縄文人の反乱 日本を大事に

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●騙す 取る 殺すが 日本人以外の人の子供の頃からのおとぎ話。

2012年08月22日 22時36分14秒 | 色んな情報
●騙す 取る 殺すが 日本人以外の人の子供の頃からのおとぎ話。
★樺太・千島交換条約 http://p.tl/fzZr
樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。千島・樺太交換条約[1]や、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もある。
★樺太・千島交換条約の批准(8月22日) - 歴史公文書探究サイト http://p.tl/Gbdf
★歳時記に「樺太・千島交換条約の批准」更新! http://p.tl/d1O8
★資料382 樺太千島交換条約(明治8年・1875年)・樺太千島交換条約ニ属スル公文 http://p.tl/z7bg
★<8月22日(土)放送のシベリヤ極東ジャーナルのご案内>http://p.tl/sozU
★日本の最北端 http://p.tl/1qdS
★北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)http://p.tl/9SMP
★外交史料館報 第19号(平成17年9月)目次と概要 http://p.tl/WU5L
★外務省: 明治期 http://p.tl/yzWJ
★外務省: 条約書 http://p.tl/MOlk
★外務省: 北方領土問題に関するQ&A http://p.tl/uNBn
★樺太千島交換条約(抄) (条約) http://p.tl/tmDN
★1875年 日本とロシアが樺太千島交換条約を締結 http://p.tl/k5Mt
★「千島」概念の変遷 http://p.tl/9wf4
★はてなキーワード > 樺太・千島交換条約
 千島・樺太交換条約とも。
名前の通り、樺太(サハリン)をロシア領に、千島列島を日本領とした条約。
もともと、日露間で結ばれた事実上最初の領土を規定した条約は安政年間に結ばれた日露和親条約であり、これは択捉島以南(以西?)を日本領、ウルップ島以北(以東)をロシア領と定めていた。
樺太島については国境線を設けず、両国民雑居という曖昧な地位に置かれていた。
当然というか、トラブルが起きたので改めて国境線を画定しようということになり、
1.サハリン全島はロシアに帰属する。宗谷海峡を日露両国の国境とする
2.占守島から得撫島までの千島列島18島は日本に帰属する。占守海峡(カムチャツカ半島と占守島の間の海峡)を両国の国境とする
と定めた。
日本側の調印者は当時の駐露特命全権公使の榎本武揚、ロシア側は外相のゴルチャコフが調印した。
関連キーワード
千島・樺太交換条約宗谷海峡北方領土千島列島日韓基本条約占守島
★(1) 日本国魯西亜国通好条(Adobe PDF)http://p.tl/JHBa
★(2) 樺太千島交換条約(Adobe PDF)http://p.tl/JFmc

★【今日は何の日】 「8月22日」の記念日まとめ
 http://p.tl/p8FW http://p.tl/JSGu http://p.tl/_ZOq
★コラム 北方領土問題の歴史 http://p.tl/ueop
★サンクトペテルスブルグ条約 (千島樺太交換条約) http://p.tl/f4B7
★ハッピーバースディ -8月 22日(水)- (登録者:6名)http://p.tl/JW8p
★明治8年(1875)8月|樺太・千島交換条約が批准される:日本のあゆみ http://p.tl/05Yh
★年表/HTML:日本のあゆみ http://p.tl/OVDo
★南クリル諸島に対する日本の領土的要求について(Adobe PDF)http://p.tl/c-vf
★日露通好条約(1855年2月7日)「日本魯西亜通好条約」抜粋 http://p.tl/1cZ3
★沖ノ鳥島関連年表(~1900年)http://p.tl/i7wE
★総務部 > 北方領土対策本部 > 外交交渉の主な経過 http://p.tl/79_Q
★北方領土問題の経緯【第4 版】(Adobe PDF)http://p.tl/v9hs

★開国_史料解説 http://p.tl/CQTx
★日本とロシアの国境遍歴と主な合意 http://p.tl/rNO6

★『●占守島〔シュムシュ〕●日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき   特に大陸の国は』 http://amba.to/NAUXi6
★『●日本●戦争●【日本再生】●名称●』 http://amba.to/RTxKLp
★『●蝦夷地の地名●樺太●千島列島』 http://amba.to/Pqwkb3
★『●ポツダム宣言受諾【1945年(昭和20年)8月14日】』 http://amba.to/PqwrDu
★『●2012年【今日は何の日】8月14日』 http://amba.to/Sm6rJL
★『●「焼き場に立つ少年」●「解かれた封印」●ジョー・オダネル氏記録』 http://amba.to/RP8CH6
 
平和ボケもはなはなしくて話しにならない。
話をすれば こちとらは気違い。
其れがドウシたという知り合いも多い。
今更どうにも成らないと云うものまで居る。
せめてこの日記を住人で良いから知らせて欲しい。
 
 
 
