縄文人の反乱 日本を大事に

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●ゆとん●油団●通販私はしてません 何故私の処にアクセス一日200超えてます

2012年08月26日 23時43分18秒 | 色んな情報
●ゆとん●油団●通販私はしてません 何故私の処にアクセス一日200超えてます
★油団 - handmadejapan.com [日本の手しごと]http://p.tl/EaZd http://p.tl/asYG
★『油団(ゆとん)』について…http://p.tl/5Tay
★福井県の逸品|伝統工芸品-油団 http://p.tl/xitI
★油団 の画像検索結果 http://p.tl/BZxy
★武田邦彦 (中部大学): 環境よもやま話 その三十 油団 http://p.tl/gb4Z
★『油団(ゆとん)』http://p.tl/mWCa
★ゆとん油団づくり http://p.tl/Orn1
★油団(ゆとん)についてその歴史など  http://p.tl/Oy1o
★「油団」敷いて夏の涼 - 特集記事:福井新聞 http://p.tl/216f
★ゆ‐とん 【油団】
和紙を厚くはり合わせ、油または漆をひいたもの。夏の敷物。《季 夏》
★ゆとん【油団】
紙を厚くはり合わて,油または漆をひいたもの。夏の敷物に用いる。 [季] 夏
「勅使河原が贈りたる-を去年まで用ひ来りしが /日録学海」
★油団(ゆとん) - 志葉楽の日記 http://p.tl/O2XH
★武田邦彦教授 ガリレオ放談 第30回 油団の不思議 http://p.tl/urYP http://p.tl/vmym
★武田邦彦ガリレオ放談 | 第30回 油団の不思議 伝統材料と日本文化 1 http://p.tl/y0b7 http://p.tl/CTHR
★油団 - 武田邦彦 (中部大学)http://p.tl/aKdg
★ミチャレンジャーのイチ押し商品! 伝統工芸品「油団」http://p.tl/T76q
★『●油団(ゆとん)●   夏の風物詩』http://p.tl/XOoU
★油団のこと: かわかみひめblog http://p.tl/0l4R
★人生が変わる1分間の深イイ話で油団(ゆとん)http://p.tl/Aym3
★紅屋 紅陽堂の油団 - FM FUKUI http://p.tl/lzry
★武田邦彦 (中部大学): 自然と伝統勉強会 油団(ゆとん)http://p.tl/uqWp
★油団(ゆとん)が敷かれた座敷で…~泰平 じゅんじゅんさん  http://p.tl/odxy
★花柄小型(春慶塗)行灯(写真に映っている・・・敷物は油団(ゆとん )http://p.tl/tPBM
★sample-148油団(ゆとん)と障子の家 http://p.tl/w59C
★武田邦彦 (中部大学): 自然と伝統勉強会 その6(ゆとん)http://p.tl/NTTd
★「油団(Adobe PDF)http://p.tl/mWCa
★「ゆとん油団づくり」http://p.tl/Orn1
★ゆとん 0 1 【油団】
紙を厚くはり合わせて、油または漆をひいたもの。夏の敷物に用いる。[季]夏。
読み方:ユトン(yuton)
和紙を厚くはり合わせて、油か漆をひいた敷き物
★「油団」の用例一覧
久生十蘭 平賀源内捕物帳 長崎ものがたり (青空文庫)
 朱房銀(しゅぶさぎんづか)の匕首(あいくち)
さ ) している。 指された 辺 ( あたり ) を源内先生が眼で辿って行くと、床に敷いた 油団 ( ゆとん ) の端が少しめくれ、その下から紙片のような白いものが 覗出 ( のぞきだ ) している。源内...
★油団(ゆとん)って知ってますか? http://p.tl/N3lm
★人生が変わる1分間の深イイ話で油団(ゆとん)が紹介されたらしい http://p.tl/raw2
★1分間の深イイ話 2012年8月20日放送で紹介された油団。 http://p.tl/AsMZ
★油団 和紙の高級敷物 1分間の深イイ話 http://p.tl/AsMZ
★柱影映りもぞなする油団かな 高浜虚子 http://p.tl/noFF
★『油団(ゆとん)』とは、和紙で作られた夏専用の敷物。http://p.tl/0UAK
★油団とは 油団 Wiki 深イイ話 [テレビ・映画] http://p.tl/3mgg
★油団 Wiki http://p.tl/wTtr http://p.tl/J_dH http://p.tl/0UNi
★鯖江市川去町「伝統の涼感アイテム 油団」.http://p.tl/q6J1
★ふくいの伝統工芸---油団 http://p.tl/Uwqv
★油団(ゆとん)製造、福井県鯖江市『紅屋 紅陽堂』3代目 牧野友美(62歳)http://p.tl/XQVx
★油団(ゆとん):http://p.tl/2Vq0 http://p.tl/8KPL 

●今はTV等で洗脳されてしまった我々

2012年08月26日 21時31分40秒 | 色んな情報
●今はTV等で洗脳されてしまった我々
御用学者は一時はすごく大事で有った。でもそろそろ我々が化学室へ出かけて行って引っ掻き回す時代に来たのではなかろうか。
工場専門家だからなんでもうまく出来るとおまかせというものは結局ナニも進歩がなくて交代ばかりしているのではないかな。
トラウマという言葉が一時流行った時期があった。
なんでも学者の言うことや専門家たちの言うことが良いとして検証しなかったことが今のシステムを動きできなくシテしまったのでないかな。
テレビなどをわかった人は一分で今文句を行っている。
でも見ている人がマダマダ気が付かないからシステムは変わらない。
こう言われた。
自分がが使用している化粧品ペットが実験に使われているから私は使えている。
其れ知らずに使っている人はゴマンといる。
今日 鶏の唐揚げ食べた。
美味しかった。
タベテハイレナイト言わない。
化粧品使っては行けないとは言わない。
せめて何度かに一度は自分の身の回りを見回して隠れている部分を覗いてみて欲しい。
貴方の家の裏に何が隠れているか。
私の言っていることはこれを見ている人は総てが気違いだという。
エアコンなんて使いたいと思わないよ。
横で扇風機回していいる。
65年間ズットそうだったよ。
それでも生きてこれたしこれからも生きる。
寿命が来ればおさらばだけど。
なんでも良いから一つでも考えて欲しい。
アイパットのスイッチ押すときでもいいよ。

