のものである。ただ本書の内容は、先行の『弘仁式』およびその改訂増補部分だけを集めた『貞観式』からそのまま受け継がれた部分が多く、要するに8、9世紀のそれぞれの時点で成立した単行の施行細則を網羅的に集成したものであるから、本書を史料として利用する場合には、そのことに十分注意する必要がある。本書の構成は、巻1~巻10=神祇官(じんぎかん)関係の式(そのうち神名式は神名帳ともよばれる)、巻11~巻40=太政官(だいじょうかん)八省関係の式、巻41~巻49=それ以外の官庁関係の式、巻50=雑式となっていて、各官庁ごとに整理されている。本法典が編纂、施行された時代は、すでに律令政治の崩壊期に入っており、その法源としての実効力はかなり減じていた。したがって『延喜式』の編纂は立法事業というより文化事業という色彩が濃い。その後、古代、中世を通じてとくに公家(くげ)の間で、主として公事(くじ)や年中行事の典拠として尊重され、近世では国学者によって祝詞(のりと)式、神名式、諸陵式などの個別研究が行われた。現行の刊本では『新訂増補 国史大系』所収のものがもっともよい。
[ 執筆者:虎尾俊哉 ]
★養老律令(ようろうりつりょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本古代の基本法典。律は名例(みようれい)、衛禁(えごん)、職制(しきせい)、戸婚、厩庫(きゅうこ)、擅興(せんこう)、賊盗、闘訟、詐偽、雑、捕亡、断獄の12篇(へん)。令は官位、職員、後宮職員、東宮職員、家令職員、神祇(じんぎ)、僧尼、戸、田、賦役、学、選叙、継嗣(けいし)、考課、禄(ろく)、宮衛(くえい)、軍防、儀制、衣服、営繕、公式(くしき)、倉庫、厩牧(きゆうもく)、医疾、仮寧(けによう)、喪葬、関市、捕亡、獄、雑の30篇。律令とも各10巻。718年(養老2)右大臣藤原不比等(ふひと)の主宰のもとで、陽胡真身(やこのまみ)、大和長岡(やまとのながおか)、矢集虫麻呂(やずめのむしまろ)・塩屋古麻呂(しおやのこまろ)、百済人成(くだらのひとなり)が大宝(たいほう)律令を改正し律令を撰定(せんてい)したという。ただその論功を722年に行い、また完成を養老年中(717~724)とする伝えもあって、撰修(せんしゅう)終了はさだかでない。しかも不比等の孫の仲麻呂(なかまろ)が政権をとっていた757年(天平宝字1)ようやく実施となった。両律令を比較すると、基本的には条文上の不備、矛盾を修正するにとどまり、内容上変更があった場合でも、公布前適宜、単行法令として施行することがあった。編修自体、不比等が藤原氏所出の首(おびと)皇子(聖武(しょうむ)天皇)の統治を裏づける新律令の制定をもくろみ、施行には不比等の功を顕彰し、仲麻呂の権勢を強める意図が込められたとみられる。その後、大規模な律令編修はなく、律令国家の崩壊とあわせて効力を失ったが、公家(くげ)社会では引き続いて形式的に重んじられ、官制などは明治初年まで存続した。『律疏(りつそ)』『令義解(りょうのぎげ)』『令集解(りょうのしゅうげ)』や逸文によって、ほぼその全容を知ることができる。
[ 執筆者:八木 充 ]
★公家(くげ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「おおやけ」「こうけ」とも読む。天皇の指称(ししょう)。また朝廷ないしその官人の総称。本来君主の家または官庁を意味することばであるが、転じて天皇をさす称となり、さらに武士が政権を握って武家とよばれるに伴い、それに対して朝廷ないし朝廷の官人、とくに上層の廷臣の総称となり、公卿(くぎょう)と同じ意味にも用いられた。江戸時代、廷臣の家格が固定してからは、昇殿を許された家柄(堂上家(とうしょうけ))とほぼ同じ意味の用語となった。
[ 執筆者:橋本義彦 ]
★公卿(くぎょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国周(しゅう)の官、三公九卿(さんこうきゅうけい)に由来する名辞。上達部(かんだちめ)、卿相(けいしょう)、月卿(げっけい)、棘路(きょくろ)(おどろのみち)ともいう。一般に三公(太師(たいし)、太傅(たいふ)、太保(たいほ))は太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣に、九卿(少師、少傅、少保、冢宰(ちょうさい)、司徒(しと)、宗伯(そうはく)、司馬(しば)、司寇(しこう)、司空(しくう))は参議、三位(さんみ)以上の高官にあてた。令(りょう)制では官職は大臣、大納言(だいなごん)、位階は従(じゅ)三位以上をさすが、のちには令外(りょうげ)の摂政(せっしょう)、関白、内大臣、中納言、参議をも含み、四位の参議もまたこれに入る。公卿には現任と散位(さんに)との別がある。『公卿補任(ぶにん)』によれば、散位のうち一度でも参議以上になったことのある官人は、前(さきの)大納言、前参議などと書いているが、位は従三位以上でも、参議にもならない官人の場合は、非参議と表現している。758年(天平宝字2)太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫(ぎょしたいふ)と改称したが、藤原仲麻呂(なかまろ)没後の764年に至り、それぞれ旧号に復した。