日本人以外は口の裏には違う言葉を持っている。
エへラエへラ笑っている裏には 我々の喉元を斬ろうとナイフを持っている。

●詩吟はしたいな

2012年08月22日 21時03分10秒 | 色んな情報
●詩吟はしたいな
★し‐ぎん【詩吟】
読み下した漢詩に節をつけて吟じるもの。安政(1854~1860)ころに江戸の昌平黌(しょうへいこう)の書生たちが始めたという。→剣舞(けんぶ)
★剣舞(けんぶ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
刀槍(とうそう)や扇を用いて詩吟にあわせて舞う舞踊。江戸時代末期に昌平黌(しょうへいこう)の学生が酔って詩を吟じ剣を抜いて舞い、勤王の志士も剣舞を行ったというが、いずれも即興的なものである。剣舞と興行との結び付きは、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)が1873年(明治6)に始めた撃剣興行の余興として行ったのが最初である。84年4月には、鹿鳴館(ろくめいかん)に代表される当時の欧化風潮に対する反発から、神田の錦輝館(きんきかん)で詩吟と剣舞の会が開かれたが、出場者のなかには竹槍(たけやり)、蓆旗(むしろばた)を手にした剣士や、鉄扇を持ち陣羽織を着て草鞋(わらじ)を履いている吟士もあり、舞も刀剣以外は用いなかった。90年、日比野正吉(しょうきち)(雷風)と長宗我部林馬(ちょうそかべりんま)(加藤鶯鳴(おうめい)のち秦霊華(はたれいか))が剣舞を系統だて、前者は神刀(しんとう)流、後者は弥生(やよい)流を発表した。両者とも剣術家であったので剣舞も剣術や居合術の形を基本とし、服装も紋服に袴(はかま)、白鉢巻というもので、『鞭声(べんせい)(川中島)』『白虎隊(びゃっこたい)』『棄児行(きじこう)』などをよく演じた。その前後に宮入清政(至心(ししん)流)、金房(かなぶさ)冠一郎(金房流)、佐野星山(敷島流)が寄席(よせ)や芝居小屋などで演じていたが、薩閥(さつばつ)を背景とする日比野の神刀流と、伯父である日本演芸協会長土方久元(ひじかたひさもと)子爵の庇護(ひご)を受けた長宗我部の弥生流の勢力が一頭地を抜いていた。日清(にっしん)・日露戦争中は戦意高揚の手段として剣舞が奨励され、神田の錦輝館や横浜の喜楽座で大会が開かれた。大阪の千日前では軒並み剣舞の興行をするという盛況ぶりで、出演者は顔におしろいを塗り、「日清談判破裂して」とか「そもそも熊谷直実(くまがいなおざね)は」といった流行唄(はやりうた)を、三味線や鉦(かね)、太鼓入りで演ずる改良剣舞や娘剣舞が多かった。これらは長続きせず、やがて神社の祭礼、縁日の小屋掛け舞台や大道にまで落ちていった。第二次世界大戦後に一時衰えたが、1952年(昭和27)同好者が集まり日本剣舞道連盟を創立してから盛んになった。今日の剣舞は興行との直接の結び付きはほとんどない。[ 執筆者:大野正一 ]
★詩吟(しぎん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
漢詩に節をつけて吟ずること。人によっては、漢詩の訓読を吟ずることを「詩吟」、本来琵琶歌(びわうた)の一部であった和歌や漢詩の訓読を吟ずることを「吟詠」、そのほかの俳句、今様(いまよう)、新体詩などの詩型をも含めて吟ずることを「朗詠」として区別することもあるが、これらは同義的に用いられることが多い。
詩歌を吟ずる習慣は古く、平安中期には漢詩や和歌を歌詞とする宮廷歌謡「朗詠」が盛んになり、のちには和歌を読み上げる「歌披講(うたひこう)」も行われた。江戸中期ごろに儒学や国学が盛んになるにつれて、多くの漢詩がつくられ、学習者の間で吟じられるようになった。これが江戸後期に「詩吟」として流行するに至る。流派には、肥後(熊本県)の時習館流、江戸・湯島の聖堂流などがあった。明治になると、これらの流派ものは衰退し、それにかわって幕末からの剣舞の流行とともに、剣舞にあわせて行われた活発なリズムの詩吟が広く好まれるようになり、また琵琶歌のなかの悲憤慷慨(こうがい)調の吟詠部分も一般に支持されるようになった。大正以後には錦心(きんしん)流琵琶と結び付いた優雅艶麗(えんれい)のものも現れた。昭和になると、多くの女性が近代琵琶の諸流派から詩吟に転向し、芸能的な要素が高められる結果となった。現在では、ときには笛、尺八などの伴奏楽器が用いられることもあるが、基本的には無伴奏である。琵琶歌のなかで行われる場合には琵琶は間奏に用いられる。近年では、健康増進の方法の一つとして詩吟愛好者が増えている。[ 執筆者:卜田隆嗣 ]
★昌平黌(しょうへいこう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
江戸幕府直轄の学校。昌平坂聖堂、昌平坂学問所ともよぶ。もと幕府の文教方面を担当した林家(りんけ)の私塾だったが、元禄(げんろく)初年、湯島聖堂建立と同時に同敷地内に移され、寛政(かんせい)の改革の際、実質的に官学となった。
林家の初代羅山(らざん)が1630年(寛永7)に幕府から上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、書院と文庫を設立したのに始まり、32年尾張(おわり)藩主徳川義直(よしなお)の援助で孔子廟(こうしびょう)(先聖殿)を創建、2代目鵞峰(がほう)のとき、63年(寛文3)に「弘文館(こうぶんかん)」の名が与えられ学寮も設けられて、門人の教育も本格化した。5代将軍徳川綱吉(つなよし)は90年(元禄3)に孔子廟を神田湯島へ移し、3代目鳳岡(ほうこう)(信篤(のぶあつ))が大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられて、仰高門(ぎょうこうもん)東舎での儒教経典の講釈が始まった。4代以後の林家は人材なく他学派に圧倒され、1703年(元禄16)と72年(安永1)に火災にあったため不振状態となる。やがて87年(天明7)松平定信(さだのぶ)の老中首座就任、寛政の改革が始まるや、学舎を新築拡張、名を昌平坂学問所と改め、「正学」(程朱(ていしゅ)学)以外の異学を禁じ、柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(かんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、古賀精里(こがせいり)を迎えて教授陣を強化した。93年(寛政5)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の子衡(たいら)が林家を継ぎ(述斎)、大学頭となったのちは、学制、施設、人事の全般が整備。旗本の子弟のほか、陪臣、郷士、浪人の入学をも許したから、幕末には諸藩の秀才が集まった。寛政以後、佐藤一斎(いっさい)、安積艮斎(あさかごんさい)らの活動があり、1862年(文久2)学問所奉行(ぶぎょう)所の新設に伴い塩谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(そくけん)らも教授陣に加えられて、多くの人材を養成した。明治維新後は昌平学校となり、1869年(明治2)に大学校と改称、71年に廃止された。寛政年間建築の聖堂は関東大震災で消失、のち1935年(昭和10)に再建された。[ 執筆者:宮崎道生 ]
★舞踊(ぶよう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .dance [英語]http://p.tl/UJqJ
danse [フランス語]
Tanz [ドイツ語]
身体のリズミカルな動作により感情や意思、情景や状況などを表現する芸術。舞踊という日本語は「舞(まい)」と「踊り」の合成語として明治時代につくられたもので、英語のdance、フランス語のdanse、ドイツ語のTanzに相当する。これはサンスクリット語のtanha(「生の欲望」の意)を語源とし、ヒンドゥー・クシ、カフカスの両山脈を越えてエジプトに入り、tansaからチュートン系の言語tanzaとなった。いずれも、行為し、動き、生き、喜悦して踊る欲望をさすことばである。日本では類似したことばに「舞踏」があり、一般的には明治以降に使われるようになり、鹿鳴館(ろくめいかん)の舞踏会のように社交ダンスを意味した。また、1960年代に土方巽(ひじかたたつみ)が創始した前衛舞踊も「舞踏」の語を用い、butohとして海外にも知られるようになった。「踏」という語は舞踊史上あまり用いられないが、上代の踏歌(とうか)にもみられるように、「踏む」という行為は大地との直接的な関係を示し、「返閇(へんばい)を踏む」というように鎮魂や招魂のための動作であり、舞踊を構成する要素の一つである。[ 執筆者:市川 雅・國吉和子 ]
★舞踏(ぶとう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「舞う」と「踏む」とを合成したことばで、一般的には明治以降に使われるようになった。鹿鳴(ろくめい)館などで催された社交ダンスの会を舞踏会と称したことから、社交ダンス、ひいては西洋のダンスなどをいったが、今日ではその意味ではあまり使われなくなった。1950年代後半から前衛舞踊家土方巽(ひじかたたつみ)が、正統モダン・ダンスである「舞踊」に対抗して異端を強調するために「暗黒舞踏」ということばを使った。以降、大野一雄(かずお)、土方巽をはじめ笠井叡(かさいあきら)、麿赤児(まろあかじ)、芦川羊子(あしかわようこ)、山海塾(さんかいじゆく)らの活躍によって、「舞踏」は国際的な用語にもなりつつあり、欧米ではButohと綴(つづ)られている。[ 執筆者:市川 雅 ]
★踏歌(とうか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国から伝来した上代歌舞の一つ。大ぜいの人が足で地を踏みながら拍子をとりつつ歌い踊るもので、一名アラレハシリともよばれる。ハシリとは舞踏の意であるらしい。本来、隋(ずい)・唐の民間行事で、正月上元の夜の観灯会に行うのを例とした。わが国では、『日本書紀』持統(じとう)天皇7年(693)正月16日条にその初見例がみえ、これ以後しだいに踏歌節会(とうかのせちえ)として宮廷の年中行事の一つとなって定着したらしい。儀式のようすは『内裏式(だいりしき)』『西宮記(さいぐうき)』などに詳しい。男(おとこ)踏歌と女(おんな)踏歌とがあり、いずれも天皇の長久とその年の豊穣(ほうじょう)を祈ることを目的とした。踏歌は一方で民間にも普及したらしく、766年(天平神護2)には、風俗を乱すとの理由で畿内(きない)の民間踏歌が禁断されている。歌詞は当初は唐詩を用いたが、行事が日本化するとともに催馬楽(さいばら)の「我家(わいえ)」「竹河(たけかわ)」などが用いられるようになった。平安末ごろには衰退し、節会として行われることは絶えた。[ 執筆者:多田一臣 ]
★踏歌節会(とうかのせちえ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
正月14、16日に行われた宮廷行事。歌の上手な男女を集めて、年始めの祝詞を歌い、舞わせた。大極殿、清涼殿に天皇が出御し、14日が男(おとこ)踏歌、16日が女(おんな)踏歌とされていた。いずれも天皇の長久と、その年の豊穣(ほうじょう)を祈るのを目的とした。
女踏歌は内教坊(宮中の歌舞を教習するところ)の舞妓(まいこ)40人、中宮・東宮の舞妓あわせて4人または6人が内庭に並んで四角に舞いながら3周して天皇の前に進み、祝詞および歌曲を奏する。
男踏歌は、天皇の前で舞踏ののち、京の町中を回り、大臣の家の水駅(みずうまや)で休息し、湯漬けをいただき、夜明けまで回るのが特徴であったが、983年(永観1)に終わり、女踏歌だけが平安時代末まで盛んに行われた。もっとも、男踏歌は宮中では早くに絶えたものの、名古屋の熱田(あつた)神宮などでは現在でも正月の行事として残っている。[ 執筆者:山中 裕 ]
★祝詞(のりと) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
神前に奏上する詞(ことば)。その内容は、祭りにより、場所により異なる。祝詞文の構成は、起首、由縁、献供、祈願または感謝、結尾などの章句からなるものが多いが、このほかにも神徳、装飾、奉仕、祝頌(しゆくしよう)などの章句を用いたものもある。ノリトはノリトゴト(祝詞事)の略言である。ノリトの語義については諸説あるが、ノリは上位者から下位者に言い渡すことであり、トは上にある表現を体言化するように働く。神や霊に対して申し上げる祝詞の文体は、「……と白(まを)す」(申す)と結ぶことから、これを「申す型」(奏上体)という。今日の祝詞は、そのほとんどがこの型であるが、その場にいる者に対して、宣(の)り聞かせる形式もあり、これは「……と宣る」と終わることから、「宣る型」(宣下体)という。この型は大祓詞(おおはらえのことば)に継承されている。今日奏されている祝詞の基本は、『延喜式(えんぎしき)』巻第八(祝詞式)に収録されている27編の祝詞で、これを「延喜式祝詞」という。これらの祝詞がつくられた年代は、祝詞が奏された祭祀(さいし)の歴史と軌を一にするものであるから、27編の祝詞が同時につくられたのではない。また、それぞれに変遷もあったであろうが、平安時代にまとめられたのが「延喜式祝詞」であり、これらはわが国の古典文学作品としても高く評価されている。「延喜式祝詞」以降も、今日まで多くの祝詞がつくられているが、文体、語彙(ごい)など、いずれも式祝詞を踏襲したものが多い。
祭儀のときに唱えられる詞章。「のりと」の「のり」は「のる(宣る)」から出たものであり、「のる」という宗教的実修における詞章を意味している。各時代を通じて行われてきたが、文学史においてはとくに『延喜式』巻八に収められている朝廷の祭儀の際の27編(うち一つは漢文)と『台記(たいき)』「別記」に伝える「中臣寿詞(なかとみのよごと)」一編とに限定していうのが普通である。『延喜式』は延喜5年(905)に編纂(へんさん)を開始したが、巻八に収められた祝詞は、そのおよそ100年ほど前、9世紀の初めにはほぼ固定していたとみられる。神祇(じんぎ)官において祭りを執り行い、また神宮や神社で祭りを執り行うときに唱えられる詞章として固定したものである。ただ、個々の詞章の成立には幅があり、7世紀から9世紀初めにわたる可能性があるとみられる。
内容としては、神前に集まった人々や神職などに「諸聞(もろもろきこ)しめせと宣(の)る」と宣下する型のものと、「称辞竟(たたへごとを)へまつらくと白(まを)す」と奏上する型のものとに大別される。構成は、祭儀の由来を述べる部分と祭事の執行を述べる部分とからなる。表現には、列挙、反復、対句などを多く用いるが、そこには、文字以前の口誦(こうしょう)の段階で形づくられた表現をうかがうことができる点で注目される。口誦の表現の様式として、「朝(あした)には御門(みかど)を開きまつり、夕べには御門を閉(た)てまつりて、疎(うと)ぶる物の下より往(ゆ)かば下を守(まも)り、上より往かば上を守り、夜(よ)の守り日の守りに守りまつる」(「祈年祭」)のごときをみることができよう。[ 執筆者:沼部春友・神野志隆光 ]
★頌(しょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古くは、中国最古の詩集『詩経(しきょう)』において、全詩を六つのジャンル(六義(りくぎ))に分類したうちの一つで、宗廟(そうびょう)の祭礼における舞楽の歌をいう。「ほめうた」の意。一種特有の文体で、農事の神々、祖先、君王の盛徳、成功を形容し、賛美、頌揚、祈求するものであった。その後、頌揚の対象が鬼神帝王から一般人や普通の事物へと拡大され、漢の揚雄(ようゆう)の「趙充国(ちょうじゅうこく)頌」、晋(しん)の劉伶(りゅうれい)の「酒徳頌」、唐の韓愈(かんゆ)の「子産が郷校を毀(やぶ)らざるの頌」などがそれである。[ 執筆者:杉森正弥 ]
★六義(りくぎ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国最古の詩集『詩経(しきょう)』の詩の分類法で、内容別の分類である風(ふう)・雅(が)・頌(しよう)と、形式上の分類である賦(ふ)・比(ひ)・興(きょう)の六つをいう。初出は『詩経』大序と『周礼(しゅらい)』春官であるが、それぞれの意味するところについては古来問題が多い。通説によると、風は風土・風俗の意で、民間の歌謡のこと、雅は正の意で、中原(ちゅうげん)の王朝貴族の雅言(標準語)による歌声、頌は祖先の功徳の頌歌をいう。次に、賦は比喩(ひゆ)なしで事実を述べる文体、比は一般に比喩であるが、とくに諷喩(ふうゆ)(アレゴリー)のこと、興については定説がないが、自然の現象と人間の事象を並べる平行法により隠喩(いんゆ)を読み取らせる手法と考えられる。『詩経』がわが国に伝わると、六義は和歌の六種の表現形式に適用された。『古今集』の仮名序で、風・賦・比・興・雅・頌をそれぞれ、「そへ歌、かぞへ歌、なずらへ歌、たとへ歌、ただごと歌、いはひ歌」と言い換えている。そのほか、書道における六種の法(筆法、風情、字象、去病(きよへい)、骨目(こつもく)、感徳(かんとく))をさすこともある。[ 執筆者:加納喜光 ]