●一つ一つのまとまりがソロソロとドウかな   難しい事は一度に キット簡単

2012年08月26日 20時57分34秒 | 色んな情報
●一つ一つのまとまりがソロソロとドウかな   難しい事は一度に キット簡単
★ダイダラボッチ http://p.tl/Z86d
日本の各地で伝承される巨人である。数多くの類似の名称が存在する。このため本稿では便宜的に名称をダイダラボッチとする。山や湖沼を作ったという内容が多いことから、元々は国づくりの神であった可能性が指摘されている。
柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)4月中央公論社)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。
「でいだらぼっち」、「だいらんぼう、「だいだらぼう」、「でいらんぼう」、「だいらぼう」、「デエダラボッチ」、「デイラボッチ」、「デイラボッチャ」、「デーラボッチャ」、「デエラボッチ」、「デーラボッチ」等様々な呼び名がある。
★一寸法師(いっすんぼうし)http://p.tl/M486
日本の伽話の一つ。現在伝わっている話は御伽草子に掲載されたものが元となっている。

★巨人伝説・ダイダラボッチが 大太法師というのはウソだ http://p.tl/QPSc
★はてなキーワード > ダイダラボッチ
日本の各地(特に関東や中部地方)に伝承される伝説の巨人。踏鞴(たたら)製鉄の鍛冶神の説がある。
★『北越奇談』(ほくえつきだん)http://p.tl/-XuD
1812年(文化9年)に刊行された随筆集。全6巻。著者は越後国(現・新潟県)の文人・橘崑崙(たちばな こんろん)。
校合・監修・序文は戯作者の柳亭種彦による。挿絵は大部分を浮世絵師の葛飾北斎が描き、崑崙自身も絵師としていくつかの下絵を描いている。ダイダンボウと言う名称で巨人の足あとの絵を記している。橘崑崙よりも葛飾北斎の方が有名でわからない人物なので余り研究はされていないようだ。

★詩人の予言・宇宙生命への挑戦 http://p.tl/T8tT 英語 http://p.tl/WDCh
★第四の時代:アトランティス時代 http://p.tl/wrAn
★ようこそ、ノーシス・サイトへ! http://p.tl/G9Qh
★人類の歴史と未来[ノスティック人類学]http://p.tl/zc0E

★オージン[北欧神話]http://p.tl/50ua
★ユミル[北欧神話]http://p.tl/6A2g
★ノルン[北欧神話]http://p.tl/a0lE
★ゴグマゴグ gogmagog >>関連項目一覧 http://p.tl/hQ2b


★『●忌部一族』http://p.tl/RTap
★『●忌部氏(いんべうじ)』http://p.tl/q7Hv
★『●聖白色同胞団●アトランティス大陸●神智学●シャンバラ●M・ドーリル』http://p.tl/TyTn
★『●ニコライ・レーリッヒの思想と生涯●レーリッヒ条約●ニコライ・コンスタンチノヴィチ・リョーリフ』http://p.tl/mTRA
★『ニコラス・レーリッヒの絵画 (ニコラス・レーリッヒ 1874-1947) レーリッヒ平和条約 』http://p.tl/R9m3
★『●ウランティア●アカシックレコード●リーディング●エドガー・ケイシー●ヲシテ●』http://p.tl/lo-5
★『●シャンパラ   ●理想郷』http://p.tl/ovQD
★『●巨人●『ガリヴァー旅行記』●トンデモンない●オーパーツ』http://p.tl/6QxS
★『●ブッダと菩提樹』http://p.tl/96EY

●イヌ ネコ ブタ ウシ クジラ イルカ   皆生きている

2012年08月26日 14時12分46秒 | 色んな情報
●イヌ ネコ ブタ ウシ クジラ イルカ   皆生きている
★【】とさつ   家畜類を殺すこと。
★(とさつ)ないし屠畜(とちく)http://p.tl/gaEZ
家畜等の動物を殺すことである。「屠」は「ほふる」の意であるが、近年の日本では、「屠」の文字が常用漢字ではないことから、と殺やと畜と表記されることも多い。一般的には食肉や皮革等を得るためだが、口蹄疫などの伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にもこの語が使用される。
なお、この「」という言葉は、差別用語と見なされる場合がある。しかし「屠畜」以外に日本語に特に該当する言い換え語が無く、食肉加工業の中に曖昧化されて含まれる傾向が見られる。
類義語には〆る(しめる:一般的に鶏や魚に用いる表現)やおとす、または潰す(つぶす:一般的に牛や豚に用いる表現)がある。
★食卓のお肉ができるまで http://p.tl/Yqzp
★家畜動物たちの過酷な一生について http://p.tl/9ygC
★屠畜の現場 ―どうぞこの現実から目をそむけないで―http://p.tl/Ukvb
★「BSE問題 「ピッシング」て知ってますか?」 農業問題 http://p.tl/9YQj
★ピッシングに関する実態調査結果について http://p.tl/ZfV1
★ジャービス製品カタログ(『銃(エアスタナー)』など、食肉処理器具の写真があります)http://p.tl/5GYy
★イギリスが主張する「場はパラダイス」の実態 http://p.tl/0kWM
★屠畜場(とちくじょう、漢字制限で「と畜場」と表記されることが多い)http://p.tl/uzEC
牛や豚、馬などの家畜を殺して(して)解体し、食肉に加工する施設の法律上の定義の名称である。日本のと畜場法においては、生後1年以上の牛若しくは馬又は1日に10頭を超える獣畜をと殺し、又は解体する規模を有すると畜場を一般と畜場、それ以外のと畜場を簡易と畜場として区別している。


★腹鰭のあるイルカ、くじらの博物館へ http://p.tl/BlFR
★イルカ漁・太地町漁協のウソ http://p.tl/Gi-A
★太地町(たいじちょう)は和歌山県東牟婁郡の町である。http://p.tl/8uk9
昔から捕鯨で全国的に知られた町であり、日本の古式捕鯨発祥の地といわれ、自治体の公式サイトでもトップページで記載している[1]。この町は周辺の町村が合併を繰り返す中、1889年(明治22年)に太地村と森浦村が合併した当時のまま残っているため面積が和歌山県で一番小さく、その全域が海と那智勝浦町に囲まれている。そのため、「南紀の小さな漁村」といった雰囲気がある。


