そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

歴史に対する姿勢

2008-06-08 21:33:38 | 歴史
近年の大河ドラマは完全に、「女性向け歴史ホームドラマ」と「「オッサン向け時代劇」の二種類を作り分けてる印象がありますね。これはマーケティング的に、両方に見てもらおうと欲張るよりもむしろ、片方にターゲットを絞って制作した方がいいと判断した結果なんでしょうか。好意的に言えば視聴者ニーズの多様化に対応した、ということになるんでしょう。

ワタシが好きなのはむろんオッサン向けの方。オッサンですからね。

ただそっちはどうしても戦争シーンやベテラン俳優が多く必要になるのでNHK減収の昨今、作りづらいと聞きました。受信料はちゃんと払いましょう。
(´_ゝ`)

ワタシも女性向けの方を楽しめればいいんですが、時代考証がいまいちな時が多く、ちょっと見るのが辛いんですよ。

今年の大河「篤姫」も
「江戸時代の薩摩の女が、男に向かってこんな口の利き方しないよねぇ」
と。

ワタシは(役割分担があっても)男女平等には賛成なんですけど、時代劇に限っては男尊女卑であるべき、そう思います。

でもワタシの会社には
「今年の大河、わかりやすくて、かわいくて、面白い」
と喜んで見ている女性陣が多い。

ある女性と軽く話してみますと、
「昔の人はやーね、奥さんがいっぱいいて・・・」
と言ってました。

なるほど、ワタシとは違うんだな、と改めて思いましたよ。

ワタシはその当時の倫理観が一夫多妻制を許容してたんだからそれが「正しい」。現代の倫理観で善悪を判断するのは筋が違うよなぁ、と。むしろ一夫多妻なんて、今と違って面白いとは思いません・・・か。
(´・ω・`)

しかし先ほどの女性(歴史ライト層)は、歴史ドラマにも現代的価値観を当てはめ、人間の普遍性の面から物語を楽しもうとする。

どっちが正しいではなく、楽しみ方がまるで違うのだな、と。

中国大返し

2008-06-08 12:10:09 | 歴史
元々本能寺の変を取り上げるつもりでしたが、結局
「理由がワカラン」
という理由で(!?)、知らない間に山崎の戦いにシフトがずれてしまいましたね。


ま、いっか。
ヽ( ゜д゜)ノ┌┛)`Д゜)・;’


さて、本能寺の変が起こった時、羽柴秀吉は備中にて、毛利家の高松城を水攻めにし、信長の着陣を待っている状態でした。秀吉が信長の出陣を要請した理由は三つほどあります。

まず一つ目に、毛利陣営への恫喝。中々講和に応じようとしない毛利家中の反織田派に、圧倒的な兵力でもって絶望感を味わわせ、講和に漕ぎ着けるとともに講和の条件をつり上げる。

二つ目に、講和条件を信長自身に決定してもらうため。天正七(1579)年、秀吉が宇喜多直家の降伏を受け入れた時、その降伏条件について信長に叱責された経緯があります。それならば信長本人に満足のいく条件を策定してもらおうというもの。

三つ目に、政治ショーとして。先述の宇喜多との一件でチョンボった秀吉は、「信長あっての秀吉」を印象付けると同時に、信長軍が優雅に進軍できるよう、軍勢の糧秣の調達や、信長が茶の湯や鷹狩りを楽しめるような準備までしていました。つまり秀吉にとっての信長の出馬計画は、軍事行動というレベルにはなく、信長の接待を中心に構築されていたと言えます。


そんな状況下で、明智光秀から毛利陣中へ宛てた密書が秀吉の手に渡ります。その内容は、主君・信長の横死。

愕然とする秀吉に、黒田孝高
「殿が天下を制する好機ですぞ」
と言ったとか言わないとか。
(´σー`)ホジホジ

ここで秀吉が採った方針は、
「無防備な背中を毛利に晒しながら走って京に帰る」
でした。

光秀は畿内制圧と柴田の南下に備えに兵力を分散せざるを得ず、摂河泉の攻略にも少なからず手間と時間を割かねばならない。光秀から毛利へ宛てた密書は、秀吉への足止め工作であり、逆言すれば、光秀に体勢を整えさせる時間さえ与えなければ秀吉の有利な状況に持ち込めるはず。そう踏んだ秀吉は、毛利に後背を衝かれる危険を冒してでも京へ駆け戻る決意をします。毛利への処置はその後で構わない。

この二正面作戦の要諦は、上方で勝利する一方、毛利との全面対決を可能な限り先延ばしにすること。そのために秀吉は巧妙な芝居を打ちます。元々、本能寺の変前から和睦は確定し、後は落としどころをめぐる駆け引きだけが残されていた様なものですから、秀吉は毛利方の和睦の使者に信長着陣後の展開をまくし立て、その上で恩着せがましく条件を譲歩してみせ、高松城主・清水宗治の切腹を条件に和睦を成立させました。

この時点で毛利方は信長の横死など想像だにしていませんでしたが、それでももし毛利方が宇喜多の件を承知していれば、信長抜きでの独断専行が許されるはずもないことに気付いていたでしょう。しかしこの時毛利側は、既に冷静な判断が下せない状況まで追い込まれていました。藁にもすがる思いで和睦に応じてしまったのです。
(ただ、それら全てを十分に理解したうえで、小早川隆景あたりが和睦を飲んだ、という話も考えられますけどね。)

さて、和睦に持ち込んだ秀吉でしたが、信長の死が毛利に報じられてもまだ毛利が和睦を墨守する、と考えるほどお人よしではありません。毛利方が和睦を破棄して反転攻勢に出たとしても当面はしのげるよう、宇喜多や南條といった境目の諸衆を残置。さらに備中から京までの縦深を利用した持久戦の体勢を整え、あわよくば反抗の意図そのものを挫いてしまおうとしました。

そして京へダッシュ!このとき秀吉にとって都合がよかったのは、
1) 密書が手元に転がり込み、秀吉が変を知るかたわら、毛利が変を知らないことで時間稼ぎが可能になったこと。
2) 西国街道が京まで続いていたこと。北陸、関東、東海の街道は前線と動因管区を結ぶ地域だけが軍用に整備されていたのに対し、西国街道は政権の中枢まで伸びていました。
3) 強行軍を敢行する準備が整っていたこと。先述したとおり、信長の接待のため街道に十分な物資が予め蓄えられていました。

世に「中国大返し」と喧伝される強行軍は、こうした恵まれた環境下で偶然可能になったものでした。

そして、その偶然をいかんなく利用しつくしたところに、秀吉の不気味なまでの将才を見ることができます。