★いわい‐うた〔いはひ‐〕【祝(い)歌/×頌】
1.民謡の分類の一。祝いの式や宴席などでうたう歌。祝儀歌。
2.和歌六義(りくぎ)の一。祝いことほぐ歌。頌歌(しょうか)。
「六つには―」〈古今・仮名序〉

★詩吟 「富士山」 川添精照 (岳精流日本吟院町田岳精会)http://p.tl/rpZT
★全国新人大会優勝者吟詠  中島 右祐 富士山(石川丈山)http://p.tl/QCHP
★平家物語 祇園精舎/岩佐鶴丈 http://p.tl/qRxl
★平家物語より 祗園精舎の一節 http://p.tl/XZkA

★古城/三橋美智也 http://p.tl/s9UU

●イスラムもキリストも私に言わせりゃバカばかり 名前の統一も出来ていない

2012年08月22日 20時05分01秒 | 色んな情報
●イスラムもキリストも私に言わせりゃバカばかり 名前の統一も出来ていない
★イスラム【(アラビア)Islm】
《絶対的服従・帰依の意》
1 イスラム教のこと。
2 イスラム教に基づく社会や文化。「―世界」
★イスラーム http://p.tl/Sse5
ムハンマドがアッラーフの啓示を受けたとして創始した、ムスリムの信仰生活を、第一聖典クルアーン(コーラン)と第二聖典ハディースによって規定する体系をさす。回教とも呼ばれ、またかつてはフイフイ教とも呼ばれた。
日本語における「イスラーム」(isurāmu)はアラビア語のإسلام (islām)の長母音に即した形でカタカナに音写した語である。この語は、全知全能の唯一絶対神(アラビア語でアッラーフ)に絶対的に帰依する事、唯一神に完全・完璧に服従すること、またその状態を意味する。この帰依・服従のこと自体が一般に言われる「イスラム教」のことである。
★イスラム教(いすらむきょう)http://p.tl/8p0N
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。
ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。
★イスラムHP   http://p.tl/YbWe
★世界史講義録  第44回  イスラム教の特徴 http://p.tl/WcNM
★はてなキーワード > イスラム
al-Islam  
世界三大宗教の一つである。原語であるアラビア語ではイスラームと発音される。その信徒はムスリムと呼ばれ、ユダヤ教やキリスト教徒同じようにセム系一神教の流れをくむ。
610年ごろムハンマドが洞窟で瞑想していると、大天使ガブリエル(ジブリール)が現れ、彼に啓示を下したと言われている。この時点から、ムハンマドは単なる一商人から、神の言葉を預かる預言者となった。そのような啓示は、彼が死ぬ直前まで続いた。そしてその啓示を正典化したものが、コーラン(クルアーン)である。
 