★捕鯨(ほげい)http://p.tl/niLm
クジラを捕獲することである。いわゆるイルカを対象とするものも含む。主に鯨肉や鯨油採取目的で行われていた。現在は国際捕鯨委員会 (IWC) 「加盟国」において管理対象の13種類の大型鯨類については日本・ノルウェー・アイスランドと「原住民生存捕鯨枠」によるアメリカ・ロシア・デンマーク(グリーンランド)の北極圏先住民族が継続している。国際捕鯨委員会「非加盟国」においては、管理対象種の捕鯨はフィリピン・インドネシアが継続しており、カナダは先住民の申請があった時に行っている。その他、国際捕鯨委員会の「管理対象外」の71種類のいわゆるイルカなどの比較的小型の鯨類については、各国の自主的な水産資源管理の範囲としていて、その詳細(捕鯨を行っている国や捕獲数量など)は把握されていない。
★捕鯨問題(ほげいもんだい)http://p.tl/852E
クジラおよびイルカの捕獲の是非に関する国際的な論争、摩擦問題である。
★日本捕鯨協会ホームページ http://www.whaling.jp/
★捕鯨問題 まとめwiki  http://p.tl/Eu9V
★グリーンピース(Greenpeace)は、国際的な環境保護団体(NGO)。http://p.tl/ik96


★中国犬肉店の残虐な食用犬…殺して、湯掻いて、ミキサーへ (写真) http://p.tl/zt3Q
★韓国で放送されたニュース http://p.tl/L7PT
★客が選んだ猫をその場で絞め、肉を食わせる店 http://p.tl/ynmB
★食用犬種(しょくようけんしゅ、英:Edible dog breeds)http://p.tl/lSD2
食用に用いるために作出・改良が行われた犬種のグループのことである。
★ドッグフードの中の租タンパク質とは、死んだペットの肉も含まれるということを・・・。http://p.tl/dWl6
★猫食文化(びょうしょくぶんか)http://p.tl/AUxl
イエネコを食肉に加工し食べることで、世界各地に形を変えてみられる
★殺処分を減らすために、小さな命を守るために、私たちに出来ることがあります・・・http://p.tl/d098
★ガス室送り~ペット場の現実 ~ドリームボックス 犯行の引き金・小泉容疑者のみたTV http://p.tl/bo4J
★犬、猫、里親さがし掲示板 いつでも里親募集中 http://p.tl/Vpyg



★『●合成洗剤から動物実験 犬の殺処分、残酷なペットショップ、非人道的なブリーダー』 http://amba.to/Rc9fFw
★●ネズミ ●ねずみ ●鼠 ●マウス ●ラット http://p.tl/iykJ
★●生物   ●頂点は人である http://p.tl/ZOTE
 
 
 
人ってどんなに身勝手なんだろうな。
鶏の唐揚げ美味しいんだろうね。
エアコンは涼しくて良いね。
おとなりに行くのに車で行くのも大変だね。

●忌部氏(いんべうじ)

