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黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

イタリア旅行記 #36 ヴァチカン

2011-05-15 00:25:53 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はヴァチカン@ローマです。

サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂(画像はクリックで拡大します)

正面に見えるのは、ヴァチカン市国にある、
カトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂です。
これ、ハンパなくでかいです。

ヴァチカンは世界最小の独立国で、
唯一の国土全部が世界遺産に認定されている国です。
周囲はローマ市に囲まれ、
東京ディズニーランドより狭い敷地は、
税関や検閲など無しで入国出来ます。





ヴァチカン
ヴァチカン

ヴァチカンの警備はスイスの傭兵が行っています。
冬だったので戸外ではマントを着用してましたが…





ヴァチカン
ヴァチカン

建物内では画像の様に「おとぎの国の兵隊さん」、
的なルックスを見る事ができました。





法王ベネディクト16世
法王ベネディクト16世

たまたま日曜日にローマにいたので、法王の説教を聞きに行きました。
大聖堂の前には大きな広場がありますが、
広場一杯に人があふれかえり、法王の人気が伺えます。
法王は大聖堂に隣接して建つ建物の執務室の窓から演説します。
約10分位の演説でしたが、幾度となく発音される、
サンタ・マリアの発音が記憶に残りました。
カタカナで書くと「サンタ・マリア」ですが、
発音を聞く限り「サンタ・マリーア(リの音程が高い)」に聴こえます。
また、アタックのない喋り方が印象的です。
映画『天使と悪魔』をご覧になった方は、
ユアン・マクレガー扮するカメルレンゴの喋り方を思い出されると、
イメージがわかるかも知れません。





ヴァチカン
ヴァチカン

建物内の警備はスイス傭兵が行っていますが、
周囲の警備はイタリア警察の管轄になるのでしょうか。
沢山の警察車輛が停まっていました。
ところで、
画像に写る警察車輛にはポリッツィアと書いてありますが、
イタリアにはもう一種類、カラビニエーリという警察機関もあります。
厳密にどう違うのかはわかりませんが、
ポリッツィアは車輛も制服も青く、
カラビニエーリは車も制服も黒に赤いラインです。
警察車輛もアルファロメオです。





ヴァチカン
ヴァチカン

ヴァチカン美術館の入口前のカフェ・ヴァチカーノ。
それでは次回から、ヴァチカン美術館を見て行こうと思います。

イタリア旅行記 #35 パンテオン

2011-05-14 01:17:31 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はパンテオン@ローマです。

パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

全ての神々を表すパンテオンと名のついたこの建物は、
古代ローマ帝国初代アウグストゥスのオクタヴィアヌスの時代、
BC25にアグリッパ将軍が建てた、オリンポスの神々を祀る神殿です。
その後一度火災で焼失し、
125年に、五賢帝の3番目のハドリアヌス帝が再建。
現存するパンテオンは、ほぼその時の形をとどめています。

ラヴェンナからフィレンツェと、これまでアップして来た建物は、
運良く修復工事が行われていない時期のものが殆どでしたが、
パンテオンのファザードが修復中だったのは残念です。





パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

ファザードは一般的な神殿風の造りですが、
本体は巨大な円筒形で、
表面は、これまでの記事で幾度となく触れてきた、
古代ローマの煉瓦で埋め尽くされています。





パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

外から見るとほぼ円筒形の建物ですが、
内部に入ると、おおよそ上半分がドーム状になり、
天井には大きな穴が開いています。
雨水が天空から降り注ぐ光景は、
さぞ奇麗なんではないかと思います。

パンテオンがほぼ完全な形で現存したのは、
帝国の滅亡から程なくしてキリスト教の施設に転用されたため、
侵略による破壊を免れたと言われていますが、
同時に、古代コンクリートと呼ばれる、
現代の約2倍の強度があるコンクリートで出来ている事が、
天災による崩壊からも免れて来た原因と言われています。
コロッセオに使われたコンクリートも同様に、
古代コンクリートだったそうです。





パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

パンテオン内にあるラファエロの墓。
本人の遺言により、堂内にはラファエロの墓がありますが、
遺言のまんまちゃんとパンテオンに納められているので、
ラファエロがイタリアにあとって、
どれだけ重要な人物だったのかが伺えます。





パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

パンテオン正面のロトンダ広場にもオベリスクがあります。
ラムセス2世がヘリオポリスの神殿に建てたオベリスクですが、
ローマへ運び込んだ皇帝はわかっていません。
前回の記事でもアップした様に、市内には沢山のオベリスクがありますが、
13本のオベリスクのうち、
7本が本物(エジプト王朝のもの)、6本がレプリカといわれています。





パンテオン
パンテオン(画像はクリックで拡大します)

ミケランジェロが「天使の建築」と絶賛したパンテオン。
願わくば修復していない状態で見たかったと思います。
ファザード上部には、建築者アグリッパの名が読み取れます。

ところで、画像左下に写るのは、
市内の至る所にあるゴミ箱です。
上部の投入口の一部が灰皿になっていて、
奥へ倒すとゴミ箱の中へ落ちるしくみになっています。
イタリアでは、建物内は全て完全禁煙ですが、
そのかわり屋外の喫煙は自由なので、
歩行喫煙三昧です。

古代ローマ巡りは今回でおしまいです。
パンテオンで話がキリスト教に触れたので、
次回からはキリスト関連施設をアップして行こうと思います。

イタリア旅行記 #34 ピラミデ駅周辺

2011-05-13 07:11:46 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はケスティウスのピラミッドとローマの城壁@ローマです。

ローマには地下鉄が2本しかなく、
しかも千代田線とか日比谷線のような意味のある名称ではなく、
A線とB線という単純明快な線名です。
おおまかに言ってA線は東西に、B線は南北に走っていて、
2つの路線はローマのターミナル駅、テルミニ駅で交わります。
テルミニ駅からB線で南へ4つめのピラミデ駅へ行ってみました。
ちなみにコロッセオの目の前にあるコロッセオ駅は、
B線でテルミニ駅から2つめです。

ピラミデ駅
ピラミデ駅

以前の記事でアップしたボローニャ駅の様に、
イタリアの駅は限りなく落書き三昧で、
それはここピラミデ駅も同様です。





ピラミデ駅
ピラミデ駅(画像はクリックで拡大します)