 義務行為と信仰箇条
イスラームを信仰するムスリムには、義務行為と信仰箇条がかせられている。
・義務行為とは、
1.公言しなければならない信仰告白(シャハーダ)
2.日々の礼拝(サラート)
3.一種の社会福祉税ともいわれる、義務的喜捨(ザカート)
4.毎年決められ月に行うマッカ巡礼(ハッジ)
5.ラマダーン月に行われる断食のように、欲望に打ち克つために行われる斎戒(サウム)
である。
・信仰箇条とは、
1.唯一神であるアッラーの存在(アッラーフ)
2.諸天使(マラーイカ)
3.アダムやアブラハムなどの諸預言者・使徒(ラスール)
4.それらの諸預言者に下された諸啓典(キターブ)
5.最後の審判が行われた後に来る来世(アーヒラ)
6この世に起こるすべてを神がすでにみそなわしているという定命(カダル)
である。
これらの義務行為と信仰箇条は総じて六信五行と呼ばれている

イスラームは宗教であり、他の宗教と同様に信仰上の生活を規定している。しかし共同体の運営に関する規定がその教義に含まれているように、単なる宗教としてだけとらえると誤解を招いてしまうおそれがある。イスラーム世界で常々政教の一致がおこっているのは、そのようなイスラームの理念のためである。

 イスラムとセム系一神教の先人たち
イスラームはセム系一神教の流れをくんでいるため、先人であるユダヤ教やキリスト教については若干見下しつつも、その存在と信仰を許容している。これは神はモーセによる人の救済に失敗し、キリストによる救済でも失敗したので、三人目の預言者としてムハンマドを遣わしたとするイスラームの宗教観によるものである。
ユダヤ教やキリスト教からは、後発のイスラームの存在は認め難いが、三者の共存は歴史的には当然のことであった。中世にはヨーロッパのキリスト教徒はイスラームに対して十字軍のような宗教戦争を起こすが、近世のトルコ統治時代のエルサレムではユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三者が共存していた。現在のエルサレムでは、ユダヤ人とイスラム教徒の間には深い溝がある。ユダヤ人の神殿をイスラム教徒がモスクに作り変えるなどのイスラーム側の行動も、この両者の溝を深めた一因であるとも言えるだろが、今に続く両者の鋭い対立が現れたのは、19世紀末にシオニズムが勃興して以降のことである。

 宗派(分派)
イスラム教には、他の宗教同様、多くの宗派(分派)があるが、大きく分けると以下の三つとなる。
スンニ派: イスラム教徒の8割を占める多数派。分派は原則として存在しないが、法解釈をめぐっていくつかの学派に分かれる。
シーア派: イスラム教徒の2割を占める少数派。十二イマーム派、イスマーイール派系諸派等、多くの分派が存在する。
ハワーリジュ派: 初期に分裂した過激派。穏健化した分派がオマーン、北アフリカ等にわずかに現存する。
これらのうち、スンニ派とシーア派がイスラムの二大宗派とされる。
*()はアラビアの原音

★イスラム【いすらむ】知恵蔵2012
7世紀初頭、アラビア半島でムハンマド(マホメット)が唯一の神(アッラー)から啓示を受けて創始した宗教。信者は、西アジア、アフリカ、東南アジアなどに広く分布している。イスラムとは「唯一の神に絶対帰依すること」を指し、「教」を付けなくとも、それ自体が宗教を意味する。また、その信者はムスリム(絶対帰依する者)と呼ばれる。さらに「アッラー」はアラビア語で「神」の意味であり、神の名前を表す固有名詞ではない。マッカ(メッカ)の富裕な商家クライシュ族のハーシム家に生まれたムハンマドは610年、40歳の時に神の啓示を受ける。啓示はムハンマドの死(632年)に至るまで下り続け、後にこれをまとめたものが聖典『クルアーン』(コーラン)である。ムスリムの基本的な宗教実践は次の5つ(五行)。(1)「アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり」という根本的信仰を告白すること、(2)1日5回、マッカの方角に向かって礼拝すること、(3)イスラム暦の9月(日本では12月)の1カ月間、日の出から日没まで断食(サウム)をすること、(4)喜捨(社会のために役立てる税金のようなもの)をすること、(5)マッカへの巡礼。ムスリムの生活は、ムハンマドが迫害を逃れてマッカからマディーナ(メディナ)に移った622年を元年とする、イスラム暦(太陰暦、ヒジュラ暦)に従っている。また、イスラムでは、アブラハム、モーセ、イエスなどのユダヤ教・キリスト教の登場人物も預言者(神の言葉を伝える者)として認められている。しかし、ユダヤ教・キリスト教では神の意思が正確に伝わらなかったために、最終預言者としてムハンマドが選ばれたのだという。ユダヤ教・キリスト教・イスラムの神も実は同一であり、その意味では三者は異母兄弟の関係にあるといってもよい。ムハンマドの死後、後継者争いからシーア派とスンニ(スンナ)派に分裂し、両者からさらにいくつもの分派が発生した。現代のイスラム世界ではスンニ派が多数派である。( 岩井洋 関西国際大学教授 )
★【イスラムとはなにか】世界大百科事典 第2版
 イスラムはアラブの預言者ムハンマドが610年に創唱した一神教で,世界宗教として西アジア,アフリカ,インド亜大陸,東南アジアを中心に現在ほぼ6億の信者をもつ。正しくはアラビア語でイスラームといい,〈唯一の神アッラーに絶対的に服従すること〉を意味する。信者をムスリムというが,それは〈絶対的に服従する者〉の意である。イスラムそれ自体が宗教の名であるから,イスラム教と呼ぶ必要はない。・・・
 
▼イスラムについて記述のある項目
 東南アジア【とうなんアジア】 信仰【しんこう】 回教【かいきょう】 インド 中東【ちゅうとう】 アラブ文学【アラブぶんがく】
★イスラム【いすらむ】百科事典マイペディア
ムハンマド(マホメット)によって創唱された宗教。正しくは〈イスラーム〉だが,〈イスラム教〉と慣用され,〈マホメット教〉〈回回(フイフイ)教〉〈回教〉などと呼ばれたことがある。

●生活がいくつか変わるし変えて行かないといけない

2012年08月22日 18時49分35秒 | 色んな情報
●生活がいくつか変わるし変えて行かないといけない
皆さんに感謝しないとイケない。
 

今年一杯掛かるかな。
ジグソウパズルをセットで二千円の小さいのを買わせて貰った。
千ピースの半分の大きさのがあったので。
デカイ物は新聞紙を広げた分だけ有る。
久しぶりに見に行く余裕が有っぬたので見に行ったら立体のものまでいつの間に出来たのか。
地球儀や月球儀や天大球まで有った。
一度 挑戦してみたい。
税金で生きているものには贅沢と言われそう。
半ズボンを千円で白黒の細かいチェックのものを一足。
贅沢させて貰った。
 
食事も何かを買いに出かけたり其れも毎日に近い。
以前は一週間に一度くらい乾麺などを買いに出かけていた。
 
買い出しで出掛けていくだけで時間かけてゆっくりしておられる。
以前は直ぐに帰らないととか携帯電話が掛かるかとか。
此の一ヶ月 携帯の電源を切ってある。
姉弟は笑っている。
使うことがないから。
何かの時に欲しいからそばに置くだけ。
それでも不安になる様で心臓が一日何度か煽られる。
心臓に関しては何の心配もないとのこと。
肺臓に関しては調べ検査もさせてくれない。
50年間一日30本のタバコを吸っていてたし父は肺がんで死んでいるのに。
心臓に関しては其れ以外は知らんというのが心臓のチームはそうらしい。
福祉の人間は無断で楽しんだんは受けてはイケない。
勝手なことをすると保護の支給を止めるかもしれないと言ってきている。
 
 
詩吟でもしようかか 大正琴を初めようかと 調べて見ると 何方も直ぐに二万円入る。
教材無いと何にもできないし入会金や会費 総て税金で払わないとイケない。
何にもできないのが世の中。
この世はお金が先に立つ。