2012年08月26日 12時51分18秒 | 色んな情報
●忌部氏(いんべうじ)
★忌部(いんべ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
大和(やまと)王権下の部民の一つ。忌部氏の私有民としての部曲(かきべ)と、その管理下にある祭祀(さいし)関係の品部(しなべ)の2類型が考えられる。品部としての忌部は、忌部氏が大嘗祭(だいじょうさい)、大殿祭(おおとのほがい)、御門祭(みかどまつり)などの中央祭祀を担当するところから、中央の求めに応じて、山材貢納、造殿作業、祭具製作などを任務とした。忌部の分布は、残存史料によって安房(あわ)、紀伊(きい)、讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、出雲(いずも)と広がっていることが確認される。そのうち、紀伊の忌部は伊勢(いせ)神宮との関連も想定されている。[ 執筆者:関 和彦 ]
★部曲(かきべ)(大和王権) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
大和(やまと)王権の豪族私有民。「かきのたみ」「うじやつこ」ともいう。「かき」は限られた区画の意味で、発展的に豪族の領有下にある民を他と区別して「かきのたみ」とよび、部民制施行により「かきべ」と称したのであろう。部曲の字は中国南北朝では私家の下僕を意味し、唐では(せんみん)、新羅(しらぎ)ではの居住区域をさすが、これがわが国では豪族私有民の意に用いられたのである。部曲は豪族の氏(うじ)の名を負うが、物部(もののべ)や中臣(なかとみ)部は伴造(とものみやつこ)である物部氏や中臣氏の職務遂行のために設けられた部で、したがって品部(しなべ)的要素が強い。蘇我(そが)部などの非伴造系諸氏の部曲も、これらの諸氏が朝廷の各職務分野に進出する過程で領有を認められた部と推定されるから、部曲は純粋な私有民ではなく、最終的には朝廷に帰属する部としての性格を有する。部曲は646年(大化2)の改新の詔(みことのり)で廃止され公民とされたが、その後天武(てんむ)朝(673~686)まで豪族の私民的支配は継続したようである。[ 執筆者:加藤謙吉 ]
★部曲(ぶきょく)(中国古代) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国古代の私家に属する「(せんみん)」の一種。女性の部曲は客女(きやくじよ)という。南北朝末期に一つの身分として成立し、唐代まで存在した。最下層の(ぬひ)と同じく独立した戸籍をもつことができず、均田法による土地の班給も受けられず、世襲的に主家に隷属した。ただしと違って、公式には売買されず、家族をもち、姓を有するなど、法的な扱いではの上位に置かれる、いわば上級であった。由来については諸説がある。まず、部曲の語が、元来、軍隊編成にかかわるものであったことからみて、南北朝期に私兵として活躍したが上昇したものとする説。また衣食に窮して他家に養われるに至った者が下降したとする説。に没落した者が不完全な形で解放されたことから生まれたとする説などである。唐代の法律には詳細な部曲に関する規定がある一方、具体的な姿を記す史料に乏しく、新出土のトゥルファン文書の研究など、課題は多く今後に残されている。[ 執筆者:尾形 勇 ]
★忌部神社(いんべじんじゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
徳島市二軒屋町に鎮座。阿波(あわ)(徳島県)の忌部氏の遠祖、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀(まつ)る。祭神は、太古、穀木綿(かじゆう)を植え、製紙、紡績の業を興し、大功を現した神という。後世、その神徳をたたえて麻植神(おえのかみ)と称し、子孫は忌(斎)部を名のって国家の祭祀(さいし)に関与した。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社に列し、1871年(明治4)国幣中社となった。その後、遷祀され、85年に現社地に移った。例祭は10月19日。[ 執筆者:落合偉洲 ]
★忌部氏(いんべうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
斎部氏(いんべし)とも記す。中臣(なかとみ)氏とともに朝廷の祭祀(さいし)を担当した氏族名。天太玉命(あめのふとたまのみこと)を祖とし、本貫は大和国高市(たけち)郡(現、奈良県橿原市忌部町付近)で、品部(しなべ)としての忌部を管掌した。阿波・紀伊国ほかにも分布する。カバネ(姓)は古くは首(おびと)で、680年(天武天皇9)連(むらじ)を、684年宿禰(すくね)を授けられ、803年(延暦22)斎部氏と改めた。御殿の造営や祭祀具の調整、また班幣(はんぺい)・神璽(しんじ)(鏡・剣)奉上などの実務、大殿祭(おおとのほがい)・御門祭(みかどほがい)の祝詞(のりと)(『延喜式(えんぎしき)』所収)申上を行った。奈良時代、中臣氏とともに伊勢神宮への奉幣使(ほうへいし)に任命されたが、中臣氏の権勢に押され任命されなくなった。その間の経緯は斎部広成(いんべのひろなり)の『古語拾遺(こごしゅうい)』に詳しい。[ 執筆者:西宮秀紀 ]
★斎部氏(いんべうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
古代の有力氏族の一つ。古くは忌部と記し、延暦(えんりゃく)年間(782~806)より許されて斎部と記すようになったが、「忌」「斎」はともに神を祀(まつ)るための斎戒(さいかい)の意。日本神話で、天孫降臨に中臣(なかとみ)氏の祖天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに随従した天太玉命(あめのふとだまのみこと)の子孫といい、中臣氏とともに祭祀(さいし)のことをつかさどり、のち一族が、伊勢(いせ)、安房(あわ)、出雲(いずも)、紀伊(きい)、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、筑紫(つくし)などに発展、神に奉る供物を調えた。しかし、大化改新(645)以降、中臣一族が政治上の力ををもつとともに、神祀(じんぎ)祭祀上の地位でも優位を示し、斎部氏はしだいに後退した。ために、807年(大同2)斎部広成(ひろなり)は『古語拾遺(こごしゅうい)』を撰(せん)し、その不当を訴えたが、さらに衰えていった。徳島市の忌部神社、千葉県館山(たてやま)市の安房神社はともにその祖神を祀る。[ 執筆者:鎌田純一 ]
★天太玉命(あめのふとだまのみこと) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
天岩戸(あめのいわと)神話のなかに登場する神。忌部(いんべ)氏の祖神。天岩戸にこもった天照大神(あまてらすおおみかみ)を引き出すために、神々が神事を行った際、御幣(みてぐら)(神への供物)を捧(ささ)げている(『古事記』)。しかしながら、天岩戸神話の基盤に鎮魂祭があるとすれば、本来この神事をつかさどっていたのは猿女君(さるめのきみ)とすべきである。そこへこの神が登場したのは、こうした重大な場面に神事にあずかる氏族の祖神が顔を出すことが、その氏族にとって必要だったからである。[ 執筆者:守屋俊彦 ]
★天岩戸(あめのいわと) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
イワトは岩の戸、転じて貴人の墓の戸をいう(『万葉集』418~419)。神話で、須佐之男命(すさのおのみこと)の乱行を恐れて、天照大神(あまてらすおおみかみ)がこもった高天原(たかまがはら)の岩窟(いわや)の戸。天照大神がこの岩窟にこもるのは、日神、穀母神であるこの神が生命力を回復して再生するためといい、岩戸の前でさまざまな鎮魂(たまふり)の儀式が行われる。飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にあった御窟殿(みむろのとの)(天武(てんむ)紀)は、天皇の鎮魂を行う神話上の天岩屋の遺象かという。天岩戸の神格化に天石門別神(あめのいわとわけのかみ)があり、奈良県高市郡高取町越智(おち)にこの神を祀(まつ)る天津石門別神社(式内社)がある。[ 執筆者:吉井 巖 ]
★飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
672年(天武1)から藤原宮(ふじわらのみや)へ遷都する694年(持統8)までの天武・持統両朝の宮。『日本書紀』には、この宮は舒明(じょめい)・斉明(さいめい)朝の岡本宮(おかもとのみや)の南に営まれ、飛鳥寺(あすかでら)と同じ真神原(まかみがはら)にあったとみえ、また天武天皇が朝な夕なに賞(め)でたという「神岳(かみおか)の山の黄葉(もみじ)」(『万葉集』巻2―159)の神奈備山(かんなびやま)は、橘寺(たちばなでら)背後の「ミハ山」であろうから、この宮殿は明日香(あすか)村岡(おか)の国史跡「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」付近にあったものであろう。この地域の発掘調査が近年継続して進められ、付近一帯に宮殿遺構とみられる大規模な建物群が、重層的に少なくとも3回存在することが明らかになった。その最上層から天武10年の年紀をもつ木簡が出土し、浄御原宮の遺構である可能性が高まった。そこには東西158メートル、南北198メートルの内郭(ないかく)と、その東南に東西94メートル、南北55メートルの東南郭(その中に9間×5間の大極殿(だいごくでん)相当建物がある)があり、さらにそれらを取り巻く外郭(がいかく)施設が確認され、その中に官衙(かんが)や苑池(えんち)が配される構造が徐々に明らかにされつつある。『日本書紀』には浄御原宮の殿舎として、新宮(にいみや)・旧宮(ふるみや)の別のほか大極殿、大安殿(おおあんどの)、内安殿(うちのあんどの)、外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)、西庁(にしのまつりごとどの)などがみえる。[ 執筆者:狩野 久 ]