ピラミデ駅は地上の路線との乗り換え駅でもあり、
ちょうど東京の地下鉄丸ノ内線のお茶の水付近のように、
駅だけ地上へ飛び出しています。
左が地上路線の始発駅、右が地下鉄B線のピラミデ駅です。

画像左上にピラミッドのようなものが見えますが、
それがこの駅名の由来にもなっている、
ガイウス・ケスティウスのピラミッドです。
ローマにピラミッド?と不思議ですが、
近くへ行ってみると、確かにピラミッドです。





ガイウス・ケスティウスのピラミッドとサン・パウロ門
ガイウス・ケスティウスのピラミッドとサン・パウロ門(画像はクリックで拡大します)

ガイウス・ケスティウスのピラミッドは、
ローマ帝国初代アウグストゥスのオクタヴィアヌスの時代、
執政官だったガイウス・ケスティウスが、
その遺言で造らせた、ピラミッド型の本人の墓。

BC18~12に建設された高さ34mのピラミッドなので、
エジプトのピラミッドと比べると、その歴史も規模も見劣りはしますが、
それでも二千年の歴史があります。
特に、表面の大理石がほぼ完全に残っているのは、
とても貴重だと思います。
本来エジプトのピラミッドも、
表面が大理石で覆われ、ツヤツヤに輝いていたと言われますが、
現在エジプトには、1基もその姿のピラミッドは残っていません。

また、右隣に建つ要塞状の城門はサン・パウロ門。
軍人帝国時代の200年代後半にアウレリアヌス帝によって築かれた、
ローマ城壁の18の大門の一つ。
何故かピラミッドも巻き込んで造られた城壁は、
現在でもその殆どが残存しています。





アウレリアヌス城壁
アウレリアヌス城壁(画像はクリックで拡大します)

1,800年前の城壁は、
これまで見て来た古代ローマの建物同様、極薄の赤煉瓦で造られ、
塔部分だけ、大きめの石が使われている様です。
5世紀に高さを倍増した跡がはっきりとわかります。
画像の撮影地点は城壁の外側になります。





アウレリアヌス城壁
アウレリアヌス城壁(画像はクリックで拡大します)

しばらく壁沿いに進むと、
一見水道橋かと思われる様な造りが顕われますが、
これも城壁の続きです。
煉瓦の印象から、もともと一つ前の画像同様の城壁だったところを、
後の時代に、通行の為に改造した部分かとも思いますが、
その詳細はわかりません。

接触事故をおこしたまんまのアルファロメオが停まっているあたり、
イタリアを感じます。





ピラミデ駅周辺
ピラミデ駅周辺

ピラミデ周辺は、基本的に城壁の外側になるのですが、
散策していて面白いと思ったのは、
同じローマ市内でも、城壁の内と外では雰囲気が違うことです。
城壁の内側は殆どと言っていい程現代的なビルもなく、
派手な看板もありませんが、
城壁の外へ出ると、目新しビルも建ち並び、
派手な看板もちらほら目につきます。





ピラミデ駅周辺
ピラミデ駅周辺

逆に城壁内にある古そうなビルは、
手入れが行き届いている印象のものが多いのに比べ、
外側に建つ古そうなビルは、城壁内よりも、
手入れがされていない様子のものが目立ちます。





インダストリア橋
インダストリア橋

もともとピラミデへ行こうと思ったのはこの橋を見る為でした。
ローマ到着の初日、
空港からテルミニ駅へ行く車窓から見えた橋が印象深く、
しかも地図を見ると「インダストリア橋」という垂涎の名前だったので、
これは是非見てみたいと思っていましたが、
実際に見てみると、それほど感銘を受ける橋でもなくがっかり。
車窓から見たのは、濃霧に霞む橋だったので、
それがよかったんだと思います。





ピラミデ駅周辺
ピラミデ駅周辺

インダストリア橋から見た、テヴェレ川とガス工場。
反対側の川岸には場跡もあったのですが、
入り方がわからず断念。

ロンドンも東京も、大都市の南部は工業系の会社が集まり、
多少殺伐とした印象をうけますが、
ローマもまた同様に、南部のピラミデ近辺は、
殺伐とした、ぞんざいな印象を受けるエリアでした。

イタリア旅行記 #33 古代ローマの痕跡

2011-05-12 03:34:13 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回は古代ローマの残照@ローマです。

これまでの記事で、
フォロ・ロマーノからフォーリ・インペリアーリ、
パラティーノの丘やコロッセオなど、
古代ローマを今に伝える廃墟をアップして来ましたが、
今回はそれ以外の市内に残る、古代ローマの痕跡です。

トッレ・アルジェンティーナ広場
トッレ・アルジェンティーナ広場(画像はクリックで拡大します)

市内ほぼ中心の街中に忽然と現れる、
トッレ・アルジェンティーナ広場、通称アレア・サクラ(聖なるエリア)には、
紀元前の共和制時代の4つの神殿跡があり、
古代ローマの水道にまつわる宗教的中心地だったそうです。
紀元前3世紀の様式から共和制後期の床ばり、そして帝政の舗装と、
ここもまた時代が積み重なって出来た廃墟のミルフィーユです。

そして、この場所は、BC44の3月15日に、
ユリウス・カエサルが暗殺された場所として知られます。
画像ほぼ中央の木のあたりが暗殺された場所と言われています。

またこの広場は、以前の記事で触れた、
猫コロニーにも指定されています。





サンタンジェロ城
サンタンジェロ城(画像はクリックで拡大します)

サンタンジェロ城は、五賢帝時代の3番目の皇帝、
以前の記事で触れたトラヤヌスの次の皇帝)
ハドリアヌス帝が、自分と後継者の為に建てた霊廟です。
その後5世紀にローマを囲む城壁の一部に組み込まれ、
10世紀以降は、隣接するヴァチカン宮殿の要塞として機能したそうです。

いくつか写る彫像は、城の手前にかかる、
サンタンジェロ橋の欄干に設置された彫刻。
ベルニーニ(後の記事にアップ)とその弟子たちによる、
美しすぎる天使彫刻群ですが、
現在あるものはレプリカだそうです。





ナヴォーナ広場の四大河の噴水
ナヴォーナ広場の四大河の噴水(画像はクリックで拡大します)