●經皮毒(けいひどく)●界面活性剤●皮膚バリャー

2012年08月22日 15時45分52秒 | 色んな情報
●經皮毒(けいひどく)●界面活性剤●皮膚バリャー
★垢(あか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
表皮のいちばん外側の層を形成する角質片の剥離(はくり)したものに、表皮の上を覆う脂質のエマルジョンおよび外界のほこりなどが混じったものである。絶えず皮膚面から剥離しているが、入浴、洗顔などによって清潔にしていれば肉眼では見えない。爪(つめ)の先にはたまりやすいので、爪を短く切り、手を清潔にしておく。耳垢(じこう)では、垢の一般成分のほかに、外耳道の脂腺(しせん)およびアポクリン腺の分泌物が重要な成分として含まれている。[ 執筆者:川村太郎 ]
★脂質(ししつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/EXc7
★エマルジョン(えまるじょん) [ 日本大百科全書(小学館) ] http://p.tl/-mEA
★界面活性剤(かいめんかっせいざい) [ 日本大百科全書(小学館) ] http://p.tl/2HsX
★脂腺(しせん) [ 日本大百科全書(小学館) ] http://p.tl/cWkn
★腺(せん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/RIwF
★皮脂腺(ひしせん)http://p.tl/iFPk
皮膚の内部にある小さい腺。主に皮脂を分泌し、皮膚や毛髪の表面の保護や保湿の働きをする。脂腺とも。
体毛1本に対してそれぞれ皮脂腺が存在するが、体の場所によって皮脂腺が発達しているところとそうでないところがある。頭皮は発達している例であり、髪を保護するために多量の皮脂を分泌する。しかし髪があまりにも長いと全体に皮脂が行き渡らないため、リンスやトリートメントを使用して補うことがある。
ストレスを受けると体内の活性酸素が急激に増加して皮脂腺が活発になるが、この時分泌された皮脂には通常より強い臭いを伴う。

★皮膚のバリア機能 http://p.tl/ULUY
★皮膚が備える巧妙なバリア機構を解明(Adobe PDF)http://p.tl/uwez
★皮膚のバリアー機能と「衛気(えき)」http://p.tl/edRB
★皮膚は体の最前線のバリア http://p.tl/XMss
★皮膚の機能と構造 http://p.tl/9SM2
★セラミドの役割 http://p.tl/5RAI
★栄養・薬効成分と肌 http://p.tl/eWw8
★カネボウ化粧品研究所 http://p.tl/SgVn

★界面活性剤 http://p.tl/Gx19
(英語:surface active agent、surfactant)は、分子内に水になじみやすい部分(親水基)と、油になじみやすい部分(親油基・疎水基)を持つ物質の総称。両親媒性分子と呼ばれることも多い。ミセルやベシクル、ラメラ構造を形成することで、極性物質と非極性物質を均一に混合させる働きをする。また、表面張力を弱める作用を持つ。
★界面活性剤とは - 石鹸百科 http://p.tl/OLch
★洗剤以外にも界面活性剤が使われている http://p.tl/HN2t
★シャンプーはいくら 洗剤はいくら 高いのがバリヤーになる? http://p.tl/e2DG

★合成界面活性剤と皮膚について http://p.tl/tKky

★恐怖の実態 合成界面活性剤 人体への悪影響! - YouTube http://p.tl/yx7q
★危険な化粧品  http://p.tl/rnaJ
★真実のneways  http://p.tl/RVId
★經皮毒(けいひどく)
★界面活性剤にNoを http://p.tl/dyMu
★界面活性剤とは? http://p.tl/e0Oj
★合成界面活性剤について http://p.tl/CCOy

★『良い化粧品 悪い化粧品』http://p.tl/P6_1 http://p.tl/lt8r http://p.tl/cpJK
★良い化粧品、悪い化粧品 エネルギー医学研究所 http://p.tl/MKTJ