★岡本宮(おかもとのみや) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
舒明(じょめい)・斉明(さいめい)両天皇の宮室。630年(舒明天皇2)舒明天皇は飛鳥(あすか)岡の傍らに岡本宮を営んだが、636年火災にあって田中宮に移った。斉明天皇は656年(斉明天皇2)岡本宮の故地に後(のちの)岡本宮を営んで川原宮より移ったが、同年火災にあっている。天武(てんむ)天皇は壬申(じんしん)の乱(672)の勝利後、岡本宮の南に飛鳥浄御原(きよみはら)宮を営んで即位した。なお岡本宮の位置については、浄御原宮の位置を、通説のように奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村飛鳥の飛鳥寺北西の飛鳥小学校周辺に考えると、岡本宮はその北方に位置することになる。しかし飛鳥寺南方の伝承板蓋(いたぶき)宮跡を浄御原宮にあてる説もあり、今後の考古学的調査が課題となっている。[ 執筆者:中尾芳治 ]
★名神(みょうじん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本の国内の神社のなかでも、とくに年代も古く由緒も正しく、全国的にも霊験(れいげん)・崇敬が顕著で国家から特別の待遇を受けた神社をいい、一種の社格的な意味をもった。歴史的には、奈良時代中期に諸国の名神社に渤海(ぼっかい)の信物(しんもつ)を奉ったとあるのが初見で、その後平安初期より順次「名神」に列せられ、10世紀初めにまとめられた『延喜式(えんぎしき)』の制では、名神祭にあずかる神社として224社があげられている。国家の大事に際して奉幣(ほうべい)・祈請(きしょう)などが行われた。一例としては祈雨・止雨を祈る丹生川上(にうかわかみ)神社がある。[ 執筆者:牟禮 仁 ]
★霊験(れいげん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「れいけん」ともいう。神仏に祈請したり、あるいは経典を受持(じゅじ)・読誦(どくじゅ)したりすることによって得られる、人知を超えた不思議なしるし・効験のことをいう。人間の真摯(しんし)な祈りは、かならずその祈りの対象に通ずるという考え方は、中国や日本において広く受け入れられているが、その起源は、古く『易』(咸卦(かんか))の感応(かんのう)思想にさかのぼることができる。古来、中国ではさまざまな霊験を記録した霊験記・感応伝が数多く編まれており、古くは南斉王(おうえん)の『冥祥記(めいしょうき)』、太原(たいげん)王延秀(えんしゅう)の『感応伝』、陶淵明(とうえんめい)の『捜神録(そうじんろく)』などがあり、唐の道宣(どうせん)の『集神州三宝感通録(じゅうじんしゅうさんぼうかんつうろく)』は、後漢(ごかん)から唐初に至る600年の間の仏教上の神異霊験の事跡を多数集録している。わが国でもこの影響下に、平安前期に『日本国現報善悪霊異記(りょういき)』(略称『日本霊異記』)がつくられ、その後、『大日本国法華験記(ほっけげんき)』『春日権現(かすがごんげん)霊験記』『地蔵菩薩(じぞうぼさつ)霊験記』など多くの霊験記がつくられるに至った。また、平安時代以降、霊験を期待して加持祈祷(かじきとう)が流行し、この祈祷行者を験者(げんじゃ)とよぶようになった。[ 執筆者:藤井教公 ]
★行者(ぎょうじゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
苦行などによって超人間的な霊力をもつと信じられ、祈祷(きとう)、予言託宣(たくせん)、卜占(ぼくせん)などの宗教行為を行う人。神官や僧侶(そうりょ)と違う呪術(じゅじゅつ)宗教家であるが、それがかえって庶民信仰に合致するので、庶民の広い支持を受けている。したがって、特定の宗教や宗派、教派に属さないのが本来の姿であるけれども、時の宗教統制や行者のプライドなどから、宗派、教派に属している者が多い。歴史的には修験道(しゅげんどう)に属し、その修行方式に従ってきたが、いまは天台宗や真言宗、日蓮(にちれん)宗などに組み込まれた者が少なくない。また教派神道(しんとう)として伏見稲荷(ふしみいなり)大社や出雲(いずも)大社に属する者もある。また、もっとも活発に活動する行者は御嶽(おんたけ)教で、木曽(きそ)御嶽修験道が江戸時代から神道化したので、神道の形をとりながら修験的修行と予言託宣と祈祷を行う。行者になるための苦行はいまはほとんど水垢離(みずごり)による禊祓(みそぎはらえ)であるけれども、修験的修行では山林抖(とそう)行や護摩(ごま)行、火渡り、剣登り、盟神探湯(くかたち)(熱湯に手を入れ、熱湯を頭からかぶる)などがある。しかし歴史的には焚身剥皮(ふんじんはくひ)(身体を焼き、皮を剥(は)ぐ)などの苦行があり、また外界から隔絶された参籠(さんろう)行によって罪を懺悔(さんげ)し煩悩(ぼんのう)を滅ぼせば、人間本有の霊力が引き出されると信じられた。したがって、行者の加持(かじ)祈祷といわれるものは、その祀(まつ)る神仏の力に行者の霊力が加わって、奇跡がおこるといわれる。また行者の加持祈祷は、病気治癒の祈願のほかに、災いの原因をなす目に見えぬ悪霊や動物霊を払い落とすと信じられ、科学を超えた非合理の世界で力を発揮する。たとえば悪魔怨霊(おんりょう)を払うとか、狐落(きつねおと)しや犬神(いぬがみ)落しなどである。それは原始的宗教観念に対する原始呪術であるが、現代においても行者の活動領域はきわめて大きい。過去の有名な山伏(やまぶし)は験者(げんじゃ)とよばれる行者であって、貴族社会においてももてはやされ、多くの奇跡談が伝えられる。奈良時代、天皇の側近にも行者集団が置かれて十禅師とよばれた。明治初年に出た林実利(はやしじつかが)行者などは朝野の信仰を集め、奈良の大峯山(おおみねさん)修験道では役行者(えんのぎょうじゃ)に次ぐ二代行者とまで称せられた。[ 執筆者:五来 重 ]
★参籠(さんろう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
社寺堂に籠(こも)り、神仏に祈願すること。一昼夜(通夜(つや))、3日、7日、9日、14日、21日、33日、100日、1000日などの参籠期間中、礼拝、読経、称名、護摩焚(ごまた)き、水垢離(みずごり)行、断食をし、諸願の成就を図る。鎌倉初期に成立した『古事談』には、賀茂明神に一晩通夜した勢多尼上(せたのあまうえ)、伊勢内宮(ないくう)に3日間参籠した永頼(ながより)、白山権現(はくさんごんげん)に21日間参籠した日台(にったい)聖人、那智に1000日間籠った安倍晴明(あべのせいめい)の霊験譚(れいげんたん)が記されている。大津市の葛川(かつらがわ)明王院には参籠者が納めた木製の参籠札として中世のものが58点、近世のものが398点もある。その最古は元久1年(1204)6月の銘であり、同行7名の行者が10日間参籠し、そのうちの5日間、滝護摩8000枚を燃やしたとある。足利義満(よしみつ)、義尚(よしひさ)、日野富子(ひのとみこ)の参籠札もある。参籠は民間のお籠り行事に通じる。[ 執筆者:赤田光男 ]
★称名(しょうみょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
仏の名を口に称(とな)えること。念仏ともいう。念仏はもと仏を心に念ずることであったが、浄土教が盛んになると、念は称と同一とみられ、もっぱら阿弥陀仏(あみだぶつ)の救済を信じて「南無(なむ)阿弥陀仏」と称える称名念仏をさすようになった。称名は、仏に帰依(きえ)し、仏徳をたたえ、仏の救済を願うということであって、仏道修行のうちでもっとも行じやすく、かつ優れた利益(りやく)があると考えられ、浄土教では称名をもっとも重視した。『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、もっとも罪深い悪人でも十声の称名で救われたと説いているが、これはあらゆるものを救済しようと願う阿弥陀仏の慈悲の働きによるのである。中国浄土教の大成者である善導(ぜんどう)は、この教えによって、称名こそ仏の世界(浄土)に生まれることのできる中心となる行であることを説いた。日本では、浄土宗の開祖法然(ほうねん)(源空)はこれを受けて、専修(せんじゅ)念仏の教えを広め、浄土真宗の祖親鸞(しんらん)は称名(念仏)はそのまま阿弥陀仏の呼び声にほかならないと説いて、これを大行(たいぎょう)とよび、時宗の祖一遍(いっぺん)は念仏が念仏すると述べて称名の「ひとりばたらき」を強調した。本願寺第8世蓮如(れんにょ)は親鸞の教えを民衆に広く伝えたが、彼は称名は信心決定に対する報恩行(ほうおんぎょう)であると説いた。[ 執筆者:瓜生津隆真 ]