サンタンジェロ城のすぐ近くにあるナヴォーナ広場は、
かつてドミティアヌス帝のスタジアムと呼ばれた、
3万人を収容出来る巨大競技場があった場所です。
ドミティアヌスは以前の記事でも触れた様に、
コロッセオを完成させた皇帝です。
ちょうどクリスマス・シーズンで蚤の市がひしめき、
広場の造りを見る事は困難でしたが、
細長い広場の中央には、競技用コースの跡が残っています。
また、広場の周囲は建物が囲んでいますが、
かつてはその建物が全て観客席だったようです。

広場の中央には、ベルニーニ作の
「四大河の噴水」と呼ばれる巨大な噴水があります。
17世紀には、広場を水で埋め尽くして疑似湖にするといった、
おバカなショーも行なわれたそうです。





ナヴォーナ広場のオベリスク
ナヴォーナ広場のオベリスク(画像はクリックで拡大します)

四大河の噴水の上には大きなオベリスクが載っています。
オベリスクとは古代エジプト王朝で良く作られた角錐塔状の記念柱。
エジプトを属州化したローマは、
その記念として沢山のオベリスクをエジプトから運び込みますが、
このオベリスクはドミティアヌス帝が、
エジプトからわざわざ切り出して持って来たものだそうです。
ベルニーニはバロックの彫刻家なので、
このモニュメントは1,600年を隔てたコラボレージョン、
ということになります。





ポポロ広場のオベリスク
ポポロ広場のオベリスク(画像はクリックで拡大します)

オベリスクをもう一つ。
市内の北寄りにあるポポロ広場のオベリスクは、
以前の記事で触れた、
オクタヴィアヌスが持ち帰ったラムセス2世のオベリスクで、
もともとはチルコ・マッシモにあったものです。
ローマが衰退した約1,000年の間、倒れて眠っていたものを、
16世紀になって発掘しここへ立て直したそうです。





ローマの水道栓
ローマの水道栓

フォロ・ロマーノへ行く途中の道で見つけた水道栓の蓋。
中央に書かれた「SPQR」は、
古代ローマで使われた「元老院とローマの市民」の略。
今でも、マンホールの蓋とかに使われるそうです。

イタリア旅行記 #32 コロッセオ 2

2011-05-11 00:35:41 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はコロッセオ@ローマです。

コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。内観全景東側2階から。
外壁の高さ50m、長軸188m、短軸156m、
10万立方メートルの大理石で造られた、
かつてグラディエイター達が死闘を繰り広げた競技場の全貌です。
画像ではその迫力が伝わりませんが、
その存在感、歴史、現在の残り具合、
全て併せて、世界最高廃墟の一つだと思います。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。内観全景西側1階から。
かつて闘技場となっていた木製の床面は現在はなく、
せり出し式になっていた地下空間を見ることができます。
地下には競技用の猛獣が準備され、
手動式昇降機で地上近くにせり上げられた猛獣達は、
床面の端に造られた木製の蓋を押し上げて、
競技場に登場するしくみになっていたそうです。
当初は、水を張っての大海戦の再現ショーも行われていましたが、
グラディエイター人気の高まりに併せて、
地下施設が造られ、海戦ショーはなくなって行ったそうです。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。1階アーチと通路。
1階の周囲には80のアーチが造られ、
観覧定期券に書かれた番号のアーチをくぐり、
160本の通路を経て観客席へ進む造りになっていました。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。皇帝の座席位置。
現在は巨大な十字架が立っています。
各観覧席は、それぞれ所属する市民の階層ごとに、
厳しく仕切られてはいたものの、
観覧料は全ての市民が無料だったそうです。
そこには、身分をしっかりと自覚させると同時に、
娯楽を無償で提供することによる、
市民からの人気獲得の戦略があったと言われています。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。一般観客席。
収容人員7万人を誇った観客席は、
その殆どが現在では失われていますが、
かろうじて一カ所だけ、
大理石製の観客席が残っている所があります。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。外郭頂上部内側。
煉瓦で覆われた壁面の中に、
ブロック状の大理石がびっしり詰まっているのが見えます。
当時は外郭の上部に杭を立て、
巨大な日差しよけの天幕が付けられていたそうです。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。
通路と観客席をつなぐアーチ。
無数の煉瓦を接合しているのは、
なんとコンクリートです。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。通路アーチ部分の煉瓦。
フォロ・ロマーノの記事で、
ローマ煉瓦の薄さはお伝えしましたが、
アーチ部分に使われている煉瓦は更に横長のもので、
もはや現代の煉瓦とはまったく違う素材にすら見えます。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。外郭と内郭の間の通路。
1階の天井は無用に高く、
存在感のある建築物を造りたかった意志が、
感じられます。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。
外郭と内郭の間は展示スペースに転用され、
猛獣のリフトアップシステムの模型や、
競技場の構造図などが展示されています。
中には地中から発掘された、
拳闘用の猛獣の骨も展示されていました。
しかし、競技で一番人気だったのは、
なんと言ってもグラディエイター達の死闘でした。
負けた方は観客の審判で、その場で殺された、
という話も聞きますが、これは誇張で、
実際には、死ぬまで戦う事は殆どなかったそうです。


「コロッセオのある限り、ローマもある。
 コロッセオが崩れるとき、ローマも崩れる、
 ローマが滅びるとき、世界もまた滅びる」
             -アンデルセン

イタリア旅行記 #31 コロッセオ 1

2011-05-10 04:50:06 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はコロッセオ@ローマです。

コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。北面。
今回のイタリア行き最大の目的は、
以前の記事でアップしたフォロ・ロマーノと併せて、
古代ローマを最も象徴する、コロッセオを訪れることでした。
フォロ・ロマーノの東端に聳えるコロッセオは、
想像していた以上に素晴らしいものでした。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。西面。
正確にはフラフィウスの円形劇場は、
以前の記事でも触れた、ローマ帝国で最初の世襲皇帝だった、
ウェスパシアヌスとティトゥス親子によって造営され、
そしてその次のドミティアヌスによって完成されますが、
この3人の皇帝が治世した1世紀後半をフラフィウス朝と呼ぶので、
フラフィウスの闘技場と呼ばれるそうです。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。南面。
完成当時は全体を外郭が包み込んでいましたが、
現在では約半分がなく、
半分は観覧席にあたる内郭がむき出しになっています。
以前の記事で触れたピラネージの18世紀の版画を見ると、
さらに内郭の壁面も大きく崩れている部分がありますが、
現在では内郭は全て形が整っているので、
その後修復したのでしょうか。
この外郭と内郭があるルックスこそ、
古代ローマの廃墟らしい光景だと思います。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。東面。
一般的に紹介されるコロッセオは、
2番目の画像の方向から撮影したものですが、
これは逆の東面の様子です。
西面に比べると、外郭の補修処理がぶっきらぼうで、
見応えにはちょっと欠けるものの、
隣接する道路のレベルが高いので、
全体像を見る事ができます。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。完全な北面。
最初の画像は北面と言ってもちょっと西寄りですが、
真北に立つと外郭が残っている面だけが見えるので、
創建当時の感じで見ることができます。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。北面外郭の上部。
かつては一つ一つのアーチの中に、
彫像が並べられていたようです。