●久しぶりにコメかって何年かぶりのコメビツの底にコクゾウムシを見つけた

2012年08月22日 14時01分19秒 | 色んな情報
●久しぶりにコメかって何年かぶりのコメビツの底にコクゾウムシを見つけた
★コクゾウムシ(穀象虫、学名 Sitophilus zeamais)http://p.tl/5V0H
 コウチュウ目(鞘翅目)・オサゾウムシ科のゾウムシの一種。
世界各地に生息するイネ科穀物の有名な害虫で、和名もそれを表したものである。
日本では縄文時代後期の土器圧痕からの検出例があるなど穀物栽培の開始と同時に見られるとして、稲作とともに渡来したとするのが定説であったが、これを覆すとされる発見がなされている。
主食である稲(米)を食い荒らす事から「米食い虫」の異名が付けられている。
体長は2.1–3.5mmとゾウムシ上科の中では小さい部類に入る。体は赤褐色や暗褐色で、やや細長い。背面には細かく密な点刻がある。発達した強固な後翅をもち、飛行能力も優れている。体も小さく、穀物の貯蔵庫などに容易に侵入する。
口吻で穀物に穴をあけて産卵し、孵化した幼虫は穀物を食い荒らす。気温が18°C以下であると活動が休止、23°C以上になると活発に活動する。1匹のメスが一生に産む卵は200個以上とされる。
★コクゾウムシ(こくぞうむし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
【穀象虫】[学名:Sitophilus zeamais]
昆虫綱甲虫目オサゾウムシ科に属する昆虫。世界各地に分布している貯蔵穀類の害虫であるが、とくに貯蔵米(まい)に多く、日本ではもっとも多い種である。体長2.3~3.5ミリメートル。体は細く、黒褐色ないし赤褐色、上ばねの肩部と後方に鈍い赤紋がある。口吻(こうふん)は長く前方へ突き出し、雌では光沢があってすこし下方に反るが、雄では隆起線と点刻があって光沢がない。前胸は密に点刻があり、上ばねには各数点の刻列と列間の隆起線がある。
雌は穀粒に穴をあけて産卵し、幼虫は白くて太った柔らかい虫で、穀粒の内部を食べて育つ。1世代は盛夏のころで約1か月であり、年4回ぐらい発生し、大部分は成虫で越冬する。暖地では野外でもみられ、枯れ木の皮下の分解した部分などにいることもある。以前はヨーロッパに多いココクゾウの学名を誤ってあてていたが、この種はインドから記載されたものであることが判明した。
ココクゾウS. oryzaeも米穀に多い種で、コクゾウムシによく似ているので区別がむずかしいが、体長2ミリメートル余りでやや小さく、褐色ないし赤褐色で上ばねの紋がなく、おもに幼虫で越冬し、コクゾウムシより湿気のあるほうを好むなどの違いがある。ヨーロッパでrice weevilとして害虫書などにあげられているのはこの種である。もう1種、米穀にみられる同属種として、褐色で光沢のあるグラナリアコクゾウS. granariusがあり、体長3~3.5ミリメートル、前胸背面の点刻は縦に長く、上ばねには深い縦の条溝がある。この種は後ろばねが退化していて飛べないが、壁面に止まるときの肢(あし)の粘着力は強く、貯蔵穀類中での生活にはより適応していると思われる。日本では1923年(大正12)にカナダから輸入された加州米で初めて発見されたが、一般には広がっておらず、定着してはいないようである。[ 執筆者:中根猛彦 ]
★寒晒し(かんざらし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
寒(かん)のうちに新たに汲(く)み取った井戸水(寒水)に、米などの穀類やジャガイモ、ショウガなどを浸(つ)けて置き、のち陰干しにすること。とくに、米を石臼(いしうす)で挽(ひ)いて粉にし、寒水に浸けて洗い、毎日水を取り替えて1週間ほど晒し、陰干しにして寒気に晒すことをいう。これが白玉粉(しらたまこ)の寒晒粉で、脂肪分が減って粒子が細かいのが特徴である。このほか、豆腐、餅(もち)などを寒晒しにして凍り豆腐、凍り餅をつくり、また寒中に搗(つ)いた寒餅は長く貯蔵ができ、寒中に搗いた米には穀象(こくぞう)(コクゾウムシ)がわかないといって寒搗きが行われたが、今日この習慣はほとんどとだえた。[ 執筆者:宇田敏彦 ]
★石臼(いしうす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
ものを破砕、粉化する石製の道具。中石器時代以来、全世界的に穀物、肉類、顔料をつぶすためのくぼみの深い石皿として使われる。日本の縄文時代の石臼は、厚みのある石を鉢状に深くくぼませたもので、堅果(けんか)類の粉砕に使われ、中部山岳地方の中期文化特有のものである。古墳時代の石臼は赤色顔料の精製に用いたものがある。上臼と下臼が対をなし上臼が回転して磨(す)りつぶす挽臼(ひきうす)は、古代オリエントのロータリーカーンや中国漢代の石磨(せきま)を起源として、日本には奈良時代に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて普及し、五穀を粉にする農民の必需品であった。下臼に受け皿のある小型石臼は茶臼とよばれ、室町時代以来、抹茶(まっちゃ)生産に使われた。[ 執筆者:十菱駿武 ]
★臼(うす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/odLS
穀類などの調理・調整用具の一種。米、麦など穀類の脱穀、精白、製粉をはじめ、餅搗(もちつ)き、みそ搗き、コンニャク作りなどにも使われ、その構造、機能により、搗臼(つきうす)と磨臼(すりうす)とに大別される。[ 執筆者:宮本瑞夫 ]
★挽臼(ひきうす) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
製粉や脱(だっぷ)(籾摺(もみす)り)に使う臼の総称で磨臼(すりうす)ともいう。木臼、土臼、石臼の3種がある。その構造は、上臼と下臼からなり、下臼の中心の軸棒に上臼を通し、上臼を回転させて使う。両臼が接触する磨り面に溝を刻むか歯を埋め込み、この摩擦によって製粉・籾摺りをする。木臼、土臼は籾摺り、石臼は製粉に使う。木臼はキズルスともよび、上臼に縄をつけて2人が相対して引き合って使うか、横木をつけて回す。土臼は唐臼(とううす)、磨臼土(するすど)ズルスとよび、桶(おけ)か竹簀(たけす)の中に粘土を詰め、カシの木を歯に埋め込んである。上臼に棒をつけて回転させる方式と遣(やり)木をつけ、これを前後に押し引きして回す方式があるが、後者のほうが新しい。石臼は磨り面の溝の付け方に6分画と8分画があり、溝の刻み方や石質によって用途が分かれている。手動の石臼が古く、のちに畜力や水力(水車)による大型のものができ、現在では電動の石臼が使われている。[ 執筆者:小川直之 ]
★製粉(せいふん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/_c3s
物理的手法によって原料を粉砕し、粉にする操作をいうが、一般には穀物とくに小麦粒を破砕、開皮して、その中に約85%含まれている胚乳(はいにゅう)部を取り出し、これを二次加工しやすい粉にする操作をさす。[ 執筆者:石橋貞人 ]
★籾摺り(もみすり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
籾の籾殻を除いて玄米にする作業。脱(だっぷ)ともいう。昔から用いられた方法は籾摺り臼(うす)を用いて摺ったので籾摺りというが、もっとも原始的な方法は臼に籾を入れて竪杵(たてぎね)で搗(つ)くもので、いまでも東南アジアやアフリカなどで行われている。この場合は籾から玄米、さらに白米にまで精製される。日本では現在は動力籾摺り機が用いられる。すなわち、二つの硬質ゴムを貼(は)ったロールを互いに逆方向に回転させ、その間を籾を通過させて籾殻を剥(は)ぎ取るのである。そのほか、籾に機械的衝撃を与えて脱殻する籾摺り機もあるが利用は少ない。普通は籾摺り装置に唐箕(とうみ)、万石通(まんごくどおし)、縦線米選(たてせんべいせん)機などを付属させた籾摺り機が用いられ、籾摺りから玄米の選別までが一貫して行われる。
籾量とそれから得られた玄米量との比を籾摺り歩合といい、普通、重量で80%、容量で約50%である。籾摺りには籾がよく乾いていることが必要であり、水分の多い籾は籾摺り機の馬力を多く必要とし能率が悪いばかりか、砕米や、玄米の表皮が摩擦によって一部はがれた肌擦(はだず)れ米が多くなり、玄米の品質を悪くする。[ 執筆者:星川清親 ]
★籾(もみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
イネの穎果(えいか)のこと。籾は二枚の籾殻すなわち外穎と内穎とが玄米を包んだもので、さらに基部には小さい二枚の護穎がついている。日本型イネでは護穎の下に副護穎がついているが、インド型イネの籾は副護穎はついていない。外穎の先端部には芒(のぎ)があり、長さは品種によって異なる。野生種や古い品種では芒は長く、10センチに達するものもあるが、現代の新品種では芒はほとんど退化している。イネの種子としては籾が用いられ、種籾(たねもみ)とよぶ。籾は玄米よりも貯蔵性が優れるので、長期間貯蔵する場合には籾で貯蔵される。なお日本では米の収量や生産量は玄米で表示されるが、日本以外の国々では籾で表示される。[ 執筆者:星川清親 ]
★穎果(えいか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
多くのイネ科の果実の形。穀果ともいう。果皮が成熟したのちに乾燥し、それが種皮と密着して離れず、穎とともに落ちる。穎は小花穂を包む2枚からなっていて、他の植物の包葉に相当する。[ 執筆者:吉田 治 ]
★穎(えい) [ 日本大百科全書(小学館) ]
イネ科植物の小穂にみられる鱗片(りんぺん)状の包葉。イネ科の小穂には、(1)最下節につき花をもたない、(2)次の節につき花をもたない、(3)それより上の節につき葉腋(ようえき)に小花をもつ、(4)小花の基部につく、の4種の包葉がある。それらに対する名は、末尾に示すように人によってまちまちである。穎の語を(1)~(4)の総称とする人と、(1)と(2)を合わせたものとする人とある。穎果が熟すと、(1)と(2)を母体に残し、(3)と(4)に包まれて落ちることが多い。
(1)=第1包穎==外包穎=第1護穎=外穎
(2)=第2包穎=内包穎=第2護穎=内穎
(3)=護穎=外花穎=外穎=外(がいふ)
(4)=内穎=内花穎=内穎=内
[ 執筆者:吉田 治 ]
★イネ科(いねか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
[学名:Gramineae]
[学名:Poaceace]
単子葉植物。おもに草であるが、タケ亜科のものはすべて木である。中国名は禾本(かほん)科。いままではユリ科に類縁があると考えられていたが、最近の分類系ではツユクサの仲間にもっとも関連が深いと信じられている。
花は通常両性、規則正しく左右2列に並んだ包葉(外から第1、第2包穎(ほうえい)、護穎、内穎)に囲まれ、小穂を形成する。花被(かひ)は通常2枚、微細な鱗被(りんぴ)に退化し、雄しべは3(1~多数)本、葯(やく)は2室で丁字(ていじ)状に花糸につく。雌しべは1室1胚珠(はいしゅ)、柱頭は通常羽毛状をなし、2(1~3)本。果実は乾果(穎果(えいか))で、薄い果皮と種皮は密着し、基部外側に胚(はい)をもち、胚乳はデンプン質である。葉は2列に並び、上部につくのは葉身で通常は細長く、基部は葉鞘(ようしょう)になって茎を抱く。葉身と葉鞘の継ぎ目に葉舌(ようぜつ)があり、葉耳(ようじ)をもつこともある。小穂は1ないし多数の小花をもち、包穎は中に花をもたない。小花は外側に護穎、その内側に2脈もつ内穎があり、花部を包む。小花間には小軸がある。
世界に広く分布し、約700属、8000種を数える。作物、芝生、雑草として普通にみられる。茎が木質のタケ亜科、熱帯に根拠地をもつイネ亜科、湿地に多いダンチク亜科、温帯にみられるウシノケグサ亜科、暑さや乾燥に強いカゼクサ亜科、2小花をもち暖地に生育するキビ亜科などに分けられる。日本では、北海道から九州にかけてはウシノケグサ亜科の仲間が主であるが、温暖な沖縄ではキビ亜科の仲間が主になる。[ 執筆者:許 建 昌 ]
★玄米(げんまい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
籾(もみ)米から籾殻のみを除いた精白していない米をいう。玄米から胚芽(はいが)と糠(ぬか)層を除いて胚乳を集めたものである白米に対し、色・光沢から「黒米(くろごめ)」とよばれた。この黒に相当する字が玄である。日本では大型工場(サイロで籾米貯蔵後、白米に精白)以外は生産地で玄米として袋詰めし、米の貯蔵、輸送は玄米で行われるのが主流である。玄米は白米より虫害や微生物の害も受けにくく、貯蔵性がよい。しかし胚芽中の脂肪がリパーゼで分解されて酸敗することにより、風味が落ちる場合がある。玄米はタンパク質(100グラム中6.8グラム)、脂質(同2.7グラム)、無機質(同650ミリグラム)、ビタミンB1(同0.41ミリグラム)、食物繊維(同3.0グラム)の含量が白米より多く栄養的に良好である。しかし白米と同じような方法で炊飯すると、吸水、デンプンの糊化(こか)が十分行われず、消化、吸収は白米より悪い。それでも玄米食は無機質、ビタミンおよび食物繊維の供給源として関心を集めている。
玄米の炊飯は、常圧では、二度炊きしてもなかなかおいしいご飯になりにくく、圧力釜(がま)などの特殊な器具を必要とする。すなわち、十分吸水させたのち加水重量比1.6~2.0、110~120℃で炊飯すればおいしい玄米飯ができる。また玄米にパフ(膨化)加工を施して常圧で炊飯できるようにした加工玄米が市販されている。この場合炊飯には白米よりいくぶん多めの水加減が必要である。さらに玄米粥(がゆ)や発芽玄米も加工食品として市販されている。[ 執筆者:不破英次 ]
★糠(ぬか) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/BlDQ
玄米を精米するときに生じる副産物。米糠、小(こ)糠ともいう。白米は玄米の外側から、表皮、種皮、糊粉(こふん)層などの部分と胚芽(はいが)を取り除いたものである。この取り除いた部分を糠とよんでいる。精米の程度によって糠の収量が異なり、白米がもっとも多く、以下、胚芽米、七分搗(づ)き米、半搗き米、三分搗き米の順になっている。酒造用の米は精米度が高く、胚乳部も混ざった白い糠がとれる。これを白(しろ)糠とよび、菓子や焼酎(しょうちゅう)の原料に用いる。[ 執筆者:河野友美・山口米子 ]
★精米(せいまい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
玄米の外層の糠(ぬか)層および胚(はい)(胚芽)を除去して白米にすること。精白あるいは搗精(とうせい)ともいう。また玄米を精米した精白米のことも精米という。玄米の糠層には消化しにくい繊維が含まれ、また外層は暗灰色や褐色など着色があり、料理した場合も汚く、それに糠層や胚がついていると味もよくない。糠層や胚を除くとこれらの欠点が改善され、商品としての価値も高くなる。しかし糠層や胚にはビタミンB1やタンパク質、脂肪などが内部組織より多く含まれ、また繊維質は便秘を防ぐなど健康に効果があるので、これらを除いた精白米の常食は栄養・保健的に問題があるといわれる。そこで完全には精白しない七分搗(しちぶづ)き米(まい)や五分搗き米、あるいは胚を残して搗いた胚芽米などが健康食品とされる。副食品が豊かになり、それらから栄養を十分にとれるようになった現在では、味と美観の優れる完全精白米が一般に食べられている。
精米は昔は臼(うす)に入れた玄米を杵(きね)で搗いて行ったので搗精というが、いまでは精米機により、粒の摩擦、切削、衝突による剥離(はくり)などの方法で精米が行われる。搗精した精米の重量が玄米重量の何%にあたるかをもって精白の程度を表し、これを精白歩合という。精白歩合は完全精米の場合、普通92~94%である。清酒原料とする酒造精米では、糠層よりさらに内側の胚乳デンプン貯蔵組織をかなり除去するので、精白歩合は70%未満である。[ 執筆者:星川清親 ]