[ 執筆者:渡辺直彦 ]
★国内神名帳(こくないじんみょうちょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古代、律令制(りつりょうせい)下に諸国の国司が、その管内の崇敬神社を記した公簿をいう。新任の国司が任国に到着すると管内の崇敬神社に神拝することになっており、その後、政務の引き継ぎを行った。政務のなかに、国内神社の恒例・臨時の祭祀(さいし)や奉幣があり、それに供するため国内神社の公簿がつくられた。現在18か国の国内神名帳があるが、そのほとんどが国司所用のものであったかは疑問があるといわれている。おもなものに、筑後(ちくご)国神名帳、大隅(おおすみ)国神名帳、加賀(かが)国神名帳、尾張(おわり)国神名帳、対馬(つしま)国神名帳、和泉(いずみ)国神名帳、上野(こうずけ)国神名帳、伊豆(いず)国神階帳などがある。
[ 執筆者:落合偉洲 ]
★神階(しんかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
神々に授けた位階。神位ともいう。王臣の位階と同じ表記をするが、位田(いでん)はほとんど付与されていない。神階は品位(ほんい)、位階、勲位(くんい)の別があり、品位は四品(しほん)から一品(いっぽん)に至る四階、位階は正六位上から正一位に至る15階、勲位は勲十二等から勲一等に至る12階に分けられ、特別の祈願・効験あるごとに授けられた。746年(天平18)宇佐(うさ)(大分県宇佐市)の八幡(はちまん)大神に三位(さんみ)を授け、749年(天平勝宝1)同神に一品、比売(ひめ)神に二品を授けた例を初見とする。勲位は771年(宝亀2)越前(えちぜん)国(福井県)の剣神(つるぎのかみ)に勲五等を授けたのが早い例である。平安初期には盛んに神階叙位が行われたが、鎌倉初期にほとんどの神々が正一位まで昇叙(しょうじょ)し、その制度の実効は失われていった。中世末期からは吉田神道(しんとう)を創唱した吉田家の扱うところとなり、宗源宣旨(そうげんせんじ)と称する私文書の証状が発行された。
[ 執筆者:岡田荘司 ]
★位階(いかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「官人を等級づける」標識。603年(推古天皇11)の冠位十二階制で創設されたが、647年(大化3)の七色十三階制、649年の冠位十九階制を経て、664年(天智天皇3)の冠位二十六階制に発展した。ついで672年の壬申(じんしん)の乱を経て、685年(天武天皇14)には冠位六十階制(皇親十二階、諸臣四十八階)が制定されたが、この冠位制が689年(持統天皇3)6月に施行された浄御原令(きよみはらりょう)の位階制になった。そして701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)位階制で、その体系性を完成した。親王は一品(いっぽん)から四品まで四階、諸王は正(しょう)一位から従(じゅ)五位下まで十四階、諸臣は正一位から少初位(しょうそい)下まで三十階という基本系列を中心にして、唐の視品(しひん)制をモデルにした外位(げい)制と、勲官制を継受した勲位制とが、傍系系列として創設されている。外位制は外正五位上から外少初位下までの二十階で、郡司、軍毅(ぐんき)や帳内(ちょうない)、資人(しじん)など、地方豪族以下が任ぜられる官職や、蝦夷(えみし)、隼人(はやと)らの有功者に授けた。また勲位制は勲一等から勲十二等までで、主として対蝦夷・隼人軍事行動の有功者に授けられた。そして内・外五位以上は貴族官僚として勅授され、内八位、外七位以上は奏授、外八位、内・外初位は官判授とされた。757年(天平宝字1)5月に施行された養老(ようろう)令の位階体系も、大宝令制とまったく同じであり、以降1000余年の長きにわたり実施されたが、勲位、外位はしだいに消滅化して、1869年(明治2)の新位階制(二十階)に及んだ。87年、正・従一~八位の十六階となり、89年その対象を臣下のみに限った。第二次世界大戦後、位階は死者に対する追賜以外は授与が停止されている。
[ 執筆者:野村忠夫 ]
★位田(いでん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古代律令制(りつりょうせい)下において、一品(いっぽん)~四品(しほん)の親王と五位以上の有位者に支給された田。このうち親王の位田は品田(ほんでん)ともよばれた。輸租田(ゆそでん)である。養老令の規定(大宝令も同じであろう)では、正一位(しょういちい)の80町(約90ヘクタール)から従五位(じゅごい)の8町まで位階に応じて支給され、女子は男子の3分の2であった。728年(神亀5)以降、外位(げい)は内位の半分とされた。位田は位を得たときに支給され、死後はただちに収公される原則であった。そして、給主が欠けたときは無主位田(むしゅのいでん)とよばれ輸地子田(ゆじしでん)とされて、その地子(ちし)は中央の穀倉院に収納された。位田の耕営方法は、多くは班田農民の賃租(土地の借耕)によったと思われるが、その場合、田主の純収益は、賃租の地子(穫稲(かくとう)の20%)から租(穫稲の3%)を差し引いた残り、すなわち穫稲の17%であった。
[ 執筆者:村山光一 ]