コロッセオ
コロッセオ(画像はクリックで拡大します)

コロッセオ。西面上部。
どこからみても美しいコロッセオ。
よくここまで完璧な建物が造れたものだと思います。

イタリア旅行記 #30 パラティーノの丘とチルコ・マッシモ

2011-05-09 02:10:15 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はパラティーノの丘とチルコ・マッシモ@ローマです。

パラティーノの丘は、フォロ・ローマノの南に隣接する、
歴代皇帝達の宮殿があった場所です。

パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

フォロ・ロマーノの中から、
パラティーノの丘の隣接部分を見る事ができます。
かなり崩れてはいるものの、
その規模の大きさが今でもうかがえます。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘は、
BC745にローマ人が最初に住居を建てた場所ともいわれ、
今でも鉄器時代初期の小屋の跡が残っているそうです。
共和制の時代には既に富裕層の邸宅が建ち並び、
やがて初代皇帝オクタヴィアヌスが、
宮殿を移築(BC44)しアポロ神殿(BC28)を建設すると、
以降、歴代皇帝はこぞって宮殿を建設する様になります。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘はフォロ・ロマーノより遥かに広く、
その広大な敷地に歴代皇帝の宮殿が建ち並ぶ光景から、
パラティーノは宮殿を意味する言葉、
パラティウム→パレスになったそうです。





パラティーノの丘
パラティーノの丘(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘の南壁。
これまでの画像はパラティーノの丘の北壁ですが、
これは丘の南端に残る巨大な宮殿の跡です。
前回の記事で触れたプセミティウス・セウェルス帝の宮殿。
壮麗を誇ったパラティーノの丘も、
3世紀に入ると宮殿は建てられなくなり、
コンスタンティヌス帝が遷都すると、
丘は急激に荒廃していたそうです。

今回は時間がなく、見学できませんでしたが、
次回訪れたときは、是非見てみたいと思います。





チルコ・マッシモ
チルコ・マッシモ(画像はクリックで拡大します)

パラティーノの丘に南に隣接する位置に、
古代ローマ最大の競技場、チルコ・マッシモの跡があります。
王制の時代に既に造られていた競技場は、
帝政時代にたびたび改修されながら、
6世紀まで使用されたそうです。
30万人もの観客を収容でした大競技場の、
最大のショーは戦車競技でした。





チルコ・マッシモ
チルコ・マッシモ(画像はクリックで拡大します)

空港でゲットした、
『ローマ 過去と現在~再原図付き~』に載っていた、
チルコ・マッシモの復元図。
左の建物がプセミティウス・セウェルス帝の宮殿。
その手前の、観客席が神殿風になっている所が皇帝の観覧席。
中央にオベリスクがみえますが、
これはオクタヴィアヌスがエジプトから持ち帰った(略奪した)、
ラムセス2世のオベリスク。
その後コンスタンティヌスが、
トトメス3世のオベリスクを立てたものの、
やがてローマの衰退とともに倒れ、土中に埋もれていたそうです。

16世紀に発掘された2本のオベリスクは、
今もローマ市内にあります。(後日アップ)

イタリア旅行記 #29 フォーリ・インペリアーリ

2011-05-08 01:26:39 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフォーリ・インペリアーリ@ローマです。

前回までは古代ローマの中心地だった、
フォロ・ローマノをアップしてきましたが、
今回はフォロ・ロマーノの北側に隣接する、
フォーリ・インペリアーリ(皇帝の広場)です。

フォーリ・インペリアーリは、
フォロ・ロマーノが手狭になった帝政期に、
皇帝達が自分の名前を付けて造った広場です。
最初に造られたフォーリ・インペリアーリは、
BC54に、フォロ・ロマーノ北西に隣接した位置に、
カエサルが造ったユリウスの広場ですが、
これは後日、『夜のローマ』の回でアップするとして、
フォーリ・インペリアーリ通りを挟んで、
さらに北に広がる広場を見てみます。

フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

アウグストゥスの広場。(紀元前後)
カエサルの広場のほぼ真北に、
初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスが造った広場。
かろうじて数本残っている列柱は、
マルテ・ウルトーレ神殿の名残。
カエサルを暗殺したブルトゥスとカッシウスへの、
復讐戦の勝利を祈願したオクタヴィアヌスが、
復讐の神マルテを祀った神殿で、
この広場の中心的な存在だったそうです。





フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

トラヤヌスの広場。(100年前後)
トラヤヌスは五賢帝時代と呼ばれる、
ローマが最も安定した時代の2番目の皇帝で、
この時代、ローマ帝国の領土が最大になりますが、
この公共広場もまた、フォーリ・インペリアーリの中で、
最大かつ壮麗な広場だったそうです。

手前の低めの列柱が並んでいる場所は、
その並び方からもお分かりの様に、
かつてはバシリカ(ウルピアのバシリカ)があった場所です。
中央に写る高い柱はトラヤヌスの大円柱と呼ばれ、
高さ40mの柱面には、トラヤヌスの栄誉を称える、
細かなレリーフが全面に彫り込まれています。
また、死後神格化されたトラヤヌスの遺灰は、
純金の骨壺に入れられて大円柱の下に眠ったそうです。





フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

トラヤヌスの市場。(100年前後)
オクテヴィアヌスの広場とトラヤヌスの広場の、
間に造られたトラヤヌスの市場は、
大きくカーブを描いた巨大マーケットで、
中には青果、花、ワイン、香辛料をはじめ、
各種商店が並んでいたそうです。
二千年前に、既にショッピングセンターがあったことが、
驚きです。





フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

トラヤヌスの市場の南側。
市場の前面に当たる位置には、壁の一部が残る、
小さく区切られたスペースがいくつもありましたが、
解説板によると8世紀の病院跡とあったような。
場所によっては厨房を連想させる、
タイルばりのスペースもありました。





フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

これは何だろうとウィキで調べると、
「ロッジア」のページに、
「ドミティアヌスのテラスの上に載った、
15世紀のロードス騎士団のロッジア」
とありました。
紀元前後から9世紀、そして15世紀と、
気の遠くなる時間が積み重なって、
全てが廃墟化しているわけですね。





フォーリ・インペリアーリ
フォーリ・インペリアーリ(画像はクリックで拡大します)

フォーリ・インペリアーリの東のはずれのあたり。
これは何だかわかりませんが、
明らかに時代の違う建造物が渾然一体となっています。

イタリア旅行記 #28 フォロ・ロマーノ 2

2011-05-07 10:06:11 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
前回に引き続きフォロ・ロマーノ@ローマです。

フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

エミリアのバシリカ(オリジナルはBC179、現存は22)
の外壁のアーチ部分。
バシリカとは、このシリーズの以前の記事でも触れましたが、
内部を列柱によって身廊と側廊に分ける建築構造。
一見、柱によって空間が狭くなるようにも思いますが、
実際にバシリカ建築の中に入ると、
ほとんど閉塞感はなく、逆に広くすら感じるのは、
おそらく列柱が曖昧なスクリーンの役割を果たして、
フラットな壁より奥行き感を出すからだと思います。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

エミリアのバシリカの内部だった場所。
画像左に写るのが、一つ上の画像の裏側。
建物の内部に列柱が並んでいた様子がうかがえます。
また正面に見える建物は、
司法や行政に対して最終的な決定権を持っていた、
いわば政治的中枢だった元老院(クリア・ユリア)。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

前回の記事でもアップした、
『ローマ 過去と現在~再現図つき~』に掲載されたエミリアのバシリカ。
図をご覧になってお分かりに様に、この記事の一番上の画像は、
沢山あった外壁列柱のうちの2本と、
その奥のこれまた沢山あった外壁入口の一部分。

バシリカは、通常戸外で行われていた裁判や商取引などを、
悪天時に屋内で行える様に建てられたもので、
最終的には銀行等が入居していたようです。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

平民会の集会場。
画像手前の草の生えているあたりが、
かつては平民会の集会場だった広場があった場所。
中央の2本の柱は、前回アップした画像からわかる様に、
建物の一部ではなく、独立して立つ記念柱です。
柱も色々な用途があったんですね…
そしてその奥に、
カエサルが着工、オクタヴィアヌスが完成させた、
民事法廷などを司るユリウスのバシリカがあったそうですが、
現在では列柱の基礎しか残っていません。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

マクセンティウスのバシリカ。(312)
完成年が新しいせいか、他のバシリカに比べて、
当時を偲ぶ形がまだ残っています。
画像に写るのは側廊の部分で、
手前に広がる砂地全部を覆い尽くす、
ローマ最大にして最後のバシリカです。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

マクセンティウスのバシリカの側廊の壁面と天井部分。
マクセンティウス帝が起工したものの、
その次のコンスタンティヌス帝との戦いで敗れ、
最終的にはコンスタンティヌス帝が完成させたバシリカ。
コンスタンティヌス帝とは、
東の勢力進攻に備えて、首都をローマから、
コンスタンティノープル(現イスタンブール)へ移した皇帝。
栄華を誇ったローマに、
陰りが見え始めた頃の記憶を持つバシリカですね。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

セプティミウス・セウェルスの凱旋門。(203)
この凱旋門が造られた頃は、
すでにアフリカの地中海沿岸には、
沢山のローマ植民地が築かれた後ですが、
その中の一つで世界遺産にもなっている、
レプティス・マグナ出身の皇帝が、
セプティミウス・セウェルスです。
特に軍事政策に力を注ぎ、やがてくる、
ローマの軍人帝国時代の礎を築いた皇帝です。

前回の記事で触れたピラネージの作品には、
この凱旋門を描いたものもありますが、
半分くらいが土砂に埋もれ、
周囲には大きな木々が育っています。
西ローマ帝国滅亡とともに侵略と破壊が繰り返され、
テヴェレ川の氾濫で土砂が堆積したフォロ・ロマーノは、
徐々に人々から忘れ去られ、
中世の時代にはカンポ・ヴェッキオと呼ばれる、
放牧地になっていたほどです。

ピラネージをはじめ、
18世紀初頭の画家・版画家・建築家たちによって、
廃墟化したローマが紹介されると、
一気にローマの廃墟が脚光を浴び、
古代遺跡の観光ツアーが人気を呼んだそうです。
19世紀に入って本格的な発掘が始まり、
1500年の眠りから覚めた廃墟のミルフィーユは、
今、その全貌を表そうとしているのだと思います。







フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ内の至る所にあった、
円筒形の煉瓦構造物。
これはなんしょかね?井戸すかね。
気になるのはやはり煉瓦。
計ってみると約28cm×10cm×2cmなので、
長辺:高さが14:1ということになります。
通常の煉瓦は4:1、
このブログでよく取り上げる、
明治初期長崎の蒟蒻煉瓦でも5:1なので、
ローマ煉瓦がいかにうすべったいかが、
よくわかります。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノの猫。
ここに限らず、市内には沢山野良猫がいますが、
なんと、ローマでは猫も市民権を持っています!
なので、餌をどんどんあげても大丈夫です。
そのせいか、人なつっこい猫が多く、
また生活に苦しそうな猫があまりいません。
市内には幾つか猫コロニーと呼ばれる、
野良猫シェルターがあって、
ボランティアの方々が面倒を見ているそうです。
ローマへ行ったら、是非猫と遊びましょう。

イタリア旅行記 #27 フォロ・ロマーノ 1

2011-05-06 18:32:52 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフォロ・ロマーノ@ローマです。

フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

今回のイタリア旅行の最大の目的、それは、
ピラネージをはじめ、パンニーニやマルコ・リッチといった、
18世紀前半の画家・版画家たちによって描かれた、
古代ローマの廃墟を実際に訪れる事でした。
そして、最もその図像に登場する舞台が、
このフォロ・ロマーノです。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノは、
紀元前6世紀頃から3世紀頃までの約千年にわたって、
古代ローマの商業・宗教・政治・司法の中心地として機能した場所です。
現在では、初期の頃のものは殆ど失われ、
現存するものは主に帝政ローマ以降に整備されたものだそうですが、
それでも紀元前1世紀から3世紀までの約400年の遺構が積み重なって、
いわば廃墟のミルフィーユを形成しています。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ

紀元前8世紀頃に端を発し、
王政から共和制、そして帝政から東西分裂と、
悠久の時を刻み付けたローマと共に歩んだフォロ・ロマーノは、
476年、ゲルマンによる進攻で西ローマ帝国が滅亡し、
首都がラヴェンナに移ると、
その後は衰退の一途をたどります。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

東西に細長く延びるフォロ・ロマーノの西エリア。
この地域は初期から開発されていた地域でもあり、
また最期までフォロ・ロマーノの中心だった場所です。
右寄り奥に写る建物はBC80に建設された公文書館。
建物の手前に並ぶ円柱は左から、
サトゥルヌスの神殿(オリジナルはBC498、現存は497)、
黒っぽい円柱を飛ばして、その隣の2本に見えるのが、
ウェスパシアヌス&ティトゥス神殿(87)、
更にその隣の少し背の高い1本の円柱は、
フォカスの記念柱(608)、
と、ここに写るだけでも600年の隔たりがあります。
フォカスの記念柱は、西ローマ帝国滅亡後、
ビザンティン皇帝フォカスによって建てられた、
フォロ・ロマーノに残る最期の建造物だそうです。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

画像は帰りの空港でゲットした、
『ローマ 過去と現在~再現図つき~』から。
現在の写真の上にセロファン製の当時の様子を重ねると、
当時の様子とその変貌が即座にわかる優れものです。

一つ前の画像とほぼ同じあたりの当時の様子です。
左端の半切の円柱が、一つ上画像の黒っぽい円柱、
騎馬像の後ろの神殿がサトゥルヌスの神殿、
騎馬像の右の柱がフォカスの記念柱、
その奥がウェスパシアヌス&ティトゥス神殿です。
ウェスパシアヌスとティトゥスは初の世襲皇帝で、
コロッセオ(後日アップ)の建設でも知られています。
また、公文書館の階下部分は現在でも使われ、
さらに上層階が現在の市庁舎というのには驚きます。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

サトゥルヌス神殿。(オリジナルはBC498、現存は497)
公文書館の目の前にあり、現在最も列柱を多く残している神殿。
現存は500年頃のものですが、
オリジナルはそこから千年も前に建てられていた、
ローマ最古の神殿。
サトゥルヌスは、ローマ神話に登場する農耕の神ですが、
神殿の用途は国財政の金や銀などを納めた、
重要な神殿だったそうです。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

左:カストル&ポルックス神殿。(オリジナルはBC5C初頭、現存は6)
右:ウェスタ神殿。(205)

カストル&ポルックス神殿は対ラテン連合軍との戦いで、
勝利を導いた伝説の双子を祭った神殿。
そして手前の低い列柱の神殿が、
フォロ・ロマーノ唯一の円形神殿で、
ローマ市民にとって最も重要な女神を奉った、
ウェスタ神殿。
その内部には、ローマの不滅を象徴する聖なる永遠の火がともされ、
ウェスタの巫女たちによって管理されていたそうです。

これらは神話や伝説の神々の神殿ですが、
フォロ・ロマーノに現存するそれ以外の神殿の多くは、
実在の人物(主に皇帝)を神格化した神殿です。
そして、その最も著名なのが…





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

カエサル神殿。(BC29)
誰もがその名前ぐらいは知っているユリウス・カエサルは、
BC44にローマの市内で暗殺され(後日アップ)、
この場所で荼毘にふされたそうです。
火葬されたカエサルの灰は、その後の風雨で散骨してしまい、
結局カエサルの墓はないそうですが、
カエサルの婿養子であり初代のアウグストゥスとなる、
オクタヴィアヌスが神格化し、
火葬の場に建設した神殿です。
現在は基礎部分のみで、神殿の面影は殆どありません。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

アントニヌス帝&ファウスティナ妃神殿。(141)
紀元前後に始まったローマ帝国は、その後約100年経ち、
「パクス・ロマーナ」とも「人類史上最も幸福な時代」とも言われる、
ローマ帝国で最も繁栄かつ安定した時代を向かえます。
その時期の皇帝の一人、アントニヌス帝が、
亡き妻ファウスティナの為に作り、
後に自身も眠ることとなった神殿。





フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(画像はクリックで拡大します)

ロムルス神殿。(307)
フォロ・ロマーノ最大のバシリカ(後日アップ)を作った、
マクセンティウス帝の皇子を祭った神殿とも、
そうでないとも言われている神殿。

ちなみに初代のオクタヴィアヌスから、
東西分裂のテオドシウス1世までの、
各皇帝の最期を調べてみると、
自然死と病死が21人なのに対して、
暗殺・敗死・処刑・自殺が45人という数字を見る限り、
決して穏やかな時代ではなかった事を感じます。
ただそんな中でも、パクス・ロマーナ時代の、
いわゆる五賢帝と呼ばれる5人は全員自然死なので、
やはり紀元2世紀の100年は、
幸せな時代だったのかもしれませんね。

イタリア旅行記 #26 ローマの夜明け

2011-05-04 01:51:52 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフィレンツェを離れローマです。

フィレンツェ駅とユーロスター
フィレンツェ駅とユーロスター

フィレンツェ駅に停まるユーロスター。
以前の記事でアップした、
ローマからラヴェンナへ行くユーロスターと、
ボローニャからフィレンツェへ行くユーロスター
は違うタイプの車輛でしたが、
フィレンツェからローマへのユーロスターもまた、
これまでとは違う車輛でした。





ホテル47@ローマ
ホテル47@ローマ

ローマへ到着。その足でホテルへ直行。
ホテルは映画『ローマの休日』でもロケ場所になった、
真実の口がある広場の前のホテル47です。
駅からは少し距離があるホテルですが、
なんといっても周囲が全部、
二千年の歴史のある廃墟に囲まれたロケーションは
最高です。





ホテル47@ローマ
ホテル47@ローマ

ラヴェンナやフィレンツェで泊まったホテルのような、
イタリアらしい感じはなく、
極めてシンプルなシティホテルで、
宿泊客も英米の人が目立ちましたが、
その分使いやすいホテルでもありました。





ヘラクレス・ウィクトール神殿
ヘラクレス・ウィクトール神殿(画像はクリックで拡大します)