●GHQにより日本の破壊されたシステム■お隣さんの、お隣さん。■

2012年08月22日 11時06分40秒 | 色んな情報
●GHQにより日本の破壊されたシステム■お隣さんの、お隣さん。■
★お隣さんとお隣さんは、いつもお隣さん同士。http://p.tl/IrNg
★ご近所・お隣さん人気ランキング http://p.tl/M-QG
★紗枝(さえ)と、紗枝のアパートのお隣さんとの関係は、『おすそわけ』から始まった。http://p.tl/krRq
★引っ越したらお隣さんが塗装職人だった http://p.tl/boK5
★お隣さんは更年期 http://p.tl/mEno
★サザエさん市場 お隣の歴史 http://p.tl/WNvP
★お隣さんとの関係にも法律が関わってくる! http://p.tl/1wxx
★お隣さん読み 途中で「指の軌道」を失いかけたら? http://p.tl/KxOE
★隣る人 http://p.tl/6_pf http://p.tl/bDTK
★刀川和也 (たちかわ かずや) http://p.tl/VRf9
★068:刀川和也さん(『隣る人』監督)http://p.tl/J5Ee
★『隣る人』刀川和也監督インタビュー text 山森亜沙美 http://p.tl/wsjJ
★「隣る人」刀川和也監督作品 鑑賞 http://p.tl/fEQn
★映画『隣る人』予告編 http://p.tl/6N5x


★隣組(となりぐみ)http://p.tl/l2tw
日本の昭和期において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。
国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛清運動と並び、前年に決定し1940年(昭和15年)に内務省が布告した「會町内會等調整整備要綱」(隣組強化法)によって制度化される。
5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。
また、思想統制や住民同士の双方監視の役目も担っていた。
第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦後の1947年(昭和22年)、GHQにより解体された。
現在でも、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区(政令指定都市の区ではない)・自治会に引き継がれている。地方によっては、単身者や核家族が居住するワンルーム・マンションの増加など、近隣地域と住人の関係が疎遠になる例もあり、地元神社の氏子への加入や、祭礼の寄付などをめぐり問題を生じている地域もある。隣組や町内会のような活動が廃れた一因に、その活動単位が政府の言うところの所謂標準世帯での活動を主眼においたものであり、現役世代の単身者や多忙な共稼ぎ世帯などには負担が大きすぎることがあげられる。

★隣組(となりぐみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
町内会の下位組織。組、班または隣保班とも称される。第二次世界大戦中は、隣組と町内会はほぼ同様に使用されており、したがって隣組とは町内会自体のことをさす向きも生まれた。制度的には、隣組は、1940年(昭和15)の「部落会町内会等整備要綱」によって結成することが義務づけられていた。隣組は、上意下達的な情報の伝達、食糧その他生活必需品の配給、防空防火、資源回収、国民貯蓄、体位向上・厚生、そのほか戦時体制下に伴うさまざまの国民統制の末端を担っていた。
とくに隣組には「常会」の制度が設けられ、10戸前後の小集団単位ごとに話し合いなどによる相互の融和と援助が強調されていた。「和の精神」「和合原理」のイデオロギー強化の側面ともいえる。常会の小集団単位のまとまりを介して、町内会活動の実質化が図られていた。この点、同じ都市地域でも、もともと町内としてのまとまりをもつ下町では、常会―隣組―町内会のシステムは、町内に比較的スムーズに浸透する形で機能した。反対に町内としてのまとまりを欠く山手、郊外では、地域実態とは違和感をもって受け止められた。逆説的ではあるが、常会などの小集団単位のまとまり、和の精神は、むしろ山手、郊外地域にイデオロギー的にも強調される意味があったともいえる。しかし、「部落会町内会等整備要綱」は1947年(昭和22)5月ポツダム政令で廃止された。
町内会―隣組のシステムは、第二次世界大戦後においても、時代思想的側面は大きく変わったが、システム自体としては依然として機能し続けている。調査研究面でも、地域組織の有力な型としてデータ的蓄積が図られているが、最近では町内会―隣組の地域組織としての国際比較研究もみられるようになっている。とくに戦時中に日本の隣組制度の範型が移植された旧占領国(フィリピンなど)の類似組織との比較検討がテーマをなしている。[ 執筆者:奥田道大 ]

