そして時の最果てへ・・・

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筒井順慶の豹変

2008-06-16 19:19:10 | 歴史
本能寺の変後、明智光秀はしばらく安土城にて近江衆の再編や近江防衛のネットワーク形成に時間を使います。

後世の歴史家はこれを「時間の空費」と評価する向きが多いんですけど、柳ヶ瀬、海津、水口、不破関を支配し、柴田勝家の南下や、日野城で抵抗する蒲生賢秀・賦秀(後の氏郷)親子、伊勢の織田信雄などを最小限の兵力で封じ込むために必要不可欠です。「動きが遅い」というのは単なる結果論に過ぎません。

さて、六月八日、光秀は河内の四国遠征軍を葬るべく、長浜に入れた斉藤利三を呼び戻すとともに、大和の筒井順慶がよこした国人衆を河内へ先発させます。自身は居城の近江坂本城へ一旦帰った後、九日には入京しています。

とここで、光秀にとって思いがけない方向へ事態は推移します。細川藤孝と筒井順慶の離反。

細川藤孝は、光秀が足利義昭に使えていた頃からの僚友であり、信長に仕えてからは最有力の与力であり、娘の玉子(後の細川ガラシャ)を藤孝の息子・忠興に嫁がせた縁戚でもありました。そのため光秀は細川親子の参陣に異常なまでに固執し、細川親子への再考を促す書状は、さめやらぬ衝撃と悲痛なまでの執着が滲み出た、余りにも情けない内容になってます。
(´・ω・`)

とは言うものの、若狭にいる細川親子の離反はそこまで重要なことではなく、河内侵攻の先駆けとして計画に組み込まれていた筒井順慶の豹変ほうが、戦略的にはよほど致命的でした。京から河内へ進軍する際、大和から側面を衝かれてしまっては話になりません。

明けて十日、光秀は洞ヶ峠(今の枚方市のあたり)へ陣を進めましたが、順慶は応じようとしません。光秀にすれば、河内侵攻を順慶封じ込めの包囲作戦に修正するかどうかの分水嶺にあり、いやでも慎重にならざるを得ませんでした。翌十一日まで順慶を待つとともに、順慶の北上に備えて南山城の諸城を強化させています。

しかし順慶の動きを封じた上で河内に進軍するだけの時間は、既に光秀には残されていませんでした。

羽柴秀吉の尼崎入城!

順慶の離反も秀吉の動きを察知していたからでしょうし、これまで中立を保っていた高槻の高山重友、茨木の中川清秀は秀吉方へ走ります。秀吉が光秀から奪った「時間」はあらゆる局面で光秀を追い詰めることになりました。

この凶報に接した光秀は河内での作戦を放棄し、下鳥羽へ帰陣。さらに山崎や岩清水八幡に配置していた兵まで撤収させ、完全な守勢に移行しました。この状況での積極攻勢は、腹背に敵を受ける極めて危険な事態を招く可能性が高かったからです。

光秀は戦術レベルでも、秀吉と順慶、およびその他の勢力の各個撃破を選択せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。