早朝目を覚まし、ホテルの窓から外を見ると、
目の前には紀元前2世紀に建設されたヘラクレス・ウィクトール神殿。
この地域はフォルム・ボアリウムという、
ローマで最古のフォルム(公共広場)があった場所です。





サンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂
サンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂(画像はクリックで拡大します)

広場をはさんで反対側には、
映画『ローマの休日』でも登場する真実の口がある、
サンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂の鐘楼が見えます。





ローマの夜明け
ローマの夜明け(画像はクリックで拡大します)

ローマの市内は意外と信号機が少なく、
また画像中央に写る、ケーブルを渡して、
その中央に設置された形の外灯を、よく見かけました。





チルコ・マッシモ
チルコ・マッシモ(画像はクリックで拡大します)

道を少し進んだところにあった、
紀元前6世紀に建設された古代ローマの競技場跡、チルコ・マッシモ。
主に戦車レースが行なわれたチルコ・マッシモは、
収容観客20万というから驚きです。
左側がパラティーノの丘、右側がアヴェンティーノの丘で、
2つの丘に挟まれた窪地に作られていたようです。

イタリア旅行記 #25 フィレンツェの夜 1

2011-05-03 02:48:51 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフィレンツェの夜です。

フィレンツェの猪
フィレンツェの猪(画像はクリックで拡大します)

フィレンツェのほぼ中心にある、
おもに革製品を売っているメルカート・ヌオーヴォ(新市場)
の前にある猪の銅像、イル・ポルチェッリーノ(子豚)。
ローマのトレヴィの泉のコイン投げ同様、
猪の鼻を撫でると、フィレンツェへ戻って来れるという伝承から、
沢山の人が鼻を撫でています。
ちなみにこの市場もまた、
メディチのドン、コジモ1世によって作られた市場です。





レプブリカ広場@フィレンツェ
レプブリカ広場@フィレンツェ(画像はクリックで拡大します)

メルカート・ヌオーヴォのすぐ近くにある、
レプブリカ広場(市民広場)。
フィレンツェの街を歩いた中では、
一番大きな広場でした。





レプブリカ広場@フィレンツェ
レプブリカ広場@フィレンツェ(画像はクリックで拡大します)

レプブリカ広場に設置されていたカルーセル。
ラヴェンナでは動いてるカルーセルは見れなかったので、
やっと見る事ができました。





レプブリカ広場@フィレンツェ
レプブリカ広場@フィレンツェ

旅行案内書に大きく取り上げられていたカフェ・ジリ。
広場を囲む建物の1階は、大体が飲食店で、
広場に向かってビニールで囲ったテラス席をもうけています。
中にはテラス席でライブ演奏をしているバールもありました。





フィレンツェの夜
フィレンツェの夜

アーチのある石畳の路地に面したレストラン。





フィレンツェの夜
フィレンツェの夜

ホテルのすぐ近くにあったレストラン。
夜中になると、
タクシーで乗り付けた人が続々と入って行きます。
ガイドブックによると家庭料理の美味しい店、
というこただったので、
今回は行けませんでしたが、
次回、行く機会があったら是非行ってみようと思います。





フィレンツェの夜
フィレンツェの夜(画像はクリックで拡大します)

夜のポンテ・ヴェッキオ。
軒を連ねる店は全て閉店していますが、
さすがに宝飾店が集まっているので、
一晩中、警備会社の車が停まっていました。

これでフィレンツェは終わりです。
ラヴェンナ、フィレンツェと見て来たイタリアの旅。
日程的には半分が終了。次回からはローマです。

イタリア旅行記 #24 フィレンツェの夜 1

2011-05-02 02:04:34 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフィレンツェの夜です。

フィレンツェの夕景
フィレンツェの夕景(画像はクリックで拡大します)

以前の記事の上から6番目の画像右端にも写る、
フィレンツェを取り上げたテレビ番組等で、
撮影ポイントとして必ずと行っていい程登場する、
ミケランジェロ広場から眺めるフィレンツェの夕景。





ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ宮殿(画像はクリックで拡大します)

ミケランジェロ広場から眺めるヴェッキオ宮殿。
建物が茶色なので、ライトアップする照明もオレンジ色です。
ご覧の様に、かなり陰影がでる感じでライトアップしています。





サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(画像はクリックで拡大します)

ミケランジェロ広場から眺める、
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
壁面が白い部分は白い照明のライトアップ、
そしてクーポラの茶色い部分は、
やはりオレンジ色のライトアップと、
部所に合わせたライトアップが施されています。





サンタ・クローチェ聖堂
サンタ・クローチェ聖堂(画像はクリックで拡大します)

ミケランジェロ広場から一番近い所にある、
フランチェスコ会最大の聖堂、サンタ・クローチェ聖堂。
聖堂の規模はかなり大きいですが、
修道会であるフランチェスコ会の質素さを反映して、
サンタ・マリア・デル・フィオーレに比べると簡素な印象です。

ファザードだけが白い大理石、
それ以外の部分は茶色い装飾のない壁面という造りは、
以前の記事でアップしたサンタ・マリア・ノヴェッラ教会も、
同様の、いわゆる「看板建築」です。

質素な印象の聖堂ですが、聖堂内には、
ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリなど、
フィレンツェの世界的有名人が眠る重要な聖堂です。

手前に立つ立像はダンテ。
ダンテに関する話は以前の記事で触れましたが、
ダンテもこの聖堂に眠って欲しい、
という暗黙の意思表示のように思えます。





サンタ・クローチェ広場
サンタ・クローチェ広場

聖堂前のサンタ・クローチェ広場。
この日は、
ドイツ&北欧系と思われる市が開かれていました。





サンタ・クローチェ広場
サンタ・クローチェ広場

同じく、聖堂前のサンタ・クローチェ広場。
その造りから、
かつてはカルーセルだったんではなかと思いますが、
今ではバーに作り替えられいます。





フィレンツェの夜
フィレンツェの夜(画像はクリックで拡大します)

こちらはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付近の商店街。
街はどこも白熱灯の甘い光で満たされ、
その陰影が街の雰囲気を引き立てています。
クリスマス用の装飾電球も、
青い発光ダイオードのもの等は一切なく、
殆どは白熱灯によるものです。
いいですね~~~~~~!



