「小田原の役」シリーズ第11回。前回の続きです。今回は小田原の役の「そもそも」を考えるうえでの準備。
前回の最後で、
「そもそもこの戦争で北条に勝ち目があったんでしょうか?」
という問題提起をしましたが、そもそも「戦争に勝つ」ってどういうことでしょうか?
戦争の歴史を振り返ってみますと、戦争での勝利は少なくとも2種類に分別できることがわかります。
1つ目はある勢力が敵対勢力をほぼを完全に滅亡させ征服するパターン。アレクサンドロス3世の東征だとか、チンギス=ハーンの征服戦、中国の易姓革命(王朝の交代)、日本では源平合戦や織田信長の戦争などがこのパターンに当てはまります。一方がほぼ完全に解体・消滅させられるタイプ。
2つ目は戦争によって相手の交戦意志をくじき、相手から外交的譲歩を引き出した段階で勝利とするパターン。イギリスとフランスの戦争(百年戦争や植民地戦争、ナポレオン戦争など)や十字軍の戦争、秀吉の小牧長久手戦役、四国・九州征伐、さらには近代の戦争のほとんどが実はこのパターン。敗戦国は領土の割譲や不利な条約締結、賠償金の支払いなどシンドイ目に遭わされる訳ですが、温存はされる。
ではその2つのタイプの分岐点はどこか?それはもちろん、戦術的、戦略的勝利が国家の経営基盤そのものを奪ったり破壊したりする可能性に関わります。
相手勢力の指導者(国王など)の捕縛、殺害や、首都の占拠など支配体制、指揮統制機能が破壊されると、勝利側は完全な支配が可能になり、敗戦側はそのまま滅亡につながる。
一方、領土の外側での戦闘には勝ったけれどもその国の首都を陥落させたり支配者を拘束することが戦力的に不可能であったり、戦争を吹っ掛けてきた相手を撃退し防衛したけれども、相手国まで攻めていく能力または意志がなかったり、敗戦側が民主国家だった場合、支配体制を破壊することが非常に難しい、などで外交的決着に落ち着くわけです。
山崎や賤ヶ岳では「信長の後継者争い」という性質から、秀吉は相手を死なせるまで徹底して叩きました。
しかし「全国統一戦」となる四国・九州征伐では長宗我部・島津をボコりましたが、滅亡に追い込むまではやってません。
以上を踏まえると、北条の採るべき(戦争を含めた)外交戦略とはどんなものだったんでしょうか?
前回の最後で、
「そもそもこの戦争で北条に勝ち目があったんでしょうか?」
という問題提起をしましたが、そもそも「戦争に勝つ」ってどういうことでしょうか?
戦争の歴史を振り返ってみますと、戦争での勝利は少なくとも2種類に分別できることがわかります。
1つ目はある勢力が敵対勢力をほぼを完全に滅亡させ征服するパターン。アレクサンドロス3世の東征だとか、チンギス=ハーンの征服戦、中国の易姓革命(王朝の交代)、日本では源平合戦や織田信長の戦争などがこのパターンに当てはまります。一方がほぼ完全に解体・消滅させられるタイプ。
2つ目は戦争によって相手の交戦意志をくじき、相手から外交的譲歩を引き出した段階で勝利とするパターン。イギリスとフランスの戦争(百年戦争や植民地戦争、ナポレオン戦争など)や十字軍の戦争、秀吉の小牧長久手戦役、四国・九州征伐、さらには近代の戦争のほとんどが実はこのパターン。敗戦国は領土の割譲や不利な条約締結、賠償金の支払いなどシンドイ目に遭わされる訳ですが、温存はされる。
ではその2つのタイプの分岐点はどこか?それはもちろん、戦術的、戦略的勝利が国家の経営基盤そのものを奪ったり破壊したりする可能性に関わります。
相手勢力の指導者(国王など)の捕縛、殺害や、首都の占拠など支配体制、指揮統制機能が破壊されると、勝利側は完全な支配が可能になり、敗戦側はそのまま滅亡につながる。
一方、領土の外側での戦闘には勝ったけれどもその国の首都を陥落させたり支配者を拘束することが戦力的に不可能であったり、戦争を吹っ掛けてきた相手を撃退し防衛したけれども、相手国まで攻めていく能力または意志がなかったり、敗戦側が民主国家だった場合、支配体制を破壊することが非常に難しい、などで外交的決着に落ち着くわけです。
山崎や賤ヶ岳では「信長の後継者争い」という性質から、秀吉は相手を死なせるまで徹底して叩きました。
しかし「全国統一戦」となる四国・九州征伐では長宗我部・島津をボコりましたが、滅亡に追い込むまではやってません。
以上を踏まえると、北条の採るべき(戦争を含めた)外交戦略とはどんなものだったんでしょうか?