★役行者(えんのぎょうじゃ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
7世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖として崇拝され、江戸末期には神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)の諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇3年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和(やまと)国(奈良県)葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん)(金剛山)に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕した。やがて陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山神の使役や呪縛(じゅばく)として伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉(しゅうえん)も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。[ 執筆者:五来 重 ]
★忌部正通(いんべのまさみち) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
生没年不詳。吉野時代ごろの神道家。『神代口訣(じんだいくけつ)』の著者として知られる。同書には、貞治(じょうじ)6年(1367)11月記の正通の自序があるが、近年は同書の成立を近世初頭ではないかと疑う学者が少なくない。同書は『日本書紀』神代巻の注釈であるが、その内容は、神道の神学上注意すべき見解に富み、山崎闇斎(あんさい)が大いに評価して、「辞(ことば)は嬰児(えいじ)に仮(か)り、心は神聖に求む」という同書の語をとくに好んだほか、近世諸家の神道解釈に大きな影響を与えた。正通に関する史料は『神代口訣』のほかにはまったくない。[ 執筆者:谷 省吾 ]
★山崎闇斎(やまざきあんさい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1618―1682)
江戸前期の儒者、神道(しんとう)家。名は嘉、字(あざな)は敬義(もりよし)。15歳で剃髪(ていはつ)して絶蔵主と称した。29歳還俗(げんぞく)して嘉右衛門と称し、儒者号を闇斎、神道号を垂加(すいか)と称した。先祖山崎浄泉は播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡山崎村の人。初め木下肥後守家定(ひごのかみいえさだ)に仕え、寛永(かんえい)元年京都に没す。その子浄因も木下家に仕え、のち京都に隠居、医を業とした。
浪人の子として京に成長した闇斎は、幼少のとき比叡山(ひえいざん)に送られて侍童となり、15歳で妙心寺の僧となる。土佐藩主山内家の一族湘南和尚(しょうなんおしょう)の勧めにより、土佐の吸江寺(きゅうごうじ)に転住、将来を嘱望されたが、ここで交わった谷時中(じちゅう)、野中兼山など海南朱子学の人々の影響を受けて帰儒還俗した。1655年(明暦1)38歳で初めて京に講席を開き、『小学』『近思録』、四書、『周易(しゅうえき)本義』および『程(てい)伝』を講じ、純正程朱学を唱導、厳密な学風と凛(りんれい)の教授法により佐藤直方(なおかた)、浅見絅斎(けいさい)多数の門人を養成した。
1657年の正月『倭鑑(やまとかがみ)』を起草しようとして京都藤森社に詣(もう)で、「親王(舎人(とねり))強識出郡倫、端拝廟前感慨頻、渺遠難知神代巻、心誠求去豈無因」(親王、強識郡倫(ぐんりん)に出ず。端拝廟前(びょうぜん)感慨しきり。渺遠(びょうえん)知り難き神代の巻。心、誠に求め去れば、あに因なからん)と賦した。神儒並行の思想的立場をいちおう確立した彼は、翌年江戸に東遊し、帰途伊勢(いせ)神宮に参拝する。1665年(寛文5)には4代将軍家綱(いえつな)の後見役会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)の賓師(ひんし)となり、ここにおいて純正朱子学を武家社会に広布しようとする闇斎の目的はほぼ達成された。同時に正之はわが国の道としての神道に関心をもち、家臣服部安休(はっとりあんきゅう)を鎌倉に幽居中の吉川惟足(よしかわこれたり)のもとに遣わして神道を就学させた。ついで正之は、惟足を藩邸に招いて自らも神道の奥秘を伝授され、土津(はにつ)の霊社号を受けた。闇斎も東下の途中伊勢神宮に参拝、1669年(寛文9)10月には大宮司の河辺精長(かわべきよなが)から中臣祓(なかとみのはらえ)の秘伝を受ける。1671年8月には吉川惟足から吉田神道の秘伝を受け、垂加霊社の号を授けられ、闇斎は神道家としても独立の地位を認められるに至った。1673年(延宝1)正之の葬に会して会津に下向した彼は、このとき以後毎年の東下をやめ、京において著述と教育に専念した。1682年(天和2)9月16日二条猪熊(いのくま)の寓居(ぐうきょ)に没し、黒谷山に葬られた。65歳。翌年5月畢生(ひっせい)の大著『文会筆録』が梓行(しこう)された。
闇斎の伝記としては『闇斎先生年譜』(天保(てんぽう)9年9月刊、山口重昭跋(ばつ))、出雲路通次郎編『山崎闇斎先生』(下、大正元年、御霊社刊)、『吾学紀年』(『続山崎闇斎全集』下巻所収。稲葉黙斎編、昭和12年刊)があり、その遺著は『山崎闇斎全集』5冊に集成刊行されている。同書に付載された池上幸二郎氏の解題はもっとも信頼すべきものである。[ 執筆者:平 重道 ]
★還俗(げんぞく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
出家した者がふたたび俗人に戻ること。帰俗(きぞく)ともいう。還俗には自発的なものと官命によるものとがある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武(もんむ)天皇4年(700)8月の条に「僧通徳(つうどく)、恵俊(えしゅん)に勅して並に還俗せしむ(中略)其(そ)の芸を用ひんが為(ため)なり」とあり、これは僧の俗事能力が買われて官命により還俗させられた後者の例である。また「僧尼令」によれば、全27か条のうち、還俗規定および還俗のうえ律で処罰する規定がそれぞれ5か条ずつある。官命による還俗で著名なものは、1207年(建永2)2月の念仏弾圧を目的とした法然(ほうねん)(源空(げんくう))、親鸞(しんらん)らの流罪の一件である。このとき2人は僧名を剥奪(はくだつ)され、それぞれ藤井元彦(もとひこ)、藤井善信(よしざね)の名で流罪となった。[ 執筆者:船岡 誠 ]
★僧尼令(そうにりょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本古代の養老(ようろう)令の篇目(へんもく)で、第7篇、全27条。大宝(たいほう)令もほぼ同内容と推定される。仏教教団の僧尼統制の法典。日本令の母法である唐令には僧尼令はなく、道教の道士・道士女および仏教の僧尼の統制のための道僧格(きゃく)があった。日本僧尼令は、唐道僧格から道教統制の要素を除いた部分を令の一篇目としたもの。仮(いつわ)って災祥を説き国家を論難し百姓(ひゃくせい)を妖惑(ようわく)するといった国家への反逆行為、殺人かん盗、聖道を得たと詐称することなど戒律への破戒行為をはじめとして、吉凶卜相(きつきようぼくそう)、小道(しょうどう)、巫術(ふじゅつ)などの僧尼の固有の犯罪とそれへの措置(強制還俗(げんぞく)による科罪、強制還俗、苦使、散禁の4段階の罰)を規定する。この点は、令と称しながら律に類似する性格である。また、僧綱(そうごう)による僧伽(そうぎゃ)の自治的統制、民間仏教の統制を定める。注釈として『令義解(りょうのぎげ)』『令集解』が残る。[ 執筆者:石上英一 ]
★僧綱(そうごう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
僧尼の綱維を保ち、諸寺を監督するために設けられた僧官の総称。中国に始まり、職位には僧統、僧録などの称を用いた。日本では、京師の諸寺より推挙された智徳(ちとく)兼備の人物が任命され、綱所(こうじょ)にあって事務を行い、僧正(そうじょう)、僧都(そうず)、律師(りっし)の三階の称が用いられ、これをさらに大・少・正・権などに分けた。人数も『弘仁格(こうにんきゃく)』には僧正・大僧都各1人、少僧都2人、律師4人と定められたが、のちに漸次増員し、864年(貞観6)にはこれらに相当する僧位として、僧正に法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)、僧都に法眼(ほうげん)和尚位、律師に法橋上人位(ほうきょうしょうにんい)が設けられたこともあって、人数の増加に拍車をかけ、1086年(応徳3)には27人と激増し、有名無実となった。現在では各宗で僧の位階を示すのに用いる。[ 執筆者:石田瑞麿 ]

