国内最大規模を誇り、かつ最も長い歴史をもつ色街「吉原」。
令和の吉原をお伝えしながら、遊廓や赤線の歴史を見ていきたいと思います。
◆
性産業にまつわる言葉ほど、
その種類や数が多いものもないのではないでしょうか。
建物やエリアを表す言葉だけをみても、
遊廓にはじまり女郎屋、遊女屋、岡場所、飯盛旅籠、特飲街、赤線・青線と、
枚挙にいとまがありません。
特に遊廓という言葉は江戸時代の公許の遊女屋街にのみ使われた言葉ですが、
“インパクトある”表現のせいか、
本来遊廓ではない多くの色街が遊廓と呼ばれ、
単体の店をも遊廓と表現するほどです。
1958(昭和33)年の売春防止法施行以前の性産業は、
そのほとんどが遊廓の一言で言い表されてきたといえるでしょう。
そんな中、吉原はほぼその歴史の当初から公許の遊女屋街で、
1958(昭和33)年まで約350年もの間、色街として栄えた場所でした。
さらに現在も多くのソープランドが建ち並び、
性産業の歓楽街として存続し続けているのは、国内で吉原だけ。
当初は現在の東京中央区人形町界隈にあった吉原。
当時は葦が群生する湿地帯だったそうで、葦原と呼ばれたそうですが、
葦が「悪し」に通じるということで、吉(良し)原に。
その後、江戸の初期に現在の地へ移転したのが現在も遺る吉原。
移転時は、人形町に吉原に対して新吉原と呼ばれていました。
現在の吉原で最も驚くのは、吉原内の通りがほぼそのままの区画で遺り、
さらにその名称も江戸時代のまま遺っていること。
地図の上、見返り柳がある付近が現在の土手通で、
そこから五十間通を通って廓の入口にあたる大門へ。
ちなみに大門はだいもんではなく「おおもん」と読みます。
大門の下に黒く囲われたエリアが遊廓で、
黒塀に囲まれ、その周囲には「お歯黒溝(どぶ)」とよばれる堀がありました。
遊女がお歯黒を塗った後の墨を流したので、いつも真っ黒だったといいます。
ちなみに映画などで登場する江戸時代の遊女の歯は真っ白ですが、
これはあくまでもイメージで、
本来遊廓の遊女たちはみなお歯黒をしてました。
エリア名につく「町」は基本的に「ちょう」と読みますが、
一番下の京町だけ「まち」。
現在も吉原の中はこの呼び名です。
中央を縦に貫く仲之町は別名待合辻ともよばれ、
通りの左右には待合茶屋と呼ばれる見世が軒を連ねました。
待合茶屋は芸妓や娼妓を呼び寄せて遊興する飲食店で、
客は待合で食事をした後、お目当の娼妓の妓楼へ赴きました。
ただし待合での遊興はとても高価なので、
直接妓楼へ向かってその場で一晩の相手を決める場合もあります。
中央左のエリアの揚屋町は、かつて一番賑わっていたエリア。
遊女を呼び寄せ、飲めや歌えやの宴会を行うのが揚屋で、
遊廓の中でも最も高額な遊び場でした。
しかし江戸も後期になると贅沢を自粛するおふれが出され、
揚屋遊びがなくなります。
その後このエリアに住んだのが、
妓楼の建て替えや修理をする職人たちでした。
つまり、吉原の中には妓楼だけでなく、
職人などの一般の人の住まいもあったわけです。
また右上にある伏見町は、その変則的な位置からもわかるように、
後から造られたエリアでした。
徳川の開幕によって様々な開発に必要な職人が多く住んだ江戸は、
単身の男性が極めて多かった街。
飲食店から旅館まで、多くの職業が非公認の妓楼的な営業をしていました。
その中でも最も多かったものの一つが銭湯です。
湯女(ゆな)と呼ばれる女性が常駐し、性的なサービス行なっていました。
もちろんこれらは幕府非公認の営業ですが、
いくら取り締まっても雨後の筍のように現れる湯女風呂に手をこまねいた幕府が、
吉原と話をさせてその一角に湯女を働かせるエリアを造ることになり、
それが伏見町となりました。
吉原の町の話はこれくらいにして、
次回からは現在の吉原を見ていきたいと思います。
