急なのぼり坂を中途で、右に折れる。
そこは、グリーンホテルから、さらに進んだ万山望と呼ばれる
町中が一望できるビュー・ポイントに至る道の入口。
浅間の麓に通じるその一本の道の物語ーー。
疎開してこの地ではじめて迎えた朝。燦燦と輝く朝日のなかで、
ありとあらゆる小鳥たちの鳴き声でめざめた母は。
(犀星が書いている。「百鳥の弦いと鳴りわたり」と、ある高校の校歌に。)
夏。オニユリの花を掲げて、父親が自転車を押しながら家に帰っ
てきた。あるときはウドやシオデだったり、渓流で獲ったヤマメだったり。
夏。大夕立があって、川底のように深くえぐられた道。軽石がのぞ
いたその底に平らかに溜まった、砂の美しさが好きだった。
ある日。オートバイがけたたましい響きを立てて何台も何台も立て続けに
駆け抜けていった。上がる土煙。軽井沢はオートレースの舞台となった。
ある日。沓掛(今の中軽井沢)の方から、筵旗を掲げて、峰の茶屋のほう
まで、延々と進むデモの群れ。
軽井沢は、米軍の浅間山麓演習場になろうとしていた。
貴重な自然を守ろうと、県内外の多くの人々を巻き込んだ基地反対運動
のおかげで、軽井沢は演習場にならずにすんだ。
大切な思いの込められた自然は、平和のうちに、知らず知らず蝕まれ続けていった。
もうそこに、かつての人はいない。
もう夕立なんぞにえぐられる心配もない。道は、大きく立派になって、
山奥の方まで整備されたから。
フデリンドウも山百合もユウスゲも咲く場所を失った。
ある日。熊が、サルが、イノシシが、カモシカが、別荘の近くに現れた。
彼らがいつものように歩いていたら、その先に村ができていた--と
言うかもしれない。
「なぜ追われるのか合点がいかない。つい昨日まで、
そこは我々の領分だったのに」と。
浅間山麓演習場問題も、含めて色々ありましたが、別荘開発は停めようがなかったようです。
浅間山荘事件の浅間山荘は本当に軽井沢の外れ、でちょっと行けば山の天辺で、園向こうは群馬県・・・
ユウスゲは今、増殖運動で復活中ですが、取り戻せないものもたくさんあります。
動物たちの、住処を奪ったのは、誰・・・
☆話はかわりますが、以前、懐古園の中にある郷土館(?)で、小諸の画家・谷内俊夫展を見て、とても懐かしく思ったことがありました。
スケッチブックを片手によく追分原を描いていたと説明がありました。美術を教わりました。ひょうひょうとした先生の姿が思いだされます。