★町内会(ちょうないかい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
一定の町内(町、丁目)を基礎に成立している日本の地域集団の典型。その基本的性格としては、(1)組織の担い手が「個人」ではなく「世帯」(世帯主)であること、(2)町内の大多数の世帯(たてまえとしては全世帯)を網羅していること、(3)町内の住民相互の親睦(しんぼく)、葬祭、相互援助などのプライベートな面と、行政サービスの補完・補助ないし調整などのパブリックな面との複合的機能を果たしていることなどがあげられる。町内会は、準戦時・戦時体制下の公権力との相互浸透的性格のゆえに、その官治的・上意下達的性格が、批判の対象とされた。公権力の意志を地区住民に伝達する媒介的役割だけでなく、町内会自体が、「公権力」そのもの、「政府」そのものとの見方もある。しかし、町内会が実質上公権力と分かちがたい性格を具有していたとしても、公権力は町内会をあくまで「自主」的、「自治」的、その意味では「私的」団体として位置づけてきたことは、第二次世界大戦前・戦後を通じて一貫している。
第二次世界大戦後の町内会論の流れをみると、ポツダム政令による禁止措置が解かれた前後は、その戦前的系譜に絡んだ存在自体の消極論、否定論が強かった。しかし1960年代の高度成長期以降、地域生活環境問題の解決とか都市住民の生活拠点づくりが、コミュニティ形成とか地域づくりなどとの関連でテーマ化されるなかで、町内会の時代的負荷とは別に、実質上果たしてきた機能面の実績から、町内会の見直し論議が台頭してきた。町内会の積極論、肯定論といってもよい。とくに時代の節目、節目を通して町内会の存在自体に弱体化・解体化の傾向のみられないことから、町内会を日本固有の集団形式になじんだ基礎的地域組織、あるいは進んで、日本の地方自治の「原点」として位置づける見方すら台頭している。
しかし、町内会の町内会たるゆえんは、個別としての町内会にみる戦前的系譜との非連続面、あるいは活動の実際面というよりは、制度的枠組みとしての町内会体制にある。町内会の包括的・まる抱え的性格に由来する、町内としてのまとまり、和合原理が、普遍的に強調される理由もここにある。町内会の伝統のある旧市街=都心地域では、東京、大阪にみるように、町内の居住世帯の大幅な減少が町内会の解体化に結び付いていない。それは、同じ町内の企業などの法人組織を居住世帯に読み替えて構成主体としていることにある。したがって、内実面では非居住の「法人」町内会化しているが、形式・制度面では、町内の「全世帯」という大義名分を維持していることになる。行政にしても、町内会体制が維持されている限り、この法人町内会を居住者組織の代表として扱い、他のさまざまの個別居住者組織とは一線を画することになる。町内会の存在の肯定‐否定論、あるいは基本的性格の連続‐非連続論も、この特異な町内会体制の問題を抜きにしては語れない。そして21世紀に入って、居住者のコミュニティ・ソリューションに貢献するNPO(Non Profit Orgaization、民間非営利組織)等の組織が居住者と地方行政組織との仲立ちの役割を果たしてくるとき、「法人格」の取得一つをめぐってもNPOと町内会との関連性が再度テーマ化されてくることになる。[ 執筆者:奥田道大 ]

★近隣集団(きんりんしゅうだん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .neighborhood group
近隣的結合に基づく集団形態をさす。地区集団、地域集団などと同義に用いられる場合もある。日本の近隣集団の典型としては、町内会などがあげられる。独自の歴史的経過と制度的枠組みをもつ町内会などに対して、都市化・近代化の進展をみた都市的地域においては、居住者の自発的意志に基づくさまざまのサークル、クラブ型の近隣集団の誕生が促されている。同一近隣内における居住を契機とする親睦(しんぼく)、相互援助、学習、問題解決(紛争処理その他)などの領域の広がりがみられる。近隣生活の楽しみあるいは苦しみをともに担い合う(共苦―共楽)居住者の諸活動といえるが、既成の町内会―隣組などに比べて自発的で、柔らかい集団形態である。最近では、同一近隣という「場所」placesより、むしろ場所を磁場とする人的結合の網の目という「ネットワークス」networksを重視する傾向にある。
アメリカでは、「都市化と近隣集団」のテーマのもとに、都市住民の各種近隣集団への参加の量と程度を問う実態調査が多い。とくに大都市新郊外地域では、住民が近隣集団参加を回路として緩やかな絆(きずな)=人的結合の網の目に触れ合うと同時に、地域への帰属感の強調が図られている。系譜的には、コミュニティ計画の流れをくむ近隣住区計画とこの近隣集団とは、概念的にもセットをなしている。「自然の緑・太陽・空間」「生活環境施設の充実」「人間的交流と参加機会の提供」などの理念を近隣単位に具体化を図るペリーClarence Arthur Perry(1872―1944)らの近隣住区理論(ネイバーフッド・セオリーneighborhood theory)は有名である。[ 執筆者:奥田道大 ]

★回覧板(かいらんばん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
地域社会のお知らせ文書などを、板や厚紙につけて各家庭を回すもの。1939年(昭和14)夏、前年から隣組整備推進中の東京市が、隣組回覧板10万枚を配布したという記録があり、翌40年9月、臣道実践・上意下達を目的とした町内会整備の内務省訓令で、岡本一平作の国民歌謡『隣組』「回して頂戴(ちょうだい)回覧板 知らせられたり知らせたり」のメロディにのり全国に普及した。回覧内容は配給、防空訓練、国債、貯蓄、納税などであった。近隣交際を好まない都会では反発もあり、47年(昭和22)の隣組廃止とともに一般からは姿を消したが、町内会や団地その他でいまも用いられている。公職選挙法第142条には、選挙運動のための回覧板使用は文書頒布とみなすという禁止規定がある。[ 執筆者:森脇逸男 ]

★組(くみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本の村落のなかで、もっとも狭い地区につくられた地縁的な機能(関心)集団のことをいう。村落内で相互扶助的な共同生活を営んでいる近隣集団のつくる組織だといってよい。同種のものに講とよばれるものがあるが、それは信仰的なものを成立の基盤とするものであり、性格上異なる点をもっている。
組は、普通数戸ないし十数戸によって構成されている。そこで、一つの地区(村落)は、いくつかの組に分かれている場合が多い。その呼び名は、地方によって異なるが、代表的なものには、「坪(つぼ)」「垣内(かいと)」「方切(ほうぎり)」「契約」「門(かど)」あるいは「五人組」などがある。また、組は、共同扶助と、祭礼、冠婚葬祭、普請、火災・水害防衛などの機能を果たすところから、「葬式組」「祭組」「普請組(屋根講)」あるいは「ゆい組」などともよばれる。日本の地域共同社会(コミュニティ)としての村落には、こうした組とよばれる多種類の機能集団(アソシエーション)が、あたかもその諸器官のように存在し、それぞれの役割を果たしているのである。
日本の家と村落の基本構造を形づくるものとして、「同族と組」という家連合の類型と、「同族結合と講組結合」という村落の類型を設ける諸説がある。前者は、本家を頂点として、系譜関係をもつ家々が、ピラミッド型に序列づけられてできるタイプのものと、家々が平等の資格で並列的に存在してできるタイプのものとの、二つのタイプを設けた説である。そして後者は、こうした二つのタイプを村落の型として考えた説である。これらの諸説は、日本の家と村落についての諸特徴をよくとらえているから、その点は生かしながらも、よりいっそう現実社会や歴史的過程に即したものとして、理論的発展を図るとよいだろう。
ところで、日本の歴史のなかで、為政者が、近隣集団としての組の結合に着目して、それを国家の行政機構の末端の単位として組み入れ、利用したことがあった。すなわち、江戸時代には、五人組の制度を敷くことによって、それを行政上に位置づけ、連帯責任による相互検察、共同担保、互助共済の機能を果たさせたのであった。また、昭和に入って、戦時下、隣組制度が敷かれたのは、同じく組を、行政上の単位として掌握し、末端の機能を果たさせたものであった。しかし、本来の組は、こうした行政制度のなかに組み入れられたものとは性格的に異なるものであって、逆に現実の地縁結合のなかから発生した集団であるという点は、注意しておかなければならない。[ 執筆者:二宮哲雄 ]