●嶺北(れいほく)と 嶺南(れいなん)

2012年08月20日 07時08分05秒 | 色んな情報
●嶺北(れいほく)と 嶺南(れいなん)

★『●鯖街道』http://p.tl/798q
★『●不死鳥福井●福井大空襲●福井大震災』http://p.tl/9TKQhtml
★『●福井県に伝わる民話●福井弁』http://p.tl/bm3J
★『▲福井県謎解き散歩   松原信之 編著 新人物文庫から一部』http://p.tl/VWO6
★『●福井の民謡』http://p.tl/RD_P
★『●東北弁●縄文人は「ズーズー弁」?』http://p.tl/WoFA
★『●守護●守護代●若狭国●越前国●島津氏都の繋がり?●斯波宗家●武生(たけふ)』http://p.tl/xg-b
★嶺北(れいほく)http://p.tl/GzDX
福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当するので、越前地方(えちぜんちほう)と呼ばれることもある。
★福井弁(ふくいべん)http://p.tl/4wYf
福井県嶺北(敦賀市を除く旧越前国)で話される日本語の方言で、北陸方言の一種である。同じ福井県内の嶺南地方(敦賀市と旧若狭国)で話される方言(嶺南方言)は福井弁とは大きく異なり、近畿方言に分類される。
★現代福井弁講座 http://fukuiben.com/
★北陸方言(ほくりくほうげん)http://p.tl/TDPf
新潟県の佐渡島と糸魚川市旧青海町、富山県、石川県、福井県嶺北で話される日本語の方言の総称である。西日本方言に属する。
文法は全般に西日本的で、一方、音韻体系には東北方言との共通点がある。アクセントは地域によって多様である。
★日本語の方言(にほんごのほうげん)http://p.tl/nIRJ
すなわち日本語の地域変種(地域方言)について記述する。
★言語変種(げんごへんしゅ)http://p.tl/nmez
方言の概念を拡張したものであり、同一言語内における特定の集団(もしくは個人)によって話されている様々な言語ヴァリエーションを指す。社会言語学において用いられる用語であり、英語 variety of language の訳語である。
★嶺南(れいなん)http://p.tl/lymO
福井県南部の若狭湾沿岸の地域を指す。江戸時代の小浜藩にほぼ該当する。リアス式海岸をもつという特徴がある。
嶺北との境は、山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠の稜線である。
★若狭湾(わかさわん)http://p.tl/keqS
福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬を結ぶ直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km²の面積を有する。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴である。
★小浜藩(おばまはん)http://p.tl/K-Jo
若狭国一国および越前敦賀郡を領した藩。藩庁は小浜城。
★若狭国(わかさのくに)http://p.tl/-ckR   別称は若州(じゃくしゅう)。
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は若州(じゃくしゅう)。領域は現在の福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分にあたる。『延喜式』での格は中国、近国。
★近国(きんごく)http://p.tl/2HyH
律令国の等級区分の一つである。
律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。
★北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)http://p.tl/rnkX 北陸道 →若狭国
1.五畿七道の一つで、本州日本海側の中部を指す行政区分。
2.五畿七道の北陸道を通る幹線道路。
3.北陸自動車道(高速道路)の略称。
4.道州制論議で、北陸地方を含む枠組みで使われる造語。「北陸州」とも。
★敦賀市(つるがし)http://p.tl/vj9Z
福井県南西部(嶺南)の、敦賀湾に面する市である。古代より港湾を中心に栄え、北陸道と畿内を結ぶ位置から近代以降は鉄道や道路の要衝ともなっている。原子力発電所でも知られる。昆布が特産物でもある。
★地理   http://p.tl/S-yM
現在の市域は、令制国での越前国敦賀郡と区域が一致しているが、観光などでは、「若狭」、「若狭・敦賀」、「近江・若狭・敦賀」などの地域区分を使用されることも多い。これは敦賀郡が木の芽峠で他の越前地域と交通遮断されていること、江戸時代に若狭藩(小浜藩)領であったことから敦賀以北の越前よりも風俗が若狭あるいは近江に近いことが理由とされている。。[1][2] 福井県内の地域区分で言う嶺南と一致する。
★歴史   http://p.tl/DKGh