現在、節電効果で東京の街は暗くなりました。
この位でもいい、という意見も沢山聞きますが、
意図的に造ろうとした暗さではないので、
ただ暗い、という印象はぬぐえません。
ヨーロッパの都市の暗さとも比較されるようですが、
ヨーロッパのそれは意図して造り上げた効果なので、
現在の日本の都市の暗さとは、全然別物だと思います。

イタリア旅行記 #23 フィレンツェの街 2

2011-05-01 03:43:29 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフィレンツェの街です。

フィレンツェ駅
フィレンツェ駅

フィレンツェ駅。前の記事でもアップした様に、
イタリアの駅は改札がなく、出入りは自由です。
乗車券を買って、乗りたい電車が来る時間を確認し、
乗るときは、チェッカーにチケットを差し込んで、
乗車完了です。
ホームは低めですが、多少段差があります。





イタリアの公衆電話
イタリアの公衆電話

駅の構内にあった公衆電話。
フィレンツェの駅に限らず、
イタリアの公衆電話は大概がこのデザインでした。
そのルックスからしてポルシェデザインか思いきや、
ちょっと検索してみると、
どうやらフィアットやアルファロメオなどのデザインも手掛ける、
マルコ・ボネットという人らしいです。





フィレンツェ駅
フィレンツェ駅

フィレンツェ駅構内にあったポスト。
日本の都市部と同じ、2口タイプでした。
右端だけ低い位置に設置されているのは、
子供や車椅子用、ということかな。





フィレンツェのバス
フィレンツェのバス

バスも電車同様、チケットを前もって買い、
目的のバスに乗車する際に、チェッカーに差し込みます。
座席はかなり無駄な造りで、
全部で十数席しかありません。





フィレンツェの街
フィレンツェの街

フィレンツェの駅前通りを飾る看板。
フィレンツェの街では、
特にこの一文字ずつ独立させて、
建物の横に縦に設置するタイプのものを
よく見かけました。





フィレンツェの街
フィレンツェの街

フィレンツェの信号機は、
ラヴェンナのように紐で空中に吊るされたものはなく、
殆どが道ばたに鉄柱で立つものばかりでした。





フィレンツェの街
フィレンツェの街

建物1階のアール・ヌーボー風の窓シェード。





フィレンツェの街
フィレンツェの街

フィレンツェの路地。
メインの通りはそこそこな広さがありますが、
そこから入る路地は、画像の様に狭く、
アーチなどがかかっている道も多々あります。
大通りや路地にかかわらず、
地面は殆どが石畳です。

イタリア旅行記 #22 フィレンツェの街 1

2011-04-30 11:53:30 | イタリア旅行記
2010の暮れに行ったイタリアの旅行記です。
今回はフィレンツェの街です。

ポンテ・ヴェッキオ
ポンテ・ヴェッキオ(画像はクリックで拡大します)

「古い橋」を意味するポンテ・ヴェッキオ。
その名の通り、フィレンツェでは一番古い橋です。
アルノ川の氾濫により何度か流され、
現在の橋は14世紀に建設されたものだそうです。
当初は肉店が並ぶ橋でしたが、
その後衛生上の理由で現在の宝飾店が並ぶようになったそうです。





ポンテ・ヴェッキオ
ポンテ・ヴェッキオ

店舗の裏側がでこぼこに張り出していて、
橋の景観を立体的なものにしています。
橋の上部の小さな窓が並ぶ部分は、
以前の記事でアップした、
ピッティ宮殿とヴェッキオ宮殿を繋ぐ、
ヴァザーリの回廊です。





ポンテ・ヴェッキオ
ポンテ・ヴェッキオ

早朝のポンテ・ヴェッキオ。
橋の両側に並ぶ焦点の外灯は、
一晩中消える事がなく点灯しています。





ポンテ・ヴェッキオ
ポンテ・ヴェッキオ

ポンテ・ヴェッキオの上というか中。
ポンテ・ヴェッキオは橋の両側に店が並んでいるので、
橋を歩いている感覚がありませんが、
橋の中央部分だけ店が抜けていているので、
そこまでくると、やっと橋の上だと実感じます。





サン・ロレンツォ聖堂
サン・ロレンツォ聖堂(画像はクリックで拡大します)

サン・ロレンツォ聖堂は、
メディチ家の菩提寺として建てられた聖堂。
大きな聖堂を菩提寺として建てることだけを見ても、
メディチ家がフィレンツェの中で、
でどれだけ勢力を持っていたかが分かります。
ここは撮影禁止なのでとりあえず外観だけ。

ファザードは、本来ミケランジェロが設計した、
壮麗なファザードになる予定だったそうですが、
権力を振るったメディチ家なので、
民衆の反感を食らわない様に質素に、
といった思惑があって、現在も造られないとも…

一番驚いたのはメディチ家のドン、
コジモ・ディ・メディチの墓が、
教会のメインとなる支柱の下に埋め込まれていることです。
この聖堂がなくならない限り、
聖堂とともに永遠にある、ということでしょうか。





メディチ・リッカルディ宮殿
メディチ・リッカルディ宮殿

サン・ロレンツォ聖堂の近くには、
メディチ家の住まいだったメディチ・リッカルディ宮殿があります。
こちらも撮影禁止なので、中庭の光景です。
街を歩くとメディチに当たる、くらい、
フィレンツェの街にはメディチ家関連の施設が点在しています。
多くのフィレンツェの芸術家が、
メディチ家の庇護の元で作品を作った事を思うと、
フィレンツェはいわばメディチ家が造った街、
と言う事だと思います。





ピッティ宮殿
ピッティ宮殿

ピッティ宮殿の前にあった、
フィレンツェの紋章が入った水道栓。
ピッティ宮殿は、もともとメディチ家の対抗勢力、
ピッティ家によって造られた宮殿でしたが、
資金が尽きて完成出来ず、
売りに出した宮殿は、結局メディチ家に買われた、
メディチ家の栄華を象徴する宮殿です。





サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂
サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂(画像はクリックで拡大します)

フィレンツェの駅前にあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会。
ここも撮影禁止なので、ファザード画像のみですが、
サン・マルコ修道院の時に触れたドミニコ修道会による聖堂。
この聖堂は、聖堂も素晴らしいですが、
それよりも、聖堂の横にある化粧品店で有名です。
ドミニコ会の教義「癒しの実践」を形にする化粧店として、
世界最古、800年の歴史があるそうです。
以前の記事でアップしたフラ・アンジェリコの『受胎告知』が、
とても柔らかい印象の絵画だったのは、
この癒しの実践が息づいているからだと思いました。