只今帰りました

2012年08月26日 11時54分48秒 | 色んな情報
只今帰りました
今日は夜中に寝られずに日記一つ書いていた。
起きたのが9時だったかな。
それから食事。
夜中すぎから骨盤と背骨の辺りが久しぶりに痛くなった。
振り返ってみるとこの辺りの上が痛くて5月の25日の未明は
何時間も悶えくんでいた部分の一番近い部分。
三ヶ月済んでしまった。
あすから串のものが何と言おうと少し動いて膝や足首腰の治療
首も辛いから
辛いのは自分である。
朝起きて腰が辛かったのか20分ほどその辺を歩いていたら少し楽になってきた。
入椅子んしている時に三週間の間汚いけれども一足の靴市旗を履いていた。
治療ではソックスと言うなである。
Lほど太っている足に時にはSほどに細いものを履いておく。
足にしこりがありつったてりする人が多い。
薬代に入らずに自費で皆買っている。
一足二千円足らずだから医療費に入れ萩良いのにと思う。
これは馬鹿に出来ない物で寝たきりになる人も半減するのではないかと思う。
人は結構が悪いと体を動かしにくくなるからね。
腕なども研究して考えて欲しい。
以前言った話で感の治療薬を作った人は製薬会社の手先がその場で殺してしまう。
特効薬出来ればそれから先は会社は儲からないね。
殺さずに行かせておけば自分のところはいつまでも儲かる。
其れが今の社会のシステム。
金が総てなのが此の時代。
だからてれびに乗せられて生きているだけ。
特に今のガキどもはそうだろう。
音楽一つリズムが早くて店舗の良い物が良い。
アイホーンでイヤホンして店舗よく体動かしていれば調子が良い。
音がないとリズムも何も取れなくなって仕事が出来無くなる。
今のガキどもの正体だ。
だから何処へ言ってもやかましい。
家の中にいてもそうと違うかな。
密閉して漏らさず家の中をかき回す。
そんな家には行きたくない。
ガキのこといくら行ってもしかた無い。
 