令和の吉原をお伝えしながら、遊廓や赤線の歴史を見ていきたいと思います。
◆
性産業にまつわる言葉ほど、
その種類や数が多いものもないのではないでしょうか。
建物やエリアを表す言葉だけをみても、
遊廓にはじまり女郎屋、遊女屋、岡場所、飯盛旅籠、特飲街、赤線・青線と、
枚挙にいとまがありません。
特に遊廓という言葉は江戸時代の公許の遊女屋街にのみ使われた言葉ですが、
“インパクトある”表現のせいか、
本来遊廓ではない多くの色街が遊廓と呼ばれ、
単体の店をも遊廓と表現するほどです。
1958(昭和33)年の売春防止法施行以前の性産業は、
そのほとんどが遊廓の一言で言い表されてきたといえるでしょう。
そんな中、吉原はほぼその歴史の当初から公許の遊女屋街で、
1958(昭和33)年まで約350年もの間、色街として栄えた場所でした。
さらに現在も多くのソープランドが建ち並び、
性産業の歓楽街として存続し続けているのは、国内で吉原だけ。
当初は現在の東京中央区人形町界隈にあった吉原。
当時は葦が群生する湿地帯だったそうで、葦原と呼ばれたそうですが、
葦が「悪し」に通じるということで、吉(良し)原に。
その後、江戸の初期に現在の地へ移転したのが現在も遺る吉原。
移転時は、人形町に吉原に対して新吉原と呼ばれていました。
現在の吉原で最も驚くのは、吉原内の通りがほぼそのままの区画で遺り、
さらにその名称も江戸時代のまま遺っていること。
地図の上、見返り柳がある付近が現在の土手通で、
そこから五十間通を通って廓の入口にあたる大門へ。
ちなみに大門はだいもんではなく「おおもん」と読みます。
大門の下に黒く囲われたエリアが遊廓で、
黒塀に囲まれ、その周囲には「お歯黒溝(どぶ)」とよばれる堀がありました。
遊女がお歯黒を塗った後の墨を流したので、いつも真っ黒だったといいます。
ちなみに映画などで登場する江戸時代の遊女の歯は真っ白ですが、
これはあくまでもイメージで、
本来遊廓の遊女たちはみなお歯黒をしてました。
エリア名につく「町」は基本的に「ちょう」と読みますが、
一番下の京町だけ「まち」。
現在も吉原の中はこの呼び名です。
中央を縦に貫く仲之町は別名待合辻ともよばれ、
通りの左右には待合茶屋と呼ばれる見世が軒を連ねました。
待合茶屋は芸妓や娼妓を呼び寄せて遊興する飲食店で、
客は待合で食事をした後、お目当の娼妓の妓楼へ赴きました。
ただし待合での遊興はとても高価なので、
直接妓楼へ向かってその場で一晩の相手を決める場合もあります。
中央左のエリアの揚屋町は、かつて一番賑わっていたエリア。
遊女を呼び寄せ、飲めや歌えやの宴会を行うのが揚屋で、
遊廓の中でも最も高額な遊び場でした。
しかし江戸も後期になると贅沢を自粛するおふれが出され、
揚屋遊びがなくなります。
その後このエリアに住んだのが、
妓楼の建て替えや修理をする職人たちでした。
つまり、吉原の中には妓楼だけでなく、
職人などの一般の人の住まいもあったわけです。
また右上にある伏見町は、その変則的な位置からもわかるように、
後から造られたエリアでした。
徳川の開幕によって様々な開発に必要な職人が多く住んだ江戸は、
単身の男性が極めて多かった街。
飲食店から旅館まで、多くの職業が非公認の妓楼的な営業をしていました。
その中でも最も多かったものの一つが銭湯です。
湯女(ゆな)と呼ばれる女性が常駐し、性的なサービス行なっていました。
もちろんこれらは幕府非公認の営業ですが、
いくら取り締まっても雨後の筍のように現れる湯女風呂に手をこまねいた幕府が、
吉原と話をさせてその一角に湯女を働かせるエリアを造ることになり、
それが伏見町となりました。
吉原の町の話はこれくらいにして、
次回からは現在の吉原を見ていきたいと思います。
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