★木ノ芽峠(きのめとうげ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
福井県敦賀(つるが)市と南条郡南越前(みなみえちぜん)町の境にある峠。標高628メートル。古代から近畿より北陸へ入る関門で、現在は北陸トンネルが直下を通る。『日本紀略』830年(天長7)に鹿蒜(かひる)山に開かれた嶮道(けんどう)がこの峠という。古代の北陸道は松原駅(敦賀)から敦賀湾東岸に渡り山越えしたが、鹿蒜駅の位置が不明で、この峠を越えたかどうかわからない。南越前町の新道(しんどう)地区からこの峠にかけての山地を現在は帰山(かえるやま)というが、一説には敦賀市五幡(いつはた)の背後ともいう。中世からは新保(しんぽ)(敦賀市)を通る陸路がとられ、この峠は源平両軍、道元、新田義貞(にったよしさだ)、蓮如(れんにょ)らが越え、織田信長と朝倉勢・一向一揆(いっこういっき)の戦場となった。峠には石畳道と豊臣(とよとみ)秀吉が与えた釜(かま)をもつ茶屋が残り、北にやや下ると言奈(いうな)地蔵がある。なお、福井県は、この峠のある山地で嶺南(れいなん)、嶺北(れいほく)の二大生活圏に分かれる。JR北陸本線南今庄駅下車、徒歩2時間。[ 執筆者:島田正彦 ]

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★鯖江(市)(さばえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(全1件)
福井県嶺北(れいほく)、福井平野南部の工業都市。1955年(昭和30)鯖江、神明(しんめい)2町と北中山(一部)、中河、片上(かたがみ)、立待(たちまち)、吉川(よしかわ)、豊(ゆたか)の6村が合併して市制施行。57年河和田(かわだ)村を編入。市街は武生(たけふ)盆地北部の南北に連なる台地上に発達する。市街地とその周辺を東から北陸自動車道、JR北陸本線、国道8号(旧北陸道)、福井鉄道福武線がほぼ南北に、417号が東西に走る。中心の鯖江地区は南方に日野(ひの)川水運の起点であり、また北陸道の渡河点である白鬼女(しろきじょ)を控えた要地で、中世には真宗三門徒派誠照(じょうしょう)寺の門前町であった。近世には福井藩領、天領となり、1720年(享保5)間部(まなべ)氏が入って鯖江藩5万石の陣屋が置かれた。北の神明地区は原野が広く、福井藩2代松平忠直(ただなお)はその一部鳥羽野(とばの)に新田を開いた。明治期に三六連隊が置かれてから発展し、第二次世界大戦後は家内工業と住宅の密集する新市街地となった。神明地区には古くから神明社があり、領主の尊崇が厚かった。神主の居宅瓜生(うりゅう)家住宅は国指定重要文化財。市の工業は明治末期に始まり、現在全国の90%を産する眼鏡枠と福井市の影響を受けた機業があり、東部山間の河和田は江戸期以来の越前(えちぜん)漆器の産地で、とくに片山が中心である。国の史跡に王山(おうさん)古墳群、兜山(かぶとやま)古墳があり、西山公園は藩主が領民の遊猟に開いた地で、ツツジの名所として知られ、動物園もある。そのほか、鳥井町の春日神社の本殿が国の重要文化財に指定されている。なお、1995年(平成7)に世界体操選手権大会が開催された。面積84.75平方キロメートル、人口6万6831(2005)。[ 執筆者:島田正彦 ]
 
旧瓜生家住宅
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データ:鯖江市の要覧..
鯖江市の要覧
面積:84.75平方キロ
 
総人口:6万6831人(男:3万2263人、女:3万4568人)
 
世帯数:2万0177戸
 
※面積は国土交通省国土地理院『平成18年全国都道府県市区町村別面積調』、人口、世帯数は『平成17年国勢調査報告』による