いつまでも企業の儲けが続くシステムで今は動いている。
 
モットモット病人を製造して製薬会社はボロ儲け。
おすそわけは政治家の懐へ。

●聖白色同胞団●アトランティス大陸●神智学●シャンバラ●M・ドーリル

2012年08月26日 05時53分50秒 | 色んな情報
●聖白色同胞団●アトランティス大陸●神智学●シャンバラ●M・ドーリル
★聖白色同胞団・秘密都市              M・ドーリル 「秘教真義」 http://p.tl/U018
★アトランティス大陸(文明)。http://p.tl/6WYt
★メルキゼデクとは旧約聖書の登場人物 http://p.tl/Is8d
★M・ドーリル  Dr. Muriel Doreal Powered by FC2.com http://p.tl/05jF
主な著作 (邦訳本のみ)
 「カバラの真義」 ・・・ メルキゼデク アトランティス ピタゴラス ピラミッド
 「秘教真義」 ・・・・・ 因果律 再生 聖白色同胞団 20の宇宙法則 シャンバラ 人生の目的 地球外生命
 「聖書の真義」 
 「ヨガの真義」 
 「療法の真義」 
 「エメラルドタブレット」
          いずれも霞ヶ関書房より
★シルバー・バーチ アラン・カーディック スウェーデンボルグ エドガー・ケイシー http://p.tl/O1zW
★人生(地上生活)の意味・目的 http://p.tl/19Kj
★再生- 生まれ変わり 再生の問題に関する各霊視者、各霊知学の説 http://p.tl/ljvG
★前世・因果律・カルマ R.シュタイナー 江原啓之 http://p.tl/rweM
★メルキゼデクとは旧約聖書の登場人物で、『創世記』(14:18)にて「いと高き神の祭司」http://p.tl/qYao
★アトランティス大陸(文明)。http://p.tl/1Z2H
★Pythagoras  紀元前582年 - 紀元前496年 http://p.tl/2cE3
★ギゼフの大ピラミッド http://p.tl/wkpK
★龍神についての解説 http://p.tl/eXAo
★花こよみ http://p.tl/Wzt2
★石仏・野仏たち http://p.tl/1P3v
★バグワン・シュリ・ラジニーシ (OSHO) http://p.tl/Z40z
★スピリチュアル (霊的) & 精神世界 http://p.tl/nv3d
★グレート・ホワイト・ブラザーフッド(Great White Brotherhood)http://p.tl/pz8C
神智学やその影響を受けたニューエイジ思想で信じられている超自然的人物の集団である。日本語表記としては「聖白色同胞団」「大白色聖同胞団」「大いなる白色同胞団」がある。
ブラヴァツキー夫人はこの集団に属する。クートフーミやモリヤといったマハートマー(大師、マスター)から教えを授かったと主張した。
チャールズ・ウェブスター・リードビーターによれば同胞団のリーダーはサナト・クマーラである。
Ascended Master Teachingの教義によればサナト・クマーラがこの集団を創設した。また、同胞団の本拠地はゴビ砂漠上空のエーテル界に存在するシャンバラに築かれた。
★神智学(しんちがく、Theosophy)http://p.tl/_-3r
19世紀にブラヴァツキー夫人を中心として設立された神智学協会に端を発する神秘主義、密教、秘教的な思想哲学体系である。全ての宗教、思想、哲学、科学、芸術などの根底にある1つの普遍的な真理を追求することを目指している。
★ブラヴァツキー夫人(マダム・ブラヴァツキー)http://p.tl/I6UG
(1831年8月12日 - 1891年5月8日)は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。
本名はエレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Eelena Petrovna Blavatsky、Елена Блаватская)。姓はロシア語では女性形でブラヴァツカヤとなる。ブラバッキーと誤表記されることもある。
神智学はキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。
ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である(2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァ)。
★神智学協会(しんちがくきょうかい)http://p.tl/1iGJ
ロシア帝国生まれのブラヴァツキー夫人が興した神秘思想結社。結成当時は多くの人に影響を与えた。
★神秘(しんぴ)(神秘思想から転送)http://p.tl/hLIo
人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと。
古くは「じんぴ」とも。英語では「mystery (ミステリー)」「secret(シークレット)」と表される。
★サナト・クマーラ、サナット・クマラ、サナト・クマラ(Sanat Kumāra)http://p.tl/1WW5
ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。
不朽の智恵(神智学に端を発する)では、サナト・クマーラは、1850万年前に金星から、地球のロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るためにやって来たとされる(詳細は後述)。
★ブラフマー(ब्रह्मा [brahmaa])は、インド神話、ヒンドゥー教の神。http://p.tl/JSrn
★チャトゥルサナ(Catursana)あるいは四人のクマーラ(Kumāra)http://p.tl/tQaU
ヒンドゥー教のプラーナ文献に記されたブラフマーの息子たちである。それぞれサナカ、サナタナ、サナンダナ、サナト・クマーラという名である。

★あらゆる情報を分析するM総研: 聖白色同胞団の本当の目的 http://p.tl/8ja7
★聖白色同胞団を脱会した人の証言/和訳(1) http://p.tl/h1_x
★「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」http://p.tl/wiBk
★神智学協会の標語 http://p.tl/jnBO
★聖白色同胞団に直結している数霊72… [ 前世とスピリチュアルな世界 ] http://p.tl/kNQs
★聖白色同胞団の本当の目的 http://p.tl/lRWN http://p.tl/8ja7
★宇宙聖白色同胞団(コスミック・ホワイトロッジ)http://p.tl/snxc
★聖白色同胞団参入儀式 http://p.tl/C15P
★不可視のヘビの種族、M・ドーリル博士。http://p.tl/Gu5V
★「グレート・ホワイト・ブラザーフッド」http://p.tl/oOZk
★地震を止めた男 http://p.tl/-TTt
★UFOアガルタのシャンバラ  http://p.tl/QjXd